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ガイウス・ユリウス・カエサル - Wikipedia

ガイウス・ユリウス・カエサル

共和きょうわせいローマの政治せいじ軍人ぐんじん文筆ぶんぴつ

ガイウス・ユリウス・カエサルラテン語らてんご: Gaius Iulius CaesarJuliusとも、紀元前きげんぜん100ねん - 紀元前きげんぜん44ねん3月15にち[注釈ちゅうしゃく 1])は、共和きょうわせいローマ末期まっき政務せいむかんであり、文筆ぶんぴつ。「さいげられた」(alea jacta est)、「た、た、った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、おまえもか」(et tu, Brute?) などの特徴とくちょうてき引用いんようでもられる。またかれ布告ふこくかれかんされたこよみユリウスれき)は、紀元前きげんぜん45ねんから1582ねんまで1600年間ねんかん以上いじょうわた欧州おうしゅうのほぼ全域ぜんいき使用しようされつづけた。


ガイウス・ユリウス・カエサル
C. Iulius C. f. C. n. Caesar[1]
ガイウス・ユリウス・カエサル立像りつぞう
ニコラ・クストゥさくルーヴル美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
渾名あだな カエサル(Caesar)
出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん100ねん
生地きじ ローマ
死没しぼつ 紀元前きげんぜん44ねん3月15にち
死没しぼつ ローマポンペイウス劇場げきじょう
出身しゅっしん階級かいきゅう パトリキ
一族いちぞく カエサル
氏族しぞく ユリウスぞく
官職かんしょく ユピテル神官しんかん紀元前きげんぜん87ねん-82ねん?)
レガトゥス紀元前きげんぜん73ねん-72ねん
神祇官じんぎかん紀元前きげんぜん73ねん-44ねん
トリブヌス・ミリトゥム紀元前きげんぜん71ねん
財務ざいむかん紀元前きげんぜん69ねん
按察かん紀元前きげんぜん65ねん
最高さいこう神祇官じんぎかん紀元前きげんぜん63ねん-44ねん
法務ほうむかん紀元前きげんぜん62ねん
執政しっせいかん紀元前きげんぜん59ねん
アウグル紀元前きげんぜん47ねん-44ねん
独裁どくさいかん紀元前きげんぜん46ねん
終身しゅうしん独裁どくさいかん紀元前きげんぜん45ねん-44ねん
担当たんとうぞくしゅう ヒスパニア紀元前きげんぜん61ねん
ガリア紀元前きげんぜん58ねん
指揮しきした戦争せんそう ガリア戦争せんそう紀元前きげんぜん58ねん
だいローマ内戦ないせん紀元前きげんぜん49ねん
配偶はいぐうしゃ コルネリア
ポンペイア
カルプルニア
後継こうけいしゃ オクタウィウス
カエサリオン
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古代こだいローマで最大さいだい野心やしんわれ[2]マルクス・リキニウス・クラッススおよグナエウス・ポンペイウスとのだいいちかいさんとう政治せいじ内戦ないせんて、永久えいきゅう独裁どくさいかん英語えいごばん(ディクタトル・ペルペトゥオ)となった[3][4]。「カエサル」のは、帝政ていせい初期しょきローマ皇帝こうていびる称号しょうごうひとつ、帝政ていせい後期こうきにはふくみかど称号しょうごうとなった(テトラルキア参照さんしょう)。ドイツKaiserカイザー)やロシアцарьツァーリ)など、皇帝こうていあらわ言葉ことば語源ごげんでもある。

従来じゅうらいカエサルはポプラレス民衆みんしゅう)とされてきたが、当時とうじ政治せいじ状況じょうきょう簡単かんたん二分にぶんすることはできないため、「カエサル」とすべきだとする意見いけんがある[5]


出自しゅつじ

編集へんしゅう
 
紀元前きげんぜん129ねんころ鋳造ちゅうぞうされたデナリウス銀貨ぎんか。セクストゥス・ユリウス・カエサルのともにウェヌスの姿すがたきざまれている

ユリウスぞくは、王政おうせいローマ時代じだいロームルスかくれたときに動揺どうようする民衆みんしゅうをプロクルス・ユリウスが説得せっとくしたという伝説でんせつがあり[6]ホラティウスさん兄弟きょうだい決闘けっとうアルバ・ロンガったのちセルウィリウス氏族しぞくクィンクティウス氏族しぞくらととも移住いじゅうしてきたアルバのもと指導しどうしゃそうで、パトリキ貴族きぞく)にれっせられたという[7]

氏族しぞくふる系譜けいふゆうするパトリキではあったが、カエサルは2つの家系かけいかれ、カエサルの直系ちょっけい先祖せんぞ執政しっせいかん経験けいけんしゃはいない。当時とうじりょくけてきていたガイウス・マリウスむすぶことによってその地位ちい向上こうじょうはかったとみられる[8]。カエサルは自身じしん叔母おばでマリウスのつまでもあったユリア (ガイウス・マリウスのつま)英語えいごばん追悼ついとう演説えんぜつで「ユリウスぞくアエネアス息子むすこアスカニウス由来ゆらいし、したがって女神めがみウェヌス子孫しそんであり、また、カエサルの母方ははかたアンクス・マルキウス王政おうせいローマだい4だいおう)につらなる家柄いえがらである」とべている[9]。(氏族しぞく先祖せんぞであるガイウス・ユッルスころは、コグノーメンをIullusと表記ひょうきしていたが、『アエネーイス』でアスカニウスの別名べつめいユールスが有名ゆうめいになるにつれ、Iulusと表記ひょうきされるようになった[10]。)

 
カエサルが戦地せんち鋳造ちゅうぞうしたとおもわれるデナリウス銀貨ぎんかぞう姿すがたきざまれている

なお、「カエサル」という家族かぞくめい起源きげんとしては以下いかせつがある。

  • だいプリニウスの『博物はくぶつ[11] によれば、はは犠牲ぎせいにした幸運こううんぬしで、スキピオ・アフリカヌスがそうであったが、初代しょだいカエサルははは子宮しきゅうった(caeso)ためにそのばれ、おな理由りゆうでカエソ(というプラエノーメン)もそうばれたとしている(ラテン語らてんごで「る」という意味いみcaedere受動じゅどう完了かんりょう分詞ぶんし caesus)に由来ゆらい[12])。
  • ローマ皇帝こうていぐんぞう』においては、以下いかの4つがげられている[13]
    • 戦争せんそうぞうマウリじん言葉ことば、おそらくフェニキアcaesai カエサイ)をころしたせつ[注釈ちゅうしゃく 2]
    • はは死後しご切開せっかいしてまれた(上記じょうき参照さんしょう
    • 最初さいしょにカエサルせい名乗なのった人物じんぶつあたまがふさふさしていた(caesaries カエサリエスせつ[注釈ちゅうしゃく 3]
    • 灰色はいいろひとみoculis caesiis オクリス・カエシイス)をしていたせつ

生涯しょうがい

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マリウスのものとおもわれる胸像きょうぞうグリュプトテーク収蔵しゅうぞう

生誕せいたん

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ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕せいたんねんとして以下いかの2つのせつがある。

  1. スエトニウス皇帝こうていでん』の記述きじゅつ沿った紀元前きげんぜん100ねん[14]
  2. カエサルがプラエトル法務ほうむかん就任しゅうにん資格しかくが40さい以上いじょう)に就任しゅうにんした紀元前きげんぜん62ねんから逆算ぎゃくさんした紀元前きげんぜん102ねん

ちち同名どうめいガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)で、ガイウス・マリウスちちガイウスの義弟ぎていたる。ちちガイウスはプラエトルつとめたのちアシアぞくしゅうぞくしゅう総督そうとくつとめた。ははルキウス・アウレリウス・コッタむすめアウレリア・コッタ英語えいごばんで、祖先そせんいくにんもの執政しっせいかん輩出はいしゅつした名家めいか出身しゅっしんであった。また、カエサルには幼少ようしょうころから家庭かてい教師きょうしとしてマルクス・アントニウス・グニポがけられたが、グニポはガリアけい人物じんぶつであった。

なお、誕生たんじょう月日つきひいくつかのせつがある。カエサルの神格しんかく決議けつぎしたのちにカエサルの誕生たんじょういわ記念きねんを『ルディ・アポッリナレス英語えいごばん』(7がつ6にちから13にちまで)の最終さいしゅうたる7がつ13にちけて7がつ12にち設置せっちしたとつたわっているため、7がつ13にちをカエサルの誕生たんじょうとするせつ有力ゆうりょくであるが、7がつ12にちとするせつもある。

青年せいねん

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幼少ようしょうのカエサルについては、プルタルコス『英雄えいゆうでん』やスエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』などの文献ぶんけん言及げんきゅうく、はっきりしない。ローマ国内こくない政治せいじてき不安定ふあんていで、ユグルタ戦争せんそうキンブリ・テウトニ戦争せんそう英雄えいゆうガイウス・マリウスと、そのライバルであったルキウス・コルネリウス・スッラ対立たいりつしており[15]、カエサルは叔母おばユリアがマリウスにとついでいたことからマリウスであった。ただ、それはよく民衆みんしゅうばれる政党せいとうてきなものというよりは、マリウスを中心ちゅうしんとしたゆる個人こじんてきなつながりとかんがえられる[16]紀元前きげんぜん91ねん同盟どうめい戦争せんそうでは、同盟どうめいこくローマ民権みんけんもとめて蜂起ほうきし、ルキウス・カエサルがユリウスほう提案ていあんし、イタリア半島はんとうがわ以南いなんぜん自由じゆうみん市民しみんけんあたえることで決着けっちゃくしたが、かれらをどのトリブス選挙せんきょ)に登録とうろくするかでめ、一部いちぶ抵抗ていこうつづいていた[17]

スッラ時代じだい

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カエサルのつま、コルネリア・キンナエ

紀元前きげんぜん88ねんポントス王国おうこくミトリダテス6せいとのミトリダテス戦争せんそうおこり、執政しっせいかんであるスッラがインペリウム指揮しきることになった。しかしマリウスにミトリダテス討伐とうばつのインペリウムを付与ふよする法案ほうあん提出ていしゅつされ、市内しないでは騒乱そうらんおこり、ローマを脱出だっしゅつしたスッラは同僚どうりょう執政しっせいかんともぐんひきいてローマへ侵攻しんこう老年ろうねんのマリウスはローマからげのびたが、「国家こっかてき宣言せんげんける[18]。そしてスッラがルキウス・コルネリウス・キンナ後事こうじたくしてふたた遠征えんせいかけると[19]今度こんど同僚どうりょう執政しっせいかん追放ついほうされたキンナがマリウスをもどふたたびローマを制圧せいあつ、スッラを「国家こっかてき」と弾劾だんがいしてスッラ粛清しゅくせいした[20]。ルキウス・カエサルも、マルクス・アントニウス・オラトルらとともころされ、ロストラさらされた[21]

紀元前きげんぜん86ねん初頭しょとう、マリウスはぼっした[22]のこされたキンナは死去しきょする紀元前きげんぜん84ねんまでローマを支配しはいし、おそらくこのキンナ時代じだいしん市民しみんのトリブス登録とうろく問題もんだい解決かいけつされたとかんがえられている[23]

紀元前きげんぜん84ねんにカエサルのちち死去しきょすると、よく紀元前きげんぜん83ねん、カエサルはユピテル神官しんかん選出せんしゅつされる。しかし、この職務しょくむパトリキのみに開放かいほうされており、前提ぜんていとしてパトリキと結婚けっこんする必要ひつようがあったので、カエサルは婚約こんやくしていた騎士きし階級かいきゅうエクィテス)のむすめコッスティアとわかれ、コルネリウス氏族しぞくであるキンナのむすめコルネリアと結婚けっこんした[24]のちにスッラはカエサルに離縁りえん強要きょうようしたが、カエサルが拒否きょひしたためわりに持参じさんきん没収ぼっしゅうしている[25]。ユピテル神官しんかんはローマをはなれることが出来できず、戦争せんそうかかわるタブーがおおかったため、もし就任しゅうにんしていたとすれば、かれのキャリアはわっていたはずで、実際じっさいには最高さいこう神祇官じんぎかん抵抗ていこうによって就任しゅうにんしていないとかんがえられる[26]

 
スッラのものとおもわれる胸像きょうぞう。グリュプトテーク収蔵しゅうぞう

そのころ、ミトリダテス戦争せんそう勝利しょうりしたスッラがふたたびローマへ進軍しんぐんし、マリウス・キンナ抵抗ていこうけたがローマ制圧せいあつ反対はんたいプロスクリプティオもとづいて徹底的てっていてき粛清しゅくせいし、紀元前きげんぜん82ねんには従来じゅうらい任期にんき半年はんとし限定げんていされていた独裁どくさいかん任期にんき事実じじつじょう無制限むせいげんとした「法制ほうせい秩序ちつじょ再生さいせい独裁どくさいかん」に就任しゅうにんした[27]。このスッラの帰還きかんわせ、クラッススやポンペイウス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス挙兵きょへいしている[28]

血縁けつえんとしてマリウスにちかく、キンナの婿むこであるカエサルも民衆みんしゅうとみなされ、かれはあやうくころされそうになった。しかしこのときガイウスもしくはルキウス・アウレリウス・コッタマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌスウェスタの処女しょじょらに助命じょめい嘆願たんがんされ、スッラもこれにしぶしぶ同意どういする。そのときスッラは「いいだろう。ゆるそう。だがわすれるな。いつかあの若者わかもの我々われわれ貴族きぞく[注釈ちゅうしゃく 4]ほろぼすぞ。かれなかにはおおくのマリウスがいるのだ」とかたったとつたえられる[24]

紀元前きげんぜん81ねん、カエサルはアシアぞくしゅう担当たんとうしていたプラエトル、マルクス・ミヌキウス・テルムス[29]のもとに派遣はけんされ、ビテュニアおうニコメデス4せいのもとに艦隊かんたい調達ちょうたつ交渉こうしょうかい長期間ちょうきかん滞在たいざいする。スエトニウスによれば、このときおうわかいカエサルは男色なんしょく関係かんけいったといううわさったが、ミュティレネ包囲ほういせんでは「市民しみんかんむり」を授与じゅよされている[30]。この市民しみんかんむり授与じゅよによって、カエサルが元老げんろういん議席ぎせき、その特権とっけんによって政務せいむかん年齢ねんれい制限せいげん回避かいひできたとすれば、紀元前きげんぜん100ねんまれでもおかしくはないことになる[31]。ただ、この男色なんしょくうわさ生涯しょうがいわたっていてまわり、「ビテュニアの女王じょおう」などと政敵せいてきより攻撃こうげきされる材料ざいりょうとなった[32]

このころローマでは、コルネリウスほう制定せいてい改革かいかくいちとおえたスッラが紀元前きげんぜん80ねん独裁どくさいかんしていた。このスッラの行動こうどう後年こうねんカエサルは、「自分じぶんから独裁どくさいかんめるようなおめでたいやつをスッラとぶのさ」とひょうしたという[33]

スッラ死後しご

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紀元前きげんぜん78ねんにスッラが死去しきょしたことでカエサルはローマへ帰還きかんした。すると、同僚どうりょう執政しっせいかん反目はんもくし、スッラがさだめたまもるみん官権かんけんげん削減さくげん復活ふっかつ穀物こくもつほう撤回てっかい没収ぼっしゅうされた資産しさん返却へんきゃくなどをうった挙兵きょへいしたマルクス・アエミリウス・レピドゥス[34]はカエサルに参加さんかけたが、カエサルはこれをことわった[35]

当時とうじローマではぞくしゅう統治とうち現地げんちみんへの脅迫きょうはく搾取さくしゅ収賄しゅうわいおこなもの頻繁ひんぱんにいた。紀元前きげんぜん77ねん、カエサルは執政しっせいかん経験けいけんしゃグナエウス・コルネリウス・ドラベッラをこのつみ訴追そついした[36]共和きょうわせいローマでは私人しじん訴追そつい主義しゅぎで、訴追そついしゃみずからが裁判さいばん相手あいてがわ弁護士べんごしたたかうため、多数決たすうけつ判決はんけつくだ審判しんぱんじん説得せっとくするための高度こうど修辞しゅうじがくもとめられ、訴追そついしゃ政敵せいてき訴追そついによってろうとする若者わかもの職業しょくぎょうてき訴追そついじんなどがおもであった[37]

このドラベッラの告発こくはつ失敗しっぱいし、復讐ふくしゅうおそれたカエサルは紀元前きげんぜん75ねんロドスとうおもむき、キケロ[38] 修辞しゅうじがく権威けんいとして著名ちょめいであったアポロニウス・モロン師事しじした[39]かれには弁舌べんぜつ才能さいのうもあったが、その努力どりょく政治せいじ軍事ぐんじ方面ほうめんけた結果けっか覇者はしゃとなったため、キケロは雄弁ゆうべん比較ひかくすることはけたという[40]

このときカエサルはゲ海げかいふねわたっていたが、途中とちゅうキリキア海賊かいぞくとらわれのとなった。海賊かいぞく身代金みのしろきんとして20タレント要求ようきゅうしたが、カエサルは「20ではやすすぎる、50タレントを要求ようきゅうしろ」と海賊かいぞくにいいはなち、そのあいだ海賊かいぞくたいしておそれもせずに尊大そんだいせっするだけではなく、「自分じぶんもどったらおまえたちをはりつけにしてやるぞ」と海賊かいぞくたい冗談じょうだんすらった。そして身代金みのしろきん支払しはらわれて釈放しゃくほうされるとカエサルは海軍かいぐん招集しょうしゅう海賊かいぞく追跡ついせきらえてペルガモンごくにつないだ。そしてアシアぞくしゅう総督そうとく処刑しょけいするようにめいじるが、総督そうとくはこれを拒否きょひして海賊かいぞく奴隷どれいろうとする。するとカエサルは海路かいろかえして、冗談じょうだんでほのめかしたとおりに自分じぶん命令めいれい海賊かいぞくたちを磔刑たっけいしょしたという[41]

紀元前きげんぜん73ねん、カエサルは死去しきょしたガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前きげんぜん75ねん執政しっせいかん)後継こうけい神祇官じんぎかん就任しゅうにんしたとかんがえられている[42]

クルスス・ホノルム

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん71ねん軍団ぐんだん司令しれいかんトリブヌス・ミリトゥム)に就任しゅうにん[43]クルスス・ホノルムあゆはじめた。ヒスパニアでのクィントゥス・セルトリウスによるローマとの戦争せんそう英語えいごばんくわえて、紀元前きげんぜん73ねんにはスパルタクスらが首謀しゅぼうしただいさん奴隷どれい戦争せんそう勃発ぼっぱつグナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススがこれらの戦争せんそう活躍かつやくしていた。かれにん紀元前きげんぜん70ねん執政しっせいかんつとめている[44]。この時期じきのカエサルはつま兄弟きょうだいのキンナとみ、市民しみん集会しゅうかい(コンティオ)で演説えんぜつおこなうなど、スッラの粛清しゅくせいからげていた人々ひとびと帰還きかん事業じぎょう支援しえんしていた[45]

クァエストル

編集へんしゅう
 
ポンペイア

紀元前きげんぜん69ねん財務ざいむかんクァエストル)に選出せんしゅつされた[44]。このころ叔母おばでマリウスの寡婦かふであったユリアの葬儀そうぎ追悼ついとう演説えんぜつおこなった[9]。またこのとき、スッラの粛清しゅくせい以来いらいすっかりなくなったマリウスのぞうかかげてみせたという[46]つまのコルネリアも同年どうねん死去しきょしたため、カエサルはクィントゥス・ポンペイウス・ルフスとスッラのまごであるポンペイアと結婚けっこんした[9]

財務ざいむかんとして、カエサルはヒスパニア・ウルテリオルのプロプラエトル、ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスのしたはたら[47]。ここでアレクサンドロス大王だいおうぞうにして「アレクサンドロスはいまわたしおなねんころには世界せかいれた。自分じぶんなにもなしえていない」と落胆らくたんし、こんなことをしている場合ばあいではないと、辞任じにんもうようとした。カエサルはこのよるははアウレリアをおかゆめたためはげしく狼狽ろうばいしたが、うらなは「ははとはすべてのははたる『大地だいち』である」と解釈かいしゃくし、かれ支配しはいしゃとなるあかしだとけた[48]。カエサルは任期にんきはやめにげ、ローマにかえ途中とちゅう、ローマ民権みんけん要求ようきゅうして不穏ふおん空気くうきながれていたトランスパダナ(がわ以北いほく地方ちほうまわった。スエトニウスは、かれなにかしらたくらんでいたのかもしれないとしている[49]

この時期じき、カエサルはローマ転覆てんぷく陰謀いんぼうへの関与かんよ沙汰ざたされた。上級じょうきゅう按察かんアエディリス・クルリス)に就任しゅうにんする直前ちょくぜんに、そのとし収賄しゅうわいつみ予定よてい執政しっせいかん地位ちい剥奪はくだつされていたプブリウス・コルネリウス・スッラ(紀元前きげんぜん68ねんのプラエトル)とプブリウス・アウトロニウス・パエトゥス(紀元前きげんぜん68ねんのプラエトル)[50]、クラッススとはかり、元老げんろういん強襲きょうしゅうしてクラッススを独裁どくさいかん、カエサル自身じしんはその副官ふっかんである騎兵きへい長官ちょうかんマギステル・エクィトゥム)としてローマを壟断ろうだんしようとする計画けいかくであった。これは複数ふくすう歴史れきし記録きろくしているが、結局けっきょくクラッススが決心けっしんできず未遂みすいわったという。ほかにもトランスパダナのガリアじんらと呼応こおうして決起けっきする計画けいかくもあったという[51]

アエディリス・クルリス

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん65ねんには上級じょうきゅう按察かん就任しゅうにんした(平民へいみん按察かん一人ひとりはキケロであった)[52]同僚どうりょうマルクス・カルプルニウス・ビブルス公共こうきょう事業じぎょう競技きょうぎかいなどをおこなったが、まるでカエサルだけが負担ふたんしたかのように賞賛しょうさんされたという[53]。こうして民衆みんしゅう支持しじると、カエサルはまもるみんかんんでプレブスみんかい古代こだいエジプト任地にんちとなるよう決議けつぎさせようとした。しかし貴族きぞくたちの反対はんたいにあい、それに反発はんぱつしたカエサルは公然こうぜん叔父おじであるマリウスの戦勝せんしょう修復しゅうふく着手ちゃくしゅし、スッラのプロスクリプティオもとづく没収ぼっしゅう財産ざいさんざいしたもの告発こくはつおこなった[54]

紀元前きげんぜん63ねん

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん63ねんまもるみんかんティトゥス・ラビエヌス共闘きょうとうし、元老げんろういん議員ぎいんガイウス・ラビリウスを、37ねんまえまもるみんかんルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス殺害さつがい容疑ようぎ告発こくはつさせた。そして遠縁とおえんルキウス・カエサルとも古代こだい存在そんざいした国家こっか反逆はんぎゃくざい審問しんもんかん就任しゅうにん[55]弁護べんごがわにはキケロとホルタルスいたものの、ラビリウスを有罪ゆうざいとした。ラビリウスはウァレリウスほうなどでさだめられた上訴じょうそ(プロウォカティオ)をおこなったが、このときプラエトルクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルヤニクルムのおかかかげられた戦時せんじ召集しょうしゅうはたげ、みんかい解散かいさんしたため、裁判さいばん自体じたいはうやむやになった[56][57]

ポンティフェクス・マクシムス

編集へんしゅう

同年どうねん、カエサルはスッラの治世ちせいちゅう任命にんめいされた前任ぜんにんクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス死去しきょともない、最高さいこう神祇官じんぎかん立候補りっこうほする[55]かれおなじく立候補りっこうほした執政しっせいかん経験けいけんしゃクィントゥス・カトゥルスプブリウス・イサウリクスとそのあらそうことになり、選挙せんきょ運動うんどう多額たがく借金しゃっきんかかえていたカエサルは、ははアウレリアにキスしながら、「最高さいこう神祇官じんぎかんにならなければ(自宅じたくに)もどってくることはないでしょう」とった。しかし結果けっかはカエサルの当選とうせん対立たいりつ候補こうほ2にん所属しょぞくトリブスひょうすらうばっての勝利しょうりだった[58]。カトゥルスはカエサルに大金たいきんえに立候補りっこうほ断念だんねんするようちかけたが、カエサルはこれ以上いじょういくら借金しゃっきんえようがたたかくと宣言せんげんしたという[59]。カエサルは、れて公邸こうていレギア)にとなった。

 
60さい前後ぜんこうのキケロ。プラド美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞう胸像きょうぞうもとにした写真しゃしん製版せいはん

カティリナ事件じけん

編集へんしゅう

このとし激動げきどうとしであった[60]前年ぜんねんおこなわれた執政しっせいかん選挙せんきょでは、あまり有力ゆうりょく候補者こうほしゃがおらず、ルキウス・セルギウス・カティリナガイウス・アントニウス・ヒュブリダ、そしてキケロのあらそいとなり、カティリナが落選らくせんした。カティリナとヒュブリダは、クラッススとカエサルに支援しえんされていた[61]

年初ねんしょはじまったまもるみんかんによって提出ていしゅつされた土地とち分配ぶんぱいほう審議しんぎでは、キケロはこの法案ほうあんねらいを、農地のうち分配ぶんぱいするじゅうにん委員いいんかいから戦場せんじょうにいるポンペイウスを排除はいじょするため、クラッススとカエサルがうらいといているとんで、反対はんたい演説えんぜつおこな成立せいりつ阻止そしした(『農地のうちほうについて』)[62]

少数しょうすう人間にんげんがあなたの財産ざいさんねらっているとする。そのときまずなにかんがえるだろうか。
あなたをまも権力けんりょく委員いいんかい、そして手段しゅだんから、ポンペイウスを排除はいじょする、
そのことをかんがえない人間にんげんがいるだろうか。
あなたがたが軽率けいそつに、なにかんがえずにこの法案ほうあんとおしたのちになって、
欠陥けっかんきポンペイウスをたよったところで、あとまつりになることをのぞんでいるのだ。

キケロ、『農地のうちほうについて(De Lege Agraria)』2.25
 
"Cicerone denuncia Catilina"、カティリナ(みぎはし)を追及ついきゅうするキケロ(左側ひだりがわ手前てまえ)、イタリアじん画家がかチェーザレ・マッカリ英語えいごばんによる1888ねんさく

カティリナはこのとし執政しっせいかん選挙せんきょにも立候補りっこうほしたが、再度さいど落選らくせんし、エトルリアでの反乱はんらんくわだてた。このことがあかるみにると、このとし執政しっせいかんであったキケロにたいし、「執政しっせいかん国家こっかがいおよばぬよう対処たいしょせよ」とめいじる元老げんろういん決議けつぎが10月21にち成立せいりつ。11月にはカティリナにたいし「国家こっかてき(ホスティス)」宣言せんげんはっせられる[63]。ところがこのカティリナには中央ちゅうおうにも共謀きょうぼうしゃがおり、そのなかには執政しっせいかん経験けいけんしゃであるプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラふくまれていた。12月3にち謀反むほん証拠しょうこつかんだキケロは5にん関係かんけいしゃ逮捕たいほ元老げんろういんでキケロにまれたかれらはつみみとめ、12月5にち元老げんろういん対応たいおう協議きょうぎされることになった。翌年よくねん予定よてい執政しっせいかん、14にん執政しっせいかん経験けいけんしゃ極刑きょっけいもとめるなか予定よていプラエトル[注釈ちゅうしゃく 5]であったカエサルは陰謀いんぼう加担かたんしたもの死刑しけい反対はんたいする演説えんぜつおこない、あくまでも終身しゅうしん投獄とうごく主張しゅちょうする立場たちばをとる。クィントゥス・カトゥルス以外いがいおおくの議員ぎいんがカエサルの意見いけん賛同さんどうしめはじめたなかマルクス・ポルキウス・カトしょうカト)は謀反むほんには極刑きょっけいをもってのぞむべしとつよ主張しゅちょうし、結局けっきょく陰謀いんぼうしゃたちは執政しっせいかんキケロによって処刑しょけいされた[64]

あなたかた冷静れいせいさをうしなっておられるのではないか。
だれしも自分じぶんがいけた場合ばあいにはそれを大仰おおぎょうにとらえるものだ。
しかし、おおいなるインペリウムをあずかるわれらには、
下々しもじものような儘はゆるされるものではない。
スッラのおこなったプロスクリプティオをおもこしてしい。
これがしき前例ぜんれいとなって、将来しょうらいわれらにきばかないとだれえるのか。

サッルスティウス『カティリーナの陰謀いんぼう』カエサルの演説えんぜつより要約ようやく[65]

わたしかたりかけよう。国家こっかよりも自身じしん資産しさん財産ざいさん大事だいじおもわれている方々かたがたに。
ましたまえ。ねらわれているのはわれらの自由じゆう生命せいめいなのだ。
これまであなたかた怠惰たいだであっても国家こっかるがなかったのは、その偉大いだいさゆえにならない。
だがいま、それがおびやかされているというのに、寛容かんようであれという人間にんげんがいる。
最高さいこう神祇官じんぎかんたるカエサル殿どのは、悪人あくにん死後しごどのようなあつかいをけるかしんじておられぬ様子ようす[注釈ちゅうしゃく 6]
われらの弱腰よわごし対応たいおうれば、やつらはよろこいさんでここになだれんでくるだろう。
あなたかた自身じしんのことだけをかんがえ、欲望よくぼうとカネにつかえるなら、
空虚くうきょ国家こっか痛撃つうげきくわえられたとて、なん不思議ふしぎがあろうか。

サッルスティウス『カティリーナの陰謀いんぼうしょうカトの演説えんぜつより要約ようやく[67]

 
しょうカトのものとおもわれる胸像きょうぞう。グリュプトテーク収蔵しゅうぞう

サッルスティウスは『カティリーナの陰謀いんぼう』のなかで、この二人ふたり演説えんぜつにほぼ1/6をいている[68]。この討論とうろん最中さいちゅう、カエサルがメモをったのをしょうカトは、陰謀いんぼうかかわった証拠しょうこだとったが、カエサルからわたされたその中身なかみは、しょうカトのあねセルウィリアからの恋文こいぶみであったため、しょうカトはカエサルにそれをげつけて演説えんぜつつづけたというエピソードもつたわる[69]

ノウス・ホモであったキケロは12月3にちには「国家こっかちち(パテル・パトリアエ)」とばれ、軍事ぐんじてき勝利しょうりによらず感謝かんしゃさい開催かいさいされた最初さいしょ人間にんげんとなった[70]。カエサルは方針ほうしん決定けっていさら妨害ぼうがいつづけたが、キケロやカトの意見いけん支持しじする一団いちだんころされそうになったため、すっかりこしけてしまい、そのとしいえ引篭ひっこももったという[71]

よく紀元前きげんぜん62ねんには陰謀いんぼうのさらなる追及ついきゅうのため委員いいんかい設置せっちされた。そのなかでキケロは陰謀いんぼうなんたるか報告ほうこく事前じぜんけていたという証言しょうげんがあったが、かれ容疑ようぎ潔白けっぱく証明しょうめいし、ぎゃく自分じぶん告発こくはつした人物じんぶつ、そして委員いいんかいのメンバーの1人ひとりごくにつながれる事態じたいとなった。そのあいだにプラエトルのカエサルは一貫いっかんして処罰しょばつ連座れんざせい反対はんたい立場たちばつらぬいた。なお、カエサルはクラッススとともうら陰謀いんぼう画策かくさくしていたともつたえられた。[58][72]

さんとう政治せいじ

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん61ねん、カエサルは、ヒスパニア・ウルステリオルぞくしゅう総督そうとくとして赴任ふにんした。カエサルはヒスパニアへかう道中どうちゅうった寒村かんそんで、部下ぶかたいして「ローマじんあいだだい2めるよりも、この寒村かんそんだい1人ひとりしゃになりたいものだ」とかたったという[73]。 カエサルはぞくしゅう総督そうとくとしてローマぐんひきいてルシタニぞく英語えいごばんガッラエキぞく英語えいごばん討伐とうばつし、ローマへ服属ふくぞくしていなかった部族ぶぞくしたがえた。カエサルはこのぞくしゅう総督そうとく時代じだい大金たいきん[72]

紀元前きげんぜん60ねん、コンスルをめざすカエサルは、オリエントを平定へいていして凱旋がいせんした自分じぶんたいする元老げんろういん対応たいおう不満ふまんったポンペイウスとむす執政しっせいかん当選とうせんする。ただこの時点じてんで、すでにこうなりめいしたポンペイウスにたいし、カエサルはたいした実績じっせきもなく、ポンペイウスと並立へいりつしうるほどの実力じつりょくはなかった。そこでポンペイウスより年長ねんちょうで、騎士きし階級かいきゅう代表だいひょうし、スッラ重鎮じゅうちんでもあるクラッススをきいれてバランスをった。ここにだいいちかいさんとう政治せいじ結成けっせいされた。民衆みんしゅうから絶大ぜつだい支持しじほこるカエサル、もと軍団ぐんだんそう司令しれいかんとして軍事ぐんじりょく背景はいけいつポンペイウス、経済けいざいりょくゆうするクラッススのさんしゃむことで、当時とうじ強大きょうだい政治せいじりょくっていた元老げんろういん対抗たいこうできる勢力せいりょく形成けいせいした。

執政しっせいかん在任ざいにんちゅうにまず、元老げんろういんでの議事ぎじろく即日そくじつ市民しみん公開こうかいすることさだめた。それまでは議員ぎいんからはなし以外いがいには内容ないようられることはなかっただけに、議員ぎいんたちはうかつな言動げんどう出来できなくなった。また、グラックス兄弟きょうだい以来いらい元老げんろういん体制たいせいにおけるタブーであった農地のうちほう成立せいりつさせる。当初とうしょ元老げんろういんはこの法案ほうあんはげしく反対はんたいしたが、カエサルは職権しょっけん平民へいみん集会しゅうかい招集しょうしゅう巧妙こうみょう議事ぎじ運営うんえい法案ほうあん成立せいりつさせるとともに、ぜん元老げんろういん議員ぎいん農地のうちほう尊重そんちょう誓約せいやくさせることに成功せいこうした。

ガリア戦争せんそう

編集へんしゅう
 
"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランスじん画家がかリオネル・ロワイエ英語えいごばんによる1899ねんさくル・ピュイ=アン=ヴレクロザティエ博物館はくぶつかん英語えいごばんフランス語ふらんすごばん所蔵しょぞう
アレシアのたたかいにて、カエサル(あかトーガをまとう人物じんぶつ)の軍門ぐんもんくだり、勝利しょうりしゃ足元あしもと武器ぶきててみせるウェルキンゲトリクス(馬上もうえひと)。

紀元前きげんぜん58ねん、コンスルの任期にんきえたカエサルはぜん執政しっせいかんプロコンスル)の資格しかくもっガリア・キサルピナおよガリア・トランサルピナひとしぞくしゅう総督そうとく就任しゅうにんした。ヘルウェティイぞくがローマぞくしゅう通過つうかしたいむね要求ようきゅう拒否きょひしたことを皮切かわきりに、ガリアじんとのガリア戦争せんそうすこととなった。ヘルウェティイぞくおさえたのち、ガリアじん依頼いらいけてゲルマニアじんアリオウィストゥスとのたたかいにち、翌年よくねんにはガリアの北東ほくとうベルガエじんしょ部族ぶぞく制圧せいあつした。

そのあいだ紀元前きげんぜん56ねんにはルッカでポンペイウス、クラッススと会談かいだんおこない、紀元前きげんぜん55ねんにポンペイウスとクラッススが執政しっせいかん選出せんしゅつされ、カエサルのガリア総督そうとくとしての任期にんきが5ねん延長えんちょうされることが決定けっていした。また、同年どうねんゲルマニア侵攻しんこうしてゲルマニアじんのガリア進出しんしゅつ退しりぞけ、ラインがわ防衛ぼうえいせん端緒たんしょきずいた。紀元前きげんぜん55ねんおよ54ねんの2にわたってブリタンニア遠征えんせい実施じっしした。

最大さいだいたたかいは紀元前きげんぜん52ねんアルウェルニぞく族長ぞくちょうウェルキンゲトリクスとのたたかいであり、このときはほとんどのガリアの部族ぶぞく敵対てきたいしたが、カエサルはアレシアのたたかでこれをくだした。これらの遠征えんせいにより、カエサルはガリア全土ぜんどをローマぞくしゅうとした。カエサルはガリア戦争せんそう一連いちれん経緯けいいを『ガリア戦記せんき』としてあらわした。

カエサルはこの戦争せんそうでガリアじんから多数たすう勝利しょうり、ローマでの名声めいせいおおいにたかめた。かれは「新兵しんぺいしん軍団ぐんだん構成こうせいし、既設きせつ軍団ぐんだんには新兵しんぺい補充ほじゅうしない」という方針ほうしんったため、長期間ちょうきかん遠征えんせい従事じゅうじした軍団ぐんだんへいすう定員ていいんっていたが、わりに統率とうそつれた精強せいきょう部隊ぶたいになった。軍団ぐんだんへいには、ローマにではなくカエサル個人こじんたいし、忠誠ちゅうせいしんいだものおおかったといわれる。これらのガリア征服せいふくとおしてたくわえられた実力じつりょくは、カエサルが内戦ないせんこすさいうしたてとなったのみならず、ローマの元老げんろういんのカエサルにたいする警戒けいかいしんをよりつよくさせ、元老げんろういんがわからも内乱ないらん誘発ゆうはつさせかねない強硬きょうこうさくらせることとなった。

ローマ内戦ないせん

編集へんしゅう

ポンペイウスとの対決たいけつ

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん53ねんパルティア遠征えんせいしていたさんとう政治せいじ一角いっかくであるクラッススのぐん壊滅かいめつカルラエのたたか)し、クラッススが戦死せんししたことによりさんとう政治せいじ崩壊ほうかいした。また、紀元前きげんぜん54ねんにポンペイウスにとついでいたむすめユリア死去しきょしたこともけて、ポンペイウスはカエサルと距離きょりき、さんとうにとって共通きょうつう政敵せいてきであったカトやルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスらに接近せっきんしたため、両者りょうしゃ対立たいりつ顕在けんざいした。

紀元前きげんぜん49ねん、カエサルのガリアぞくしゅう総督そうとく解任かいにんおよび本国ほんごく召還しょうかんめいじる『セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム元老げんろういん最終さいしゅう決議けつぎ)』が発布はっぷされた。カエサルはまもるみんかんがローマをわれたことを名目めいもくに、ぐんひきいてルビコンかわえたことで、ポンペイウスおよ元老げんろういんとの内戦ないせん突入とつにゅうした[注釈ちゅうしゃく 7]1がつ10日とおかにルビコンかわわたさいかれは「ここをわたれば人間にんげん世界せかい破滅はめつわたらなければわたし破滅はめつかみ々のつところ、我々われわれ侮辱ぶじょくしたてきつところへすすもう、さいげられた」とげきばしたという[74]

ルビコンかわえたカエサルはアドリア海あどりあかい沿いにイタリア半島はんとう制圧せいあつ目指めざした。たいするポンペイウスはローマにいたため即時そくじ軍団ぐんだん編成へんせいおこなえず、イタリア半島はんとうからのがれ、勢力せいりょく地盤じばんであったギリシア軍備ぐんびととのえることにした。おおくの元老げんろういん議員ぎいんもポンペイウスにしたがってギリシアへかった。こうして、カエサルはイタリア半島はんとう実質じっしつてき支配しはいけんにした。

ローマ制圧せいあつマッシリア包囲ほういせんイレルダのたたかでヒスパニアやマッシリア(げんマルセイユ)などの元老げんろういん平定へいていして後方こうほう安全あんぜん確保かくほし、カエサルが独裁どくさいかんとして仕切しきった選挙せんきょ紀元前きげんぜん48ねん執政しっせいかん選出せんしゅつされた[75]独裁どくさいかん10日とおかあまりでみずか辞任じにんし、ローマをってぐんひきいてギリシアへ上陸じょうりくした。元老げんろういん兵站へいたん基地きち包囲ほういしたデュッラキウムのたたか敗退はいたいきっしたが、紀元前きげんぜん48ねん8がつファルサルスのたたか兵力へいりょくおとりながらもすぐれた戦術せんじゅつによって勝利しょうりおさめた。ポンペイウスはエジプト逃亡とうぼうしたが、9月29にちアレクサンドリア上陸じょうりくしようとしたさいプトレマイオス13せい側近そっきん計略けいりゃくによってむかえのふねうえ殺害さつがいされた。ってきたカエサルがアレクサンドリアにいたのは、その数日すうじつだった。

エジプトにて

編集へんしゅう
 
『クレオパトラをエジプト女王じょおうえるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、イタリアじん画家がかピエトロ・ダ・コルトーナによる1637ねんさく
カエサル(中央ちゅうおうあかいマント)がクレオパトラ7せいいて玉座ぎょくざすわるよううながしている。みぎはしアルシノエ4せい

ポンペイウスのったカエサルは、軍勢ぐんぜいともなってアレクサンドリアに上陸じょうりくした。エジプトでは、先代せんだいプトレマイオス12せいであるクレオパトラ7せいとプトレマイオス13せいあねおとうとあらそっており、両者りょうしゃ仲介ちゅうかい模索もさくしたものの、プトレマイオス13せいから攻撃こうげきけたため、クレオパトラ7せいがわって政争せいそう介入かいにゅうし、ナイルのたたかで、カエサル麾下きかのローマぐんはプトレマイオス13せいやぶった。このたたかいではいしたプトレマイオス13せいわって、プトレマイオス14せいがクレオパトラ7せい共同きょうどうでファラオの地位ちいいた。

きたアフリカ、ヒスパニア戦役せんえき

編集へんしゅう

エジプト平定へいてい、カエサルは親密しんみつになったクレオパトラ7せいとエジプトでごしたが、しょうアジアに派遣はけんしていたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスがポントスおうファルナケス2せい敗北はいぼくしたというしらせがとどいた。紀元前きげんぜん47ねん6がつ、カエサルはエジプトをち、途中とちゅうでポンペイウスの勢力せいりょくだったシュリアキリキアおさえつつ進軍しんぐん8がつ2にちゼラのたたかでファルナケス2せいやぶった。このとき、ローマにいる腹心ふくしんガイウス・マティウス英語えいごばんおくった戦勝せんしょう報告ほうこくに「た、た、った (Veni, vidi, vici.)」との言葉ことばがあった。そのローマに短期間たんきかん滞在たいざい、そのさい1年間ねんかん独裁どくさいかん任命にんめいされた。

ポンペイウス死後しごヌミディアおうユバ1せいんできたアフリカを支配しはいしていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなど元老げんろういんタプススのたたかやぶり、さらウティカ攻撃こうげきしてカトを自害じがいんだ(紀元前きげんぜん46ねん4がつ)。

紀元前きげんぜん46ねんなつ、ローマへ帰還きかんしたカエサルは市民しみん熱狂ねっきょうてき歓呼かんこむかえられ、壮麗そうれい凱旋がいせんしき挙行きょこうした。カエサルはクレオパトラ7せいをローマにまねいており、クレオパトラ7せいはカエサルとのあいだ息子むすことされるカエサリオンともなっていた。紀元前きげんぜん45ねん3月、ヒスパニアへのがれていたラビエヌスやポンペイウスの遺児いじしょうポンペイウスセクストゥス兄弟きょうだいらとのムンダのたたか勝利しょうりして一連いちれんのローマ内戦ないせん終結しゅうけつさせた。

終身しゅうしん独裁どくさいかん就任しゅうにん

編集へんしゅう

元老げんろういん武力ぶりょく制圧せいあつして、ローマでの支配しはいけん確固かっこたるものとしたカエサルは共和きょうわせい改革かいかく着手ちゃくしゅする。ぞく州民しゅうみん議席ぎせきあたえて、定員ていいんを600めいから900めいへと増員ぞういんしたことで元老げんろういん機能きのう権威けんい低下ていかさせ、機能きのう不全ふぜんおちいっていたみんかいまもるみんかんたんなる追認ついにん機関きかんとすることで有名ゆうめい無実むじつした。わって、みずからが終身しゅうしん独裁どくさいかん就任しゅうにん紀元前きげんぜん44ねん2がつ)し、権力けんりょくを1てん集中しゅうちゅうすることで統治とうち能力のうりょく強化きょうかはかったのである。この権力けんりょく集中しゅうちゅうシステムは元首げんしゅせいプリンキパトゥス)として後継こうけいしゃのオクタウィアヌス(アウグストゥス)にがれ、帝政ていせいローマ誕生たんじょういしずえともなる。

紀元前きげんぜん44ねん2がつ15にちルペルカリアさいさいにアントニウスがカエサルへおうあかしともいえる月桂樹げっけいじゅほうじたものの、ローマ市民しみんからの拍手はくしゅはまばらで、ぎゃくにカエサルが月桂樹げっけいじゅもどしたさいには大変たいへん拍手はくしゅであった。すうかえしたところまったおな反応はんのうであり、カエサルはカピトル神殿しんでん月桂樹げっけいじゅささげるように指示しじしたという[76]共和きょうわ主義しゅぎしゃはこの行動こうどうをカエサルが君主くんしゅせい志向しこうしたあらわれと判断はんだんした。また、カエサルは「共和きょうわせいローマはかたちもなく、のみの夢幻むげんごとくなり」「注意ちゅういせよ、げんはすなわちほうなり」などと発言はつげんしたとされる[33]。これらつたえられるカエサルのいや言動げんどう、そして終身しゅうしん独裁どくさいかんとしての絶対ぜったいてき権力けんりょくたいし、マルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌス共和きょうわ主義しゅぎしゃ共和きょうわせい崩壊ほうかい危機ききかんいた。

暗殺あんさつ

編集へんしゅう
 
『カエサル暗殺あんさつ』(La Mort de César) フランスじん画家がかジャン=レオン・ジェロームによる1867ねんさく

紀元前きげんぜん44ねん3がつ15にち[77] (Idus Martiae)、元老げんろういん出席しゅっせきするカエサルの随行ずいこうしゃデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスであった。つま・カルプルニアは前夜ぜんや悪夢あくむため、カエサルに元老げんろういんへの出席しゅっせきけるようつたえ、カエサルもいち見合みあわせることを検討けんとうしたものの、デキムスの忠告ちゅうこくによってカエサルは出席しゅっせきすることとした。以前いぜん「『3がつ15にち』に注意ちゅういせよ」と予言よげんしたちょうぼくかん(ちょうぼくかん、臓卜とも。うらなのこと。)のウェストリキウス・スプリンナに元老げんろういんへの道中どうちゅう出会であい、カエサルは「なにかったではないか」とかたったが、スプリンナは「『3がつ15にち』はいまわっていない」と返答へんとうした[78]

それ以前いぜんにカエサルは身体しんたい不可侵ふかしんせい保障ほしょうされるまもるみん官職かんしょくけんていたが、それにくわえて元老げんろういん議員ぎいんから安全あんぜんかんする誓約せいやく元老げんろういん議員ぎいんほどに社会しゃかいてき地位ちいたかものなら、「紳士しんし協定きょうてい」こそまもられなくてはならないとされていた)をったうえで、独裁どくさいかん付属ふぞくする護衛ごえいたい解散かいさんしていた。カエサルは「安寧あんねい汲々きゅうきゅうとしているようではきている甲斐かいがない」「わたし自分じぶんしんじるみちしたがって行動こうどうしている。だから他人たにんがそうきることも当然とうぜんおもっている」といったことをべている。

ポンペイウス劇場げきじょうひらかれた元老げんろういん会議かいぎは、パルティア遠征えんせいまえにカエサル在中ざいちゅうのローマの統治とうち体制たいせい協議きょうぎする予定よていであった。終身しゅうしん独裁どくさいかんであったカエサルに随行ずいこうするリクトル元老げんろういん慣習かんしゅうにより元老げんろう院外いんがい待機たいき腹心ふくしんマルクス・アントニウスガイウス・トレボニウスによってはなされていた。

事件じけん元老げんろういん開会かいかいまえこったとされ、ポンペイウス劇場げきじょう隣接りんせつするれつ柱廊ちゅうろう現在げんざいトッレ・アルジェンティーナ広場ひろばうち)でマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって暗殺あんさつされた。23のきずうち、2つきず致命傷ちめいしょうとなったという[79]

ころされるさい、カエサルは「ブルトゥス、おまえもか (Et tu, Brute?)」とさけんだとされ、これはシェイクスピア戯曲ぎきょくジュリアス・シーザー』のなか台詞せりふとして有名ゆうめいであるが[80]、それ以前いぜんにもカエサルがこのような意味いみのことをったというせつ存在そんざいしていた。また、ギリシアで「息子むすこよ、おまえもか? (κかっぱαあるふぁσしぐまὺ τέκνον;)」[81]ったともつたえられる。

 
紀元前きげんぜん44ねんごろ発行はっこうされたデナリウス銀貨ぎんか。カエサルの横顔よこがおまわりには永久えいきゅう独裁どくさいかんカエサルときざまれており、裏面りめんにはウェヌスと硬貨こうか鋳造ちゅうぞうしたP. Sepullius Macerのコグノーメンがきざまれている

上記じょうきの「ブルトゥス」は通常つうじょう暗殺あんさつ指導しどうしゃ1人ひとりで、カエサルがもっとあいしたとつたえられるセルウィリア[82]息子むすこであるマルクス・ユニウス・ブルトゥスす。数日すうじつ、カエサルの遺言ゆいごんじょう開封かいふうされた。だいいち相続そうぞくじん当時とうじ18さいだいおいめいであるアティア・バルバ・カエソニア息子むすこ)ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(初代しょだいローマ皇帝こうていアウグストゥス)、だい相続そうぞくじんにデキムス・ブルトゥスとの内容ないようであった[83]

カエサルは生前せいぜんかたわれたさいに「おもいがけない突然とつぜんこそのぞましい」とこたえ、わせて「わたし無事ぶじ息災そくさいでいることは、ローマのためにも必要ひつようである。わたしながあいだ権力けんりょくにぎっており、もしわたしうえなにかがこったら、ローマは平穏へいおん無事ぶじであるはずがない。もしかするとわるくなる可能かのうせいがあり、内乱ないらんこるだろう」とかたったとつたえられている[84]

業績ぎょうせき

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年表ねんぴょう

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ローマの将軍しょうぐんとして

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独裁どくさいかんとして

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  • 多数たすう軍事ぐんじてき成功せいこうによるローマ国境こっきょうない安定あんていパクス・ロマーナつながる)。民生みんせい充実じゅうじつ、および共和きょうわせいから帝政ていせいへの移行いこうのため、政治せいじ経済けいざい社会しゃかいとうしょ制度せいど全面ぜんめんてき改革かいかくおこなう。
  • ガリア・キサルピナぞくしゅう現在げんざいきたイタリア地方ちほう)の都市とし計画けいかくならびにぞく州民しゅうみんへのローマ民権みんけん付与ふよシチリアガリア・トランサルピナぞくしゅう現在げんざいみなみフランス地方ちほう住民じゅうみんへのラテン民権みんけん授与じゅよ
  • 元老げんろういん議員ぎいんをスッラ体制たいせいの600にんから900にん増員ぞういん中西部ちゅうせいぶガリアの部族ぶぞくちょうぞくしゅうのローマ市民しみん、カエサルのケントゥリオひゃくにん隊長たいちょう)などがあらたに議席ぎせきる。これによって元老げんろういん権威けんいいちじるしく低下ていかし、カエサルの権威けんい対抗たいこうする存在そんざいはなくなった。あらたなぞくしゅう出身しゅっしんしゃ元老げんろういんりは人材じんざい多様たようせいをもたらしぞくしゅうのローマおおきな影響えいきょうあたえた一方いっぽうで、元来がんらい議員ぎいん敵意てきいまねいた。後継こうけいしゃアウグストゥスの時代じだいには、内乱ないらん混乱こんらんで1000にん以上いじょうとなっていたのを600にんもどし、ぞくしゅう出身しゅっしん議員ぎいん登用とうようクラウディウス時代じだいまで凍結とうけつされた。
  • 権力けんりょく独占どくせん従来じゅうらい政治せいじ基本きほん構造こうぞうであったみんかいまもるみんかん有名ゆうめい無実むじつした。
  • 金銀きんぎん換算かんさんりつ固定こてい国立こくりつ造幣ぞうへいしょ開設かいせつ利息りそくりつ上限じょうげん設定せってい
  • 法務ほうむかんプラエトル)、財務ざいむかんクァエストル)、按察かんアエディリス)の増員ぞういん
  • 同僚どうりょう執政しっせいかんコンスル)の補佐ほさやく
  • 地方ちほう議会ぎかい被選挙権ひせんきょけん改正かいせい解放かいほう奴隷どれいへの公職こうしょく門戸もんこ開放かいほう
  • ぞくしゅうさい編成へんせい(スッラ:10しゅう→カエサル:18しゅう)。ぞくしゅう議会ぎかい認知にんち税制ぜいせい公正こうせい公営こうえい徴税ちょうぜい機関きかん設置せっち)。
  • ユピテルユーノーミネルウァをローマの主神しゅしんとし、このかみ々をまつ休日きゅうじつとした。
  • センプロニウスほう再興さいこうによる元老げんろういん最終さいしゅう勧告かんこく廃止はいし陪審ばいしんいん資格しかくパトリキ貴族きぞく)・エクィテス(ローマ騎士きし)・プレブス平民へいみん)といった「階級かいきゅうべつ」から、「40まんセステルティウス以上いじょう資産しさんつローマ市民しみん」へと改正かいせい
  • 小麦こむぎ無料むりょう給付きゅうふしゃを15まんにん半減はんげん審査しんさ按察かん設置せっち
  • 失業しつぎょうしゃ退役たいえきへい植民しょくみんさきぞくしゅう分散ぶんさんカルタゴコリントス再興さいこう
  • 教師きょうし医師いしへのローマ市民しみんけん授与じゅよ
  • カエサルのフォルム建設けんせつフォルム・ロマヌム市街地しがいち拡大かくだいなどのさい開発かいはつすすめるためにセルウィウス城壁じょうへき撤去てっきょした。そしてそれは「ローマの平和へいわ国境こっきょう防衛ぼうえいせんまもられるものである以上いじょう首都しゅとでは防壁ぼうへきなど不要ふようである」という宣言せんげんでもあった。
  • 干拓かんたく街道かいどう整備せいび延長えんちょうやほかの公共こうきょう事業じぎょう
  • ローマれき太陰暦たいいんれき)を改正かいせいユリウスれき太陽暦たいようれき)を制定せいてい[85]。これはのちにグレゴリオれき制定せいていされるまで、1600ねん以上いじょうにわたってヨーロッパ各地かくち使つかわれつづけることとなった。

文筆ぶんぴつとして

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人物じんぶつぞう

編集へんしゅう
 
カエサルの胸像きょうぞうウィーン美術びじゅつ美術館びじゅつかん

カエサルが元老げんろういん議員ぎいんとしてはじめておもて舞台ぶたいころ評価ひょうかは、「借金しゃっきんおう」や「ハゲのおんなたらし」とったものであった。事実じじつ借金しゃっきん天文学てんもんがくてきでとてつもない金額きんがくであった。紀元前きげんぜん61ねんはるに、プロプラエトルとしてヒスパニアへおもむまえ、カエサルが高飛たかとびするとおそれて出発しゅっぱつさまたげたため、カエサルは、最大さいだい債権さいけんしゃクラッススにきつき、債務さいむ保証ほしょうをしてもらい、ようやく任地にんち出発しゅっぱつできた[86]

また、カエサル自身じしん総督そうとくとして赴任ふにんしたヒスパニア現地げんち部族ぶぞくよりかね無心むしんしたり、ガリアで現地げんち部族ぶぞく奉納ほうのうしている神殿しんでん聖域せいいきにあった宝飾ほうしょくぶつ強奪ごうだつしたり、きむ目当めあてでまち破壊はかいしてまわったりということもあった。また、ローマでもカピトリヌス神殿しんでん奉納ほうのうしていた金塊きんかいぬすみ、どう重量じゅうりょうきんメッキをしたどうもどしたり[87]内戦ないせんちゅうまもるみんかん制止せいしって神殿しんでん財貨ざいか強奪ごうだつしたとした[88]つたわっている。

カエサルは、たかまったからだをしていたが、当時とうじ美男びなん条件じょうけんである「細身ほそみおんな見紛みまがうほどの優男やさおとこ」にはてはまらなかった、また、頭髪とうはつうすいことを政敵せいてきから攻撃こうげきされたため、はげた部分ぶぶんかくすのに苦労くろうしていた。このため、内戦ないせん終結しゅうけつさせた業績ぎょうせきみとめられたことにより、いつ、どこでも月桂冠げっけいかんこうむ特権とっけんあたえられたときは、大変たいへんよろこんだという。なお、当時とうじのカエサルが前髪まえがみうすさをかくすためにしていた髪型かみがたは、シーザーカット英語えいごばん(カエサルカット)とばれており、ヨーロッパではふるくから典型てんけいてき男性だんせい髪型かみがた一種いっしゅとなっている。また、てんかん症状しょうじょうがあったともつたわっている[89]

サッルスティウスは『カティリーナの陰謀いんぼう』で、カエサルとしょうカトを、年齢ねんれい弁舌べんぜつ、その精神せいしんせい栄光えいこうもほぼ互角ごかく人間にんげんとして比較ひかくしており、カエサルはその恩恵おんけい気前きまえさ(beneficiis ac munificentia)によって賞賛しょうさんされ、友人ゆうじんのためにはたらきづめにはたらいて、インペリウムを巨大きょだい武勲ぶくんてられる戦争せんそうのぞんでいたとしている[65]かれらは当時とうじ予定よていプラエトルと予定よていまもるみんかんという元老げんろういんではひく地位ちいでしかなかったが、それにしてはかなりげており、サッルスティウス自身じしんはカエサルであったが、しょうカトも同等どうとう賞賛しょうさんしていることから、執筆しっぴつ当時とうじだい2かいさんとう政治せいじと、しょうカトのながれをくむ共和きょうわ両方りょうほう意識いしきしてのことではないかと推測すいそくされている[90]

カエサルのつま愛人あいじんたち

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紀元前きげんぜん62ねん男性だんせい禁制きんせいボナ・デア儀式ぎしきさいつまポンペイアが女装じょそうした情夫じょうふれたとされる騒動そうどうこった。カエサルは女装じょそうした犯人はんにんプブリウス・クロディウス・プルケル裁判さいばん証人しょうにんとして出席しゅっせきしたが、かれ容疑ようぎについてはなにらないとこたえた。しかしかれ事件じけんポンペイアと離婚りこんしており、それを不思議ふしぎおもった検察官けんさつかんはなぜ離婚りこんしたのかたずねたが、「カエサルのつまたるものは、いかなる嫌疑けんぎけてはならない」とこたえたという[91]

また、カエサルにはおおくの愛人あいじんがいた。やや誇張こちょうおもわれるが、一説いっせつによれば元老げんろういん議員ぎいんの3ぶんの1がつまをカエサルに寝取ねとられたとつたえられている。このためカエサルは「ハゲのおんなたらし」と渾名あだなされた。古代こだいローマでは凱旋がいせんしきさいに、軍団ぐんだんへいたちが将軍しょうぐんをからかう野次やじばす習慣しゅうかんがあったが、カエサルの凱旋がいせんしきにおいての軍団ぐんだんへいたちは「おっとたちよ、つまかくせ。薬缶やかんあたま(ハゲ)のおんなたらしのおとおりだ」とさけんだ[92]。「ハゲのおんなたらし」(: moechus calvus)とわれることをれていたことは、カエサルの寛容かんようさを説明せつめいするさいいにされる。

なお、カエサルが関係かんけいったとなんらかの記述きじゅつがある女性じょせい以下いかとおりであり、ほかにもおおくの女性じょせい関係かんけいしたとおもわれる。ただし記録きろくにあるかぎり、子宝こだからにはほとんどめぐまれなかった。

 
カエサルのむすめでポンペイウスと結婚けっこんしたユリア・カエサリス

評価ひょうか

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人々ひとびとはカエサルの幸運こううんについてしきりにかたる。しかしこの非凡ひぼん人物じんぶつおおくのすぐれた素質そしつもあり、欠陥けっかんはないわけでなく、おおくの悪徳あくとくみもしたが、どんな軍隊ぐんたい指揮しきしたところで勝利しょうりしゃとなったろうし、どんな国家こっかまれたところで、それを統治とうちしたことであろう。

モンテスキュー、『ローマ盛衰せいすい原因げんいんろん』11(井上いのうえ幸治こうじやく[94]
  • カエサルは、文筆ぶんぴつとしての才能さいのうたか評価ひょうかされており、キケロならび、ラテン文学ぶんがく散文さんぶんにおける双璧そうへきをなしている。とくに『ガリア戦記せんき』の雄渾ゆうこん簡潔かんけつ文体ぶんたいたか評価ひょうかされている。また、上述じょうじゅつした引用いんよう特徴とくちょうてきである。
  • 終身しゅうしん独裁どくさいかん就任しゅうにんして以降いこう、カエサルは度々たびたび王位おういへの野心やしんあらわにしたとプルタルコスつたえている。いちれいとして、パルティアへの遠征えんせい計画けいかくげており、ローマで予言よげんしょとされた『シビュラ予言よげんしょ』には「おういただかないかぎり、ローマじんはパルティアは征服せいふくできない」と記載きさいされていたという[95]。この時期じき、カエサルはローマ市民しみんから憎悪ぞうおされていたこともあって、共和きょうわ主義しゅぎしゃによる暗殺あんさつ計画けいかく一因いちいんとなったとしている[96]
  • 19世紀せいきドイツの歴史れきしであり、ローマによってノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうしたテオドール・モムゼンは、「ローマがんだ唯一ゆいいつ創造そうぞうてき天才てんさい」とひょうした。[97]
  • ヘルマン・シュトラスブルガーは、後世こうせい歴史れきしによって過大かだい評価ひょうかされた記述きじゅつもとにしてカエサルを賞賛しょうさんすることにたいして警鐘けいしょうらし、どう時代じだいじんからは批判ひはんされることすらある、いち政治せいじにすぎないとした。マティアス・ゲルツァーはこれに一定いってい評価ひょうかをしつつ、カエサルのヴィジョンが当時とうじとしてはすぐれていたことを指摘してきしている[98]
  • カエサルが台頭たいとうするみちのりは、あくまでも共和きょうわせい伝統でんとうてきなクルスス・ホノルムに沿ったもので、当時とうじ政治せいじとしてけていたわけではない。独裁どくさいかんとしては、これまでの都市とし国家こっかとしてのローマを、地中海ちちゅうかい世界せかい支配しはいできる体制たいせいへとえたというが、これはカエサルら一部いちぶ人間にんげんによってのみげられたわけではなく、当時とうじ社会しゃかいてき変動へんどうながつづいていた影響えいきょう無視むしできないという指摘してきがある[99]。また、カエサルよりもスッラによる改革かいかく影響えいきょうたか評価ひょうかする学者がくしゃもいる[100]

カエサルをえがいた作品さくひん

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伝記でんき史書ししょ

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原典げんてん

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伝記でんき研究けんきゅう

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概説がいせつ

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図版ずはん解説かいせつ

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文学ぶんがく作品さくひん

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 生年せいねん太陰暦たいいんれきであるローマれき没年ぼつねんユリウスれき
  2. ^ カエサル自身じしんみずからの横顔よこがおきざませたコインのうらぞうえがかせていることから「ぞうせつっていたともかんがえられる。
  3. ^ イシドールスの『語源ごげん』ではカエサル自身じしん頭髪とうはつまれつきゆたかだった可能かのうせい言及げんきゅうしているが、成人せいじんのカエサルはむしろ薄毛うすげ揶揄やゆされることがおおかった。
  4. ^ 岩波いわなみ文庫ぶんこばんでは門閥もんばつ。こちらはラテン語らてんごではoptimatium、英語えいごではaristocracy
  5. ^ 翌年よくねんのプラエトルをめる選挙せんきょ当選とうせんしゃ
  6. ^ 死後しごではなく、後々あとあと大変たいへんなことになることがかっていない、とするかたもある[66]
  7. ^ 当時とうじのローマほうでは、ルビコンかわ以南いなんへのぐん侵入しんにゅうきんじられていた

出典しゅってん

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  1. ^ Broughton Vol.2, p. 187.
  2. ^ 発行はっこうじん児山こやま敬一けいいち人物じんぶつ学習がくしゅう辞典じてんかん オハ~サト』昭和しょうわ61ねん、19ぺーじ
  3. ^ Fasti Capitolini (Rome): ..../ [C(aius) Iulius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Caesar in perpetuum dict(ator)] / [rei gerundae causa](ガイウス・ユリウス・ガイウスの・ガイウスのまご・カエサル、永久えいきゅう独裁どくさいかん公務こうむのため)
  4. ^ リウィウス『ペリオカエ』116: 元老げんろういんによって「祖国そこくちち」の呼称こしょうとも独裁どくさいかん権限けんげん不可侵ふかしんけん付与ふよされたのち、、、
  5. ^ 鷲田わしだ(2020), pp. 82–83.
  6. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』1.16.5-7
  7. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』1.30.2
  8. ^ Taylor, p. 10.
  9. ^ a b c スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 6
  10. ^ Broughton Vol.1, p. 19.
  11. ^ だい7かん 9しょう 47せつhttps://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Pliny_the_Elder/7*.html
  12. ^ Cesarean Section - A Brief History”. 2021ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  13. ^ Historia Augusta. Helius 2:3. https://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Historia_Augusta/Aelius*.html 
  14. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 88ほか
  15. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』スッラ、6
  16. ^ Taylor, p. 11.
  17. ^ 砂田すなだ(2018), pp. 16–18.
  18. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』スッラ、7-9
  19. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』スッラ、10
  20. ^ 砂田すなだ(2018), pp. 23–27.
  21. ^ リウィウス『ペリオカエ』80.6
  22. ^ Broughton Vol.2, p. 53.
  23. ^ 砂田すなだ(2018), pp. 27–31.
  24. ^ a b スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 1
  25. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル、1.1
  26. ^ Taylor, pp. 11–12.
  27. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』スッラ、24-33
  28. ^ 砂田すなだ(2018), p. 34.
  29. ^ Broughton Vol.2, p. 78.
  30. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 2
  31. ^ Taylor, pp. 12–13.
  32. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 49
  33. ^ a b スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 77
  34. ^ Broughton Vol.2, p. 85.
  35. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 3
  36. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル、4.1
  37. ^ 柴田しばた J, 6.
  38. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル、3.1
  39. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 4
  40. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル、3.2-4
  41. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル 2
  42. ^ Broughton Vol.2, p. 113.
  43. ^ Broughton Vol.2, p. 125.
  44. ^ a b Broughton Vol.2, p. 126.
  45. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 5
  46. ^ プルタルコス『英雄えいゆうでん』カエサル 5
  47. ^ Broughton Vol.2, pp. 126–127.
  48. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 7
  49. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 8
  50. ^ Broughton Vol.2, p. 157.
  51. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 9
  52. ^ Broughton Vol.2, p. 158.
  53. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 10
  54. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 11
  55. ^ a b Broughton Vol.2, p. 171.
  56. ^ カッシウス・ディオ『ローマ』37.27
  57. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 11ほか
  58. ^ a b スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 13
  59. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル 7
  60. ^ ハビヒト, p. 48.
  61. ^ ハビヒト, pp. 46–47.
  62. ^ ハビヒト, pp. 48–50.
  63. ^ ハビヒト, pp. 50–51.
  64. ^ ハビヒト, pp. 51–53.
  65. ^ a b サッルスティウス, 51.
  66. ^ ごうざか鷲田わしだ, p. 113.
  67. ^ サッルスティウス, 52.
  68. ^ 鷲田わしだ(2006), p. 81.
  69. ^ プルタルコス英雄えいゆうでんしょうカト、24
  70. ^ ハビヒト, p. 53.
  71. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 14
  72. ^ a b プルタルコス英雄えいゆうでん」カエサル 12
  73. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル 11
  74. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 32
  75. ^ カエサル「内乱ないらん」3.1
  76. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル61
  77. ^ 明石あかし和康かずやす『ヨーロッパがわかる 起源きげんから統合とうごうへのみちのり』岩波書店いわなみしょてん、2013ねん、9ぺーじISBN 978-4-00-500761-5 
  78. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル63
  79. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル66
  80. ^ シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」だい3まく だい1じょう
  81. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 82
  82. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 50
  83. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 83
  84. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 87
  85. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 40
  86. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」クラッスス 7
  87. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 54
  88. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル 35
  89. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 45
  90. ^ 鷲田わしだ(2006), pp. 81–82.
  91. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル10
  92. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カエサル 51
  93. ^ Gray-Fow, p. 43.
  94. ^ 井上いのうえ幸治こうじ やく『ローマ盛衰せいすい原因げんいんろん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこうクラシックス〉、2008ねん、85ぺーじ 
  95. ^ スエトニウス『皇帝こうていでん』カエサル 79
  96. ^ プルタルコス「英雄えいゆうでん」カエサル60
  97. ^ 『ノーベルしょう文学ぶんがく全集ぜんしゅう21』 モムゼン、長谷川はせがわ博隆ひろたか わけ「ローマしょう」113
  98. ^ 比佐ひさ, pp. 163–164.
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  100. ^ 砂田すなだ(2018), p. 4.
  101. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい 1981, p. 27.
  102. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい 1981, p. 24.
  103. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい へん巻末かんまつ」『じゅう日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、1981ねん11月。 
  104. ^ 大江おおえ慎一郎しんいちろう」『Wikipedia』2019ねん9がつ12にち 
  105. ^ worldchain_PRのツイート(821281009320820736)

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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