(Translated by https://www.hiragana.jp/)
クリミア半島 - Wikipedia

クリミア半島くりみあはんとう

ヨーロッパの半島はんとう

クリミア半島くりみあはんとう(クリミアはんとう)、またはたんクリミア英語えいご: Crimea, ロシア: Крым, ウクライナ: Крим, クリミア・タタール: Къырым)は、黒海こっかい北岸ほくがんにある半島はんとう面積めんせき26,844 km2[1][2]、2014ねん1がつ1にち時点じてん人口じんこうは235まん3100にん[3]

クリミア半島くりみあはんとう

クリミア半島くりみあはんとう衛星えいせい写真しゃしん
座標ざひょう 北緯ほくい4518ふん 東経とうけい3424ふん / 北緯ほくい45.3 東経とうけい34.4 / 45.3; 34.4座標ざひょう: 北緯ほくい4518ふん 東経とうけい3424ふん / 北緯ほくい45.3 東経とうけい34.4 / 45.3; 34.4
面積めんせき 26,844 km2
最高さいこう標高ひょうこう 1,545 m
最高峰さいこうほう ロマン・コーシュさん
最大さいだい都市とし セヴァストポリ
所在しょざい海域かいいき 黒海こっかいアゾフうみ
所属しょぞく大陸たいりくしま ユーラシア大陸たいりく
所属しょぞくこく地域ちいき

帰属きぞく係争けいそうちゅう



テンプレートを表示ひょうじ

名称めいしょう

編集へんしゅう

半島はんとう」という単語たんごもちいてクリミア半島くりみあはんとう場合ばあいと、たんにクリミアと場合ばあいがある。

クリミア半島くりみあはんとうは、英語えいごCrimean Peninsula、ロシアКрымский полуостров、ウクライナКримський півострів、クリミア・タタールキリル文字もじ表記ひょうきКъырым ярымадасыおなじくラテン文字もじ表記ひょうきQırım yarımadası

クリミアは、英語えいごCrimea、ロシアКрым、ウクライナКрим、クリミア・タタールキリル文字もじ表記ひょうきКъырымおなじくラテン文字もじ表記ひょうきQırım

日本語にほんご一般いっぱんてき名称めいしょうとなっている「クリミア」は英語えいごCrimea[kɹaɪˈmiːə] クライミア)に由来ゆらいする。

このほか、ロシアКрым[krɨm] クルィム)またはウクライナКрим[krɪm] クルィム)のカタカナ表記ひょうきからクルィム、ロシア日本語にほんご表記ひょうき異形いぎょうまたはドイツKrim[kʀɪm] クリム)からクリムぶこともある。

これらのヨーロッパしょ言語げんごもとづく名称めいしょうは、クリミア・タタールふくテュルク諸語しょごによるふるくからの名称めいしょう قريم / Qïrïm / Qırım / Къырым[qɯˈrɯm] クルム)に由来ゆらいする。クルムは、もともとはジョチ・ウルス時代じだいクリミア半島くりみあはんとう中心ちゅうしん都市とし現在げんざいスタリ・クリムロシアばん)の名称めいしょうで、オスマン帝国ていこくクリミア・ハンこく支配しはいしていた時代じだい半島はんとう全体ぜんたい名称めいしょうとなった[4]。クルムの語源ごげんたしかではなく、テュルクで「おか」、「尾根おね」、「やまいただき」などを意味いみした“*Kɨr”[5]という単語たんごにあてるせつ[6]黒海こっかい北岸ほくがん古代こだい地名ちめいである「キンメリア」と関係かんけいあるとするせつ[7]などがある。

ヨーロッパでは、ふるくはギリシア地名ちめいΤαυρική(タウリケ)に由来ゆらいするタウリカ、タウリスとばれていた。この名前なまえ古代こだいクリミア半島くりみあはんとう居住きょじゅうしていたスキタイ=キンメリアけい民族みんぞくタウロイ由来ゆらいする。ストラボンプトレマイオスは、現在げんざいケルチ海峡かいきょうを「ボスポロス・キンメリオス」(キンメリア海峡かいきょう)、タウリカの中心ちゅうしん都市としを「キンメリウム」、半島はんとうそのものまたさいひがしはしみさきのことを「プロモントリウム・キンメリウム」(キンメリアみさき)とキンメリアじん関連かんれんづけてんでいる[8]

英語えいごでのクリミア系統けいとう名称めいしょう用例ようれいは、18世紀せいきにクリミア・ハンこくしてクリム・タルタリー(Crim Tartary)としたものがある[9]英語えいごのCrimeaのつづりはイタリアすくなくとも17世紀せいきにはこの名称めいしょう使用しようされていた[10]。)由来ゆらいで1780年代ねんだい使つかわれ[11]、19世紀せいきつうじて英語えいご伝統でんとうてき名称めいしょうであったタウリカやタウリスにわった。

ロシアでは、いにしえめいであるタウリカが、18世紀せいきまつロシア帝国ていこく併合へいごうしたクリミア半島くりみあはんとうタヴリダしゅう設置せっちしたことで復活ふっかつしている[12]。 タヴリダの地名ちめいソ連それん以降いこう公式こうしき行政ぎょうせい地名ちめいとしてはもちいられていないが、クリミア半島くりみあはんとう所在しょざいする機関きかん団体だんたい名称めいしょうもちいられることがあり、タヴリダ国立こくりつ大学だいがくSCタフリヤ・シンフェロポリなどがある。

 
ギリシアじん植民しょくみん都市としケルソネソス遺跡いせき
 
ツバメのヤルタ)。帝政ていせい末期まっきの1912ねん建設けんせつされたクリミアのランドマーク

古代こだいにはキンメリアじんスキタイじん居住きょじゅうであるとともに、ギリシアじん植民しょくみん都市とし建設けんせつされた。この時代じだい主要しゅよう都市としであるケルソネソス現在げんざいセヴァストポリ近郊きんこうにあった。

そのローマじんゴートじんフンじんブルガールじんハザールじんキエフ大公たいこうこくビザンティン帝国ていこくキプチャクじんなどによる支配しはいけた。13世紀せいきにはモンゴルの征服せいふくけてモンゴル帝国ていこくぶんえだであるジョチ・ウルス支配しはいはいり、沿岸えんがん一部いちぶヴェネツィアジェノヴァ統治とうちにおかれた。

1443ねんから1783ねんまで、ジョチ・ウルスの継承けいしょう政権せいけんであるクリミア・ハンこくオスマン帝国ていこく属国ぞっこくとなって存続そんぞくした。1783ねんロシア帝国ていこくエカチェリーナ2せいクリミア・ハンこく併合へいごうした[13]。1853ねんから1856ねんにかけてはフランスイギリス、オスマン帝国ていこくおよびサルデーニャ王国おうこく同盟どうめいぐんとロシア帝国ていこく激突げきとつしたクリミア戦争せんそう主要しゅよう戦場せんじょうとなった。

なおクリミア・ハンこく住民じゅうみんは8世紀せいきごろクリミア半島くりみあはんとう流入りゅうにゅうしたテュルクけいムスリム住民じゅうみん起源きげんとするクリミア・タタールじんであった。

1917ねんはじまるロシア内戦ないせんでは、クリミアはしろぐんはん革命かくめいがわ)に占拠せんきょされていた。しろぐん赤軍せきぐんによって駆逐くちくされたのち、クリミアはソビエト連邦れんぽう一部いちぶとなり、1921ねんクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくかれた。だい世界せかい大戦たいせんでは、どくせんにおいてすうねんにわたってナチス・ドイツ占領せんりょうとなった。

クリミアのたたかい (1941ねん-1942ねん)ではクリミアタタールじんおおくが赤軍せきぐん参加さんかさせられたが、1944ねんにはスターリンによりクリミア・タタールじんたいどく協力きょうりょく嫌疑けんぎをかけられ、やく20まんにん中央ちゅうおうアジアやシベリア強制きょうせい移住いじゅう余儀よぎなくされ、その過程かてい住民じゅうみんおおくがいのちとした。この出来事できごとクリミア・タタールじん追放ついほう(Sürgün)として現在げんざいでもクリミア・タタールじんあいだひろ記憶きおくされている。

1954ねん、クリミアはロシア出身しゅっしん・ウクライナそだちのフルシチョフ指導しどうにより、ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくからウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくへとソ連それん構成こうせいこくあいだ移管いかんおこなわれた[14]。また1953ねんスターリン死後しご、1967ねんクリミア・タタールじんへの追放ついほう措置そち解除かいじょされ、クリミアへの帰還きかん運動うんどうはじめられた。

1991ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいにより独立どくりつしたウクライナぞくするクリミア自治じち共和きょうわこくとなった。同年どうねんソ連邦それんぽうないぜんクリミア・タタールじんから代議員だいぎいん選出せんしゅつされ、最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんであるクリミア・タタール民族みんぞく大会たいかいクルルタイ)が開催かいさいされ、クリミアへの帰還きかんけての努力どりょくすすめられた。クルルタイは常設じょうせつ機関きかんとしてクリミア・タタール民族みんぞく会議かいぎ(メジュリス)を設置せっちした。

2014ねんクリミア危機きき結果けっかクリミア半島くりみあはんとう帰属きぞくはウクライナとロシア連邦れんぽうとのあいだ現在げんざい係争けいそう状態じょうたいにある。ウクライナに所属しょぞくする自治じち共和きょうわこくとして自治じち拡大かくだいするかロシア連邦れんぽう編入へんにゅうされるかがわれた住民じゅうみん投票とうひょうで96.6%の住民じゅうみんがロシアへの編入へんにゅう支持しじし、これにもとづいてロシアはクリミア編入へんにゅうおこなった。

2014ねんクリミア住民じゅうみん投票とうひょう結果けっか、3月18にちロシアクリミア半島くりみあはんとう編入へんにゅう宣言せんげんし、クリミア共和きょうわこくセヴァストポリ連邦れんぽう自国じこく連邦れんぽう構成こうせい主体しゅたいとした。事実じじつじょう、ロシアの実効じっこう支配しはいにあるが、ウクライナ政府せいふとうは、住民じゅうみん投票とうひょうおよびロシアによる編入へんにゅう非合法ひごうほうのものであったとして承認しょうにんせず、国際こくさい連合れんごう総会そうかい住民じゅうみん投票とうひょう無効むこうとする決議けつぎ賛成さんせい100かこく反対はんたい11かこく棄権きけん58かこく)で採択さいたくした[15]

国際こくさい社会しゃかいがロシアによる事実じじつじょう編入へんにゅう以降いこう法的ほうてき存続そんぞくしているとみなすウクライナりょうクリミア自治じち共和きょうわこくは1991ねん設立せつりつされた。1990年代ねんだいには一時期いちじき大統領だいとうりょうがいたこともあったが、そのはウクライナ中央ちゅうおう政府せいふ派遣はけんする大統領だいとうりょう特別とくべつ代表だいひょうしたに、議院ぎいんないかくせい採用さいようしていた。立法府りっぽうふは100議席ぎせきのクリミア自治じち共和きょうわ最高さいこう会議かいぎで、ウクライナ実効じっこう支配しはい最後さいごおこなわれた2010ねん選挙せんきょではクリミア住民じゅうみん大半たいはんめるロシアじんなどのロシア話者わしゃ支持しじ基盤きばんとした地域ちいきとうが50選挙せんきょのうちの48勝利しょうりした[16]。クリミアにおけるウクライナ大統領だいとうりょう特別とくべつ代表だいひょうは、2014ねん5がつ22にちよりナタリア・ポポビッチつとめている[17]

政府せいふによる公式こうしき統治とうち機構きこうべつに、クリミア・タタールじん民族みんぞく自治じち機関きかんとしてクリミア・タタール民族みんぞく会議かいぎ(メジュリス)が活動かつどうしている[18]

行政ぎょうせい区分くぶん

編集へんしゅう
 
クリミア自治じち共和きょうわこく/クリミア共和きょうわこく黄色おうしょく)とセヴァストポリ特別とくべつ/セヴァストポリ連邦れんぽう(ピンク)

ウクライナりょうとしてはクリミア自治じち共和きょうわこくセヴァストポリ特別とくべつ、ロシアりょうとしてはクリミア共和きょうわこくとセヴァストポリ連邦れんぽうかれる。

クリミア自治じち共和きょうわこく単一たんいつ国家こっかであるウクライナでは唯一ゆいいつ自治じち共和きょうわこくであり、セヴァストポリはロシア海軍かいぐん黒海こっかい艦隊かんたい租借そしゃくする基地きちがあるという重要じゅうようせいから自治じち共和きょうわこく管轄かんかつがいでウクライナ中央ちゅうおう直属ちょくぞくする特別とくべつとなっている。ロシアはクリミア自治じち共和きょうわこくクリミア共和きょうわこくとして編入へんにゅうし、セヴァストポリは都市とし単独たんどくしゅう共和きょうわこく対等たいとう連邦れんぽう構成こうせい主体しゅたいである連邦れんぽうとした。ロシアはクリミア半島くりみあはんとう連邦れんぽう構成こうせい主体しゅたい管轄かんかつさせるため、クリミア連邦れんぽう管区かんく設置せっちし、その南部なんぶ連邦れんぽう管区かんく吸収きゅうしゅう合併がっぺいさせた。

クリミア自治じち共和きょうわこく/クリミア共和きょうわこくは14ぐんと11の基礎きそ自治体じちたいからなり、セヴァストポリは5かれている。

 
腐海ふかい(スィヴァーシュ)とペレコープ地峡ちきょうピンク色ぴんくいろにごった海域かいいき西側にしがわ

クリミア半島くりみあはんとう位置いちは、北緯ほくい4423ふん-4423ふんやく322km)、東経とうけい3230ふん-3230ふんやく177km)。面積めんせきは2まん6844km2で、日本にっぽん列島れっとう比較ひかくすると四国しこくよりおおきく、九州きゅうしゅうよりちいさい。

北部ほくぶはば5-8kmのペレコープ地峡ちきょうによってユーラシア大陸たいりくウクライナヘルソンしゅう)とつながっている。ペレコープ地峡ちきょうひがしは、アゾフうみにかけてきわめてあさ干潟ひがたのような腐海ふかい(スィヴァーシュ)とばれるかたひろがり、大陸たいりくがわからしたチョンガル半島はんとう英語えいごばんとのあいだあさせまチョンガル海峡かいきょう英語えいごばんにも自動車じどうしゃ鉄道てつどうわたれるみじかはし接続せつぞくしている。クリミアのひがしはしケルチ半島はんとう英語えいごばんばれる細長ほそなが陸地りくちで、さいせまはばが3.1kmほどのケルチ海峡かいきょうはさんでロシアクラスノダール地方ちほうからびるタマン半島はんとうかいっている。ロシアによるクリミア半島くりみあはんとう事実じじつじょう編入へんにゅうにはクリミア大橋おおはし開通かいつうした[19]

全体ぜんたいてき地形ちけいは、北部ほくぶ中部ちゅうぶステップと、南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたい、および沿岸えんがんかれる。

海岸かいがん浸食しんしょくされておおくの形成けいせいしている。ペレコープ地峡ちきょう西側にしがわには複数ふくすうみなとつカーキニットわんがある。カラミタわんのある南西なんせい海岸かいがんには、イェウパトーリヤセヴァストポリバラクラヴァみなとがあり、1854ねんクリミア戦争せんそうなどなんかの戦争せんそう激戦げきせんとなった。ケルチ海峡かいきょう北側きたがわには、アラバトわんまたはイエニカレわんがあり、おなじく南側みなみがわには、ジェノヴァ共和きょうわこくオスマン帝国ていこく黒海こっかい交易こうえき拠点きょてんとしたカッファみなとのあるフェオドシヤわん(カッファわん)がある。

南東なんとう海岸かいがんは、クリミア山脈さんみゃく(ヤイラ山地さんち)にそって、すぐ8-12kmのところにある。内陸ないりくにはもうひとつアルピンメドゥーの山々やまやまならんでいる。これらの山々やまやまは、ヘラクレス半島はんとうウクライナばんロシアばん英語えいごばん南西なんせい先端せんたんでは、黒海こっかい海底かいていから標高ひょうこう600から750mまで、きゅう勾配こうばいにそびえっている。そのフィオレンテみさきウクライナばんロシアばん頂上ちょうじょうには、ギリシャじんおんな司祭しさいイーピゲネイアつかえたアルテミス神殿しんでんがあったとかんがえられている。

半島はんとう中央ちゅうおうから北部ほくぶ山地さんちから北西ほくせい方向ほうこうになだらかに傾斜けいしゃし、ひがしヨーロッパ平原へいげんつらなるステップになっている。ステップは半島はんとうの75%をめ、古代こだいからロシア併合へいごうまで遊牧民ゆうぼくみん放牧ほうぼくおこなっていた地域ちいきで、古代こだいスキタイじんはか古墳こふん点在てんざいしている。

ヤイラ山地さんち背面はいめん風景ふうけいはまたちがったものになっていて、ほそ海岸かいがんせん山地さんち斜面しゃめんは、草木くさきおおわれている。ロシアのリビエラわれる場所ばしょが、サールィチみさきからフェオドシヤまでの南岸なんがんロシアばんである。そこには、フォロスロシアばん英語えいごばんアルプカウクライナばんロシアばん英語えいごばんヤルタグルスフウクライナばんロシアばんアルシタスダクウクライナばんロシアばん英語えいごばんフェオドシヤなど、なつ海水浴かいすいよくリゾートのきをつらねている。また、タタールじんむら遺跡いせきや、モスク、カトリックの修道院しゅうどういん数多かずおおくある。ロシアの皇族こうぞく貴族きぞくたちがよくおとずれた場所ばしょでもあり、古代こだいギリシアおもむきある遺跡いせきや、中世ちゅうせいてられた要塞ようさいなどもることができる観光かんこうである。

経済けいざい

編集へんしゅう
 
観光かんこうきゃくにぎわう海水浴かいすいよくじょう観光かんこうはクリミア経済けいざいにおける主要しゅよう産業さんぎょうとなっている。

工業こうぎょう地帯ちたいおもクリミア半島くりみあはんとう北部ほくぶ位置いちする。主要しゅよう工業こうぎょう都市としクリミア半島くりみあはんとうない各地かくちとウクライナの本土ほんど大陸たいりくがわむす鉄道てつどう結節けっせつてんとなっているジャンコイである。ほかの都市としクラスノペレコプスクアルミャンスクなどがある。クリミアにおける主要しゅよう工業こうぎょう分野ぶんやには食品しょくひん化学かがく機械きかい製造せいぞう金属きんぞく加工かこう、および燃料ねんりょう生産せいさんふくまれる[20]工業こうぎょう市場いちばの60%は食品しょくひん製造せいぞうぎょうめる。製造せいぞうぎょう企業きぎょうすうだい規模きぼなものが291しゃ小規模しょうきぼなものが1002しゃである[20]

農業のうぎょう穀物こくもつ野菜やさい園芸えんげいと、ウクライナワイン一種いっしゅとしてられ、とくヤルタマッサンドラさかんなブドウ果樹かじゅ栽培さいばいなどがおこなわれている。畜産ちくさん牧畜ぼくちく養鶏ようけい、畜羊などである[20]クリミア半島くりみあはんとうのその生産せいさんぶつにはしおうみしお)、むらがん石灰岩せっかいがん鉄鉱てっこうせきケルチ近郊きんこう採掘さいくつされる)がある[21]

このほか、クリミアは陸上りくじょうおよび海中かいちゅう両方りょうほうガスゆうする。これらはすべてウクライナのパイプラインに接続せつぞくされ、西側にしがわ石油せきゆ・ガス会社かいしゃによって開発かいはつされていた[22][23]陸上りくじょうのものはチェルノモルスクぐんジャンコイにあり、海中かいちゅうのものは西海にしうみそこ黒海こっかい北東ほくとう海底かいていアゾフうみにある[24]

交通こうつう

編集へんしゅう
 
シンフェロポリとヤルタをむすトロリーバス

クリミアの都市としむらあいだはバス路線ろせんによってむすばれている。トロリーバスでは世界せかい最長さいちょう路線ろせんがある[25]。この路線ろせんシンフェロポリ鉄道てつどうえきからクリミア山脈さんみゃくえてアルシタヤルタまでを3あいだむす全長ぜんちょうやく96キロメートルの山岳さんがくせんで、1959ねん開通かいつうした。

鉄道てつどうアルミャンスク-ケルチせんフェオドシヤ支線しせん接続せつぞく)と、メリトポリ-セヴァストポリせんイェウパトーリヤ支線しせん接続せつぞく)がある。りょう路線ろせん半島はんとう北部ほくぶジャンコイ交差こうさしたあと、アルミャンスクからペレコープ地峡ちきょうヘルソンしゅうへ、ジャンコイから腐海ふかいわたってザポーリジャしゅうのメリトポリへとウクライナ本土ほんどがわ接続せつぞくしている。また、イェウパトーリヤには市内しない近隣きんりんむらむす路面ろめん電車でんしゃがある。

海上かいじょう交通こうつうはヤルタ、フェオドシヤ、ケルチ、セヴァストポリ、チョルノモルスクとイェウパトーリヤがそれぞれむすばれている。

観光かんこう

編集へんしゅう

クリミアの保養ほようとしての開発かいはつは19世紀せいき後半こうはんはじまった。交通こうつうネットワークが整備せいびされ、ロシア帝国ていこく中央ちゅうおうからの観光かんこうきゃく増大ぞうだいした。20世紀せいき初頭しょとうには、離宮りきゅう別荘べっそう開発かいはつおこなわれた。これらは現存げんそんし、クリミアの主要しゅよう観光かんこうスポットとなっている。

観光かんこう開発かいはつつぎ段階だんかいは、空気くうきみずうみ環境かんきょう療養りょうよう効果こうかみとめたソビエト政府せいふ政策せいさくによりはじめられた。ソ連それん労働ろうどうしゃにとってクリミアは「健康けんこう改善かいぜん」のための療養りょうようとなり、すうおおくのソ連それん人民じんみんがクリミアをおとずれた。

1990年代ねんだいには、クリミアは「健康けんこう改善かいぜん」のためというよりもリゾートのための保養ほようとなった。おおくの観光かんこうきゃくおとずれるのは南部なんぶ海岸かいがんヤルタアルシタ西部せいぶ海岸かいがんイェウパトーリヤサーキひがし南部なんぶ海岸かいがんフェオドシヤスダクである。ナショナルジオグラフィックによると、クリミアは2013ねんぜん世界せかい観光かんこうトップ20のひとつである[26]

住民じゅうみん

編集へんしゅう

2014ねん1がつ1にち時点じてん人口じんこうは235まん3100にん[3]で、2001ねんウクライナ国勢調査こくせいちょうさ報告ほうこくされた237まん6151にんからわずかに減少げんしょうしている[27]。このうちやく200まんにんクリミア自治じち共和きょうわこくやく35まんにんセヴァストポリ特別とくべつ居住きょじゅうする。

 
正教会せいきょうかい聖堂せいどう
 
スタールイ・クルイムのウズベク・ハン・モスク

人口じんこうめる民族みんぞく割合わりあいは、2001ねん調査ちょうさにおいて、調査ちょうさ対象たいしょうしゃ自己じこ申告しんこくした民族みんぞくせきによると以下いかのとおりである[28]

ロシアじん
  
1,450,000にん(58.5%)
ウクライナじん
  
577,000にん(24.0%)
クリミア・タタールじん
  
245,000にん(10.2%)
ベラルーシじん
  
35,000にん01.4%)
タタールじん
  
13,500にん00.5%)
アルメニアじん
  
10,000にん00.4%)
ユダヤじん
  
5,500にん00.2%)

人口じんこう変遷へんせん

編集へんしゅう

クリミアの民族みんぞく構成こうせいは20世紀せいき前半ぜんはん劇的げきてき民族みんぞく移動いどうこった結果けっか産物さんぶつである。1783ねんのロシア併合へいごう以前いぜん住民じゅうみんイスラム教いすらむきょうスンナ信仰しんこうするクリミア・タタールじん多数たすうで、そのほかに正教会せいきょうかい信徒しんとのギリシャじん言語げんごてきクリミアゴートはなしたゴートじんクリミアタタールはなしたウルムじんふくむ)、アルメニア使徒しと教会きょうかいのアルメニアじんと、ユダヤきょうしんじるユダヤじんがおり、併合へいごうにロシアじんやウクライナじんなどのひがしスラブけい民族みんぞく入植にゅうしょくした。1879ねんクリミア半島くりみあはんとうふく地域ちいき管轄かんかつしたロシア帝国ていこくタヴリダけんおこなわれた調査ちょうさによると、当時とうじ人口じんこうはクリミア・タタールじんが194,294にん (35.55%) 、ロシアじんが180,963にん (33.11%)、ウクライナじんが64,703 (11.84%)であった[29]

民族みんぞく 1897ねん[29] 1926ねん[30]:184 1939ねん[31] 1989ねん[28] 2001ねん[28]
人口じんこう 割合わりあい 人口じんこう 割合わりあい 人口じんこう 割合わりあい 人口じんこう 割合わりあい 人口じんこう 割合わりあい
そう人口じんこう 546,592にん 100.0% 713,823にん 100.0% 1,126,429にん 100.0% 100.0% 2,033,700にん 100.0%
ロシアじん 180,963にん 33.1% 301,398にん 42.2% 558,481にん 49.6% 65.6% 1,180,441にん 58.5%
ウクライナじん 64,703にん 11.8% 77,405にん 10.8% 154,123にん 13.7% 26.7% 492,227にん 24.4%
クリミア・タタールじん 194,294にん 35.6% 179,094にん 25.1% 218,879にん 19.4% 1.9% 243,433にん 12.1%
その民族みんぞく 106,632にん 19.5% 155,926にん 21.9% 194,946にん 17.3% 5.8% 117,599にん 5%

(1989ねんと2001ねん数値すうちはセヴァストポリ特別とくべつのぞく。)

クリミア・タタールじんは、2001ねん国勢調査こくせいちょうさではクリミア自治じち共和きょうわこくの12.1%、クリミア半島くりみあはんとう全域ぜんいきの10.2%をめるにぎないが[32]クリミア・ハンこく成立せいりつした中世ちゅうせい後期こうき以降いこうクリミア半島くりみあはんとうないキプチャクけいノガイぞく遊牧民ゆうぼくみんオグズけいトルコ民族みんぞく南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたい海岸かいがんもとキリスト教徒きりすときょうとしょ民族みんぞく子孫しそん混交こんこうして形成けいせいされた土着どちゃく民族みんぞくである[33]:74。1944ねんヨシフ・スターリン政策せいさく中央ちゅうおうアジア強制きょうせい移住いじゅうさせられ、ソ連それん末期まっきの1980年代ねんだいまつからクリミア半島くりみあはんとう帰還きかんはじめた[34]

クリミア半島くりみあはんとうのユダヤじんは、歴史れきしてきにはラビ信仰しんこうテュルク諸語しょごクリムチャク使用しようしたクリムチャクじんカライ信仰しんこうしクリムチャクとはことなるテュルク諸語しょごカライム使用しようしたクリミア・カライムじんからなる。1879ねんのタヴリダけん人口じんこう調査ちょうさによると、ラビのユダヤじんは4.20%、カライムじんは0.43%であった。1939ねん時点じてんやく6まん5000にんいたユダヤじん(クリムチャクじんふくみ、カライムじんふくまない)はだい世界せかい大戦たいせんちゅうのナチス・ドイツによる占領せんりょうで、ホロコースト犠牲ぎせいになっている。

クリミア・ドイツじん英語えいごばんも1939ねん時点じてんで6まんにんいたが、だい大戦たいせんどくせんはじまると、スターリンの命令めいれい追放ついほうされた[35][36][37]少数しょうすうソ連それん崩壊ほうかい帰還きかんしており、2001ねん国勢調査こくせいちょうさによるとやく2500にん(0.1%)のドイツじんがクリミアに居住きょじゅうしている。クリミア・タタールじん、ドイツじんのほか、スターリンは1944ねんに2まんにんギリシャじんと1まん4000にんブルガリアじん追放ついほうした[38]一連いちれん民族みんぞく移動いどう結果けっかだい世界せかい大戦たいせんにはロシアじん、ウクライナじん、ベラルーシじんひがしスラブけい民族みんぞく以外いがい規模きぼおおきい民族みんぞくクリミア半島くりみあはんとうから激減げきげんして現在げんざいいたっている。

 
ロシア話者わしゃのウクライナの地域ちいきべつ分布ぶんぷ(2001ねん国勢調査こくせいちょうさ

2001ねん国勢調査こくせいちょうさによると、クリミア自治じち共和きょうわこく住民じゅうみんの77%がロシア母語ぼごとしており、自分じぶん自身じしん民族みんぞくてきにロシアじんとみなさないウクライナじんなどのあいだでもひろくロシアはなされている。クリミア半島くりみあはんとうはウクライナのなかでもロシア日常にちじょうてきはなひと割合わりあいとくたかかった地域ちいきで、2014ねんウクライナ騒乱そうらんしんロシア政権せいけんとされるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権せいけん崩壊ほうかいした直後ちょくごに、暫定ざんてい政権せいけんがウクライナ以外いがい少数しょうすう言語げんご地域ちいき公用こうようとすることをみとめる法律ほうりつ廃止はいししたさいにクリミアではつよ反発はんぱつこった[39]

2001ねん時点じてんで、クリミア・タタールじんは93%と非常ひじょうたか割合わりあいクリミア・タタール母語ぼご申告しんこくしており、クリミア・タタール話者わしゃ人口じんこう自治じち共和きょうわこく全体ぜんたいの11.4%である。ウクライナ母語ぼごとすると申告しんこくしたひとは10.1%で、民族みんぞくとしてはウクライナじん申告しんこくしたひとなかでも半分はんぶん以下いか(40.4%)にぎない[40]

宗教しゅうきょう

編集へんしゅう

クリミアはキリスト教きりすときょう受容じゅようはやくにすすみ、沿岸えんがんギリシャじん山岳さんがく地帯ちたいゴートじん正教会せいきょうかい信仰しんこうしていた。8世紀せいきのゴート主教しゅきょうイオアンニスがよくられている。988ねんキエフ大公たいこうこくウラジーミル1せいクリミア半島くりみあはんとうのギリシャじん都市としケルソネソス現在げんざいセヴァストポリ)でキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした。中部ちゅうぶ北部ほくぶステップでは、ハザールユダヤきょう信仰しんこうしていた時代じだいもあったが、13世紀せいきクリミア半島くりみあはんとう支配しはいしゃとなったジョチ・ウルスイスラム教いすらむきょう受容じゅようした。スタールイ・クルイムには支配しはい部族ぶぞくをイスラムに集団しゅうだん改宗かいしゅうさせたことでられるウズベク・ハンが1314ねん建立こんりゅうしたモスクがある[41]

オスマン帝国ていこく支配しはいクリミア・ハンこく時代じだいクリミア半島くりみあはんとうではイスラム教いすらむきょう浸透しんとうしていたが、1783ねんのロシア帝国ていこく併合へいごう以降いこうひがしスラブけい正教会せいきょうかいふたた優勢ゆうせいとなった。現在げんざいぜん人口じんこうの10%ほどのクリミア・タタールじんだい部分ぶぶんがイスラム教徒きょうと(おおくはスンナ)である。クリムチャクじんクリミア・カライムじんといったクリミアに定着ていちゃくしたユダヤじんはクリミア・タタール相互そうご理解りかいせいのある言語げんご使つかう。80%以上いじょうめるひがしスラブけい民族みんぞくロシア正教会せいきょうかいなどのキリスト教徒きりすときょうとまたは宗教しゅうきょうである。

 
バフチサライのいずみとプーシキン(グリゴリー・チェルネツォフロシアばん

クリミア半島くりみあはんとうには古代こだいギリシア、ローマ以来いらい遺跡いせき数多かずおおくある。クリミア・ハンこく時代じだい遺跡いせきは、旧都きゅうとバフチサライ現存げんそんするハン宮殿きゅうでん(ハンサライ)がられる。

また、ロシア帝国ていこく時代じだいつくられた建物たてもの現存げんそんしており、そのなか代表だいひょうてきなものはマサンドラ宮殿きゅうでんウクライナばんロシアばん英語えいごばんがある。この宮殿きゅうでん19世紀せいきもうけられており現在げんざいアルプキン歴史れきし保護ほごウクライナばん一部いちぶもんとして管轄かんかつされている。

ロシアへの併合へいごう以降いこう、クリミアはロシアや周辺しゅうへん地域ちいきロマンおおきな影響えいきょうあたえた。ロシア詩人しじんアレクサンドル・プーシキンは、1820ねんにバフチサライの宮殿きゅうでん訪問ほうもんし、代表だいひょうさくのひとつ「バフチサライのいずみ」の着想ちゃくそうた。ポーランド詩人しじんアダム・ミツキェヴィチにとっては、連作れんさく「クリミアのソネット」の背景はいけいとなった。クリミアを旅行りょこうしたさい詩情しじょうめた18連作れんさくのソネットは、祖国そこくわれた絶望ぜつぼう東方とうほう文化ぶんか自然しぜんのロマン主義しゅぎてき叙述じょじゅつ表現ひょうげんしている。レフ・トルストイアントン・チェーホフらも一時期いちじきクリミアに滞在たいざいし、作品さくひん執筆しっぴつしている。

クリミア出身しゅっしん芸術げいじゅつとしては、イヴァン・アイヴァゾフスキー著名ちょめいである。アイヴァゾフスキーは19世紀せいきフェオドシヤアルメニアじん家系かけいまれ、生涯しょうがいのほとんどをクリミアでごした。存命ぞんめいちゅうからうみをモチーフにした作品さくひん発表はっぴょうする海洋かいよう画家がかとして非常ひじょう高名こうみょうで、かれ作品さくひんおおくは黒海こっかいえがいている。クリミア戦争せんそうなかには戦闘せんとうについての作品さくひんえがいたこともられる[42]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ http://w1.c1.rada.gov.ua/pls/z7502/A005?rdat1=02.03.2014&rf7571=2
  2. ^ http://w1.c1.rada.gov.ua/pls/z7502/A005?rdat1=02.03.2014&rf7571=41624
  3. ^ a b "Population as of January 1, 2014. Average annual populations 2013" (英語えいご). State Statistics Service of Ukraine. 2014ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ Vasily Radlov|W. Radloff, Versuch eines Wörterbuches der Türk-Dialecte (1888), ii. 745
  5. ^ http://starling.rinet.ru/cgi-bin/response.cgi?single=1&basename=%2fdata%2falt%2fturcet&text_number=1013&root=config&encoding=utf-eng
  6. ^ Sergei Starostin, Vladimir Dybo, Oleg Mudrak (2003), Etymological Dictionary of the Altaic Languages, Leiden: Brill Academic Publishers. Other suggestions include Greek or Mongol etymologies (Adrian Room, Placenames of the World, 2003, p. 96
  7. ^ Asimov, Isaac (1991). Asimov's Chronology of the World. New York: HarperCollins. pp. 50 
  8. ^ An universal history, from the earliest accounts to the present time, vol. 9 (1779), p. 127.
  9. ^ Edward Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman Empire, Volume 1, 306f. "the peninsula of Crim Tartary, known to the ancients under the name of Chersonesus Taurica"; ibid. Volume 10 (1788), p. 211: "The modern reader must not confound this old Cherson of the Tauric or Crimean peninsula with Kherson|a new city of the same name". see also John Millhouse, English-Italian (1859), p. 597
  10. ^ Maiolino Bisaccioni, Giacomo Pecini, Historia delle guerre ciuili di questi vltimi tempi, cioe, d'Inghilterra, Catalogna, Portogallo, Palermo, Napoli, Fermo, Moldauia, Polonia, Suizzeri, Francia, Turco. per Francesco Storti. Alla Fortezza, sotto il portico de'Berettari, 1655, p. 349: "dalla fortuna de Cosacchi dipendeva la sicurazza della Crimea". Nicolò Beregani, Historia delle guerre d'Europa, Volume 2 (1683), p. 251.
  11. ^ J. Dodsley, The annual register or a view of the history, politics, and literature for the year 1783 (1785), p. 364.
  12. ^ Edith Hall, Adventures with Iphigenia in Tauris (2013), p. 176: "it was indeed at some point between the 1730s and the 1770s that the dream of recreating ancient 'Taurida' in the southern Crimea was conceived. Catherine's plan was to create a paradisiacal imperial 'garden' there, and her Greek archbishop ugenios Voulgaris obliged by inventing a new etymology for the old name of Tauris, deriving it from taphros, which (he claimed) was the ancient Greek for a ditch dug by human hands."
  13. ^ Khanate of Crimea” (英語えいご). Encyclopaedia Britannica. 2019ねん1がつ4にち閲覧えつらん
  14. ^ "Ukraine and the west: hot air and hypocrisy". The Guardian. March 10, 2014.
  15. ^ Backing Ukraine’s territorial integrity, UN Assembly declares Crimea referendum invalid”. UN News Centre (27 March 2014). 28 March 2014閲覧えつらん
  16. ^ Local government elections in Ukraine: last stage in the Party of Regions’ takeover of power, Centre for Eastern Studies (October 4, 2010)
  17. ^ Указ Президента України”. ヴェルホーヴナ・ラーダ (2014ねん5がつ22にち). 2017ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  18. ^ Ziad, Waleed; Laryssa Chomiak (February 20, 2007). “A lesson in stifling violent extremism”. CS Monitor. March 26, 2007閲覧えつらん
  19. ^ クリミア半島くりみあはんとう架橋かきょう. ロシアNOW. (2014ねん3がつ21にち). https://jp.rbth.com/business/2014/03/21/47637 2019ねん2がつ23にち閲覧えつらん 
  20. ^ a b c Autonomous Republic of Crimea – Information card”. Cabinet of Ministers of Ukraine. February 22, 2007閲覧えつらん
  21. ^ Bealby, John T. (1911). Encyclopædia Britannica Eleventh Edition. Cambridge University Press. p. 449 
  22. ^ Gloystein, Henning (2014ねん3がつ7にち). “Ukraine's Black Sea gas ambitions seen at risk over Crimea”. Reuters. http://www.reuters.com/article/2014/03/07/ukraine-crisis-gas-crimea-idUSL6N0M41R320140307 2014ねん3がつ7にち閲覧えつらん 
  23. ^ East European Gas Analysis - Ukrainian Gas Pipelines”. Eegas.com (2013ねん2がつ9にち). 2014ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  24. ^ “Ukraine crisis in maps”. BBC. (2014ねん3がつ5にち). http://www.bbc.com/news/world-europe-26387353 2014ねん3がつ7にち閲覧えつらん 
  25. ^ The longest trolleybus line in the world!”. blacksea-crimea.com. January 15, 2007閲覧えつらん
  26. ^ Best Trips 2013 Crimea, National Geographic Society
  27. ^ クリミア自治じち共和きょうわこく 2,033,700にん、セヴァストポリ特別とくべつ 342,451にんRegions of Ukraine / Autonomous Republic of Crimea”. 2001 Ukrainian Census. December 16, 2006閲覧えつらん
  28. ^ a b c クリミア自治じち共和きょうわこくとセヴァストポリ特別とくべつで5000にん以上いじょう記録きろくされた民族みんぞくのみ。Autonomous Republic of Crimea”. 2001 Ukrainian Census. 2014ねん3がつ24にち閲覧えつらん; Sevastopol”. 2001 Ukrainian Census. 2014ねん3がつ24にち閲覧えつらん
  29. ^ a b The First General Census of the Russian Empire of 1897. Breakdown of population by mother tongue and districts* in 50 Governorates of the European Russia”. 2014ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  30. ^ 山内やまうち昌之まさゆき瀕死ひんしのリヴァイアサン : ペレストロイカと民族みんぞく問題もんだい』TBSブリタニカ、1990ねんISBN 4-484-90202-8NCID BN04545756 
  31. ^ Всесоюзная перепись населения 1939 года. Национальный состав населения по регионам России”. 2014ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  32. ^ About number and composition population of AUTONOMOUS REPUBLIC OF CRIMEA by data All-Ukrainian population census', Ukrainian Census (2001)
  33. ^ 早坂はやさか真理まり『ウクライナ : 歴史れきし復元ふくげん模索もさくする』リブロポート、1994ねんISBN 4-8457-0973-2NCID BN11848882 
  34. ^ Pohl, J. Otto. The Stalinist Penal System: A Statistical History of Soviet Repression and Terror. Mc Farland & Company, Inc, Publishers. 1997. 23.
  35. ^ "The Deportation and Destruction of the German Minority in the USSR" (PDF)
  36. ^ "On Germans Living on the Territory of the Ukrainian SSR"
  37. ^ "NKVD Arrest List" (PDF)
  38. ^ "The Persecution of Pontic Greeks in the Soviet Union"
  39. ^ 緊迫きんぱくのクリミア・ルポ 「ロシア編入へんにゅうもとめる住民じゅうみん 「権利けんりまもるのはプーチンだけ」”. msn産経さんけいニュース. (2014ねん3がつ1にち). https://web.archive.org/web/20140301204301/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140301/erp14030108480008-n2.htm 2014ねん4がつ5にち閲覧えつらん 
  40. ^ Results / General results of the census / Linguistic composition of the population / Autonomous Republic of Crimea” (英語えいご). 2001 Ukrainian Census. 2019ねん1がつ4にち閲覧えつらん
  41. ^ Crimean Tatar Architecture”. International Committee for Crimea. 2014ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  42. ^ Rogachevsky, Alexander. “Ivan Aivazovsky (1817-1900)”. Tufts University. 10 December 2013閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう