「半島 はんとう 」という単語 たんご を用 もち いてクリミア半島 くりみあはんとう と呼 よ ぶ場合 ばあい と、単 たん にクリミアと呼 よ ぶ場合 ばあい がある。
クリミア半島 くりみあはんとう は、英語 えいご でCrimean Peninsula 、ロシア語 ご でКрымский полуостров 、ウクライナ語 ご でКримський півострів 、クリミア・タタール語 ご のキリル文字 もじ 表記 ひょうき でКъырым ярымадасы 、同 おな じくラテン文字 もじ 表記 ひょうき でQırım yarımadası 。
クリミア は、英語 えいご でCrimea 、ロシア語 ご でКрым 、ウクライナ語 ご でКрим 、クリミア・タタール語 ご のキリル文字 もじ 表記 ひょうき でКъырым 、同 おな じくラテン文字 もじ 表記 ひょうき でQırım 。
日本語 にほんご で一般 いっぱん 的 てき な名称 めいしょう となっている「クリミア」は英語 えいご のCrimea ([kɹaɪˈmiːə] クライミア )に由来 ゆらい する。
このほか、ロシア語 ご Крым ([krɨm] クルィム )またはウクライナ語 ご Крим ([krɪm] クルィム )のカタカナ表記 ひょうき からクルィム 、ロシア語 ご の日本語 にほんご 表記 ひょうき の異形 いぎょう またはドイツ語 ご のKrim ([kʀɪm] クリム )からクリム と呼 よ ぶこともある。
これらのヨーロッパ諸 しょ 言語 げんご に基 もと づく名称 めいしょう は、クリミア・タタール語 ご を含 ふく むテュルク諸語 しょご による古 ふる くからの名称 めいしょう قريم / Qïrïm / Qırım / Къырым ([qɯˈrɯm] クルム )に由来 ゆらい する。クルムは、もともとはジョチ・ウルス 時代 じだい のクリミア半島 くりみあはんとう の中心 ちゅうしん 都市 とし (現在 げんざい のスタリ・クリム (ロシア語 ご 版 ばん ) )の名称 めいしょう で、オスマン帝国 ていこく がクリミア・ハン国 こく を支配 しはい していた時代 じだい に半島 はんとう 全体 ぜんたい の名称 めいしょう となった[ 4] 。クルムの語源 ごげん は確 たし かではなく、古 こ テュルク語 ご で「丘 おか 」、「尾根 おね 」、「山 やま の頂 いただき 」などを意味 いみ した“*Kɨr”[ 5] という単語 たんご にあてる説 せつ [ 6] 、黒海 こっかい 北岸 ほくがん の古代 こだい 地名 ちめい である「キンメリア 」と関係 かんけい あるとする説 せつ [ 7] などがある。
ヨーロッパでは、古 ふる くはギリシア語 ご の地名 ちめい Ταυρική (タウリケ)に由来 ゆらい するタウリカ 、タウリスと呼 よ ばれていた。この名前 なまえ は古代 こだい にクリミア半島 くりみあはんとう に居住 きょじゅう していたスキタイ =キンメリア系 けい 民族 みんぞく のタウロイ に由来 ゆらい する。ストラボン とプトレマイオス は、現在 げんざい のケルチ海峡 かいきょう を「ボスポロス・キンメリオス」(キンメリア海峡 かいきょう )、タウリカの中心 ちゅうしん 都市 とし を「キンメリウム」、半島 はんとう そのもの又 また は最 さい 東 ひがし 端 はし の岬 みさき のことを「プロモントリウム・キンメリウム」(キンメリア岬 みさき )とキンメリア人 じん と関連 かんれん づけて呼 よ んでいる[ 8] 。
英語 えいご でのクリミア系統 けいとう の名称 めいしょう の用例 ようれい は、18世紀 せいき にクリミア・ハン国 こく を指 さ してクリム・タルタリー(Crim Tartary)としたものがある[ 9] 。英語 えいご のCrimeaのつづりはイタリア語 ご (少 すく なくとも17世紀 せいき にはこの名称 めいしょう が使用 しよう されていた[ 10] 。)由来 ゆらい で1780年代 ねんだい に使 つか われ[ 11] 、19世紀 せいき を通 つう じて英語 えいご の伝統 でんとう 的 てき な名称 めいしょう であったタウリカやタウリスに置 お き換 か わった。
ロシア語 ご では、古 いにしえ 名 めい であるタウリカが、18世紀 せいき 末 まつ にロシア帝国 ていこく が併合 へいごう したクリミア半島 くりみあはんとう にタヴリダ州 しゅう を設置 せっち したことで復活 ふっかつ している[ 12] 。
タヴリダの地名 ちめい はソ連 それん 以降 いこう 、公式 こうしき の行政 ぎょうせい 地名 ちめい としては用 もち いられていないが、クリミア半島 くりみあはんとう に所在 しょざい する機関 きかん や団体 だんたい の名称 めいしょう に用 もち いられることがあり、タヴリダ国立 こくりつ 大学 だいがく 、SCタフリヤ・シンフェロポリ などがある。
観光 かんこう 客 きゃく で賑 にぎ わう海水浴 かいすいよく 場 じょう 。観光 かんこう はクリミア経済 けいざい における主要 しゅよう 産業 さんぎょう となっている。
工業 こうぎょう 地帯 ちたい は主 おも にクリミア半島 くりみあはんとう の北部 ほくぶ に位置 いち する。主要 しゅよう な工業 こうぎょう 都市 とし はクリミア半島 くりみあはんとう 内 ない の各地 かくち とウクライナの本土 ほんど (大陸 たいりく )側 がわ を結 むす ぶ鉄道 てつどう の結節 けっせつ 点 てん となっているジャンコイ である。ほかの都市 とし にクラスノペレコプスク 、アルミャンスク などがある。クリミアにおける主要 しゅよう な工業 こうぎょう 分野 ぶんや には食品 しょくひん 、化学 かがく 、機械 きかい 製造 せいぞう 、金属 きんぞく 加工 かこう 、および燃料 ねんりょう 生産 せいさん が含 ふく まれる[ 20] 。工業 こうぎょう 市場 いちば の60%は食品 しょくひん 製造 せいぞう 業 ぎょう が占 し める。製造 せいぞう 業 ぎょう の企業 きぎょう 数 すう は大 だい 規模 きぼ なものが291社 しゃ 、小規模 しょうきぼ なものが1002社 しゃ である[ 20] 。
農業 のうぎょう は穀物 こくもつ 、野菜 やさい 、園芸 えんげい と、ウクライナワイン の一種 いっしゅ として知 し られ、特 とく にヤルタ やマッサンドラ で盛 さか んなブドウ果樹 かじゅ 栽培 さいばい などが行 おこな われている。畜産 ちくさん は牧畜 ぼくちく 、養鶏 ようけい 、畜羊などである[ 20] 。クリミア半島 くりみあはんとう のその他 た の生産 せいさん 物 ぶつ には塩 しお (海 うみ 塩 しお )、斑 むら 岩 がん 、石灰岩 せっかいがん 、鉄鉱 てっこう 石 せき (ケルチ 近郊 きんこう で採掘 さいくつ される)がある[ 21] 。
このほか、クリミアは陸上 りくじょう および海中 かいちゅう の両方 りょうほう にガス田 た を有 ゆう する。これらはすべてウクライナのパイプラインに接続 せつぞく され、西側 にしがわ の石油 せきゆ ・ガス会社 かいしゃ によって開発 かいはつ されていた[ 22] [ 23] 。陸上 りくじょう のものはチェルノモルスク郡 ぐん とジャンコイ にあり、海中 かいちゅう のものは西海 にしうみ 底 そこ の黒海 こっかい と北東 ほくとう 海底 かいてい のアゾフ海 うみ にある[ 24] 。
シンフェロポリとヤルタを結 むす ぶトロリーバス
クリミアの都市 とし ・村 むら の間 あいだ はバス路線 ろせん によって結 むす ばれている。トロリーバス では世界 せかい 最長 さいちょう の路線 ろせん がある[ 25] 。この路線 ろせん はシンフェロポリ の鉄道 てつどう 駅 えき からクリミア山脈 さんみゃく を超 こ えてアルシタ とヤルタ までを3時 じ 間 あいだ で結 むす ぶ全長 ぜんちょう 約 やく 96キロメートルの山岳 さんがく 線 せん で、1959年 ねん に開通 かいつう した。
鉄道 てつどう はアルミャンスク -ケルチ 線 せん (フェオドシヤ 支線 しせん に接続 せつぞく )と、メリトポリ -セヴァストポリ 線 せん (イェウパトーリヤ 支線 しせん に接続 せつぞく )がある。両 りょう 路線 ろせん は半島 はんとう 北部 ほくぶ のジャンコイ で交差 こうさ したあと、アルミャンスクからペレコープ地峡 ちきょう を経 へ てヘルソン州 しゅう へ、ジャンコイから腐海 ふかい を渡 わた ってザポーリジャ州 しゅう のメリトポリへとウクライナ本土 ほんど 側 がわ に接続 せつぞく している。また、イェウパトーリヤには市内 しない と近隣 きんりん の村 むら を結 むす ぶ路面 ろめん 電車 でんしゃ がある。
海上 かいじょう 交通 こうつう はヤルタ、フェオドシヤ、ケルチ、セヴァストポリ、チョルノモルスクとイェウパトーリヤがそれぞれ結 むす ばれている。
クリミアの保養 ほよう 地 ち としての開発 かいはつ は19世紀 せいき 後半 こうはん に始 はじ まった。交通 こうつう ネットワークが整備 せいび され、ロシア帝国 ていこく 中央 ちゅうおう からの観光 かんこう 客 きゃく が増大 ぞうだい した。20世紀 せいき 初頭 しょとう には、離宮 りきゅう や別荘 べっそう の開発 かいはつ が行 おこな われた。これらは現存 げんそん し、クリミアの主要 しゅよう な観光 かんこう スポットとなっている。
観光 かんこう 開発 かいはつ の次 つぎ の段階 だんかい は、空気 くうき や湖 みずうみ 、環境 かんきょう の療養 りょうよう 効果 こうか を認 みと めたソビエト政府 せいふ の政策 せいさく により始 はじ められた。ソ連 それん の労働 ろうどう 者 しゃ にとってクリミアは「健康 けんこう 改善 かいぜん 」のための療養 りょうよう 地 ち となり、数 すう 多 おお くのソ連 それん 人民 じんみん がクリミアを訪 おとず れた。
1990年代 ねんだい には、クリミアは「健康 けんこう 改善 かいぜん 」のためというよりもリゾートのための保養 ほよう 地 ち となった。多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく が訪 おとず れるのは南部 なんぶ 海岸 かいがん のヤルタ やアルシタ 、西部 せいぶ 海岸 かいがん のイェウパトーリヤ やサーキ 、東 ひがし 南部 なんぶ 海岸 かいがん のフェオドシヤ やスダク である。ナショナルジオグラフィック によると、クリミアは2013年 ねん の全 ぜん 世界 せかい の観光 かんこう 地 ち トップ20のひとつである[ 26] 。
2014年 ねん 1月 がつ 1日 にち 時点 じてん の人口 じんこう は235万 まん 3100人 にん [ 3] で、2001年 ねん ウクライナ国勢調査 こくせいちょうさ で報告 ほうこく された237万 まん 6151人 にん からわずかに減少 げんしょう している[ 27] 。このうち約 やく 200万 まん 人 にん がクリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 、約 やく 35万 まん 人 にん がセヴァストポリ 特別 とくべつ 市 し に居住 きょじゅう する。
正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう
スタールイ・クルイムのウズベク・ハン・モスク
人口 じんこう に占 し める民族 みんぞく の割合 わりあい は、2001年 ねん 調査 ちょうさ において、調査 ちょうさ 対象 たいしょう 者 しゃ が自己 じこ 申告 しんこく した民族 みんぞく 籍 せき によると以下 いか のとおりである[ 28] 。
クリミアの民族 みんぞく 構成 こうせい は20世紀 せいき 前半 ぜんはん に劇的 げきてき な民族 みんぞく 移動 いどう が起 お こった結果 けっか の産物 さんぶつ である。1783年 ねん のロシア併合 へいごう 以前 いぜん の住民 じゅうみん はイスラム教 いすらむきょう スンナ派 は を信仰 しんこう するクリミア・タタール人 じん が多数 たすう 派 は で、そのほかに正教会 せいきょうかい 信徒 しんと のギリシャ人 じん (言語 げんご 的 てき にクリミアゴート語 ご を話 はな したゴート人 じん やクリミアタタール語 ご を話 はな したウルム人 じん を含 ふく む)、アルメニア使徒 しと 教会 きょうかい のアルメニア人 じん と、ユダヤ教 きょう を信 しん じるユダヤ人 じん がおり、併合 へいごう 後 ご にロシア人 じん やウクライナ人 じん などの東 ひがし スラブ系 けい 民族 みんぞく が入植 にゅうしょく した。1879年 ねん にクリミア半島 くりみあはんとう を含 ふく む地域 ちいき を管轄 かんかつ したロシア帝国 ていこく のタヴリダ県 けん で行 おこな われた調査 ちょうさ によると、当時 とうじ の人口 じんこう はクリミア・タタール人 じん が194,294人 にん (35.55%) 、ロシア人 じん が180,963人 にん (33.11%)、ウクライナ人 じん が64,703 (11.84%)であった[ 29] 。
民族 みんぞく
1897年 ねん [ 29]
1926年 ねん [ 30] :184
1939年 ねん [ 31]
1989年 ねん [ 28]
2001年 ねん [ 28]
人口 じんこう
割合 わりあい
人口 じんこう
割合 わりあい
人口 じんこう
割合 わりあい
人口 じんこう
割合 わりあい
人口 じんこう
割合 わりあい
総 そう 人口 じんこう
546,592人 にん
100.0%
713,823人 にん
100.0%
1,126,429人 にん
100.0%
100.0%
2,033,700人 にん
100.0%
ロシア人 じん
180,963人 にん
33.1%
301,398人 にん
42.2%
558,481人 にん
49.6%
65.6%
1,180,441人 にん
58.5%
ウクライナ人 じん
64,703人 にん
11.8%
77,405人 にん
10.8%
154,123人 にん
13.7%
26.7%
492,227人 にん
24.4%
クリミア・タタール人 じん
194,294人 にん
35.6%
179,094人 にん
25.1%
218,879人 にん
19.4%
1.9%
243,433人 にん
12.1%
その他 た の民族 みんぞく
106,632人 にん
19.5%
155,926人 にん
21.9%
194,946人 にん
17.3%
5.8%
117,599人 にん
5%
(1989年 ねん と2001年 ねん の数値 すうち はセヴァストポリ特別 とくべつ 市 し を除 のぞ く。)
クリミア・タタール人 じん は、2001年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ ではクリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の12.1%、クリミア半島 くりみあはんとう 全域 ぜんいき の10.2%を占 し めるに過 す ぎないが[ 32] 、クリミア・ハン国 こく が成立 せいりつ した中世 ちゅうせい 後期 こうき 以降 いこう にクリミア半島 くりみあはんとう 内 ない でキプチャク 系 けい のノガイ族 ぞく の遊牧民 ゆうぼくみん とオグズ 系 けい のトルコ民族 みんぞく 、南部 なんぶ の山岳 さんがく 地帯 ちたい や海岸 かいがん 部 ぶ に住 す む元 もと キリスト教徒 きりすときょうと の諸 しょ 民族 みんぞく の子孫 しそん が混交 こんこう して形成 けいせい された土着 どちゃく の民族 みんぞく である[ 33] :74 。1944年 ねん にヨシフ・スターリン の政策 せいさく で中央 ちゅうおう アジア に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられ、ソ連 それん 末期 まっき の1980年代 ねんだい 末 まつ からクリミア半島 くりみあはんとう に帰還 きかん し始 はじ めた[ 34] 。
クリミア半島 くりみあはんとう のユダヤ人 じん は、歴史 れきし 的 てき にはラビ派 は を信仰 しんこう しテュルク諸語 しょご のクリムチャク語 ご を使用 しよう したクリムチャク人 じん とカライ派 は を信仰 しんこう しクリムチャク語 ご とは異 こと なるテュルク諸語 しょご のカライム語 ご を使用 しよう したクリミア・カライム人 じん からなる。1879年 ねん のタヴリダ県 けん の人口 じんこう 調査 ちょうさ によると、ラビ派 は のユダヤ人 じん は4.20%、カライム人 じん は0.43%であった。1939年 ねん の時点 じてん で約 やく 6万 まん 5000人 にん いたユダヤ人 じん (クリムチャク人 じん を含 ふく み、カライム人 じん は含 ふく まない)は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう のナチス・ドイツによる占領 せんりょう 下 か で、ホロコースト の犠牲 ぎせい になっている。
クリミア・ドイツ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) も1939年 ねん の時点 じてん で6万 まん 人 にん いたが、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん で独 どく ソ戦 せん が始 はじ まると、スターリンの命令 めいれい で追放 ついほう された[ 35] [ 36] [ 37] 。少数 しょうすう がソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご に帰還 きかん しており、2001年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によると約 やく 2500人 にん (0.1%)のドイツ人 じん がクリミアに居住 きょじゅう している。クリミア・タタール人 じん 、ドイツ人 じん のほか、スターリンは1944年 ねん に2万 まん 人 にん のギリシャ人 じん と1万 まん 4000人 にん のブルガリア人 じん も追放 ついほう した[ 38] 。一連 いちれん の民族 みんぞく 移動 いどう の結果 けっか 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にはロシア人 じん 、ウクライナ人 じん 、ベラルーシ人 じん の東 ひがし スラブ系 けい 民族 みんぞく 以外 いがい で規模 きぼ の大 おお きい民族 みんぞく はクリミア半島 くりみあはんとう から激減 げきげん して現在 げんざい に至 いた っている。
ロシア語 ご 話者 わしゃ のウクライナの地域 ちいき 別 べつ 分布 ぶんぷ 図 ず (2001年 ねん 国勢調査 こくせいちょうさ )
2001年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によると、クリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の住民 じゅうみん の77%がロシア語 ご を母語 ぼご としており、自分 じぶん 自身 じしん を民族 みんぞく 的 てき にロシア人 じん とみなさないウクライナ人 じん などの間 あいだ でも広 ひろ くロシア語 ご が話 はな されている。クリミア半島 くりみあはんとう はウクライナの中 なか でもロシア語 ご を日常 にちじょう 的 てき に話 はな す人 ひと の割合 わりあい が特 とく に高 たか かった地域 ちいき で、2014年 ねん ウクライナ騒乱 そうらん で親 しん ロシア派 は 政権 せいけん とされるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ 政権 せいけん が崩壊 ほうかい した直後 ちょくご に、暫定 ざんてい 政権 せいけん がウクライナ語 ご 以外 いがい の少数 しょうすう 言語 げんご を地域 ちいき 公用 こうよう 語 ご とすることを認 みと める法律 ほうりつ を廃止 はいし した際 さい にクリミアでは強 つよ い反発 はんぱつ が起 お こった[ 39] 。
2001年 ねん 時点 じてん で、クリミア・タタール人 じん は93%と非常 ひじょう に高 たか い割合 わりあい でクリミア・タタール語 ご を母語 ぼご と申告 しんこく しており、クリミア・タタール語 ご 話者 わしゃ の人口 じんこう は自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 全体 ぜんたい の11.4%である。ウクライナ語 ご を母語 ぼご とすると申告 しんこく した人 ひと は10.1%で、民族 みんぞく としてはウクライナ人 じん と申告 しんこく した人 ひと の中 なか でも半分 はんぶん 以下 いか (40.4%)に過 す ぎない[ 40] 。
クリミアはキリスト教 きりすときょう の受容 じゅよう が早 はや くに進 すす み、沿岸 えんがん 部 ぶ に住 す むギリシャ人 じん や山岳 さんがく 地帯 ちたい に住 す むゴート人 じん が正教会 せいきょうかい を信仰 しんこう していた。8世紀 せいき のゴート主教 しゅきょう イオアンニス がよく知 し られている。988年 ねん にキエフ大公 たいこう 国 こく のウラジーミル1世 せい はクリミア半島 くりみあはんとう のギリシャ人 じん 都市 とし ケルソネソス (現在 げんざい のセヴァストポリ )でキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう した。中部 ちゅうぶ ・北部 ほくぶ のステップ では、ハザール がユダヤ教 きょう を信仰 しんこう していた時代 じだい もあったが、13世紀 せいき にクリミア半島 くりみあはんとう の支配 しはい 者 しゃ となったジョチ・ウルス がイスラム教 いすらむきょう を受容 じゅよう した。スタールイ・クルイム には支配 しはい 下 か の部族 ぶぞく をイスラムに集団 しゅうだん 改宗 かいしゅう させたことで知 し られるウズベク・ハン が1314年 ねん に建立 こんりゅう したモスク がある[ 41] 。
オスマン帝国 ていこく 支配 しはい 下 か のクリミア・ハン国 こく 時代 じだい 、クリミア半島 くりみあはんとう ではイスラム教 いすらむきょう が浸透 しんとう していたが、1783年 ねん のロシア帝国 ていこく の併合 へいごう 以降 いこう は東 ひがし スラブ系 けい の正教会 せいきょうかい が再 ふたた び優勢 ゆうせい となった。現在 げんざい も全 ぜん 人口 じんこう の10%ほどのクリミア・タタール人 じん の大 だい 部分 ぶぶん がイスラム教徒 きょうと (多 おお くはスンナ派 は )である。クリムチャク人 じん やクリミア・カライム人 じん といったクリミアに定着 ていちゃく したユダヤ人 じん はクリミア・タタール語 ご と相互 そうご 理解 りかい 性 せい のある言語 げんご を使 つか う。80%以上 いじょう を占 し める東 ひがし スラブ系 けい 民族 みんぞく はロシア正教会 せいきょうかい などのキリスト教徒 きりすときょうと または無 む 宗教 しゅうきょう である。
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