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ヴェネツィア共和国 - Wikipedia

ヴェネツィア共和きょうわこく

イタリア北東ほくとう位置いちしていた国家こっか(697ねん - 1797ねん
もっと高貴こうき共和きょうわこくヴェネツィア
Serenìsima Repùblica de Venessia
ラヴェンナ総督領 697ねん - 1797ねん オーストリア帝国
フランス領イオニア諸島
チザルピーナ共和国
ヴェネツィア共和国の国旗 ヴェネツィア共和国の国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Pax tibi Marce, evangelista meus
なんじ福音ふくいん伝道でんどうしゃ、マルコに平和へいわ
国歌こっか: Juditha triumphans
勝利しょうりのユディータ
ヴェネツィア共和国の位置
ヴェネツィア共和きょうわこく領土りょうど変遷へんせん
言語げんご ヴェネトラテン語らてんごイタリア
その口語こうごとしてギリシアみなみスラヴぐんなど
宗教しゅうきょう カトリック
首都しゅと エラクレーア
(697ねん - 742ねん

マラモッコ英語えいごばん
(742ねん - 810ねん

ヴェネツィア
(810ねん - 1797ねん
ドージェ
697ねん - 717ねん パオルッチョ・アナフェスト英語えいごばん初代しょだい
1789ねん - 1797ねんルドヴィーコ・マニン英語えいごばん(120だい
面積めんせき
15世紀せいきまつ推定すいてい70,000km²
人口じんこう
15世紀せいきまつ推定すいてい2,100,000にん
変遷へんせん
建国けんこく 697ねん
コンスタンティノープル包囲ほういせん1204ねん
レパントの海戦かいせん1571ねん
パッサロヴィッツ条約じょうやく1718ねん
レオーベン条約じょうやく滅亡めつぼう1797ねん4がつ17にち
通貨つうかドゥカートリラ
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
スロベニアの旗 スロベニア
クロアチアの旗 クロアチア
モンテネグロの旗 モンテネグロ
アルバニアの旗 アルバニア
ギリシャの旗 ギリシャ
キプロスの旗 キプロス
 ウクライナ

もっと高貴こうき共和きょうわこくヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこくヴェネツィア、ヴェネト: Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)イタリア: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称つうしょうヴェネツィア共和きょうわこく(ヴェネツィアきょうわこく、Repùblica de VenessiaRepubblica di Venezia)は、現在げんざい東北とうほくイタリアヴェネツィア本拠ほんきょとした歴史れきしじょう国家こっかである。7世紀せいき末期まっきから1797ねんまで1000ねん以上いじょうあいだわたり、歴史れきしじょうもっとながつづいた共和きょうわこくである。「晴朗せいろうきわまるところ[1]」や「アドリア海あどりあかい女王じょおう」ともばれる。ひがし地中海ちちゅうかい貿易ぼうえきによってさかえた海洋かいよう国家こっかであった。

ヴェネツィア共和きょうわこくうすあか)の領域りょういきポー平原へいげん北部ほくぶからイストリア半島はんとうダルマチアおよんでいた。1494ねん時点じてん状況じょうきょう

年表ねんぴょう

編集へんしゅう
 
15世紀せいきから16世紀せいきにかけてのヴェネツィア共和きょうわこく領域りょういきあかは15世紀せいき初頭しょとうまでの領土りょうどあかは16世紀せいき初頭しょとうまでの領土りょうど、ピンクは一時いちじてき領有りょうゆうしていた土地とちしめす。黄色きいろ領域りょういき制海権せいかいけんっていた海域かいいき、オレンジのせん主要しゅよう商業しょうぎょう航路こうろむらさき四角よつかど商業しょうぎょう拠点きょてんがあった場所ばしょしめす。

初期しょきのヴェネツィア共和きょうわこくでは、ドージェが独裁どくさいてき権限けんげんっていた。しかしのちにドージェは就任しゅうにんさい宣誓せんせいもとめられるようになり、結果けっかとして権力けんりょくだい評議ひょうぎかい共有きょうゆうされることになった。だい評議ひょうぎかい定足数ていそくすうは480であり、ドージェもだい評議ひょうぎかいたがいに相手あいて無視むしして決定けっていおこなうことはできなかった。

1175ねんリアルト英語えいごばん有力ゆうりょく貴族きぞくしょう評議ひょうぎかい設立せつりつした。これは6にんからるドージェの顧問こもんである。また、1179ねんには3にんから最高さいこう裁判所さいばんしょQuarantiaがもうけられた。これらは1223ねんにシニョリーア(Signoria)として統合とうごうされた。これはドージェをふくめて10にん構成こうせいされ、政府せいふ中枢ちゅうすうであった。ドージェが死亡しぼうしたさいには、その葬儀そうぎで「ドージェはんだ。しかしシニョリーアは健在けんざいである」とべられた。また、2人ふたりからるサピエンテス(sapientes)も設立せつりつされ、のちに6にん拡張かくちょうされた。これは集団しゅうだんわせてコッレージョ(collegio)を構成こうせいし、政府せいふ実行じっこう部門ぶもんとなった。1229ねん設立せつりつされたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族きぞくいんのようなものであり、だい評議ひょうぎかいにより選出せんしゅつされた60めい議員ぎいん構成こうせいした[2]。これらの機関きかんのために、ドージェの実権じっけん限定げんていてきなものとなり、実際じっさい職権しょっけんしゅとしてだい評議ひょうぎかいゆだねられた。1335ねんじゅうにん委員いいんかい設立せつりつされ、政府せいふ中枢ちゅうすうとして、非公開ひこうかい活動かつどうおこなった。1600ねんごろには、じゅうにん委員いいんかい影響えいきょうりょくだい評議ひょうぎかいしのぐようになり、その権限けんげん縮小しゅくしょうされた。

トマス・アクィナスは、ヴェネツィア共和きょうわこく政体せいたい共和きょうわせいとドージェによる君主くんしゅせい、そして貴族きぞくいんによる貴族きぞく政治せいじだい評議ひょうぎかいによる民主みんしゅ政治せいじふくあい政体せいたいであるとかんがえた[3]。また、ニッコロ・マキャヴェッリは、『君主くんしゅろん』でヴェネツィアを共和きょうわせい国家こっか分類ぶんるいした[4]

1454ねんに3にん調査官ちょうさかんからなる情報じょうほう機関きかん設立せつりつされ、諜報ちょうほう防諜ぼうちょう、および国内こくない監視かんしのための情報じょうほうもう充実じゅうじつさせた。これは非合法ひごうほう政体せいたい変革へんかくくわだとう阻止そしすることが目的もくてきであった。調査官ちょうさかん一人ひとりあか外套がいとう着用ちゃくようすることからイル・ロッソ(あかおとこ)とばれ、ドージェの顧問こもんにより任命にんめいされた。の2めいはイ・ネグリ(くろおとこ)とばれるくろ外套がいとう人物じんぶつであり、じゅうにん委員いいんかい任命にんめいされる。この情報じょうほう機関きかんは、徐々じょじょじゅうにん委員いいんかい影響えいきょうかれるようになった[2]

1556ねんにprovveditori ai beni incultiが設立せつりつされ、農業のうぎょう技術ぎじゅつや、農業のうぎょう技術ぎじゅつ開発かいはつへの個人こじん投資とうし促進そくしんされた。これは、16世紀せいき穀物こくもつ価格かかく上昇じょうしょうけてのことである。

元首げんしゅ

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Corno Ducale(ドージェのかんむり)をこうむったレオナルド・ロレダン肖像しょうぞうジョヴァンニ・ベリーニ、1501ねん以降いこうナショナル・ギャラリー (ロンドン)ぞう

ヴェネツィア共和きょうわこく元首げんしゅドージェヴェネト: Doxe, イタリア: Doge)とばれ、その語源ごげんラテン語らてんご: Duxであり、ぐん指揮しきかんまたは公爵こうしゃくあらわす。ドージェは貴族きぞくによる選挙せんきょ決定けっていされ、終身しゅうしんせいである。年配ねんぱいしゃえらばれることがおおい。日本語にほんごすべりょう総督そうとくやくされることもある。

選挙せんきょ

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ドージェフランチェスコ・ドナート英語えいごばん金貨きんか。ドージェがヴェネツィアの守護しゅご聖人せいじんマルコまえひざまずいている。

初期しょきのヴェネツィア共和きょうわこくでは、ドージェの選任せんにん方法ほうほう明確めいかくにはさだめられておらず、有力ゆうりょく家門かもんから選出せんしゅつするという慣例かんれいがあるのみであった。それゆえに、初期しょきのヴェネツィアではドージェが自身じしん血縁けつえんしゃこうがせようとする傾向けいこうつよかった。そこで、ドージェが世襲せしゅうせいとなることで共和きょうわせい崩壊ほうかいすることへの危機ききかんから、ドージェが後継こうけいしゃ指名しめいすることをきんじる法律ほうりつ制定せいていされた。1172ねんには、ドージェは40にん委員いいんによる選挙せんきょによりめられることとなった。この委員いいんだい評議ひょうぎかいからえらばれた4にんにより選任せんにんされ、このだい評議ひょうぎかいは12にん委員いいんかい毎年まいとし任命にんめいする。1229ねん支持しじが20たい20となり決着けっちゃくしなかったため、これ以後いご委員いいんかずは41とされた。

1268ねん制定せいていされた選挙せんきょ方法ほうほうでは、まず30にん委員いいんくじによりだい評議ひょうぎかいからえらばれる。この30にんはさらにくじで9にんしぼられ、この9にんが40にんえらび、そしてその40にんくじで12にんらされ、その12にんが25にん委員いいんえらぶ。その25にんくじで9にんとなり、この9にんが45にんさだめる。45にんは11にんしぼられ、この11にんが、実際じっさいにドージェをめる41にん選任せんにんするのである[5]。この複雑ふくざつ制度せいどのために、有力ゆうりょく家門かもんといえどもドージェの自由じゆうにすることはむずかしくなった。この制度せいど1797ねん共和きょうわこく滅亡めつぼうまで維持いじされた。

あたらしくえらばれたドージェは、就任しゅうにん宣誓せんせいおこなまえに、ヴェネツィア市民しみんからの承認しょうにんけなければならなかった。実際じっさいには上述じょうじゅつ選挙せんきょによりドージェのくらい確定かくていするのだが、それでも形式けいしきてきにはヴェネツィア市民しみんがドージェをめていたのである。

制約せいやく

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ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿きゅうでん

共和きょうわこく初期しょきにはドージェは独裁どくさいてき権力けんりょくっていたが、1268ねんにその権限けんげんきびしく監視かんしする法律ほうりつ制定せいていされた。外国がいこくからの公文書こうぶんしょ開封かいふうするさいには官吏かんり立合たちあいがもとめられ、国外こくがい私有しゆう財産ざいさん保有ほゆうすることはきんじられた。

ドージェの任期にんきは、一部いちぶには中途ちゅうと解任かいにんされたれいもあったが、通常つうじょう終身しゅうしんであった。ドージェが死亡しぼうしたのちは、その生前せいぜん職務しょくむについてきびしい調査ちょうさおこなわれた。このさいには、不正ふせい証拠しょうこがないかどうか、私有地しゆうち調しらべられた。ドージェにあたえられる報酬ほうしゅうけっして高額こうがくではなく、在任ざいにんちゅう交易こうえきなどで収入しゅうにゅう必要ひつようがあった。こうした収入しゅうにゅうも、調査ちょうさ対象たいしょうとなった。

1268ねん7がつ7にちから、ドージェが空位くういあいだは、参事官さんじかんがドージェの職務しょくむ代行だいこうすることになった。

式典しきてん

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16世紀せいきおこなわれたドージェのだい行進こうしん

ドージェには様々さまざま式典しきてんおこな義務ぎむがあったが、そのなかもっと重要じゅうようなものは「うみとの結婚けっこん」であった。これは指輪ゆびわをドージェの公式こうしき座乗ざじょうせんブチェンタウロからアドリア海あどりあかいとすものであった。この祭礼さいれいはじまりは、ダルマチア征服せいふく記念きねんしてピエトロ・オルセオロ2せい英語えいごばん1000ねん昇天しょうてんさいおこなったものであった。教皇きょうこうアレクサンデル3せい神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せい1177ねんにヴェネツィアを訪問ほうもんしたのち、この祭典さいてんは、より盛大せいだいおこなわれるようになった。

ドージェは、ほかにもサン・マルコ広場ひろばからはじまるだい行進こうしんおこなった。この行進こうしん下級かきゅう公務員こうむいん先頭せんとうち、じゅん上級じょうきゅう公務員こうむいんつづき、ドージェが中央ちゅうおうめ、そして上級じょうきゅう貴族きぞくから下級かきゅう貴族きぞくつづいた。フランチェスコ・サンソヴィーノ英語えいごばんは、1581ねんにこの行列ぎょうれつ詳細しょうさい記述きじゅつし、チェーザレ・ヴェッチェッリオ英語えいごばん1586ねんにこのだい行進こうしんえがいた。

14世紀せいき以降いこう、ドージェが式典しきてんさいこうむったかんむりはCorno Ducaleとばれるものである。これは宝石ほうせき細工ざいくほどこされたにしきボンネットであり、さきかくのようにとがっていた。これはやわらかなあさカマウロ英語えいごばんうえかぶられた。復活ふっかつさい翌日よくじつにドージェはサン・マルコ広場ひろばからサン・ザッカリア修道院しゅうどういんまで行進こうしんし、そこで女子じょし修道しゅうどう院長いんちょうから、修道しゅうどうおんなったあたらしいカマウロをおくられた。

だい評議ひょうぎかい

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だい評議ひょうぎかいはヴェネツィア共和きょうわこく最高さいこう決定けってい機関きかんであり、1300ねん前後ぜんこう制定せいていされたセッラータとばれる一連いちれん法的ほうてき措置そちによって、だい評議ひょうぎ会議かいぎいん貴族きぞく階級かいきゅう世襲せしゅうせいとされていた[6]国家こっか元首げんしゅであるドージェもふく重要じゅうよう国家こっか官職かんしょくはすべてだい評議ひょうぎ会議かいぎいんなかからえらばれた[6]

だい評議ひょうぎかいには、じゅうにん委員いいんかいよんじゅうにん委員いいんかい、シニョリーアおよびサン・マルコ財務ざいむかん司法しほう長官ちょうかんぞくしていた。

サン・マルコ財務ざいむかん

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サン・マルコ財務ざいむかんイタリア: Procuratori di San Marco当初とうしょサン・マルコ寺院じいん施設しせつおよ財産ざいさん管理かんりする責任せきにんしゃとして創設そうせつされた官職かんしょく。のちに、サン・マルコ寺院じいん寄進きしんされる莫大ばくだい資産しさん財宝ざいほう国内こくない徴収ちょうしゅうされる教会きょうかいぜい政府せいふ税収ぜいしゅう戦利せんりひん管理かんり運営うんえいする職責しょくせきあたえられたことから、国家こっか官職かんしょくなかでもドージェにおおきな権力けんりょくつようになった[7]

じゅうにん委員いいんかい

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フランチェスコ・アイエツの「ドージェマリーノ・ファリエロ」におけるじゅうにん委員いいんかい (1867)

じゅうにん委員いいんかいヴェネト: Consejo de i Diexeイタリア: Consiglio dei Dieci)は1310ねん設立せつりつされ、1797ねん共和きょうわこく滅亡めつぼうまで存続そんぞくした政府せいふ中枢ちゅうすう機関きかんである。その活動かつどうはしばしば秘密ひみつにされたが、市民しみんからは効率こうりつてきかつ公正こうせい機関きかんであると認識にんしきされていた。じゅうにん委員いいんかいは、1310ねん7がつ10日とおかバイヤモンテ・ティエポロイタリアばん共和きょうわこくたいしてこした反乱はんらん鎮圧ちんあつするために、臨時りんじしょくとしてもうけられた。当初とうしょは2ヶ月かげつあいだ暫定ざんてい機関きかんであったが、期限きげん更新こうしんかえされ、1335ねん常設じょうせつされた。

じゅうにん委員いいんかい公式こうしき任務にんむは、共和きょうわこく治安ちあん維持いじならびに政府せいふ転覆てんぷくおよび汚職おしょく防止ぼうしである。しかし、組織そしきちいさく迅速じんそく決定けってい可能かのうなため、その職務しょくむ範囲はんい徐々じょじょ拡大かくだいし、1457ねん時点じてんでは政府せいふ業務ぎょうむ全般ぜんぱんあつかうようになった。とくに、じゅうにん委員いいんかい共和きょうわこく外交がいこうおよび諜報ちょうほう活動かつどう監督かんとくし、ぐん管理かんりし、そして奢侈しゃし禁止きんしれいはじめとする様々さまざま法律ほうりつ執行しっこうつかさどった。また、じゅうにん委員いいんかい不道徳ふどうとくおこない、とく賭博とばくまりをこころみたが、これはうまくいかなかった。

よんじゅうにん委員いいんかい

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よんじゅうにん委員いいんかい英語えいごばんヴェネト: Cuarantiaイタリア: Quarantia)はだい評議ひょうぎ会議かいぎいんからえらばれ司法しほう権限けんげんゆうしていた。

シニョリーア

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シニョリーア英語えいごばんイタリア: Serenissima Signoria)は、ドージェ、6めい評議ひょうぎいん(Minor Consiglio)、よんじゅうにん委員いいんかいの3めい代表だいひょうから構成こうせいされる合計ごうけい10めい執政しっせい機関きかん日本語にほんご政庁せいちょう[8]表記ひょうきされることもある。

経済けいざい

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ヴェネツィア共和きょうわこくは、イタリア最大さいだい水系すいけいであるがわふく河川かせんと、アドリア海あどりあかいせいすいけん獲得かくとくしつつ商業しょうぎょう拡大かくだいさせた。のちにはイオニアかいひがし地中海ちちゅうかいへと領地りょうち拡大かくだいして支配しはいりょくたかめた。

食料しょくりょう交易こうえき

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食料しょくりょう自給じきゅうできないヴェネツィアにとって、初期しょき交易こうえきでは食料しょくりょう調達ちょうたつとく重要じゅうようとされた。がわをはじめとして内陸ないりくからアドリア海あどりあかいながれる河川かせんにそって交易こうえきおこなわれ、イタリア王国おうこくないにあるヴェネツィアの修道院しゅうどういん貴族きぞく土地とちや、内陸ないりく都市としから食料しょくりょう入手にゅうしゅした。重要じゅうよう河川かせんには警備けいびのための要塞ようさい艦隊かんたい用意よういされた。

海路かいろでは、ひがしマ帝国まていこく食料しょくりょう交易こうえきなどにくわえて、教皇きょうこうりょうのあるマルケ地方ちほうシチリア王国おうこくラテン帝国ていこくアカイア公国こうこくなどのギリシア諸国しょこくクレタとうなどから食料しょくりょう輸入ゆにゅうした。さらには、小麦こむぎ、ワイン、オリおりブ油ぶゆ、いちじく、チーズ、しおなどの食料しょくりょう海外かいがいから内陸ないりく都市としさい輸出ゆしゅつすることを独占どくせんし、対立たいりつする都市としには禁輸きんゆおこなうなどの政治せいじてき手段しゅだんもちいた[9]

ひがしマ帝国まていこくでの交易こうえき

編集へんしゅう

ヴェネツィア商人しょうにんひがしマ帝国まていこくないでの特権とっけんによって、帝国ていこくない都市としあいだや、シチリア王国おうこく十字軍じゅうじぐん国家こっか、エジプトなどのしょ国家こっか交易こうえきおこなった。胡椒こしょうきぬなどの東方とうほう貿易ぼうえき商品しょうひんのほか、オリおりブ油ぶゆ、ワイン、綿めん羊毛ようもうがわ、インディゴ、武具ぶぐ木材もくざい奴隷どれいなどが取引とりひきされた。帝国ていこくないではだい土地とち所有しょゆうしゃ支配しはいてき地位ちいにあり、商人しょうにん排除はいじょされていたため、帝国ていこくない多大ただい利益りえきをあげた。

黒海こっかいでの交易こうえき

編集へんしゅう

13世紀せいきには、黒海こっかい東部とうぶにモンゴルじん国家こっかジョチ・ウルスイル・ハンこく成立せいりつした。一方いっぽう地中海ちちゅうかいではマムルークあさによって十字軍じゅうじぐん国家こっか消滅しょうめつし、教皇きょうこうキリスト教徒きりすときょうととマムルークあさとの交易こうえききんじた。このためヴェネツィアは東方とうほう貿易ぼうえき商品しょうひん黒海こっかい経由けいゆ取引とりひきするようになり、黒海こっかい香辛料こうしんりょうきぬ奴隷どれいなどの一大いちだい供給きょうきゅうとなった[10]

地中海ちちゅうかい西部せいぶでの交易こうえき

編集へんしゅう

イベリア半島はんとうレコンキスタ進行しんこうし、ジブラルタル海峡かいきょうでの交通こうつう安定あんていすると、ヴェネツィアもロンドンブリュージュまで商船しょうせんおくるようになった。地中海ちちゅうかいきたヨーロッパは、それまでの陸路りくろにかわって海路かいろ活発かっぱつとなる。イタリア北部ほくぶでは綿めん工業こうぎょうさかんになり、ヴェネツィアは原料げんりょう製品せいひん輸送ゆそうおこなった。

本土ほんど市場いちば

編集へんしゅう

カナル・グランデめんしたリアルト市場いちば取引とりひきおこなわれた。商船しょうせん帰港きこうし、出航しゅっこうするまでのあいだ輸入ゆにゅう商品しょうひん販売はんばい輸出ゆしゅつ商品しょうひん購入こうにゅうがされた。地中海ちちゅうかいふゆ航海こうかいてきさず、なつふゆ取引とりひきおおかった。

金融きんゆう

編集へんしゅう

商業しょうぎょう金融きんゆうとして、ひがしマ帝国まていこくほう影響えいきょうけたコレガンツァ(同輩どうはい組合くみあい)があった。コレガンツァには融資ゆうししゃとされるもの双方そうほう出資しゅっしする形式けいしきと、片方かたがたのみが出資しゅっしする形式けいしきがあった。前者ぜんしゃはソキエタス、後者こうしゃはコンメンダともばれる。双方そうほう出資しゅっしするコレガンツァは融資ゆうししゃが3ぶんの2、商人しょうにんが3ぶんの1を出資しゅっしし、利潤りじゅん折半せっぱんした。片方かたがたのみ出資しゅっしするコレガンツァは融資ゆうししゃ全額ぜんがく出資しゅっしし、利潤りじゅん融資ゆうししゃが4ぶんの3、商人しょうにんが4ぶんの1をった。資本しほん増加ぞうかとともに片方かたがたのみ出資しゅっしするコレガンツァがえ、資本しほんがなくても能力のうりょくがあるものによって商人しょうにん階層かいそう拡大かくだいした。のちには海上かいじょう貸付かしつけ為替かわせなどの金融きんゆうもちいられるようになった。

ヴェネツィア共和きょうわこく通貨つうか単位たんいはリラ(: lira)であり、複数ふくすうがたlireである。1807ねんまでは独自どくじのヴェネツィア・リラを発行はっこうしていた。1リラは20ソルド(: soldo複数ふくすうがたsoldi)であり、1ソルドは12デナロ(: denaro複数ふくすうがたdenari)である。ドゥカートは124ソルドであり、「ゼッキーノ」(: zecchino)としてもられるtalleroは7リラである。1807ねん、ナポレオンのイタリア王国おうこくしたイタリア・リラ通貨つうかとしてさだめられた。

18世紀せいき後半こうはんには、以下いか硬貨こうか鋳造ちゅうぞうされた。ビロン硬貨こうかとして6デナロおよび12デナロ。銀貨ぎんかとして5, 10, 15,および30ソルド。 1/8, 1/4, 1/2,および1ドゥカート、1/8, 1/4, 1/2,および1 tallero。金貨きんかとして1/4, 1/2,および1ドゥカート、1 doppia,そして 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 18, 20, 24, 25, 30, 40, 50, 55, 60, 100, および105ゼッキーノ。

1797ねん臨時りんじ政府せいふは10リラ銀貨ぎんか発行はっこうし、つづくオーストリアによる占領せんりょうでは、1/2, 1, 1.5,および2リラ銀貨ぎんかと1 zechinno金貨きんか1800ねんから1802ねんあいだ発行はっこうされた。

会計かいけい監査かんさ

編集へんしゅう

イタリアでは都市とし国家こっかによって組合くみあい構成こうせいことなり、会計かいけいにも影響えいきょうおよぼした。ヴェネツィアでは、貴族きぞく血縁けつえん中心ちゅうしんとした家族かぞく組合くみあい(ソキエタス)によるくちべつ損益そんえき計算けいさんおこなわれた[11]ルカ・パチョーリがヴェネツィアで出版しゅっぱんした数学すうがくしょスムマ』(1494ねん)は、複式ふくしき簿記ぼき最初さいしょ体系たいけい理論りろんした書籍しょせきでもあった[12]。イタリアしょ都市としでは13世紀せいきには職業しょくぎょう会計士かいけいし(rationator)が営利えいり事業じぎょう会計かいけい監査かんさかかわっており、ヴェネツィアでは1581ねん世界せかいはつ職業しょくぎょう会計士かいけいし協会きょうかい設立せつりつされ、1585ねん会計かいけい専門せんもん学校がっこう(Collegio dei Raxonati)も設立せつりつされた。これはおおやけ会計かいけい監査かんさ人材じんざい育成いくせいという目的もくてきがあった[13]

ヴェネツィアの簿記ぼき国外こくがいつたわり、15世紀せいきにはニュルンベルクを中心ちゅうしんとするみなみドイツの商人しょうにん複式ふくしき簿記ぼき採用さいようした。フッガーヤーコプ・フッガーや、フッガーの会計かいけい主任しゅにんになるマッティウス・シュヴァルツ英語えいごばんもヴェネツィアで複式ふくしき簿記ぼきまなび、フッガー繁栄はんえい一因いちいんとなった[14]

交通こうつう通信つうしん

編集へんしゅう

船舶せんぱく

編集へんしゅう

13世紀せいき以降いこう地中海ちちゅうかいでは船舶せんぱく種類しゅるいえ、コグせんガレー商船しょうせんなどが導入どうにゅうされた。ヴェネツィアはガレー商船しょうせん他国たこくくらべておおく、統一とういつ規格きかくにもとづいて国立こくりつ造船ぞうせんしょアルセナーレ)で建造けんぞうし、国家こっか所有しょゆうのもとで定期ていき航海こうかいおこなった。船団せんだん利用りようけん有力ゆうりょく商人しょうにんたちの競売きょうばいにかけられ、ガレー商船しょうせん積載せきさいりょうちいさいため高価こうか軽量けいりょう商品しょうひんはこんだ。海軍かいぐんによって安全あんぜん確保かくほし、定期ていきてき船団せんだん運営うんえいされるてんは、ヴェネツィアのガレー商船しょうせん特徴とくちょうだった。一方いっぽうで、帆船はんせんおおくが私立しりつ造船ぞうせんしょ建造けんぞうされ、ヴェネツィアじん以外いがいにももちいられた。帆船はんせん積載せきさいりょうおおきいため、食料しょくりょう綿めん羊毛ようもうなどの原料げんりょう資材しざいなどのてい価格かかく重量じゅうりょうのある商品しょうひんはこんだ。

商業しょうぎょう通信つうしん

編集へんしゅう

13世紀せいき以降いこうは、それまでの行商ぎょうしょうから、通信つうしんによる取引とりひきへの移行いこうすすんだ。商人しょうにん船便せんびんによる文書ぶんしょ連絡れんらくり、遠方えんぽう市場いちばにいる代理人だいりにん取引とりひきたのんだ。15世紀せいきにダマスクスの代理人だいりにんからヴェネツィアへおくられた文書ぶんしょとしては、商業しょうぎょう書簡しょかん勘定かんじょうしょ価格かかくひょう購入こうにゅう報告ほうこくしょの4種類しゅるい記録きろくがある。このように文書ぶんしょによって遠方えんぽう取引とりひきおこなっていた[15]

領土りょうど

編集へんしゅう

ヴェネツィア共和きょうわこく領土りょうどは、おおきくけてドガードイタリアばん英語えいごばんスタート・ダ・マールドミニ・ディ・テッラフェールマイタリアばん英語えいごばんの3つにかれる。

ドガードイタリアばん英語えいごばんは、いわゆるヴェネツィア共和きょうわこく首都しゅと、あるいは本国ほんごくぶべき場所ばしょである。現代げんだいのヴェネツィア該当がいとうする。

スタート・ダ・マール

編集へんしゅう

スタート・ダ・マールは、イストリア半島はんとうダルマツィア地方ちほう筆頭ひっとうに、クレタとうヴェネツィアりょうクレタ)やキプロスとうヴェネツィアりょうキプロス英語えいごばんギリシアばん)などの海外かいがい植民しょくみんす。

のちオスマン帝国ていこく台頭たいとうにより、ギリシャやゲ海げかい島々しまじま、キプロスとう、クレタとうなどをうばわれ、共和きょうわこく滅亡めつぼうにはイストリア半島はんとうやダルマツィア地方ちほうなどのアドリア海あどりあかい沿岸えんがん地域ちいきのみがのこっていた。

ドミニ・ディ・テッラフェールマ

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ドミニ・ディ・テッラフェールマイタリアばん英語えいごばんは、現代げんだいヴェネトしゅう中心ちゅうしんフリウリ=ヴェネツィア・ジュリアしゅう西部せいぶロンバルディアしゅう東部とうぶなどのイタリア北東ほくとう地域ちいきにおいてヴェネツィア共和きょうわこく統治とうちした属領ぞくりょうす。

ミラノ公国こうこくフェラーラ公国こうこくマントヴァこうこく教皇きょうこうりょうなどとさかいせっしており、イタリア戦争せんそうでたびたび戦場せんじょうになった。共和きょうわこく滅亡めつぼうにも、フランス革命かくめい戦争せんそうによりナポレオン・ボナパルトひきいるフランスぐんとオーストリアぐん戦場せんじょうになっている。

出版しゅっぱん

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ヨハネス・グーテンベルク活版かっぱん印刷いんさつが1460年代ねんだいからイタリアに導入どうにゅうされ、ヴェネツィアがヨーロッパ最大さいだい印刷いんさつセンターとなった。ヴェネツィアの印刷いんさつ技術ぎじゅつ鮮明せんめいさ、紙質かみしつ字体じたい定評ていひょうがあり、現在げんざいインキュナブラばれる印刷物いんさつぶつ多数たすう製作せいさくされた[16]

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 伊和いわちゅう辞典じてんだい2はん)』小学館しょうがくかん、1983ねん、1427ぺーじ
  2. ^ a b Catholic Encyclopedia, "Venice", p. 602.
  3. ^ The Political Ideas of St. Thomas Aquinas, Dino Bigongiari ed., Hafner Publishing Company, NY, 1953. p. xxx in footnote.
  4. ^ Niccolò Machiavelli, The Prince, trans. & ed. by Robert M. Adams, W.W. Norton & Co., NY, 1992. Machiavelli Balanced Government
  5. ^ Miranda Mowbray and Dieter Gollmann. “Electing the Doge of Venice: Analysis of a 13th Century Protocol”. 2007ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 桃山学院大学ももやまがくいんだいがく国際こくさい教養きょうよう学部がくぶ 和栗わぐりたまさと ヴェネツィア共和きょうわこく外国がいこくじん貴族きぞく https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046766
  7. ^ 桃山学院大学ももやまがくいんだいがく国際こくさい教養きょうよう学部がくぶ 和栗わぐりたまさと 16世紀せいきヴェネツィアの門閥もんばつ家系かけい : サン・マルコ財務ざいむかん就任しゅうにんしゃ分析ぶんせきより https://ci.nii.ac.jp/naid/110007818653
  8. ^ ハリントンの統治とうち原理げんりかんするいち考察こうさつ http://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/pdf/kiyo/54/05.pdf
  9. ^ 齊藤さいとう「ヴェネツィアの市場いちば」 p100
  10. ^ 齊藤さいとう中世ちゅうせい後期こうきイタリアの商業しょうぎょう都市とし
  11. ^ 渡邉わたなべ 2014, pp. 23–24.
  12. ^ 渡邉わたなべ 2014, pp. 98–100.
  13. ^ 山浦やまうら 2008, p. 38.
  14. ^ 中野なかの, 清水しみずへん 2019, pp. 46–47.
  15. ^ 齊藤さいとう「ヴェネツィアの市場いちば」 p118
  16. ^ ゆきしま 2002, pp. 2–5.

参考さんこう文献ぶんけん著者ちょしゃ五十音ごじゅうおんじゅん

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日本語にほんご文献ぶんけん著者ちょしゃ五十音ごじゅうおんじゅん

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外国がいこく文献ぶんけん

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  • Muir, Edward (1981). Civic Ritual in Renaissance Venice. Princeton UP — The classic of Venetian cultural studies, highly sophisticated.
  • David Rosand. Myths of Venice: The Figuration of a State (2001) — how writers (especially English) have understood Venice and its art
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  •   この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Venice". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 27 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 995-1007.

いち史料しりょう

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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