15世紀 せいき から16世紀 せいき にかけてのヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の領域 りょういき 。濃 こ 赤 あか は15世紀 せいき 初頭 しょとう までの領土 りょうど 、赤 あか は16世紀 せいき 初頭 しょとう までの領土 りょうど 、ピンクは一時 いちじ 的 てき に領有 りょうゆう していた土地 とち を示 しめ す。黄色 きいろ い領域 りょういき は制海権 せいかいけん を持 も っていた海域 かいいき 、オレンジの線 せん は主要 しゅよう な商業 しょうぎょう 航路 こうろ 、紫 むらさき の四角 よつかど は商業 しょうぎょう 拠点 きょてん があった場所 ばしょ を示 しめ す。
初期 しょき のヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく では、ドージェが独裁 どくさい 的 てき な権限 けんげん を持 も っていた。しかし後 のち にドージェは就任 しゅうにん の際 さい に宣誓 せんせい を求 もと められるようになり、結果 けっか として権力 けんりょく は大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい と共有 きょうゆう されることになった。大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい の定足数 ていそくすう は480であり、ドージェも大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい も互 たが いに相手 あいて を無視 むし して決定 けってい を行 おこな うことはできなかった。
1175年 ねん にリアルト (英語 えいご 版 ばん ) の有力 ゆうりょく 貴族 きぞく が小 しょう 評議 ひょうぎ 会 かい を設立 せつりつ した。これは6人 にん から成 な るドージェの顧問 こもん である。また、1179年 ねん には3人 にん から成 な る最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ Quarantiaが設 もう けられた。これらは1223年 ねん にシニョリーア(Signoria)として統合 とうごう された。これはドージェを含 ふく めて10人 にん で構成 こうせい され、政府 せいふ の中枢 ちゅうすう であった。ドージェが死亡 しぼう した際 さい には、その葬儀 そうぎ で「ドージェは死 し んだ。しかしシニョリーアは健在 けんざい である」と述 の べられた。また、2人 ふたり から成 な るサピエンテス(sapientes)も設立 せつりつ され、後 のち に6人 にん に拡張 かくちょう された。これは他 た の集団 しゅうだん と合 あ わせてコッレージョ(collegio)を構成 こうせい し、政府 せいふ の実行 じっこう 部門 ぶもん となった。1229年 ねん に設立 せつりつ されたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族 きぞく 院 いん のようなものであり、大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい により選出 せんしゅつ された60名 めい の議員 ぎいん が構成 こうせい した[2] 。これらの機関 きかん のために、ドージェの実権 じっけん は限定 げんてい 的 てき なものとなり、実際 じっさい の職権 しょっけん は主 しゅ として大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい に委 ゆだ ねられた。1335年 ねん に十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ され、政府 せいふ の中枢 ちゅうすう として、非公開 ひこうかい の活動 かつどう を行 おこな った。1600年 ねん 頃 ごろ には、十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい の影響 えいきょう 力 りょく が大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい を凌 しの ぐようになり、その権限 けんげん は縮小 しゅくしょう された。
トマス・アクィナス は、ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の政体 せいたい は共和 きょうわ 制 せい とドージェによる君主 くんしゅ 制 せい 、そして貴族 きぞく 院 いん による貴族 きぞく 政治 せいじ と大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい による民主 みんしゅ 政治 せいじ の複 ふく 合 あい 政体 せいたい であると考 かんが えた[3] 。また、ニッコロ・マキャヴェッリ は、『君主 くんしゅ 論 ろん 』でヴェネツィアを共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか に分類 ぶんるい した[4] 。
1454年 ねん に3人 にん の調査官 ちょうさかん からなる情報 じょうほう 機関 きかん が設立 せつりつ され、諜報 ちょうほう 、防諜 ぼうちょう 、および国内 こくない 監視 かんし のための情報 じょうほう 網 もう を充実 じゅうじつ させた。これは非合法 ひごうほう な政体 せいたい 変革 へんかく の企 くわだ て等 とう を阻止 そし することが目的 もくてき であった。調査官 ちょうさかん の一人 ひとり は赤 あか い外套 がいとう を着用 ちゃくよう することからイル・ロッソ(赤 あか い男 おとこ )と呼 よ ばれ、ドージェの顧問 こもん により任命 にんめい された。他 た の2名 めい はイ・ネグリ(黒 くろ い男 おとこ )と呼 よ ばれる黒 くろ い外套 がいとう の人物 じんぶつ であり、十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい に任命 にんめい される。この情報 じょうほう 機関 きかん は、徐々 じょじょ に十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい の影響 えいきょう 下 か に置 お かれるようになった[2] 。
1556年 ねん にprovveditori ai beni incultiが設立 せつりつ され、農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ や、農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ 開発 かいはつ への個人 こじん 投資 とうし が促進 そくしん された。これは、16世紀 せいき の穀物 こくもつ 価格 かかく 上昇 じょうしょう を受 う けてのことである。
Corno Ducale (ドージェの冠 かんむり )を被 こうむ ったレオナルド・ロレダン の肖像 しょうぞう 画 が 。ジョヴァンニ・ベリーニ 、1501年 ねん 以降 いこう 、ナショナル・ギャラリー (ロンドン) 蔵 ぞう 。
ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ はドージェ (ヴェネト語 ご : Doxe , イタリア語 ご : Doge )と呼 よ ばれ、その語源 ごげん はラテン語 らてんご : Dux であり、軍 ぐん の指揮 しき 官 かん または公爵 こうしゃく を表 あらわ す。ドージェは貴族 きぞく による選挙 せんきょ で決定 けってい され、終身 しゅうしん 制 せい である。年配 ねんぱい 者 しゃ が選 えら ばれることが多 おお い。日本語 にほんご で統 すべ 領 りょう 、総督 そうとく と訳 やく されることもある。
ドージェフランチェスコ・ドナート (英語 えいご 版 ばん ) の金貨 きんか 。ドージェがヴェネツィアの守護 しゅご 聖人 せいじん マルコ の前 まえ に跪 ひざまず いている。
初期 しょき のヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく では、ドージェの選任 せんにん 方法 ほうほう は明確 めいかく には定 さだ められておらず、有力 ゆうりょく な家門 かもん から選出 せんしゅつ するという慣例 かんれい があるのみであった。それ故 ゆえ に、初期 しょき のヴェネツィアではドージェが自身 じしん の血縁 けつえん 者 しゃ に後 こう を継 つ がせようとする傾向 けいこう が強 つよ かった。そこで、ドージェが世襲 せしゅう 制 せい となることで共和 きょうわ 制 せい が崩壊 ほうかい することへの危機 きき 感 かん から、ドージェが後継 こうけい 者 しゃ を指名 しめい することを禁 きん じる法律 ほうりつ が制定 せいてい された。1172年 ねん には、ドージェは40人 にん の委員 いいん による選挙 せんきょ により決 き められることとなった。この委員 いいん は大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい から選 えら ばれた4人 にん により選任 せんにん され、この大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい は12人 にん の委員 いいん 会 かい が毎年 まいとし 任命 にんめい する。1229年 ねん に支持 しじ が20対 たい 20となり決着 けっちゃく しなかったため、これ以後 いご 、委員 いいん の数 かず は41とされた。
1268年 ねん に制定 せいてい された選挙 せんきょ 方法 ほうほう では、まず30人 にん の委員 いいん が籤 くじ により大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい から選 えら ばれる。この30人 にん はさらに籤 くじ で9人 にん に絞 しぼ られ、この9人 にん が40人 にん を選 えら び、そしてその40人 にん は籤 くじ で12人 にん に減 へ らされ、その12人 にん が25人 にん の委員 いいん を選 えら ぶ。その25人 にん は籤 くじ で9人 にん となり、この9人 にん が45人 にん を定 さだ める。45人 にん は11人 にん に絞 しぼ られ、この11人 にん が、実際 じっさい にドージェを決 き める41人 にん を選任 せんにん するのである[5] 。この複雑 ふくざつ な制度 せいど のために、有力 ゆうりょく 家門 かもん といえどもドージェの位 い を自由 じゆう にすることは難 むずか しくなった。この制度 せいど は1797年 ねん の共和 きょうわ 国 こく 滅亡 めつぼう まで維持 いじ された。
新 あたら しく選 えら ばれたドージェは、就任 しゅうにん の宣誓 せんせい を行 おこな う前 まえ に、ヴェネツィア市民 しみん からの承認 しょうにん を受 う けなければならなかった。実際 じっさい には上述 じょうじゅつ の選挙 せんきょ によりドージェの位 くらい は確定 かくてい するのだが、それでも形式 けいしき 的 てき にはヴェネツィア市民 しみん がドージェを決 き めていたのである。
ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿 きゅうでん
共和 きょうわ 国 こく 初期 しょき にはドージェは独裁 どくさい 的 てき な権力 けんりょく を持 も っていたが、1268年 ねん にその権限 けんげん を厳 きび しく監視 かんし する法律 ほうりつ が制定 せいてい された。外国 がいこく からの公文書 こうぶんしょ を開封 かいふう する際 さい には他 た の官吏 かんり の立合 たちあ いが求 もと められ、国外 こくがい に私有 しゆう 財産 ざいさん を保有 ほゆう することは禁 きん じられた。
ドージェの任期 にんき は、一部 いちぶ には中途 ちゅうと で解任 かいにん された例 れい もあったが、通常 つうじょう は終身 しゅうしん であった。ドージェが死亡 しぼう した後 のち は、その生前 せいぜん の職務 しょくむ について厳 きび しい調査 ちょうさ が行 おこな われた。この際 さい には、不正 ふせい の証拠 しょうこ がないかどうか、私有地 しゆうち も調 しら べられた。ドージェに与 あた えられる報酬 ほうしゅう は決 けっ して高額 こうがく ではなく、在任 ざいにん 中 ちゅう も交易 こうえき などで収入 しゅうにゅう を得 え る必要 ひつよう があった。こうした収入 しゅうにゅう も、調査 ちょうさ の対象 たいしょう となった。
1268年 ねん 7月 がつ 7日 にち から、ドージェが空位 くうい の間 あいだ は、参事官 さんじかん がドージェの職務 しょくむ を代行 だいこう することになった。
16世紀 せいき に行 おこな われたドージェの大 だい 行進 こうしん
ドージェには様々 さまざま な式典 しきてん を執 と り行 おこな う義務 ぎむ があったが、その中 なか で最 もっと も重要 じゅうよう なものは「海 うみ との結婚 けっこん 」であった。これは指輪 ゆびわ をドージェの公式 こうしき 座乗 ざじょう 船 せん ブチェンタウロ からアドリア海 あどりあかい に落 お とすものであった。この祭礼 さいれい の始 はじ まりは、ダルマチア征服 せいふく を記念 きねん してピエトロ・オルセオロ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が1000年 ねん の昇天 しょうてん 祭 さい で行 おこな ったものであった。教皇 きょうこう アレクサンデル3世 せい と神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい が1177年 ねん にヴェネツィアを訪問 ほうもん した後 のち 、この祭典 さいてん は、より盛大 せいだい に行 おこな われるようになった。
ドージェは、他 ほか にもサン・マルコ広場 ひろば から始 はじ まる大 だい 行進 こうしん を行 おこな った。この行進 こうしん は下級 かきゅう の公務員 こうむいん が先頭 せんとう に立 た ち、順 じゅん に上級 じょうきゅう の公務員 こうむいん が続 つづ き、ドージェが中央 ちゅうおう を占 し め、そして上級 じょうきゅう の貴族 きぞく から下級 かきゅう の貴族 きぞく へ続 つづ いた。フランチェスコ・サンソヴィーノ (英語 えいご 版 ばん ) は、1581年 ねん にこの行列 ぎょうれつ の詳細 しょうさい を記述 きじゅつ し、チェーザレ・ヴェッチェッリオ (英語 えいご 版 ばん ) は1586年 ねん にこの大 だい 行進 こうしん の絵 え を描 えが いた。
14世紀 せいき 以降 いこう 、ドージェが式典 しきてん の際 さい に被 こうむ った冠 かんむり はCorno Ducaleと呼 よ ばれるものである。これは宝石 ほうせき 細工 ざいく の施 ほどこ された錦 にしき のボンネット であり、先 さき が角 かく のように尖 とが っていた。これは軟 やわ らかな麻 あさ のカマウロ (英語 えいご 版 ばん ) の上 うえ に被 かぶ られた。復活 ふっかつ 祭 さい の翌日 よくじつ にドージェはサン・マルコ広場 ひろば からサン・ザッカリア修道院 しゅうどういん まで行進 こうしん し、そこで女子 じょし 修道 しゅうどう 院長 いんちょう から、修道 しゅうどう 女 おんな が織 お った新 あたら しいカマウロを贈 おく られた。
大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい はヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の最高 さいこう 決定 けってい 機関 きかん であり、1300年 ねん 前後 ぜんこう に制定 せいてい されたセッラータと呼 よ ばれる一連 いちれん の法的 ほうてき 措置 そち によって、大 だい 評議 ひょうぎ 会議 かいぎ 員 いん は貴族 きぞく 階級 かいきゅう の世襲 せしゅう 制 せい とされていた[6] 。国家 こっか 元首 げんしゅ であるドージェも含 ふく め重要 じゅうよう な国家 こっか 官職 かんしょく はすべて大 だい 評議 ひょうぎ 会議 かいぎ 員 いん の中 なか から選 えら ばれた[6] 。
大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい には、十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい 、四 よん 十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい 、シニョリーアおよびサン・マルコ財務 ざいむ 官 かん や司法 しほう 長官 ちょうかん が属 ぞく していた。
サン・マルコ財務 ざいむ 官 かん (イタリア語 ご : Procuratori di San Marco )当初 とうしょ はサン・マルコ寺院 じいん の施設 しせつ 及 およ び財産 ざいさん を管理 かんり する責任 せきにん 者 しゃ として創設 そうせつ された官職 かんしょく 。のちに、サン・マルコ寺院 じいん に寄進 きしん される莫大 ばくだい な資産 しさん や財宝 ざいほう 、国内 こくない で徴収 ちょうしゅう される教会 きょうかい 税 ぜい 、政府 せいふ の税収 ぜいしゅう や戦利 せんり 品 ひん を管理 かんり ・運営 うんえい する職責 しょくせき も与 あた えられたことから、国家 こっか 官職 かんしょく の中 なか でもドージェに次 つ ぐ大 おお きな権力 けんりょく を持 も つようになった[7] 。
フランチェスコ・アイエツ の「ドージェマリーノ・ファリエロ の死 し 」における十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい (1867)
十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい (ヴェネト語 ご : Consejo de i Diexe 、イタリア語 ご : Consiglio dei Dieci )は1310年 ねん に設立 せつりつ され、1797年 ねん の共和 きょうわ 国 こく 滅亡 めつぼう まで存続 そんぞく した政府 せいふ の中枢 ちゅうすう 機関 きかん である。その活動 かつどう はしばしば秘密 ひみつ にされたが、市民 しみん からは効率 こうりつ 的 てき かつ公正 こうせい な機関 きかん であると認識 にんしき されていた。十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい は、1310年 ねん 7月 がつ 10日 とおか にバイヤモンテ・ティエポロ (イタリア語 ご 版 ばん ) が共和 きょうわ 国 こく に対 たい して起 お こした反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ するために、臨時 りんじ 職 しょく として設 もう けられた。当初 とうしょ は2ヶ月 かげつ 間 あいだ の暫定 ざんてい 機関 きかん であったが、期限 きげん の更新 こうしん が繰 く り返 かえ され、1335年 ねん に常設 じょうせつ 化 か された。
十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい の公式 こうしき な任務 にんむ は、共和 きょうわ 国 こく の治安 ちあん 維持 いじ ならびに政府 せいふ 転覆 てんぷく および汚職 おしょく の防止 ぼうし である。しかし、組織 そしき が小 ちい さく迅速 じんそく な決定 けってい が可能 かのう なため、その職務 しょくむ 範囲 はんい は徐々 じょじょ に拡大 かくだい し、1457年 ねん の時点 じてん では政府 せいふ の業務 ぎょうむ 全般 ぜんぱん を取 と り扱 あつか うようになった。特 とく に、十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい は共和 きょうわ 国 こく の外交 がいこう および諜報 ちょうほう 活動 かつどう を監督 かんとく し、軍 ぐん を管理 かんり し、そして奢侈 しゃし 禁止 きんし 令 れい を始 はじ めとする様々 さまざま な法律 ほうりつ の執行 しっこう を司 つかさど った。また、十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい は不道徳 ふどうとく な行 おこな い、特 とく に賭博 とばく の取 と り締 し まりを試 こころ みたが、これはうまくいかなかった。
四 よん 十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) (ヴェネト語 ご : Cuarantia 、イタリア語 ご : Quarantia )は大 だい 評議 ひょうぎ 会議 かいぎ 員 いん から選 えら ばれ司法 しほう 権限 けんげん を有 ゆう していた。
シニョリーア (英語 えいご 版 ばん ) (イタリア語 ご : Serenissima Signoria )は、ドージェ、6名 めい の評議 ひょうぎ 員 いん (Minor Consiglio)、四 よん 十 じゅう 人 にん 委員 いいん 会 かい の3名 めい の代表 だいひょう から構成 こうせい される合計 ごうけい 10名 めい の執政 しっせい 機関 きかん 。日本語 にほんご で政庁 せいちょう [8] と表記 ひょうき されることもある。
ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく は、イタリア最大 さいだい の水系 すいけい であるポ ぽ ー川 がわ を含 ふく む河川 かせん と、アドリア海 あどりあかい の制 せい 水 すい 権 けん を獲得 かくとく しつつ商業 しょうぎょう を拡大 かくだい させた。のちにはイオニア海 かい 、東 ひがし 地中海 ちちゅうかい へと領地 りょうち を拡大 かくだい して支配 しはい 力 りょく を高 たか めた。
食料 しょくりょう を自給 じきゅう できないヴェネツィアにとって、初期 しょき の交易 こうえき では食料 しょくりょう の調達 ちょうたつ が特 とく に重要 じゅうよう とされた。ポ ぽ ー川 がわ をはじめとして内陸 ないりく からアドリア海 あどりあかい に流 なが れる河川 かせん にそって交易 こうえき が行 おこな われ、イタリア王国 おうこく 内 ない にあるヴェネツィアの修道院 しゅうどういん や貴族 きぞく の土地 とち や、内陸 ないりく の都市 とし から食料 しょくりょう を入手 にゅうしゅ した。重要 じゅうよう な河川 かせん には警備 けいび のための要塞 ようさい や艦隊 かんたい が用意 ようい された。
海路 かいろ では、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の食料 しょくりょう 交易 こうえき などに加 くわ えて、教皇 きょうこう 領 りょう のあるマルケ地方 ちほう 、シチリア王国 おうこく 、ラテン帝国 ていこく やアカイア公国 こうこく などのギリシア諸国 しょこく 、クレタ島 とう などから食料 しょくりょう を輸入 ゆにゅう した。さらには、小麦 こむぎ 、ワイン、オリ おり ーブ油 ぶゆ 、いちじく、チーズ、塩 しお などの食料 しょくりょう を海外 かいがい から内陸 ないりく 都市 とし へ再 さい 輸出 ゆしゅつ することを独占 どくせん し、対立 たいりつ する都市 とし には禁輸 きんゆ を行 おこな うなどの政治 せいじ 的 てき 手段 しゅだん も用 もち いた[9] 。
ヴェネツィア商人 しょうにん は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない での特権 とっけん によって、帝国 ていこく 内 ない の都市 とし 間 あいだ や、シチリア王国 おうこく 、十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか 、エジプトなどの諸 しょ 国家 こっか と交易 こうえき を行 おこな った。胡椒 こしょう や絹 きぬ などの東方 とうほう 貿易 ぼうえき の商品 しょうひん のほか、オリ おり ーブ油 ぶゆ 、ワイン、綿 めん 、羊毛 ようもう 皮 がわ 、インディゴ、武具 ぶぐ 、木材 もくざい 、奴隷 どれい などが取引 とりひき された。帝国 ていこく 内 ない では大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ が支配 しはい 的 てき 地位 ちい にあり、商人 しょうにん は排除 はいじょ されていたため、帝国 ていこく 内 ない で多大 ただい な利益 りえき をあげた。
13世紀 せいき には、黒海 こっかい 東部 とうぶ にモンゴル人 じん 国家 こっか のジョチ・ウルス やイル・ハン国 こく が成立 せいりつ した。一方 いっぽう で地中海 ちちゅうかい ではマムルーク朝 あさ によって十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか が消滅 しょうめつ し、教皇 きょうこう はキリスト教徒 きりすときょうと とマムルーク朝 あさ との交易 こうえき を禁 きん じた。このためヴェネツィアは東方 とうほう 貿易 ぼうえき の商品 しょうひん を黒海 こっかい 経由 けいゆ で取引 とりひき するようになり、黒海 こっかい は香辛料 こうしんりょう 、絹 きぬ 、奴隷 どれい などの一大 いちだい 供給 きょうきゅう 地 ち となった[10] 。
イベリア半島 はんとう でレコンキスタ が進行 しんこう し、ジブラルタル海峡 かいきょう での交通 こうつう が安定 あんてい すると、ヴェネツィアもロンドン やブリュージュ まで商船 しょうせん を送 おく るようになった。地中海 ちちゅうかい と北 きた ヨーロッパは、それまでの陸路 りくろ にかわって海路 かいろ が活発 かっぱつ となる。イタリア北部 ほくぶ では綿 めん 工業 こうぎょう が盛 さか んになり、ヴェネツィアは原料 げんりょう と製品 せいひん の輸送 ゆそう を行 おこな った。
カナル・グランデ に面 めん したリアルト市場 いちば で取引 とりひき が行 おこな われた。商船 しょうせん が帰港 きこう し、出航 しゅっこう するまでの間 あいだ に輸入 ゆにゅう 商品 しょうひん の販売 はんばい と輸出 ゆしゅつ 商品 しょうひん の購入 こうにゅう がされた。地中海 ちちゅうかい は冬 ふゆ は航海 こうかい に適 てき さず、夏 なつ と冬 ふゆ に取引 とりひき が多 おお かった。
商業 しょうぎょう 金融 きんゆう として、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 法 ほう の影響 えいきょう を受 う けたコレガンツァ(同輩 どうはい 組合 くみあい )があった。コレガンツァには融資 ゆうし 者 しゃ とされる者 もの の双方 そうほう が出資 しゅっし する形式 けいしき と、片方 かたがた のみが出資 しゅっし する形式 けいしき があった。前者 ぜんしゃ はソキエタス、後者 こうしゃ はコンメンダとも呼 よ ばれる。双方 そうほう が出資 しゅっし するコレガンツァは融資 ゆうし 者 しゃ が3分 ぶん の2、商人 しょうにん が3分 ぶん の1を出資 しゅっし し、利潤 りじゅん は折半 せっぱん した。片方 かたがた のみ出資 しゅっし するコレガンツァは融資 ゆうし 者 しゃ が全額 ぜんがく を出資 しゅっし し、利潤 りじゅん は融資 ゆうし 者 しゃ が4分 ぶん の3、商人 しょうにん が4分 ぶん の1を受 う け取 と った。資本 しほん の増加 ぞうか とともに片方 かたがた のみ出資 しゅっし するコレガンツァが増 ふ え、資本 しほん がなくても能力 のうりょく がある者 もの によって商人 しょうにん 階層 かいそう が拡大 かくだい した。のちには海上 かいじょう 貸付 かしつけ や為替 かわせ などの金融 きんゆう も用 もち いられるようになった。
ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の通貨 つうか 単位 たんい はリラ(伊 い : lira )であり、複数 ふくすう 形 がた はlire である。1807年 ねん までは独自 どくじ のヴェネツィア・リラを発行 はっこう していた。1リラは20ソルド(伊 い : soldo 、複数 ふくすう 形 がた soldi )であり、1ソルドは12デナロ(伊 い : denaro 、複数 ふくすう 形 がた denari )である。ドゥカート は124ソルドであり、「ゼッキーノ」(伊 い : zecchino )としても知 し られるtallero は7リラである。1807年 ねん 、ナポレオンのイタリア王国 おうこく の下 した でイタリア・リラ が通貨 つうか として定 さだ められた。
18世紀 せいき 後半 こうはん には、以下 いか の硬貨 こうか が鋳造 ちゅうぞう された。ビロン 硬貨 こうか として6デナロおよび12デナロ。銀貨 ぎんか として5, 10, 15,および30ソルド。
1/8, 1/4, 1/2,および1ドゥカート、1/8, 1/4, 1/2,および1 tallero。金貨 きんか として1/4, 1/2,および1ドゥカート、1 doppia,そして
4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 18, 20, 24, 25, 30, 40, 50, 55, 60, 100, および105ゼッキーノ。
1797年 ねん の臨時 りんじ 政府 せいふ は10リラ銀貨 ぎんか を発行 はっこう し、続 つづ くオーストリアによる占領 せんりょう 下 か では、1/2, 1, 1.5,および2リラ銀貨 ぎんか と1 zechinno金貨 きんか が1800年 ねん から1802年 ねん の間 あいだ に発行 はっこう された。
イタリアでは都市 とし 国家 こっか によって組合 くみあい の構成 こうせい が異 こと なり、会計 かいけい にも影響 えいきょう を及 およ ぼした。ヴェネツィアでは、貴族 きぞく の血縁 けつえん を中心 ちゅうしん とした家族 かぞく 組合 くみあい (ソキエタス)による口 くち 別 べつ 損益 そんえき 計算 けいさん が行 おこな われた。ルカ・パチョーリ がヴェネツィアで出版 しゅっぱん した数学 すうがく 書 しょ 『スムマ 』(1494年 ねん )は、複式 ふくしき 簿記 ぼき を最初 さいしょ に体系 たいけい 化 か ・理論 りろん 化 か した書籍 しょせき でもあった。イタリア諸 しょ 都市 とし では13世紀 せいき には職業 しょくぎょう 会計士 かいけいし (rationator)が営利 えいり 事業 じぎょう の会計 かいけい と監査 かんさ に関 かか わっており、ヴェネツィアでは1581年 ねん に世界 せかい 初 はつ の職業 しょくぎょう 会計士 かいけいし 協会 きょうかい が設立 せつりつ され、1585年 ねん に会計 かいけい 専門 せんもん 学校 がっこう (Collegio dei Raxonati)も設立 せつりつ された。これは公 おおやけ 会計 かいけい と監査 かんさ の人材 じんざい 育成 いくせい という目的 もくてき があった。
ヴェネツィアの簿記 ぼき は国外 こくがい に伝 つた わり、15世紀 せいき にはニュルンベルクを中心 ちゅうしん とする南 みなみ ドイツの商人 しょうにん が複式 ふくしき 簿記 ぼき を採用 さいよう した。フッガー家 か のヤーコプ・フッガー や、フッガーの会計 かいけい 主任 しゅにん になるマッティウス・シュヴァルツ (英語 えいご 版 ばん ) もヴェネツィアで複式 ふくしき 簿記 ぼき を学 まな び、フッガー家 か の繁栄 はんえい の一因 いちいん となった。
13世紀 せいき 以降 いこう の地中海 ちちゅうかい では船舶 せんぱく の種類 しゅるい が増 ふ え、コグ船 せん やガレー商船 しょうせん などが導入 どうにゅう された。ヴェネツィアはガレー商船 しょうせん が他国 たこく に比 くら べて多 おお く、統一 とういつ 規格 きかく にもとづいて国立 こくりつ 造船 ぞうせん 所 しょ (アルセナーレ )で建造 けんぞう し、国家 こっか の所有 しょゆう のもとで定期 ていき 航海 こうかい を行 おこな った。船団 せんだん の利用 りよう 権 けん は有力 ゆうりょく 商人 しょうにん たちの競売 きょうばい にかけられ、ガレー商船 しょうせん は積載 せきさい 量 りょう が小 ちい さいため高価 こうか 軽量 けいりょう の商品 しょうひん を運 はこ んだ。海軍 かいぐん によって安全 あんぜん を確保 かくほ し、定期 ていき 的 てき に船団 せんだん が運営 うんえい される点 てん は、ヴェネツィアのガレー商船 しょうせん の特徴 とくちょう だった。一方 いっぽう で、帆船 はんせん は多 おお くが私立 しりつ 造船 ぞうせん 所 しょ で建造 けんぞう され、ヴェネツィア人 じん 以外 いがい にも用 もち いられた。帆船 はんせん は積載 せきさい 量 りょう が大 おお きいため、食料 しょくりょう 、綿 めん や羊毛 ようもう などの原料 げんりょう 、資材 しざい などの低 てい 価格 かかく で重量 じゅうりょう のある商品 しょうひん を運 はこ んだ。
13世紀 せいき 以降 いこう は、それまでの行商 ぎょうしょう から、通信 つうしん による取引 とりひき への移行 いこう が進 すす んだ。商人 しょうにん は船便 せんびん による文書 ぶんしょ で連絡 れんらく を取 と り、遠方 えんぽう の市場 いちば にいる代理人 だいりにん に取引 とりひき を頼 たの んだ。15世紀 せいき にダマスクスの代理人 だいりにん からヴェネツィアへ送 おく られた文書 ぶんしょ としては、商業 しょうぎょう 書簡 しょかん 、勘定 かんじょう 書 しょ 、価格 かかく 表 ひょう 、購入 こうにゅう 報告 ほうこく 書 しょ の4種類 しゅるい の記録 きろく がある。このように文書 ぶんしょ によって遠方 えんぽう の取引 とりひき を行 おこな っていた[15] 。
ヨハネス・グーテンベルク の活版 かっぱん 印刷 いんさつ が1460年代 ねんだい からイタリアに導入 どうにゅう され、ヴェネツィアがヨーロッパ最大 さいだい の印刷 いんさつ センターとなった。ヴェネツィアの印刷 いんさつ 技術 ぎじゅつ は鮮明 せんめい さ、紙質 かみしつ 、字体 じたい で定評 ていひょう があり、現在 げんざい はインキュナブラ と呼 よ ばれる印刷物 いんさつぶつ が多数 たすう 製作 せいさく された。
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編集 へんしゅう
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編集 へんしゅう
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