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ラヴェンナ総督府 - Wikipedia
ラヴェンナ総督そうとく
Exarchatus Ravennatis
Εξαρχάτο της Ραβέννας
イタリア道 584ねん - 751ねん ヴェネツィア共和国
ランゴバルド王国
教皇領
ロンゴバルディア
ラヴェンナ総督府の位置
600ねんごろのラヴェンナ総督そうとくりょうあか)とひがしマ帝国まていこくもも
首都しゅと ラヴェンナ
元首げんしゅとう
xxxxねん - xxxxねん 不明ふめい
変遷へんせん
ランゴバルドじんのイタリア侵入しんにゅう 568ねん
総督そうとく設立せつりつ584ねん
ラヴェンナ陥落かんらく751ねん
現在げんざいクロアチアの旗 クロアチア
フランスの旗 フランス
イタリアの旗 イタリア
サンマリノの旗 サンマリノ
スロベニアの旗 スロベニア
バチカンの旗 バチカンこく

ラヴェンナ総督そうとく(ラヴェンナそうとくふ、ラテン語らてんご: Exarchatus Ravennatis)もしくはイタリア総督そうとく (イタリアそうとくふ、イタリア: Esarcato d'Italia) は、ひがしマ帝国まていこくイタリア半島はんとう統治とうちのためにラヴェンナ設置せっちした政府せいふ機関きかん。584ねん設立せつりつされ、751ねん最後さいご総督そうとくエクザルフ)がランゴバルドじんたおされるまで存続そんぞくした[1]ユスティニアヌス1せいがより効率こうりつてき西方せいほう統治とうちのために設置せっちした、アフリカ総督そうとく英語えいごばんたいになる総督そうとくである。

背景はいけい

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402ねん西にしローマ皇帝こうていホノリウス首都しゅとローマからラヴェンナにうつした。アドリア海あどりあかいめんした良港りょうこうがあり、また陸上りくじょうでは沼沢しょうたくかこまれ防衛ぼうえい有利ゆうりだったためである。476ねん西にしマ帝国まていこく滅亡めつぼうオドアケルひがしゴート王国おうこくてたテオドリックもラヴェンナを首都しゅととした。

ゴート戦争せんそうなかの540ねんひがしマ帝国まていこく将軍しょうぐんベリサリウスがラヴェンナを占領せんりょうし、ここをイタリア統治とうち拠点きょてんとした。このころひがしマ帝国まていこくのイタリア支配しはい体系たいけいは、かつてディオクレティアヌスみかど整備せいびし、オドアケルやひがしゴートじん利用りようした制度せいどをそのまま踏襲とうしゅうしたみち制度せいどであった。

ランゴバルドじん侵攻しんこう総督そうとく成立せいりつ

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590ねんのイタリア。帝国ていこくりょうだいだい)ランゴバルドりょうみどり

568ねんアルボインひきいるランゴバルドじんとその同盟どうめい部族ぶぞく集団しゅうだんきたイタリア侵攻しんこうした。この地域ちいきは554ねんまで20ねんちかくにわたりつづいたゴート戦争せんそうによる荒廃こうはいからほとんど復興ふっこうしていなかった。ひがしローマぐん抵抗ていこうよわく、569ねんにはメディオーラーヌム(ミラノ)をうばわれた[2]。さらに3年間ねんかん包囲ほういせんすえ572ねんにパヴィーアをとしたランゴバルドじんは、ここをランゴバルド王国おうこく首都しゅととした[3]すうねんのうちにファロアルド1せいゾットらランゴバルドじん中央ちゅうおうイタリアみなみイタリア征服せいふくし、それぞれスポレート公国こうこくベネヴェント公国こうこくてた[4]。しかし572ねんにアルボインが、574ねんにその後継こうけいしゃクレフ暗殺あんさつされランゴバルド王国おうこく諸公しょこう時代じだいはいると、ランゴバルドじんいきおいが一時いちじてきよわまった。

これを好機こうき皇帝こうていユスティヌス2せいむすめ婿むこのバドゥアリウスをイタリアに派遣はけんしたが、バドゥアリウスはランゴバルドじんやぶ戦死せんしした[5]。またバルカン半島ばるかんはんとう混乱こんらん渦中かちゅうにあり、もはやひがしマ帝国まていこくはイタリア政策せいさく注力ちゅうりょくすることができなくなった。ランゴバルドじんやぶられた帝国ていこくりょうイタリアはばかりとなり、580ねんにティベリウス2せいはイタリアのだい部分ぶぶん喪失そうしつした事実じじつみとめ、イタリアの領土りょうどを5つのしゅう(エパルキエス)に分割ぶんかつした。すなわちアンノナリア(ラヴェンナ)、カラブリアカンパニアエミリア、ウルビカリア(ローマ周辺しゅうへん)である。6世紀せいきわるまでに、この5しゅうではそれぞれあらたな支配しはい体系たいけい成立せいりつした。ラヴェンナには総督そうとくがおかれ、総督そうとくにはラヴェンナみなと、その周辺しゅうへんきたがわヴェネツィア公国こうこくせっし、みなみマレッキアがわペンタポリス公国こうこくせっする領域りょういき)における、内政ないせい軍事ぐんじ教会きょうかい管理かんり権限けんげんあたえられた[6]

総督そうとく概要がいよう

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ランゴバルドじん内陸ないりく制圧せいあつしたため、ひがしマ帝国まていこく勢力せいりょくしょ公国こうこくローマ公国こうこくヴェネツィア公国こうこくカラブリア公国こうこくナポリ公国こうこくペルージャ公国こうこくペンタポリス公国こうこくテマ・ルカニアなど)がさえる海岸かいがんしょ都市としかぎられた。これらの帝国ていこくりょう政治せいじてき軍事ぐんじてきちょうであるラヴェンナ総督そうとくは、コンスタンティノープルにいる皇帝こうてい代理だいり相当そうとうする地位ちいであった。その直接ちょくせつ統治とうち領域りょういきはアペニン山脈さんみゃく東側ひがしがわおおっていた。その帝国ていこくりょうドゥクスやマギストリ・ミリトゥムがよりつよ権威けんいっていた。とはいえ、すくなくとも名目めいもくじょうは、イタリア半島はんとう全体ぜんたいがラヴェンナ総督そうとく管轄かんかつとされていた。おな帝国ていこくりょうでも、シチリアとう独自どくじ政府せいふがおかれ、またコルシカとうサルディーニャとうアフリカ総督そうとく統括とうかつした。

パヴィーアを首都しゅととしたランゴバルド王国おうこくは、ピエモンテロンバルディアヴェネツィア本土ほんどヴェネツィアとうのぞ大陸たいりく)、トスカーナ、カンパニア内陸ないりくさえ、640ねんにはリグリアからも帝国ていこく勢力せいりょく駆逐くちくした。ナポリやカラブリアの帝国ていこくりょうもベネヴェント公国こうこくによってすこしずつけずられていき、ローマでは教皇きょうこう実質じっしつてき支配しはいしゃとなっていた。教皇きょうこうとラヴェンナ総督そうとくは、対立たいりつ協力きょうりょくかえした。教皇きょうこうはローマにおける帝国ていこくへの不満ふまん緩和かんわ利用りようされる一方いっぽうで、教皇きょうこうやローマ元老げんろういんは、自分じぶんたちを支配しはいしている総督そうとく外部がいぶからの介入かいにゅうしゃとしてうとんでいた。

総督そうとく歴史れきしは、皇帝こうていによる集権しゅうけんてき主権しゅけんのもとでの統治とうちからヨーロッパ封建ほうけんせいへの過渡かとにあたっていた。コンスタンティノープルの皇帝こうてい努力どりょくにもかかわらず、総督そうとくなどの中央ちゅうおうむすけられていた役人やくにん次第しだい世襲せしゅうてき血族けつぞくてきになり、地域ちいき土地とち所有しょゆうしゃ支配しはいしゃ変質へんしつしていった。またランゴバルドじんたいする防衛ぼうえい戦力せんりょく供給きょうきゅうのために、最初さいしょ正規せいき帝国ていこくぐん付随ふずいするだけだった領内りょうないからの徴募ちょうぼへいが、次第しだい中央ちゅうおうから独立どくりつした常備じょうびぐん様相ようそうていするようになった。こうした軍隊ぐんたいはラヴェンナ以外いがいでもイタリア各地かくち帝国ていこくりょう都市としでみられ、中世ちゅうせいイタリア都市とし国家こっか市民しみんぐん先駆せんくとなった。

終焉しゅうえんとその

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6世紀せいきから7世紀せいきにかけてランゴバルドじんフランクじん脅威きょういし、イコノクラスムをめぐるローマ教皇きょうこうひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノープルそう主教しゅきょう対立たいりつふかまるなかで、あいだつラヴェンナ総督そうとく立場たちば一層いっそう不安定ふあんていになった。皇帝こうていレオーン3せいはラヴェンナ総督そうとくパウルスたいし、重税じゅうぜい抵抗ていこうする教皇きょうこうグレゴリウス2せいころすか投獄とうごくするようめいじたが、パウルスはこれに失敗しっぱいして727ねんにグレゴリウス2せい扇動せんどうした反乱はんらんぐんによってころされた。エウティキウスいだが、751ねんにランゴバルドおうアイストゥルフほろぼされ、ラヴェンナ総督そうとく消滅しょうめつした。このことは同時どうじに、上記じょうきのように皇帝こうていとの対立たいりつふかめていたローマ教皇きょうこう自立じりつ意味いみした。総督そうとく滅亡めつぼう直前ちょくぜんの740ねん時点じてんでラヴェンナ総督そうとく支配しはいにあった地域ちいきは、イストリア、ヴェネツィア、フェラーラ、ラヴェンナ(厳密げんみつ意味いみでのラヴェンナ総督そうとくりょう)、ペンタポリス、ペルージャだった。

教皇きょうこうステファヌス2せい要請ようせいけたフランクおうピピン3せいは、756ねんにランゴバルド王国おうこくやぶり、きゅうラヴェンナ総督そうとくりょうひがしマ帝国まていこく返還へんかんせずそのまま教皇きょうこう寄進きしんした。このピピンの寄進きしんは、774ねんにランゴバルド王国おうこくほろぼしたカール大帝たいていによって拡充かくじゅうされ、ここに教皇きょうこうりょう成立せいりつした。ただしラヴェンナ大司教だいしきょうひがしマ帝国まていこく以来いらいのラヴェンナにおける特権とっけん独立どくりつ教会きょうかい地位ちいたもった。

ランゴバルドじんによるラヴェンナ総督そうとく滅亡めつぼう、そして教皇きょうこうひがしマ帝国まていこくからの独立どくりつによって、ユスティニアヌス1せい時代じだい獲得かくとくされたひがしローマりょうイタリアはそのほぼすべてがうしなわれた。総督そうとく滅亡めつぼう、ナポリやカラブリアなど残存ざんそんしているみなみイタリア(マグナ・グラエキア)のひがしマ帝国まていこくりょうバーリカテパノ統括とうかつはいった。9世紀せいきにシチリアがアラブじん征服せいふくされると、この地域ちいきはテマ・カラブリアとテマ・ランゴバルディアに再編さいへんされ、アドリア海あどりあかい北岸ほくがんのイストリアはダルマティア編入へんにゅうされた。

ラヴェンナ総督そうとく一覧いちらん

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任期にんきについては、史料しりょうによってことなる場合ばあいがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Moffat 2017, p. 55.
  2. ^ Smith 1849, p. 679.
  3. ^ Paul the Deacon. “Book 2:ch. 26-27”. Historia Langobardorum 
  4. ^ Hodgkin. The Lombard Invasion. Italy and Her Invaders, Vol. 5, Book VI. pp. 71–73 
  5. ^ John of Biclaro. Chronicle 
  6. ^ Hallenbeck. Pavia and Rome: The Lombard Monarchy and the Papacy in the Eighth Century. 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Moffat, Ann (2017). “The Orient Express:Abbot John's Rapid trip from Constantinople to Ravenna c. AD 700”. In Brown, Amelia Robertson; Neil, Bronwen. Byzantine Culture in Translation. Brill 
  • Borri, Francesco (July–December 2005). “Duces e magistri militum nell’Italia esarcale (VI-VIII secolo)” (Italian) (PDF). Estratto da Reti Medievali Rivista (Firenze University Press) VI (2). ISSN 1593-2214. オリジナルの2008-05-18時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080518163814/http://www.storia.unifi.it/_RM/rivista/saggi/Borri.htm 2008ねん5がつ21にち閲覧えつらん. 
  • Brown, T. S. (1991). “Byzantine Italy c. 680 - c.876”. In Rosamond McKitterick. The New Cambridge Medieval History: II. c. 700 - c. 900. Cambridge University Press. ISBN 0-521-36292-X 
  • Diehl, Charles (French). Etudes sur l'Administration Byzantine dans l'Exarchat de Ravenne (568-751). Research & Source Works Series Byzantine Series No. 39. New York: Burt Franklin. ISBN 0-8337-0854-4 
  • Hallenbeck, Jan T. (1982). “Pavia and Rome: The Lombard Monarchy and the Papacy in the Eighth Century”. Transactions of the American Philosophical Society 72 (4): 1–186. doi:10.2307/1006429. JSTOR 1006429. (ISBN) 0-87169-724-6. 
  • Hartmann, Ludo M. (June 1971) (German). Untersuchungen zur Geschichte der byzantinischen Verwaltung in Italien (540-750). Research & Source Works Series No. 86. New York: Burt Franklin. ISBN 978-0-8337-1584-5 
  • Hodgkin, Thomas. 553-600 The Lombard Invasion. Italy and Her Invaders, Vol. 5, Book VI (Replica ed.). Boston: Elibron Classics 
  • John of Biclaro. Chronicle 
  • Norwich, John Julius (1982). A History of Venice. New York: Alfred A. Knopf 
  • Paul the Deacon. “Book 2:ch. 26-27”. Historia Langobardorum. わけ:William Dudley Foulke(ラテン語らてんごから). University of Pennsylvania 
  • Smith, William (1849). Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology. C.C. Little and J. Brown. https://books.google.co.jp/books?id=2ek_AAAAYAAJ&dq