ランゴバルド人 じん の侵攻 しんこう と総督 そうとく 府 ふ の成立 せいりつ
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590年 ねん のイタリア。帝国 ていこく 領 りょう (橙 だいだい )ランゴバルド領 りょう (緑 みどり )
568年 ねん 、アルボイン 率 ひき いるランゴバルド人 じん とその同盟 どうめい 部族 ぶぞく 集団 しゅうだん が北 きた イタリア に侵攻 しんこう した。この地域 ちいき は554年 ねん まで20年 ねん 近 ちか くにわたり続 つづ いたゴート戦争 せんそう による荒廃 こうはい からほとんど復興 ふっこう していなかった。東 ひがし ローマ軍 ぐん の抵抗 ていこう は弱 よわ く、569年 ねん にはメディオーラーヌム(ミラノ )を奪 うば われた。さらに3年間 ねんかん の包囲 ほうい 戦 せん の末 すえ 572年 ねん にパヴィーアを落 お としたランゴバルド人 じん は、ここをランゴバルド王国 おうこく の首都 しゅと とした[ 3] 。数 すう 年 ねん のうちにファロアルド1世 せい やゾット らランゴバルド人 じん が中央 ちゅうおう イタリア や南 みなみ イタリア を征服 せいふく し、それぞれスポレート公国 こうこく とベネヴェント公国 こうこく を建 た てた[ 4] 。しかし572年 ねん にアルボインが、574年 ねん にその後継 こうけい 者 しゃ クレフ が暗殺 あんさつ されランゴバルド王国 おうこく が諸公 しょこう の時代 じだい に入 はい ると、ランゴバルド人 じん の勢 いきお いが一時 いちじ 的 てき に弱 よわ まった。
これを好機 こうき と見 み た皇帝 こうてい ユスティヌス2世 せい は娘 むすめ 婿 むこ のバドゥアリウスをイタリアに派遣 はけん したが、バドゥアリウスはランゴバルド人 じん に敗 やぶ れ戦死 せんし した[ 5] 。またバルカン半島 ばるかんはんとう も混乱 こんらん の渦中 かちゅう にあり、もはや東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はイタリア政策 せいさく に注力 ちゅうりょく することができなくなった。ランゴバルド人 じん に食 く い破 やぶ られた帝国 ていこく 領 りょう イタリアは飛 と び地 ち ばかりとなり、580年 ねん にティベリウス2世 せい はイタリアの大 だい 部分 ぶぶん を喪失 そうしつ した事実 じじつ を認 みと め、イタリアの領土 りょうど を5つの州 しゅう (エパルキエス)に分割 ぶんかつ した。すなわちアンノナリア(ラヴェンナ)、カラブリア 、カンパニア 、エミリア 、ウルビカリア(ローマ 周辺 しゅうへん )である。6世紀 せいき が終 お わるまでに、この5州 しゅう ではそれぞれ新 あら たな支配 しはい 体系 たいけい が成立 せいりつ した。ラヴェンナには総督 そうとく 府 ふ がおかれ、総督 そうとく にはラヴェンナ市 し 、港 みなと 、その周辺 しゅうへん (北 きた はポ ぽ ー川 がわ でヴェネツィア公国 こうこく に接 せっ し、南 みなみ はマレッキア川 がわ でペンタポリス公国 こうこく に接 せっ する領域 りょういき )における、内政 ないせい と軍事 ぐんじ 、教会 きょうかい 管理 かんり の権限 けんげん が与 あた えられた[ 6] 。
ランゴバルド人 じん が内陸 ないりく 部 ぶ を制圧 せいあつ したため、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の勢力 せいりょく は諸 しょ 公国 こうこく (ローマ公国 こうこく 、ヴェネツィア公国 こうこく 、カラブリア公国 こうこく 、ナポリ公国 こうこく 、ペルージャ公国 こうこく 、ペンタポリス公国 こうこく 、テマ・ルカニア など)が押 お さえる海岸 かいがん の諸 しょ 都市 とし に限 かぎ られた。これらの帝国 ていこく 領 りょう の政治 せいじ 的 てき ・軍事 ぐんじ 的 てき な長 ちょう であるラヴェンナ総督 そうとく は、コンスタンティノープルにいる皇帝 こうてい の代理 だいり に相当 そうとう する地位 ちい であった。その直接 ちょくせつ の統治 とうち 領域 りょういき はアペニン山脈 さんみゃく の東側 ひがしがわ を覆 おお っていた。その他 た の帝国 ていこく 領 りょう はドゥクス やマギストリ・ミリトゥムがより強 つよ い権威 けんい を持 も っていた。とはいえ、少 すく なくとも名目 めいもく 上 じょう は、イタリア半島 はんとう 全体 ぜんたい がラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ の管轄 かんかつ とされていた。同 おな じ帝国 ていこく 領 りょう でも、シチリア島 とう は独自 どくじ の政府 せいふ がおかれ、またコルシカ島 とう やサルディーニャ島 とう はアフリカ総督 そうとく 府 ふ が統括 とうかつ した。
パヴィーアを首都 しゅと としたランゴバルド王国 おうこく は、ピエモンテ 、ロンバルディア 、ヴェネツィア本土 ほんど (ヴェネツィア島 とう を除 のぞ く大陸 たいりく 部 ぶ )、トスカーナ 、カンパニア内陸 ないりく 部 ぶ を押 お さえ、640年 ねん にはリグリア からも帝国 ていこく の勢力 せいりょく を駆逐 くちく した。ナポリやカラブリアの帝国 ていこく 領 りょう もベネヴェント公国 こうこく によって少 すこ しずつ削 けず られていき、ローマでは教皇 きょうこう が実質 じっしつ 的 てき な支配 しはい 者 しゃ となっていた。教皇 きょうこう とラヴェンナ総督 そうとく は、対立 たいりつ と協力 きょうりょく を繰 く り返 かえ した。教皇 きょうこう はローマにおける帝国 ていこく への不満 ふまん 緩和 かんわ に利用 りよう される一方 いっぽう で、教皇 きょうこう やローマ元老 げんろう 院 いん は、自分 じぶん たちを支配 しはい している総督 そうとく を外部 がいぶ からの介入 かいにゅう 者 しゃ として疎 うと んでいた。
総督 そうとく 府 ふ の歴史 れきし は、皇帝 こうてい による集権 しゅうけん 的 てき 主権 しゅけん のもとでの統治 とうち からヨーロッパ封建 ほうけん 制 せい への過渡 かと 期 き にあたっていた。コンスタンティノープルの皇帝 こうてい の努力 どりょく にもかかわらず、総督 そうとく などの中央 ちゅうおう に結 むす び付 つ けられていた役人 やくにん は次第 しだい に世襲 せしゅう 的 てき 、血族 けつぞく 的 てき になり、地域 ちいき の土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ 、支配 しはい 者 しゃ に変質 へんしつ していった。またランゴバルド人 じん に対 たい する防衛 ぼうえい 戦力 せんりょく 供給 きょうきゅう のために、最初 さいしょ は正規 せいき の帝国 ていこく 軍 ぐん に付随 ふずい するだけだった領内 りょうない からの徴募 ちょうぼ 兵 へい が、次第 しだい に中央 ちゅうおう から独立 どくりつ した常備 じょうび 軍 ぐん の様相 ようそう を呈 てい するようになった。こうした軍隊 ぐんたい はラヴェンナ以外 いがい でもイタリア各地 かくち の帝国 ていこく 領 りょう 都市 とし でみられ、中世 ちゅうせい イタリア都市 とし 国家 こっか の市民 しみん 軍 ぐん の先駆 せんく となった。
6世紀 せいき から7世紀 せいき にかけてランゴバルド人 じん やフランク人 じん の脅威 きょうい が増 ま し、イコノクラスム をめぐるローマ教皇 きょうこう と東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ・コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の対立 たいりつ が深 ふか まる中 なか で、間 あいだ に立 た つラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ の立場 たちば は一層 いっそう 不安定 ふあんてい になった。皇帝 こうてい レオーン3世 せい はラヴェンナ総督 そうとく パウルス に対 たい し、重税 じゅうぜい に抵抗 ていこう する教皇 きょうこう グレゴリウス2世 せい を殺 ころ すか投獄 とうごく するよう命 めい じたが、パウルスはこれに失敗 しっぱい して727年 ねん にグレゴリウス2世 せい が扇動 せんどう した反乱 はんらん 軍 ぐん によって殺 ころ された。エウティキウス が後 ご を継 つ いだが、751年 ねん にランゴバルド王 おう アイストゥルフ に滅 ほろ ぼされ、ラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ は消滅 しょうめつ した。このことは同時 どうじ に、上記 じょうき のように皇帝 こうてい との対立 たいりつ を深 ふか めていたローマ教皇 きょうこう の自立 じりつ を意味 いみ した。総督 そうとく 府 ふ 滅亡 めつぼう 直前 ちょくぜん の740年 ねん 時点 じてん でラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ の支配 しはい 下 か にあった地域 ちいき は、イストリア 、ヴェネツィア、フェラーラ 、ラヴェンナ(厳密 げんみつ な意味 いみ でのラヴェンナ総督 そうとく 領 りょう )、ペンタポリス、ペルージャ だった。
教皇 きょうこう ステファヌス2世 せい の要請 ようせい を受 う けたフランク王 おう ピピン3世 せい は、756年 ねん にランゴバルド王国 おうこく を破 やぶ り、旧 きゅう ラヴェンナ総督 そうとく 領 りょう を東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に返還 へんかん せずそのまま教皇 きょうこう に寄進 きしん した。このピピンの寄進 きしん は、774年 ねん にランゴバルド王国 おうこく を滅 ほろ ぼしたカール大帝 たいてい によって拡充 かくじゅう され、ここに教皇 きょうこう 領 りょう が成立 せいりつ した。ただしラヴェンナ大司教 だいしきょう は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 以来 いらい のラヴェンナにおける特権 とっけん と独立 どくりつ 教会 きょうかい の地位 ちい を保 たも った。
ランゴバルド人 じん によるラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ の滅亡 めつぼう 、そして教皇 きょうこう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく からの独立 どくりつ によって、ユスティニアヌス1世 せい 時代 じだい に獲得 かくとく された東 ひがし ローマ領 りょう イタリアはそのほぼすべてが失 うしな われた。総督 そうとく 府 ふ 滅亡 めつぼう 後 ご 、ナポリやカラブリアなど残存 ざんそん している南 みなみ イタリア(マグナ・グラエキア )の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう はバーリ のカテパノ の統括 とうかつ 下 か に入 はい った。9世紀 せいき にシチリアがアラブ人 じん に征服 せいふく されると、この地域 ちいき はテマ・カラブリアとテマ・ランゴバルディアに再編 さいへん され、アドリア海 あどりあかい 北岸 ほくがん のイストリアはダルマティア に編入 へんにゅう された。
任期 にんき については、史料 しりょう によって異 こと なる場合 ばあい がある。
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