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北イタリア - Wikipedia

きたイタリア(きたイタリア)は、イタリア北部ほくぶ地域ちいき呼称こしょう南北なんぼく二分にぶんする場合ばあいと、北部ほくぶ中部ちゅうぶ南部なんぶさんふんする場合ばあいがあるが、おも後者こうしゃ場合ばあいおおい。後者こうしゃ意味いみでのきたイタリアの異称いしょうとして、元々もともとポー平原へいげん意味いみするパダーニア(パダニア、パダーニャ)の呼称こしょうもちいられ、独立どくりつもしくは地域ちいき主権しゅけん志向しこうする立場たちばからの支持しじける。

きたイタリア

概略がいりゃく

編集へんしゅう

日本語にほんごでは厳密げんみつきたイタリアにふくまれるしゅうまっているわけではないが、大抵たいていはイタリアでの区分くぶん踏襲とうしゅうしていてエミリア=ロマーニャしゅう以北いほくとなっている。西にしからピエモンテしゅうヴァッレ・ダオスタしゅうリグーリアしゅうロンバルディアしゅうエミリア=ロマーニャしゅうヴェネトしゅうトレンティーノ=アルト・アディジェしゅうフリウリ=ヴェネツィア・ジュリアしゅうふくまれる。

ここは元来がんらいローマじんではなく、ケルトじんガリア一部いちぶガリア・キサルピナであった。マ帝国まていこくテトラルキア時代じだいには、ミラノが西にしせいみかどりょう首都しゅととなっている。ゲルマニアランゴバルドじん建国けんこくしたランゴバルド王国おうこく名残なごりをのこすロンバルディアなどもある。

これらのかみきよしマ帝国まていこく領域りょういきとなったが、同国どうこく皇帝こうていけん当地とうちでは弱体じゃくたいであった。教皇きょうこう皇帝こうてい対立たいりつするなかで、帝国ていこく中心ちゅうしんであったドイツ地域ちいき教皇きょうこう地盤じばんであるイタリア半島はんとう中部ちゅうぶなかあいだてき位置いちにあることから、そのどちらとも適切てきせつ距離きょりきつつ実利じつりるような自治じち都市とし発達はったつした。そのなかでもヴェネツィアジェノヴァ地中海ちちゅうかい経済けいざい覇権はけんあらそい、経済けいざいりょく背景はいけい強力きょうりょく海軍かいぐん保有ほゆうした。当時とうじ文化ぶんか先進地せんしんちであった中東ちゅうとう・エジプトとの交易こうえき、および同様どうよう文化ぶんか先進地せんしんちであったひがしマ帝国まていこくへの経済けいざい進出しんしゅつとその崩壊ほうかいにともなう亡命ぼうめい学者がくしゃれ、さらに教皇きょうこう世俗せぞく権力けんりょくについて合従連衡がっしょうれんこうするという教会きょうかい相対そうたいせざるをえない状況じょうきょうなかで、人間にんげん主義しゅぎてき文芸ぶんげい復興ふっこうであるルネサンス中心ちゅうしんとなる。神聖しんせいマ帝国まていこく退潮たいちょうすすむと、かみきよしマ帝国まていこくわりフランスとローマ教皇きょうこう覇権はけんあらそとなる。

このように国際こくさいてき商業しょうぎょう文化ぶんか発達はったつさせたきたイタリアは、みなみイタリアなどにくらべ、地理ちりてきみなみドイツ(オーストリアスイスふくむ)にちかいため近代きんだいすすんでいて平均へいきん所得しょとくたかく、イタリアの連邦れんぽうせいへの移行いこう目指めざしている同盟どうめい支持しじ基盤きばんとなった(現在げんざい同盟どうめい南部なんぶにも支持しじひろげている)。

南北なんぼく二分にぶんする場合ばあい上記じょうきしゅう以外いがい南部なんぶとする場合ばあいラツィオしゅうあたりまでを北部ほくぶふくめる場合ばあい(すなわちりょうシチリア王国おうこくりょうではなかった地域ちいき)など、かたはばがある。

イタリア最大さいだい都市としけんミラノをはじめ、工業こうぎょう都市としトリノ国内こくない屈指くっし港湾こうわん都市としジェノバ欧州おうしゅう屈指くっし自動車じどうしゃ生産せいさん地帯ちたいであるエミリア・ロマーニャしゅうなどをゆうしており、全体ぜんたい工業こうぎょうさかんで富裕ふゆう地域ちいきとしてられる。

その一方いっぽう温暖おんだん地中海ちちゅうかいせい気候きこうである前述ぜんじゅつみなみイタリアとはことなり、比較的ひかくてき大陸たいりくせい冷涼れいりょう気候きこうられ、ふゆにはゆきもることもおおい。農業のうぎょうおも酪農らくのう小麦こむぎ栽培さいばい主力しゅりょくとなっている。やまがちでなが都市とし国家こっか分立ぶんりつしていたことから伝統でんとうてき地方ちほう分権ぶんけんもとめる政治せいじ意識いしきつよく、中央ちゅうおう集権しゅうけんてき南部なんぶとは一線いっせんかくす。

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