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イタリア社会共和国 - Wikipedia

イタリア社会しゃかい共和きょうわこく

かつてローマ以北いほく存在そんざいしたドイツの傀儡かいらい政権せいけん
イタリア社会しゃかい共和きょうわこく
Repubblica Sociale Italiana (イタリア)
イタリア王国 1943ねん - 1945ねん イタリア王国
イタリアの国旗 イタリアの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Per l'onore d'Italia(イタリア
イタリアの名誉めいよため
国歌こっか: Giovinezza(イタリア[1]
青年せいねん
イタリアの位置
  イタリア社会しゃかい共和きょうわこく支配しはい地域ちいき最大さいだい版図はんと
  どう時期じきイタリア王国おうこく支配しはい地域ちいき
公用こうよう イタリア
首都しゅと ローマ法律ほうりつじょう
サロ
ブレシア
ガルニャーノ
ヴェローナ
ミラノ
国家こっかすべりょう
1943ねん - 1945ねん ベニート・ムッソリーニ
ちゅうドイツ大使たいし英語えいごばん
1943ねん - 1945ねんルドルフ・ラーン英語えいごばん
変遷へんせん
グラン・サッソ襲撃しゅうげき 1943ねん9がつ12にち
建国けんこく宣言せんげん1943ねん9がつ23にち
1945ねんのレジスタンス英語えいごばん1945ねん4がつ25にち
通貨つうかイタリア・リラ
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
クロアチアの旗 クロアチア

イタリア社会しゃかい共和きょうわこく(イタリアしゃかいきょうわこく、Repubblica Sociale ItalianaRSI)は、1943ねん9月から1945ねん4がつまでローマ以北いほくイタリア存在そんざいした国家こっかである[2]成立せいりつ当初とうしょ北部ほくぶ中部ちゅうぶイタリアを支配しはい地域ちいきとする、だい2のイタリア・ファシズム政権せいけんであったが、実質じっしつてきにはドイツ傀儡かいらいこくであり、親衛隊しんえいたいドイツ国防こくぼうぐんつよ統制とうせいけた[3][4]

イタリア歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。

イタリア ポータル

サロ共和きょうわこくRepubblica di Salò)ともばれるが、これはRSIが建国けんこく初期しょきガルダ湖畔こはんまちサロ政府せいふをおいていたためである[5]法律ほうりつじょう首都しゅとローマであったが、実務じつむじょう首都しゅともサロから状況じょうきょうわせてブレシアガルニャーノヴェローナなどに遷都せんとかえされ、最終さいしゅうてきにはミラノ政府せいふ中枢ちゅうすう設置せっちされていた。

歴史れきし 編集へんしゅう

クーデターと休戦きゅうせん 編集へんしゅう

 
RSIぐん軍旗ぐんきファスケスをつかむぎんわしをあしらっている。
正式せいしき国旗こっきは、上記じょうきのように紋章もんしょうトリコローレ現在げんざいイタリア国旗こっきおなじ)であったが実際じっさいにはほとんど使つかわれず、わりに軍旗ぐんきプロパガンダ意図いとして一般いっぱんてきもちいられた。

だい世界せかい大戦たいせんで、ドイツの同盟どうめいこく枢軸すうじくこく)として参加さんかしたイタリア王国おうこくは、連合れんごうぐんシチリアとう上陸じょうりく本国ほんごく占領せんりょう危機ききにさらされた。ここにいたってヴィットーリオ・アンブロージオ参謀さんぼう総長そうちょうジュゼッペ・カステラーノイタリアばん将軍しょうぐんイタリア王国おうこくぐん内部ないぶ休戦きゅうせんファシストとう穏健おんけん、それに敗戦はいせんによる王政おうせい廃止はいしおそれるおう党派とうははんムッソリーニでむすいた。1943ねん7がつ25にち徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうするベニート・ムッソリーニ国王こくおう共謀きょうぼうした反対はんたい勢力せいりょく政治せいじてきクーデター(グランディ決議けつぎ)で首相しゅしょうしょく解任かいにんされ、グラン・サッソのホテルに幽閉ゆうへいされた。

後継こうけい首相しゅしょうとなったピエトロ・バドリオ元帥げんすいはドイツに戦争せんそう継続けいぞく約束やくそくしつつ、連合れんごうこくとのあいだ休戦きゅうせん交渉こうしょうすすめ、9月2にち休戦きゅうせん協定きょうてい極秘ごくひうら締結ていけつした。しかし公表こうひょう時期じきをめぐってイタリアがわ対応たいおうさだまらず、9月8にち連合れんごうぐんドワイト・D・アイゼンハワー大将たいしょう了承りょうしょうなくイタリアとの休戦きゅうせん成立せいりつ公表こうひょうし、バドリオ政府せいふもこれを追認ついにんした。これにより前線ぜんせん軍部ぐんぶたい唐突とうとつたたかいのわりをらされる格好かっこうになった。ドイツのアドルフ・ヒトラーは、かねてから計画けいかくしていたイタリアきた中部ちゅうぶへの進駐しんちゅうアッシェ作戦さくせん英語えいごばん、アラリック作戦さくせん)を発動はつどうドイツ国防こくぼうぐんはイタリアと、南仏なんふつ・バルカンのイタリア占領せんりょう地域ちいき進駐しんちゅうする。国王こくおう政権せいけん閣僚かくりょうたちはローマをてて連合れんごうぐん占領せんりょう地域ちいき避難ひなんした。

RSI政府せいふ樹立じゅりつ 編集へんしゅう

 
1943ねん当時とうじきたイタリア。
  イタリア社会しゃかい共和きょうわこく支配しはい地域ちいき
  ドイツ占領せんりょう地域ちいき

イタリア地方ちほう進駐しんちゅう開始かいししたドイツ国防こくぼうぐんであったが、バドリオ政権せいけん寝返ねがえった以上いじょう統治とうちするうえにおいておなじファシストをほうずる勢力せいりょくつく必要ひつようがあり、その白羽しらは旧友きゅうゆうムッソリーニにてた。ヒトラーの思惑おもわくした、ドイツ国防こくぼうぐんオットー・スコルツェニーひきいる特殊とくしゅ部隊ぶたいによる9月12にちグラン・サッソ襲撃しゅうげき救出きゅうしゅつされたムッソリーニは、9月15にちひがしプロイセンラステンブルクでヒトラーと会談かいだんし「ファシズムにもとづいた共和きょうわせい国家こっか」の樹立じゅりつ同意どうい9月18にち共和きょうわファシストとう創立そうりつ9月23にちにムッソリーニを国家こっか元首げんしゅとするイタリア社会しゃかい共和きょうわこく建国けんこくされた。この国家こっかは、ムッソリーニが元首げんしゅ外務がいむ大臣だいじん兼務けんむし、かたちうえではムッソリーニの独裁どくさい体制たいせい復活ふっかつさせた。ムッソリーニは胃癌いがんにより衰弱すいじゃくしていたが、ヒトラーはミラノやトリノ、ジェノヴァなどきたイタリアの大都市だいとし破壊はかいするより有効ゆうこう活用かつようしたいとかんがえていた。

ムッソリーニとファシストとう強硬きょうこうによってきずかれたしん国家こっか王国おうこく政府せいふ休戦きゅうせんを「不名誉ふめいよ裏切うらぎり」と非難ひなんし「名誉めいよあるつぎせん」を主張しゅちょう、イタリアはローマ以北いほくのイタリア社会しゃかい共和きょうわこくとローマ以南いなんのイタリア王国おうこくかれての内戦ないせん状態じょうたい突入とつにゅうした。イタリア社会しゃかい共和きょうわこく枢軸すうじくぐん占領せんりょうしていたローマを法的ほうてき首都しゅとさだめたが、治安ちあんうえ問題もんだいからミラノとヴェネツィアの中間ちゅうかん位置いちするサロを臨時りんじ首都しゅととした。

枢軸すうじくこくがわ即座そくざしん政権せいけん承認しょうにんし、日本にっぽん大使館たいしかんヴェネツィアいた(大使たいし日高ひだか信六郎しんろくろう)。中立ちゅうりつこくであったスペインポルトガルアルゼンチン承認しょうにんしなかったものの、非公式ひこうしき関係かんけいっていた[6]。しかし、ドイツとふか関係かんけいにあったフィンランドヴィシー政権せいけんさえも承認しょうにんおこなわなかった[7][8]バチカン承認しょうにんしなかった[9]

衛星えいせいこくとしての出発しゅっぱつ 編集へんしゅう

独立どくりつこくとして組織そしきされたイタリア社会しゃかい共和きょうわこくであったが、実質じっしつてきにはドイツの影響えいきょうかれた傀儡かいらい政権せいけんであった。北東ほくとうはドイツぐんによる占領せんりょうかれ、なかでもきゅうオーストリアりょうであったみなみチロル地域ちいき一部いちぶ実質じっしつてきなドイツがわ支配しはいすすめられつつあった。工業こうぎょう地帯ちたい生産せいさんされた銃器じゅうき輸送ゆそう車両しゃりょうのこっていた備蓄びちく物資ぶっしのみならず、農作物のうさくもつまでがドイツ本国ほんごくよう配給はいきゅうぶつとしてされた。さらには軍事ぐんじには関係かんけいのない美術びじゅつひんまでも接収せっしゅうされるなど、なか占領せんりょうのようなあつかいまでけた。また通常つうじょうドイツの占領せんりょう設置せっちされる親衛隊しんえいたい親衛隊しんえいたいおよ警察けいさつ指導しどうしゃ(「イタリア」親衛隊しんえいたいおよ警察けいさつさい高級こうきゅう指導しどうしゃドイツ: Höchster SS- und Polizeiführer „Italien“)が設置せっちされ、カール・ヴォルフ親衛隊しんえいたい大将たいしょうがそのにんたった。ムッソリーニ自身じしん建前たてまえじょう独裁どくさいしゃとして振舞ふるまったが、みずからの実情じつじょうが「ロンバルディア・ナチス」の指導しどうしゃぎないことを自覚じかくしていた。税収ぜいしゅう確保かくほ憲法けんぽうなどくに根幹こんかん部分ぶぶん整備せいびで、ドイツによる占領せんりょう統治とうち同質どうしつ状況じょうきょうであった。

ドイツはムッソリーニの挫折ざせつしたファシスト体制たいせい復興ふっこう治安ちあん維持いじ円滑えんかつ以上いじょうなさず、ユダヤじん弾圧だんあつ政策せいさくなどイタリア・ファシズムがでなかった行為こうい強硬きょうこうすすめた。またヒトラーはムッソリーニに自身じしん罷免ひめん賛同さんどうしたファシストとう幹部かんぶへの粛清しゅくせい強制きょうせいし、最終さいしゅうてきにムッソリーニはエミーリオ・デ・ボーノ将軍しょうぐんむすめ婿むこでもあるガレアッツォ・チャーノ外相がいしょうらをはじめとするクーデターに参加さんかした閣僚かくりょう将軍しょうぐんらを処刑しょけいした。

経済けいざい政策せいさく 編集へんしゅう

RSI政府せいふ労働ろうどう組合くみあいストライキ禁止きんししつつも、労働ろうどうしゃ階級かいきゅう一層いっそう人民じんみん主義しゅぎうったえた。ムッソリーニは資本しほん主義しゅぎによってもたらされるおおくの決定けっていくに不幸ふこうにしていると演説えんぜつした。かれきたイタリアの民衆みんしゅうのぞむなら、おう党派とうはとの協力きょうりょくいがんだファシスト体制たいせい本来ほんらいかたち(=修正しゅうせいマルクス主義まるくすしゅぎ発展はってん)へともどすと宣言せんげんした。演説えんぜつなかでムッソリーニはみずからが幼少ようしょうから青年せいねんいたるまでつちかってカール・マルクスへの心酔しんすいてたことはいちとしてなかったし、これからもないと断言だんげんした。1940ねん企業きぎょう完全かんぜん国営こくえい推進すいしんする予定よていでいたが、戦争せんそうかんする理由りゆうからこれを延期えんきしていたとべた[10]

 
経済けいざい社会しゃかい」を推進すいしんしたニコラ・ボンバッチ

RSI政府せいふ君主くんしゅせい撤廃てっぱいつづき、100にん以上いじょう社員しゃいん会社かいしゃすべてを国営こくえいする路線ろせんすすめた。経済けいざい政策せいさくは、社会党しゃかいとう時代じだい友人ゆうじんマルクス主義まるくすしゅぎ理論りろんニコラ・ボムバッチ作成さくせいした経済けいざい理論りろんもとづいておこなわれた。これは「経済けいざい社会しゃかい」とばれている。ムッソリーニはヒトラーとの個人こじんてき友情ゆうじょう背景はいけいにドイツからの支援しえんしていたが、両者りょうしゃりのなかでムッソリーニはおなマルクス主義まるくすしゅぎからの派生はせい信奉しんぽうするソヴィエトよりも、資本しほん主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎのイギリスのほう本質ほんしつてきにファシズムの敵対てきたいしゃであると発言はつげんした。

イタリアの労働ろうどうしゃ集団しゅうだんのうち、のこっていた社会しゃかい主義しゅぎもの共産きょうさん主義しゅぎもの多数たすうは、この経済けいざい社会しゃかい欺瞞ぎまんとみなし、1944ねん3がつ1にちだい規模きぼストライキをこした[11]

大戦たいせん末期まっき抵抗ていこう 編集へんしゅう

ムッソリーニは枢軸すうじくこくがわ敗北はいぼく決定的けっていてきとなるなかで、「ミラノを南部なんぶ戦線せんせんスターリングラードにせねばならない」と訓示くんじするなど、諦観ていかんただよ演説えんぜつ兵士へいしたちっている。ドイツ国内こくないスイスでの亡命ぼうめい政権せいけん樹立じゅりつ検討けんとうされたものの、国内こくない最後さいごまで抵抗ていこう組織そしきすることが議決ぎけつされ、実際じっさいにイタリア社会しゃかい共和きょうわ国軍こくぐんはより成果せいかげて連合れんごうぐんくるしめた。イタリア社会しゃかい共和きょうわ国軍こくぐんかく部隊ぶたい元々もともとパルチザン掃討そうとう期待きたいされてドイツ国防こくぼうぐんから創設そうせつ段階だんかいてき許可きょかされたが、その戦果せんか当初とうしょ予想よそうされていたものをはるかにしのぐものだった。

すでふるイタリアぐん兵士へいしカラビニエリ残党ざんとうへい義勇軍ぎゆうぐん各地かくち組織そしきしており、国防こくぼう大臣だいじんであったロドルフォ・グラツィアーニ元帥げんすい義勇軍ぎゆうぐん一本いっぽん平行へいこうしてドイツ国防こくぼうぐん支援しえんしたあらたな正規せいきぐんENR)の編成へんせいすすめた。1943ねん10がつ16にちドイツ陸軍りくぐんとラステンブルク軍事ぐんじ協定きょうてい締結ていけつされ、ドイツ国防こくぼうぐんしき訓練くんれん装備そうび導入どうにゅうすることがまった。この協定きょうていによりRSI正規せいきぐん4師団しだん編成へんせいまり、RSIぐん自主じしゅてき義勇軍ぎゆうぐん部隊ぶたい他国たこくぐん支援しえんによる正規せいきぐん部隊ぶたいというふたつの要素ようそつことになった。また陸海空りくかいくうぐんとはべつに、治安ちあん専門せんもんとする国家こっか憲兵けんぺいともいうべき部隊ぶたい各所かくしょ組織そしきされ、戦列せんれつくわわった。

正規せいきぐんうち、3師団しだんはRSIぐん中核ちゅうかくリグリアぐん集団しゅうだん(ピエモンテしゅう駐屯ちゅうとん)に編入へんにゅうされ、だい4師団しだん「イタリア」のみがアブルッツォしゅう駐留ちゅうりゅうするどくだい14ぐんくわえられた。1944ねん12月26にちだい1師団しだん『モンテ・ローザ』とだい3師団しだん『サン・マルコ』はふゆあらし作戦さくせんべいだい92歩兵ほへい師団しだん「バッファロー」への攻撃こうげきてられた。りょう師団しだん攻撃こうげき成功せいこうわり、べいだい92歩兵ほへい師団しだん損害そんがいけて敗北はいぼくした。1945ねん2がつふたたまいだい92歩兵ほへい師団しだんはRSIぐん今度こんどしゅとして相対あいたいしたが、だい4師団しだん「イタリア」に敗北はいぼくして前進ぜんしん失敗しっぱいした。

ドイツ国防こくぼうぐんない創設そうせつされたイタリアじん義勇ぎゆう兵団へいだんだいいちイタリア」もきわめて良好りょうこう結果けっかし、アンツィオの連合れんごうぐん包囲ほういもうやぶってドイツぐん脱出だっしゅつするときあいだかせ大功たいこうたした。親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラーは「どう兵団へいだんいま完全かんぜん武装ぶそう親衛隊しんえいたい一部いちぶとなった」と賞賛しょうさんして、どう部隊ぶたい武装ぶそうSS所属しょぞくの擲弾へい旅団りょだん格上かくあげした。

崩壊ほうかい 編集へんしゅう

1945ねん4がつ、ヴォルフ親衛隊しんえいたい大将たいしょうとイタリア戦線せんせん主戦しゅせんりょくであるCぐん集団しゅうだんハインリヒ・フォン・フィーティングホフ大将たいしょう連合れんごうぐんへの降伏ごうぶく決定けっていした。ドイツ国防こくぼうぐん降伏ごうぶくはRSI政府せいふにも通告つうこくされず、りえたのはRSIぐん一部いちぶ部隊ぶたいのみであった。4月25にちパルチザンはこのを「自由じゆう記念きねん」とんだ)、RSI政府せいふ事実じじつじょう政権せいけん崩壊ほうかいまれた。元首げんしゅムッソリーニも4がつ27にち拘束こうそくされ、法的ほうてき裏付うらづけをたない略式りゃくしき裁判さいばんてパルチザンに射殺しゃさつされた。RSIぐんは4がつ29にちまで抵抗ていこうつづけたのち、グラツィアーニ元帥げんすい署名しょめい降伏ごうぶく同意どういした。

軍隊ぐんたい 編集へんしゅう

陸軍りくぐん 編集へんしゅう

 
閲兵えっぺいける陸軍りくぐん部隊ぶたい
 
軍旗ぐんきはイタリア国旗こっきたかファッショえがかれたもの使用しようされた
 
サブマシンガンようマガジンベスト「サムライ」を装備そうびするイタリア社会しゃかい共和きょうわこくへい1944ねんひがしプロイセン
 
サン・マルコ海兵かいへい師団しだんへい
 
治安ちあん部隊ぶたい兵士へいしはなすムッソリーニ

正規せいきぐん部隊ぶたい 編集へんしゅう

だい1師団しだん『モンテ・ローザ』 - アルピーニ(山岳さんがくへい部隊ぶたい 編集へんしゅう

1943ねん11月、みなみドイツ・ムンツィンゲン練兵れんぺいじょうきゅうイタリアぐん山岳さんがくへい1000めい中心ちゅうしんとして組織そしきされる。

新兵しんぺい合流ごうりゅうしていくにつれて部隊ぶたい規模きぼ拡大かくだいし、最終さいしゅうてきには1まん7000めいものだい部隊ぶたいへと発展はってんしたどう師団しだんのENR部隊ぶたい同様どうよう、ドイツ国防こくぼうぐんしき訓練くんれんけ、対戦たいせんしゃ戦闘せんとうなども想定そうていしたきびしいさい訓練くんれんほどこされた。

装備そうびモーゼルKar98k小銃しょうじゅうパンツァーシュレックなどドイツ国防こくぼうぐん兵器へいきかためた「モンテ・ローザ」師団しだん本国ほんごく帰還きかんし、リグリア地方ちほうぐん(グラツィアーニ元帥げんすい指揮しき)へ配属はいぞくされ、1944ねん10がつのゴシックライン防衛ぼうえいせん初陣ういじんかざる。モンテ・ローザ師団しだん得意とくい山岳さんがくせん担当たんとうし、連合れんごうぐんブラジルぐん師団しだん手痛ていた打撃だげきあたえるなど戦果せんかげる。1944ねんれに開始かいしされた「ふゆあらし作戦さくせんではどくだい148擲弾へい師団しだんと「フレッター・ピコ戦闘せんとうだん」を形成けいせいのRSIぐん部隊ぶたいとも獅子奮迅ししふんじん活躍かつやくせ、友軍ゆうぐんたるドイツ国防こくぼうぐんのうちどくだい285擲弾へい連隊れんたい士気しき低下ていかによる脱走だっそうへい大量たいりょう発生はっせいどう師団しだんアルザス出身しゅっしん兵士へいしめられていたという)するなど不利ふり状況じょうきょうながら、優勢ゆうせい連合れんごうぐんおおいにくるしめ翌年よくねんの4がつまでその足止あしどめに成功せいこうした。

ドイツ国防こくぼうぐん司令しれいからもどう作戦さくせんでの勇戦ゆうせん賞賛しょうさんされ、おおくの兵士へいしきゅうてつじゅうあきらあたえられた『モンテ・ローザ』師団しだんであったが、1945ねん4がつ以降いこう状況じょうきょうはもはやいち部隊ぶたいではなにともしかたく、最高さいこう指導しどうしゃムッソリーニが処刑しょけいされRSI政府せいふ崩壊ほうかいする前後ぜんごパルマ連合れんごうぐん降伏ごうぶくした。

ちなみにそのさい武装ぶそう解除かいじょ担当たんとうしたのは、でもない前述ぜんじゅつのブラジルぐん部隊ぶたいであったというエピソードがのこっている。

また一部いちぶ部隊ぶたいパルチザンせん投入とうにゅうされ、ピエモンテしゅうアルプス国境こっきょうのレジスタンス部隊ぶたい鎮圧ちんあつ活躍かつやくした。

だい2師団しだん『リットリオ』 - 歩兵ほへい師団しだん 編集へんしゅう

きゅうイタリア陸軍りくぐん師団しだんめいいだ「リットリオ」師団しだんは、1944ねん4がつヴェストファーレン練兵れんぺいじょう組織そしきされた。

アゴースティ将軍しょうぐん指導しどうしたにドイツ国防こくぼうぐんしき訓練くんれんけ、ドイツせい装備そうび受領じゅりょうしたどう師団しだん本国ほんごく帰還きかんからもなくゴチックライン防衛ぼうえい投入とうにゅうおも戦線せんせん後方こうほうでのたいパルチザンせん担当たんとうした。そのはピエモンテしゅう移動いどうし、自由じゆうフランスぐんアメリカぐんとの山岳さんがくせん従事じゅうじしている。

編成へんせい運用うんようともに歩兵ほへい師団しだんであるどう師団しだんであるがいさましく擲弾へいといいかえられていた。ドイツ国防こくぼうぐんの擲弾へい同様どうようである。

だい3師団しだん『サン・マルコ』 - 海兵かいへい師団しだん 編集へんしゅう

名称めいしょうは、きゅうイタリア海軍かいぐん精鋭せいえい部隊ぶたいとしてせた海兵かいへい師団しだん由来ゆらいする。

ほん師団しだん最初さいしょから純粋じゅんすい陸軍りくぐん部隊ぶたいとして編成へんせいされているというちがいこそあったものの、兵員へいいんのほとんどは海軍かいぐん海兵かいへいたい出身しゅっしんしゃおなじく精鋭せいえいられたデチマ・マス海兵かいへい師団しだん出身しゅっしんしゃから構成こうせいされており、イタリア海軍かいぐん海兵かいへい師団しだん伝統でんとうぐにふさわしい陣容じんようそなえていた。

グラーフェンヴェール練兵れんぺいじょう訓練くんれんけたどう師団しだんはファリーナ将軍しょうぐん指揮しきしたにリグリア地方ちほうぐん編入へんにゅうジェノヴァ防衛ぼうえいせんたいパルチザン戦闘せんとう投入とうにゅうされたのちにガルファーニャの戦闘せんとう参加さんかした。ふゆ悪天候あくてんこうなかべいだい92師団しだん果敢かかんたたかいをいどんで戦功せんこうげ、同地どうち防衛ぼうえいおおきく寄与きよした「サン・マルコ」師団しだんは、どくイタリア防衛ぼうえいぐん司令しれいより感状かんじょうおくられている。

だい4師団しだん『イタリア』 - 歩兵ほへい師団しだん 編集へんしゅう

1943ねん11月にヴュルテンベルク練兵れんぺいじょう組織そしきされた「イタリア」師団しだん訓練くんれん終了しゅうりょう本国ほんごく帰還きかんするとカルローニ将軍しょうぐん指揮しきした、ゴシックライン防衛ぼうえいせん投入とうにゅうされた。「モンテ・ローザ」師団しだんや「サン・マルコ」師団しだんらが担当たんとうしていた地域ちいきあらたにまかされたどう師団しだんは9りょうM42突撃とつげきほうなど数少かずすくない対戦たいせんしゃ車両しゃりょうたよりにねばづよ防衛ぼうえいせん展開てんかいし、1945ねん4がつまつ弾薬だんやく物資ぶっし枯渇こかつによりポー平原へいげん後退こうたいするまでながきにわたってそよいたが、終戦しゅうせん間際まぎわにフォルノーヴォで連合れんごうぐん降伏ごうぶくみじか部隊ぶたい歴史れきしまくろした。

支援しえんぐん部隊ぶたい 編集へんしゅう

だい8ベルサリエリ義勇ぎゆう連隊れんたい『ルチアーノ・マナーラ』 編集へんしゅう

だい1ベルサリエリ大隊だいたい義勇ぎゆうへい部隊ぶたい統合とうごうするかたち連隊れんたい格上かくあげされ、ヴェローナにて組織そしきされた義勇軍ぎゆうぐん部隊ぶたい

指揮しきかんにはフィッチーニ大佐たいさ任命にんめいされ、さん大隊だいたいようするどう連隊れんたいかく戦闘せんとう参加さんかしていく。

だい1大隊だいたい『B・ムッソリーニ』はカヴァレッティ少佐しょうさ大隊だいたいちょうユーゴスラビアのチトーパルチザンとのたたかいに投入とうにゅうされ、のちにイタリアからチトー支援しえんおとずれたイタリアパルチザン『ガリバルディ旅団りょだん』とも銃火じゅうかまじえた。1945ねんには「ガリバルディ旅団りょだん」の撃退げきたい成功せいこうしているが枢軸すうじくこく敗戦はいせんにより退路たいろうしない、戦後せんご成立せいりつしたチトー政権せいけん戦犯せんぱんとして拘束こうそくされ、過酷かこく捕虜ほりょ生活せいかついられた。だい2大隊だいたい『G・マメーリ』は正規せいきぐんだい4師団しだん「イタリア」の補充ほじゅうへいとしてガルファーニャ戦線せんせん派遣はけんされ、どう師団しだん運命うんめいともにした。だい3大隊だいたい『E・トーティ』は本拠ほんきょヴェローナの防衛ぼうえいてっし、ムッソリーニ処刑しょけいによる政権せいけん崩壊ほうかいともな解散かいさんした。

ベルサリエリ狙撃そげきへいじゅうへい意味いみで、けい歩兵ほへい相当そうとうし、精鋭せいえいとされた。

『サン・ジウスト』装甲そうこうたい 編集へんしゅう

1941ねんからユーゴのイタリアぐん部隊ぶたい所属しょぞくし、休戦きゅうせんゴリツィア駐屯ちゅうとんしていたテグネッティ陸軍りくぐん大尉たいいひきいる戦車せんしゃ中隊ちゅうたい前身ぜんしん発足ほっそくされた。スパラートわずかな装備そうび補充ほじゅうけた装甲そうこうたい「サン・ジウスト」はユーゴへときびすをかえし、スロヴェニアで反乱はんらんぐんとのたたかいを再開さいかいする。大戦たいせん末期まっきには国土こくど防衛ぼうえいのため、イタリア本土ほんど召還しょうかんされ北進ほくしんする連合れんごうぐんとも戦闘せんとうおこなった。ムッソリーニ処刑しょけいによる政権せいけん崩壊ほうかいともな降伏ごうぶくする。

『レオンチェッロ』装甲そうこうたい 編集へんしゅう

イタリア・ロシア派遣はけんぐんがえりのズッカーロ騎兵きへい大尉たいい指導しどうした、ポルペンナーゼで結成けっせい

司令しれい中隊ちゅうたいちゅう戦車せんしゃ中隊ちゅうたいけい戦車せんしゃ中隊ちゅうたいから編成へんせいされ、後方こうほう警備けいび治安ちあん維持いじ従事じゅうじした。

だい1突撃とつげき大隊だいたい『フォルリ』 編集へんしゅう

かいたいされていたイタリア空軍くうぐんだい101戦闘せんとう航空こうくうだん残存ざんそんへいに、『くろ旅団りょだん』(治安ちあん維持いじ部隊ぶたいこう後述こうじゅつ)のアレッツォ駐屯ちゅうとん部隊ぶたい補充ほじゅうへいとしてくわえて結成けっせい、すぐにゴシックラインの東部とうぶ地域ちいき展開てんかいした。のちべつ義勇ぎゆうへい部隊ぶたいくわえてよん中隊ちゅうたい編成へんせいとなった「フォルリ」突撃とつげき大隊だいたいは、ドイツ国防こくぼうぐん要請ようせいどくだい278歩兵ほへい師団しだん一員いちいんとしてくわわる。ドイツ国防こくぼうぐん司令しれいかれらをドイツ国防こくぼうぐん部隊ぶたい一員いちいんとしてあつかい、ドイツせい装備そうびたずさえた「フォルリ」はその期待きたいこたえるべく各地かくち転戦てんせんし、戦線せんせん後方こうほうがったのちのドイツ国防こくぼうぐん部隊ぶたい補充ほじゅう部隊ぶたいとして勇敢ゆうかんたたかった。イタリア地方ちほう枢軸すうじくぐん総崩そうくずれになった1945ねん4がつ29にち、バッサーノで連合れんごうぐん降伏ごうぶくした。

武装ぶそう親衛隊しんえいたい 編集へんしゅう

だい29SS擲弾へい師団しだんだいいちイタリア』 編集へんしゅう

だい29SS武装ぶそう擲弾へい師団しだんは、ドイツ国防こくぼうぐんにより編成へんせいされドイツ国防こくぼうぐん武装ぶそう親衛隊しんえいたい部隊ぶたいとして運用うんようされており、厳密げんみつにはRSIぐん部隊ぶたいではない。しかし兵員へいいんすべてがイタリアじん兵士へいしから構成こうせいされており、RSIぐんともにイタリア戦線せんせん防衛ぼうえいにおいて重要じゅうようはたらきをしめしたため、記述きじゅつする。

海軍かいぐん 編集へんしゅう

水上みずかみ部隊ぶたい 編集へんしゅう

きゅうイタリア海軍かいぐん大型おおがた艦艇かんてい中型ちゅうがた艦艇かんてい海軍かいぐん艦艇かんていおおくは損失そんしつしたか、連合れんごうぐん艦艇かんていとなり連合れんごうこくがわいたかのみちをたどっており、RSI海軍かいぐん必然ひつぜんてき海兵かいへい部隊ぶたい小型こがた艦艇かんていたよるほかなく、その規模きぼおなきゅうイタリア海軍かいぐんなか連合れんごうこくがわいたみなみ王国おうこく海軍かいぐん(共同きょうどう交戦こうせん海軍かいぐん)イタリアばんのわずか20ぶんの1であった。そのうち、小型こがた艦艇かんていは60せき魚雷ぎょらいていと20すうせき人間にんげん魚雷ぎょらい、そしてポケット潜水せんすいかんからなっていた。1944ねんはるから魚雷ぎょらいてい部隊ぶたいさかんに連合れんごうぐん輸送ゆそうルートを襲撃しゅうげきして補給ほきゅう遮断しゃだんする作戦さくせん海上かいじょう攻撃こうげきした。揚陸ようりく計画けいかく延滞えんたいねらって輸送ゆそうかん度々たびたびしずめたり、フランス海軍かいぐん駆逐くちくかん大破たいはさせるなど、味方みかた陸上りくじょう作戦さくせん支援しえんした。

またポケット潜水せんすいかん1942ねんころから作戦さくせん一端いったんとして黒海こっかい沿岸えんがん活動かつどうしており、そのままRSI海軍かいぐんとしてコンスタンツァにきずかれた基地きちルーマニア海軍かいぐん共同きょうどう作戦さくせん従事じゅうじしていた。ソ連それんぐん侵攻しんこうによってルーマニアぐん連合れんごうこくがわ鞍替くらがえすると、RSI海軍かいぐん兵士へいしらは潜水せんすいかん獲得かくとくねらったルーマニア海軍かいぐんたいし、潜水せんすいかん破壊はかいすることでそれにこたえた。

なお、きゅうイタリア海軍かいぐんBETASOMばれる潜水せんすいかん基地きちフランス大西洋たいせいようがんボルドーゆうしており、通商つうしょう破壊はかいせん従事じゅうじしていたどう基地きち潜水せんすいかん休戦きゅうせんはRSI海軍かいぐんには編入へんにゅうされず、バドリオ降伏ごうぶくしたさいぜんかんドイツ海軍かいぐん接収せっしゅうされている。

デチマ・マス師団しだん 編集へんしゅう

上述じょうじゅつしたサン・マルコ師団しだん同様どうようたかたびほこっていた海軍かいぐん陸戦りくせん部隊ぶたいかんした海兵かいへい部隊ぶたい

しかし『サン・マルコ』とのおおきなちがいは、その編成へんせいいち将官しょうかんぎないユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ司令しれいかんかかわっていたことにある。貴族きぞく出身しゅっしんでありながらおう党派とうは敵対てきたいしてファシストがわ参加さんかするという独特どくとく経歴けいれきかれは、6,000めいもと隊員たいいんから旅団りょだん規模きぼ部隊ぶたいとして再建さいけんされた『デチマ・マス英語えいごばん』(: Decima MAS)の指揮しきゆだねられた。部隊ぶたい編成へんせいからしばらくして、バルバリゴ海兵かいへい大隊だいたいとサンジョルジョ砲兵ほうへい大隊だいたい投入とうにゅうされたのをきっかけにアンツィオ・ネットゥーノのたたかいへ参加さんかし、だい29SS擲弾へい師団しだんだいいちイタリア』ととも包囲ほういにあったドイツ国防こくぼうぐん救援きゅうえん成功せいこうする。そのうえ連合れんごうぐん追撃ついげきローマにまで後退こうたいした『デチマ・マス』はドイツ国防こくぼうぐん・RSIぐん双方そうほうから信頼しんらい獲得かくとく師団しだん規模きぼへの拡充かくじゅうすすめられた。

そのたか士気しきって各地かくち転戦てんせんしたどう師団しだんは、先々さきざき山岳さんがく大隊だいたい「ヴァランガ」やベルサリエリ大隊だいたい「フルミネ」、空挺くうてい大隊だいたい「NP」など本来ほんらい兵科へいか海兵かいへい)のわくえた多種たしゅ多様たよう部隊ぶたい編入へんにゅうするようになり、のち少数しょうすうながら戦車せんしゃたい合流ごうりゅうする。さらには海軍かいぐん本隊ほんたい水雷すいらいてい潜水せんすいかん勇名ゆうめいせた海上かいじょう特攻とっこうなどから水上すいじょう部隊ぶたい編成へんせいされ、のち航空機こうくうき部隊ぶたいくわわれば小国しょうこく軍隊ぐんたいすほどにだい規模きぼ部隊ぶたい成長せいちょうした『デチマ・マス』は「ボルケーゼこう私兵しへいだん」とひょうされるほどになっていた。

一方いっぽう本土ほんど決戦けっせん趨勢すうせいおおきく連合れんごうぐんがわかたむき、たたかいの中部ちゅうぶイタリアから北部ほくぶイタリアへとうつろうとしていた。ドイツ国防こくぼうぐんのヴォルフSS大将たいしょう防衛ぼうえいせんようとすべく、『デチマ・マス』をふつ国境こっきょうからスロヴェニアまでのぜん戦域せんいき展開てんかいすることにめる。「バルバリゴ」のようなベテランへい勇戦ゆうせん無論むろんのこと、徴兵ちょうへいされたばかりの新兵しんぺい部隊ぶたい「ルポ」(どくヘルマンゲーリング師団しだんから訓練くんれんけていた)も、カナダぐんイギリスぐん戦闘せんとう車両しゃりょう多数たすう撃破げきはしての足止あしどめをおこなうなど連合れんごうぐんくるしめた。だが連合れんごうぐん北進ほくしんまらず、フランスじんおな南欧なんおうからの義勇ぎゆうへいさんじんむなしく、4がつ27にち主戦しゅせんりょく喪失そうしつしてイギリスぐん降伏ごうぶくした。

RSIの大臣だいじんのリスト 編集へんしゅう

 
イタリア社会しゃかい共和きょうわこく象徴しょうちょう、ファスケスをったわし

RSI大臣だいじんおおくはだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまできられなかった。

すべりょうおよ首相しゅしょう
首相しゅしょう次官じかん
国防こくぼう大臣だいじん
内務ないむ大臣だいじん
外務がいむ大臣だいじん
法務大臣ほうむだいじん
財務ざいむ大臣だいじん
工業こうぎょう生産せいさん大臣だいじん
公共こうきょう事業じぎょう大臣だいじん
通信つうしん大臣だいじん
労働ろうどう大臣だいじん
国家こっか教育きょういく大臣だいじん
大衆たいしゅう文化ぶんか大臣だいじん
農林のうりん大臣だいじん
共和きょうわこく防衛ぼうえいぐん英語えいごばん司令しれいかん
共和きょうわファシストとう書記しょきちょう

参考さんこう書籍しょせき 編集へんしゅう

  • 『イタリアぐん入門にゅうもん 1939~1945 - だい大戦たいせんけたマ帝国まていこく末裔まつえいたち』吉川よしかわかずあつししる

関連かんれん作品さくひん 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ Italy (1922-1943)”. nationalanthems.info. 2015ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 欧州おうしゅう国際こくさい関係かんけい 1919-1946』大井おおいたかししる、943p
  3. ^ Renzo De Felice, Breve storia del fascismo, Milano, Mondadori (Collana oscar storia), 2002, pp. 120-121
  4. ^ Pauley, Bruce F. (2003), Hitler, Stalin and Mussolini: Totalitarianism in the Twentieth Century Italy (2nd ed.), Wheeling: Harlan Davidson, p. 228, ISBN 0-88295-993-X 
  5. ^ 日本にっぽん外交がいこう事典じてん外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん、1979ねん、1461p
  6. ^ Franco dichiarò all'ambasciatore tedesco di essere disponibile solo ad un riconoscimento di fatto perché Mussolini era ormai "solo un'ombra". Frederick William Deakin, Storia della repubblica di Salò, Torino, Einaudi, 1963, p. 568.
  7. ^ Renzo De Felice, Mussolini l'alleato, II, La guerra civile, 1943-1945, Torino, Einaudi, 1997, p. 358.
  8. ^ Per maggiori dettagli cfr. Marino Viganò, Il Ministero degli affari esteri e le relazioni internazionali della Repubblica sociale italiana, 1943-1945, Milano, Jaca book, 1991.
  9. ^ Template:Cita: «la Santa Sede non riconosceva il regime di Mussolini e aveva relazioni diplomatiche con il governo del re d'Italia che non controllava Roma».
  10. ^ Smith, Denis Mack (1983), Mussolini: A Biography, New York: Vintage Books, p. 311, ISBN 0394716582 .
  11. ^ De Grand, Alexander J. , Italian fascism: its origins & development, 3d edition (illustrated), Publisher: U of Nebraska Press, Year: 2000, ISBN 0803266227, p. 134-135

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう