RSI軍 ぐん の軍旗 ぐんき 。ファスケス をつかむ銀 ぎん の鷲 わし をあしらっている。正式 せいしき な国旗 こっき は、上記 じょうき のように無 む 紋章 もんしょう のトリコローレ (現在 げんざい のイタリア国旗 こっき と同 おな じ)であったが実際 じっさい にはほとんど使 つか われず、代 か わりに軍旗 ぐんき がプロパガンダ を意図 いと して一般 いっぱん 的 てき に用 もち いられた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で、ドイツの同盟 どうめい 国 こく (枢軸 すうじく 国 こく )として参加 さんか したイタリア王国 おうこく は、連合 れんごう 軍 ぐん のシチリア島 とう 上陸 じょうりく で本国 ほんごく 占領 せんりょう の危機 きき にさらされた。ここに至 いた ってヴィットーリオ・アンブロージオ 参謀 さんぼう 総長 そうちょう やジュゼッペ・カステラーノ (イタリア語 ご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん らイタリア王国 おうこく 軍 ぐん 内部 ないぶ の休戦 きゅうせん 派 は とファシスト党 とう 穏健 おんけん 派 は 、それに敗戦 はいせん による王政 おうせい 廃止 はいし を恐 おそ れる王 おう 党派 とうは が反 はん ムッソリーニで結 むす び付 つ いた。1943年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、徹底 てってい 抗戦 こうせん を主張 しゅちょう するベニート・ムッソリーニ は国王 こくおう と共謀 きょうぼう した反対 はんたい 派 は 勢力 せいりょく の政治 せいじ 的 てき クーデター(グランディ決議 けつぎ )で首相 しゅしょう 職 しょく を解任 かいにん され、グラン・サッソ のホテルに幽閉 ゆうへい された。
後継 こうけい の首相 しゅしょう となったピエトロ・バドリオ 元帥 げんすい はドイツに戦争 せんそう の継続 けいぞく を約束 やくそく しつつ、連合 れんごう 国 こく との間 あいだ で休戦 きゅうせん 交渉 こうしょう を進 すす め、9月2日 にち に休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を極秘 ごくひ 裏 うら に締結 ていけつ した。しかし公表 こうひょう の時期 じき をめぐってイタリア側 がわ の対応 たいおう が定 さだ まらず、9月8日 にち に連合 れんごう 軍 ぐん のドワイト・D・アイゼンハワー 大将 たいしょう が了承 りょうしょう なくイタリアとの休戦 きゅうせん 成立 せいりつ を公表 こうひょう し、バドリオ政府 せいふ もこれを追認 ついにん した。これにより前線 ぜんせん の軍部 ぐんぶ 隊 たい は唐突 とうとつ に戦 たたか いの終 お わりを知 し らされる格好 かっこう になった。ドイツのアドルフ・ヒトラー は、かねてから計画 けいかく していたイタリア北 きた 中部 ちゅうぶ への進駐 しんちゅう (アッシェ作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) 、アラリック作戦 さくせん )を発動 はつどう 、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん はイタリアと、南仏 なんふつ ・バルカンのイタリア占領 せんりょう 地域 ちいき へ進駐 しんちゅう する。国王 こくおう と政権 せいけん の閣僚 かくりょう 達 たち はローマを捨 す てて連合 れんごう 軍 ぐん の占領 せんりょう 地域 ちいき に避難 ひなん した。
RSI政府 せいふ の樹立 じゅりつ
編集 へんしゅう
1943年 ねん 当時 とうじ の北 きた イタリア。 イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく 支配 しはい 地域 ちいき
ドイツ占領 せんりょう 地域 ちいき
イタリア地方 ちほう に進駐 しんちゅう を開始 かいし したドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん であったが、バドリオ政権 せいけん が寝返 ねがえ った以上 いじょう 、統治 とうち する上 うえ において同 おな じファシストを奉 ほう ずる勢力 せいりょく を作 つく る必要 ひつよう があり、その白羽 しらは の矢 や を旧友 きゅうゆう ムッソリーニに立 た てた。ヒトラーの思惑 おもわく の下 した 、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん のオットー・スコルツェニー 率 ひき いる特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい による9月12日 にち のグラン・サッソ襲撃 しゅうげき で救出 きゅうしゅつ されたムッソリーニは、9月15日 にち に東 ひがし プロイセン のラステンブルク でヒトラーと会談 かいだん し「ファシズムに基 もと づいた共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか 」の樹立 じゅりつ に同意 どうい 、9月18日 にち に共和 きょうわ ファシスト党 とう を創立 そうりつ 、9月23日 にち にムッソリーニを国家 こっか 元首 げんしゅ とするイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく が建国 けんこく された。この国家 こっか は、ムッソリーニが元首 げんしゅ と外務 がいむ 大臣 だいじん を兼務 けんむ し、形 かたち の上 うえ ではムッソリーニの独裁 どくさい 体制 たいせい を復活 ふっかつ させた。ムッソリーニは胃癌 いがん により衰弱 すいじゃく していたが、ヒトラーはミラノやトリノ、ジェノヴァなど北 きた イタリアの大都市 だいとし を破壊 はかい するより有効 ゆうこう に活用 かつよう したいと考 かんが えていた。
ムッソリーニとファシスト党 とう の強硬 きょうこう 派 は によって築 きず かれた新 しん 国家 こっか は王国 おうこく 政府 せいふ の休戦 きゅうせん を「不名誉 ふめいよ な裏切 うらぎ り」と非難 ひなん し「名誉 めいよ ある継 つぎ 戦 せん 」を主張 しゅちょう 、イタリアはローマ以北 いほく のイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく とローマ以南 いなん のイタリア王国 おうこく に分 わ かれての内戦 ないせん 状態 じょうたい に突入 とつにゅう した。イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく は枢軸 すうじく 軍 ぐん が占領 せんりょう していたローマを法的 ほうてき な首都 しゅと に定 さだ めたが、治安 ちあん 上 うえ の問題 もんだい からミラノとヴェネツィアの中間 ちゅうかん に位置 いち するサロを臨時 りんじ 首都 しゅと とした。
枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ は即座 そくざ に新 しん 政権 せいけん を承認 しょうにん し、日本 にっぽん は大使館 たいしかん をヴェネツィア に置 お いた(大使 たいし は日高 ひだか 信六郎 しんろくろう )。中立 ちゅうりつ 国 こく であったスペイン 、ポルトガル 、アルゼンチン は承認 しょうにん しなかったものの、非公式 ひこうしき な関係 かんけい を持 も っていた[6] 。しかし、ドイツと深 ふか い関係 かんけい にあったフィンランド やヴィシー政権 せいけん さえも承認 しょうにん を行 おこな わなかった[7] [8] 。バチカン も承認 しょうにん しなかった[9] 。
衛星 えいせい 国 こく としての出発 しゅっぱつ
編集 へんしゅう
独立 どくりつ 国 こく として組織 そしき されたイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく であったが、実質 じっしつ 的 てき にはドイツの影響 えいきょう 下 か に置 お かれた傀儡 かいらい 政権 せいけん であった。北東 ほくとう 部 ぶ はドイツ軍 ぐん による占領 せんりょう 下 か に置 お かれ、なかでも旧 きゅう オーストリア領 りょう であった南 みなみ チロル地域 ちいき の一部 いちぶ は実質 じっしつ 的 てき なドイツ側 がわ の支配 しはい が推 お し進 すす められつつあった。工業 こうぎょう 地帯 ちたい で生産 せいさん された銃器 じゅうき や輸送 ゆそう 車両 しゃりょう 、残 のこ っていた備蓄 びちく 物資 ぶっし のみならず、農作物 のうさくもつ までがドイツ本国 ほんごく 用 よう の配給 はいきゅう 物 ぶつ として持 も ち出 だ された。さらには軍事 ぐんじ には関係 かんけい のない美術 びじゅつ 品 ひん までも接収 せっしゅう されるなど、半 なか ば占領 せんりょう 地 ち のような扱 あつか いまで受 う けた。また通常 つうじょう ドイツの占領 せんりょう 下 か に設置 せっち される親衛隊 しんえいたい の親衛隊 しんえいたい 及 およ び警察 けいさつ 指導 しどう 者 しゃ (「イタリア」親衛隊 しんえいたい 及 およ び警察 けいさつ 最 さい 高級 こうきゅう 指導 しどう 者 しゃ 、ドイツ語 ご : Höchster SS- und Polizeiführer „Italien“ )が設置 せっち され、カール・ヴォルフ 親衛隊 しんえいたい 大将 たいしょう がその任 にん に当 あ たった。ムッソリーニ自身 じしん も建前 たてまえ 上 じょう は独裁 どくさい 者 しゃ として振舞 ふるま ったが、自 みずか らの実情 じつじょう が「ロンバルディア ・ナチス」の指導 しどう 者 しゃ に過 す ぎないことを自覚 じかく していた。税収 ぜいしゅう 確保 かくほ や憲法 けんぽう など国 くに の根幹 こんかん 部分 ぶぶん も未 み 整備 せいび で、ドイツによる占領 せんりょう 統治 とうち と同質 どうしつ の状況 じょうきょう 下 か であった。
ドイツはムッソリーニの挫折 ざせつ したファシスト体制 たいせい の復興 ふっこう を治安 ちあん 維持 いじ の円滑 えんかつ 化 か 以上 いじょう に見 み なさず、ユダヤ人 じん 弾圧 だんあつ 政策 せいさく などイタリア・ファシズムが乗 の り気 き でなかった行為 こうい を強硬 きょうこう に推 お し進 すす めた。またヒトラーはムッソリーニに自身 じしん の罷免 ひめん に賛同 さんどう したファシスト党 とう 幹部 かんぶ への粛清 しゅくせい を強制 きょうせい し、最終 さいしゅう 的 てき にムッソリーニはエミーリオ・デ・ボーノ 将軍 しょうぐん や娘 むすめ 婿 むこ でもあるガレアッツォ・チャーノ 外相 がいしょう らを始 はじ めとするクーデターに参加 さんか した閣僚 かくりょう や将軍 しょうぐん らを処刑 しょけい した。
RSI政府 せいふ は労働 ろうどう 組合 くみあい とストライキ を禁止 きんし しつつも、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう に一層 いっそう の人民 じんみん 主義 しゅぎ を訴 うった えた。ムッソリーニは資本 しほん 主義 しゅぎ によってもたらされる多 おお くの決定 けってい が国 くに を不幸 ふこう にしていると演説 えんぜつ した。彼 かれ は北 きた イタリアの民衆 みんしゅう が望 のぞ むなら、王 おう 党派 とうは との協力 きょうりょく で歪 いが んだファシスト体制 たいせい を本来 ほんらい の形 かたち (=修正 しゅうせい マルクス主義 まるくすしゅぎ の発展 はってん )へと戻 もど すと宣言 せんげん した。演説 えんぜつ の中 なか でムッソリーニは自 みずか らが幼少 ようしょう 期 き から青年 せいねん 期 き に至 いた るまで培 つちか って来 き たカール・マルクス への心酔 しんすい を捨 す てたことは一 いち 度 ど としてなかったし、これからもないと断言 だんげん した。1940年 ねん に企業 きぎょう の完全 かんぜん 国営 こくえい 化 か を推進 すいしん する予定 よてい でいたが、戦争 せんそう に関 かん する理由 りゆう からこれを延期 えんき していたと述 の べた[10] 。
「経済 けいざい の社会 しゃかい 化 か 」を推進 すいしん したニコラ・ボンバッチ
RSI政府 せいふ は君主 くんしゅ 制 せい の撤廃 てっぱい に続 つづ き、100人 にん 以上 いじょう の社員 しゃいん を持 も つ会社 かいしゃ すべてを国営 こくえい 化 か する路線 ろせん を進 すす めた。経済 けいざい 政策 せいさく は、社会党 しゃかいとう 時代 じだい の友人 ゆうじん でマルクス主義 まるくすしゅぎ 理論 りろん 家 か のニコラ・ボムバッチ が作成 さくせい した経済 けいざい 理論 りろん に基 もとづ いて行 おこな われた。これは「経済 けいざい の社会 しゃかい 化 か 」と呼 よ ばれている。ムッソリーニはヒトラーとの個人 こじん 的 てき 友情 ゆうじょう を背景 はいけい にドイツからの支援 しえん を引 ひ き出 だ していたが、両者 りょうしゃ の遣 や り取 と りの中 なか でムッソリーニは同 おな じマルクス主義 まるくすしゅぎ からの派生 はせい を信奉 しんぽう するソヴィエトよりも、資本 しほん 主義 しゅぎ ・民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のイギリスの方 ほう が本質 ほんしつ 的 てき にファシズムの敵対 てきたい 者 しゃ であると発言 はつげん した。
イタリアの労働 ろうどう 者 しゃ 集団 しゅうだん のうち、残 のこ っていた社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 もの や共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの の多数 たすう は、この経済 けいざい の社会 しゃかい 化 か を欺瞞 ぎまん とみなし、1944年 ねん 3月 がつ 1日 にち の大 だい 規模 きぼ ストライキを起 お こした[11] 。
大戦 たいせん 末期 まっき の抵抗 ていこう
編集 へんしゅう
ムッソリーニは枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ の敗北 はいぼく が決定的 けっていてき となる中 なか で、「ミラノを南部 なんぶ 戦線 せんせん のスターリングラード にせねばならない」と訓示 くんじ するなど、諦観 ていかん の漂 ただよ う演説 えんぜつ を兵士 へいし 達 たち に行 い っている。ドイツ国内 こくない やスイス での亡命 ぼうめい 政権 せいけん 樹立 じゅりつ も検討 けんとう されたものの、国内 こくない で最後 さいご まで抵抗 ていこう を組織 そしき することが議決 ぎけつ され、実際 じっさい にイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国軍 こくぐん はより良 よ い成果 せいか を上 あ げて連合 れんごう 軍 ぐん を苦 くる しめた。イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国軍 こくぐん の各 かく 部隊 ぶたい は元々 もともと パルチザン掃討 そうとう を期待 きたい されてドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん から創設 そうせつ を段階 だんかい 的 てき に許可 きょか されたが、その戦果 せんか は当初 とうしょ 予想 よそう されていたものをはるかにしのぐものだった。
既 すで に旧 ふる イタリア軍 ぐん 兵士 へいし やカラビニエリ の残党 ざんとう 兵 へい が義勇軍 ぎゆうぐん を各地 かくち で組織 そしき しており、国防 こくぼう 大臣 だいじん であったロドルフォ・グラツィアーニ 元帥 げんすい は義勇軍 ぎゆうぐん の一本 いっぽん 化 か と平行 へいこう してドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の支援 しえん の下 した 、新 あら たな正規 せいき 軍 ぐん (ENR )の編成 へんせい を進 すす めた。1943年 ねん 10月 がつ 16日 にち にドイツ陸軍 りくぐん とラステンブルク軍事 ぐんじ 協定 きょうてい が締結 ていけつ され、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 式 しき の訓練 くんれん と装備 そうび を導入 どうにゅう することが決 き まった。この協定 きょうてい によりRSI正規 せいき 軍 ぐん 4個 こ 師団 しだん の編成 へんせい が決 き まり、RSI軍 ぐん は自主 じしゅ 的 てき な義勇軍 ぎゆうぐん 部隊 ぶたい と他国 たこく 軍 ぐん の支援 しえん による正規 せいき 軍 ぐん 部隊 ぶたい という二 ふた つの要素 ようそ を持 も つことになった。また陸海空 りくかいくう 軍 ぐん とは別 べつ に、治安 ちあん を専門 せんもん とする国家 こっか 憲兵 けんぺい ともいうべき部隊 ぶたい も各所 かくしょ で組織 そしき され、戦列 せんれつ に加 くわ わった。
正規 せいき 軍 ぐん の内 うち 、3個 こ 師団 しだん はRSI軍 ぐん の中核 ちゅうかく を成 な すリグリア軍 ぐん 集団 しゅうだん (ピエモンテ州 しゅう 駐屯 ちゅうとん )に編入 へんにゅう され、第 だい 4師団 しだん 「イタリア」のみがアブルッツォ州 しゅう に駐留 ちゅうりゅう する独 どく 第 だい 14軍 ぐん に加 くわ えられた。1944年 ねん 12月26日 にち に第 だい 1師団 しだん 『モンテ・ローザ』と第 だい 3師団 しだん 『サン・マルコ』は冬 ふゆ の嵐 あらし 作戦 さくせん で米 べい 第 だい 92歩兵 ほへい 師団 しだん 「バッファロー」への攻撃 こうげき を割 わ り当 あ てられた。両 りょう 師団 しだん の攻撃 こうげき は成功 せいこう に終 お わり、米 べい 第 だい 92歩兵 ほへい 師団 しだん は損害 そんがい を受 う けて敗北 はいぼく した。1945年 ねん 2月 がつ に再 ふたた び米 まい 第 だい 92歩兵 ほへい 師団 しだん はRSI軍 ぐん と今度 こんど は攻 せ め手 しゅ として相対 あいたい したが、第 だい 4師団 しだん 「イタリア」に敗北 はいぼく して前進 ぜんしん に失敗 しっぱい した。
ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 内 ない に創設 そうせつ されたイタリア人 じん 義勇 ぎゆう 兵団 へいだん 「第 だい 一 いち イタリア」も極 きわ めて良好 りょうこう な結果 けっか を出 だ し、アンツィオの連合 れんごう 軍 ぐん 包囲 ほうい 網 もう を破 やぶ ってドイツ軍 ぐん が脱出 だっしゅつ する時 とき 間 あいだ を稼 かせ ぐ大功 たいこう を果 は たした。親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ハインリヒ・ヒムラー は「同 どう 兵団 へいだん は今 いま や完全 かんぜん に武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい の一部 いちぶ となった」と賞賛 しょうさん して、同 どう 部隊 ぶたい を武装 ぶそう SS所属 しょぞく の擲弾兵 へい 旅団 りょだん に格上 かくあ げした。
1945年 ねん 4月 がつ 、ヴォルフ親衛隊 しんえいたい 大将 たいしょう とイタリア戦線 せんせん の主戦 しゅせん 力 りょく であるC軍 ぐん 集団 しゅうだん のハインリヒ・フォン・フィーティングホフ 大将 たいしょう は連合 れんごう 軍 ぐん への降伏 ごうぶく を決定 けってい した。ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の降伏 ごうぶく はRSI政府 せいふ にも通告 つうこく されず、知 し りえたのはRSI軍 ぐん の一部 いちぶ 部隊 ぶたい のみであった。4月25日 にち (パルチザン はこの日 ひ を「自由 じゆう の記念 きねん 日 び 」と呼 よ んだ)、RSI政府 せいふ は事実 じじつ 上 じょう の政権 せいけん 崩壊 ほうかい に追 お い込 こ まれた。元首 げんしゅ ムッソリーニも4月 がつ 27日 にち に拘束 こうそく され、法的 ほうてき 裏付 うらづ けを持 も たない略式 りゃくしき 裁判 さいばん を経 へ てパルチザンに射殺 しゃさつ された。RSI軍 ぐん は4月 がつ 29日 にち まで抵抗 ていこう を続 つづ けた後 のち 、グラツィアーニ元帥 げんすい の署名 しょめい で降伏 ごうぶく に同意 どうい した。
閲兵 えっぺい を受 う ける陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい
軍旗 ぐんき はイタリア国旗 こっき に鷹 たか とファッショ が描 えが かれた物 もの が使用 しよう された
サブマシンガン用 よう マガジンベスト「サムライ」を装備 そうび するイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく 兵 へい (1944年 ねん 、東 ひがし プロイセン )
サン・マルコ海兵 かいへい 師団 しだん 兵 へい
治安 ちあん 部隊 ぶたい 兵士 へいし と話 はな すムッソリーニ
第 だい 1師団 しだん 『モンテ・ローザ』 - アルピーニ(山岳 さんがく 兵 へい )部隊 ぶたい
編集 へんしゅう
1943年 ねん 11月、南 みなみ ドイツ・ムンツィンゲン 練兵 れんぺい 場 じょう で旧 きゅう イタリア軍 ぐん の山岳 さんがく 兵 へい 1000名 めい を中心 ちゅうしん として組織 そしき される。
新兵 しんぺい が合流 ごうりゅう していくにつれて部隊 ぶたい 規模 きぼ を拡大 かくだい し、最終 さいしゅう 的 てき には1万 まん 7000名 めい もの大 だい 部隊 ぶたい へと発展 はってん した同 どう 師団 しだん は他 た のENR部隊 ぶたい 同様 どうよう 、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 式 しき の訓練 くんれん を受 う け、対戦 たいせん 車 しゃ 戦闘 せんとう なども想定 そうてい した厳 きび しい再 さい 訓練 くんれん を施 ほどこ された。
装備 そうび もモーゼル Kar98k 小銃 しょうじゅう やパンツァーシュレック などドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の兵器 へいき で固 かた めた「モンテ・ローザ」師団 しだん は本国 ほんごく に帰還 きかん し、リグリア 地方 ちほう 軍 ぐん (グラツィアーニ元帥 げんすい 指揮 しき )へ配属 はいぞく され、1944年 ねん 10月 がつ のゴシックライン防衛 ぼうえい 戦 せん で初陣 ういじん を飾 かざ る。モンテ・ローザ師団 しだん は得意 とくい の山岳 さんがく 戦 せん を担当 たんとう し、連合 れんごう 軍 ぐん のブラジル軍 ぐん 師団 しだん に手痛 ていた い打撃 だげき を与 あた えるなど戦果 せんか を挙 あ げる。1944年 ねん の暮 く れに開始 かいし された「冬 ふゆ の嵐 あらし 」作戦 さくせん では独 どく 第 だい 148擲弾兵 へい 師団 しだん と「フレッター・ピコ戦闘 せんとう 団 だん 」を形成 けいせい 、他 た のRSI軍 ぐん 部隊 ぶたい と共 とも に獅子奮迅 ししふんじん の活躍 かつやく を見 み せ、友軍 ゆうぐん たるドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん のうち独 どく 第 だい 285擲弾兵 へい 連隊 れんたい で士気 しき 低下 ていか による脱走 だっそう 兵 へい が大量 たいりょう に発生 はっせい (同 どう 師団 しだん はアルザス 出身 しゅっしん の兵士 へいし で占 し められていたという)するなど不利 ふり な状況 じょうきょう 下 か ながら、優勢 ゆうせい な連合 れんごう 軍 ぐん を大 おお いに苦 くる しめ翌年 よくねん の4月 がつ までその足止 あしど めに成功 せいこう した。
ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ からも同 どう 作戦 さくせん での勇戦 ゆうせん を賞賛 しょうさん され、多 おお くの兵士 へいし が二 に 級 きゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら を与 あた えられた『モンテ・ローザ』師団 しだん であったが、1945年 ねん 4月 がつ 以降 いこう の状況 じょうきょう 下 か はもはや一 いち 個 こ 部隊 ぶたい では何 なに ともし難 かた く、最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ ムッソリーニが処刑 しょけい されRSI政府 せいふ が崩壊 ほうかい する前後 ぜんご にパルマ で連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく した。
ちなみにその際 さい の武装 ぶそう 解除 かいじょ を担当 たんとう したのは、他 た でもない前述 ぜんじゅつ のブラジル軍 ぐん 部隊 ぶたい であったというエピソードが残 のこ っている。
また一部 いちぶ 部隊 ぶたい はパルチザン 戦 せん に投入 とうにゅう され、ピエモンテ州 しゅう やアルプス 国境 こっきょう のレジスタンス部隊 ぶたい の鎮圧 ちんあつ に活躍 かつやく した。
第 だい 2師団 しだん 『リットリオ』 - 歩兵 ほへい 師団 しだん
編集 へんしゅう
旧 きゅう イタリア陸軍 りくぐん の師団 しだん 名 めい を引 ひ き継 つ いだ「リットリオ」師団 しだん は、1944年 ねん 4月 がつ にヴェストファーレン 練兵 れんぺい 場 じょう で組織 そしき された。
アゴースティ将軍 しょうぐん の指導 しどう の下 した にドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 式 しき の訓練 くんれん を受 う け、ドイツ 製 せい の装備 そうび を受領 じゅりょう した同 どう 師団 しだん は本国 ほんごく 帰還 きかん から間 ま もなくゴチックライン防衛 ぼうえい に投入 とうにゅう 、主 おも に戦線 せんせん 後方 こうほう での対 たい パルチザン戦 せん を担当 たんとう した。その後 ご はピエモンテ州 しゅう に移動 いどう し、自由 じゆう フランス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん との山岳 さんがく 戦 せん に従事 じゅうじ している。
編成 へんせい 運用 うんよう ともに歩兵 ほへい 師団 しだん である同 どう 師団 しだん であるが勇 いさ ましく擲弾兵 へい とい換 いか えられていた。ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の擲弾兵 へい と同様 どうよう である。
名称 めいしょう は、旧 きゅう イタリア海軍 かいぐん の精鋭 せいえい 部隊 ぶたい として名 な を馳 は せた海兵 かいへい 師団 しだん に由来 ゆらい する。
本 ほん 師団 しだん は最初 さいしょ から純粋 じゅんすい な陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい として編成 へんせい されているという違 ちが いこそあったものの、兵員 へいいん のほとんどは海軍 かいぐん の海兵 かいへい 隊 たい 出身 しゅっしん 者 しゃ や同 おな じく精鋭 せいえい と知 し られたデチマ・マス海兵 かいへい 師団 しだん 出身 しゅっしん 者 しゃ から構成 こうせい されており、イタリア海軍 かいぐん 海兵 かいへい 師団 しだん の伝統 でんとう を引 ひ き継 つ ぐにふさわしい陣容 じんよう を備 そな えていた。
グラーフェンヴェール 練兵 れんぺい 場 じょう で訓練 くんれん を受 う けた同 どう 師団 しだん はファリーナ将軍 しょうぐん の指揮 しき の下 した にリグリア地方 ちほう 軍 ぐん に編入 へんにゅう 、ジェノヴァ 防衛 ぼうえい 戦 せん や対 たい パルチザン戦闘 せんとう に投入 とうにゅう された後 のち にガルファーニャの戦闘 せんとう に参加 さんか した。冬 ふゆ の悪天候 あくてんこう の中 なか 、米 べい 第 だい 92師団 しだん に果敢 かかん な戦 たたか いを挑 いど んで戦功 せんこう を挙 あ げ、同地 どうち の防衛 ぼうえい に大 おお きく寄与 きよ した「サン・マルコ」師団 しだん は、独 どく イタリア防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ より感状 かんじょう を贈 おく られている。
第 だい 4師団 しだん 『イタリア』 - 歩兵 ほへい 師団 しだん
編集 へんしゅう
1943年 ねん 11月にヴュルテンベルク 練兵 れんぺい 場 じょう で組織 そしき された「イタリア」師団 しだん は訓練 くんれん 終了 しゅうりょう 後 ご 、本国 ほんごく に帰還 きかん するとカルローニ将軍 しょうぐん 指揮 しき の下 した 、ゴシックライン防衛 ぼうえい 線 せん に投入 とうにゅう された。「モンテ・ローザ」師団 しだん や「サン・マルコ」師団 しだん らが担当 たんとう していた地域 ちいき を新 あら たに任 まか された同 どう 師団 しだん は9輌 りょう のM42突撃 とつげき 砲 ほう など数少 かずすく ない対戦 たいせん 車 しゃ 車両 しゃりょう を頼 たよ りに粘 ねば り強 づよ い防衛 ぼうえい 戦 せん を展開 てんかい し、1945年 ねん 4月 がつ 末 まつ に弾薬 だんやく ・物資 ぶっし の枯渇 こかつ によりポー平原 へいげん に後退 こうたい するまで長 なが きに渡 わた って戦 そよ い抜 ぬ いたが、終戦 しゅうせん 間際 まぎわ にフォルノーヴォで連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく 、短 みじか い部隊 ぶたい の歴史 れきし に幕 まく を下 お ろした。
第 だい 8ベルサリエリ義勇 ぎゆう 連隊 れんたい 『ルチアーノ・マナーラ』
編集 へんしゅう
第 だい 1ベルサリエリ大隊 だいたい と他 た の義勇 ぎゆう 兵 へい 部隊 ぶたい と統合 とうごう する形 かたち で連隊 れんたい に格上 かくあ げされ、ヴェローナ にて組織 そしき された義勇軍 ぎゆうぐん 部隊 ぶたい 。
指揮 しき 官 かん にはフィッチーニ大佐 たいさ が任命 にんめい され、三 さん 個 こ 大隊 だいたい を擁 よう する同 どう 連隊 れんたい は各 かく 戦闘 せんとう に参加 さんか していく。
第 だい 1大隊 だいたい 『B・ムッソリーニ』はカヴァレッティ少佐 しょうさ を大隊 だいたい 長 ちょう にユーゴスラビア のチトーパルチザンとの戦 たたか いに投入 とうにゅう され、後 のち にイタリアからチトー の支援 しえん に訪 おとず れたイタリアパルチザン『ガリバルディ旅団 りょだん 』とも銃火 じゅうか を交 まじ えた。1945年 ねん には「ガリバルディ旅団 りょだん 」の撃退 げきたい に成功 せいこう しているが枢軸 すうじく 国 こく 敗戦 はいせん により退路 たいろ を失 うしな い、戦後 せんご 成立 せいりつ したチトー政権 せいけん に戦犯 せんぱん として拘束 こうそく され、過酷 かこく な捕虜 ほりょ 生活 せいかつ を強 し いられた。第 だい 2大隊 だいたい 『G・マメーリ』は正規 せいき 軍 ぐん の第 だい 4師団 しだん 「イタリア」の補充 ほじゅう 兵 へい としてガルファーニャ戦線 せんせん に派遣 はけん され、同 どう 師団 しだん と運命 うんめい を共 とも にした。第 だい 3大隊 だいたい 『E・トーティ』は本拠 ほんきょ ヴェローナの防衛 ぼうえい に徹 てっ し、ムッソリーニ処刑 しょけい による政権 せいけん 崩壊 ほうかい に伴 ともな い解散 かいさん した。
ベルサリエリ は狙撃 そげき 兵 へい や銃 じゅう 兵 へい の意味 いみ で、軽 けい 歩兵 ほへい に相当 そうとう し、精鋭 せいえい とされた。
『サン・ジウスト』装甲 そうこう 隊 たい
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1941年 ねん からユーゴのイタリア軍 ぐん 部隊 ぶたい に所属 しょぞく し、休戦 きゅうせん 後 ご はゴリツィア に駐屯 ちゅうとん していたテグネッティ陸軍 りくぐん 大尉 たいい 率 ひき いる二 に 個 こ 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい を前身 ぜんしん に発足 ほっそく された。スパラート で僅 わず かな装備 そうび の補充 ほじゅう を受 う けた装甲 そうこう 隊 たい 「サン・ジウスト」はユーゴへときびすを返 かえ し、スロヴェニアで反乱 はんらん 軍 ぐん との戦 たたか いを再開 さいかい する。大戦 たいせん 末期 まっき には国土 こくど 防衛 ぼうえい のため、イタリア本土 ほんど へ召還 しょうかん され北進 ほくしん する連合 れんごう 軍 ぐん とも戦闘 せんとう を行 おこな った。ムッソリーニ処刑 しょけい による政権 せいけん 崩壊 ほうかい に伴 ともな い降伏 ごうぶく する。
『レオンチェッロ』装甲 そうこう 隊 たい
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イタリア・ロシア派遣 はけん 軍 ぐん 帰 がえ りのズッカーロ騎兵 きへい 大尉 たいい の指導 しどう の下 した 、ポルペンナーゼで結成 けっせい 。
司令 しれい 部 ぶ 中隊 ちゅうたい 、中 ちゅう 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい 、軽 けい 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい から編成 へんせい され、後方 こうほう 警備 けいび と治安 ちあん 維持 いじ に従事 じゅうじ した。
第 だい 1突撃 とつげき 大隊 だいたい 『フォルリ』
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解 かい 隊 たい されていたイタリア空軍 くうぐん 第 だい 101戦闘 せんとう 航空 こうくう 団 だん の残存 ざんそん 兵 へい に、『黒 くろ き旅団 りょだん 』(治安 ちあん 維持 いじ 部隊 ぶたい の項 こう で後述 こうじゅつ )のアレッツォ駐屯 ちゅうとん 部隊 ぶたい を補充 ほじゅう 兵 へい として加 くわ えて結成 けっせい 、すぐにゴシックラインの東部 とうぶ 地域 ちいき に展開 てんかい した。後 のち に別 べつ の義勇 ぎゆう 兵 へい 部隊 ぶたい を加 くわ えて四 よん 個 こ 中隊 ちゅうたい 編成 へんせい となった「フォルリ」突撃 とつげき 大隊 だいたい は、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の要請 ようせい で独 どく 第 だい 278歩兵 ほへい 師団 しだん の一員 いちいん として加 くわ わる。ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は彼 かれ らをドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 部隊 ぶたい の一員 いちいん として扱 あつか い、ドイツ製 せい の装備 そうび を携 たずさ えた「フォルリ」はその期待 きたい に応 こた えるべく各地 かくち を転戦 てんせん し、戦線 せんせん が後方 こうほう に下 さ がった後 のち も他 た のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 部隊 ぶたい の補充 ほじゅう 部隊 ぶたい として勇敢 ゆうかん に戦 たたか った。イタリア地方 ちほう の枢軸 すうじく 軍 ぐん が総崩 そうくず れになった1945年 ねん 4月 がつ 29日 にち 、バッサーノで連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく した。
武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい
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第 だい 29SS擲弾兵 へい 師団 しだん 『第 だい 一 いち イタリア』
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第 だい 29SS武装 ぶそう 擲弾兵 へい 師団 しだん は、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん により編成 へんせい されドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい 部隊 ぶたい として運用 うんよう されており、厳密 げんみつ にはRSI軍 ぐん 部隊 ぶたい ではない。しかし兵員 へいいん の全 すべ てがイタリア人 じん 兵士 へいし から構成 こうせい されており、RSI軍 ぐん と共 とも にイタリア戦線 せんせん 防衛 ぼうえい において重要 じゅうよう な働 はたら きを示 しめ したため、記述 きじゅつ する。
旧 きゅう イタリア海軍 かいぐん の大型 おおがた 艦艇 かんてい と中型 ちゅうがた 艦艇 かんてい の海軍 かいぐん 艦艇 かんてい の多 おお くは損失 そんしつ したか、連合 れんごう 軍 ぐん の艦艇 かんてい となり連合 れんごう 国 こく 側 がわ に付 つ いたかの二 に 択 よ の道 みち をたどっており、RSI海軍 かいぐん は必然 ひつぜん 的 てき に海兵 かいへい 部隊 ぶたい と小型 こがた 艦艇 かんてい に頼 たよ るほかなく、その規模 きぼ は同 おな じ旧 きゅう イタリア海軍 かいぐん の中 なか で連合 れんごう 国 こく 側 がわ に付 つ いた南 みなみ 王国 おうこく 海軍 かいぐん (共同 きょうどう 交戦 こうせん 海軍 かいぐん )(イタリア語 ご 版 ばん ) のわずか20分 ぶん の1であった。そのうち、小型 こがた 艦艇 かんてい は60隻 せき の魚雷 ぎょらい 艇 てい と20数 すう 隻 せき の人間 にんげん 魚雷 ぎょらい 、そしてポケット潜水 せんすい 艦 かん からなっていた。1944年 ねん の春 はる から魚雷 ぎょらい 艇 てい 部隊 ぶたい が盛 さか んに連合 れんごう 軍 ぐん の輸送 ゆそう ルートを襲撃 しゅうげき して補給 ほきゅう を遮断 しゃだん する作戦 さくせん で海上 かいじょう 攻撃 こうげき した。揚陸 ようりく 計画 けいかく の延滞 えんたい を狙 ねら って輸送 ゆそう 艦 かん を度々 たびたび 沈 しず めたり、フランス海軍 かいぐん の駆逐 くちく 艦 かん を大破 たいは させるなど、味方 みかた の陸上 りくじょう 作戦 さくせん を支援 しえん した。
またポケット潜水 せんすい 艦 かん は1942年 ねん 頃 ころ から遣 や 露 ろ 作戦 さくせん の一端 いったん として黒海 こっかい 沿岸 えんがん 部 ぶ で活動 かつどう しており、そのままRSI海軍 かいぐん としてコンスタンツァに築 きず かれた基地 きち でルーマニア海軍 かいぐん と共同 きょうどう で作戦 さくせん に従事 じゅうじ していた。ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう によってルーマニア軍 ぐん が連合 れんごう 国 こく 側 がわ に鞍替 くらが えすると、RSI海軍 かいぐん の兵士 へいし らは潜水 せんすい 艦 かん の獲得 かくとく を狙 ねら ったルーマニア海軍 かいぐん に対 たい し、潜水 せんすい 艦 かん を破壊 はかい することでそれに応 こた えた。
なお、旧 きゅう イタリア海軍 かいぐん はBETASOM と呼 よ ばれる潜水 せんすい 艦 かん 基地 きち をフランス 大西洋 たいせいよう 岸 がん のボルドー に有 ゆう しており、通商 つうしょう 破壊 はかい 戦 せん に従事 じゅうじ していた同 どう 基地 きち の潜水 せんすい 艦 かん は休戦 きゅうせん 後 ご はRSI海軍 かいぐん には編入 へんにゅう されず、バドリオ派 は が降伏 ごうぶく した際 さい に全 ぜん 艦 かん がドイツ海軍 かいぐん に接収 せっしゅう されている。
上述 じょうじゅつ したサン・マルコ師団 しだん 同様 どうよう 、高 たか い錬 ね 度 たび を誇 ほこ っていた海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 部隊 ぶたい の名 な を冠 かん した海兵 かいへい 部隊 ぶたい 。
しかし『サン・マルコ』との大 おお きな違 ちが いは、その編成 へんせい に一 いち 将官 しょうかん に過 す ぎないユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ 司令 しれい 官 かん が関 かか わっていたことにある。貴族 きぞく 出身 しゅっしん でありながら王 おう 党派 とうは と敵対 てきたい してファシスト側 がわ に参加 さんか するという独特 どくとく な経歴 けいれき を持 も つ彼 かれ は、6,000名 めい の元 もと 隊員 たいいん から旅団 りょだん 規模 きぼ の部隊 ぶたい として再建 さいけん された『デチマ・マス (英語 えいご 版 ばん ) 』(伊 い : Decima MAS )の指揮 しき を委 ゆだ ねられた。部隊 ぶたい は編成 へんせい から暫 しばら くして、バルバリゴ海兵 かいへい 大隊 だいたい とサンジョルジョ砲兵 ほうへい 大隊 だいたい が投入 とうにゅう されたのをきっかけにアンツィオ・ネットゥーノの戦 たたか いへ参加 さんか し、第 だい 29SS擲弾兵 へい 師団 しだん 『第 だい 一 いち イタリア』と共 とも に包囲 ほうい 下 か にあったドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の救援 きゅうえん に成功 せいこう する。その上 うえ で連合 れんごう 軍 ぐん の追撃 ついげき を振 ふ り切 き りローマ にまで後退 こうたい した『デチマ・マス』はドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん ・RSI軍 ぐん の双方 そうほう から信頼 しんらい を獲得 かくとく 、師団 しだん 規模 きぼ への拡充 かくじゅう が進 すす められた。
その後 ご も高 たか い士気 しき を持 も って各地 かくち を転戦 てんせん した同 どう 師団 しだん は、行 い く先々 さきざき で山岳 さんがく 大隊 だいたい 「ヴァランガ」やベルサリエリ大隊 だいたい 「フルミネ」、空挺 くうてい 大隊 だいたい 「NP」など本来 ほんらい の兵科 へいか (海兵 かいへい )の枠 わく を超 こ えた多種 たしゅ 多様 たよう な部隊 ぶたい を編入 へんにゅう するようになり、後 のち に少数 しょうすう ながら戦車 せんしゃ 隊 たい も合流 ごうりゅう する。更 さら には海軍 かいぐん 本隊 ほんたい の水雷 すいらい 艇 てい や潜水 せんすい 艦 かん 、勇名 ゆうめい を馳 は せた海上 かいじょう 特攻 とっこう 機 き などから水上 すいじょう 部隊 ぶたい も編成 へんせい され、後 のち は航空機 こうくうき 部隊 ぶたい が加 くわ われば小国 しょうこく の軍隊 ぐんたい と化 か すほどに大 だい 規模 きぼ な部隊 ぶたい に成長 せいちょう した『デチマ・マス』は「ボルケーゼ侯 こう の私兵 しへい 団 だん 」と評 ひょう されるほどになっていた。
一方 いっぽう で本土 ほんど 決戦 けっせん の趨勢 すうせい は大 おお きく連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ に傾 かたむ き、戦 たたか いの場 ば が中部 ちゅうぶ イタリアから北部 ほくぶ イタリア へと移 うつ ろうとしていた。ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん のヴォルフSS大将 たいしょう は防衛 ぼうえい 線 せん の要 よう とすべく、『デチマ・マス』を仏 ふつ 国境 こっきょう からスロヴェニアまでの全 ぜん 戦域 せんいき に展開 てんかい することに決 き める。「バルバリゴ」のようなベテラン兵 へい の勇戦 ゆうせん は無論 むろん のこと、徴兵 ちょうへい されたばかりの新兵 しんぺい 部隊 ぶたい 「ルポ」(独 どく ヘルマンゲーリング師団 しだん から訓練 くんれん を受 う けていた)も、カナダ軍 ぐん とイギリス軍 ぐん の戦闘 せんとう 車両 しゃりょう を多数 たすう 撃破 げきは しての足止 あしど めを行 おこな うなど連合 れんごう 軍 ぐん を苦 くる しめた。だが連合 れんごう 軍 ぐん の北進 ほくしん は止 と まらず、フランス人 じん ら同 おな じ南欧 なんおう からの義勇 ぎゆう 兵 へい の参 さん 陣 じん も空 むな しく、4月 がつ 27日 にち に主戦 しゅせん 力 りょく を喪失 そうしつ してイギリス軍 ぐん に降伏 ごうぶく した。