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ヴィシー政権 - Wikipedia

ヴィシー政権せいけん

1940年代ねんだい存在そんざいしたフランスの政権せいけん
フランスこく
État français
フランス第三共和政 1940ねん - 1944ねん ナチス・ドイツによるフランス占領
フランス共和国臨時政府
フランスの国旗 フランスの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Travail, famille, patrieフランス語ふらんすご
勤労きんろう家族かぞく祖国そこく
国歌こっか: La Marseillaiseフランス語ふらんすご公式こうしき
ラ・マルセイエーズ

Maréchal, nous voilà !フランス語ふらんすご非公式ひこうしき
元帥げんすいよ、われらここにあり!
フランスの位置
フランスの地図ちず(1942ねん
  •   占領せんりょう地域ちいき
  •   フランスの保護ほごこく
公用こうよう フランス語ふらんすご
首都しゅと パリ法令ほうれいじょう)→
ボルドー臨時りんじ首都しゅと)→
ヴィシー事実じじつじょう
主席しゅせき
1940ねん - 1944ねん フィリップ・ペタン
首相しゅしょう
1940ねん - 1942ねんフィリップ・ペタン
1942ねん - 1944ねんピエール・ラヴァル
面積めんせき
やく63まん3,000km²(海外かいがい領土りょうどならびにドイツイタリア占領せんりょう地帯ちたいふくむ。)km²
変遷へんせん
どくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい 1940ねん6がつ22にち
ペタンが独裁どくさいけん獲得かくとく1940ねん7がつ10日とおか
トーチ作戦さくせん1942ねん11月8にち
アントン作戦さくせん1942ねん11月11にち
ラヴァルの逮捕たいほ1944ねん8がつ18にち
ペタンのヴィシー退去たいきょ1944ねん8がつ20日はつか
通貨つうかフラン
時間じかんたいUTC +1(DST: +2)
現在げんざいフランスの旗 フランス

ヴィシー政権せいけん(ヴィシーせいけん、フランス語ふらんすご: Régime de Vichy)はだい世界せかい大戦たいせんなかにおけるフランス政権せいけん1940ねん - 1944ねん)。

フランス歴史れきし
フランス国章
この記事きじシリーズ一部いちぶです。
年表ねんぴょう

フランス ポータル

ヴィシーとは、首都しゅといたフランス中部ちゅうぶまちである。「ヴィシー政府せいふ」「ヴィシー・フランス」「ヴィシー体制たいせい」ともばれる。

事実じじつじょうナチス・ドイツ傀儡かいらい政権せいけん衛星えいせいこく)であった。

成立せいりつ

編集へんしゅう

1940ねん5月に開始かいしされたドイツぐんのフランス侵攻しんこうで、フランスは敗北はいぼくした。ポール・レノー首相しゅしょう抗戦こうせんにかわって和平わへい政権せいけんにぎり、6月17にちふく首相しゅしょうであったフィリップ・ペタン元帥げんすい首相しゅしょうとなった。21にち、ペタンの政府せいふドイツイタリアたい休戦きゅうせんもうれた。よく22にちにはどくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつされ、フランス北部ほくぶなどの地域ちいき占領せんりょう陸軍りくぐん制限せいげんなどがさだめられた。協定きょうていはフランスがわにとって過酷かこくであったが、主権しゅけん国家こっかとしてのフランス政府せいふ存続そんぞく達成たっせいされた。ペタンは「すくなくともわがくに名誉めいよだけはまもられた」[1]べた。ペタンはフランス国民こくみん熱狂ねっきょうてき崇拝すうはい対象たいしょうとなり、町中まちなか元帥げんすい肖像しょうぞうあふれた。ジャン・コクトーはこの熱狂ねっきょうを「元帥げんすい大衆たいしゅうしたしんでいた君主くんしゅのイメージにちかかった。それにフランスでは高齢こうれいはひとを安心あんしんさせる。かれ瘰癧るいれき(るいれき)をいやしかねなかった[注釈ちゅうしゃく 1]」とひょうしている[3]

抗戦こうせん継続けいぞくのレノーやアルベール・ルブラン大統領だいとうりょうカサブランカ逃亡とうぼうしようとしたが身柄みがら拘束こうそくされた[4]。またレノー政権せいけん国防こくぼう次官じかんでペタンの部下ぶかでもあったシャルル・ド・ゴールじゅんしょうロンドン亡命ぼうめいし、「自由じゆうフランス」を結成けっせいした。

フランス政府せいふは7がつ1にち臨時りんじ首都しゅと指定していしていたボルドーから中部ちゅうぶ都市としであるヴィシー移転いてんした。政府せいふ主席しゅせきけん首相しゅしょうには、だいさん共和きょうわせい最後さいご首相しゅしょうだいいち世界せかい大戦たいせん英雄えいゆうであったペタン元帥げんすい就任しゅうにんし、ふく首相しゅしょうにはピエール・ラヴァル就任しゅうにんした。ラヴァルはヒトラーから好意こういてきあつかいをけるためには、「堕落だらくした民主みんしゅ主義しゅぎ」をはいして「絶対ぜったいてき権力けんりょく権威けんい国家こっか」を樹立じゅりつする必要ひつようがあるとかんがえ、熱心ねっしんロビー活動かつどうおこなった。6月25にち、ラヴァルはつぎのように演説えんぜつしている。「きゅう秩序ちつじょフリーメイソンてきかつ、資本しほん主義しゅぎてきそして国際こくさいてき妥協だきょう政治せいじ制度せいど現在げんざい立場たちば我々われわれみちびいた。フランスは、もはやそんなものをほっしない。我々われわれあたらしい計画けいかくあたらしい人物じんぶつ必要ひつようとする」[5]。また、しん憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいでは「ちょんヨーロッパがフランスをりにしてしん世界せかい建設けんせつしようとしている(中略ちゅうりゃく敗北はいぼくした議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ大胆だいたんで、権威けんいてき社会しゃかいてき国家こっかてきしん制度せいどにそのみちゆずらねばならぬ。(中略ちゅうりゃく議会ぎかい同意どういしないなら、ドイツはただちにフランス全土ぜんど占領せんりょうして(政治せいじ改革かいかくを)強制きょうせいするだろう」[6]演説えんぜつしている。7月2にち、フランス艦隊かんたい編入へんにゅうもしくは無力むりょくねらったイギリスは、カタパルト作戦さくせんによるフランス艦隊かんたい接収せっしゅうはかった。このためイギリスとフランスのあいだメルセルケビール海戦かいせん勃発ぼっぱつし、政府せいふとフランス国民こくみんあいだはんえい感情かんじょうたかまった。このことはラヴァルの工作こうさくをより容易よういにした。

のちにこのうごきをったヒトラーは、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい長官ちょうかんカイテル元帥げんすいつぎのような会話かいわをしている。「フランスがナチズム信奉しんぽうしているとはらなかったな」「そうとったら攻撃こうげき必要ひつようはありませんでした。まるで同士討どうしうちをしたおもいです」[7]

7がつ10日とおか、ヴィシーで開催かいさいされた国民こくみん議会ぎかい圧倒的あっとうてき多数たすう賛成さんせいしん憲法けんぽう制定せいていまでの憲法けんぽうてき法律ほうりつ制定せいていした。その内容ないようは「『フランスこく(État français)』のあたらしい憲法けんぽう公布こうふすることを目的もくてきとして、ペタン元帥げんすい権威けんいのおよび署名しょめいもとにある共和きょうわこく政府せいふすべての権限けんげんあたえる」というものであった[8]。7月11にちペタンは強大きょうだい権限けんげんつこととなったが、実際じっさい政治せいじふく首相しゅしょうであるラヴァルが大半たいはんおこなっていた。

モントワール精神せいしん

編集へんしゅう
 
1940ねん10がつ24にちのモントワールえきでのペタンとヒトラー。中央ちゅうおう制服せいふく姿すがた人物じんぶつは、ヒトラーの通訳つうやくかんパウル=オットー・シュミットドイツばん英語えいごばん、ヒトラーの後方こうほう制服せいふく姿すがた人物じんぶつは、ドイツ外相がいしょうヨアヒム・フォン・リッベントロップ

成立せいりつしたヴィシー政府せいふ課題かだい国民こくみん革命かくめい (en) とばれる「しん秩序ちつじょ建設けんせつと、ドイツとの協調きょうちょうであった。休戦きゅうせん協定きょうていによる占領せんりょう経費けいひ負担ふたん莫大ばくだいなものであり、さらに占領せんりょうしゃ権限けんげん使つかった搾取さくしゅ横行おうこうした。たとえばフランマルク為替かわせレートは12フラン=1マルクが相場そうばであったが、一方いっぽうてきに20フラン=1マルクにめた取引とりひきしつけることもあった[9]。この苛烈かれつ搾取さくしゅ緩和かんわしようと、ヴィシー政府せいふはさらなるたいどく協力きょうりょく姿勢しせいせた。10月24にちにはペタンとヒトラーがロワール=エ=シェールけんモントワール会談かいだんした (fr:Entrevue de Montoire) 。ヒトラーはこのせきでヴィシー政府せいふたいえい宣戦せんせんもとめたが、ペタンはそれにはおうじなかった。しかしペタンは会談かいだんにラジオ演説えんぜつおこない、さらなる誠実せいじつたいどく協力きょうりょくをするべきであると声明せいめいした。この会見かいけん強調きょうちょうされた「モントワール精神せいしん」はドイツにとってさらなる負担ふたんをフランスにもとめる理由りゆうとなり、ラヴァルのようなしんどく勢力せいりょく拡大かくだいのもととなった[10]。また10月3にちにはフランスではじめてのユダヤじん迫害はくがいほう成立せいりつしている。

国民こくみん革命かくめいカトリック支柱しちゅうとした[11]フランス革命かくめい以前いぜんふるいフランスへの復帰ふっきもとめるイデオロギーであり、アクション・フランセーズシャルル・モーラスがイデオローグであった[12]。すなわち農業のうぎょうこくとしてのフランスがもとめられ、「土地とちかえれ」というスローガンがさけばれた[13]。また、敗戦はいせん原因げんいんをフランスじん道徳どうとくてき頽廃たいはい原因げんいんであるとし、道徳どうとく秩序ちつじょ重視じゅうしするはん主知しゅち主義しゅぎてき政策せいさく推進すいしんした[14]。しかしこの国民こくみん革命かくめいも、ドイツの利益りえき優先ゆうせんしたものにならざるをなかった。

ダルラン時代じだい

編集へんしゅう
 
パリの凱旋がいせんもんでフランスの警官けいかんがドイツの将校しょうこう敬礼けいれいする様子ようす(1941ねん

11月にはアルザス=ロレーヌのドイツへの割譲かつじょうまり、ラヴァルに国民こくみん非難ひなんあつまった。国民こくみん革命かくめい熱意ねついがないラヴァルはペタン支持しじうしなった[15]。12月13にちにペタンはラヴァルを解任かいにんし、ピエール=エティエンヌ・フランダン (en) をふく首相しゅしょうとした。また年末ねんまつにはスペインマドリードルイ・ルージェ教授きょうじゅ派遣はけんし、イギリスとのあいだ交渉こうしょうおこなっていた。ペタンがわきたアフリカを枢軸すうじくがわわたさず、両国りょうこく関係かんけいを「外交がいこうてき冷淡れいたんさ」の段階だんかいめておくよう提案ていあんしている[16]。しかしたいどく抗戦こうせん継続けいぞくもとめるイギリスと、中立ちゅうりつもとめるヴィシー政府せいふみぞうずまらなかった[17]

しかしドイツの介入かいにゅうがあり、1941ねん2がつ9にちフランソワ・ダルラン海軍かいぐん大将たいしょうあらたなふく首相しゅしょうとなった。ダルランは「ラヴァルにたまごをくれというとたまごしかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」とわれるほど好意こういてきたいどく協力きょうりょくおこなった[18]。5月21にちにはどくふつ軍事ぐんじ協定きょうていむすばれ、しんどく政権せいけん成立せいりつしていたイラクたいしてフランス委任いにん統治とうちりょうシリアにある軍需ぐんじゅ物資ぶっしの4ぶんの3を譲渡じょうとする契約けいやく成立せいりつした (Paris Protocols) 。しかしこれはシリア・レバノン戦役せんえきによってシリアが連合れんごうこくち、イラクのしんどく政権せいけんたおれたため実行じっこうはされなかった。またきたアフリカ戦線せんせんのドイツぐん撤退てったいした場合ばあいにはチュニジア避難ひなんとして提供ていきょうすることも約束やくそくした。これは占領せんりょう経費けいひ負担ふたん軽減けいげんやフランスじん捕虜ほりょ解放かいほうもとめたものであったが、ドイツがわ一切いっさい譲歩じょうほしなかった[18]

この時代じだいには若手わかて官僚かんりょうによる計画けいかく経済けいざい導入どうにゅうされ、経済けいざい集中しゅうちゅうによる生産せいさん拡大かくだい生活せいかつ改善かいぜんはかられたが、戦時せんじのためにうまくいかず、1941ねん工業こうぎょう生産せいさんは1938ねんの65%であった[19]一方いっぽうでダルランは警察けいさつ国家こっかすすめ、保安ほあん部隊ぶたいfr:Service d'ordre légionnaire略称りゃくしょうSOL)を組織そしきしてレジスタンスを弾圧だんあつし、共産党きょうさんとうフリーメイソン、ユダヤじん弾圧だんあつおこなった[20]。さらに1942ねん2がつ19にちからはエドゥアール・ダラディエポール・レノーといった戦争せんそう敗北はいぼくしたさい政治せいじ裁判さいばんリオン裁判さいばん (en) )にかけ、ドイツ国内こくない収容しゅうようしょおくった。しかし敗戦はいせん責任せきにんはペタンにもおよ可能かのうせいがあったため、4がつ15にち裁判さいばん中止ちゅうしされた。こうした強権きょうけんてき姿勢しせい積極せっきょくてきたいどく協力きょうりょくは、国民こくみん革命かくめいたいする国民こくみん信頼しんらいうしなわせるもととなり、1941ねんまつにはほとんど支持しじするものもいなくなった[20]

ラヴァル時代じだい

編集へんしゅう
 
ラヴァルとカール・オーベルク親衛隊しんえいたい大将たいしょう。1943ねん5がつ1にち
 
1943ねんの1フラン貨幣かへいおもて:"フランスこく" うら:"勤労きんろう家庭かてい祖国そこく"ときざまれている。

この状況じょうきょうでペタンはさらにドイツの歓心かんしん必要ひつようがあるとかんじ、ダルランを解任かいにんしてラヴァルを再度さいど起用きようすることにした[21]。1942ねん3がつにはひそかにラヴァルと会談かいだんし、ドイツもラヴァル復帰ふっき後押あとおしした[22]。4月18にち憲法けんぽう行為こうい11ごうによって国家こっか元首げんしゅ首相しゅしょう役割やくわり明確めいかくされ、首相しゅしょうにはつよ独裁どくさい権力けんりょくみとめられた。これは、首相しゅしょう就任しゅうにんしたラヴァルの要求ようきゅうによるものであり、ペタンは首相しゅしょう退しりぞいて国家こっか元首げんしゅ専任せんにんとなり、事実じじつじょう引退いんたい状態じょうたいとなった[21]国民こくみん革命かくめいはんどくてき閣僚かくりょう次々つぎつぎ更迭こうてつされ、たいどく協力きょうりょく拍車はくしゃがかかった[23]。ラヴァルは6がつ22にちに「ボルシェヴィズム(共産きょうさん主義しゅぎ)」を阻止そしするためにドイツの勝利しょうり支持しじする声明せいめいおこない、フランスじん捕虜ほりょ1にん解放かいほうたいしてフランスじん労働ろうどうしゃ3にんをドイツ国内こくない工場こうじょうおくることとした。ドイツからはたい連合れんごうぐん宣戦せんせんもとめるうごきがつよまったが、ラヴァルは形式けいしきてき閣議かくぎにはかりはしたものの、参戦さんせんするはなかった[24]

11月8にちトーチ作戦さくせんはじまり、フランスりょうアルジェリア連合れんごうぐん侵攻しんこう開始かいしした。このとき、ヴィシー政府せいふぐんそう司令しれいかんであり、たまたまきたアフリカにいたダルラン大将たいしょうえいべいぐん休戦きゅうせん条約じょうやくむすんできたアフリカのヴィシー政府せいふぐん降伏ごうぶくさせたため、11月10にちドイツは自由じゆう地区ちく占領せんりょう開始かいしし、政府せいふ完全かんぜんにドイツの支配しはいかれた(アントン作戦さくせん)。ドイツの頽勢たいせいさとったペタン元帥げんすいとラヴァル首相しゅしょうは、連合れんごうこくとドイツの調停ちょうていおこなおうとしたが失敗しっぱいした[25]。11月17にちにはラヴァルをペタンの後継こうけいしゃとする憲法けんぽうてき法規ほうき成立せいりつした[26]

ドイツの要求ようきゅうはますます苛烈かれつになり、1943ねん1がつにはさらに25まんにん労働ろうどうしゃ要求ようきゅうされた。ラヴァルは捕虜ほりょ送還そうかんでも譲歩じょうほしたうえにこの要求ようきゅう達成たっせいし、労働ろうどうりょく配置はいち総監そうかんフリッツ・ザウケルに「フランスだけがプログラムを100%履行りこうした」といわしめた[27]。しかしこれはフランス国民こくみんつよ不満ふまんあたえ、徴用ちょうよう忌避きひしゃによるマキ組織そしきされるもととなった。

11月、ペタンは廃止はいししただいさん共和きょうわせい議会ぎかい再開さいかいさせようとし、憲法けんぽうあん制定せいていした。さらにしんどくのラヴァルをとおざけることをかんがえ、11月27にちにラヴァルの後継こうけいしゃ指定していした[26]。しかしこれらのうごきはドイツがわ介入かいにゅうによって失敗しっぱいした。ペタンの側近そっきんすうめい逮捕たいほされ、ドイツからは「顧問こもん」がおくまれたうえミリス(民兵みんぺいだん指導しどうしゃジョゼフ・ダルナンらが入閣にゅうかくするなどドイツ支配しはいはさらに強化きょうかされた[28]。1944ねん1がつにはドイツがさらに労働ろうどうしゃ100まんにん要求ようきゅうし、7がつ21にちまでに72まんにんおくまれた[29]

崩壊ほうかい

編集へんしゅう

1944ねん6がつ6にち連合れんごうぐん反攻はんこうオーヴァーロード作戦さくせん開始かいし連合れんごうぐんノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん北部ほくぶノルマンディー上陸じょうりくすると、フランスのドイツぐん次々つぎつぎ駆逐くちくされていった。8月9にちにラヴァルはだいさん共和きょうわせい議会ぎかい招集しょうしゅうさせてヴィシー政府せいふ合法ごうほうせいみとめさせようとパリにかったが、徒労とろうわった[30]同日どうじつ臨時りんじ政府せいふはヴィシー政府せいふ合法ごうほうせい否定ひていし、憲法けんぽう行為こういはじめとするヴィシー政府せいふ決定けってい否認ひにんする法令ほうれいはっした(大陸たいりく領土りょうどにおける共和きょうわせい合法ごうほうせい回復かいふくかんする1944ねん8がつ9にち命令めいれいフランス語ふらんすごばん)。ペタンも8がつ11にちにド・ゴールに使者ししゃおくり、臨時りんじ政府せいふ政権せいけんゆずって引退いんたいすることで「政権せいけん継続けいぞくせい」があたえられると交渉こうしょうしたが、れられなかった[31]

8がつ16にち親衛隊しんえいたいおよ警察けいさつ高級こうきゅう指導しどうしゃ(HSSPF)カール・オーベルクは、ヴィシー政府せいふ閣僚かくりょうすべてを逮捕たいほすることを通告つうこくした。17にちにはざいパリの8閣僚かくりょう辞任じにんし、ラヴァルをふくめてベルフォール移動いどうさせられた[32]。 ヴィシーにのこっていたペタンにもドイツから移動いどうめいじられたが、ペタンは抵抗ていこうし、連合れんごう国軍こくぐんドワイト・アイゼンハワー元帥げんすい接触せっしょくはかろうとしたが、8がつ20日はつか国民こくみん和解わかいさい統一とういつびかけるラジオ演説えんぜつおこなったのちにヴィシーをち、ベルフォールにかった[32]。8月25にちにパリを守備しゅびしていたドイツぐん降伏ごうぶくし(パリの解放かいほう)、ド・ゴールのフランス共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ帰国きこくした。8月27にち、ド・ゴールはペタンがおくった使者ししゃとの面会めんかい拒絶きょぜつした[33]

9月7にち、ペタンとラヴァルらはジクマリンゲンうつされた[34]。ジクマリンゲンではブリノン侯爵こうしゃくフェルナン・ド・ブリノン (fr:Fernand de Brinon) を代表だいひょうとし、ダルナンを内相ないしょうとするフランス政府せいふ委員いいんかい (fr) が組織そしきされたが、ラジオの宣伝せんでん放送ほうそうおこな程度ていどのことしかできなかった[34]

国名こくめい

編集へんしゅう

1940ねん7がつ10日とおか憲法けんぽうてき法律ほうりつでは「『フランスこく』の憲法けんぽう公布こうふすることを目的もくてきとする」という言葉ことばがある。フランスこくという呼称こしょうはフランス共和きょうわこくよりひろ意味いみち、共和きょうわせい憲法けんぽうにはもちいられない性格せいかくのものであった[35]。しかし憲法けんぽう体制たいせい終焉しゅうえんまで成立せいりつしなかった。1940ねん7がつ11にち憲法けんぽう行為こうい1ごうでペタンはフランスこく主席しゅせき地位ちいにあるとされたが[36]、その支配しはいにある政府せいふ自体じたいは1940ねん7がつ10日とおか憲法けんぽうてき法律ほうりつにあるように「共和きょうわこく政府せいふ」であった[37]。また1944ねん1がつ20日はつかにペタンが承認しょうにんしたしん憲法けんぽう草案そうあん題名だいめいは「フランス共和きょうわこく憲法けんぽう草案そうあん」であった[38]

 
はドイツぐん占領せんりょう地域ちいきだいだいは「保留ほりゅう地域ちいき」、むらさきはベルギー占領せんりょうぐん統治とうちの「禁止きんし地域ちいき」、あか禁止きんし地域ちいきのうち、沿岸えんがん防備ぼうび地域ちいきあおがドイツ本国ほんごくへの割譲かつじょうみどりがイタリアぐん占領せんりょうしろはヴィシー政府せいふ支配しはい地域ちいきである「自由じゆう地域ちいき」。

かねてからの係争けいそうであったアルザスロレーヌはドイツへ割譲かつじょうされた[39]ものの、それ以外いがい地域ちいきには一応いちおうヴィシー政府せいふ主権しゅけんみとめられた。しかしパリふく北部ほくぶ西部せいぶはドイツ、グルノーブルニースふくむイタリア国境こっきょうから50kmのエリアはイタリアによって占領せんりょうされ、軍政ぐんせいかれた(イタリア南仏なんふつ進駐しんちゅう領域りょういき)。この地域ちいきはフランスの主権しゅけんみとめられたものの、占領せんりょう地域ちいき (fr:Zone occupée) としてあつかわれて軍政ぐんせいかれ、ヴィシー政府せいふ施政しせいけんおよばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス―ロレーヌの隣接りんせつ区域くいきは「保留ほりゅう地域ちいき」(Zone fermée)とされ占領せんりょう地区ちくとはべつあつかわれた。また北海ほっかいイギリス海峡かいきょう大西おおにしひろし沿岸えんがんからすうマイルのエリアと、ベルギー国境こっきょうちか現在げんざいノール=パ・ド・カレー地域ちいきけん付近ふきんは「禁止きんし地域ちいき」 (fr:Zone interdite) とされて分離ぶんりされた。沿岸えんがん地域ちいきにはドイツぐんトート機関きかんが「大西洋たいせいようかべ」とばれる防御ぼうぎょ設備せつび設置せっちした。またベルギー国境こっきょう付近ふきんはベルギーの占領せんりょうぐん統治とうちかれた。この占領せんりょう地域ちいき占領せんりょうコストはフランスがわ支払しはらうこととなっており、いちにちあたり4おくフラン[40] という莫大ばくだい出費しゅっぴとなった。占領せんりょうコスト支払しはらいは1941ねん6がつにはたいどく協力きょうりょく見返みかえりとして3おくフランに減額げんがくされたが、1942ねん11月のフランス全土ぜんど占領せんりょう以降いこうは5おくフランとなった[41]

フランス政府せいふ統治とうちできるのは占領せんりょう地域ちいきのぞいた自由じゆう地域ちいき (fr:Zone libre) と海外かいがい植民しょくみんであった。しかし自由じゆう地域ちいきにおいてもドイツとイタリアの軍事ぐんじ物資ぶっし搬送はんそうや、ドイツが指定していするドイツじんわた義務ぎむった。また自由じゆう地域ちいき占領せんりょう地域ちいきあいだには境界きょうかいせん (fr:Ligne de démarcation) が配置はいちされ、小荷物こにもつ郵送ゆうそうできるが、手紙てがみのやりとりはきんじられるなどの検問けんもんおこなわれた[42]。そして1942ねん11月のアントン作戦さくせん以降いこうはフランス全土ぜんど占領せんりょうかれた。

ドイツがわにとってぜんフランスを占領せんりょうした場合ばあいは、フランスの保有ほゆうする広大こうだい海外かいがい植民しょくみんや、それらを護衛ごえいする海外かいがい駐屯ちゅうとん部隊ぶたいやフランス海軍かいぐんなどの維持いじとうおも負担ふたんになる可能かのうせいがあるため、しんどくてき中立ちゅうりつ政権せいけんとしてのヴィシー政府せいふ存在そんざい好都合こうつごうだった。しかし、連合れんごう国軍こくぐんきたアフリカのフランス植民しょくみん上陸じょうりくトーチ作戦さくせん)すると、対岸たいがん地中海ちちゅうかい防備ぼうびかためるため、フランス全土ぜんどにおける軍政ぐんせいった。

植民しょくみん

編集へんしゅう

ヴィシー政権せいけん成立せいりつ当初とうしょフランスりょう赤道せきどうアフリカフランスりょうカメルーンフランス語ふらんすごばんのぞフランス植民しょくみんはヴィシー政権せいけん承認しょうにんした。シリアやレバノンなど、ヴィシー政権せいけん支持しじする植民しょくみんには連合れんごう国軍こくぐん侵攻しんこうする場合ばあいもあった。戦況せんきょう変化へんかしたがい、自由じゆうフランスにつく植民しょくみんや、連合れんごうこく独自どくじ交渉こうしょうおこなって中立ちゅうりつ維持いじしようとする植民しょくみんあらわれた。マダガスカルやフランスりょうアンティルのように、連合れんごうぐん当初とうしょ中立ちゅうりつもとめる予定よていであったのに、自由じゆうフランスの介入かいにゅうによって現地げんち政府せいふ打倒だとうされるというケースもあった(マダガスカルのたたか)。

1944ねんまで、ドイツの同盟どうめいこくである大日本帝国だいにっぽんていこくつよ影響えいきょうにあり、1945ねんはいると完全かんぜん日本にっぽんぐん占領せんりょうとなったフランスりょうインドシナ以外いがい植民しょくみん政府せいふは、おおむねヴィシー政権せいけん影響えいきょうからのがれた。

政府せいふ一応いちおう共和きょうわこくとされたが、ペタンの権威けんい根拠こんきょとする特殊とくしゅなものであった[43]。この体制たいせいしん憲法けんぽう制定せいてい目的もくてきとする建前たてまえっていたが、ヴィシー政府せいふよん年間ねんかん統治とうちあいだ憲法けんぽう制定せいていのための国民こくみん会議かいぎいち招集しょうしゅうされなかった[44]。そのわりペタンは「憲法けんぽう行為こうい」 (fr:Actes constitutionnels) という命令めいれいおこない、フランスの統治とうちおこなった。1940ねん7がつ11にちにはだいいちごう憲法けんぽう行為こういとしてみずからを「フランスこく主席しゅせき」(chef de l'Etat français)とし、大統領だいとうりょうせい廃止はいしした。さらに主席しゅせき立法りっぽうけん執行しっこうけんつ、独裁どくさいてき権力けんりょくしゃ定義ていぎした[44]。しかしドイツにちかいラヴァルもおおきな権力けんりょくっていた。1942ねん4がつ18にち以降いこう首相しゅしょう事実じじつじょう最高さいこう権力けんりょくしゃとなり、国家こっか元首げんしゅであるペタンははん引退いんたい状態じょうたいまれた。

あらゆる選挙せんきょ任命にんめいせいえられ、民主みんしゅ主義しゅぎてき手法しゅほうはとられなかった[45]議会ぎかい解散かいさんこそされなかったものの、1940ねん7がつ11にち以降いこういち開催かいさいされず、国民こくみん投票とうひょうおこなわれなかった[45]。これには敗北はいぼく民主みんしゅ主義しゅぎ議会ぎかい政治せいじ原因げんいんであると主張しゅちょうする当時とうじ世論せろん反映はんえいされている[46]

しかしドイツはあらゆる方面ほうめんから介入かいにゅうおこない、官報かんぽう発行はっこうにすらドイツの検閲けんえつはい有様ありさまであった[1]。ヴィシー政府せいふ独自どくじうごきはつねにドイツによって阻止そしされ、ファシズムべる体制たいせいではなかった[47]

またフランス革命かくめい以来いらいのフランスの標語ひょうごである「自由じゆう平等びょうどう博愛はくあい」は「労働ろうどう家族かぞく祖国そこく」 (fr:Travail, Famille, Patrie) にえられた。

 
ペタンしょうはた
 
ロシアに進撃しんげきしたフランス志願しがん軍団ぐんだん

動員どういんされていたフランスへい武装ぶそう解除かいじょされ、武器ぶきはドイツにわたされた[48]

本国ほんごく陸軍りくぐん休戦きゅうせん監視かんしぐんとしての10まんにん制限せいげんされ[1]武器ぶきはドイツぐんとイタリアぐん監視かんしかれた。マダガスカルインドシナなどの植民しょくみんぐんはこの制限せいげん適用てきよう範囲はんいがいとされた。一方いっぽうで1940ねん8がつ29にちには「在郷ざいきょう軍人ぐんじん奉公ほうこうかい」(Légion Française des Combattants)という在郷ざいきょう軍人ぐんじん組織そしきしたじゅん軍事ぐんじ組織そしきつくった。この組織そしきからはやがて保安ほあん部隊ぶたいfr:Service d'ordre légionnaire略称りゃくしょうSOL)やミリス(民兵みんぺいだん)などがまれ、レジスタンスとのたたかいに投入とうにゅうされていった。

海軍かいぐんはドイツぐんとほとんど交戦こうせんせず、大半たいはん艦艇かんてい休戦きゅうせんまえ混乱こんらんきたアフリカやイギリスへ脱出だっしゅつしていたが、このうちフランス政府せいふ掌握しょうあくしている(≒連合れんごう国軍こくぐん接収せっしゅうされなかった)ぶんは「植民しょくみん維持いじ必要ひつよう艦船かんせん」をのぞいて武装ぶそう解除かいじょされた[48]。しかしメルセルケビール海戦かいせんきるとドイツはフランス海軍かいぐんがイギリス海軍かいぐんたいして抑止よくしりょくとしての価値かちつことを認識にんしき艦隊かんたいをドイツぐんにも連合れんごう国軍こくぐんにもわたさないという暗黙あんもく了解りょうかいもとで、一部いちぶかん予備よびかんあつかいとするのみでとする妥協だきょうはかられることになった。

しかし1942ねんのトーチ作戦さくせんきたアフリカのフランスぐんすくない抵抗ていこう降伏ごうぶくすると、ドイツは報復ほうふく措置そちとしてアントン作戦さくせん開始かいし休戦きゅうせん監視かんしぐん解体かいたいされ、ドイツに接収せっしゅうされそうになったトゥーロン主力しゅりょく艦隊かんたい自沈じちんみちえらんだ[49]

ヴィシー政府せいふがどこまで積極せっきょくてき関与かんよしたかは検証けんしょう余地よちがあるが、ジャック・ドリオらフランスじん反共はんきょう主義しゅぎものがドイツ陣営じんえい志願しがんしてソ連それんたたかうことは黙認もくにんされた(ドイツ陸軍りくぐんの「ボルシェビキにたいするフランス志願しがん軍団ぐんだん fr」)。また、ナチス武装ぶそう親衛隊しんえいたいがフランスじん志願しがんへい部隊ぶたい構成こうせいすることもみとめられ(フランス志願しがん軍団ぐんだんなどを母体ぼたいとしただい33SS武装ぶそう擲弾へい師団しだん)、かれらはベルリン陥落かんらくまでドイツとともにたたかった。生存せいぞんしゃ終戦しゅうせんおや連合れんごうこく政府せいふによって犯罪はんざいしゃとして処断しょだんされた。

対外たいがい関係かんけい

編集へんしゅう

イギリスは1940ねん6がつ23にちにヴィシー政府せいふ否認ひにんする声明せいめいおこなったが、その主要しゅようこくはヴィシー政府せいふ承認しょうにんする態度たいどをとった。ただし、ソ連それんは1941ねん6がつ30にちに、連合れんごうこくは1942ねんのドイツぐんによる占領せんりょう以降いこう外交がいこう関係かんけい断絶だんぜつした。

枢軸すうじくこくとの関係かんけい

編集へんしゅう

日本にっぽん満州まんしゅうこくイタリアなどの枢軸すうじくこく各国かっこくは、ヴィシー政権せいけんひきいるフランスを承認しょうにんしており、日本にっぽんはヴィシー政権せいけんとの協定きょうていをもとに、フランスりょうインドシナ現在げんざいベトナムラオスカンボジア)に進駐しんちゅうふつしるし進駐しんちゅう)した。その1944ねんおこなわれた連合れんごうこくぐんによるフランス解放かいほうならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー=日本にっぽんあいだ協定きょうてい無効むこう宣言せんげんおこなわれたのちも、フランスりょうインドシナ政府せいふ日本にっぽんとともにインドシナ統治とうち継続けいぞくしていた。1945ねん3月、日本にっぽんぐんによるふつしるし処理しょりあかりごう作戦さくせん)がおこなわれ、フランスりょうインドシナ総督そうとくはその支配しはいけんうばわれた。

生活せいかつ

編集へんしゅう

国土こくど分割ぶんかつドイツ徴発ちょうはつ植民しょくみんとの交通こうつう途絶とぜつによってパリ市民しみん生活せいかつ悪化あっかした。1940ねん9がつからは配給はいきゅう制度せいど開始かいしされたものの、ときがたつにつれ配給はいきゅうりょう減少げんしょうしていった[50]。この時期じきのフランス国民こくみんのカロリー摂取せっしゅりょう西欧せいおう最低さいてい、インフレりつもどの占領せんりょうこくよりもたかく、生活せいかつ困窮こんきゅうした[51]

協力きょうりょく抵抗ていこう

編集へんしゅう

コラボラシオン(たいどく協力きょうりょく

編集へんしゅう
 
逮捕たいほしたレジスタンスを監視かんしするミリスの隊員たいいん。1944ねん6がつ21にち

モントワール会談かいだんのち、ペタンはラジオ演説えんぜつで「今日きょうコラボラシオン(たいどく協力きょうりょく)のみちはいる」という声明せいめいをし、ヴィシー政権せいけん中立ちゅうりつ標榜ひょうぼうする一方いっぽうで、しんどくてき政策せいさくをとらざるをなくなった[16]

おおくのフランスじんは、積極せっきょくてきまたは消極しょうきょくてきにヴィシー政府せいふ統治とうちれた。一部いちぶ人々ひとびと積極せっきょくてきコラボラシオンたいどく協力きょうりょく)の姿勢しせいをとり、それ以外いがいおおくの人々ひとびとはヴィシー政府せいふ平穏へいおんれて沈黙ちんもくつづけた。その一方いっぽうで、少数しょうすうながらレジスタンス運動うんどうはじめるうごきもあったが、本格ほんかくてきなレジスタンス運動うんどうられるのは戦況せんきょうがドイツにとって不利ふりになりはじめてからである。

当時とうじフランスじんおこなったコラボラシオンの種類しゅるいおおきくけて3つある。ひとつは、消極しょうきょくてきたいどく協力きょうりょくで「待機たいき主義しゅぎ」とばれるものである。これは最小限さいしょうげんたいどく協力きょうりょくですませようというもので、おもにペタンにおいてとられた[52]。それにたいし、だい世界せかい大戦たいせんにおけるドイツの勝利しょうり確信かくしんし、戦後せんごしん秩序ちつじょ英語えいごばんにおいて、フランスが有利ゆうり地位ちいをしめるために積極せっきょくてきたいどく協力きょうりょくおこなおうという派閥はばつがあり、ラヴァルはこれにあたる[53]。そして、最後さいごひとつがナチズムにイデオロギーてき共鳴きょうめいしたおやナチスである[16]

ペタンときにイギリスと交渉こうしょうおこなおうとするなど、いわゆる二股ふたまた外交がいこうおこなうこともあったが、基本きほんてきにはドイツがわにもイギリスがわにも協力きょうりょくしないという消極しょうきょくてきなものであった[54]一方いっぽうでラヴァルは「ドイツはフランスの積極せっきょくてき協力きょうりょくくしてヨーロッパを建設けんせつできるわけがないのだから」「ドイツがやがて武器ぶき(ドイツ勝利しょうり)には、フランスはそれ相当そうとう地位ちいあたえられるだろう」[54]という観点かんてんによるもので、従来じゅうらい保守ほしゅそう支持しじあつめていた。このようなラヴァル姿勢しせいはドイツがわ警戒けいかいられていた[54]。ヒトラーは「ド・ゴールはラヴァルがさくじゅつようとしているものをぎゃくちからのみでようとしている」とひょう[55]、「わたしかたった言葉ことば心底しんそこではしんじていない」「典型てんけいてき民主みんしゅ主義しゅぎてき政治せいじというやつだ」と警戒けいかいしている[56]一方いっぽうで、ド・ブリノンやダルナンらを筆頭ひっとうとするおやナチスは「国民こくみん革命かくめい」をふるくさいと批判ひはんし、パリにおいて積極せっきょくてき言論げんろん活動かつどうおこない、ときには政府せいふ情報じょうほうをドイツがわ通報つうほうするほどたいどく協力きょうりょくてきであった[56]

フランスの敗北はいぼく、フランスじんおおくは敗北はいぼく呆然ぼうぜんとしており、しばらくは無気力むきりょく状態じょうたいであった。しかしバトル・オブ・ブリテンによるイギリスがわ抵抗ていこうによって戦争せんそう長期ちょうきすることが確実かくじつになると、国民こくみんだい部分ぶぶんはペタンがとる待機たいき主義しゅぎてき立場たちばをとるようになった[57]。ドイツがわ戦況せんきょう余裕よゆうがあったこともあって、せいぜいラヴァルをドイツがわのスポークスマンとして政府せいふないくことで満足まんぞくしていた[57]。ペタンはラヴァル積極せっきょくてきたいどく協力きょうりょくとは対立たいりつしていたものの、「よごやく」であるたいどく交渉こうしょうをラヴァルしつけているという側面そくめんもあった[58]。しかしダルランがふく首相しゅしょうとなった時期じきには複数ふくすうしんナチス閣僚かくりょうりし、待機たいき主義しゅぎ勢力せいりょく減少げんしょうはじめた。1942ねん4がつのラヴァル復権ふっけんはドイツがわ要求ようきゅう苛酷かこくとなり、政府せいふによるユダヤじん抑圧よくあつほう強制きょうせい労働ろうどうきょく義務ぎむ協力きょうりょく労働ろうどうフランス語ふらんすごばん、S.T.O.)による労働ろうどうりょく提供ていきょうをヴィシー政府せいふおこなわざるをなくなった[58]。このことは国民こくみん反発はんぱつまねき、ペタン一部いちぶをレジスタンスにいやるほどであった[58]。ペタン政治せいじてきにも権力けんりょく完全かんぜんうしなったが、ラヴァル勢力せいりょくおやナチスによって圧迫あっぱくされることになる。1942ねん11がつ10日とおかのアントン作戦さくせん以降いこうは、おやナチス閣僚かくりょうだい部分ぶぶんめるようになり、かえってラヴァルがしんナチスによる過度かどたいどく協力きょうりょく抵抗ていこうすることもあった[59]

こうした経緯けいいおこなわれたたいどく協力きょうりょくは、政治せいじ経済けいざい文化ぶんかめん多岐たきおよんだ。はんユダヤ主義しゅぎひろがるなかで「ユダヤじんならびに外来がいらいしゃたいするほう」が1940ねん10がつ制定せいていされ、ユダヤじん権利けんり制限せいげんした。この法律ほうりつはヴィシー政権せいけん統治とうちにあるフランスの植民しょくみんにも適用てきようされた。また、フランスりょうであったモロッコアルジェリアチュニジアにドイツの支配しはいのがれて避難ひなんしていたユダヤじん古来こらいよりきたアフリカにむユダヤじんミズラヒムセファルディム)を、現地げんち設置せっちしたヴィシー政権せいけん管理かんり強制きょうせい労働ろうどう収容しゅうようしょへと収容しゅうようしている。また、本土ほんどむユダヤじんもヨーロッパ各地かくちにある強制きょうせい収容しゅうようしょへと移送いそうされた。

ヴィシー政権せいけんはドイツぐん占領せんりょう支出ししゅつしたほか、安価あんかにフランスの資源しげん労働ろうどうりょくをドイツに提供ていきょうした。1940ねん11月に締結ていけつされた相殺そうさい協定きょうてい両国りょうこくあいだ輸出入ゆしゅつにゅうがく均衡きんこうさせることで通貨つうか移動いどう不要ふようにするという協定きょうていであったが、実際じっさいには輸入ゆにゅうちょうのドイツが代金だいきん支払しはらいをたおすために使つかわれた[60]。ドイツぐん将校しょうこう愛人あいじんとなったココ・シャネルなどしんドイツてき文化ぶんかじん増加ぞうかし、ヴィシー政府せいふ統治とうちやドイツの占領せんりょう政策せいさくささえることになった。軍事ぐんじめんでは首相しゅしょうラヴァルを指導しどうしゃとする民兵みんぺい組織そしき ミリス(民兵みんぺいだんがレジスタンスりなどに参加さんかし、だい33SS武装ぶそう擲弾へい師団しだんなどに志願しがんするものあらわれた。

しかしドイツがわにとって、コラボラシオンはかれらがのぞむほど十分じゅうぶんではなく、ヨーゼフ・ゲッベルスフリッツ・ザウケル[61]といったドイツ高官こうかんはペタンやラヴァルが協力きょうりょくてきではないとており、日記にっき報告ほうこく言及げんきゅうしている。

レジスタンス

編集へんしゅう
 
レジスタンスのメンバー

ヴィシー政府せいふ成立せいりつまもなくは、ペタンが戦争せんそう苦難くなんからすくったというかんがえがひろまっており、それほどおおきないきおいはなかった。しかし苛烈かれつたいどく協力きょうりょく市民しみん反感はんかんまねき、1940ねんあきごろからはデモやレジスタンスの宣伝せんでん活動かつどうたかまった。1941ねんはるにはパ=ド=カレー炭坑たんこうで10まんにん規模きぼだいストライキも発生はっせいした[62]。「モスクワの忠実ちゅうじつ長女ちょうじょ」であり、むしろたいどく協力きょうりょくてきであったフランス共産党きょうさんとう[63] などの左派さはどくせんはじまるとレジスタンスにくわわった。これ以降いこうラヴァルやマルセル・デア狙撃そげき事件じけんサボタージュ[よう曖昧あいまい回避かいひ]、ドイツじん将校しょうこう殺害さつがいなどの実力じつりょく行動こうどう頻発ひんぱつするようになった[64]。しかし1942ねん11がつまではレジスタンスは分派ぶんぱしており、しかも少数しょうすうであった[65]

ドイツはレジスタンスの攻撃こうげきたいして、ドイツ将校しょうこう被害ひがいいちにんたいしてすうにんの「人質ひとじち」を殺害さつがいするという報復ほうふく政令せいれい対抗たいこうした[66]。「人質ひとじち」は拘束こうそくされた共産きょうさん主義しゅぎしゃやユダヤじんであり、1941ねん10がつには「98にん」の人質ひとじち処刑しょけいされた。ペタンはみずからを人質ひとじちとするようもとめたが、れられなかった[67]

1942ねん11月のドイツによる全土ぜんど占領せんりょうは、それまでのこっていたヴィシー政権せいけんへの幻想げんそう一気いっきくだいた。1943ねん1がつには南部なんぶさんだいレジスタンス運動うんどう統合とうごうされ、共産党きょうさんとう自由じゆうフランス参加さんかした。また、もと首相しゅしょうレオン・ブルム社会党しゃかいとうにおいて自由じゆうフランス支持しじおこなった。5月27にちにはフランス国内こくないでレジスタンスの統一とういつ組織そしき全国ぜんこく抵抗ていこう評議ひょうぎかい(CNR)が設立せつりつされた[68]以降いこう、レジスタンスの活動かつどうはいよいよ活発かっぱつとなり、1943ねん9がつから12月のあいだにはレジスタンスによって709にんのヴィシー政府せいふ治安ちあん関係かんけいしゃ殺害さつがいされ、9せんけんばくだん事件じけん、600の電車でんしゃ脱線だっせん事件じけんこっている[69]

裁判さいばん

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ヴィシー政府せいふ関係かんけいしゃ裁判さいばんはアルジェで国民こくみん解放かいほう委員いいんかい成立せいりつしたときからはじまっており、終戦しゅうせんによって加速かそくされた。

ペタンは4がつ24にちにドイツの保護ほごからはなれ、一旦いったんスイスにはいってからフランスに帰国きこく、4がつ26にち逮捕たいほされた。前後ぜんごしてラヴァルをはじめとする閣僚かくりょう逮捕たいほされた。1944ねん11月18にちには臨時りんじ政府せいふによってヴィシー政府せいふ高官こうかんさばくための高等法院こうとうほういん設置せっちされたが、裁判官さいばんかんはかつてヴィシー政府せいふによって任命にんめいされたものたちであった。裁判さいばんいちしんせいであり、欠席けっせき裁判さいばんで10めい死刑しけい判決はんけつくだったほか、ラヴァル、ダルナン、ブリノンの3めい死刑しけいとなったが、ペタンをふくむ5めい終身しゅうしんけい減刑げんけいされた。ヴィシー政権せいけん関係かんけいしゃ粛清しゅくせい「エピュラシオン」による訴追そつい人数にんずうは10まんにんにおよぶとられ、2071にん死刑しけい判決はんけつくだったが、1303めい減刑げんけいされた[70]。1951ねんには最初さいしょ特赦とくしゃほう成立せいりつし、収監しゅうかんされていた関係かんけいしゃ釈放しゃくほうされはじめた。

評価ひょうか

編集へんしゅう

ヴィシー政府せいふ連合れんごうこくがわから「傀儡かいらい政権せいけん」とされ、連合れんごうこくがわ勝利しょうり自由じゆうフランスによるフランス共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ成立せいりつだいよん共和きょうわせい樹立じゅりつとともにそのような評価ひょうか一般いっぱんてきとなった。このため、フランスだいよん共和きょうわせいはヴィシー政府せいふからの継承けいしょうこくなされていない。しかしヴィシー政府せいふ導入どうにゅうした老齢ろうれい年金ねんきん家族かぞく手当てあてなど一部いちぶ制度せいどかたちえて存続そんぞくし、戦後せんごモネ・プランたいするヴィシー政府せいふ経済けいざい政策せいさく類似るいじせい指摘してきされている[71]

また、ヴィシー時代じだいたいどく協力きょうりょく擬態ぎたいであったかかについての議論ぎろん継続けいぞくされており、しばしば政治せいじてき問題もんだいともなる。また、だいよん共和きょうわせい以降いこう政治せいじ官僚かんりょうとして戦後せんごのフランスの政治せいじささえた人物じんぶつなかには、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権せいけんでそのキャリアの最初さいしょおくったものすくなくなく、政権せいけん評価ひょうか影響えいきょうあたえている。

時代じだいのとらえかた推移すいい

編集へんしゅう

戦後せんごから1960年代ねんだいにかけて、ド・ゴールとフランス共産党きょうさんとうはそれぞれの『レジスタンス神話しんわ』を喧伝けんでんしていた。ド・ゴール自由じゆうフランスとフランス、そしてレジスタンスを同一どういつし、フランスのレジスタンスがつねにド・ゴールと一体いったいとなってたいどく抗戦こうせんおこなっていたというイメージをけた。またフランス共産党きょうさんとうは「虐殺ぎゃくさつされたななまんにんとう」というスローガンをし、ド・ゴールとちがって国内こくないでファシズムとたたかつづけたというイメージをひろめた[72]

1969ねんマルセル・オフュールス監督かんとくのドキュメンタリー映画えいがかなしみとあわれみ』が公開こうかいされた。レジスタンスとしてドイツに抵抗ていこうするのではなく、びるために受動じゅどうてき生活せいかつおくっていたフランス国民こくみん姿すがたえがいたこの作品さくひん当局とうきょく衝撃しょうげきあたえ、1981ねんまでテレビ放映ほうえい禁止きんしされた。ルイ・マルの『ルシアンの青春せいしゅん』など、たいどく協力きょうりょくえがいた作品さくひんあらわれ、アンリ・アムールーが「4せんまんにんのペタン」というタイトルのほんすなど、フランスじんたいどく協力きょうりょく積極せっきょくてきであったという否定ひていてき神話しんわまれた[73]。1980年代ねんだい以降いこうもさまざまな研究けんきゅう議論ぎろん発生はっせいしている。

歴史れきしによる議論ぎろん

編集へんしゅう

フランスの歴史れきしロベール・アロンは1954ねん著作ちょさく『ヴィシーの歴史れきし』で、ヴィシー政府せいふ公式こうしきにはドイツに同調どうちょう協力きょうりょくしているようにせながら、実際じっさいには秘密ひみつ交渉こうしょうなどで統治とうち骨抜ほねぬきにする努力どりょくおこない、フランス国民こくみんのためのたてとなっていたとした。しかしアメリカの歴史れきしロバート・パクストン (en) は1972ねん著書ちょしょ『ヴィシー・フランス、きゅう勢力せいりょくしん体制たいせい』でアロンのせつ否定ひていし、ドイツの占領せんりょうぐん少数しょうすうであったことなどを指摘してきし、戦後せんご体制たいせいがドイツ有利ゆうりになるとみたヴィシー政府せいふ積極せっきょくてきたいどく協力きょうりょくおこなっていたとした[74]歴史れきしジャン・マルク=ヴァロー (fr) はパクストンの批判ひはん現在げんざいのイデオロギーからたものであると批判ひはんした[75]。またフランスの歴史れきしマルク・フェローは1987ねん著書ちょしょ『ペタン』においてペタンが人命じんめいものざいまもったわりに国家こっか名誉めいようしなった犠牲ぎせいしゃであるとした[76]。そのもパクストンは基本きほんてき見方みかたえていないが、ヴィシーを理解りかいすることは「ますます魅力みりょくてきな、そして未完みかん事業じぎょう」であるとして、将来しょうらい議論ぎろん期待きたいするむねしるしている[77]

ペタンにたいする評価ひょうか

編集へんしゅう

1951ねんのペタンの死後しご、ウェイガン大将たいしょうびかけで「ペタン元帥げんすい追憶ついおくまもるための協会きょうかい」 (fr) が樹立じゅりつされた。この協会きょうかいはペタンの名誉めいよ回復かいふくもとつづけたが、極右きょくうてき政治せいじ勢力せいりょく温床おんしょうにもなった[78]。1958ねんにド・ゴールが大統領だいとうりょうになると、「だいいち世界せかい大戦たいせん勝利しょうり貢献こうけんした」として、そのとし11がつ11にちだいいち世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょう記念きねんにあたる追憶ついおく、ペタンの墓碑ぼひ花輪はなわおくった。しかしペタン信奉しんぽうしゃ一部いちぶ不快ふかいおもい、ド・ゴールののついたリボンをいた。その歴代れきだい大統領だいとうりょうはこの慣行かんこう継続けいぞくしたが、1993ねん11月8にち、ミッテラン大統領だいとうりょう花輪はなわ慣行かんこうりやめることを声明せいめいした。

1984ねんにはヴィシー政府せいふ産業さんぎょう次官じかんフランソワ・レイドー (fr) とペタンの弁護人べんごにん国会こっかい議員ぎいんつとめたジャック・イゾルニ (fr) がペタンを弁護べんごする新聞しんぶん広告こうこくした。この広告こうこく政府せいふによって禁止きんしされ、二人ふたり控訴こうそしたが「犯罪はんざいすなわたいどく協力きょうりょくざい弁明べんめい」として有罪ゆうざいとなった。両者りょうしゃストラスブール欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょ提訴ていそし、1998ねんにフランス政府せいふ行為こうい表現ひょうげん自由じゆう侵害しんがいであるという判決はんけつけた。原告げんこくにんはすでに死亡しぼうしていたが、遺族いぞく慰謝いしゃりょうった[76]

ラヴァルにたいする評価ひょうか

編集へんしゅう

チャーチルはその著書ちょしょだい世界せかい大戦たいせん回顧かいころく』でラヴァルを「自分じぶんのち行為こうい恥辱ちじょくにもかかわらず、明確めいかくとおくを見通みとおしていた」とひょうした。これにたいしてラヴァルのむすめジョゼはドイツ高官こうかんがラヴァルの協力きょうりょく姿勢しせいかたっていたことを指摘してきし、ラヴァルもまた偉大いだい姿勢しせいったのだと手紙てがみ反論はんろんした[55]

また、ペタンの支持しじしゃはコラボラシオンのつみをラヴァルいちにんしつける傾向けいこうがあり[58]、ペタンの裁判さいばんにおいても「わるいのはピエール・ラヴァルだ」という主張しゅちょうおこない、戦後せんごもラヴァルいちにんつみしつける『ぎゃく伝説でんせつづくりに終始しゅうししたという指摘してきもある[79]

ド・ゴールが大統領だいとうりょう辞任じにんしたのちの1970ねん、ラヴァル裁判さいばん公開こうかい史料しりょう一部いちぶ閲覧えつらんゆるされた。ジョゼのおっと弁護士べんごしルネ・ド・シャンブラン (fr) はド・ゴール時代じだいからジョルジュ・ポンピドゥー大統領だいとうりょう交渉こうしょうしており、史料しりょう閲覧えつらんおこなった。こののちシャンブランと会談かいだんしたもと首相しゅしょうジョルジュ・ビドーは、ラヴァルの裁判さいばんは1945ねん10がつ制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょまでにラヴァルを必要ひつようがあったド・ゴールらの陰謀いんぼうだとげた。シャンブランは1983ねんに『歴史れきしまえのピエール・ラヴァル』を出版しゅっぱんし、裁判さいばん無効むこう要求ようきゅうした。歴史れきしフェルド・クプフェルマン (fr) がシャンブランと連絡れんらくって『ラヴァル』の執筆しっぴつはじめると、匿名とくめい人物じんぶつによって「ラヴァル直筆じきひつ判決はんけつ反論はんろんしょ」がシャンブランのもとわたった。このほかにも大量たいりょう史料しりょうおくられ、その資料しりょうによってシャンブランは『ピエール・ラヴァルのための闘争とうそう』を1990ねん出版しゅっぱんした。また歴史れきしジャン=ポール・コワンテ (fr) は、ペタンの裁判さいばんしん裁判さいばんであったが、ラヴァルの裁判さいばん戯画ぎがであったと指摘してきしたうえで「てきあざむことけていたとられていた」ラヴァルが、イギリスじんやドイツじん、ペタンにもあざむかれていたのではないかと疑問ぎもんていした[80]

年表ねんぴょう

編集へんしゅう
フランス歴史れきし
 
この記事きじシリーズ一部いちぶです。
年表ねんぴょう

フランス ポータル
1940ねん
1941ねん
1942ねん
  • 4がつ18にち、ペタンが首相しゅしょう辞任じにんし、ラヴァルが首相しゅしょう昇格しょうかく
  • 5月5にちマダガスカルにおいて、連合れんごう国軍こくぐんとヴィシー政府せいふぐん日本にっぽん海軍かいぐんあいだたたかいがはじまる。(マダガスカルのたたか
  • 11月5にち、マダガスカル陥落かんらく
  • 11月8にち連合れんごう国軍こくぐんトーチ作戦さくせん開始かいしフランスりょうアルジェリアのヴィシー政権せいけんぐん交戦こうせん開始かいし
  • 11月10にち、アルジェリアにいた海軍かいぐん大臣だいじんけんフランスぐんそう司令しれいかんフランソワ・ダルラン連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうていむすぶ。アルジェリアの政府せいふ関係かんけいしゃ逮捕たいほされ、20まんにんのヴィシー将兵しょうへい連合れんごうこくがわ降伏ごうぶく
    • 同日どうじつ、ドイツがアントン作戦さくせん発動はつどうし、ヴィシーフランスの本土ほんど全域ぜんいき占領せんりょう開始かいし
  • 11月27にち、ドイツがわトゥーロン艦艇かんてい接収せっしゅうしようとしたため、艦船かんせん大部たいぶ自沈じちんする。
  • 12月7にち、ダルランが連合れんごうこく承諾しょうだくけて、きたアフリカにおけるフランス国家こっか元首げんしゅけんきたフランスにおける陸海空りくかいくうぐん部隊ぶたいそう司令しれいかんけんきたアフリカ総督そうとく就任しゅうにんする。
  • 12月24にち、ダルランが暗殺あんさつされる。アンリ・ジローがダルランの事実じじつじょう後継こうけいしゃとなる。
1943ねん
  • 1がつ14にちカサブランカ会談かいだん。フランスのトップをめるための調整ちょうせいおこなわれるが、決裂けつれつ
  • 5月13にちきたアフリカの枢軸すうじくぐん降伏ごうぶくきたアフリカ全域ぜんいき連合れんごうこく支配しはいちる。
  • 5月27にち、フランス国内こくないでレジスタンスの統一とういつ組織そしき全国ぜんこく抵抗ていこう評議ひょうぎかい(CNR)が設立せつりつ。ド・ゴールをフランスレジスタンスの指導しどうしゃとしてみとめる声明せいめいす。
  • 6月3にち、フランスりょうアルジェリアでフランス国民こくみん解放かいほう委員いいんかい (en) が結成けっせいされる。共同きょうどう代表だいひょうはジローとド・ゴール。
  • 9月8にちイタリア王国おうこく連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつ枢軸すうじくから離脱りだつイタリアの降伏ごうぶく)。
1944ねん
1945ねん
  • 3月9にち日本にっぽんぐんだい38ぐん、インドシナ植民しょくみん政府せいふ解体かいたいふつしるしぐん武装ぶそう解除かいじょあかりごう作戦さくせん)。その保護ほごこくがあいついで独立どくりつ宣言せんげん
  • 4がつ22にち、ジグマリンゲンの亡命ぼうめい政府せいふ連合れんごうぐん逮捕たいほされる。
  • 4がつ26にち、ペタンがスイスからフランス国内こくないはいり、逮捕たいほされる[81]
  • 8がつ1にち、ラヴァルがドイツのリンツ逮捕たいほされる[82]

政府せいふ変遷へんせん

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国家こっか主席しゅせきフランス語ふらんすご: Chef de l'État français

だいいちラヴァル政権せいけん

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1940ねん7がつ12にち - 1940ねん12月12にち  (fr:Gouvernement Pierre Laval (5)

1940ねん7がつ16にち以下いか閣僚かくりょう追加ついかされた。

1940ねん9がつ大幅おおはば改造かいぞうおこなわれた。

フランダン政権せいけん

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1940ねん12月13にち - 1941ねん2がつ9にち  (fr:Gouvernement Pierre-Étienne Flandin (2)

主要しゅよう閣僚かくりょうのみ

ダルラン政権せいけん

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1941ねん2がつ9にち - 1942ねん4がつ18にち  (fr:Gouvernement François Darlan

主要しゅよう閣僚かくりょうのみ

だいラヴァル政権せいけん

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1942ねん4がつ18にち - 1944ねん8がつ19にち  (fr:Gouvernement Pierre Laval (6)

  • ピエール・ラヴァル - 首相しゅしょう外務がいむ大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん情報じょうほう大臣だいじん兼務けんむ
  • ユージン・ブリドー (fr)  - 国防こくぼう大臣だいじん
  • イヴ・ブーティリエ - 財務ざいむ大臣だいじん
  • ガブリエル・オーファン (fr)  - 海洋かいよう大臣だいじん
  • グザヴィエ・ヴァラ (fr)  - ユダヤじん問題もんだい担当たんとう委員いいん
  • ジョゼフ・ダルナン - 治安ちあん担当たんとう長官ちょうかん(1942ねん12月31にち - 1944ねん6がつ13にち
  • チャールズ・アブリアル (fr) - 海軍かいぐん大臣だいじん (1942ねん11月29にち - 1943ねん3がつ25にち)

主要しゅよう閣僚かくりょうのみ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 瘰癧るいれき」は"頸部リンパぶし結核けっかく"の古称こしょう[2]中世ちゅうせいヨーロッパにおいて、おう患部かんぶれることで病気びょうき治癒ちゆするロイヤル・タッチ英語えいごばんというかんがかたがあったこと(」のこう言及げんきゅうがある)をまえている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 渡辺わたなべ(1994)p.78
  2. ^ 大辞林だいじりん だいさんはん瘰癧るいれき』 - コトバンク
  3. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.85-86
  4. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 770-771.
  5. ^ 児島こじま、190P
  6. ^ 児島こじま、193P-194P
  7. ^ 児島こじま、194P。ただし、ナチズムは蔑称べっしょうであり、原語げんごは「Nationalsozialismus」(国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎ)である。
  8. ^ 村田むらたいち、177-178p
  9. ^ 村田むらた、130-131p
  10. ^ 村田むらた、131p
  11. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.83
  12. ^ 村田むらた、131-133p
  13. ^ 村田むらた、133p
  14. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.89-90
  15. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.108
  16. ^ a b c 柳田やなぎだ陽子ようこ, 1968 & p.94.
  17. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 1071.
  18. ^ a b 村田むらた、134p
  19. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.104-106
  20. ^ a b 村田むらた、135p
  21. ^ a b 村田むらた、136p
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  29. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 958-959.
  30. ^ 大井おおい 2008, p. 965-968.
  31. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 965.
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  39. ^ ひろしふつ戦争せんそうでドイツがわうつり、ベルサイユ条約じょうやくでまたフランスがわうつった
  40. ^ 村田むらた、130p
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  58. ^ a b c d 柳田やなぎだ陽子ようこ, 1968 & p.97.
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  69. ^ 渡辺わたなべ(1994)p.193
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  74. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 1070-1071.
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  76. ^ a b 大井おおいたかし 2008, p. 1076.
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  79. ^ 柳田やなぎだ陽子ようこ, 1968 & p.110-111.
  80. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 1081-1083.
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  82. ^ 大井おおいたかし 2008, p. 975.

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 渡辺わたなべ和行かずゆき『ナチ占領せんりょうのフランス 沈黙ちんもく抵抗ていこう協力きょうりょく講談社こうだんしゃ、1994ねん平成へいせい6ねん)。ISBN 4-06-258034-9 
  • 児島こじまじょう誤算ごさん論理ろんり』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1990ねんISBN 4-16-714134-5

大井おおいたかし欧州おうしゅう国際こくさい関係かんけい 1919‐1946―フランス外交がいこう視角しかくから』たちばな出版しゅっぱん、2008ねんISBN 978-4813321811 [1]

戦後せんごフランス憲法けんぽう前史ぜんし研究けんきゅうノート(いち)」『いちきょう研究けんきゅう』11かん(4ごう)、一橋大学ひとつばしだいがく、171-182ぺーじ、1987ねんNAID 110007620653
戦後せんごフランス憲法けんぽう前史ぜんし研究けんきゅうノート()」『いちきょう研究けんきゅう』12かん(2ごう)、一橋大学ひとつばしだいがく、129-141ぺーじ、1987ねんNAID 110007620631
戦後せんごフランス憲法けんぽう前史ぜんし研究けんきゅうノート(さん)」『いちきょう研究けんきゅう』12かん(4ごう)、一橋大学ひとつばしだいがく、119-130ぺーじ、1988ねんNAID 110007620609
  • 柳田やなぎだ陽子ようこ「ヴィシー政府せいふしょ問題もんだい -そのたいどく関係かんけい右翼うよくてきイデオロギー-:現代げんだいヨーロッパ国際こくさい政治せいじ」『国際こくさい政治せいじだい35かん、JAPAN ASSOCIATION OF INTERNATIONAL RELATIONS、1968ねん、91-110ぺーじNAID 130004302106 

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その

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい4610ふん 東経とうけい324ふん / 北緯ほくい46.167 東経とうけい3.400 / 46.167; 3.400 (ヴィシー)

  1. ^ 大井おおいたかし 2008.