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ポー平原 - Wikipedia

ポー平原へいげん

イタリア北部ほくぶ平野へいや

ポー平原へいげん(ポーへいげん、: Pianura Padana)は、イタリア北部ほくぶおよび中部ちゅうぶの4しゅうピエモンテしゅうロンバルディアしゅうエミリア・ロマーニャしゅうヴェネトしゅう)にまたがるがわ流域りゅういき平野へいや面積めんせきは7まん4970平方へいほうキロメートル。パダノ=ヴェネタ平野へいやパダーナ平原へいげんパダーノ平原へいげんともばれる。アルプス山脈あるぷすさんみゃく山麓さんろくアペニン山脈さんみゃくにはさまれ、東西とうざいながびる平野へいやで、肥沃ひよく土地とちみず交通こうつう便びんふるくからゆたかな農業のうぎょう地帯ちたい誕生たんじょうさせ、おおくの都市としそだててきた。現在げんざいもイタリア国内こくないもっと経済けいざい活動かつどう活発かっぱつ地域ちいきとなっている。

ポー平原へいげん

平野へいや北側きたがわベルガモブレシアヴェローナヴィチェンツァしょ都市としむすせん南側みなみがわアレッサンドリアピアチェンツァパルマモデナボローニャリミニしょ都市としむすせんかこまれ、そのあいだながれるがわ沿ってパヴィアクレモナマントヴァフェラーラなどの都市としがある。これらの都市としおおくは中世ちゅうせいコムーネ形成けいせいした伝統でんとうてき都市としで、ポー平原へいげんにおいてはこうしたしょ都市とし周辺しゅうへん農村のうそんわせてそれぞれに固有こゆう地域ちいき世界せかいをつくっているのが特徴とくちょうである。

トリノおよびキヴァッソ付近ふきんがわ沿いの丘陵きゅうりょうコッリーナ・トリネーゼイタリアばんがわちゅう流域りゅういきおよび河口かこうがわデルタはそれぞれユネスコ生物せいぶつけん保護ほご指定していされている[1][2][3]

近代きんだい工業こうぎょうだい規模きぼ農業のうぎょう

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ポー平原へいげん西部せいぶがわ上流じょうりゅう)にはトリノミラノなどだい工業こうぎょう地帯ちたいがあり、最下さいかりゅうアドリア海あどりあかいめんした一帯いったい低湿ていしつで、河口かこう付近ふきんにはデルタが形成けいせいされている。ローマからみてがわ手前てまえがわ右岸うがん)をチスパダーノ、こうがわ左岸さがん)をトランスパダーノとけるかたもあり、18世紀せいきすえナポレオン・ボナパルトのイタリア遠征えんせいつづ一時期いちじきチスパダーナ共和きょうわこくトラスパダーナ共和きょうわこく樹立じゅりつされたこともある(チザルピーナ共和きょうわこく)。

ポー平原へいげんピエモンテしゅうロンバルディアしゅう地域ちいきは、18世紀せいきから19世紀せいきにかけて灌漑かんがい施設しせつ整備せいびされて牧草ぼくそう栽培さいばい家畜かちく飼育しいくすすみ、こくさく酪農らくのう混合こんごう農業のうぎょう発達はったつした。この地域ちいきでは稲作いなさく経営けいえいおおくみられ、水田すいでん草取くさとりにはぶしやといの女性じょせい労働ろうどうしゃ使つかわれた。モンディーナとばれるこの女性じょせい労働ろうどうしゃそうは、最近さいきんまでポー平原へいげん社会しゃかい生活せいかつおおきな位置いちめていたが、機械きかい除草じょそうざい使用しようにつれてしだいに姿すがたしていった。ロンバルディア南東なんとうからエミリア=ロマーニャしゅうにかけてがポー平原へいげん中心ちゅうしんたるが、ここでも穀物こくもつ生産せいさん酪農らくのう経営けいえい発達はったつし、各種かくしゅのチーズやハムの産地さんちとしてられる。また、テンサイ、トマト、果樹かじゅなどの栽培さいばい関連かんれんして製糖せいとうぎょう食品しょくひん加工かこうぎょうさかんである。

19世紀せいき以来いらいポー平原へいげんでは農業のうぎょう労働ろうどうしゃ雇用こようしてのだい規模きぼ農業のうぎょう経営けいえい支配しはいてきで、農場のうじょうにはやといのう住居じゅうきょ家畜かちく飼育しいくしょ脱穀だっこくやチーズ・バター製造せいぞうのためのしょ作業さぎょう施設しせつ貯蔵ちょぞう倉庫そうこなどを1ヵ所かしょ集中しゅうちゅうしたカシーナとばれる経営けいえい基地きち存在そんざいした。おな大農だいのう経営けいえいでもみなみイタリアやシチリアでは、こうした施設しせつ農場のうじょう設営せつえいされることはなく、このてんりょう地方ちほう大農だいのう経営けいえい性格せいかくちがいを端的たんてきあらわしている。

あかいベルト」の前史ぜんし

編集へんしゅう

ポー平原へいげん歴史れきしは、上記じょうきしょ都市とし周辺しゅうへん農村のうそんわせて形成けいせいしているそれぞれに固有こゆう地域ちいき世界せかい歴史れきしむすびついているが、現代げんだい問題もんだいとしては、大衆たいしゅうてきなファシズム運動うんどうがこの地帯ちたい最初さいしょ成立せいりつしたことが重要じゅうようされている(ファシズム項目こうもく参照さんしょうしてしい)。

19世紀せいきすえから20世紀せいきはじめにかけて、ポー平原へいげん農業のうぎょう労働ろうどうしゃはレーガとばれる組織そしき地域ちいきごとに結成けっせいして、農業のうぎょうだい地主じぬし大農だいのう経営けいえいしゃ)にたいする経済けいざい闘争とうそうすすめた。レーガはたん労働ろうどう組合くみあいとしての性格せいかくにとどまらず、日常にちじょう生活せいかつでの労働ろうどうしゃむすびつきをつよめる役割やくわりたした。一方いっぽう、イタリアの社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうはポー平原へいげん農業のうぎょう労働ろうどうしゃ最大さいだい基盤きばんとして発展はってんし、おな時期じき社会党しゃかいとう支配しはいする地方自治体ちほうじちたいおお誕生たんじょうした。さらに、労働ろうどう会議かいぎしょ協同きょうどう組合くみあい職業しょくぎょう斡旋あっせんしょ文化ぶんかサークル、民衆みんしゅう集会しゅうかいしょなどが相次あいついで設立せつりつされ、強力きょうりょく活動かつどう展開てんかいした。このようにしてポー平原へいげんには社会しゃかい主義しゅぎつよまるが、ここでの社会しゃかい主義しゅぎはポー平原へいげんにおけるそれぞれの地域ちいき世界せかいごとに、地域ちいき世界せかい内部ないぶ運動うんどうとしてすすんだことが特徴とくちょうてきであった。いわば自治体じちたい社会しゃかい主義しゅぎびうる性格せいかくで、地域ちいき世界せかい個別こべつろして、そとへのひろがりをしめさなかった。

イタリア社会党しゃかいとうとレーガによる地域ちいき支配しはいだいいち世界せかい大戦たいせんのちにいっそうつよまる傾向けいこうをみせたが、まさにその時点じてん暴力ぼうりょくてきなファシズム運動うんどう登場とうじょうして、この地帯ちたい社会しゃかい主義しゅぎ徹底的てっていてき破壊はかいすることになる。ポー平原へいげん大衆たいしゅうてきなファシズム運動うんどう最初さいしょ舞台ぶたいとなったのは、このような事情じじょうによっている。そして、自治体じちたい社会しゃかい主義しゅぎってわったファシズムもまた、ポー平原へいげんにおける地域ちいき世界せかい存在そんざい重視じゅうしして、地域ちいきごとの支配しはいつづけた。

ファシズムの崩壊ほうかいしただい世界せかい大戦たいせん、ポー平原へいげんふたた社会しゃかい主義しゅぎ勢力せいりょくつよ地帯ちたいとなり、とくにエミリア・ロマーニャしゅう隣接りんせつするトスカーナしゅうならんで「あかいベルト」を形成けいせいした。1976ねん発表はっぴょうされたベルナルド・ベルトルッチ映画えいが『1900ねん』は、ぶしのめぐりのなかきる農業のうぎょう労働ろうどうしゃ生活せいかつ視点してんえながら、社会しゃかい主義しゅぎとファシズムの闘争とうそういろどられた20世紀せいきのポー平原へいげん歴史れきし興味深きょうみぶかえがいている。

ポー平原へいげん文学ぶんがく

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がわはイタリア最大さいだいかわであり、独特どくとく風土ふうど文化ぶんかそだててきたが、文学ぶんがくめんからみると、その流域りゅういき、すなわちポー平原へいげん文学ぶんがくは「シチリアの文学ぶんがく」や「メッツォジョルノの文学ぶんがく」にくらべると、地方ちほう文学ぶんがくとしての独自どくじ輪郭りんかく一貫いっかんした性格せいかくっていない。

ゆたかな穀倉こくそう地帯ちたいとして経済けいざいてきちからにもめぐまれたエミリア・ロマーニャしゅうのなかでも、11世紀せいきにイタリア最古さいこ大学だいがく誕生たんじょうをみたボローニャは、以来いらいイタリア半島はんとう学芸がくげい一大いちだい中心ちゅうしんとなった。13世紀せいきにはダンテあおいだグイード・グイニツェッリイタリアばん英語えいごばん散文さんぶんでは俗語ぞくご散文さんぶん開拓かいたくしゃグイード・ファーバ(ファーヴァ)イタリアばん英語えいごばん登場とうじょうし、14世紀せいきにはダンテの『かみきょく解釈かいしゃく盛行せいこうし、異端いたん詩人しじん天文学てんもんがくしゃチェッコ・ダスコリイタリアばん英語えいごばん寓意ぐうい詩人しじん聖職せいしょくしゃフェデリコ・フレッツィイタリアばん英語えいごばんらをボローニャは輩出はいしゅつした。コムーネ時代じだいむかえると諸侯しょこう宮廷きゅうていにいわゆるルネサンス文化ぶんかほこり、がわ流域りゅういきではエステようするフェラーラとゴンザーガのマントヴァが文化ぶんかてき優位ゆういった。特筆とくひつすべきはフェラーラの騎士きし物語ものがたり叙事詩じょじし伝統でんとうであり、ボイアルドからアリオストの『きょうえるオルランド』にいたってそれは頂点ちょうてんきわめた。アリオストののち宗教しゅうきょう改革かいかくたいする反動はんどう時代じだい流浪るろう生涯しょうがいおくった詩人しじんタッソも、その創作そうさくれきのなかでフェラーラおよびマントヴァにおおきな足跡あしあとしるしている。

つづいてマリーノ優美ゆうび一世いっせい風靡ふうびしたバロック時代じだいには、ボローニャやモデナにマリニズモイタリアばん英語えいごばん詩人しじんたちが輩出はいしゅつし、アルカディアの時代じだいうつすとともにモデナのエステ図書館としょかんイタリアばん英語えいごばんつとめた2人ふたり博学はくがくしゃムラトーリイタリアばん英語えいごばんティラボスキイタリアばん英語えいごばん広範こうはん業績ぎょうせきひかる。ロマンティシズム時代じだいにはみるべき営為えいいがなかったが、19世紀せいき後半こうはんから20世紀せいき初頭しょとうにかけて相次あいついでボローニャ大学だいがく教壇きょうだんった2人ふたり巨星きょせいカルドゥッチパスコリ登場とうじょうし、はなやかな文学ぶんがく活動かつどうおこなった。現代げんだい文学ぶんがくでは、大河たいがきるひとびとの姿すがたかさねてイタリアの現代げんだいえがいたリッカルド・バッケッリイタリアばん英語えいごばん長大ちょうだい歴史れきし小説しょうせつ『ポーかわ水車みずぐるま小屋こや[注釈ちゅうしゃく 1]』がげられる。また戦後せんご文学ぶんがくでは、フェラーラにこしえて抒情じょじょうせいあふれる小説しょうせつぐんきつづけるジョルジョ・バッサーニイタリアばん英語えいごばん存在そんざいげられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ Collina Po Biosphere Reserve, Italy” (英語えいご). UNESCO (2019ねん4がつ4にち). 2023ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  2. ^ Po Grande Biosphere Reserve, Italy” (英語えいご). UNESCO (2022ねん11月). 2023ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ Po Delta Biosphere Reserve, Italy” (英語えいご). UNESCO (2019ねん4がつ4にち). 2023ねん3がつ30にち閲覧えつらん