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シチリア王国 - Wikipedia

シチリア王国おうこく

かつてみなみイタリアに存在そんざいした王国おうこく
シチリア王国おうこく
Regnu di Sicilia
1130ねん - 1816ねん 両シチリア王国
シチリア王国の国旗 シチリア王国の国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Animus Tuus Dominusラテン語らてんご
和訳わやくれいあなたのしんはあなたのもの
シチリア王国の位置
1190ねん
公用こうよう ラテン語らてんごシチリアイタリア
口語こうご : アラビアギリシアひとし
国教こっきょう カトリック
宗教しゅうきょう ユダヤきょう
イスラム教いすらむきょう
首都しゅと パレルモ
国王こくおう
1130ねん - 1154ねん ルッジェーロ2せい
1197ねん - 1250ねんフェデリーコ1せい
1412ねん - 1416ねんフェルディナンド1せい
1516ねん - 1556ねんカルロ2せい
1759ねん - 1816ねんフェルディナンド3せい
人口じんこう
1800ねん1,700,000にん
変遷へんせん
ルッジェーロ2せい王位おうい獲得かくとく 1130ねん
シチリアのばんいのり1282ねん
カスペの妥協だきょう1412ねん
カルロ5せい即位そくい1735ねん
りょうシチリア王国おうこく正式せいしき成立せいりつ1816ねん
通貨つうかピアストル
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
マルタの旗 マルタ
チュニジアの旗 チュニジア
ギリシャの旗 ギリシャ
アルバニアの旗 アルバニア
リビアの旗 リビア
先代せんだい次代じだい
シチリア公国 シチリア公国こうこく
プッリャ・カラブリア公国 プッリャ・カラブリア公国こうこく
アマルフィ公国 アマルフィ公国こうこく
ズィール朝 ズィールあさ
スポレート公国 スポレート公国こうこく
カプア公国 カプア公国こうこく
ナポリ公国 ナポリ公国こうこく
りょうシチリア王国おうこく 両シチリア王国

シチリア王国おうこく(シチリアおうこく、: Regnum Siciliae, : Regno di Sicilia)は、中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて、シチリアとうイタリア半島はんとう南部なんぶ支配しはいした王国おうこくである。現在げんざいは、その領域りょういきはほぼイタリア共和きょうわこくりょう一部いちぶとなっている。

歴史れきし 編集へんしゅう

ノルマン・シチリア王国おうこく成立せいりつ 編集へんしゅう

11世紀せいきなかば、フランスノルマンディー地方ちほうから兄弟きょうだいともにイタリアにやってきたノルマンじん騎士きしロベルト・イル・グイスカルドひがしマ帝国まていこくりょうだったみなみイタリア占領せんりょうした。1071ねんおとうとルッジェーロ1せいはシチリア全島ぜんとう占領せんりょうした。このこうによりルッジェーロ1せいはロベルトからシチリアはく (enあたえられた。

1130ねん、ルッジェーロ1せい息子むすこでありルッジェーロ2せい対立たいりつ教皇きょうこう地位ちいであるアナクレトゥス2せいから王位おういて、オートヴィルあさぞくうノルマンちょう)シチリア王国おうこく成立せいりつした。

1189ねん、シチリアおうグリエルモ2せい後継こうけいしゃなく死去しきょし、ローマ皇帝こうていハインリヒ6せいである伯母おばコスタンツァと、伯父おじ庶子しょしであるレッチェはくタンクレーディ王位おういあらそったが、外国がいこく支配しはいきら諸侯しょこう支持しじてタンクレーディが王位おういについた。しかし1194ねんのタンクレーディの死後しご幼少ようしょう息子むすこグリエルモ3せい王位おういにつくが、侵攻しんこうしてきたハインリヒ6せいパレルモ制圧せいあつされ、オートヴィルあさ終焉しゅうえんむかえた。

ホーエンシュタウフェンあさ 編集へんしゅう

つまコスタンツァオートヴィルのルッジェーロ2せいむすめであったため、シチリア王位おういホーエンシュタウフェンのローマ皇帝こうていハインリヒ6せいわたったが、1197ねんにハインリヒ6せい死去しきょした。幼少ようしょうフェデリーコおうとなり、コスタンツァは摂政せっしょうとなったが、彼女かのじょもまた翌年よくねんった。

1220ねん、フェデリーコはローマ皇帝こうていフリードリヒ2せい(シチリアおうとしては1せいになったが、シチリアまれのフェデリーコはローマおうというよりシチリアおうであり、ノルマンあさ後継こうけいしゃであった。フェデリーコはイタリア半島はんとう支配しはいしたため、ローマ教皇きょうこうはげしく対立たいりつし、なん破門はもんけ、対立たいりつおうてられた。

フェデリーコの死後しご、シチリア王国おうこく息子むすこたちがこういだが、フランスおうルイ9せいおとうとアンジュー=シチリアとなるアンジューはくシャルル教皇きょうこう要請ようせいけて征服せいふくした。

ナポリ王国おうこく成立せいりつとイベリアけい王朝おうちょう支配しはい 編集へんしゅう

シャルルはカルロ1せいとしてシチリア王位おういいたが、シチリアの民衆みんしゅうには不評ふひょうで、1282ねんシチリアのばんいのり事件じけん発生はっせいし、シャルルはシチリアとう脱出だっしゅつした。そのシチリアばんいのり戦争せんそうて、シチリアとうバルセロナアラゴンおうペドロ3せい獲得かくとくし、シチリア王国おうこくはシチリアとう領土りょうど半島はんとうがわナポリ王国おうこくとに分裂ぶんれつした。ペドロ3せい息子むすこたちのあいだでアラゴンとシチリアの王位おうい分割ぶんかつ相続そうぞくされた。

1302ねん分裂ぶんれつ状態じょうたいの2こくカルタベッロッタの和平わへい成立せいりつし、シチリアとうがわトリナクリア王国おうこくしょうするようになった。フェデリーコ2せいはローマ教皇きょうこうやナポリ王国おうこくによるシチリア併合へいごうくわだてを阻止そしした。

1409ねんマルティーノ1せい後継こうけいしゃのこさずにぼっし、王位おういいだそのちち、アラゴンおうマルティン1せい1410ねんにやはり後継こうけいしゃのこさずにぼっしたのちトラスタマラフェルナンド1せい1412ねんカスペの妥協だきょうでアラゴンとシチリアのおうえらばれるが、フェルナンドはシチリアには総督そうとくいた。そのまごフェルナンド2せい時代じだいにアラゴンとカスティーリャ連合れんごうしてスペイン王国おうこく事実じじつじょう成立せいりつするが、フェルナンド2せいはシチリアにくわえて、すでにトラスタマラ支流しりゅう支配しはいしていたナポリ王国おうこくさい征服せいふくした。

そのハプスブルクがスペインをおさめた時代じだいまでつうじて、シチリアはスペインの支配しはいかれた。

スペイン継承けいしょう戦争せんそう 編集へんしゅう

スペイン・ハプスブルク断絶だんぜつしたのちブルボンフェリペ5せいがスペインおう即位そくいするが、1702ねんスペイン継承けいしょう戦争せんそうはじまり、シチリアとう領有りょうゆうあらそわれた。

1713ねんユトレヒト条約じょうやくでシチリアとうサヴォイアこうヴィットーリオ・アメデーオ2せいわたり、サヴォイアがシチリア王位おういた。1718ねん旧領きゅうりょう回復かいふく目指めざすスペインが、サルデーニャとういでシチリアにも侵攻しんこう四国しこく同盟どうめい戦争せんそう)。戦後せんご1720ねん、ヴィットーリオ・アメデーオ2せいはシチリア王国おうこくオーストリア・ハプスブルクカール6せい割譲かつじょうした(この代償だいしょうとして、サヴォイアはオーストリアからサルデーニャとう割譲かつじょうされ、サルデーニャおうしょうした)。ナポリとシチリアはまたもやおな支配しはいしゃおさめるところとなった。

ナポリ・シチリアのブルボンあさ 編集へんしゅう

ポーランド継承けいしょう戦争せんそう結果けっか1735ねんにフェリペ5せい息子むすこパルマこうカルロがナポリおうカルロ7せいおよびシチリアおうカルロ5せいとして即位そくいした。カルロは1759ねんにスペインおうカルロス3せいとして即位そくいするさい三男さんなんフェルディナンドにナポリとシチリアの王位おういゆずった。フェルディナンド3せい1799ねん、ナポリ王国おうこくナポレオン勢力せいりょくうばわれ、イギリスの庇護ひごもとシチリアに避難ひなんした。ナポリはフランス勢力せいりょくによってパルテノペア共和きょうわこくとなるが短命たんめいわりブルボンあさのナポリ王国おうこく復帰ふっき。シチリアはウィリアム・ベンティンクきょう主導しゅどうするイギリスぐん影響えいきょうのまま地中海ちちゅうかいにおけるたいナポレオン基地きちとなり、政治せいじてきにもイギリスの立憲りっけん君主くんしゅせい影響えいきょうおおきくけた[1]。1806ねんから1814ねんまでイギリスの占領せんりょうにあった[2]。この時期じき議会ぎかい両院りょういんせい採用さいようし、王国おうこく封建ほうけん制度せいど終焉しゅうえんむかえた。

1815ねんにナポレオンが敗北はいぼくし、フェルディナンド3せいはシチリア王国おうこく歴史れきしとその改革かいかくをすべて廃止はいし。1816ねんにナポリとシチリアの王位おうい統合とうごうし、ナポリを首都しゅととするりょうシチリア王国おうこく成立せいりつさせ、りょうシチリアおうフェルディナンド1せいとなった。シチリアの住民じゅうみんはこれまですう世紀せいき以上いじょうにわたって王国おうこくきずいていた伝統でんとう蹂躙じゅうりんされたことに反発はんぱつ抵抗ていこうしたが、1820ねんにナポリぐんオーストリア連合れんごう勢力せいりょく排除はいじょされた。これ以来いらいシチリアに王宮おうきゅうかれていない。1848ねん-1849ねんふたたシチリア革命かくめいきるが、メッシーナを5日間にちかん爆撃ばくげきし「ばくだんおう」とあだけられたりょうシチリアおうフェルディナンド2せいによって排除はいじょされた。シチリアの市民しみん指導しどうしゃ階級かいきゅうナポリブルボンたいつよ反発はんぱついたことで、シチリアにおける圧政あっせいはよりきびしいものとなっていった。

イタリア王国おうこく統一とういつ 編集へんしゅう

1860ねん4がつ王家おうけたいするあらたな反乱はんらん勃発ぼっぱつピエモンテ出身しゅっしん首相しゅしょうカブール支援しえんけたジュゼッペ・ガリバルディあかシャツたいせんにんたい)を指揮しきジェノヴァからマルサラに5月上陸じょうりくし、この反乱はんらん支援しえんした。ガリバルディはサルデーニャおうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのもとにシチリアでの実権じっけんにぎると宣言せんげんカラタフィーミたたかいであかシャツたいはパレルモを確保かくほした。りょうシチリア王国おうこくフランチェスコ2せい勢力せいりょく維持いじしようとするもガリバルディに実権じっけんにぎられ、1860ねん6がつ25にちにフランチェスコ2せい立憲りっけん君主くんしゅせいへの転換てんかんはかり、立憲りっけん政府せいふ発足ほっそくさせ、このときあかしろみどりさんしょくはた国旗こっきとしてれた[3]。1860ねん10がつ21にちにイタリア統一とういつかんする国民こくみん投票とうひょうおこなわれ、99%の賛成さんせいひょう可決かけつされた。

経済けいざい 編集へんしゅう

ノルマンあさのもと、他所よそからの移住いじゅうしゃ領内りょうないさい定住ていじゅうしゃ使つかっての農業のうぎょう生産せいさんりょく向上こうじょうすすめられた。また王国おうこくおも収入しゅうにゅうとしてはナポリアマルフィといった海港かいこう都市としからの輸出ゆしゅつひんげられる。おも輸出ゆしゅつひん穀物こくもつであり、には豆類まめるい材木ざいもくオリおりブ油ぶゆ、ベーコン、チーズ、皮革ひかく獣皮じゅうひあさ服飾ふくしょくがある。12世紀せいきまつまでには南部なんぶメッシーナのこれら開港かいこう都市としとしての発展はってんられる。

王国おうこくおも取引とりひきさきにはジェノヴァピサひがしマ帝国まていこくエジプトファーティマあさ)がげられる。なかでもジェノヴァとの様々さまざま協約きょうやくくに商業しょうぎょうりょく保証ほしょう強化きょうか役立やくだった。しかし、アンジューあさ進展しんてんした封建ほうけんせいぎゃく経済けいざいりょく低下ていかつながった。またアンジューあさフィレンツェ銀行ぎんこういんきたイタリアの経済けいざい金融きんゆう依存いぞんしたため、これもまたくに経済けいざい悪化あっかさせた。これら経済けいざい失速しっそくとともに人口じんこう増加ぞうか都市とし進展しんてんした結果けっか農業のうぎょうりょく発展はってんさせようというモチベーションは低減ていげんしていくこととなった。

貨幣かへい 編集へんしゅう

 
メッシーナのアウグスターレ金貨きんかいちれい

シチリアでは、12世紀せいきのノルマン王朝おうちょうは913ねんからタリ金貨きんか基礎きそ貨幣かへいとして使用しようしてきた。1タリはかね1グラム、16+13カラットかねであった。アラブディナール金貨きんかも4タリの価値かちとして、ひがしマ帝国まていこくソリドゥス金貨きんかは6タリの価値かちであった[4]。シチリア王国おうこくでは、1オンザ = 30タリまたは5フローリンであった。1タリ = 20グラナであった。1グラナ = 6デナリであった。1140ねん以降いこうロメシナ銅貨どうか流通りゅうつう停止ていしされ、フォラーロ銅貨どうか導入どうにゅうされた。24フォラーロ = 1ひがしマ帝国まていこくミリアレンセであった。

1231ねんチュニジアひと敗走はいそうさせたあと、シチリアおうでもあったフリードリヒ2せい(フェデリコ2せい)はアウグスターレイタリアばん英語えいごばん金貨きんか鋳造ちゅうぞう21+12カラットおもさ5.28グラムであった[5]。1490ねん、シチリアではトリオンフォ金貨きんか鋳造ちゅうぞうされた。ヴェネツィア共和きょうわこくドゥカートどうあたいで、1トリオンフォ = 11+12アクイーラであった。1アクイーラ = 20グラナ価値かちがあり、交易こうえきにはおもタリ金貨きんかやピチューリが使用しようされた[6]

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 高山たかやまひろし中世ちゅうせいシチリア王国おうこく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、1999ねん

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ Danforth Prince (2007). Frommer's Sicily. Frommer's. p. 314. ISBN 978-0-470-10056-1 
  2. ^ W. H. Clements, "The Defences of Sicily, 1806-1815," Journal of the Society for Army Historical Research, Autumn 2009, Vol. 87 Issue 351, pp 256-272
  3. ^ Alfonso Scirocco (2007). Garibaldi: Citizen of the World. Princeton University Press. p. 279. ISBN 978-0-691-11540-5. https://archive.org/details/garibaldicitizen00scir/page/279 
  4. ^ Donald Matthew (1992). The Norman Kingdom of Sicily. Cambridge University Press. pp. 4–6, 71–74, 86–92, 285, 286, 304. ISBN 0-521-26911-3 
  5. ^ Peter L. Bernstein (2000). The power of gold: the history of an obsession. John Wiley and Sons. p. 90. ISBN 0-471-25210-7. https://archive.org/details/powerofgoldhisto00bern/page/90 
  6. ^ N. Zeldes (2003). The Former Jews of This Kingdom: Sicilian Converts After the Expulsion, 1492–1516. BRILL. pp. 5, 69, 296–97. ISBN 90-04-12898-0 

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう