トラーパニ に上陸 じょうりく するアラゴン国王 こくおう ペドロ3世 せい 。
晩 ばん 祷 いのり 事件 じけん の後 のち 、シチリア人 じん はすぐにペドロ3世 せい のもとに赴 おもむ いて統治 とうち 権 けん を譲渡 じょうと した。ペドロ自 みずか らが指揮 しき をとるアラゴン海軍 かいぐん は、現在 げんざい のアルジェリア 東部 とうぶ に位置 いち するコッロ (英語 えいご 版 ばん ) に上陸 じょうりく し、そのもとにはシチリア人 じん からの使節 しせつ が送 おく られてきた。ペドロはシチリア王位 おうい につくよう要請 ようせい され、これを受 う け入 い れた。この時 とき 、教皇 きょうこう マルティヌス4世 せい はシチリア人 じん 共同 きょうどう 体 たい を援助 えんじょ することを拒否 きょひ し、シチリア人 じん 反乱 はんらん 者 しゃ は北 きた イタリア の皇帝 こうてい 派 は ともども教皇 きょうこう によって破門 はもん された。
十字軍 じゅうじぐん への望 のぞ みを捨 す てたシャルルは、カラブリア において自軍 じぐん を掻 か き集 あつ め、メッシーナ付近 ふきん に上陸 じょうりく して包囲 ほうい を開始 かいし した。晩 ばん 祷 いのり 事件 じけん から4ヶ月 かげつ 後 ご にあたる1282年 ねん 8月 がつ 30日 にち 、ペドロがトラーパニ に上陸 じょうりく して即座 そくざ にパレルモへ進軍 しんぐん し、9月4日 にち にシチリア人 じん からの臣従 しんじゅう の誓 ちか いを受 う けてその古 ふる くからの特権 とっけん を認 みと めた。わずかにパレルモ大司教 だいしきょう の不在 ふざい が戴冠 たいかん の妨 さまた げになっただけであった。シャルルは既 すで にメッシーナを包囲 ほうい していたが、この時 とき アラゴン軍 ぐん は初 はじ めて彼 かれ と出会 であ っている。10月末 まつ までにシャルルはシチリア島 とう を立 た ち退 の くことを余儀 よぎ なくされ、それ以来 いらい 、支配 しはい 権 けん はイタリア半島 はんとう 本土 ほんど に限定 げんてい されることとなった。11月18日 にち にマルティヌス4世 せい はペドロを破門 はもん し、その王位 おうい を剥奪 はくだつ した。
ペドロ3世 せい は自身 じしん の優位 ゆうい を強調 きょうちょう し、1283年 ねん 2月 がつ までにカラブリア海岸 かいがん 線 せん の大 だい 部分 ぶぶん を掌握 しょうあく した。絶望 ぜつぼう 的 てき 感情 かんじょう に陥 おちい ったシャルルは、ペドロのもとに手紙 てがみ を送 おく って一 いち 騎 き 討 う ち による紛争 ふんそう の解決 かいけつ を求 もと めた。ペドロはこれを承諾 しょうだく し、シャルルはフランスに帰国 きこく して決闘 けっとう の同意 どうい を取 と り付 つ けた。両 りょう 王 おう は6人 にん の騎士 きし を選 え り抜 ぬ いて、決闘 けっとう の場所 ばしょ と日付 ひづけ を取 と り付 つ けた。決闘 けっとう はボルドー にて1月 がつ 1日 にち に行 おこな われることとなった。双方 そうほう 共 とも に100人 にん の騎士 きし が同行 どうこう し、イングランド 国王 こくおう エドワード1世 せい が審判 しんぱん 役 やく を務 つと めることとなったが、エドワードは教皇 きょうこう に注意 ちゅうい して決闘 けっとう にかかわりを持 も つことを拒絶 きょぜつ している[2] 。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチーダを自身 じしん の代理 だいり としてシチリアに残 のこ し、アラゴン経由 けいゆ でボルドーへ戻 もど ったが、その際 さい にフランスによる待 ま ち伏 ぶ せの疑 うたが いを避 さ けるため、変装 へんそう して同 どう 都市 とし に入城 にゅうじょう している。ペドロには護衛 ごえい がいなかったので、非常 ひじょう に危険 きけん な状態 じょうたい でアラゴンに帰 かえ った。
ペドロとシャルルが決闘 けっとう による決着 けっちゃく を追 お い求 もと めている間 あいだ に、カタルーニャの海軍 かいぐん 提督 ていとく であるルッジェーロ・ディ・ラウリア (イタリア語 ご 版 ばん ) はペドロの代理 だいり としてイタリアで戦闘 せんとう を継続 けいぞく していた。ルッジェーロはカラブリア海岸 かいがん 沿 ぞ いを略奪 りゃくだつ して、その巨大 きょだい な海軍 かいぐん の存在 そんざい 感 かん を維持 いじ し続 つづ けた。シャルル1世 せい はボルドーを去 さ ってプロヴァンス伯 はく 領 りょう に赴 おもむ き、同地 どうち から艦隊 かんたい を、当時 とうじ のイタリアにおける自身 じしん の王国 おうこく の首都 しゅと かつ王朝 おうちょう の支柱 しちゅう となるナポリ へ派遣 はけん した。ルッジェーロはマルタ を占領 せんりょう し、同島 どうとう 近 ちか くのマルタの戦 たたか い (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) でアンジュー伯 はく (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) =プロヴァンス伯 はく 艦隊 かんたい を撃破 げきは した。それからナポリ港外 こうがい においてシャルル1世 せい の息子 むすこ で王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ であるサレルノ公 こう (イタリア語 ご 版 ばん ) シャルル(2世 せい ) と引 ひ き分 わ けている。ルッジェーロは完全 かんぜん に遠洋 えんよう に針路 しんろ をとって、* ナポリ湾 わん の海戦 かいせん (英語 えいご 版 ばん ) でアンジュー海軍 かいぐん を完膚 かんぷ なきまでに破壊 はかい した。ルッジェーロはメッシーナにおいてサレルノ公 こう を捕虜 ほりょ とし、42の艦船 かんせん を拿捕 だほ している。シャルル1世 せい はこの時 とき イタリアに到着 とうちゃく していたが、それからすぐ後 ご の1285年 ねん に死去 しきょ した。シャルル1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ であるサレルノ公 こう は虜囚 りょしゅう の身 み であり、他方 たほう ペドロ3世 せい もアラゴン十字軍 じゅうじぐん という新 あら たな脅威 きょうい に対処 たいしょ しなければならなくなったことから、イタリアにおける争 あらそ いは両 りょう 陣営 じんえい の主導 しゅどう 者 しゃ が不在 ふざい のまま継続 けいぞく することとなった[3] 。
1284年 ねん にマルティヌス4世 せい は、シャルル1世 せい の甥 おい フィリップ3世 せい 大胆 だいたん 王 おう の四 よん 男 なん ヴァロワ伯 はく シャルル にアラゴン王国 おうこく を授 さづ けた。この教皇 きょうこう が是認 ぜにん した戦争 せんそう 、すなわち十字軍 じゅうじぐん のことを歴史 れきし 家 か のH. J. Chaytor は「ことによるとカペー家 か の王権 おうけん によって企 くわだ てられた最 もっと も不正 ふせい かつ不 ふ 必要 ひつよう 、そして悲惨 ひさん な目論見 もくろみ である」と叙述 じょじゅつ している[3] 。ルッジェーロがいまだ、ペドロ3世 せい が獲得 かくとく したシチリアを確固 かっこ たるものにしていた頃 ころ 、ペドロ自身 じしん はシャルル1世 せい と決闘 けっとう するために密 ひそ かにフランスに入 はい ったものの、失敗 しっぱい したことからアラゴンに帰国 きこく し、シャルルの方 ほう は再 ふたた びイタリアに入 はい って同地 どうち で死去 しきょ している。
ペドロ3世 せい は、フランスがアラゴン侵攻 しんこう を準備 じゅんび していた間 あいだ 、自国 じこく の不安 ふあん な情勢 じょうせい に対処 たいしょ していた。ペドロはアルバラシン を反逆 はんぎゃく 貴族 きぞく フアン・ヌニェス1世 せい ・デ・ララ (スペイン語 ご 版 ばん ) から奪回 だっかい し、カスティーリャ のサンチョ4世 せい 勇敢 ゆうかん 王 おう と新 あら たに同盟 どうめい し、フィリップ3世 せい の次男 じなん のナバラ 国王 こくおう フィリップ による正面 しょうめん 攻撃 こうげき を防 ふせ ぐのを試 こころ みるため、トゥデラ を攻撃 こうげき した 。
1283年 ねん にペドロ3世 せい の弟 おとうと であるマヨルカ 国王 こくおう ジャウメ2世 せい はフランス側 がわ に加勢 かせい して、そのモンペリエ 全土 ぜんど の領有 りょうゆう 権 けん を認 みと めてバレアレス諸島 しょとう 及 およ びルサリョ(ルシヨン )を自由 じゆう に航行 こうこう 出来 でき るようにした。同時 どうじ にジャウメ2世 せい は、ルサリョ伯 はく 領 りょう (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) を継承 けいしょう していたことから、フランスとアラゴンの間 あいだ に立 た っていたのである。ペドロ3世 せい はジャウメ2世 せい が若 わか いという理由 りゆう でその継承 けいしょう に反対 はんたい したことから、この種 たね の十字軍 じゅうじぐん という形 かたち での対抗 たいこう という顛末 てんまつ を迎 むか えることになった。1284年 ねん にフィリップ3世 せい 、ヴァロワ伯 はく 親子 おやこ 率 ひき いる最初 さいしょ の十字軍 じゅうじぐん がルシヨンに入 はい った。その内訳 うちわけ は、16,000人 にん の騎兵 きへい 、17,000人 にん の弩 いしゆみ 弓 ゆみ 兵 へい 、100,000人 にん の歩兵 ほへい 、及 およ び南 みなみ フランス港 こう の100艘 そう の艦船 かんせん であった[4] 。フランス軍 ぐん がジャウメ2世 せい を支援 しえん したにもかかわらず、現地 げんち 民 みん はその軍 ぐん に対 たい して反旗 はんき を翻 ひるがえ した。エルヌ は「ルシヨンの私生児 しせいじ 」(bâtard de Roussillon)と呼 よ ばれたヌノ・サンチェス(ca , 1212年 ねん から1242年 ねん までルシヨン伯 はく であった)の庶子 しょし によって果敢 かかん に守 まも り抜 ぬ かれたものの、最終 さいしゅう 的 てき には屈服 くっぷく し、聖堂 せいどう は焼 や き払 はら われて、フランス軍 ぐん は優位 ゆうい 性 せい を保 たも ち続 つづ けた。
1285年 ねん にフィリップ自 みずか らがジローナ 包囲 ほうい を試 こころ みて、塹壕 ざんごう を巡 めぐ らした。同 どう 都市 とし は頑強 がんきょう に抵抗 ていこう したにもかかわらず攻 せ め落 お とされた。ヴァロワ伯 はく はこの地 ち で、王冠 おうかん 抜 ぬ きでの戴冠 たいかん を執 と り行 おこな った。フランス軍 ぐん はすぐに退却 たいきゃく したが、ルッジェーロの手 て によってイタリア戦域 せんいき の戦闘 せんとう に巻 ま き込 こ まれる羽目 はめ となった。フォルミゲスの戦 たたか い (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) でフランス艦隊 かんたい は敗北 はいぼく し、艦船 かんせん は破壊 はかい された。その上 うえ 、フランス軍 ぐん の陣営 じんえい は赤痢 せきり に襲 おそ われ、フィリップ3世 せい 自 みずか らが感染 かんせん した。フランス王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ であるナバラ王 おう フィリップは、一族 いちぞく がピレネー山脈 さんみゃく を自由 じゆう に通行 つうこう できるよう、ペドロ3世 せい との交渉 こうしょう を開始 かいし した。しかしフランス軍 ぐん は通行 つうこう の申 もう し出 で を受 う けなかったことから、コル・デ・パニサルスの戦 たたか い (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) で完膚 かんぷ なきまでに叩 はた きのめされた。フィリップ3世 せい は、ペドロ3世 せい の支配 しはい を恐 おそ れて亡命 ぼうめい してきたジャウメ2世 せい の都 と であったペルピニャン で没 ぼっ し、ナルボンヌ に葬 ほうむ られた。
宿敵 しゅくてき であるシャルル1世 せい とフィリップ3世 せい の死 し と同 おな じ年 ねん の11月2日 にち にペドロ3世 せい も死去 しきょ した。ペドロは臨終 りんじゅう の際 さい 、自 みずか らの征服 せいふく は自 みずか らの家名 かめい によるもので決 けっ して教会 きょうかい への反逆 はんぎゃく ではない、と宣告 せんこく したことで罪 つみ の赦 ゆる しを得 え た。1287年 ねん 6月23日 にち にナポリ付近 ふきん でアンジュー家 か が敗北 はいぼく した伯爵 はくしゃく の戦 たたか い(カタルーニャ語 ご 版 ばん ) から数 すう 年 ねん 後 ご の1291年 ねん に締結 ていけつ されたタラスコン条約 じょうやく により、ペドロ3世 せい の後継 こうけい 者 しゃ である新 しん 国王 こくおう アルフォンソ3世 せい は公式 こうしき にアラゴンを回復 かいふく し、教会 きょうかい からの破門 はもん を外 はず された。
タラスコンの和平 わへい により、アラゴンとの戦闘 せんとう は終 お わったものの、それから1ヶ月 かげつ とたたずアルフォンソ3世 せい が死去 しきょ したことは、わずかな影響 えいきょう を与 あた えた。アルフォンソ3世 せい の弟 おとうと のシチリア国王 こくおう ジャコモ1世 せい がハイメ2世 せい としてアラゴンを相続 そうぞく したことで、二 ふた つの王国 おうこく は統一 とういつ された。1295年 ねん にハイメ2世 せい はアナーニ条約 じょうやく に調印 ちょういん し、それに従 したが う形 かたち でシチリアを教皇 きょうこう 領 りょう に寄進 きしん して、時 とき の教皇 きょうこう ボニファティウス8世 せい はそれをシャルル1世 せい の息子 むすこ シャルル2世 せい に授 さづ けた。しかし、ペドロ3世 せい の三男 さんなん でシチリア摂政 せっしょう であったフェデリーコ2世 せい は条約 じょうやく の黙認 もくにん を拒絶 きょぜつ し、シチリア人 じん によって彼 かれ らの国王 こくおう と宣告 せんこく された。かくしてアラゴン=シチリアのフェデリーコ2世 せい と、アンジュー=ナポリのシャルル2世 せい との間 あいだ で新 あら たなる戦闘 せんとう が起 お きた。
しかし条約 じょうやく では、戦闘 せんとう の際 さい にハイメ2世 せい にはシャルル2世 せい に助力 じょりょく することが義務付 ぎむづ けられていたことから、ハイメ2世 せい はこれに従 したが う形 かたち でカタルーニャから艦隊 かんたい を送 おく り込 こ み、シチリア沿岸 えんがん を襲撃 しゅうげき してフェデリーコ2世 せい を悩 なや ませた。フェデリーコは即座 そくざ に攻撃 こうげき 態勢 たいせい をとって、1296年 ねん にカラブリアに侵攻 しんこう した。幾 いく つかの塔 とう を包囲 ほうい し、ナポリの反乱 はんらん を扇動 せんどう してトスカーナ やロンバルディア の皇帝 こうてい 派 は と交渉 こうしょう し、教皇 きょうこう に対抗 たいこう するコロンナ家 か を援助 えんじょ した。
ハイメ2世 せい は1295年 ねん に締結 ていけつ された条約 じょうやく の遂行 すいこう と、和平 わへい の実現 じつげん に非常 ひじょう に熱心 ねっしん であった。かくしてハイメは、父 ちち に仕 つか えた有能 ゆうのう な人物 じんぶつ であるジョヴァンニとルッジェーロを支援 しえん した。1299年 ねん 7月 がつ 4日 にち にハイメはルッジェーロを伴 ともな い、自 みずか ら艦隊 かんたい を指揮 しき してオルランド岬 みさき の海戦 かいせん (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) においてフェデリーコを撃破 げきは した。他方 たほう 、シャルル2世 せい の息子 むすこ でハイメ2世 せい の娘 むすめ ビオランテ と結婚 けっこん したロベルト1世 せい 賢 けん 明王 みょうおう とターラント公 こう フィリッポ1世 せい は、シチリアに上陸 じょうりく してカターニア を占領 せんりょう した。フィリッポはトラーパニの包囲 ほうい に移 うつ ったものの、フラコナラの戦 たたか い (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) でフェデリーコに敗北 はいぼく して捕虜 ほりょ となった。カラブリアにおいて、フェデリーコ2世 せい は自身 じしん の継承 けいしょう 権 けん を高 たか めた。1300年 ねん 6月14日 にち にルッジェーロはポンサの戦 たたか い (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) でシチリア軍 ぐん を撃破 げきは し、フェデリーコを捕虜 ほりょ とした。
1302年 ねん にヴァロワ伯 はく は、教皇 きょうこう ボニファティウス8世 せい の命 いのち によりローマへ赴 おもむ いた後 のち 、シチリアに上陸 じょうりく したものの、その軍勢 ぐんぜい が疫病 えきびょう によって損害 そんがい を被 こうむ ったことから、和平 わへい を訴 うった えることを余儀 よぎ なくされた。8月 がつ 19日 にち にカルタベッロッタの和平 わへい が結 むす ばれ、フェデリーコ2世 せい は「トリナクリア (it ) 国王 こくおう 」の称号 しょうごう を帯 お びたシチリア島 とう 全土 ぜんど の王 おう として、シャルル2世 せい は「シチリア国王 こくおう 」の称号 しょうごう (多 おお くの歴史 れきし 家 か はその置 お かれた都 と から「ナポリ 国王 こくおう 」と呼 よ び習 なら わしている)を帯 お びる南 みなみ イタリア全土 ぜんど の王 おう として、それぞれ認 みと められた。1303年 ねん 5月 に教皇 きょうこう が条約 じょうやく に批准 ひじゅん し、フェデリーコ2世 せい は彼 かれ に貢 みつげ 税 ぜい を払 はら った。また、フェデリーコ2世 せい とシャルル2世 せい の娘 むすめ エレオノーラ の結婚 けっこん が執 と り行 おこな われた。
^ Chaytor, H. J. A History of Aragon and Catalonia . 1933. Chapter 7 , pp. 102-3.
^ Chaytor, p 104.
^ a b Chaytor, p. 105.
^ Chaytor, p 106.
The Rebellamentu di Sichilia , a Sicilian tract of 1290, is available online in two editions:
The Vinuta di lu re Iapicu in Catania , another Sicilian history, by Atanasiu di Iaci, is available online: