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コンスタンサ・デ・シシリア - Wikipedia

コンスタンサ・デ・シシリアスペイン:Constanza de Sicilia, 1249ねん - 1302ねん4がつ9にち)は、シチリアおうマンフレーディサヴォイア出身しゅっしん王妃おうひベアトリーチェむすめ。1262ねんアラゴンおうペドロ3せい結婚けっこんし、シチリアのばんいのり事件じけん以降いこうシチリア王妃おうひとなる。イタリアコスタンツァ・ディ・シチーリア(Costanza di Sicilia)。

コンスタンサ・デ・シシリア
Constanza de Sicilia
アラゴン王妃おうひ
シチリア王妃おうひ
在位ざいい アラゴン王妃おうひ:1276ねん - 1285ねん
シチリア王妃おうひ:1282ねん - 1285ねん

出生しゅっしょう 1249ねん
シチリア王国おうこくカターニア
死去しきょ 1302ねん4がつ9にち
アラゴン連合れんごう王国おうこくバルセロナ
埋葬まいそう アラゴン連合れんごう王国おうこくバルセロナサンタ・エウラリアだい聖堂せいどう
結婚けっこん 1262ねん7がつ5にち モンペリエ
配偶はいぐうしゃ アラゴンおうペドロ3せい
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい ホーエンシュタウフェン
父親ちちおや シチリアおうマンフレーディ
母親ははおや ベアトリーチェ・デ・サヴォイア
宗教しゅうきょう ローマ・カトリック
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経歴けいれき

編集へんしゅう

1249ねんにシチリアとう東部とうぶ都市としカターニア誕生たんじょうした。年代ねんだい作家さっかラモン・ムンタネー(Ramon Muntaner, 1265ねん - 1336ねん)によると、1262ねん7がつ5にちモンペリエにて14さいのコンスタンサは、アラゴンおうハイメ1せい征服せいふくおうつまビオランテ・デ・ウングリア長男ちょうなんペドロ3せい結婚けっこんした。

ちちマンフレーディは、神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ2せい嫡出ちゃくしゅつコンラート4せい1228ねん - 1254ねん)が成人せいじんになるまでシチリアおう摂政せっしょうめいじられたにぎなかったが、教皇きょうこう反対はんたいおさえて1257ねんまでに王国おうこく全土ぜんどをほぼ支配しはいいていた。バイエルンにいたコンラートが死去しきょしたといううわさじょうじて、1258ねんにパレルモだい聖堂せいどうにてシチリアおうとして戴冠たいかんした[1]教皇きょうこうウルバヌス4せいホーエンシュタウフェン支配しはいふうじるため、1263ねんにフランスおうルイ9せいおとうとシャルル・ダンジュー(アンジューカルロ1せい)をシチリアおうとした。

1266ねんちちマンフレーディがみなみイタリアのベネヴェント近郊きんこうにてシャルル・ダンジューとのたたかいにやぶれ、シチリア支配しはいけんだけでなくいのちうばわれると(ベネヴェントのたたかい)[1]、ラウリア、ランチア、プロチダなどのシチリアの有力ゆうりょく家柄いえがらがアラゴン王国おうこくへと亡命ぼうめいした。

シチリア王位おうい継承けいしょうしたコンラート4せい息子むすこコッラディーノ1252ねん - 1268ねん)もシャルル・ダンジューとのたたかいにやぶれ、ナポリで斬首ざんしゅされたことにより、ホーエンシュタウフェン唯一ゆいいつ男系だんけい子孫しそんとなったコンスタンサは、シチリア王国おうこく奪還だっかん目指めざしておっとペドロ3せい後押あとおしした。

ペドロ3せいはまず1281ねん、アンジュー支配しはい不満ふまん貴族きぞくたいし、イスラム地域ちいきチュニジア攻略こうりゃくのため十字軍じゅうじぐんへの参加さんかつのり、教皇きょうこうマルティヌス4せいから支援しえんけることなく、よく1282ねん6がつにバルバリアに上陸じょうりくした。1282ねんはるシチリアのばんいのり事件じけんじょうじて、コンスタンサはシチリアじん介入かいにゅうするようおっとペドロをみちびいた。ペドロはこれを承諾しょうだくし、8がつにはシチリアの港湾こうわん都市としトラーパニに600にん兵士へいし、8000にん歩兵ほへいたいとも上陸じょうりくした。7月25にちメッシーナを包囲ほういしていたシャルル・ダンジューは、アラゴンへい上陸じょうりくのトラーパニの攻撃こうげきこころみるも無益むえきわり、撤退てったいした(シチリアばんいのり戦争せんそう)。ペドロ3せいはそれからもなくシチリア全島ぜんとう征服せいふく達成たっせいし、ペドロ3せいとコンスタンサ夫妻ふさいは1282ねん8がつ30にち、パレルモにてシチリア王位おうい宣言せんげんした[2]

1283ねん教皇きょうこうマルティヌス4せいおっとペドロを破門はもん[3]、アラゴン王国おうこく王座おうざ失効しっこうしたという通告つうこくけて、バルセロナへと帰還きかんするさい、ペドロはつまコンスタンサにシチリア王国おうこく統治とうち委任いにんした[3]

1285ねんおっと死後しごも、コンスタンサは次男じなんハイメにアラゴン王国おうこく支配しはいまかせ、わりにシチリア王国おうこく統治とうちつづけた。

長男ちょうなんアルフォンソ3せい1265ねん - 1291ねん)が独身どくしんのまま死去しきょしたのち1296ねんにアラゴン王位おういいだハイメ2せいはシチリア王位おういおとうとフェデリーコけた。1297ねんにはアンジューナポリおうカルロ2せい講和こうわ条約じょうやくむすび、コンスタンサのむすめヨランダ同年どうねん3がつにナポリ王子おうじロベルト結婚けっこんした[4]。コンスタンサはアラゴン王国おうこくへと帰還きかんし、晩年ばんねんをバルセロナのサンタ・クララ修道院しゅうどういんにてごした[4]

1302ねん4がつ9にちにバルセロナにてぼっし、バルセロナのサン・フランシスコ修道院しゅうどういん埋葬まいそうされた。

ペドロ3せいとのあいだに4なん2じょもうけた。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b クアトリーリオ、p. 53
  2. ^ クアトリーリオ、p. 67
  3. ^ a b クアトリーリオ、p. 68
  4. ^ a b クアトリーリオ、p. 71

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • ジュゼッペ・クアトリーリオ 『シチリアのせんねんしん評論ひょうろん、1997ねん