封建制は、もともとは中国古代の周王朝の統治制度であった。秦王朝で始皇帝の前で郡県制の導入が議論されてからは、封建制と郡県制の是非をめぐる議論がしばしば行われた。
龍山文化期から殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」とよばれる貢納制であったとされる[5]。殷末から西周期にかけて、貢納制はさらに進化し、複雑化して、封建制に展開したとされる。
貢納制は、首長・王権などの政治的中心に向かって従属・影響下にある各地域聚落・族集団から、礼器・武器・財貨・穀物・人物等を貢納し、首長や王権が主宰する祭祀・儀礼を助成するなどして、ゆるやかな従属を表明する行為である。これに対して、首長や王権は、祭祀や儀礼の執行に際して、政治的中心に蓄えられた貢納物を、参加した地域聚落や族集団の代表に再分配することを通じて政治的秩序を樹立する。この「貢納―再分配」の関係によって、首長・王権は、ゆるやかな政治的統合を実現した。
殷代では、殷王が有力都市連盟の盟主もしくはそれ以上の立場にあったとみられるが、それらの都市支配者に領域支配を認める形の制度になっていたのかは不明である。ただし、王が諸侯を建てて地方を統治させるという封建制は、周が創始した制度というわけではなく、殷代には既に存在していた[7]。また、殷帝国の周囲では封建された国とは別に方国と呼ばれる国々が点在していたことが知られており、これらを外様あるいは異民族の国とする説がある。殷を方国の連盟の盟主と見る場合、封建された国はより殷の支配の強い国々であったと考えられ、したがって殷代には同族や直接支配下にあった部族の有力者が封建されたと考えられる。中国の学界では、ヨーロッパ中世の封建制(feudalism)と区別するためか、中国の封建制を「分封制」と呼ぶことが多いとされる。
殷周戦争に際して殷に味方した諸侯国の大半は滅亡または領地縮小に追い込まれ、それらの土地には代わりに周の王族や譜代が封じられた。西周代の封建制は、単純な貢献制である穀物・人物・財貨等の「貢納―再分配」から進んで、より複合化し、身分秩序を表す礼器や封土及び族集団を最初の封建時に再分配することによって、職業(貢納物・征戦等)の貢納を割り当てて、中心となる王権のもとに複数の下位首長である諸侯、宗氏―分族、宗子―百生を階層制的序列に組み込んで統合する政治秩序である。この場合、王権と諸侯―百生との関係は、「貢納―再分配」を通じた上位首長と下位首長との間の二者間君臣関係であり、王権はせいぜい諸侯―百生からなる支配者集団に対して及んでいるにすぎず、下層族集団の内部にまでは貫徹していない。また、周王権の文化的・政治的影響力が及ぶ全ての地域の首長や族集団が王権に対して貢納関係・封建関係を結んでいたわけではないとされる。戎や夷と呼ばれる周縁に散在する諸種族は、貢納によって従属関係に入る場合もあれば、往々にして離反することもあり、西周王権は、なお統一的な領土国家として政治支配を実現するには至っておらず、前国家段階における首長制的社会統合をより複合的・広域的に実現したものであったとされる。
西周代の封建制には2つの類型があったとされており、ひとつは、周王権との系譜関係をもつ首長や同盟関係にある異種族の首長を武装植民の形で各地に派遣し、身分序列を表す礼器とともに王人百生などの諸親族集団を再分配し、その地の諸集団と領域とを支配させる類型である。他のひとつは、殷の遺民を封じた宋のように、旧来の族集団を基本的に維持したままで、諸侯に封じて建国させる類型である。周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していったが、もとより西周封建制の特質は、武装植民地型の封建制のほうにあったとされる。
長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。
春秋時代には、周王に対する諸侯の自立性が高まるとともに、周王の権威が衰退し、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争が常態化するようになり、戦争による競合の中で、諸侯は、天子に対する貢納を経常的に行わなくなり、封建制の基盤である貢納制が不安定化した。
宗族組織が解体されより集権的な官僚制に置き換わるとともに中国的な封建制度は徐々に消滅していった。宗族制度は春秋末期から戦国初期にかけて解体され、末端では邑を中心とする諸侯支配が確立した。
また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。会盟は、多くの場合、宗廟において挙行され、先王に戦争の停止を誓うとともに、周王を奉戴して貢献制を基盤とする封建的秩序を再構築する儀礼であった。侯馬盟書が伝えるように、会盟は、諸侯間だけではなく、趙氏一族を中心とする晋国内部の諸首長間の紛争の調停に際しても挙行された。覇者や諸氏族の宗主たちは、会盟の主宰者になることによって、貢献制を基盤とする封建制的秩序をかろうじて維持していたとされる。
戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。
秦の始皇帝による郡県制の導入
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秦の始皇帝は天下を平定すると、李斯の提言により郡県制を採用した。史記「秦始皇本紀」では、王綰らが封建制度の採用を提案したのに対し、李斯は周の封建制度が失敗に終わって天下争乱のきっかけになったことを指摘して郡県制度を施行するよう主張したことが記されている。始皇帝はそれに対して次のように言い、李斯の主張の通りに郡県制を採用した[14]。
天下の
共に
苦しみ
戦闘の
休まざるは、
侯王有るを
以てす。
宗廟を
頼りて、
天下初めて
定むるも、
又復して
国を
立つるは、
是れ
兵を
樹てるなり。しこうして
其の
寧息を
求むるは、あに
難からざらんや。
(現代語訳: 天下はみな苦しみ戦闘が止まない。各地に封じられた侯王あってのことだ。宗廟によって、天下を初めて平定した。また再び各地に人を封じて国を立てれば、各々が封国で兵を集めるだろう。その上で天下の安寧を求めるのが、難しくないということがあろうか。)
—始皇帝、『史記』「秦始皇本紀」
紀元前196年、前漢の高祖劉邦は、建国以来あいまいであった貢献制と賦制の改革を行い、各王国・侯国については、毎年年頭の10月に皇帝に朝見して貢献物を貢納すること、直轄郡については、その人口数に63銭を乗じた銭額を賦として中央政府に貢納することを命じた。王国・侯国は、郡県を封地とする封建制であり、貢献制を通じて皇帝のもとに統合された。賦を貢納する漢朝直轄の郡県制と、貢献制を媒介とする王国・侯国の封建制とが複合するため、この支配体制を郡国制という。
文帝・景帝期には、王国・侯国の領土と権力の削減が図られ、呉楚七国の乱を転機として、王国・侯国の権力削減が一層進むこととなった。武帝期には、国王・列侯は、租税の一部を受領して生活するのみで、政治には関与しなくなり、王国・侯国は、直轄の郡県と全く変わらなくなった。複合していた封建制は、形式となって郡県制に埋め込まれ、ここに、戦国の体制が実質的に終末を迎えることとなった。
秦の始皇帝による郡県制の導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった。封建制と郡県制を巡る議論のなかで、有名なものは次のとおり。
国
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人名
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著書
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是非
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概要
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魏 |
曹冏 |
『六代論』(『文選』収録)
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封建は是、郡県は非
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夏殷周3代の封建制度は天下を私せず天下と諸侯とが共存共栄であった一方、秦の郡県制は、天子を孤立させその滅亡を早めたと主張
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晋 |
陸機 |
『五等諸侯論』(『文選』収録)
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封建は是、郡県は非
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封建制度は天下を公にする所以である一方、郡県制度は官僚政治であり、官僚の一身の栄達のために行政がなされ、国家百年の長計が顧みられない と主張
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唐 |
柳宗元 |
「封建論」
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封建は否、郡県は是
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周の封建制度は諸侯が相争って天下争乱の原因となり、秦・漢・唐では郡県制度が天下の平和をきたしたと主張
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唐 |
李百薬 |
「封建論」
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封建は否、郡県は是
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貞観2(629)年、唐の太宗のときに起きた封建制度採用の議論に反対するための上書
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唐 |
顔師古 |
「論封建表」
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郡県・封建併用論
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宋 |
蘇軾 |
「論古」中の一節
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封建は否、郡県は是
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柳宗元の所論を賞賛。夏殷周3代の封建制度はやむをえず起こったと主張
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出典:
これらの議論について文献通考を編纂した馬端臨は、「その発明する(明らかにする)ところのもの公と私とに過ぎざるのみ」と整理した[20]。双方の議論とも、中国で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は中国と日本で広く読まれた。
明の時代では、東林党や遺老の学が有名であり、そこでは官僚が責任者として自発的に地方統治を行うための制度として封建制が議論された。[要出典]
明末期から清のはじめにかけては、異民族王朝の中国支配に直面し、それに抵抗する学者たちが「封建」論をとなえた。そのなかでも有名なのは顧炎武の議論である。
顧炎武は、明末の政治腐敗と各地で起きる農民反乱、引き続いての満州民族の侵入と明の滅亡という亡国の悲運を経験しており、その原因を尋ねることを目的に歴史を研究した。土地土着の有力者が身を挺して郷土と民を守る一方、郡県の地方官の多くが流族や満州族侵攻のときになにも抵抗していないことを目撃していた顧炎武は、その原因を郡県制の欠陥と考えた。一方で、封建が郡県に変じたのはそれなりの歴史の必然であったとし、「封建の意を郡県に寓す」とする郡県制のなかに封建制を組み込ませる地方分権型の政治体制を主張した。具体的には、郡県制度の末端にあたる県の長官に大きな権限を与えるとともに世襲制とし、その下で働く地方官僚も県の長官がみずから任命できるようにすることなどを提案している。
清における封建論は、1728年の呂晩村の獄で弾圧され、しばらく跡を絶った。清末になりアヘン戦争や太平天国の乱などで王朝の弱体化が明らかになると、馮桂芬らがふたたび封建論を唱えるようになった。
日本での封建・郡県の議論
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日本ではじめて封建・郡県の本格的な議論をしたのは、江戸時代前期の山鹿素行とされている。以降、 荻生徂徠、太宰春台、山片蟠桃、頼山陽、会沢正志斎らが封建・郡県制を論じている。
山鹿素行や荻生徂徠の議論は、厳重な地方制御装置を備えた中央集権国家像を描いている点で一致しており、江戸時代の幕藩制のシステムを正当化するものであった。
江戸時代後期の山片蟠桃は、郡県制が人為的制度、封建制が自然の理にかなったものとし、封建制を是とした。その上で江戸幕府を、天皇からの勅命を受けた正統な封建制とみなした。ただしこの時点で山片蟠桃の意図とは別に、江戸幕府の正統性が引きはがされる根拠が生じた。
頼山陽は、封建の概念を用いて日本の歴史について論じた。鎌倉幕府以来の武士の世を頼山陽は「封建の勢」とし、正統なものではないことを暗示し、封建の勢が進行するとともに重税化が進んだことを主張した。
会沢正志齋は、郡県制のイデオロギーであった王土王民思想を天皇と結び付け、天下の土地人民はことごとく天皇のものであり、封建制は天皇制に合致する場合だけ認められるとした。
田中圭一は、著書「百姓の江戸時代」の中で、「武士は土地の所有者ではなく、百姓こそが土地の所有者であった」とし、事実、江戸時代においても土地の売買や質入れはされていた。今や、士農工商の身分制度などなかった説は常識であり、むしろ資本主義の原点が芽生えていた。田中は「江戸時代は封建社会ではなく、工業化以前の近代社会」とまでい切る。江戸時代は封建制というのは、幕府の支配者史観によるもので、甚だ事実と異なるという意見もある。
- 浅井清『明治維新と郡県思想』巌松堂書店、1939年。
- 石井紫郎「第6章 「封建制」と幕藩体制」『日本人の国家生活』東京大学出版会、1986年。
- 増淵竜夫「歴史主義における尚古主義と現実批判」『岩波講座哲学〈第4〉歴史の哲学』1969年。
- 小沢栄一「幕藩政下における封建・郡県論序説」『東京学芸大学 紀要 第3部門 社会科学』第24巻、1972年11月、111-128頁。
ウィキクォートに
始皇帝に
関する
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