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封建制 - Wikipedia

封建ほうけんせい

君主くんしゅした諸侯しょこうたちが土地とち領有りょうゆうし、領内りょうない人民じんみん統治とうちする社会しゃかい政治せいじ制度せいど
封建ほうけん制度せいどから転送てんそう

封建ほうけん制度せいど(ほうけんせいど)は、君主くんしゅしたにいる諸侯しょこうたちが土地とち領有りょうゆうしてその土地とち人民じんみん統治とうちする社会しゃかい政治せいじ制度せいど

徳川とくがわ幕府ばくふ開祖かいそ徳川とくがわ家康いえやす1600ねんから1868ねんあいだ存在そんざいした幕府ばくふは、日本にっぽん歴史れきしなか最後さいご封建ほうけん政権せいけんで、江戸えど時代じだいとしてられる。

諸侯しょこうたちは、領有りょうゆう統治とうちけんわりに君主くんしゅたいしてみつぎおさめ軍事ぐんじ奉仕ほうしなどといった臣従しんじゅう義務ぎむづけられ、領有りょうゆう統治とうちけん臣従しんじゅう義務ぎむ一般いっぱん世襲せしゅうされる。

概要がいよう

編集へんしゅう

日本にっぽんにおいては、一般いっぱん鎌倉かまくら時代ときよから明治維新めいじいしんまでの武家ぶけ支配しはい時代じだい封建ほうけん時代じだい[1][2]上代じょうだいはん田制たせい崩壊ほうかい荘園しょうえんせい一般いっぱんによって、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきごろ成立せいりつしたとかんがえられており、鎌倉かまくら時代じだい室町むろまち時代ときよ中世ちゅうせい封建ほうけん社会しゃかい封建ほうけん社会しゃかい前期ぜんき)、江戸えど時代じだい近世きんせい封建ほうけん社会しゃかい封建ほうけん社会しゃかい後期こうき)に分類ぶんるいされている[3]

封建ほうけんせいは、古代こだい中国ちゅうごく統治とうち制度せいど由来ゆらいする概念がいねんであるとともに、ヨーロッパ中世ちゅうせい社会しゃかい経済けいざい制度せいどであるフューダリズムの訳語やくごでもあり、2つの意味いみ相互そうご影響えいきょうしているめんもある。

中国ちゅうごくでは、封建ほうけんせいぐんけんせい是非ぜひについて「れきせんひゃくねん」の議論ぎろんつづいた。日本にっぽんでは中国ちゅうごく古典こてんとともに封建ほうけんせい概念がいねんまれ、よりゆき山陽さんようなど江戸えど時代じだい知識ちしきじんは、鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ以来いらい武家ぶけ政権せいけん体制たいせい中国ちゅうごく古代こだいたものとかんがえ、封建ほうけんせい概念がいねんもちいて日本にっぽんろんじた。明治維新めいじいしん実施じっしされた版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけんには、こうしたよりゆき山陽さんようらの封建ほうけんせいについての議論ぎろん影響えいきょうしている。

はじめしろ朝鮮ちょうせん: 이기백西にしこう大学だいがく)は、「朝鮮ちょうせんには、封建ほうけん社会しゃかいがなかったというのがわたしかんがえです。その根拠こんきょは、統一とういつしん高麗こうらい王朝おうちょう朝鮮ちょうせんには封建ほうけん領主りょうしゅ存在そんざいしないからです。したがって、封建ほうけん領主りょうしゅ存在そんざいしない封建ほうけん社会しゃかいはありえないでしょう。封建ほうけん制度せいど国王こくおう封建ほうけん領主りょうしゅ領地りょうちあたえ、その統治とうち全権ぜんけん行使こうしできるわりに、封建ほうけん領主りょうしゅ国王こくおう必要ひつようおうじて兵力へいりょく動員どういんなどの義務ぎむ組織そしきです」と主張しゅちょうしている[4]一方いっぽう韓国かんこく研究けんきゅうしゃのなかには「封建ほうけん領主りょうしゅ存在そんざいしなかったが、土地とち所有しょゆうしゃ農地のうち耕作こうさくする農民のうみん農奴のうど地位ちいにあったため封建ほうけん社会しゃかい解釈かいしゃくできる」という反論はんろんもあるが、「そんな時代じだいはむしろ農奴のうど社会しゃかい農奴のうどせい社会しゃかいぶのが正確せいかくでしょう」と反論はんろんしている[4]

一方いっぽうヨーロッパとくドイツでは、中世ちゅうせい特徴とくちょうづける社会しゃかい経済けいざい制度せいどとしてフューダリズム(ドイツ:Feudalismus英語えいご:Feudalism)やレーエン(ドイツ:Lehen)がさかんに研究けんきゅうされていた。明治めいじ時代じだいなかばにレーエンを中心ちゅうしんにフューダリズムが日本にっぽん紹介しょうかいされると、フューダリズムと封建ほうけんせい類似るいじしているとされ、フューダリズムの訳語やくごとして封建ほうけんせいもちいられるようになった。その、ドイツの歴史れきし学派がくはによる経済けいざい発展はってん段階だんかいせつマルクス経済けいざいがく唯物ゆいぶつ史観しかん日本にっぽん紹介しょうかいされると、封建ほうけんせい(フューダリズム)は農奴のうどせいむすびつく概念がいねんとなった。

中国ちゅうごくにおける封建ほうけんせい

編集へんしゅう

封建ほうけんせいは、もともとは中国ちゅうごく古代こだいしゅう王朝おうちょう統治とうち制度せいどであった。はた王朝おうちょう始皇帝しこうていまえぐんけんせい導入どうにゅう議論ぎろんされてからは、封建ほうけんせいぐんけんせい是非ぜひをめぐる議論ぎろんがしばしばおこなわれた。

いんしゅう

編集へんしゅう

龍山たつやま文化ぶんかからいんだいにかけての社会しゃかい統合とうごう制度せいどは、「貢献こうけん」とよばれるみつぎおさめせいであったとされる[5]いんまつから西にしあまねにかけて、みつぎおさめせいはさらに進化しんかし、複雑ふくざつして、封建ほうけんせい展開てんかいしたとされる[6]

みつぎおさめせいは、首長しゅちょう王権おうけんなどの政治せいじてき中心ちゅうしんかって従属じゅうぞく影響えいきょうにあるかく地域ちいき聚落しゅうらくぞく集団しゅうだんから、れい武器ぶき財貨ざいか穀物こくもつ人物じんぶつとうみつげおさめし、首長しゅちょう王権おうけん主宰しゅさいする祭祀さいし儀礼ぎれい助成じょせいするなどして、ゆるやかな従属じゅうぞく表明ひょうめいする行為こういである[6]。これにたいして、首長しゅちょう王権おうけんは、祭祀さいし儀礼ぎれい執行しっこうさいして、政治せいじてき中心ちゅうしんたくわえられたみつぎおさめぶつを、参加さんかした地域ちいき聚落しゅうらくぞく集団しゅうだん代表だいひょうさい分配ぶんぱいすることをつうじて政治せいじてき秩序ちつじょ樹立じゅりつする[6]。この「みつぎおさめさい分配ぶんぱい」の関係かんけいによって、首長しゅちょう王権おうけんは、ゆるやかな政治せいじてき統合とうごう実現じつげんした[6]

いんだいでは、いんおう有力ゆうりょく都市とし連盟れんめい盟主めいしゅもしくはそれ以上いじょう立場たちばにあったとみられるが、それらの都市とし支配しはいしゃ領域りょういき支配しはいみとめるかたち制度せいどになっていたのかは不明ふめいである。ただし、おう諸侯しょこうてて地方ちほう統治とうちさせるという封建ほうけんせいは、しゅう創始そうしした制度せいどというわけではなく、いんだいにはすで存在そんざいしていた[7]。また、いん帝国ていこく周囲しゅういでは封建ほうけんされたくにとはべつかたこくばれる国々くにぐに点在てんざいしていたことがられており、これらを外様とざまあるいは民族みんぞくくにとするせつがある。いんかたこく連盟れんめい盟主めいしゅ場合ばあい封建ほうけんされたくにはよりいん支配しはいつよ国々くにぐにであったとかんがえられ、したがっていんだいには同族どうぞく直接ちょくせつ支配しはいにあった部族ぶぞく有力ゆうりょくしゃ封建ほうけんされたとかんがえられる。中国ちゅうごく学界がっかいでは、ヨーロッパ中世ちゅうせい封建ほうけんせい(feudalism)と区別くべつするためか、中国ちゅうごく封建ほうけんせいを「分封ぶんぽうせい」とぶことがおおいとされる[8]

いんしゅう戦争せんそうさいしていん味方みかたした諸侯しょこうこく大半たいはん滅亡めつぼうまたは領地りょうち縮小しゅくしょうまれ、それらの土地とちにはわりにしゅう王族おうぞく譜代ふだいふうじられた。西にしあまねだい封建ほうけんせいは、単純たんじゅん貢献こうけんせいである穀物こくもつ人物じんぶつ財貨ざいかとうの「みつぎおさめさい分配ぶんぱい」からすすんで、よりふくごうし、身分みぶん秩序ちつじょあらわれい封土ほうどおよぞく集団しゅうだん最初さいしょ封建ほうけんさい分配ぶんぱいすることによって、職業しょくぎょうみつぎおさめぶつ征戦せいせんとう)のみつぎおさめてて、中心ちゅうしんとなる王権おうけんのもとに複数ふくすう下位かい首長しゅちょうである諸侯しょこうそうぶんぞく宗子むねこひゃくせい階層かいそうせいてき序列じょれつんで統合とうごうする政治せいじ秩序ちつじょである[9]。この場合ばあい王権おうけん諸侯しょこうひゃくせいとの関係かんけいは、「みつぎおさめさい分配ぶんぱい」をつうじた上位じょうい首長しゅちょう下位かい首長しゅちょうとのあいだしゃあいだ君臣くんしん関係かんけいであり、王権おうけんはせいぜい諸侯しょこうひゃくせいからなる支配しはいしゃ集団しゅうだんたいしておよんでいるにすぎず、下層かそうぞく集団しゅうだん内部ないぶにまでは貫徹かんてつしていない[10]。また、しゅう王権おうけん文化ぶんかてき政治せいじてき影響えいきょうりょくおよすべての地域ちいき首長しゅちょうぞく集団しゅうだん王権おうけんたいしてみつぎおさめ関係かんけい封建ほうけん関係かんけいむすんでいたわけではないとされる[10]えびすえびすばれる周縁しゅうえん散在さんざいするしょ種族しゅぞくは、みつぎおさめによって従属じゅうぞく関係かんけいはい場合ばあいもあれば、往々おうおうにして離反りはんすることもあり、西にしあまね王権おうけんは、なお統一とういつてき領土りょうど国家こっかとして政治せいじ支配しはい実現じつげんするにはいたっておらず、ぜん国家こっか段階だんかいにおける首長しゅちょうせいてき社会しゃかい統合とうごうをよりふくあいてき広域こういきてき実現じつげんしたものであったとされる[10]

西にししゅうだい封建ほうけんせいには2つの類型るいけいがあったとされており、ひとつは、しゅう王権おうけんとの系譜けいふ関係かんけいをもつ首長しゅちょう同盟どうめい関係かんけいにある異種いしゅぞく首長しゅちょう武装ぶそう植民しょくみんかたち各地かくち派遣はけんし、身分みぶん序列じょれつあらわれいとともにおうじんひゃくせいなどのしょ親族しんぞく集団しゅうだんさい分配ぶんぱいし、そのしょ集団しゅうだん領域りょういきとを支配しはいさせる類型るいけいである[11]のひとつは、いんのこみんふうじたそうのように、旧来きゅうらいぞく集団しゅうだん基本きほんてき維持いじしたままで、諸侯しょこうふうじて建国けんこくさせる類型るいけいである[11]しゅう王権おうけんは、その支配しはい領域りょういき再編さいへんし、政治せいじてき影響えいきょうりょく四方しほう拡大かくだいしていったが、もとより西にしあまね封建ほうけんせい特質とくしつは、武装ぶそう植民しょくみんがた封建ほうけんせいのほうにあったとされる[11]

長子ちょうし相続そうぞく根幹こんかんする体制たいせい宗族そうぞく制度せいどといい、封建ほうけん制度せいどにも関連かんれんせいがある。宗族そうぞく制度せいど紀元前きげんぜん2千年紀せんねんき前半ぜんはん一般いっぱんてきとなったとされている。

春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい

編集へんしゅう

春秋しゅんじゅう時代じだいには、しゅうおうたいする諸侯しょこう自立じりつせいたかまるとともに、しゅうおう権威けんい衰退すいたいし、封建ほうけんせい動揺どうようはじめた[12]春秋しゅんじゅう時代じだいはいると、各国かっこくあいだ戦争せんそう常態じょうたいするようになり、戦争せんそうによる競合きょうごうなかで、諸侯しょこうは、天子てんしたいするみつぎおさめ経常けいじょうてきおこなわなくなり、封建ほうけんせい基盤きばんであるみつぎおさめせい不安定ふあんていした[12]

宗族そうぞく組織そしき解体かいたいされより集権しゅうけんてき官僚かんりょうせいわるとともに中国ちゅうごくてき封建ほうけん制度せいど徐々じょじょ消滅しょうめつしていった。宗族そうぞく制度せいど春秋しゅんじゅう末期まっきから戦国せんごく初期しょきにかけて解体かいたいされ、末端まったんでは邑を中心ちゅうしんとする諸侯しょこう支配しはい確立かくりつした。

また春秋しゅんじゅう時代じだいにはかいめい政治せいじばれる政治せいじ形態けいたい出現しゅつげんした。これは覇者はしゃばれる盟主めいしゅてき国家こっか他国たこくたいしてゆる上位じょういけんきず仕組しくみであるが、しゅう王朝おうちょうおとろ各国かっこく単独たんどくでは北方ほっぽう東方とうほう民族みんぞく侵攻しんこうへの対応たいおうむずかしくなったため、あらたな支配しはい-支配しはい必要ひつようとなり誕生たんじょうしたとかんがえられている。かいめい誓約せいやく祭儀さいぎてき権威けんい付託ふたくしてかいめい参加さんかしゃ命令めいれいする関係かんけいきずいた。かいめいは、おおくの場合ばあい宗廟そうびょうにおいて挙行きょこうされ、先王せんおう戦争せんそう停止ていしちかうとともに、しゅうおう奉戴ほうたいして貢献こうけんせい基盤きばんとする封建ほうけんてき秩序ちつじょさい構築こうちくする儀礼ぎれいであった[12]ほううまめいしょつたえるように、かいめいは、諸侯しょこうあいだだけではなく、ちょう一族いちぞく中心ちゅうしんとするすすむ国内こくないしょ首長しゅちょうあいだ紛争ふんそう調停ちょうていさいしても挙行きょこうされた[12]覇者はしゃしょ氏族しぞく宗主そうしゅたちは、かいめい主宰しゅさいしゃになることによって、貢献こうけんせい基盤きばんとする封建ほうけんせいてき秩序ちつじょをかろうじて維持いじしていたとされる[12]

戦国せんごく時代じだいには宗族そうぞく組織そしきはほとんど消滅しょうめつもしくは変質へんしつして封建ほうけん領主りょうしゅ宗族そうぞく功臣こうしんのぞいてなくなり、在地ざいち諸侯しょこう血縁けつえんではなく官吏かんり律令りつりょうにより支配しはいされるようになり、ぐんけんせいえられた。

はた始皇帝しこうていによるぐんけんせい導入どうにゅう

編集へんしゅう

はた始皇帝しこうてい天下てんか平定へいていすると、提言ていげんによりぐんけんせい採用さいようした[13]史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ」では、おうたがねらが封建ほうけん制度せいど採用さいよう提案ていあんしたのにたいし、斯はしゅう封建ほうけん制度せいど失敗しっぱいわって天下てんか争乱そうらんのきっかけになったことを指摘してきしてぐんけん制度せいど施行しこうするよう主張しゅちょうしたことがしるされている。始皇帝しこうていはそれにたいしてつぎのようにい、斯の主張しゅちょうとおりにぐんけんせい採用さいようした[13][14]

天下てんかともくるしみ戦闘せんとうきゅうまざるは、ほうおうるをもってす。宗廟そうびょうたよりて、天下てんかはじめてていむるも、またふくしてくにつるは、へいてるなり。しこうしてやすしいきもとむるは、あになんからざらんや。

現代げんだいやく: 天下てんかはみなくるしみ戦闘せんとうまない。各地かくちふうじられたほうおうあってのことだ。宗廟そうびょうによって、天下てんかはじめて平定へいていした。またふたた各地かくちひとふうじてくにてれば、各々おのおのふうこくへいあつめるだろう。そのうえ天下てんか安寧あんねいもとめるのが、むずかしくないということがあろうか。)

始皇帝しこうてい、『史記しき』「はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ

紀元前きげんぜん196ねん前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほうは、建国けんこく以来いらいあいまいであった貢献こうけんせいせい改革かいかくおこない、かく王国おうこくほうこくについては、毎年まいとし年頭ねんとうの10がつ皇帝こうてい朝見ちょうけんして貢献こうけんぶつみつげおさめすること、直轄ちょっかつぐんについては、その人口じんこうすうに63ぜにじょうじたぜにがくとして中央ちゅうおう政府せいふみつげおさめすることをめいじた[15]王国おうこくほうこくは、こおりけん封地ほうちとする封建ほうけんせいであり、貢献こうけんせいつうじて皇帝こうていのもとに統合とうごうされた[15]みつげおさめするかんちょう直轄ちょっかつぐんけんせいと、貢献こうけんせい媒介ばいかいとする王国おうこくほうこく封建ほうけんせいとがふくごうするため、この支配しはい体制たいせいぐんこくせいという[15]

ぶんみかどけいみかどには、王国おうこくほうこく領土りょうど権力けんりょく削減さくげんはかられ、すわえななこくらん転機てんきとして、王国おうこくほうこく権力けんりょく削減さくげん一層いっそうすすむこととなった[16]たけみかどには、国王こくおう列侯れっこうは、租税そぜい一部いちぶ受領じゅりょうして生活せいかつするのみで、政治せいじには関与かんよしなくなり、王国おうこくほうこくは、直轄ちょっかつこおりけんまったわらなくなった[17]ふくあわしていた封建ほうけんせいは、形式けいしきとなってぐんけんせいまれ、ここに、戦国せんごく体制たいせい実質じっしつてき終末しゅうまつむかえることとなった[18]

封建ほうけんこおりけん議論ぎろん

編集へんしゅう

はた始皇帝しこうていによるぐんけんせい導入どうにゅう以降いこう儒教じゅきょう影響えいきょうけながら、封建ほうけんせいぐんけんせい利害りがい得失とくしつめぐって対立たいりつする思想しそう体系たいけい構成こうせいされ、おおくの文献ぶんけん封建ほうけんこおりけん是非ぜひ議論ぎろんされるようになった[13]封建ほうけんせいぐんけんせいめぐ議論ぎろんのなかで、有名ゆうめいなものはつぎのとおり。

くに 人名じんめい 著書ちょしょ 是非ぜひ 概要がいよう
たかし 曹冏 ろくだいろん』(『文選ぶんせん収録しゅうろく 封建ほうけんこおりけん なついんしゅう3だい封建ほうけん制度せいど天下てんかわたしせず天下てんか諸侯しょこうとが共存きょうぞん共栄きょうえいであった一方いっぽうはたぐんけんせいは、天子てんし孤立こりつさせその滅亡めつぼうはやめたと主張しゅちょう
すすむ りく とう諸侯しょこうろん』(『文選ぶんせん収録しゅうろく 封建ほうけんこおりけん 封建ほうけん制度せいど天下てんかおおやけにする所以ゆえんである一方いっぽうこおりけん制度せいど官僚かんりょう政治せいじであり、官僚かんりょう一身いっしん栄達えいたつのために行政ぎょうせいがなされ、国家こっかひゃくねん長計ちょうけいかえりみられない と主張しゅちょう
とう やなぎはじめもと 封建ほうけんろん 封建ほうけんいやこおりけんこれ しゅう封建ほうけん制度せいど諸侯しょこうあいそうって天下てんか争乱そうらん原因げんいんとなり、はたかんとうではぐんけん制度せいど天下てんか平和へいわをきたしたと主張しゅちょう
とう 百薬ひゃくやく 封建ほうけんろん 封建ほうけんいやこおりけんこれ さだかん2(629)ねんとうふとしむねのときにきた封建ほうけん制度せいど採用さいよう議論ぎろん反対はんたいするための上書うわがき
とう かおいにしえ ろん封建ほうけんひょう こおりけん封建ほうけん併用へいようろん
そう ろんいにしえちゅう一節いっせつ 封建ほうけんいやこおりけんこれ やなぎはじめもと所論しょろん賞賛しょうさんなついんしゅう3だい封建ほうけん制度せいどはやむをえずこったと主張しゅちょう

出典しゅってん: [13]

これらの議論ぎろんについて文献ぶんけんどおりこう編纂へんさんしたうまはしは、「その発明はつめいする(あきらかにする)ところのものおおやけわたしとにぎざるのみ」と整理せいりした[19][20]双方そうほう議論ぎろんとも、中国ちゅうごく伝統でんとうてきな「おおやけ」をぜんで「わたし」をあくとする概念がいねんもちいており、封建ほうけんせい反対はんたいろんでは諸侯しょこう天下てんか分有ぶんゆうして「わたし」することがあくぐんけんせい反対はんたいろんでは天子てんしいちにん天下てんかを「わたし」することがあくとされた。こうした文献ぶんけん中国ちゅうごく日本にっぽんひろまれた[19]

あきらしん時代じだい議論ぎろん

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あきら時代じだいでは、ひがしりんとうのころうがく有名ゆうめいであり、そこでは官僚かんりょう責任せきにんしゃとして自発じはつてき地方ちほう統治とうちおこなうための制度せいどとして封建ほうけんせい議論ぎろんされた。[よう出典しゅってん]

あきら末期まっきからきよしのはじめにかけては、民族みんぞく王朝おうちょう中国ちゅうごく支配しはい直面ちょくめんし、それに抵抗ていこうする学者がくしゃたちが「封建ほうけんろんをとなえた[21]。そのなかでも有名ゆうめいなのは顧炎たけし議論ぎろんである。

顧炎は、あきらまつ政治せいじ腐敗ふはい各地かくちきる農民のうみん反乱はんらんつづいての満州まんしゅう民族みんぞく侵入しんにゅうあかり滅亡めつぼうという亡国ぼうこく悲運ひうん経験けいけんしており、その原因げんいんたずねることを目的もくてき歴史れきし研究けんきゅうした[21]土地とち土着どちゃく有力ゆうりょくしゃていして郷土きょうどみんまも一方いっぽうこおりけん地方ちほうかんおおくがながれぞく満州まんしゅうぞく侵攻しんこうのときになにも抵抗ていこうしていないことを目撃もくげきしていた顧炎は、その原因げんいんぐんけんせい欠陥けっかんかんがえた[21]一方いっぽうで、封建ほうけんぐんけんへんじたのはそれなりの歴史れきし必然ひつぜんであったとし、「封建ほうけんぐんけんぐうす」とするぐんけんせいのなかに封建ほうけんせいませる地方ちほう分権ぶんけんがた政治せいじ体制たいせい主張しゅちょうした。具体ぐたいてきには、こおりけん制度せいど末端まったんにあたるけん長官ちょうかんおおきな権限けんげんあたえるとともに世襲せしゅうせいとし、そのしたはたら地方ちほう官僚かんりょうけん長官ちょうかんがみずから任命にんめいできるようにすることなどを提案ていあんしている。

きよしにおける封建ほうけんろんは、1728ねんりょばんむらごく弾圧だんあつされ、しばらくあとった。清末きよすえになりアヘン戦争せんそう太平たいへい天国てんごくらんなどで王朝おうちょう弱体じゃくたいあきらかになると、馮桂芬らがふたたび封建ほうけんろんとなえるようになった[21]

日本にっぽんでの封建ほうけんこおりけん議論ぎろん

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日本にっぽんではじめて封建ほうけんこおりけん本格ほんかくてき議論ぎろんをしたのは、江戸えど時代じだい前期ぜんき山鹿やまが素行そこうとされている[22][23]以降いこう荻生おぎゅう徂徠そらい太宰だざい春台しゅんだい山片やまがたわだかまももよりゆき山陽さんよう会沢あいざわ正志斎せいしさいらが封建ほうけんぐんけんせいろんじている。

江戸えど時代じだい前期ぜんき議論ぎろん

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山鹿やまが素行そこう荻生おぎゅう徂徠そらい議論ぎろんは、厳重げんじゅう地方ちほう制御せいぎょ装置そうちそなえた中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっかぞうえがいているてん一致いっちしており、江戸えど時代じだいまくはんせいのシステムを正当せいとうするものであった[24]

江戸えど時代じだい後期こうき議論ぎろん

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江戸えど時代じだい後期こうき山片やまがたわだかまももは、ぐんけんせい人為じんいてき制度せいど封建ほうけんせい自然しぜんにかなったものとし、封建ほうけんせいとした。そのうえ江戸えど幕府ばくふを、天皇てんのうからの勅命ちょくめいけた正統せいとう封建ほうけんせいとみなした。ただしこの時点じてん山片やまがたわだかまもも意図いととはべつに、江戸えど幕府ばくふ正統せいとうせいきはがされる根拠こんきょしょうじた[25]

よりゆき山陽さんようは、封建ほうけん概念がいねんもちいて日本にっぽん歴史れきしについてろんじた。鎌倉かまくら幕府ばくふ以来いらい武士ぶしよりゆき山陽さんようは「封建ほうけんいきおい」とし、正統せいとうなものではないことを暗示あんじし、封建ほうけんいきおい進行しんこうするとともに重税じゅうぜいすすんだことを主張しゅちょうした[26]

会沢あいざわ正志齋せいしさいは、ぐんけんせいのイデオロギーであった王土おうどおうみん思想しそう天皇てんのうむすけ、天下てんか土地とち人民じんみんはことごとく天皇てんのうのものであり、封建ほうけんせい天皇てんのうせい合致がっちする場合ばあいだけみとめられるとした[27]

田中たなか圭一けいいちは、著書ちょしょ百姓ひゃくしょう江戸えど時代じだい」のなかで、「武士ぶし土地とち所有しょゆうしゃではなく、百姓ひゃくしょうこそが土地とち所有しょゆうしゃであった」とし、事実じじつ江戸えど時代じだいにおいても土地とち売買ばいばい質入しちいれはされていた。いまや、士農工商しのうこうしょう身分みぶん制度せいどなどなかったせつ常識じょうしきであり、むしろ資本しほん主義しゅぎ原点げんてん芽生めばえていた。田中たなかは「江戸えど時代じだい封建ほうけん社会しゃかいではなく、工業こうぎょう以前いぜん近代きんだい社会しゃかい」とまでいいきる。江戸えど時代じだい封建ほうけんせいというのは、幕府ばくふ支配しはいしゃ史観しかんによるもので、はなは事実じじつことなるという意見いけんもある。

フューダリズム

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フューダリズムFeudalism)とは歴史れきしがくにおいて中世ちゅうせい北西ほくせい欧州おうしゅう社会しゃかい特有とくゆう支配しはい形態けいたいした用語ようごであり、「封建ほうけんせい」とやくされる。土地とち軍事ぐんじてき奉仕ほうし媒介ばいかいとした教皇きょうこう皇帝こうてい国王こくおう領主りょうしゅ家臣かしんあいだ契約けいやくもとづくゆるやかな主従しゅうじゅう関係かんけいにより形成けいせいされる分権ぶんけんてき社会しゃかい制度せいどで、近世きんせい以降いこう中央ちゅうおう集権しゅうけんせい基盤きばんとした主権しゅけん国家こっか絶対ぜったい王政おうせい台頭たいとうなか解消かいしょうした。

マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがく唯物ゆいぶつ史観しかん)においては、生産せいさんりょく進歩しんぽともな拡大かくだいするとされる生産せいさん関係かんけい上部じょうぶ構造こうぞう下部かぶ構造こうぞうあいだ矛盾むじゅん発生はっせいとこの矛盾むじゅん弁証法べんしょうほうてき発展はってん解消かいしょう基盤きばんとして普遍ふへんてき歴史れきし進歩しんぽ法則ほうそくいだそうとするため、この理論りろんてき枠組わくぐみをヨーロッパ地域ちいきにも適用てきようして説明せつめいこころみられた。この場合ばあい、おおよそ古代こだいギリシア古代こだいローマ社会しゃかい典型てんけいとみなす古代こだい奴隷どれいせい生産せいさんりょく進歩しんぽによってくつがえされ、領主りょうしゅ生産せいさんしゃである農民のうみん農奴のうどとして支配しはいするようになったと解釈かいしゃくされる社会しゃかい経済けいざい制度せいどのことをしめし、この制度せいどみとめられる歴史れきし段階だんかい中世ちゅうせい定義ていぎする。

北西ほくせいヨーロッパ

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たたかひと騎士きし)、いのひと聖職せいしょくしゃ)、はたらひと農民のうみん)の中世ちゅうせい西欧せいおうさん身分みぶんあらわ

ふるゲルマンじん社会しゃかいしたがえ制度せいど軍事ぐんじてき奉仕ほうし)と、マ帝国まていこく末期まっきおんかし制度せいど土地とち保護ほご)に起源きげんいだし、これらがむすびつき成立せいりつしたと説明せつめいされることがおおい。国王こくおう諸侯しょこう領地りょうち保護ほご防衛ぼうえい)をする代償だいしょう忠誠ちゅうせいちかわせ、諸侯しょこう同様どうようのことを臣下しんかたる騎士きし約束やくそくし、忠誠ちゅうせいちかわせるという制度せいどである。この主従しゅうじゅう関係かんけい騎士きしどう物語ものがたりなどのイメージから誠実せいじつ奉仕ほうしてきなものとかんがえられがちだが、実際じっさいにはおたがいの契約けいやく前提ぜんていとした現実げんじつてきなもので、また両者りょうしゃ関係かんけい双務そうむてきであったこともあり、主君しゅくん臣下しんか保護ほごおこたったりした場合ばあい短期間たんきかん両者りょうしゃ関係かんけい解消かいしょうされるケースもめずらしくなかった。

さらに「臣下しんか臣下しんか臣下しんかでない」というかたりしめされるように、直接ちょくせつ主従しゅうじゅう関係かんけいむすんでいなければ「臣下しんか臣下しんか」は「主君しゅくん主君しゅくん」にたいして主従しゅうじゅう関係かんけい形成けいせいしなかったため、複雑ふくざつ権力けんりょく構造こうぞう形成けいせいされた。これは中世ちゅうせい西欧せいおう社会しゃかいきわめて中央ちゅうおう集権しゅうけんてき社会しゃかいとなる要因よういんとなった(封建ほうけんてき無秩序むちつじょ)。

西欧せいおう中世ちゅうせいにおいては、とくにその初期しょきカロリングあさフランク王国おうこく覇権はけん解体かいたいにおいて北欧ほくおうからのノルマンじん西にしアジア地中海ちちゅうかい南岸なんがんからのイスラーム教徒きょうと中央ちゅうおうユーラシアステップ地帯ちたいからのマジャールじんアヴァールじんなどのそと民族みんぞくのあいつぐ侵入しんにゅうくるしめられた。そのため、本来ほんらいならいちだいかぎりの契約けいやくであった主従しゅうじゅう関係かんけいが、次第しだい世襲せしゅう固定こていされていくようになった。こうして、農奴のうどせいとフューダリズムを土台どだいとした西欧せいおう封建ほうけん社会しゃかい成熟せいじゅくしていった。

日本にっぽん封建ほうけんせい(フューダリズム)

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封建ほうけんせいがフューダリズムの訳語やくごとしてもちいられるようになってから日本にっぽん封建ほうけんせいとされてきた体制たいせいは、荘園しょうえんこうりょうせいによる統治とうちなどの国内こくないてき要因よういんおもとなって形成けいせいされた(天皇てんのうやその藩屏はんぺいたる貴族きぞく権威けんいを「根拠こんきょける」存在そんざいである)。西欧せいおうのフューダリズムで複数ふくすう契約けいやく関係かんけいや、短期間たんきかんでの契約けいやく破棄はき変更へんこうがみられたのと同様どうよう日本にっぽんでも実際じっさいのところ戦国せんごく時代じだいまで主従しゅうじゅう関係かんけい後述こうじゅつの「おん奉公ほうこう」の言葉ことば表現ひょうげんされるように一部いちぶ双務そうむてき流動的りゅうどうてきなものであり、「くんにまみえず」「きみきみたらずともしんしんたれ」というかたりしめされるようなかたつとむてき奉仕ほうし忠誠ちゅうせいもとめられたのは、江戸えど時代じだいはいってからである。

日本にっぽん封建ほうけんせい成立せいりつをめぐっては、いくつかのせつがある。ひとつは鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつによって「おん奉公ほうこう」がすで広義こうぎ封建ほうけんせいとして成立せいりつしたとするせつで、だい2世界せかい大戦たいせんぜん以来いらい、ほとんどの概説がいせつしょ採用さいようされていた。このかんがかたでは、古代こだい律令りつりょう国家こっか解体かいたいから各地かくち形成けいせいされた在地ざいち領主りょうしゅ発展はってん原動力げんどうりょくとして、領主りょうしゅそう独自どくじ国家こっか権力けんりょくとして鎌倉かまくら幕府ばくふ形成けいせいされた(鎌倉かまくら幕府ばくふちからは、日本にっぽん全国ぜんこくおよんでいたわけではない)とみなす。したがってうけたまわひらてんけいらんうけたまわひら5ねん935ねん)がその初期しょきあらわれとみなされる。一方いっぽう日本にっぽん中世ちゅうせい日本にっぽん近世きんせいあいだで、1953ねんから1960年代ねんだいにかけて日本にっぽん封建ほうけんせい成立せいりつ論争ろんそう展開てんかいした(太閤たいこう検地けんちろんそうともばれる)。その口火くちびったあんりょうじょう盛昭もりあきは、太閤たいこう検地けんち実施じっし前後ぜんこう時期じき分析ぶんせきから荘園しょうえんせい社会しゃかい家父かふちょうてき奴隷どれいせい社会しゃかい(=古代こだい)とし、太閤たいこう検地けんちとして成立せいりつするまくはん体制たいせい日本にっぽん封建ほうけんせい規定きていした。には、院政いんせい以降いこう成立せいりつとするせつ戸田とだかおるなど)、南北なんぼくあさ内乱ないらん成立せいりつとするせつ永原ながはらけいなど)が提起ていきされた。

中国ちゅうごく儒家じゅか思想しそうてはめた場合ばあい平安へいあんまでが中央ちゅうおうから派遣はけんされる地方ちほうかんたる国司こくし地方ちほう統治とうち単位たんいであるれいせいこく実効じっこう統治とうちする「ぐんけんせい」であり、鎌倉かまくら以降いこう在地ざいち領主りょうしゅである武士ぶし荘園しょうえん国衙こくがりょう単位たんい実効じっこう統治とうちおこな封建ほうけんせいとなる(中国ちゅうごく史学しがくもとづくと12世紀せいきまつから19世紀せいき封建ほうけんせいとなる)。これにたいし、ドイツに留学りゅうがくし、ヨーロッパ史学しがく影響えいきょうけた福田ふくだ徳三とくぞうは『日本にっぽん経済けいざい史論しろん』(1907ねん[28])において、延喜えんぎ931ねんから1602ねんまでを西欧せいおうのフューダリズムと封建ほうけん時代じだいかいし、1603ねんから1867ねん近世きんせい江戸えど)を「専制せんせいてき警察けいさつ国家こっか」(絶対ぜったい主義しゅぎ)と定義ていぎ[29]つづいて法制ほうせい史家しか中田なかたかおるが「「コムメンダチオ」と名簿めいぼ捧呈ほうていしき」(1906ねん)を発表はっぴょうし、にちおう封建ほうけんせいはともに主従しゅうじゅうせい家人かじんせい)とおんかしせい知行ちぎょうせい)とし、その開始かいし平安へいあん中期ちゅうきにおいた[30]

中国ちゅうごくにおける発展はってん段階だんかいろん

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中国ちゅうごくにおいて唯物ゆいぶつ史観しかんてき発展はってん段階だんかいろん適用てきようした場合ばあい封建ほうけんせいについてべる。

郭沫若かくまつじゃくはその著書ちょしょ中国ちゅうごく古代こだい社会しゃかい研究けんきゅう』のなかにおいて中国ちゅうごく発展はってん段階だんかいろん適用てきようし、西にしあまね奴隷どれいせい時代じだいとし、春秋しゅんじゅう時代じだい以降いこう封建ほうけんせいとした。これにたいしてりょはね (zhいん奴隷どれいせいしゅうだい封建ほうけんせい社会しゃかいだとして反論はんろんし、この論争ろんそう結論けつろんないままにわることになる。

これらのろん基準きじゅんとなるところ封建ほうけんせい特徴とくちょうとされる農奴のうど存在そんざいである。現在げんざい春秋しゅんじゅう時代じだいまでの農耕のうこうみん牧畜ぼくちくみんという文化ぶんかことなる都市とし国家こっかしょう国家こっかあいだ戦争せんそうによる捕虜ほりょなどを供給きょうきゅうげんとした時代じだい奴婢ぬひ奴隷どれい做し、戦国せんごく時代じだい以降いこうとうまつまでの奴婢ぬひ農奴のうどる。

マルクス主義まるくすしゅぎ立場たちばをとる研究けんきゅうしゃからも、在地ざいち地主じぬし裁判さいばんけんなどの権力けんりょくそなわっておらず、それらが国家こっか権力けんりょく集中しゅうちゅうされており、封建ほうけんせい重要じゅうよう内容ないようである領主りょうしゅ権力けんりょく存在そんざいしないため、中国ちゅうごくにおける封建ほうけんせい概念がいねん否定ひていする見解けんかいされた。封建ほうけんせいわる、中国ちゅうごく史上しじょう経済けいざい制度せいど特徴とくちょうづける概念がいねん歴史れきしぞうはいまだ構築こうちくされていない。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ デジタル大辞泉だいじせん封建ほうけん時代じだい[1]
  2. ^ 大辞林だいじりん だいさんはん封建ほうけん時代じだい[2]
  3. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん封建ほうけん社会しゃかい[3]
  4. ^ a b 卷頭かんとう 특별 인터뷰 韓國かんこくしんろん著者ちょしゃ はじめしろ 선생이 말하는 韓國かんこく大勢おおぜい正統せいとう. 月刊げっかん朝鮮ちょうせん. (2001ねん11月). オリジナルの2021ねん10がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211015172253/http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=200111100007 
  5. ^ 渡辺わたなべ信一郎しんいちろう中華ちゅうか成立せいりつ――とうだいまで(シリーズ中国ちゅうごく歴史れきし1)』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2019ねん、29ぺーじISBN 978-4-00-431804-0 
  6. ^ a b c d 渡辺わたなべ 2019, p. 29.
  7. ^ 佐藤さとう信弥しんやあまね――理想りそうされた古代こだい王朝おうちょう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2016ねん、23ぺーじISBN 978-4-12-102396-4 
  8. ^ 佐藤さとう 2016, p. 23.
  9. ^ 渡辺わたなべ 2019, p. 36.
  10. ^ a b c 渡辺わたなべ 2019, p. 32.
  11. ^ a b c 渡辺わたなべ 2019, p. 37.
  12. ^ a b c d e 渡辺わたなべ 2019, p. 41.
  13. ^ a b c d 浅井あさい 1939, pp. 3–4.
  14. ^ wikiquote:ja:始皇帝しこうてい
  15. ^ a b c 渡辺わたなべ 2019, p. 81.
  16. ^ 渡辺わたなべ 2019, p. 85.
  17. ^ 渡辺わたなべ 2019, pp. 85–86.
  18. ^ 渡辺わたなべ 2019, p. 86.
  19. ^ a b 石井いしい 1986, p. 263.
  20. ^ 古今ここん図書としょ集成しゅうせい銓衡せんこうてんだい676さつ、50よう
  21. ^ a b c d 増淵ますぶち 1969.
  22. ^ 小沢おざわ 1972.
  23. ^ 石井いしい 1986, p. 266.
  24. ^ 石井いしい 1986, p. 279-280.
  25. ^ 石井いしい 1986, p. 283-289.
  26. ^ 石井いしい & 1986」, p. 290-304.
  27. ^ 石井いしい 1986, p. 305-313.
  28. ^ 原著げんちょドイツ語どいつごばん1900ねん
  29. ^ 網野あみの善彦よしひこ 石井いしいすすむ うえ横手よこてまさたかし 大隅おおすみ和雄かずお 勝俣かつまた鎮夫しずお日本にっぽん中世ちゅうせいぞうさい検討けんとう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1988ねん p.72.なお、18世紀せいきフランスの『ほう精神せいしん』においても専制せんせい国家こっかとして日本にっぽん紹介しょうかいされている。
  30. ^ 日本にっぽん論点ろんてん』2018ねん、p53、中央公論ちゅうおうこうろん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅井あさいきよし明治維新めいじいしんこおりけん思想しそういわおまつどう書店しょてん、1939ねん 
  • 石井いしいむらさきろうだい6しょう封建ほうけんせい」とまくはん体制たいせい」『日本人にっぽんじん国家こっか生活せいかつ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1986ねん 
  • 増淵ますぶち竜夫たつお歴史れきし主義しゅぎにおける尚古しょうこ主義しゅぎ現実げんじつ批判ひはん」『岩波いわなみ講座こうざ哲学てつがくだい4〉歴史れきし哲学てつがく』1969ねん 
  • 小沢おざわ栄一えいいちまく藩政はんせいにおける封建ほうけんぐんけんろん序説じょせつ」『東京学芸大学とうきょうがくげいだいがく 紀要きよう だい3部門ぶもん 社会しゃかい科学かがくだい24かん、1972ねん11月、111-128ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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