馮 桂かつら芬(ふう けいふん、1809年ねん - 1874年ねん)は、中国ちゅうごく清きよし朝あさ末期まっきの政治せいじ家か、学者がくしゃ。字じを林はやし一はじめ、景けい亭ていと号ごうす。道みち光こう帝みかど・咸豊帝みかど・同どう治ち帝みかどの3代だいに仕つかえ、早はやい時期じきから洋よう務つとむ運動うんどう推進すいしんを唱となえた1人ひとり。兵法ひょうほうや書しょに優すぐれた。『顕あらわ志こころざし堂どう稿こう』などを著あらわす。 江蘇ちぁんすー省しょう呉くれ県けん出身しゅっしん。
道みち光こう20年ねん(1840年ねん)、31歳さいで進士しんしとなる。はじめ翰林院かんりんいん編修へんしゅうなどの役職やくしょくにあったが父ちちの死しで帰郷ききょう。そのまましばらく晴耕雨読せいこううどくの日々ひびを過すごしていた。だが、咸豊帝みかど即位そくい直後ちょくごに太平たいへい天国てんごくとの戦火せんかが著いちじるしくなると、蘇州そしゅうを死守ししゅするため自みずから赴おもむき一いち団だんを募つのり抗戦こうせんしたが、咸豊10年ねん(1860年ねん)に蘇州そしゅうは陥落かんらく、上海しゃんはいに落おち延のび、そこで曽そ国こく藩はんの傘下さんかとなり防衛ぼうえいを続つづけた。
同どう治ち元年がんねん(1862年ねん)、曽そ国こく藩はんの部下ぶかで上海しゃんはいへ派遣はけんされた李り鴻章こうしうと共ともに上海しゃんはいでの戦たたかいで太平たいへい天国てんごくの軍勢ぐんぜいを撃退げきたいすると翌よく2年ねん(1863年ねん)に蘇州そしゅうも取とり戻もどし、再ふたたび学問がくもんの研究けんきゅうに没頭ぼっとうし表ひょう舞台ぶたいから退しりぞく決心けっしんをするも、李り鴻章こうしうに招まねかれて陪臣ばいしんとして仕つかえ、同どう治ち年間ねんかんの清きよしの初期しょき改革かいかくの半なかばを献策けんさく。科学かがく技術ぎじゅつ、兵力へいりょくなどの強化きょうかに貢献こうけんした。西にし太ふとし后きさきの信任しんにんも厚あつく周囲しゅういの人望じんぼうもあったが、病やまいに倒たおれ同どう治ち13年ねん(1874年ねん)に没ぼっした。馮桂芬の残のこした発想はっそうは張ちょう之の洞ほららに受うけ継つがれ完成かんせいを見みる。
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