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太平天国の乱 - Wikipedia

太平たいへい天国てんごくらん

1851ねん中国ちゅうごく発生はっせいした反乱はんらん
太平たいへい天国てんごく
太平たいへい天國てんごく
清 1851ねん - 1864ねん 清
太平天国の国旗 太平天国の国章
国旗こっき国璽こくじ
太平天国の位置
あか太平たいへい天国てんごく主要しゅよう支配しはい地域ちいき
公用こうよう 中国ちゅうごく
首都しゅと てんきょう
国家こっか元首げんしゅ
1851ねん01がつ11にち - 1864ねん06がつ01にち 天王てんのう 洪秀全こうしゅうぜん
1864ねん06がつ06にち - 1864ねん10がつ25にちよう天王てんのう ひろしてんぶく
政府せいふ首脳しゅのう
1851ねん12月17にち - 1856ねん09がつ02にちひがしおう 楊秀きよし
1851ねん12月17にち - 1852ねん09がつ12にち西にしおう しょうあさとうと
1851ねん12月17にち - 1852ねん06がつ03にちみなみおう 馮雲やま
1851ねん12月17にち - 1856ねん11月02にちきたおう 韋昌てる
1851ねん12月17にち - 1863ねん06がつ25にちつばさおう いしたちひらく
変遷へんせん
金田かねだ蜂起ほうき 1851ねん01がつ11にち
永安えいあんけんせい1851ねん09がつ
てんきょう事変じへん1856ねん09がつ02にち
てんきょう陥落かんらく1864ねん07がつ19にち
ひろしてんぶく湘軍の俘獲1864ねん10がつ25にち
通貨つうか太平たいへい天国てんごくせいたから

太平たいへい天国てんごくらん(たいへいてんごくのらん)は、1851ねんきよしこっただい規模きぼ反乱はんらん洪秀全こうしゅうぜん天王てんのうとし、キリスト教きりすときょう信仰しんこう紐帯ちゅうたいとした組織そしき太平たいへい天国てんごく(たいへいてんごく)によってきた。長髪ちょうはつぞくらんともいわれる。

太平たいへい天国てんごくらん

戦争せんそうきよしきただい規模きぼ宗教しゅうきょう反乱はんらん
年月日ねんがっぴ1851ねん1がつ - 1864ねん8がつ
場所ばしょ中国ちゅうごく南部なんぶ
結果けっかきよしによる鎮圧ちんあつ
交戦こうせん勢力せいりょく
太平たいへい天国てんごく しんぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
洪秀全こうしゅうぜん センゲリンチン
こくはん
ひだりはじめ
戦力せんりょく
正規せいきへい 200–500まんにん 正規せいきぐん 100–300まんにん
損害そんがい
すうじゅうまんにん以上いじょう すうじゅうまんにん以上いじょう民間みんかんじん犠牲ぎせいしゃふくめ、死者ししゃ総数そうすうは2,000まんにん以上いじょう
太平たいへい天国てんごくたま
天王てんのう玉座ぎょくざ
天王てんのうのミニチュア
たけしゅうたたか
田家たや鎮のたたか
たけあきらたたか
やすけいたたか
長江ちょうこうでの太平たいへい天国てんごくぐんきよしぐんとのたたか

はい上帝じょうていかい興隆こうりゅう

編集へんしゅう

以下いか暦日れきじつは、ことわりがないかぎグレゴリオれきによる。きよしどきけんれきや、太平たいへい天国てんごく独自どくじ制定せいていしたてんれきによる暦日れきじつとくしる場合ばあいは、そのむね元号げんごうによるとし表記ひょうきともしるす。

広東かんとんしょう広州こうしゅうはなけんきゃく出身しゅっしんである洪秀全こうしゅうぜんはたびたび院試いんし科挙かきょ初期しょき段階だんかい)に失敗しっぱいしたため、やく40日間にちかん病床びょうしょうせていたが、そのあいだ不思議ふしぎゆめたという。そのゆめとは、上帝じょうていヤハウェおもわれる気品きひんただよ老人ろうじんから破邪はじゃけんあたえられ、またイエスらしい中年ちゅうねんおとこから妖を手助てだすけをけたというものだった。洪秀全こうしゅうぜんやまいえてから広州こうしゅう受験じゅけんおとずれたさい、そこでプロテスタント勧誘かんゆうパンフレット『すすむ世良せらげん』を入手にゅうしゅし、以前いぜん不思議ふしぎゆめ意味いみを「理解りかい」し、キリストきょう目覚めざめることになる。この不思議ふしぎゆめとキリストきょう接合せつごうは、ロバート・モリソン聖書せいしょ翻訳ほんやくするさいにゴッド(God)をおと表記ひょうきせず、「上帝じょうてい」という訳語やくごあたえたためこったとおもわれる。

洪秀全こうしゅうぜんキリスト教きりすときょうおしえのなかでもとく上帝じょうてい唯一ゆいいつかみであることをつよ意識いしきし、偶像ぐうぞう破壊はかい熱心ねっしんった。元々もともと多神教たしんきょうてき土地とちがらである中国ちゅうごくでは儒教じゅきょう道教どうきょう仏教ぶっきょうにまつわるびょうおおかったが、それらを破壊はかいし、ただ上帝じょうていだけをあがめることをもとめた。そのため郷里きょうり広東かんとんしょうでの布教ふきょう活動かつどう一族いちぞくすうにん賛同さんどうしゃただけで成功せいこうしなかった。洪秀全こうしゅうぜん効果こうかてき布教ふきょう方法ほうほう模索もさくせざるをず、「原道はらみち救世きゅうせい」や「原道はらみち醒世くん」という布教ふきょう文書ぶんしょあらわした。

1847ねん太平たいへい天国てんごく前身ぜんしん組織そしきはい上帝じょうていかい広西ひろせしょう潯州桂平かつらがひらけん金田かねだむら創設そうせつした。このにおいて数少かずすくない賛同さんどうしゃ1人ひとりであった馮雲やま布教ふきょう活動かつどうおこなやく3せんにん信徒しんと獲得かくとくし、洪秀全こうしゅうぜんむかえてげたものである。はい上帝じょうていかい参加さんかしゃは、炭焼すみやき・貧農ひんのう鉱山こうざん労働ろうどうしゃきゃくなどのてい階層かいそう中心ちゅうしんであった。郷里きょうりはなけん成功せいこうせず、この桂平かつらがひらけん成功せいこうしたおおきな理由りゆうひとつにやめ調伏ちょうぶくとう現世げんせい利益りえき重視じゅうし布教ふきょうがある。たんなる宗教しゅうきょうてき熱意ねつい倫理りんりくばかりでなく、現在げんざい生活せいかつでのメリットを強調きょうちょうすることで馮雲やまおおくの信徒しんと獲得かくとくした。しかし組織そしき拡大かくだいは、公権力こうけんりょくやその土地とち有力ゆうりょくしゃとの摩擦まさつしょうじさせた。馮雲やまをはじめはい上帝じょうていかい成員せいいん逮捕たいほ相次あいつぎ、洪秀全こうしゅうぜんはそれまでの宗教しゅうきょう活動かつどうから政治せいじ革命かくめいへとすことを決意けついする。

1850ねんはい上帝じょうていかい金田かねだむら集結しゅうけつしてだん営という軍事ぐんじ組織そしき結成けっせいした。そこではきびしく男女だんじょわかち、それぞれおとこ営・おんな営に入営にゅうえいさせた。これ以前いぜんよりガチョウごえでカモフラージュしながら、鉄砲てっぽう大砲たいほうとう武器ぶき密造みつぞうし、革命かくめい準備じゅんびすすめていたが、金田かねだむら集結しゅうけつする過程かてい清朝せいちょう軍隊ぐんたい自警じけいだんとの小競こぜいが発生はっせいした。金田かねだむら集結しゅうけつした人々ひとびとは1まんから2まんといわれるが、このうち成年せいねん男子だんしは3せんにんほどだったという。しかしそれでもすうばいもあるしんぐんやぶり、革命かくめい火蓋ひぶたった(金田かねだ蜂起ほうき)。

太平たいへい天国てんごく国号こくごうさだめる

編集へんしゅう

1851ねん1がつ11にちみちこう30ねん12月10にち)、金田かねだむらにおいてはい上帝じょうていかい国号こくごう太平たいへい天国てんごくとし、洪秀全こうしゅうぜん自身じしん天王てんのうしょうしたという。しかし、いつから太平たいへい天国てんごくしょうしたかは諸説しょせつあってあきらかではない。正式せいしきさだめられたのは、しばらく3月23にち(みちこう31ねん2がつ21にち)であって、この登極とうきょくぶしという。国号こくごうさだめたことで清朝せいちょう公然こうぜん反旗はんきひるがえした太平たいへい天国てんごくだが、南京なんきんまるまでは各地かくち転々てんてん移動いどうし、その意味いみではながれぞくてきであった。太平たいへい天国てんごくぐん進路しんろ以下いかのようなものであった。まず金田かねだむらからふじけん永安えいあん現在げんざい広西ひろせたけしぞく自治じちこうむ山県やまがた)をとした。ふじけんでは、後述こうじゅつする後期こうき太平たいへい天国てんごくにな名将めいしょうたちが参加さんかしている。永安えいあん半年はんとしあいだ滞在たいざいした太平たいへい天国てんごくは、ここで官制かんせい官爵かんしゃくなどをめ、くに体裁ていさいととのえた。

このとき天王てんのうした幹部かんぶ

決定けっていした。このうち、楊秀きよしてんちち(てんふかぼん)、しょうあさとうとてんけい(てんけいかぼん)としょうしそれぞれヤハウェとキリスト託宣たくせんけられるとい、それをりてみずからの命令めいれいとおしていたので次第しだい洪秀全こうしゅうぜん発言はつげんりょくっていった。

戦乱せんらん推移すいい1

編集へんしゅう

南京なんきん攻略こうりゃく

編集へんしゅう

先立さきだアヘン戦争せんそう消耗しょうもうし、アロー戦争せんそうをも同時どうじ進行しんこうたたかわなければならない正規せいきぐん広大こうだい国内こくない分散ぶんさん配置はいちせざるをず、正面しょうめんからぶつかること不可能ふかのう事態じたいさえこった。そして、大衆たいしゅう吸収きゅうしゅうしてふくれあがった太平たいへい天国てんごくぐんしんぐんなんやぶった。

しかし食料しょくりょう火薬かやくそこをついたため太平たいへい天国てんごくぐん永安えいあんのちにし、楊秀きよし意見いけんしたがって北上ほくじょう湖南こなんしょう湖北こほくしょう目指めざすこととなった。清朝せいちょうぐん衝突しょうとつかえしながら北上ほくじょうつづけたが、1852ねん6がつ湘江到着とうちゃくしたさいみなみおう馮雲やまが、9月ちょうすな攻略こうりゃくさいには西にしおうしょうあさたか戦死せんしした。二王におう戦死せんし太平たいへい天国てんごく首脳しゅのうあいだちから関係かんけい微妙びみょう変化へんかさせ、の「てんきょう事変じへん」の遠因えんいんとなる。しかし、戦死せんし直後ちょくご清朝せいちょうとの交戦こうせんとむら合戦がっせん色合いろあいをび、かえって志気しきたかめる結果けっかとなった。

かつらりんちょうすな湖南こなみしょうしょう)こそ結果けっかてき攻略こうりゃくできなかったものの、12月下旬げじゅんにはかんかんこう落城らくじょうさせ、ついに1853ねん1がつにはたけあきらとした。たけあきら太平たいへい天国てんごくぐん最初さいしょ陥落かんらくさせたしょう湖北こほくしょう)であって、その占領せんりょう多大ただい金銀きんぎん財宝ざいほうをもたらした。

そしてまたもや楊秀きよし意見いけんにより南京なんきん方面ほうめん目指めざすこととなり、水陸すいりくりょうぐん編成へんせいして長江ちょうこうくだり、1853ねん3がつ19にち(咸豊元年がんねん2がつ18にち)に太平たいへい天国てんごくぐんこうやすし南京なんきん陥落かんらくさせ、ここをてんきょう(てんけい)と改名かいめいし、太平たいへい天国てんごく王朝おうちょうてた。

4がつ27にちイギリスHMS Hermes南京なんきん到着とうちゃくし、イギリスの公使こうしGeorge Bonhamきたおう韋昌てるおよつばさおうせきたちひらき会見かいけんした。会見かいけんではThomas Taylor Meadows(みつすすむらく)の通訳つうやくもと、イギリスが太平たいへい天国てんごくにも清国きよくににも中立ちゅうりつであることがげられた。

太平たいへい天国てんごくぐん膨張ぼうちょう理由りゆう

編集へんしゅう

かつらりんめたさいには激戦げきせんゆえに5,000にんまでに減少げんしょうしたにもかかわらず、その南京なんきん陥落かんらくさせたときには太平たいへい天国てんごくぐんは20まん以上いじょう兵力へいりょくにふくれあがり、水陸すいりくりょうぐん編成へんせいするまでにいたっていた。こうした急激きゅうげき膨張ぼうちょう以下いか理由りゆうによる。

まず背景はいけいとして清朝せいちょう増税ぞうぜいがあった。さらに戦争せんそうにおける戦費せんぴ調達ちょうたつ敗戦はいせん損害そんがい賠償ばいしょう支払しはらうために、清朝せいちょうほうさだめるなんばいものぜいとく東南とうなん沿海えんかい地方ちほうから徴収ちょうしゅうした。さらに「ぎんぜに賤」現象げんしょう実質じっしつ増税ぞうぜい民衆みんしゅういた。当時とうじ土地とちぜいぎん納入のうにゅうすることとなっていた(ひのとぎんせい)ため、人々ひとびとぜにぎん両替りょうがえしておさめていた。しかし、イギリスから輸入ゆにゅうするアヘンをはじめとするしょ外国がいこくとの貿易ぼうえきによりぎん国外こくがいへと流出りゅうしゅつするとぎんぜにとの交換こうかんレートが変動へんどうし、それまでぎんいちりょうぜに1,000ぶんだったのがぜに2,000ぶん以上いじょうとなった。このようなぜい過大かだい負担ふたんえかねた庶民しょみん大挙たいきょして太平たいへい天国てんごくぐん参加さんかしたことで、急激きゅうげき組織そしき膨張ぼうちょうした。

そしてこれもアヘン戦争せんそう余波よはであるが、戦後せんごおおくの匪賊ひぞく横行おうこうし、これらを太平たいへい天国てんごく吸収きゅうしゅうしたことも膨張ぼうちょう要因よういんである。 南京なんきん条約じょうやくによって交易こうえき広東かんとんいちこう限定げんていされなくなった結果けっか国内こくない物流ぶつりゅうルートが激変げきへんし、それまで貨物かもつ輸送ゆそうかかわっていた人々ひとびとおおくが失業しつぎょうし、匪賊ひぞくした。また白蓮びゃくれん教徒きょうとらん以後いご、たびたび組織そしきされた「ごういさむ」とばれる臨時りんじ募集ぼしゅうへいがアヘン戦争せんそう解散かいさんとなり、これも匪賊ひぞくしていた。

太平たいへい天国てんごくぐん性格せいかく

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごくぐんながれぞくてきではあったが、集団しゅうだん性格せいかく通常つうじょうりゅうぞくとはおおきくことなっていた。匪賊ひぞく吸収きゅうしゅうしてもぐんない規律きりつ厳正げんせいたかいモラルをゆうしていた。すくなくとも南京なんきん建都けんとまではその傾向けいこうつよかった。

たとえば略奪りゃくだつ行為こういそのものはうまでもなく、勝手かって民家みんか侵入しんにゅうすることすら禁止きんしされ、「右足みぎあし民家みんかれたもの右足みぎあしる」といった厳罰げんばつ主義しゅぎでもって規律きりつ維持いじたったといわれる。一方いっぽう清朝せいちょうぐんほう賊軍ぞくぐんじみた不正ふせい略奪りゃくだつ行為こういおこなっていたという。

また志気しきたかさも太平たいへい天国てんごくぐん特徴とくちょうである。当時とうじ鎮圧ちんあつたった欽差大臣だいじんサイシャンガさいなおおもね)やりょうこう総督そうとくじょひろのいずれもが、従来じゅうらい匪賊ひぞくたちとことなったものとして太平たいへい天国てんごくとらえ、その成員せいいんあいだ結束けっそく強固きょうこなこと、おそれないことを上奏じょうそうしている。

南京なんきん建都けんと軍事ぐんじ行動こうどう

編集へんしゅう

南京なんきん建都けんとすぐに、清朝せいちょうはその南北なんぼく江南こうなんだいこう北大ほくだいという強固きょうこ軍事ぐんじ基地きちもうけててんきょう圧力あつりょくをかけはじめたが、こうした事態じたい打開だかいするために、太平たいへい天国てんごくぐんなんらかの行動こうどうこさねばならなかった。

選択肢せんたくしは3つあった。

  1. まず江南こうなん江北こうほくりょうだい営を撃破げきはし、江南こうなん地方ちほう確固かっこたる支配しはい地域ちいき確立かくりつするあん
  2. つぎ一挙いっきょきた敢行かんこう北京ぺきん陥落かんらくさせるあんイギリスひとでありながら太平たいへい天国てんごく参加さんかしていたオーガスタス・リンドレー北京ぺきん強襲きょうしゅうつよ支持しじしていた。
  3. そして最後さいごさきふたつのあん折衷せっちゅうてんきょう防衛ぼうえいきたふたつともおこない、さらに西方せいほうへもぐん派遣はけんするあん

史実しじつでは最後さいごあん太平たいへい天国てんごく選択せんたくした。てんきょう防衛ぼうえい最大さいだい兵力へいりょくきつつ、金田かねだむらでの決起けっき以来いらい従軍じゅうぐんしていた精鋭せいえい中心ちゅうしんとした2まんにんきたにあてた。

きたぐん

編集へんしゅう

1853ねん5月には、ひらくかおるはやしおおとりさちしょうとするきたぐん出発しゅっぱつしたが、査文けい計略けいりゃくによって太平たいへいぐん北京ぺきん直進ちょくしんせずに山西さんせいしょうから迂回うかいする経路けいろをとることになりおおいに消耗しょうもうした。そのために、10がつまつには天津てんしんまでせまったものの、進軍しんぐん途上とじょうにあるふところけい定府じょうふそして天津てんしんという要衝ようしょうをいずれもとせずにみなみ転戦てんせんせざるをなくなる事態じたいおちいった。

清朝せいちょうは、モンゴルじんもうしょうセンゲリンチンそうかくりん沁)を起用きようして猛攻もうこうくわえ、1855ねん3がつきたぐん全滅ぜんめつさせた。きたぐん失敗しっぱいによって、太平たいへい天国てんごく北京ぺきんすみやかに攻略こうりゃくできる可能かのうせいかぎりなくひくくなり、戦線せんせん膠着こうちゃくした。

この失敗しっぱい原因げんいんについては諸説しょせつあるが、最大さいだいのものはうえふし解説かいせつしたように兵力へいりょく分散ぶんさん目的もくてき統一とういつ緩慢かんまん進撃しんげきであり、いてげるなら、太平たいへい天国てんごくぐん主体しゅたい南方なんぽう出身しゅっしんしゃであったため、華北かほくでの気候きこう風土ふうどちがい(過酷かこくさむさや主食しゅしょくちがい)にとまどい体調たいちょうくずすなどして士気しきがらなかったことがげられる。

西にしせいぐん

編集へんしゅう

他方たほう西にしただしぐんきたぐんのおよそ1ヶ月かげつのち、えびす以晃しょうとして湖北こほく湖南こなん地方ちほう奪回だっかいのために出発しゅっぱつした。かんこうかん一時いちじとしたものの、安定あんていした支配しはい確立かくりつできず、成果せいかかんばしいものではなかった。太平たいへい天国てんごく仇敵きゅうてきともいうべきこくはん湘軍ちはだかったためである。湘軍はいく敗戦はいせんし、そのためこくはん自殺じさつはからせるほどであったが、1854ねん4がつ湖南こなみしょう湘潭けん太平たいへい天国てんごくだい勝利しょうりおさめた。

ただその太平たいへい天国てんごくぐん名将めいしょう大綱たいこういしたちひらく合流ごうりゅうすると攻勢こうせいてんじ、安徽あんきしょうちゅう南部なんぶ江西えにししょう湖北こほくしょう東部とうぶ支配しはいするにいたった。つづいて 1856ねんの4がつから6がつにかけて江北こうほく江南こうなんりょうだい営を壊滅かいめつさせ、太平たいへい天国てんごく足場あしば強固きょうこにし安定あんていむかえた(だいいち江南こうなんだい攻略こうりゃく)。

地上ちじょう天国てんごく、その理想りそう実情じつじょう

編集へんしゅう
 
洪秀全こうしゅうぜん

キリスト教きりすときょうてき理想りそうかかげた地上ちじょう天国てんごくつくそうとした洪秀全こうしゅうぜんであったが、現実げんじつにおいて社会しゃかい組織そしき運営うんえいするじょう伝統でんとうてき土着どちゃくてきかんがかた価値かちかんからのがれられるはずもなく、その理想りそう現実げんじつきわめて乖離かいりしたものとならざるをなかった。

宗教しゅうきょう思想しそうてき側面そくめん

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごくキリスト教きりすときょう刺激しげきとなってまれでた現象げんしょうであることは間違まちがいなく、教義きょうぎとしてかみ・イエス・聖霊せいれい内容ないようとする三位一体さんみいったいろん受容じゅようしていたが、ただ洪秀全こうしゅうぜんをキリストのおとうと位置いちづけているてんおおきくことなる。またひとかみまえ平等びょうどうであり、みな兄弟きょうだい姉妹しまいであるという天下てんか一家いっかてき思想しそうをもっていた。

教典きょうてんとしては聖書せいしょくわえ、洪秀全こうしゅうぜんあらわした『原道はらみち救世きゅうせい』などを一部いちぶ修正しゅうせいして使用しようしていた。洪秀全こうしゅうぜんは『すすむ世良せらげん』によって覚醒かくせいしたのち広州こうしゅうでI.J.ロバーツというアメリカじん宣教師せんきょうししたおしえをうている。基本きほんてき知識ちしきはこのときたものとおもわれるが、洗礼せんれい時期じき尚早しょうそうとしてけられなかった。

初期しょき太平たいへい天国てんごく独自どくじ解釈かいしゃくまじえながらも、キリストきょう忠実ちゅうじつであろうとつとめ、たとえば偶像ぐうぞう破壊はかい儒教じゅきょうとうおしえのしょ積極せっきょくてき廃棄はいきしていた。こうした姿勢しせい変化へんかられるようになったのは1854ねんごろからである。無条件むじょうけん焼却しょうきゃくしていた 六経りくけい太平たいへい天国てんごく都合つごう改訂かいていしたうえでの流布るふみとめる一方いっぽうで、聖書せいしょ太平たいへい天国てんごくにより改訂かいていされたうえでなければ閲覧えつらん不可能ふかのうとなった。これは三位一体さんみいったいろん太平たいへい天国てんごくうよう改変かいへんし、洪秀全こうしゅうぜんと楊秀きよし権威けんいたかめるためであった。

文化ぶんかてき側面そくめんげるべきものとしては、文字もじ新造しんぞうがある。たとえばたましいは「うんじん」、たまは「白人はくじん」などけい22つくった。ただ圀といったのりてん文字もじのごとき命脈めいみゃくたもてなかった。

社会しゃかい制度せいどてき側面そくめん

編集へんしゅう

南京なんきん入城にゅうじょう太平たいへい天国てんごく即座そくざ制度せいど整備せいび着手ちゃくしゅし、まず天王てんのうである洪秀全こうしゅうぜん以下いかおう場内じょうない壮麗そうれい宮殿きゅうでんきずいた。洪秀全こうしゅうぜんと楊秀きよしのものがとくおおきかった。宮殿きゅうでん造営ぞうえい洪秀全こうしゅうぜんはその奥深おくふかいところに鎮座ちんざし、政務せいむばかりか民衆みんしゅうまえからもとおざかったため、政務せいむは楊秀きよし仕切しきることが慣例かんれいとなった。初期しょきてんきょうにおいて立案りつあん実行じっこうされた政策せいさくは、楊秀きよし強力きょうりょく統率とうそつしたおこなわれたものである。

てんきょう周辺しゅうへん支配しはいしたとはいえ、清朝せいちょうとのこうそう終止符しゅうしふたれたわけではないため、太平たいへい天国てんごく社会しゃかい編成へんせい軍事ぐんじてき色彩しきさいへいのう一致いっち原則げんそくであった。たとえば決起けっき直後ちょくごから男女だんじょ夫婦ふうふといえど別々べつべつ集団しゅうだんけられていたが、てんきょうにおいてもそれは継続けいぞくされた。ただ天王てんのう以下いか首脳しゅのう例外れいがいで、庶民しょみんには一夫一婦いっぷいっぷせいもとめながら、旧約きゅうやく聖書せいしょにおける一夫多妻いっぷたさい理由りゆう多数たすう妻女さいじょっていた。実際じっさいには中国ちゅうごく皇帝こうてい後宮こうきゅう制度せいど影響えいきょうけたものであろうが、こうしたおう庶民しょみんとの格差かくさ不満ふまんたかまり1855ねん男女だんじょかつことは廃止はいしされ、しん占領せんりょうでのみ実施じっしされた。

そのほか纏足てんそく禁止きんしされた。元々もともときゃく出身しゅっしんおお太平たいへい天国てんごくでは纏足てんそく習慣しゅうかんがなかったうえに、戦闘せんとうにおいて女性じょせい輸送ゆそうとう重要じゅうよう役割やくわりになっていたことが、纏足てんそく禁止きんしれいした理由りゆうである。この纏足てんそく禁止きんし売春ばいしゅん禁止きんし女性じょせいけに科挙かきょ実施じっししたことから、太平たいへい天国てんごくでは男女だんじょ平等びょうどう理念りねんとしていたかのようにえる。しかし実際じっさいにはおんな科挙かきょ合格ごうかくしゃ重用じゅうようされなかったり、のち濫発らんぱつされた王位おうい1人ひとり女性じょせいふくまれていなかったことから、男尊女卑だんそんじょひてきかんがかた払拭ふっしょくされることはなかったものとかんがえられる。

さらに特筆とくひつすべきは天朝てんちょううね制度せいどである。これはうねがあればだれもがそこでたがやし、収穫しゅうかくぶつみない、ゆたかな衣食いしょくれる、という目標もくひょうのために考案こうあんされた制度せいどである。具体ぐたいてきには、をそのしつしによって9かいきゅうけ、しつおうじて男女だんじょわず分配ぶんぱいし、生産せいさんぶつ個々人ここじん消費しょうひぶん以外いがい国庫こっこ保管ほかんして私有しゆうみとめない。そのわり婚姻こんいん葬儀そうぎのような儀礼ぎれい費用ひよう孤児こじ老人ろうじん扶養ふようについては国庫こっこより支出ししゅつする。そして25ごとにりょう司馬しばというかん礼拝れいはいどうをおき、管理かんりさせるというものである。

土地とち平均へいきん主義しゅぎ全面ぜんめんしたこの制度せいどだい土地とち所有しょゆう進行しんこうしていた清朝せいちょうにあって、非常ひじょう印象いんしょうつよかったといわざるをず、その思想しそうてき意義いぎ無視むしできない。しかし、実際じっさいには民衆みんしゅうにほとんどられることがなく、施行しこうもされなかったものとかんがえられている。それどころか、支配しはいでは土地とち有力ゆうりょくしゃを「さとかん」というしょくにつけ、小作こさくりょう徴収ちょうしゅうしていた。そうしなければ支配しはい安定あんてい食料しょくりょう確保かくほ困難こんなんであったためである。

暦法れきほうでは太陽暦たいようれき採用さいようしたてんれき施行しこうされた。

外交がいこうてき側面そくめん

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごくぐん長江ながえしも流域りゅういき支配しはいするようになると、当時とうじ上海しゃんはい租界そかいもうけていた西欧せいおう列強れっきょうえいべいふつ)は座視ざしできないとかんがえた。キリストきょう信仰しんこうする太平たいへい天国てんごく台頭たいとう歓迎かんげいすべきか、脅威きょういととるべきか列強れっきょう内部ないぶでも意見いけんかれたため、ひとまず太平たいへい天国てんごくへの使節しせつだん派遣はけんすることになった。

1853ねん4がつ、イギリス公使こうしボナムはてんきょう直接ちょくせつ出向でむき、南京なんきん条約じょうやくといった既得きとく権益けんえきおかさぬかぎ内戦ないせんには干渉かんしょうせず中立ちゅうりつまもることを洪秀全こうしゅうぜんらにつたえた。しかし太平たいへい天国てんごくがわ列強れっきょう朝貢ちょうこうくにとしてぐうし、対話たいわわなかった。

こうした外交がいこう姿勢しせい中華ちゅうか思想しそうてきといえようが、興味深きょうみぶかいのははなえびすべつ中国ちゅうごくてき文化ぶんか程度ていどによるのではなく、キリストきょう信仰しんこう有無うむによるてんである。したがって太平たいへい天国てんごくにとってちかしいのは清朝せいちょうよりも西欧せいおうであった。洪秀全こうしゅうぜんらは西欧せいおうを「よう兄弟きょうだい」とび、自身じしんでは厚遇こうぐうしているつもりだった。

こうした太平たいへい天国てんごくがわ外交がいこう姿勢しせいにイギリス列強れっきょう失望しつぼうした。おりしもアロー戦争せんそう列強れっきょう有利ゆうりかたち妥結だけつすると、太平たいへい天国てんごくよりも清朝せいちょう肩入かたいれを開始かいしするようになる。そのひとつが後述こうじゅつする常勝じょうしょうぐんである。

てんきょう事変じへんてんきょう事件じけん

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごく時期じきてき区分くぶんするのであれば、このてんきょう事変じへんをもって前期ぜんき後期こうきかつのが妥当だとうといえる。前期ぜんき太平たいへい天国てんごくは、洪秀全こうしゅうぜんと楊秀きよし2人ふたり主体しゅたいとなって運営うんえいされていた。宗教しゅうきょうてき権威けんいになっていたのがキリストのおとうとたる洪秀全こうしゅうぜんで、実務じつむになっていたのが楊秀きよしであり、両者りょうしゃ君臣くんしん関係かんけいにあった。

しかし、一度いちど楊秀きよしに「てんちち凡」がきると両者りょうしゃ立場たちば逆転ぎゃくてんし、きみしゅたる洪秀全こうしゅうぜん臣下しんかの楊秀きよしきびしくばっせられることになった。元々もともとてんちち凡」や「てんけい凡」は金田かねだむら時期じきに馮雲やま逮捕たいほされ、動揺どうようした信者しんじゃたちを沈静ちんせいするためにもちいられたのがはじまりである。その清朝せいちょうたい決起けっきすることをめたのも、この「てんちち凡」の権威けんいによるものであった。

ただし、当初とうしょぐん内部ないぶ規律きりつ維持いじや楊秀きよし独裁どくさい反対はんたいする幹部かんぶ粛清しゅくせい使用しようされたのがほとんどで、天王てんのう洪秀全こうしゅうぜん自身じしんけたものはまれであった。それがてんきょう入城にゅうじょうすると次第しだい回数かいすうえていった。その内容ないよう洪秀全こうしゅうぜんわらわあつかかたから楊秀きよしたい洪秀全こうしゅうぜんおなじく万歳ばんざいとなえるべし、といったことまで様々さまざまであった。

表面ひょうめんじょう、楊秀きよし恭順きょうじゅんしていた洪秀全こうしゅうぜんついかれ排除はいじょ決意けついする。おなじく楊秀きよし圧迫あっぱくされていたきたおう韋昌てるそそのかし、1856ねん9月、早朝そうちょう楊秀きよし一族いちぞくならびに配下はいかへいたちとその家族かぞくやく4まんにん虐殺ぎゃくさつされた。しばらくのちてんきょう入城にゅうじょうしたいしたちひらくはこの内部ないぶ抗争こうそうはげしくいかり、韋昌てる処分しょぶん洪秀全こうしゅうぜんもとめた。だい報恩寺ほうおんじとう破壊はかいしていしたちひらきらの進軍しんぐんそなえたが、洪秀全こうしゅうぜんによって韋昌てるらは粛清しゅくせいされた。

洪秀全こうしゅうぜんは韋昌てるくびいしたちひらき陣営じんえいおくり、すこしのあいだいしたちひらき協力きょうりょく体制たいせいかれることになる。しかし、洪秀全こうしゅうぜんはすでに肉親にくしん以外いがい重用じゅうようするつもりはなく、いしたちひらくすうげつてんきょう離脱りだつしてべつ行動こうどうるようになった。

太平たいへい天国てんごく皮肉ひにくにも支配しはい領域りょういき安定あんていさせた途端とたん内紛ないふんしょうじて弱体じゃくたいし、金田かねだむら決起けっきしたとき主要しゅよう人物じんぶつ洪秀全こうしゅうぜん1人ひとりとなった。しかし太平たいへい天国てんごく命運めいうんがこのままきることはなく、いしたちひらきらにわる有能ゆうのう将軍しょうぐんいくにん輩出はいしゅつし、もうしばらく存続そんぞくする。

しん指導しどう登場とうじょう

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごく内紛ないふんは、清朝せいちょうにとって絶好ぜっこう機会きかいであったといえる。のがさずこくはんら湘軍は長江ちょうこう上流じょうりゅうからくだった。 1858ねん5月の段階だんかいきゅう陥落かんらくし、さらに一旦いったん壊滅かいめつさせた江北こうほく江南こうなんりょうだいいとな再建さいけんされてんきょう包囲ほういした。

この窮地きゅうちさいし、洪秀全こうしゅうぜんあたらしいとしわかしょうたちを投入とうにゅうした。かつてふじけん加入かにゅうした秀成ひでなりやその従弟じゅうていけん、そしてちんたまなりらである。わかいとはいえ、いずれも13、4さいころから戦場せんじょうだい一線いっせん活躍かつやくしており、経験けいけんあさいというわけではなかった。

これ以降いこう太平たいへい天国てんごく反転はんてん攻勢こうせいてんじ、「もう反乱はんらん鎮圧ちんあつちかい」とおとうと手紙てがみおくったこくはんだったが、その目論見もくろみおおきくはずれることになる。次第しだい形勢けいせい清朝せいちょうにとっておもわしくなくなり、安徽あんきしょう三河みかわたたかでは湘軍は大敗たいはいきっし、太平たいへい天国てんごくいきかえした。三河みかわたたか以後いご秀成ひでなりけんらは江南こうなん地方ちほう制圧せいあつし、一方いっぽうちんたまなり安徽あんきしょう進軍しんぐんした。洪秀全こうしゅうぜん以前いぜんならってぐん主将しゅしょうさいしつらえし、あらたな5にん幹部かんぶ以下いかのように決定けっていした。

  • ちゅうぐん主将しゅしょう 楊輔きよし (のちに輔王)
  • ぜんぐん主将しゅしょう ちんたまなり (のちえいおう
  • こうぐん主将しゅしょう 秀成ひでなり (のちちゅうおう
  • みぎぐん主将しゅしょう 韋俊  (翌年よくねんきよし投降とうこうした)
  • ひだりぐん主将しゅしょう けん (のちさむらいおう

太平たいへい天国てんごく一息ひといきをついた1859ねん、馮雲やまとともにもっとはやはい上帝じょうていかい入信にゅうしんした一族いちぞくひろしじんてんきょう到着とうちゃくした。かれ清朝せいちょうとのあらそいのなかではぐれ、香港ほんこんのイギリスじん宣教師せんきょうししたせていたが、なんかいかの合流ごうりゅう失敗しっぱいしたのち、ようやくてんきょういたった。てんきょう事変じへんによっておう体制たいせい崩壊ほうかいしたのちということもあって洪秀全こうしゅうぜん驚喜きょうきした。早速さっそくひろしじん玕をおうにんじ、内政ないせい掌握しょうあくせしめた。

ひろしじん玕は香港ほんこんかくれているあいだロンドン伝道でんどうかいのアシスタントをする一方いっぽう医者いしゃ教師きょうしとしても活動かつどうしていたという。洪秀全こうしゅうぜんちがい、洗礼せんれいけていた。香港ほんこんでの生活せいかつは、ひろしじん玕を西欧せいおう文明ぶんめいれさせ、太平たいへい天国てんごく首脳しゅのう当時とうじ儒家じゅか知識ちしきじんともちが思考しこうをさせるきっかけとなった。すなわちかれ太平たいへい天国てんごくにおいて西欧せいおう模範もはんとした制度せいど改革かいかくはかった。その内容ないようは『せい新編しんぺん』にくわしい。まず内政ないせいにおいては、鉄道てつどう汽船きせんといった交通こうつうもう整備せいび鉱山こうざん開発かいはつといったインフラ整備せいび新聞しんぶん発行はっこう福祉ふくし充実じゅうじつ科挙かきょ改革かいかく提言ていげんした。外政がいせいてきには、西欧せいおう対等たいとうのものとしてあつかい、通商つうしょう関係かんけいきずくことや宣教師せんきょうし活動かつどう許可きょか主張しゅちょうしている。

しかし、こうした改革かいかく提言ていげんむすばなかった。ひろしじん玕の提言ていげん洪秀全こうしゅうぜん妥当だとうという評価ひょうかあたえていたようだが、その首脳しゅのうたちにとってはあまりに経験けいけんそくからはなれた事柄ことがらであって、ていえば理解りかい不能ふのうであった。皮肉ひにくにも『せい新編しんぺん』の内容ないようは、天敵てんてきこくはん弟子でし鴻章こうしうによってがれていく。その改革かいかく後世こうせい史家しかたちは「ようつとむ運動うんどう」とんでいる。

おうごう乱発らんぱつ

編集へんしゅう

洪秀全こうしゅうぜんは1859ねんから60ねんにかけてしん指導しどうわか将軍しょうぐんたちにおうごうさづけることめ、楊輔きよしを「輔王」に、秀成ひでなりを「ちゅうおう」に、けんを「さむらいおう」に、ちんたまなりを「えいおう」にそれぞれふうじた。1857ねんまでのおうごう希少きしょうであり、建国けんこく当初とうしょ東西とうざい南北なんぼくつばさおうほかは、軍功ぐんこうしゃ2めいの「つばめおう」「おう」、戦死せんししゃついふうの「奮王」「なでおう」「くれおう」、洪秀全こうしゅうぜんあに2にんの「安王やすおう」「ぶくおう」のけい12めいかぎられていたが、1860ねん以降いこう士気しき忠誠ちゅうせいをつなぎめるためにおうごう頻繁ひんぱんさづけられるようになった。戦況せんきょう悪化あっかするにつれておうごう乱発らんぱつ顕著けんちょとなり、「れつおう」というすうじゅうにんがまとめてふうじられるものまで登場とうじょうした。太平たいへい天国てんごく末期まっきには1,700めい以上いじょうの「おう」がいたといわれる。

戦乱せんらん推移すいい2

編集へんしゅう

1860ねん2がつから5がつだい江南こうなんだい攻略こうりゃくでは、おうひろしじん玕・ちゅうおう秀成ひでなり・輔王楊輔きよしさむらいおうけんえいおうひねだまなりらが呼応こおうしてしんぐん撃破げきは。こののちちんたまなりこくこくはんおとうとひきいる湘軍を相手あいてにすることになった。

ひろしじん玕の加入かにゅう洪秀全こうしゅうぜんおおいに安堵あんどおぼえたのであろうが、秀成ひでなりらは不満ふまんいだかざるをなかった。初期しょき信者しんじゃとはいえ、ひろしじん玕の改革かいかく現実離げんじつばなれしていることや、さして戦功せんこうをたてていないことから、かれおうふうじられるのは洪秀全こうしゅうぜん身内みうちびいきとしかおもえなかったためである。このため、秀成ひでなりらをあらたにおうとしたものの、かれしんおうひろしじん玕とのみぞふかまるばかりで、ふたた太平たいへい天国てんごく内紛ないふん様相ようそうびてきた。とく秀成ひでなりけんひろし一族いちぞくたいしてばつ形成けいせいし、独断どくだん専行せんこう徐々じょじょえていくことになる。

たとえば、1860ねん上海しゃんはい攻略こうりゃくにおいて江南こうなん地方ちほう制圧せいあつすすめていたのは秀成ひでなりぐんであったが、上海しゃんはいだけは列強れっきょう租界そかいがあるため攻撃こうげきひかえられていた。このときひろしじん玕は西欧せいおう交渉こうしょうし、すくなくとも清朝せいちょう荷担かたんしないよう画策かくさくしていた。しかし交渉こうしょうごうやした秀成ひでなりは、一転いってん攻撃こうげき仕掛しかけ、ぎゃく手痛ていた反撃はんげき自身じしんすら負傷ふしょうした。これはひろしじん玕・秀成ひでなり両者りょうしゃ西欧せいおう体験たいけん有無うむおおきく影響えいきょうした結果けっかとしてしょうじた齟齬そごといえる。

そしてさらに深刻しんこく事態じたい発生はっせいした。ちんたまなり長江ちょうこう中流ちゅうりゅうで湘軍と死闘しとうひろげていたが、武漢ぶかん秀成ひでなりぐん合流ごうりゅう共同きょうどうこくはんにあたる作戦さくせんてていた。しかし、秀成ひでなり江南こうなん制圧せいあつ重視じゅうししたため合流ごうりゅうたされず、ちんたまなりてき孤立こりつして殲滅せんめつされた。

かつての太平たいへい天国てんごくであれば、一旦いったん敗走はいそうしても兵力へいりょく増強ぞうきょうはさして問題もんだいではなかった。規律きりつただしい太平たいへい天国てんごくぐん民衆みんしゅう支持しじけていたためである。しかし末期まっきになると、規律きりつまった弛緩しかんしきっていた。太平たいへい天国てんごくしょく確保かくほわれ、無秩序むちつじょ徴収ちょうしゅう略奪りゃくだつかさねていたことがおも原因げんいんである。投降とうこうした清朝せいちょう兵士へいし自軍じぐん編入へんにゅうし、しつ一層いっそう低下ていかしたこともそれに拍車はくしゃをかけた。しかしへいしつ劣化れっかしても、そのプライドは健在けんざいであった。そのため太平たいへい天国てんごくどう時期じき発生はっせいしたねじぐん大成たいせいこくかいぞくひとしのほかの反乱はんらんぐん歩調ほちょうわせるうごきがあっても、太平たいへい天国てんごくがわ自尊心じそんしんがそれを阻害そがいした。

太平たいへい天国てんごく劣勢れっせい自壊じかい作用さようだけが原因げんいんではなく、清朝せいちょうがわぐんなおしもおおきく影響えいきょうした。清朝せいちょう軍事ぐんじはちはたみどり基本きほんとしていたが、時代じだいすすむにつれて退廃たいはいして使つかものにならなくなっていた。そこであらたなぐん形態けいたい模索もさくされ、結果けっかされたのがこくはんの湘軍・鴻章こうしう淮軍である。このしん形態けいたいぐんは、きわめて個人こじん個人こじんのつながりを重視じゅうししたごういさむから誕生たんじょうした組織そしきであった。

こくはんはまず故郷こきょうにおいて、みずからをあお人々ひとびとあつめ、さらにその人々ひとびと個人こじんてき信頼しんらいする部下ぶか地縁ちえん血縁けつえん学問がくもん関係かんけいなかからあつめるといったかたちぐん形成けいせいした。その忠誠ちゅうせいしん清朝せいちょうよりも指揮しきかん個人こじんけられ、こくはん私兵しへいてき性格せいかく濃厚のうこうであった。1854ねん以降いこう、湘軍は長江ながえちゅう流域りゅういきにおいて太平たいへい天国てんごくむかったが、それだけでは太平たいへい天国てんごく対処たいしょれなかったために、1862ねん鴻章こうしうめいじて安徽あんきしょうで湘軍をモデルとした淮軍を創建そうけんさせた。鴻章こうしうの淮軍は太平たいへい天国てんごくらん収束しゅうそくしても湘軍のごとく解散かいさんしなかったために、以後いご中国ちゅうごく近代きんだい確固かっこたる地歩ちほめることになる(北洋ほくよう軍閥ぐんばつ)。

さらに太平たいへい天国てんごく外国がいこくじん傭兵ようへい部隊ぶたいともたたかわねばならなかった。上海しゃんはい官僚かんりょう商人しょうにん資金しきん拠出きょしゅつし、西洋せいようしきじゅう大砲たいほうととの租界そかいにいた外国がいこくじんへいとして雇用こようした。このぐんアメリカひとフレデリック・タウンゼント・ウォード指揮しきかんとして「ようやりたい」という発足ほっそくした。翌年よくねんには中国人ちゅうごくじんを4,000 - 5,000にん徴兵ちょうへいし、「常勝じょうしょうぐん」と改名かいめいした。中国ちゅうごくはつ西洋せいようふう軍隊ぐんたいといえる。ウォードの戦死せんし多少たしょう混乱こんらんがあったが、イギリスじんチャールズ・ゴードン指揮しきかん就任しゅうにんするとふたた破竹はちくいきおいをもどした。

常勝じょうしょうぐん成功せいこうならい、常安つねやすぐんてい勝軍かちいくさつねとしぐんなど、各地かくち同様どうよう軍隊ぐんたいがつくられた。おな中国人ちゅうごくじんであっても洋式ようしき軍隊ぐんたい装備そうびをすればつよくなれる、ということを常勝じょうしょうぐん証明しょうめいしていた。このつよさをたりにしたこくはんらは軍隊ぐんたい近代きんだいちかられるようになったため、常勝じょうしょうぐんようつとむ運動うんどう原点げんてんともいえる。

1860ねん10月に締結ていけつされた北京ぺきん条約じょうやく以降いこう欧米おうべい諸国しょこく明確めいかく太平たいへい天国てんごく敵対てきたいした。上海しゃんはいやすしなみたたかいではえいふつぐん積極せっきょくてき参加さんかし、太平たいへい天国てんごくぐん苦戦くせんいられた。

太平たいへい天国てんごく落日らくじつ

編集へんしゅう

1863ねん以降いこう太平たいへい天国てんごくふとしくらしゅうすず蘇州そしゅう杭州こうしゅう次々つぎつぎうしない、てんきょう孤立こりつした。けん諸王しょおうすで洪秀全こうしゅうぜん見捨みすてていたが、秀成ひでなりだけは清朝せいちょうかこみをやぶっててんきょうもどった。そして洪秀全こうしゅうぜんてんきょう破棄はきすることをすすめたが、洪秀全こうしゅうぜんがんとしてれず、ぎゃく秀成ひでなり防衛ぼうえいにあたるようめいじた。孤立こりつしたてんきょう食糧しょくりょう事情じじょうがすでに逼迫ひっぱくしており、雑草ざっそうを「甜露」とんでべていたほどであった。首都しゅとでありながら、防衛ぼうえいにあたるべき兵士へいし暴徒ぼうとし、だれしもその終焉しゅうえんちかいことをさとらずにはいられなかった。

そして1864ねん6月1にち洪秀全こうしゅうぜん栄養失調えいようしっちょうにより病死びょうしした。秀成ひでなりによれば、直接ちょくせつ死因しいんは「甜露」をべてからだこわしたにもかかわらず、くすり服用ふくようしなかったためだという。自殺じさつせつもあったが、それは湘軍の功績こうせき過大かだい評価ひょうかさせるための意図いとてきなデマだった。洪秀全こうしゅうぜん直前ちょくぜんに「わたし天国てんごくのぼり、てんちちてんけいからへいりて、てんきょうまもる」とべ、これが洪秀全こうしゅうぜん最後さいごみことのりとなった。

 
てんきょうおさむ防戦ぼうせん

同年どうねん7がつ19にちてんきょうおさむ防戦ぼうせんで湘軍の攻撃こうげきによりてんきょう陥落かんらくし、太平たいへい天国てんごくらん終結しゅうけつした。湘軍はしろがいからトンネルをすす兵士へいし突入とつにゅうさせたが、皮肉ひにくにもこの戦術せんじゅつ太平たいへい天国てんごく得意とくいわざであった。城内きうちにはすで厭戦えんせんムードがちていたが、蘇州そしゅう失陥しっかんさい太平たいへい天国てんごく兵士へいし8,000にん皆殺みなごろしにったことをっていたため、最後さいごまで投降とうこうせずにたたかつづけた。占領せんりょうおおくの老人ろうじん子供こどももいたが、20まんにん虐殺ぎゃくさつされたという[注釈ちゅうしゃく 1]洪秀全こうしゅうぜんはかあばかれかれた。ちゅうおう秀成ひでなり洪秀全こうしゅうぜんひろしてんぶくともなっててんきょう脱出だっしゅつしたが、ほどなくしてらえられ処刑しょけいされた。秀成ひでなりけい執行しっこうされるまでに詳細しょうさい供述きょうじゅつしょのこしている。

のこりの諸王しょおうらはねじぐん合流ごうりゅうするなどして各地かくち抵抗ていこう活動かつどうつづけ、もうしょうセンゲリンチンを戦死せんしいたらしめるなどしんぐんこずらせたが、1868ねんにはねじぐん壊滅かいめつ、1870年代ねんだいにはほぼすべてが鎮圧ちんあつされた。

太平たいへい天国てんごく日本にっぽん

編集へんしゅう

太平たいへい天国てんごくのことは、清国きよくに商船しょうせんおよび朝鮮ちょうせんから対馬つしまはんつうじて幕末ばくまつ日本にっぽんつたえられた。

日本にっぽんでは当初とうしょ太平たいへい天国てんごくキリスト教きりすときょう土着どちゃくして発生はっせいした反乱はんらんとはみなされておらず、明朝みょうちょう後裔こうえいこした再興さいこう運動うんどうだとみなされていた。つまり、満州まんしゅうぞく支配しはい反抗はんこうするかん民族みんぞくという図式ずしき民族みんぞく紛争ふんそうとらえていたことになる。これは「ほろびまんきょうかん」というスローガンが強調きょうちょうされたこと、辮髪べんぱつとしていたことが原因げんいんである。清朝せいちょうでは「あたまめるものはかみめず、かみめるものはあたまめず」といわれるように、辮髪べんぱつ有無うむがその支配しはい受容じゅようしたかかの基準きじゅんとなっていたためである。また農民のうみんなどのてい階層かいそうらん主体しゅたいであったという認識にんしき希薄きはくであった。このことは、1854ねん前後ぜんこう太平たいへい天国てんごくらんをモデルにしたとみられる中国ちゅうごく大陸たいりく舞台ぶたいとした明朝みんちょう復興ふっこう物語ものがたり講談こうだん小説しょうせつ形式けいしき複数ふくすう出版しゅっぱんされていることからもかる。

しかし、『まん清紀きよのりごと』『粤匪大略たいりゃく』といった書物しょもつ日本にっぽんにもたらされると、それまで好意こういてきだった知識ちしきじんそう太平たいへい天国てんごくたいする評価ひょうか一変いっぺんした。洪秀全こうしゅうぜん明朝みょうちょう後裔こうえいではないこと、キリストきょう信仰しんこうしていることがつたわったためである。とく前者ぜんしゃ朱子学しゅしがくてき大義名分たいぎめいぶんろん正統せいとうろんてん嫌悪けんおかんあたえ、後者こうしゃ島原しまばららん想起そうきさせ、幕末ばくまつ世論せろん影響えいきょうあたえた。太平たいへい天国てんごくへの嫌悪けんおかんは、実際じっさいらん見聞けんぶんした人々ひとびとにも継承けいしょうされていた。

1859ねんにはイギリス領事りょうじ公使こうし)のオールコックから江戸えど幕府ばくふたいして、軍用ぐんよう3,000とうをイギリスぐん売却ばいきゃくしてくれるように要請ようせいがあった。幕府ばくふ国内こくない軍事ぐんじてき需要じゅよう理由りゆう当初とうしょ躊躇ちゅうちょしたものの、えいふつりょうぐんに1,000とうずつ売却ばいきゃくすることで合意ごういし、よく1860ねんなつまでに実施じっしされた。この前後ぜんご日本にっぽん輸出ゆしゅつひんなかには主力しゅりょくひんである生糸きいとちゃほかに、えいふつりょうぐんのためにもちいられたとおもわれる雑穀ざっこくあぶらなどの生活せいかつ必需ひつじゅひん輸出ゆしゅつ記録きろく目立めだっている。

さらに太平たいへい天国てんごく末期まっきにあたる1862ねん6月2にち文久ぶんきゅう2ねん5がつ5にち)には、イギリスからった幕府ばくふ用船ようせん千歳ちとせまる」が上海しゃんはい到着とうちゃくした。交易こうえき表面ひょうめんじょう理由りゆうであったが、実際じっさい任務にんむ清朝せいちょう情報じょうほう収集しゅうしゅうであった。江戸えど幕府ばくふは、清朝せいちょう動乱どうらん欧米おうべい列強れっきょうのアジアでのありかたふか関心かんしんせていた。乗船じょうせんしていたのはかくはん俊秀しゅんしゅう中心ちゅうしんで、薩摩さつまはん五代ごだいともあつし長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎ晋作しんさくらもふくまれていた。乗船じょうせんしていた藩士はんし日記にっきには、太平たいへい天国てんごくについて「おもんみ邪教じゃきょうもっ愚民ぐみん惑溺わくできし」「乱暴らんぼう狼藉ろうぜきをなすのみ」という表現ひょうげんがならぶ。

その日本にっぽん国内こくないにおいては海防かいぼう充実じゅうじつ国内こくない改革かいかくによる民心みんしん安定あんていもとめる論議ろんぎ急速きゅうそくたかまる一因いちいんとなった。吉田よしだ松陰しょういんは「(奈良なら時代じだいの)天平てんぴょうかちたから年間ねんかんとう安史やすしらんさいして当時とうじ朝廷ちょうてい大宰府だざいふ非常ひじょう態勢たいせいいて以来いらい」の危機ききであることを著書ちょしょの『清国きよくに咸豊らん』で指摘してきしている。こうした主張しゅちょうは、薩摩さつまはん湯藤ゆとうりゅうとう古河ふるかわはん鷹見たかみ泉石せんせきらも同様どうよう意見いけん相次あいついでとなえた。

しかし、からし革命かくめい前後ぜんごから太平たいへい天国てんごくへの評価ひょうかふたたなおした。これは中国ちゅうごく本土ほんどでも同様どうようであった。革命かくめい立役者たてやくしゃであるまごぶん太平たいへい天国てんごくふか傾倒けいとうしていたことや、キリストきょう信仰しんこう明治維新めいじいしん以後いご解禁かいきんされたことから抵抗ていこうかんうすれたためだとされる。洪秀全こうしゅうぜんたちは長崎ながさきから亡命ぼうめいした大塩おおしお平八郎へいはちろうえたもので、その太平たいへい天国てんごくらんこしたという珍説ちんせつまで一時いちじ流布るふした。

太平たいへい天国てんごく日本にっぽんとの逸話いつわは、世界せかい恐慌きょうこう時代じだいにもあった。洪秀全こうしゅうぜん郷里きょうりであるはなけんには、1930年代ねんだいとし確定かくてい)に日本にっぽんぐんから洪秀全こうしゅうぜん子孫しそんだという兵士へいしが2にんおとずれたというはなしつたえられている。これは日本にっぽんぐん宣撫せんぶ工作こうさくであったとおもわれる。

おうあきらあき広沢ひろさわ吉平きちへいらは、欧米おうべい列強れっきょうきよし同様どうよう開国かいこくしたばかりの日本にっぽんでも太平たいへい天国てんごくらん同様どうよう民衆みんしゅう反乱はんらん誘発ゆうはつすることへの危惧きぐから、明治維新めいじいしん前後ぜんご日本にっぽん国内こくない戦乱せんらんたいして直接ちょくせつてき軍事ぐんじ介入かいにゅうおこなうことはなく、結果けっかてきには列強れっきょう日本にっぽん植民しょくみんする機会きかいいっしたとするせつとなえている。

太平たいへい天国てんごく史料しりょうについて

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日本語にほんごやくされたものをげる。

太平たいへい天国てんごくらん題材だいざいとした作品さくひん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 太平たいへい天国てんごく増井ますい経夫つねお岩波いわなみ新書しんしょ、1951
  • 太平たいへい天国てんごく 皇帝こうていなき中国ちゅうごく挫折ざせつ菊池きくち秀明ひであき岩波いわなみ新書しんしょ、2020
  • 洪秀全こうしゅうぜん太平おうひら天国てんごく小島こじますすむ岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ 2001.7 ISBN 978-4006000592
  • 太平たいへい天国てんごくにみる文化ぶんか受容じゅよう菊池きくち秀明ひであき山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかいリブレット>、2003.6 ISBN 978-4634346505
  • 太平たいへい天国てんごく革命かくめい研究けんきゅう梨本なしもとゆうひら どうなりしゃ, 1972
  • 太平たいへい天国てんごく革命かくめい歴史れきし思想しそう小島こじますすむ けんぶん出版しゅっぱん, 1978
  • 太平たいへい天国てんごく運動うんどう現代げんだい中国ちゅうごく小島こじますすむ けんぶん出版しゅっぱん, 1993.12. ISBN 978-4876361151
  • 広西ひろせ移民いみん社会しゃかい太平おうひら天国てんごく菊池きくち秀明ひであき ふうひびきしゃ, 1998.2. ISBN 978-4938718046
  • 太平たいへい天国てんごくったぶんしんこくはんくさむらしょうよう 総合そうごう法令ほうれい出版しゅっぱん, 2000.5. ISBN 978-4893466723
訳書やくしょ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ちょうれつぶんのうせい居士こじ日記にっき』 「沿街死屍ししじゅうきゅうみなろうしゃ。其幼孩未滿みまん三歲者亦斫戮以為戲,匍匐ほふくどうじょう婦女ふじょよんじゅうさい以下いかしゃいちにん俱無,ろうしゃ負傷ふしょうあるじゅうあまりがたなすうじゅうがたな沿道えんどうころがる死者ししゃは10にんのうち9にん老人ろうじんである。また幼児ようじじゃれにかたなでたたきころされ路上ろじょう放置ほうちされている。40さい以下いか女性じょせい1人ひとりかけない。きずのない老人ろうじんはなく、じゅうあまりがたなすうじゅうがたなかたなきずがあった)」

出典しゅってん

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