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則天文字 - Wikipedia

のりてん文字もじ(そくてんもじ)は、中国ちゅうごく武周ぶしゅう女帝にょてい武則たけのりてん制定せいていした漢字かんじのりてん新字しんじたけきさき新字しんじともわれる。六書りくしょ文字もじ分類ぶんるいでは象形しょうけい文字もじあるいは会意かいい文字もじである。 ※Unicodeでの番号ばんごう参考さんこう資料しりょう注釈ちゅうしゃく参照さんしょうのこと以下いかこのページにおいておなじ)


漢字かんじ
書体しょたい
篆刻てんこく毛筆もうひつ
かぶとこつぶん 金文きんぶん 篆書てんしょ
古文こぶん
隷書れいしょ 楷書かいしょ
行書ぎょうしょ
草書そうしょ
木版もくはん活版かっぱん
宋朝そうちょうたい 明朝体みんちょうたい 楷書かいしょたい
字体じたい
構成こうせい要素ようそ
筆画ひっかく 筆順ひつじゅん 偏旁へんぼう 六書りくしょ 部首ぶしゅ
標準ひょうじゅん字体じたい
せつぶんかい篆書てんしょたい
さましょ 石経いしきょう
かん字典じてんたいきゅう字体じたい
しん字体じたい しん字形じけい
国字こくじ標準ひょうじゅん字体じたい つね用字ようじ字形じけいひょう
漢文かんぶん教育きょういくよう基礎きそ漢字かんじ
通用つうよう規範きはん漢字かんじひょう
国字こくじ問題もんだい
当用とうよう常用漢字じょうようかんじ
同音どうおん漢字かんじによるきかえ
繁体字はんたいじ正体しょうたい - 簡体字かんたいじ
漢字かんじ廃止はいし復活ふっかつ
漢字かんじ文化ぶんかけん
なかあさこしだいしん
派生はせい文字もじ
国字こくじ 方言ほうげん のりてん文字もじ
仮名かめい たけし おんなしょ
ちぎり文字もじ おんな文字もじ 西にしなつ文字もじ
字音じおん

武則たけのりてん権力けんりょく誇示こじするため、あるいは個人こじんてきこのみやかんがえのため制定せいていされたとされる。武則たけのりてん失脚しっきゃくするとほどなくわすられた。日本にっぽんもっと有名ゆうめいなのは「圀」ので、徳川とくがわ光圀みつくに名前なまえ使用しようされている。このは「くに」の「ある」の部分ぶぶんが「惑」につうじるので不吉ふきつだとの理由りゆうで「囗」(くにがまえ)に「八方はっぽう」というれられた。

また、「」は「」のうえに「山水さんすい」がある」という理由りゆうから「」のわりに「」のうえに「山水さんすい」をせた[1]」が、「しん」は「ただし」をだいいちにせねばならないというかんがえから「しん」のわりに「ただし」のうえに「いち」をせた𢘑[2]」が考案こうあん使用しようされた。

武則たけのりてん自身じしん名前なまえあきら」は「[3]」となった。「そら」のうえに「」「つき」であり、この武則たけのりてんのためだけの文字もじである。

概要がいよう

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武則たけのりてん中国ちゅうごく史上しじょうただ一人ひとり女帝にょていであり、いままでのならわしをなにでもあらためるのがきな人物じんぶつであった。彼女かのじょ変更へんこうしなかったのは服装ふくそうぐらいのもので、まず国号こくごうとうからしゅうえた。改元かいげん頻繁ひんぱんであり、官職かんしょくめいをもえた。なかでも有名ゆうめいなのは、あらたにつくったことである。彼女かのじょみずからの思想しそう政治せいじりょくとによって、あたかもふく着替きがえるかのように簡単かんたん文字もじ変更へんこうした。この文字もじ後世こうせいのりてん文字もじ」とばれるようになった。

たとえば「てん」の文字もじ𠑺 )にあらためられた。これは「てん」の篆書てんしょたいである。もっとも、このようにかたちえただけの文字もじ例外れいがいであり、ほとんどの文字もじあらたにつくられたものである。

のりてん文字もじなに文字もじあるかはよくかっておらず、12,16,17,18,19,21個いっこかくせつがあり、すべてのせつ勘案かんあんすると大体だいたい30前後ぜんこうになる。もっとも、印刷いんさつ手書てがきの都合つごう異体いたいとなっているものもあり、現在げんざいのところは17せつ有力ゆうりょくである。

のりてん文字もじ使つかわれたのはわずか15年間ねんかんであったが、従来じゅうらい文字もじにも影響えいきょうあたえた。文化財ぶんかざいなどにかれた文字もじていくと、武則たけのりてん前後ぜんご影響えいきょうがよくわかる[4]武則たけのりてん退位たいいした705ねん3月3にち[5]復位ふくいしたちゅうむね国号こくごうとうもどした。のりてん文字もじ公式こうしきには廃止はいしされ、わたし文書ぶんしょにおいてもだんだんとすたれていった。現在げんざい中国ちゅうごくではまった使つかわれていない。もっとも当時とうじ武則たけのりてん威光いこう絶大ぜつだいだったようで、中国ちゅうごく国外こくがいにまでつたわっている。また、むかしからよく文字もじ研究けんきゅう対象たいしょうになっている。

のりてん文字もじ歴史れきし

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大周たいしゅう女帝にょていたけし

ほんこう月日つきひは、中国ちゅうごくれきによるものである。

文字もじ創作そうさく施行しこう初期しょき

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しんとうしょ』あるいは『どおりかん』などの史書ししょによると、のりてん文字もじ武則たけのりてんかんがえたものではなく、おいそうはたきゃくめいじてつくらせたもののようである。

当初とうしょ公表こうひょうされたのは12文字もじであり、それぞれ以下いかのようにあらためられた。

  • もと漢字かんじ) >> (のりてん文字もじ
  • あきら」 >> 「 
  • てん」 >> 「 [6]
  • 」 >> 「 
  • 」 >> 「 [7]
  • つき」 >> 「 [8]
  • ほし」 >> 「 [9]
  • きみ」 >> 「 [10]
  • しん」 >> 「 
  • 」 >> 「 [11]
  • はつ」 >> 「 [12]
  • とし」 >> 「 [13]
  • ただし」 >> 「 [14]

このうち「 」と「 」の2文字もじわされて年号ねんごうはつ」として使つかわれた。制定せいてい当時とうじ武則たけのりてんは「改元かいげんはつ赦文」で以下いかのようにべている。

原文げんぶん
「……ちんまた聞之、ひと必有めいしゃ所以ゆえん吐情みことごと天人てんにん。……ちんこんふところ(ふところ)やわらひゃくかみたい(たい)あげ上帝じょうていさんれい(れい)眷祐、萬國ばんこく(万国ばんこく)らい()にわむべ膺正めいてんしきじき行政ぎょうせいこれかたちんむべ以曌ため(ため)めい。……おもえ返上へんじょうすめらぎこれ、佇移ふうただし習俗しゅうぞくおおときりょうなんひたすらあらためとく創製そうせいいちじゅう率先そっせんひゃく辟。うえゆう于古たい(からだ)、しもゆうあらため於新ぶん、庶保久之ひさゆきもとかたひょうかえじゅん。……」
大意たいい
「……ちんはまたこのようにいている。ひとかならがあるのは、おもいをべてみずからのことをしるし、(それによって)尊敬そんけいねんをもっててんひととにつかえるからであると。……いまちんかみ々をまつやすんじ、天帝てんていいのちこたえそのしんみんひろらしめた。天地人てんちじんさんれいちんいつくしんでめぐみをしだれ、万国ばんこく使者ししゃ来朝らいちょうしてきている。(いまこそ)ただしき名分めいぶんまりにおうじて、せい道義どうぎをあまねくひろめるのにふさわしい。(よって)ちん名乗なのることにする。……いにしえ帝王ていおう徳化とっかかえることをおもい、末世まっせ風習ふうしゅうあらためようとのぞんではいるが、習俗しゅうぞく非常ひじょうながときってしまっているので、すぐにあらためることは非常ひじょうむずかしい。(そこで)独自どくじ文字もじ12つくり、諸侯しょこう百官ひゃっかん模範もはんしめすことにする。(これは)古代こだい字体じたいによりつつも、あらたな文字もじあらためることで、ながつづくべき基礎きそ保持ほじすることをねがい、いにしえ醇朴じゅんぼく精神せいしんもどることを表明ひょうめいすることにほかならない。……」

これ以後いご武則たけのりてんたけ改名かいめいし、「」の避諱とし、他人たにん使用しようするのをきんじ、以前いぜんの「あきら」の文字もじ使用しよう禁止きんしされた。当時とうじ退位たいいさせられていたなかむね長男ちょうなん武則たけのりてんまご)であるしげるあきらは、しげるじゅんあらためさせられた。はつ元年がんねん正月しょうがつ8にち西暦せいれき689ねん12月25にち)、のりてん文字もじ正式せいしき公布こうふされた。

なお『きゅうとうしょ経籍けいせきこころざしには「『うみいちひゃくかん だい聖天しょうてんきさきせん」、『しんとうしょ芸文げいぶんこころざしには「たけきさきうみいちひゃくかん」の記述きじゅつがある。

文字もじ伝播でんぱあらたな文字もじ制定せいてい

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はつ元年がんねん690ねん)7がつ聖母せいぼしんすめらぎ即位そくいまえ武則たけのりてん自身じしんをこうばせた)の武則たけのりてんは、仏典ぶってんだいくもけい』のなかに「わたる勒降せい」「女子じょしためおう」といったことがかれていたことを利用りようして、洛陽らくよう白馬しろうまてら住持じゅうじ薛懐よしめいじて注釈ちゅうしゃくしょだいくもけい疏』をかせ、そのなかで「武則たけのりてん皇位こういこと仏典ぶってんさだめられていることだ」と宣伝せんでんさせた。このほん全国ぜんこく各地かくち頒布はんぷされ、このほんともに、のりてん文字もじ全国ぜんこくひろまった。なお、ふところ武則たけのりてん愛人あいじんであるとされている。

同年どうねん9がつ9にち重陽ちょうように、武則たけのりてん正式せいしき皇位こういき、年号ねんごう天授てんじゅあらためた。天授てんじゅ年間ねんかん、授の [15]えられた(てんはすでに えられている)。695ねん元号げんごうあかしきよしあらためると、あかしあかし)の [16]に、きよし [17]あらためられた。同年どうねん6がつ下旬げじゅんくにくに)の (=圀におなじ)にあらためられた。せいこよみ年間ねんかん698ねん)、ひとわって [18]登場とうじょうした。

のりてん文字もじは、以上いじょうの17かんがえられている。ときに21われることもあるが、これはむかし[いつ?]学者がくしゃとなえたせついまだにしんじられているためである。

使用しよう廃止はいし

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のりてん文字もじは、武則たけのりてん皇位こういいていた[19]15年間ねんかん(690ねん - 705ねん)にはひろ使用しようされており、石碑せきひ仏典ぶってんなどにさかんにしるされた。現存げんそんする武周ぶしゅう武則たけのりてん治世ちせい)の碑銘ひめい墓誌ぼしめいによくあらわされている。

武則たけのりてん705ねんちゅうむね皇位こういゆずると、まもなく他界たかいした。ちゅうむねすべての制度せいどむかしこうはじめえいあつし時代じだいもどすようにめいじ、あわせてのりてん文字もじ廃止はいしされた。これにたいして武則たけのりてん親戚しんせきたけ三思さんしらは、皇后こうごう女官にょかん上官じょうかん婉児結託けったくして、ちょう柬之重臣じゅうしん5めい追放ついほうし、権勢けんせいをふるった。これを機会きかいに、時任ときとうひだりけんわかちゅうむね奏上そうじょうし「のりてん文字もじ復活ふっかつさせることが他界たかいした母親ははおやへの孝行こうこうである」と提案ていあんした[20]ちゅうむねはおおむねけんわか指示しじしたがっていたが、のりてん文字もじ復活ふっかつだけはみとめなかった。ぶんむね治世ちせいとなっていた開成かいせい2ねん837ねん)10がつのりてん文字もじもと文字もじなおすことをめいじる詔書しょうしょあらためて頒布はんぷされた[21]。これはぎゃくにいえば、このときまでのりてん文字もじ使つかわれていたことを意味いみし、150年間ねんかん通用つうようしていたことになる。

解説かいせつ

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のりてん文字もじ使つかわれたれい

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太字ふとじのりてん文字もじあらためられた箇所かしょ

  • てんさつ金輪かなわきよしかみ皇帝こうてい 
  • あかしきよしもととしきゅうつききゅう 
    • ちゅう:「あかしきよし」は武則たけのりてん時代じだい年号ねんごうひとつ。
  • 天授てんじゅとし正月しょうがつはついち 
    • ちゅう:「天授てんじゅ」は武則たけのりてん時代じだい年号ねんごうひとつ。「正月しょうがつはついち」は元日がんじつ
  • 君臣くんしんけい天地てんち 

中国ちゅうごく国外こくがいへの影響えいきょう

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のぼりせん太子たいし』(部分ぶぶん
くだりそう部分ぶぶん武則たけのりてんしょ楷書かいしょ部分ぶぶん薛稷しょ[49]

から王朝おうちょうのりてん文字もじをすぐに撤廃てっぱいしたが、中国ちゅうごく国外こくがいにはひろつたわった。とく河西かさい回廊かいろうげん甘粛かんせいしょう)と西域せいいきげんしん中央ちゅうおうアジア)である。中国ちゅうごくでは15年間ねんかんしか使つかわれなかったのにたいし、これらの地域ちいきでは200ねんにわたって使つかわれた。敦煌とんこうでは中国ちゅうごくうしなわれていた『だいくもけい』『だいくもけい疏』といった書物しょもつつかり、貴重きちょう研究けんきゅう資料しりょうになっている。

部分ぶぶんてきにではあるが日本にっぽん朝鮮半島ちょうせんはんとうにもつたわった。たとえば江戸えど時代じだい大名だいみょう德川とくがわ光國みつくに」は1679ねんごろ本人ほんにん52さいとき)「德川とくがわ光圀みつくに」に改名かいめいした。これは「ある」のが「惑」につうじて不吉ふきつだったからとされている。また、本国ほんごくてら光圀みつくにからいちをもらって本圀寺ほんごくじとなっている。

武則たけのりてんいしぶみこく後世こうせい数多かずおおつたわっており、とりわけ彼女かのじょ自筆じひつのぼりせん太子たいし』が有名ゆうめいであり、「千古せんこ美文びぶん」とばれている。みぎじょう写真しゃしんはその拓本たくほん断片だんぺんで、自身じしん尊号そんごう大周たいしゅうてんさつ金輪かなわせいかみ皇帝こうてい」のてんが「 」に、きよしが「 」になっている。河南かなんしょうしんやすけんてつもん鎮にある『千唐志斎碑刻』には、のりてん文字もじ数多かずおおかれている。

後世こうせいみなみかん創建そうけんしゃであるりゅういわお武則たけのりてん真似まねて、自分じぶんあらわ文字もじ[50]」(拼音:Yǎn, ちゅう音符おんぷごう:ㄧㄢˇ)を創作そうさくした。このは「てんりゅう」をあらわしている。現代げんだい中国ちゅうごくでは簡体字かんたいじ ( )[51]」としてかれる[52]

近年きんねんでは、漢字かんじ使用しようする各国かっこくいずれとものりてん文字もじ日常にちじょう使用しようされることはまれである。

のぼりせん太子たいし

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のぼりせん太子たいし』(しょうせんたいしひ)の建碑けんぴせいこよみ2ねん(699ねん)。武則たけのりてんくにしゅうごうしたことから古代こだいしゅう太子たいし[53]びょう修復しゅうふくし、これを記念きねんしてみずか撰文せんぶんし、みずかしょし、建碑けんぴした。碑石ひせきは426cm×160cmと非常ひじょうおおきな立派りっぱいしぶみで、河南かなんしょう洛陽らくよう偃師せんくんびょう(せんくんびょう)に現存げんそんし、保存ほぞんもよい。

いしぶみがく飛白かすりたいで、「のぼりせん太子たいしいしぶみ」の6を2ぎょうれ、碑文ひぶんの33ぎょうくだり草体そうたいかれている。ただし、くびぎょうの「大周たいしゅうてんさつ金輪かなわせいかみ皇帝こうてい御製ぎょせいしょ」とすえぎょうの「きよしれき二年歳次己亥六月甲申朔十九日壬寅建」だけが楷書かいしょたいで、この楷書かいしょ部分ぶぶんだけは薛稷によってかれていることがいしぶみかげしょこくによってられている。

このいしぶみは、碑文ひぶん草書そうしょもちいたいしぶみとして、また女性じょせいしょとして最初さいしょのものである。碑文ひぶん行書ぎょうしょもちいた最初さいしょいしぶみふとしむねの『すすむほこらめい』であり、この『すすむほこらめい』のいしぶみがく飛白かすりたいかれていることから、これを意識いしきしてのこととかんがえられる。武則たけのりてんしょは、ふとしむね影響えいきょうけて堂々どうどうたるものであり、おなじくふとしむねまなんだこうむねしょよりも遒勁である。[54][49][55]

田井だい南谷みなみだに武則たけのりてんしょについて、「よく古典こてんならって、筆力ひつりょくもあり、実力じつりょくはかなり評価ひょうかすべきであるが、ゆいたい用筆ようひつともに変化へんかとぼしく、技巧ぎこうてき表現ひょうげんとどまっている。またぞく性格せいかく表現ひょうげんしているので格調かくちょうがり、通俗つうぞくてきなおもしろさの範囲はんいるものではない。(趣意しゅい)」とべている。[55]

参考さんこう資料しりょう注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ U+57CA
  2. ^ U+22611
  3. ^ U+66CC
  4. ^ はんよしほしろん韓國かんこく發現はつげんてきしるしほん無垢むくきよしこうだい陀羅尼だらにけい科学かがく通報つうほう・1997、42 (10):1009-1028。
  5. ^ したがえりょうとうしょすなわちてんきさき本紀ほんぎかずどおりかんとうかいようみかどごうじょうちゅうむねさくがつはつ(3がつ4にち)、あやま
  6. ^ U+20011「へい(へい・ひのえ)」とはべつ
  7. ^ U+211A0
  8. ^ U+56DD
  9. ^ U+3007 ※ただ0かん数字すうじとして登録とうろくされている。
  10. ^ U+20E9E
  11. ^ U+21540
  12. ^ U+21508
  13. ^ U+20866
  14. ^ U+2067A
  15. ^ U+25822
  16. ^ U+24A89
  17. ^ U+28CA2
  18. ^ U+24BD4
  19. ^ ただし、現代げんだい中国ちゅうごくでは「僭称せんしょう」(即位そくいみとめない)とされることがおおい。
  20. ^ けんわか上奏じょうそうきよしひろし著書ちょしょ容斎ようさい随筆ずいひつ』・『容斎ようさいぞくふで』のなかべている。
  21. ^ きたそうおう欽若へんしょさつもとかめ』。
  22. ^ 字彙じい》:「どうあきら」按《正字せいじどおり》:「からきさき自製じせいじゅう九字くじ以『瞾』ためめいあずかあきら音義おんぎどうしたがえあきらしたがえもくこうなまりため『曌』」《字彙じい改作かいさく「瞾」字彙じいまたさく「曌」なみ
  23. ^ 漢語かんごだい字典じてん》:「どうてんから武則たけのりてんしょづくり。」
  24. ^ たまへん》:「いにしえ前漢ぜんかんちょうたかしこくでん》:『れいとくこえにょう』」按《るいへんいいからきさきさくまたちょうあずかときまろうど退すさろく》:「たけきさき改易かいえき新字しんじ如以山水さんすいため千千ちじまんまんためねんえいしゅひさおうためしょう長正ながまさしゅためきよし。」
  25. ^ あつまりいん》:「入質にゅうしちきりどうせつぶん》:『じつ太陽たいようしらげしたがえいち象形しょうけいからきさきさく 。」
  26. ^ あつまりいん》:「さかな厥切おと『刖』あずかつきどうたけきさき所作しょさ。」
  27. ^ 字彙じい》:「あずかつきどう武則たけのりてんせい大周たいしゅう泰山たいざん
  28. ^ おうさんけいろんたけきさき新字しんじてき創製そうせいあずか興廢こうはいけんろん文字もじてきせいぞく問題もんだいなり大中だいなか文学ぶんがくほう・2005ねん12月、(13)。
  29. ^ しんとうしょ后妃こうひでんじょうのり天武てんむ皇后こうごうでん》:「はつなかまたとおる万象ばんしょう神宮じんぐう以太きよし文德ふみのり皇后こうごうはいすめらぎ地祇ちぎ引周忠孝ちゅうこうふとしきさきしたがえはいさく……、 、……、じゅうまたぶん。」
  30. ^ 字彙じい》:「からきさきしょせいきみ。」
  31. ^ 字彙じい》:「古文こぶんしん。」
  32. ^ 漢語かんごだい字典じてん》:「どう』、から武則たけのりてんしょづくり。」
  33. ^ しんとうしょ后妃こうひでんじょうのり天武てんむ皇后こうごうでん》:「はつなかまたとおる万象ばんしょう神宮じんぐう以太きよし文德ふみのり皇后こうごうはいすめらぎ地祇ちぎ、引周忠孝ちゅうこうふとしきさきしたがえはいさく……、𠧋、……、じゅうまたぶん。」
  34. ^ 字彙じい》:「武則たけのりてんしょせいはつ。」
  35. ^ ちょうあずかときまろうど退すさろく》:「たけきさき改易かいえき新字しんじ、如以山水さんすいため千千ちじまんまんためねんえいしゅひさおうためしょう長正ながまさしゅためひじり。」
  36. ^ あずかとしどう武則たけのりてんせい大周たいしゅう泰山たいざん
  37. ^ 字彙じい》:「たけきさきしょせいただし。」
  38. ^ あつまりいん》:「うけたまわのろいきりおと『授』づけまたせいせいえん」《字彙じい》:「からきさきあらため『授』さく𥢓 』。」
  39. ^ あつまりいん》:「授あるさく 』、からきさきあらため『授』さく 』。」
  40. ^ 金石かねいし文字もじべんこと》:「たけきさき改易かいえき新字しんじ以永ぬしひさおうためしょうまたちょうあずかときまろうど退すさろく》:「たけきさき改易かいえき新字しんじ如以山水さんすいため千千ちじまんまんためねんえいしゅひさおうためしょう長正ながまさしゅためきよし。」
  41. ^ あつまりいん》:「あかしからきさきさく 』。」
  42. ^ 字彙じい》:「武則たけのりてんしょせいきよし大周たいしゅう泰山たいざんまたちょうあずかときまろうど退すさろく》:「たけきさき改易かいえき新字しんじ如以山水さんすいため千千ちじまんまんためねんえいしゅひさおうためしょう長正ながまさしゅためきよし。」
  43. ^ たまへん》:「古文こぶんくにからきさき所作しょさ正字せいじどおり》:「からきさきゆうげんくにちゅうあるしゃ惑也請以『たけ』鎮之またゆうげんたけざい囗中あずかこまなにあやふくあらためため。」
  44. ^ 字彙じい》:「あずかひとどうからきさきせい。」
  45. ^ しんとうしょ后妃こうひでんじょうのり天武てんむ皇后こうごうでん》:「はつなかまたとおる万象ばんしょう神宮じんぐう以太きよし文德ふみのり皇后こうごうはいすめらぎ地祇ちぎ引周忠孝ちゅうこうふとしきさきしたがえはいさく……、 、……、じゅうまたぶん。」
  46. ^ 字彙じい》:「あずかようどう武則たけのりてんせい。」
  47. ^ せん和書わしょ卷一けんいち:「(たけきさき增減ぞうげん前人ぜんじん筆畫ひっかく自我じがさくいにしえためじゅう九字くじ、曰:…… 。」
  48. ^ 字彙じい》:「どうおうからきさきせい大周たいしゅう泰山たいざん
  49. ^ a b 西林にしばやし昭一しょういち P.85
  50. ^ U+9F91
  51. ^ U+4DAE
  52. ^ うみちぢみかげほん1999ねんはんえる。
  53. ^ のぼりせん太子たいしとは、しゅうれいおう太子たいしのことで、しろづるって昇天しょうてんしたとの伝説でんせつがある(西林にしばやし昭一しょういち P.85)。
  54. ^ 木村きむらぼくどう P.152
  55. ^ a b 田井だい南谷みなみだに P.192 - 193

その参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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