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朱子学 - Wikipedia

朱子学しゅしがく(しゅしがく)とは、みなみそうしゅ1130ねん-1200ねん)によって構築こうちくされた儒教じゅきょうあたらしい学問がくもん体系たいけい日本にっぽん使つかわれる用語ようごであり、中国ちゅうごくでは、しゅ熹がみずからの先駆せんくしゃ位置いちづけたきたそうほどわせてほどしゅまなぶほどしゅ理学りがく)・ほどしゅ学派がくはばれる。また、聖人せいじん道統どうとう継承けいしょう標榜ひょうぼうする学派がくはであることから、道学どうがくともばれる。

しゅ

きたそうみなみそう特徴とくちょうてき学問がくもんそうまなぶ総称そうしょうされ、朱子学しゅしがくはそのひとつである[1]。また、りくおう心学しんがくおなじく「」に依拠いきょして学説がくせつつくられていることから、これらを総称そうしょうしてそうあきら理学りがく理学りがく)ともぶ。

成立せいりつ背景はいけい

編集へんしゅう

とうそう時代じだいはいり、徐々じょじょ大夫たいふそう社会しゃかい進出しんしゅつした。かれらは科挙かきょ通過つうかするべく儒教じゅきょう経典きょうてん知識ちしきけた人々ひとびとであり、とくそうはいると学術がくじゅつ尊重そんちょう気風きふうつよまった[2]。そのような状況じょうきょうで、仏教ぶっきょう道教どうきょうへの対抗たいこう、またはその受容じゅよう儒教じゅきょうなか正統せいとう異端いたん分別ふんべつさかんになり、大夫たいふなかからあらたな思想しそう学問がくもんまれてきた。これが「そうまなぶ」であり、そのなかから朱子学しゅしがくまれた[3]

そうまなぶ朱子学しゅしがく先蹤せんしょう

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とうかんいよいよは、新興しんこう大夫たいふそう理想りそう主義しゅぎ体現たいげんした早期そうきれいで、そうがく源流げんりゅうひとつである[3]かれの『原道はらみち』には、ひとしよしみちとく重視じゅうし文明ぶんめい主義しゅぎ文化ぶんか主義しゅぎ立場たちば仏教ぶっきょう道教どうきょう批判ひはん道統どうとう継承けいしょうなど、そうまなぶ朱子学しゅしがく共通きょうつうする思想しそうすであらわれている[4]。また、かんいよいよ弟子でしの『ふくせいしょ』も、『えきけい』と『中庸ちゅうよう』に立脚りっきゃくしたもので、そうがく内容ないようそなえている[5]

きたそう儒学じゅがくしゃ

編集へんしゅう

そうがく最初さいしょ大師だいししゅうあつしであり、かれは『太極たいきょく』『太極たいきょく図説ずせつ』をあらわし、万物ばんぶつ生成せいせいを『えきけい』や陰陽いんようぎょう思想しそうもとづいて解説かいせつした。これは、しゅ熹の「」の理論りろん形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえた[6]さらに、かれの『つうしょ』には、そうがく全体ぜんたいのモチーフとなる「聖人せいじんまなんでいたるべし」(聖人せいじんまなぶことによってなりうる)の原型げんけい提示ていじされている[7]学習がくしゅうによって聖人せいじん到達とうたつ可能かのうであるとするかんがかたは『孟子もうし』をいだものであり、自分じぶんおさめて聖人せいじんちかづくということだけでなく、他者たしゃ聖人せいじんみちびくという方向ほうこうせいふくんでいた。これものちほどしゅ熹に継承けいしょうされる[8]

おなじくしゅ熹におおきな影響えいきょうあたえた学者がくしゃとして、「ほど」としょうされるほどほど兄弟きょうだいげられる。ほど顥は、万物ばんぶつ一体いったいひとし良知良能りょうちりょうのう思想しそうき、やや後世こうせい陽明学ようめいがくてきめんられる[9]一方いっぽうほど頤は、じんあい関係かんけいさい定義ていぎとおして、からだよう峻別しゅんべつき、「せいそく」を主張しゅちょうするなど、しゅ熹に決定的けっていてき影響えいきょうあたえる学説がくせつとなえた[10]さらに、ほど頤は学問がくもん重要じゅうよう方法ほうほうとして「窮理きゅうり知的ちてき追求ついきゅう)」と「きょけいせんいち集中しゅうちゅう状態じょうたい維持いじすること)」をいており、これものち朱子学しゅしがくおおきなはしらとなった[11]

また、「哲学てつがく」をいたちょうしゅ熹におおきな影響えいきょうあたえた。かれは「太虚たいきょ」たる宇宙うちゅうは、自己じこ運動うんどうからしょうずるものであり、そして調和ちょうわたもったところに「みち」があらわれるとかんがえた[12]。かつて、唯物ゆいぶつ史観しかん主流しゅりゅう時代じだいには、中国ちゅうごく学界がっかいではほど顥・しゅ熹の「せいそく」を客観きゃっかん唯心ゆいしんろんりく象山ぞうさんおう陽明ようめいの「こころそく」を主観しゅかん唯心ゆいしんろんちょうのちかれ思想しそう継承けいしょうしたおうおっとの「」の哲学てつがく唯物ゆいぶつろんとし、ちょう思想しそうたか評価ひょうかされた[13]

しゅ熹の登場とうじょう

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きたそうはしはっした道学どうがくは、みなみそうころには、大夫たいふあいだにすでに相当そうとう信奉しんぽうしゃていた[14]。ここでしゅ熹があらわれ、かれらの学問がくもん首尾しゅび一貫いっかんした体系たいけいあたえ、いわゆる「朱子学しゅしがく」が完成かんせいされた。しゅ熹の出現しゅつげんは、朱子学しゅしがく影響えいきょうするところがたん中国ちゅうごくのみにとどまらなかったというてんでも、ひがしアジア世界せかいにおける世界せかいてき事件じけんであった[14]

朱子学しゅしがく完成かんせいさせたしゅは、けんえん4ねん1130ねん)にみなみつるぎしゅうゆうけいけん山間さんかん地帯ちたいまれた。「朱子しゅし」というのは尊称そんしょう[14]。19さい科挙かきょ試験しけん合格ごうかくして進士しんしとなり、以後いご各地かくち転々てんてんとした[15]しゅ熹は、いぬいみち6ねん1170ねん)にちょうりょけんとともに「げん疑義ぎぎ」をあらわし、当時とうじ道学どうがく中心ちゅうしんてき存在そんざいであった湖南こなんまなぶたいして疑義ぎぎ表明ひょうめいすると、「東南とうなんさんけん」としてたっとばれ、みなみそう思想しそうかい勢力せいりょくひろげた[16]。しかし、ちょう栻・りょけん死去しきょすると、徐々じょじょしゅ熹を思想しそうめんにおいて批判ひはんするものあらわれた[16]。その一人ひとりちんあきらであり、なついんしゅうさんだいかんだい統治とうちをどのように理解りかいするかという問題もんだいをめぐって「義利よしとしおう論争ろんそう」が展開てんかいされた[17]

また、しゅ熹の論争ろんそう相手あいてとして著名ちょめいなのがりくきゅうふちであり、じゅん2ねん1175ねん)にりょけん仲介ちゅうかいによって両者りょうしゃ対面たいめんしておこなわれた学術がくじゅつ討論とうろんかい鵝湖のかい)では、「こころそく」の立場たちばりくきゅうふちと、「せいそく」の立場たちばしゅ熹が論争ろんそうひろげた[18]両者りょうしゃはそのもたびたび討論とうろんおこなったが、両者りょうしゃ政治せいじてきちか立場たちばにいた時期じきもあり、りく葬儀そうぎしゅ熹が門人もんじんひきいておとずれるなど、かならずしも対立たいりつしていたわけではない[19]

しゅ熹は、最後さいごには侍講じこうとなってやすしむね指導しどうたったが、かん侂冑にくまれわずか45にち免職めんしょくとなった[15]かん侂冑の一派いっぱは、朱子しゅしなど道学どうがくしゃたいする迫害はくがいつづけ、けいもと元年がんねん1195ねん)にはけいもととうきんこししゅ熹ら道学どうがく一派いっぱ追放ついほう著書ちょしょ発禁はっきん処分しょぶんとした[15]しゅ熹の死後しごむね時期じきになると、一転いってんしてしゅ熹は孔子こうしびょうしたがえまつされることとなり、国家こっかてき尊敬そんけい対象たいしょうとなった[20]

内容ないよう

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島田しまだけんは、朱子学しゅしがく内容ないようおおきく以下いかいつつに区分くぶんしている[21]

  1. 存在そんざいろん - 「」のせつ二元論にげんろん
  2. 倫理りんりがく人間にんげんがく - 「せいそく」のせつ
  3. 方法ほうほうろん - 「きょけい窮理きゅうり」のせつ
  4. 古典こてん注釈ちゅうしゃくがく著述ちょじゅつ - 『四書ししょしゅうちゅう』『詩集ししゅうでん』といった経書けいしょ注釈ちゅうしゃく、また歴史れきししょどおりかん綱目こうもく』や『ぶん公家くげれい』など。
  5. 具体ぐたいてき政策せいさくろん - 科挙かきょたいする意見いけんしゃくらほうすすむのうぶんなど。

せつ

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朱子学しゅしがくでは、おおよそ存在そんざいするものはすべて「」から構成こうせいされており、一気いっき陰陽いんようぎょう不断ふだん運動うんどうによって世界せかい生成せいせい変化へんかするとかんがえられる[22]凝集ぎょうしゅうするとものされ、解体かいたいするとに、ぶし変化へんか日月じつげつ移動いどう個体こたい生滅しょうめつなど、一切いっさい現象げんしょうとその変化へんかによってされる[23]

この「」の生成せいせい変化へんか根拠こんきょあたえるもの、筋道すじみちあたえるものが「」である。「」は、宇宙うちゅう万物ばんぶつ根拠こんきょあたえ、個別こべつ存在そんざい個別こべつ存在そんざいたらしめている[24]。「」は形而上けいじじょう存在そんざいであり、ちょう感覚かんかくてき物質ぶっしつてきなものとされる[25]

天下てんかもの、すなわちかならずおのおのしか所以ゆえんゆえと、とう(まさ)にしかるべきののりり、これいわゆるなり。 — 朱子しゅし、『大学だいがくあるとい

」は、あるべきようにあらしめる「当然とうぜんのり」と、その根拠こんきょあらわす「しか所以ゆえんゆえ」をっている[24]関係かんけいについて、しゅ熹はどちらがさきともえぬとし、両者りょうしゃはともに存在そんざいするものであるとする[24]

せいそく

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朱子学しゅしがくにおいてもっと重点じゅうてんがあるのが、倫理りんりがく人間にんげんがくであり、「せいそく」はその基礎きそである[26]。「せい」がすなわち「」にならず、人間にんげんせい本来ほんらいてきには天理てんりしたがう「ぜん」なるものである(性善説せいぜんせつ)というかんがかたである。

島田しまだけんは、せいかんするしょ概念がいねん以下いかのように整理せいりしている[27]

  • からだ - - 形而上けいじじょう - みち - 未発みはつ - なか - しず - せい
  • よう - - 形而下けいじか - うつわ - やめはつ - - どう - じょう

せい」は、ひとしよしれいさとししん五常ごじょうであるが、これは喜怒哀楽きどあいらくの「じょう」が発動はつどうするまえ未発みはつ状態じょうたいである[26]。これは気質きしつ干渉かんしょうけない純粋じゅんすい至善しぜんのものであり、ここに道徳どうとく根拠こんきょかれるのである[28]一方いっぽう、「じょう」はかならわるいものというわけではないが、気質きしつ干渉かんしょうけた動的どうてき状態じょうたいであり、中正ちゅうせいうしなあくながれる傾向けいこうをもつ[27]。ここで、ひとほっ気質きしつせい)にながれず、天理てんり本然ほんぜんせい)にしたがい、過不及かふきゅうのない「なか」の状態じょうたい維持いじすることを目標もくひょうとする[29]

きょけい窮理きゅうり

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朱子学しゅしがくにおける学問がくもん方法ほうほうとは、聖人せいじんになるための方法ほうほう、つまり天理てんりそんし、ひとよくはいするための方法ほうほうひとしい[30]。その方法ほうほうひとつは「きょけい」また「尊徳そんとくせい」つまり徳性とくせいとうとぶこと、もうひとつは「窮理きゅうり格物致知かくぶつちち)」また「みちといがく」つまり知的ちてき学問がくもん研究けんきゅうすすめることである[30]

しゅ熹が儒教じゅきょう修養しゅうようほうとして「きょけい窮理きゅうり」を重視じゅうしするのは、ほど顥の以下いか言葉ことばみちびかれたものである[31]

涵養かんようすべからくけいもちいうべし、進学しんがくのりち致知にり。 — ほど顥、『ほど遺書いしょだいじゅうはち

ここから、しゅ熹は経書けいしょ文脈ぶんみゃくからきょけい窮理きゅうりしゃ抽出ちゅうしゅつし、儒教じゅきょうてき修養しゅうようほう整理せいりした[32]三浦みうら國雄くにおは、このしゃ関係かんけいさとし天台てんだいしょう止観しかん』による「とめ」と「かん」の樹立じゅりつ関係かんけい相似そうじし、仏教ぶっきょう修養しゅうようほうとの共通きょうつうてんられる[32]

きょけい」とは、意識いしき高度こうど集中しゅうちゅう目指めざそんしんほうのこと[32]ただし、静坐せいざ坐禅ざぜんのように特定とくてい身体しんたい姿勢しせい拘束こうそくされるものではなく、むしろどうせい両方りょうほうにおいておこなわれる修養しゅうようほうである[33]。また、道教どうきょうにおける養生ようじょうほうとはことなり、やまい治癒ちゆ長生ちょうせい目的もくてきではなく、あくまでしん修養しゅうよう目的もくてきとしたものであった[34]

窮理きゅうり」とは、きわめること、『大学だいがく』でいう「格物致知かくぶつちち」のことで、事物じぶつをその究極きゅうきょくのところまできわいたろうとすることを [35]以下いかは、しゅ熹が「格物致知かくぶつちち」を解説かいせつした一段いちだんである。

いわゆる「致知ざいかくぶついたすはものかく(いた)るにり」とは、われいたさんとほっすれば、ものそくきてきゅうむるにるをう。けだ人心じんしんれいなる、らざるはなく、しかして天下てんかものらざるは莫(な)し。おもんみいていまきわめざるるがゆえに、くさざるり。もっ大学だいがくはじめのおしえは、かなら学者がくしゃをしておよ天下てんかものそくきて、すでれるのりてえきますこれきわめ、もっきょくいたるをもとめざること莫からしむ。 — しゅ熹、『大学だいがくだいしょうちゅう島田しまだ1967a、p.76

しゅ熹のこのせつは、もともとほど顥の影響えいきょうけたものであり[36]しゅ熹注の『大学だいがく』にされた「かくぶつでん」にくわしくしるされている[37]

儒教じゅきょうてき世界せかいかんなかすべてを説明せつめいする朱子学しゅしがく仏教ぶっきょう対立たいりつし、やがて中国ちゅうごくから仏教ぶっきょうてき色彩しきさいびたものの一掃いっそうこころみていくこととなる[38]

古典こてん注釈ちゅうしゃくがく著述ちょじゅつ

編集へんしゅう
 
四書ししょしゅうちゅう

しゅ熹やその弟子でしたちは、経書けいしょ注釈ちゅうしゃくす、または経書けいしょそのものを整理せいりするという方法ほうほうによって学問がくもん研究けんきゅうすすめ、自分じぶん意見いけん表明ひょうめいした。とくに、『れい』のなかいちへんであった「大学だいがく」「中庸ちゅうよう」を独自どくじ経典きょうてんとしてしたのはしゅ熹にはじまる[39]さらに、しゅ熹は『大学だいがく』のテキストを大幅おおはば改定かいていして「けい一章いっしょうと「つてじゅうしょう整理せいりし、脱落だつらくめるためにみずからの言葉ことばで「つて」をおぎなうこともあった[40][41]

そうがくにおいては孔子こうし継承けいしょうしゃとして孟子もうし非常ひじょう重視じゅうしされ、従来じゅうらい諸子しょしひゃくいえしょであった『孟子もうし』が、経書けいしょひとつとしての位置いちづけをることになった[42]。『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』『孟子もうし』に『論語ろんご』をくわえたよんしゅ経書けいしょが「四書ししょ」と総称そうしょうされ、しゅ熹はその注釈ちゅうしゃくしょとして『四書ししょしゅうちゅう』を制作せいさくした[41]。これにより、古典こてんがく中心ちゅうしん五経ごきょうから四書ししょへと移行いこうした[41]

具体ぐたいてき政策せいさくろん

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しゅ熹の思想しそうは、どう時代じだい諸派しょはなかでは急進きゅうしんてき革新かくしん思想しそうであり、その批判ひはん対象たいしょう高級こうきゅう官僚かんりょう皇帝こうていにもおよんだ[43]しゅ熹の現実げんじつ政治せいじへの提言ていげん非常ひじょうおおく、上奏じょうそうぶん数多かずおおのこされている[43]しゅ熹は、理想りそう帝王ていおうとしてのいにしえ聖王せいおう威光いこうりるかたちで、現実げんじつ皇帝こうてい叱咤しった激励げきれいした[44]。また、しゅ熹は地方ちほうかんとして熱心ねっしん仕事しごとたったことでもられ、飢饉ききん救済きゅうさいぜい軽減けいげんしゃくらほうといった社会しゃかい施設しせつ創設そうせつなどもおこなっている[45]

しゅ熹のせつ信奉しんぽうし、けいもととうきんのち朱子学しゅしがく再興さいこうちからくしたとくしゅうは、数々かずかず役職やくしょく歴任れきにんし、すうじゅう万言まんげん上奏じょうそうおこなうなど、積極せっきょくてき政治せいじ参加さんかしている[46]

その展開てんかい

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もとだい

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朱子学しゅしがくもとだいはいるころには南方なんぽうでは学問がくもん主流しゅりゅうとなり、もとりゅういんによって北方ほっぽうにもひろまった[47]。これにきよしくわえたさんにんもとさん大儒たいじゅばれる[48]もと衡のがくとくしゅうからがれたくま中国語ちゅうごくごばん全体ぜんたい大用おおゆう思想しそうけ、知識ちしき思索しさくめんよりも精神せいしん涵養かんよう重視じゅうしした[48]きよし朱子学しゅしがくきながらもりくがく称賛しょうさんし、しゅりくどう異論いろん端緒たんしょひらいた[48]

のべゆう元年がんねん(1314ねん)、元朝がんちょう中断ちゅうだんしていた科挙かきょ再開さいかいしたさい学科がっかとして「四書ししょ」をて、その注釈ちゅうしゃくとしてしゅ熹の『四書ししょしゅうちゅう』がもちいられた[47]。つまり、科挙かきょ準拠じゅんきょする経書けいしょ解釈かいしゃくとして朱子学しゅしがく国家こっか認定にんていされたのであり、これによって朱子学しゅしがく国家こっか教学きょうがくとしてその姿すがたえることになった[20]

明代あきよ初期しょき朱子学しゅしがくしゃであるそうしゅもとあきらのもとでれいがく制度せいど裁定さいていたずさわったほか、王子おうじたかしが『もと編纂へんさん統括とうかつたった。国家こっか教学きょうがくとなった朱子学しゅしがくは、わらず科挙かきょ採用さいようされ、国家こっかてき注釈ちゅうしゃくとして朱子学しゅしがくもとづいて『四書ししょ大全たいぜん』『五経ごきょう大全たいぜん』『せい大全たいぜん』が制作せいさくされた[49]

明代あきよ朱子学しゅしがく思想しそう発達はったつ端緒たんしょげられるのは薛瑄中国語ちゅうごくごばんあずか中国語ちゅうごくごばんである。ともにきよし傾向けいこうゆうし、朱子学しゅしがく博学はくがく致知のめんはやや希薄きはくになり、精神せいしん涵養かんようめん強調きょうちょうされた。とくあずか弼の門下もんかにはひねけんじあきら中国語ちゅうごくごばんて、りく象山ぞうさん心学しんがく共通きょうつうする思想しそう強調きょうちょう陽明学ようめいがく先駆せんくてき役割やくわりたしたため、あずか弼は「あかりがく」ともばれる[49]

薛瑄は純粋じゅんすい朱子学しゅしがく信奉しんぽうしゃで、二元論にげんろんふか理解りかいしていた。おなじくえびすきょひとし中国語ちゅうごくごばん朱子学しゅしがく信奉しんぽうし、とく仏教ぶっきょう道教どうきょうなどの異端いたん批判ひはんする議論ぎろん積極せっきょくてき展開てんかいした。陽明学ようめいがく勃興ぼっこうおなじくした朱子学しゅしがくしゃ欽順中国語ちゅうごくごばんであり、かれ陽明学ようめいがくはげしく批判ひはんし、その良知りょうちせつかくぶつせつおう陽明ようめいの「朱子しゅし晩年ばんねん定論ていろん」などに異論いろんとなえた[50]

あかりまつには、ひがしりんとう活動かつどうし、体得たいとく自認じにん気節きせつきよしつとめ、国内外こくないがい多難たなんたいしてきよしとなえて節義せつぎまっとうした[51]

しんだい

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しんだいはいると、朱子学しゅしがく陽明学ようめいがくから転換てんかんし、考証こうしょうがくばれる経書けいしょたいするテキスト考証こうしょう研究けんきゅうさかんになった。この原因げんいんについては、あきらまつ朱子学しゅしがく陽明学ようめいがく空虚くうきょ議論ぎろん終始しゅうししたことにたいする全面ぜんめんてき反発はんぱつせつ一般いっぱんてきで、そこに文字もじごく代表だいひょうされる清朝せいちょう知識ちしきじん弾圧だんあつくわわり、研究けんきゅうしゃ関心かんしん訓詁くんこ考証こうしょうがくかわざるをなかったとされる[52]

一方いっぽう中国ちゅうごく思想しそう研究けんきゅうしゃ英時ひでときは、考証こうしょうがく朱子学しゅしがく陽明学ようめいがくたいする反発はんぱつせつと、朱子学しゅしがく陽明学ようめいがく影響えいきょう考証こうしょうがくにもおよんでいるとせつがあることをべたうえで、そう以後いご儒学じゅがく当初とうしょからみこと徳性とくせいみちといがく両方向りょうほうこう不可分ふかぶんっていたのであり、考証こうしょうがくそうがく反対はんたいぶつではなく、そうがく考証こうしょうがく発展はってんしうる内在ないざいてき要因よういんがあったことと説明せつめいする[53]

京都工芸繊維大学きょうとこうげいせんいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ衣川きぬがわつよしは、むね以来いらい朱子学しゅしがく国家こっか教学きょうがくうごき(科挙かきょにおけるせつ排除はいじょなど)を中国ちゅうごく転機てんきとらえ、多様たようてき学説がくせつ思想しそう許容きょようされることで儒学じゅがくふくめたあたらしい学問がくもん思想しそうされて発展はってんしてきた中国ちゅうごく社会しゃかい朱子学しゅしがくによる事実じじつじょう思想しそう統制とうせい時代じだいはいることによって変質へんしつし、中国ちゅうごく社会しゃかい停滞ていたい、ひいてはゆるやかな弱体じゃくたい一因いちいんになったと指摘してきしている[20]

しんだい朱子学しゅしがくしゃとして、かん熙帝の儒臣をつとめたあきらひかり中国語ちゅうごくごばんきりじょう中国語ちゅうごくごばんほうひがしじゅ湖南こなんからかん中国語ちゅうごくごばんちょうよわい中国語ちゅうごくごばんさわみなみこくはん[54]がいる。

朝鮮半島ちょうせんはんとうへの影響えいきょう

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朱子学しゅしがくは13世紀せいきにはもと留学りゅうがくしたあんひろしによって朝鮮半島ちょうせんはんとうつたわり、朝鮮ちょうせん王朝おうちょう国家こっか統治とうち理念りねんとしてもちいられた。朝鮮ちょうせんはそれまでのこううらら国教こっきょうであった仏教ぶっきょうはいし、朱子学しゅしがく唯一ゆいいつ学問がくもん官学かんがく)とした。そのため朱子学しゅしがく今日きょうまで朝鮮ちょうせん文化ぶんかおおきな影響えいきょうあたえている。とく朝鮮ちょうせん時代じだい国家こっか教学きょうがくとして採用さいようされ、朱子学しゅしがく朝鮮ちょうせんじんあいだ根付ねついた[55]日常にちじょう生活せいかつ浸透しんとうした朱子学しゅしがく思想しそうてき基盤きばんとしたりょうはんは、知識ちしきじん道徳どうとくてき指導しどうしゃ輩出はいしゅつする身分みぶん階層かいそう発展はってんした。

こううらら末期まっきしろ頤正朝鮮ちょうせんばんひとしけん朝鮮ちょうせんばんていゆめしゅうていみちでんらがあんひろしあと継承けいしょうし、そのけんむららがたかし儒抑ぼとけ貢献こうけんした[56]朝鮮ちょうせん時代じだいはいると朝鮮ちょうせん朱子学しゅしがくはより一層いっそう発展はってんした。その初期しょきには、ろくしんなまろくしんちょうひかりなど、とく実践じっせん方向ほうこう政治せいじ文章ぶんしょうつうけいあかり)で展開てんかいし、徐々じょじょ形而上学けいじじょうがくてき根拠こんきょ確立かくりつ問題もんだい追求ついきゅうかうようになった[57]

16世紀せいきにはひろし退すさけい)・栗谷くりや)の大儒たいじゅしゃあらわれ、より朱子学しゅしがく議論ぎろんふかめられた。退すさけいは「しゅ」とばれ、徹底てっていした二元論にげんろんからみこと卑をとな[58]、その思想しそうのちみねみなみ地方ちほうがれた[59]一方いっぽう栗谷くりやは「しゅ」とされ、はつじょう立場たちばから一途いっとせつとな[60]、その思想しそう京畿けいき地方ちほうがれた[61]。のち、けんなおなつ門下もんかかんもとふるえが「人物じんぶつせいどうこと」の問題もんだいひと動物どうぶつなどのせいおなじかか)をめぐって論争ろんそうになり、しゅの「みずうみがく」としゅの「らくがく」のあいだみずうみらく論争ろんそうわされた[62]

朝鮮ちょうせん朱子学しゅしがく受容じゅよう特徴とくちょうとして、あさ500年間ねんかんにわたって、仏教ぶっきょうはもちろん、儒教じゅきょう一派いっぱである陽明学ようめいがくですら異端いたんとしてきびしく弾圧だんあつし、朱子学しゅしがくいちみことつらぬいたこと、また、しゅの「ぶん公家くげれい」(冠婚葬祭かんこんそうさい手引てびきしょ)を徹底的てっていてき制度せいどし、朝鮮ちょうせん古来こらいれいぞく仏教ぶっきょう儀礼ぎれいを儒式に改変かいへんするなど、朱子学しゅしがく研究けんきゅう中国ちゅうごくはじめそのくにれいないほどに精密せいみつきわめたことがげられる[55]。こうした朱子学しゅしがく純化じゅんか思想しそうへのたいせいのなさをまねき、それが朝鮮ちょうせん近代きんだいはばいち要因よういんとなったとする見方みかたもある[55]

琉球りゅうきゅうへの影響えいきょう

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17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいきにかけて活躍かつやくした詩人しじん儒学じゅがくしゃほどじゅんそくは、琉球りゅうきゅう王朝おうちょう時代じだい沖縄おきなわ最初さいしょ創設そうせつされた学校がっこうである明倫めいりんどう創設そうせつ建議けんぎおこなうなど、琉球りゅうきゅう学問がくもんおおきく貢献こうけんした。きよしとの通訳つうやくとしても活動かつどうし、『ろくさとし衍義』をかえって琉球りゅうきゅう頒布はんぷした。このしょ琉球りゅうきゅう日本にっぽんにも影響えいきょうあたえている。

沖縄おきなわ学者がくしゃ伊波いは普猷ふゆうは、朱子学しゅしがく弊害へいがいについて「りに沖縄おきなわじん扇子せんすかわりに日本にっぽんがたなあたえ、朱子学しゅしがくかわりに陽明学ようめいがくおしえたとしたら、どうであったろう。幾多いくた大塩おおしお中斎なかさい輩出はいしゅつして、琉球りゅうきゅう政府せいふ役人やくにんはしばしばこしかしたに相違そういない。」とべている[63]

日本にっぽんへの影響えいきょう

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朱子学しゅしがく日本にっぽん伝来でんらい

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土田つちた (2014)整理せいりしたがい、朱子学しゅしがく日本にっぽん伝来でんらいのうち初期しょきれい以下いかしめす。

  1. 年代ねんだいてきはやいものとしては、臨済宗りんざいしゅう栄西えいさいりつむねしゅん臨済宗りんざいしゅう円爾えんになどがみなみそう留学りゅうがくおおくの書物しょもつかえったことから、朱子学しゅしがく紹介しょうかいしゃとされる[64][注釈ちゅうしゃく 1]
  2. 南北なんぼくあさ時代じだいにはとらせき禅宗ぜんしゅう僧侶そうりょなかではいちはや道学どうがく論難ろんなんした。その門下もんかちゅういわおえんがつ道学どうがくたいする仏教ぶっきょう優位ゆういべる。また、どうしゅうしんは『四書ししょ』の価値かちしんちゅうちゅう相違そうい言及げんきゅうしている[64]
  3. 室町むろまち時代ときよ一条いちじょう兼良かねらの『せき往来おうらい』には、朝廷ちょうてい講義こうぎ道学どうがく解釈かいしゃくられはじめたことが記録きろくされている[64]
  4. 博士はかせでは、清原きよはらせんけん道学どうがく重視じゅうしした[64]

ほか、北畠きたばたけ親房ちかふさの『かみすめらぎ正統せいとう』や、楠木くすのき正成まさしげ出処しゅっしょ進退しんたいには朱子学しゅしがく影響えいきょうがあるとのせつもあるが、土田つちた (2014, p. 44-48)は慎重しんちょう姿勢しせいしめし、日本にっぽん思想しそうなかきたかたち朱子学しゅしがくんだ最初さいしょ人物じんぶつとしては、清原きよはらせんけん岐陽方秀かたひでとその門人もんじんげる[65]。また、室町むろまち時代じだいには朱子学しゅしがく地方ちほうにもひろまっており、桂庵けいあんげんじゅあかりへの留学りゅうがく応仁おうにんらんけて薩摩さつままでき、蔡沈の『しょしゅうでん』をもちいて講義こうぎをし、ここから薩南学派がくははじまった[66]。また、土佐とさでは南村なんそん梅軒ばいけん海南かいなん学派がくははじまった[66]

江戸えど時代じだい

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朱子学しゅしがく入門にゅうもんしょである『きんおもえろく』のこくほん寛永かんえい年間ねんかん活字かつじばん)。日本語にほんごでのおびただしいれが見受みうけられる。

江戸えど時代じだい朱子学しゅしがく嚆矢こうしとして、藤原ふじわら惺窩せいかげられる。室町むろまち時代じだいまで、日本にっぽん朱子学しゅしがく仏教ぶっきょう補助ほじょがくという位置いちにある場合ばあいおおかったが、かれ朱子学しゅしがく仏教ぶっきょうから独立どくりつさせようとした。実際じっさいにはかれ思想しそう純粋じゅんすい朱子学しゅしがくではなく、りくきゅうふち思想しそうはやしちょうおん解釈かいしゃくまじえており、しょ学派がくは融合ゆうごうてき方向ほうこうせいゆうしている[67]惺窩せいか以来いらい京都きょうとつたわった朱子学しゅしがくを「きょう学派がくは」とび、その一人ひとり木下きのしたじゅんあんがいる[68]。その門下もんかからは新井あらい白石はくせき室鳩巣むろきゅうそう祇園ぎおん南海なんかい雨森あめのもり芳洲ほうしゅうらが[68]詩文しぶん応酬おうしゅうおおられるのがきょう学派がくは特徴とくちょうで、思想家しそうかとして自己じこ主張しゅちょうおこなうというよりも、自身じしん教養きょうよう中核ちゅうかく朱子学しゅしがくがあり、文芸ぶんげい活動かつどうさかんであった[69]

また、山崎やまざき闇斎あんさいから、朱子学しゅしがく純粋じゅんすい理解りかい目指めざ学風がくふうはじまった。かれ仏教ぶっきょうたいする儒教じゅきょう特質とくしつを「三綱さんこう」と「五常ごじょう」にて、社会しゃかいてき倫理りんり規範きはん重視じゅうしした[70]闇斎あんさい学派がくはは「さきもん」とばれ、浅見あさみ絅斎けいさい佐藤さとう直方なおかた三宅みやけしょうときらがたが、闇斎あんさいのち神道しんとう傾斜けいしゃしたことによって主要しゅよう門弟もんてい齟齬そごしょうじ、おおくは破門はもんされた[71]。ただ、厳格げんかくさを特徴とくちょうとするこの学派がくは驚異きょういてき持続じぞくせいせ、明治めいじまで継続けいぞくした[72]

幕府ばくふつかえた朱子学しゅしがくしゃであるはやし羅山らざんは、将軍しょうぐんへの進講しんこう和文わぶん注釈ちゅうしゃくしょ作成さくせい学者がくしゃ育成いくせいなど、朱子学しゅしがくじくにした啓蒙けいもう活動かつどう積極せっきょくてきった[73]はやし羅山らざんはやし鵞峰おなじく啓蒙けいもうてき活動かつどうちかられ、儒家じゅか家元いえもととしての林家はやしや確立かくりつ尽力じんりょくした[74]

当初とうしょ朱子学しゅしがく信奉しんぽうしたが、のち転向てんこうはん朱子学しゅしがく主張しゅちょうるようになった学者がくしゃとして伊藤いとう仁斎じんさいがいる。仁斎じんさい朱子学しゅしがく陽明学ようめいがく仏教ぶっきょう受容じゅようしたうえで、それらを否定ひていし、日常にちじょう道徳どうとく独立どくりつして成立せいりつする根拠こんきょ究明きゅうめいした[75]。そして、仁斎じんさいがく朱子学しゅしがくをまとめて批判ひはんすることで自分じぶん立場たちば鮮明せんめいにしたのが荻生おぎゅう徂徠そらいである[76]徂徠そらいは、しゅ熹『論語ろんごしゅうちゅう』と仁斎じんさい論語ろんご』を批判ひはんしながら、自己じこ主張しゅちょう展開てんかいし、『論語ろんごちょう』をあらわした[76]

山崎やまざき闇斎あんさいらの朱子学しゅしがく純粋じゅんすいもとめる思想しそうと、伊藤いとう仁斎じんさいらのはん朱子学しゅしがくてき思想しそう形成けいせいはほぼどう時期じきである[77]土田つちた (2014, pp. 96–97)は、朱子学しゅしがくがあったからこそ思想しそう表現ひょうげん可能かのうになったはん朱子学しゅしがく登場とうじょうしたのであり、朱子学しゅしがくはん朱子学しゅしがく議論ぎろん土台どだい形成けいせいされたことが、江戸えど時代じだい思想しそう形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえたとべている。たとえば、はん朱子学しゅしがく主張しゅちょうした伊藤いとう仁斎じんさいは、自分じぶん主張しゅちょう理論りろんするさいには朱子学しゅしがく問題もんだい意識いしき思想しそう用語ようご利用りようし、朱子学しゅしがくとの対比たいひから自分じぶん思想しそう確立かくりつした[75]

松平まつだいら定信さだのぶは、1790ねん寛政かんせい2ねん)に寛政かんせいことがくきんはっしたが、この時期じきおおくのはん藩校はんこうげる時期じきたり、各地かくち幕府ばくふならって朱子学しゅしがく採用さいようする傾向けいこう促進そくしんした[78]。このころ学者がくしゃとしては、尾藤びとう二洲にしゅう古賀こが精里せいり柴野しばの栗山りつざんら「寛政かんせいさん博士はかせ」のほか、はやしじゅつときよりゆき春水しゅんすいかん茶山ちゃやま西山にしやまつたなときらがいる[79]二洲にしゅうつたなときふくめ、この時期じきには徂徠そらいがくから朱子学しゅしがくぎゃく転向てんこうしてくる学者がくしゃおおかった[79][80]

明治めいじ時代じだい

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朱子学しゅしがく思想しそうは、近代きんだい日本にっぽんにも影響えいきょうあたえたとされる。「学制がくせい」が制定せいていされた当時とうじ教科きょうか中心ちゅうしんであった儒教じゅきょうはいされ、西洋せいよう知識ちしき技術ぎじゅつ習得しゅうとく中心ちゅうしんとなった。その明治めいじ政府せいふ自由じゆう民権みんけん運動うんどうたかまりを危惧きぐし、それまでの西洋せいよう知識ちしき技術ぎじゅつ習得しゅうとく重視じゅうしするながれから、仁義じんぎ忠孝ちゅうこうかくとした方針ほうしん転換てんかんした。1879ねんの「教学きょうがく聖旨せいし」、1882ねんようがく綱要こうよう」につづき、1890ねん明治めいじ23ねん)、山縣やまがた有朋ありとも内閣ないかくのもと、『教育きょういく勅語ちょくご』が下賜かしされた。明治天皇めいじてんのう側近そっきん儒学じゅがくしゃである元田もとだえいまこと助力じょりょくがあったことから、『教育きょういく勅語ちょくご』には儒教じゅきょう朱子学しゅしがく五倫ごりん影響えいきょうられる[81]

また、1882ねん明治めいじ15ねん)に明治天皇めいじてんのうからみことのりさとされた『軍人ぐんじんみことのりさとし』にも儒教じゅきょう影響えいきょうられる。『軍人ぐんじんみことのりさとし』には忠節ちゅうせつ礼儀れいぎたけいさむ信義しんぎ質素しっその5かじょう解説かいせつがあり、これらは儒教じゅきょう朱子学しゅしがくにおける五常ごじょうろん影響えいきょうられる。この「軍人ぐんじんみことのりさとし」は、1941ねん昭和しょうわ16ねん)に発布はっぷされた『戦陣せんじんくん』にもつよ影響えいきょうあたえ、だい世界せかい大戦たいせんぜん軍隊ぐんたい行動こうどうおおきく影響えいきょうあたえた[81]

後世こうせい評価ひょうか

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日本にっぽん思想しそう研究けんきゅうしゃ丸山まるやま眞男まさおは、徳川とくがわ政権せいけん適合てきごうした朱子学しゅしがくてき思惟しい解体かいたいしていく過程かていに、日本にっぽん近代きんだいてき思惟しいへのみち見出みいだした[82]ただし、この見解けんかいには批判ひはんせられており、すくなくとも江戸えど時代じだい朱子学しゅしがく人口じんこう徐々じょじょ増加ぞうかする傾向けいこうにあり、儒学じゅがく教育きょういく基礎きそづくりとしての朱子学しゅしがく役割やくわりわらずおおきかった[82]江戸えど時代じだいには『四書ししょ』また『四書ししょしゅうちゅう』、『きんおもえろく』といった朱子学しゅしがく関連かんれん書籍しょせき数多かずおお出版しゅっぱんされてよくまれ、朱子学しゅしがく江戸えど時代じだい基礎きそ教養きょうようという役割やくわりになっていた[83]

基本きほん文献ぶんけん

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四書ししょしゅうちゅう
しゅが『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』『孟子もうし』『論語ろんご』の「四書ししょ」にたいして制作せいさくした注釈ちゅうしゃくしょ[41]。『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』には「あるとい」がされており、とくに『大学だいがくあるとい』は朱子学しゅしがくのエッセンスをつたえるものとされる[84]
きんおもえろく
きたそうよん発言はつげんをテーマべつ抜粋ばっすいしたもの。しゅ熹・りょけん共編きょうへん[85]しゅ熹は、本書ほんしょ四書ししょさい入門にゅうもんしょであるとい、日本にっぽんでも『じゅうはちりゃく』や『唐詩とうしせん』とならんでインテリの必読ひつどくしょとして普及ふきゅうした[86]。のちにそうさいきよしちがやぼしらいこうひさしらによって注釈ちゅうしゃくつくられた[86]
らく淵源えんげんろく
しゅ熹編。らくほどのこと)の学問がくもん由来ゆらいあきらかにするために、しゅうあつしほどほど邵雍ちょうやその弟子でしたちの事跡じせき墓誌ぼしめい遺書いしょ逸話いつわなどをあつめたほん[87]
周子かねこ全書ぜんしょ
あかりじょ必達がしゅうあつし頤の著作ちょさくあつめたもの。しゅうあつし頤の著作ちょさくはほとんどのこされていないが、『太極たいきょく』『太極たいきょく図説ずせつ』『つうしょ』にたいしてしゅ熹が「かい」をつけたものがのこされており、これらが収録しゅうろくされている[87]
河南かなんほど遺書いしょ
しゅ熹がほど顥・ほど頤の発言はつげん整理せいりしたもの、くわえて『ほどがいしょ』もある[85]。ほか、『明道みょうどう先生せんせい文集ぶんしゅう』『伊川いがわ先生せんせい文集ぶんしゅう』『しゅうえきほどでん』『けいせつ』、そして楊時へんほどいきげん』もあり、これらをまとめて『ほど全書ぜんしょ』という[88]ほど発言はつげんは、どれがどちらのものか混乱こんらんしょうじている場合ばあいがあり、注意ちゅうい必要ひつようである[88]
しゅうえき本義ほんぎ
しゅ熹による『えきけい』にたいする注釈ちゅうしゃくえきすうかんする研究けんきゅうしょの『易学えきがく啓蒙けいもう』もある(蔡元じょうとの共著きょうちょ[85]
しょしゅうでん
しょけい』の注釈ちゅうしゃくだが、しゅ熹の生前せいぜん完成かんせいせず、弟子でし蔡沈によって完成かんせいした[85]
詩集ししゅうでん
しゅ熹による『詩経しきょう』にたいする注釈ちゅうしゃく[85]
儀礼ぎれい経伝けいでんどおりかい
れい」にかんする体系たいけいてき編纂へんさんしょで、しゅ熹の没後ぼつごにも継続けいぞくして編纂へんさんされた。より具体ぐたいてき冠婚葬祭かんこんそうさい手順てじゅん明示めいじする『いえれいぶん公家くげれい)』もある[85]
『五朝名臣言行録』
しゅ熹が、きたそう朝廷ちょうていになっためいしんたちの言動げんどう検証けんしょうする歴史れきししょ。ほか、『三朝みささめいしん言行げんこうろく』『八朝名臣言行録』もある[85]
どおりかん綱目こうもく
司馬しばひかりどおりかん』をしゅ熹がさい検証けんしょうした歴史れきししょ[85]
西銘にしめかい
ちょうの『西銘にしめ』にたいしてしゅ熹が注釈ちゅうしゃくをつけたもの。
朱子しゅしるい
しゅ熹とその門人もんじんわした座談ざだん筆記ひっきしゅう門人もんじんべつのノートがはじむやすしとくによって集大成しゅうたいせいされ、テーマべつさい編成へんせいされた。当時とうじ俗語ぞくごおおられ、言語げんご資料しりょうとしても価値かちたか[89]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 四書ししょしゅうちゅう』『五経ごきょうしゅうちゅう』などしんちゅうは、鎌倉かまくら時代じだい末期まっきもとからの渡来とらいそういち山一やまいちやすしによりつたえられている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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たんちょ

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雑誌ざっし論文ろんぶん

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    • 宇野うの茂彦しげひこ四書ししょしゅうちゅう」『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん、169ぺーじ 
    • 串田くしだ久治きゅうじ詩集ししゅうでん」『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん、168ぺーじ 
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    • 西にしじゅんぞうそうまなぶ」『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん、261-262ぺーじ 
    • 野村のむら茂夫しげおしょしゅうでん」『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん、221ぺーじ 
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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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