唐 とう ・宋 そう の時代 じだい に入 はい り、徐々 じょじょ に士 し 大夫 たいふ 層 そう が社会 しゃかい に進出 しんしゅつ した。彼 かれ らは科挙 かきょ を通過 つうか するべく儒教 じゅきょう 経典 きょうてん の知識 ちしき を身 み に着 つ けた人々 ひとびと であり、特 とく に宋 そう に入 はい ると学術 がくじゅつ 尊重 そんちょう の気風 きふう が強 つよ まった。そのような状況 じょうきょう 下 か で、仏教 ぶっきょう ・道教 どうきょう への対抗 たいこう 、またはその受容 じゅよう 、儒教 じゅきょう の中 なか の正統 せいとう と異端 いたん の分別 ふんべつ が盛 さか んになり、士 し 大夫 たいふ の中 なか から新 あら たな思想 しそう ・学問 がくもん が生 う まれてきた。これが「宋 そう 学 まなぶ 」であり、その中 なか から朱子学 しゅしがく が生 う まれた。
唐 とう の韓 かん 愈 いよいよ は、新興 しんこう の士 し 大夫 たいふ 層 そう の理想 りそう 主義 しゅぎ を体現 たいげん した早期 そうき の例 れい で、宋 そう 学 がく の源流 げんりゅう の一 ひと つである。彼 かれ の『原道 はらみち 』には、仁 ひとし ・義 よし ・道 みち ・徳 とく の重視 じゅうし 、文明 ぶんめい 主義 しゅぎ ・文化 ぶんか 主義 しゅぎ の立場 たちば 、仏教 ぶっきょう ・道教 どうきょう の批判 ひはん 、道統 どうとう の継承 けいしょう など、宋 そう 学 まなぶ ・朱子学 しゅしがく と共通 きょうつう する思想 しそう が既 すで に現 あらわ れている。また、韓 かん 愈 いよいよ の弟子 でし の李 り 翺 の『復 ふく 性 せい 書 しょ 』も、『易 えき 経 けい 』と『中庸 ちゅうよう 』に立脚 りっきゃく したもので、宋 そう 学 がく に似 に た内容 ないよう を備 そな えている。
宋 そう 学 がく の最初 さいしょ の大師 だいし は周 しゅう 敦 あつし 頤 であり、彼 かれ は『太極 たいきょく 図 ず 』『太極 たいきょく 図説 ずせつ 』を著 あらわ し、万物 ばんぶつ の生成 せいせい を『易 えき 経 けい 』や陰陽 いんよう 五 ご 行 ぎょう 思想 しそう に基 もと づいて解説 かいせつ した。これは、朱 しゅ 熹の「理 り 」の理論 りろん の形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。更 さら に、彼 かれ の『通 つう 書 しょ 』には、宋 そう 学 がく 全体 ぜんたい のモチーフとなる「聖人 せいじん 学 まな んで至 いた るべし 」(聖人 せいじん は学 まな ぶことによってなりうる)の原型 げんけい が提示 ていじ されている。学習 がくしゅう によって聖人 せいじん に到達 とうたつ 可能 かのう であるとする考 かんが え方 かた は『孟子 もうし 』を引 ひ き継 つ いだものであり、自分 じぶん が身 み を修 おさ めて聖人 せいじん に近 ちか づくということだけでなく、他者 たしゃ を聖人 せいじん に導 みちび くという方向 ほうこう 性 せい を含 ふく んでいた。これも後 のち に程 ほど 頤 ・朱 しゅ 熹に継承 けいしょう される。
同 おな じく朱 しゅ 熹に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた学者 がくしゃ として、「二 に 程 ほど 子 こ 」と称 しょう される程 ほど 顥 ・程 ほど 頤兄弟 きょうだい が挙 あ げられる。程 ほど 顥は、万物 ばんぶつ 一体 いったい の仁 ひとし ・良知良能 りょうちりょうのう の思想 しそう を説 と き、やや後世 こうせい の陽明学 ようめいがく 的 てき な面 めん も見 み られる。一方 いっぽう 、程 ほど 頤は、仁 じん と愛 あい の関係 かんけい の再 さい 定義 ていぎ を通 とお して、体 からだ と用 よう の峻別 しゅんべつ を説 と き、「性 せい 即 そく 理 り 」を主張 しゅちょう するなど、朱 しゅ 熹に決定的 けっていてき な影響 えいきょう を与 あた える学説 がくせつ を唱 とな えた。更 さら に、程 ほど 頤は学問 がくもん の重要 じゅうよう な方法 ほうほう として「窮理 きゅうり (理 り の知的 ちてき な追求 ついきゅう )」と「居 きょ 敬 けい (専 せん 一 いち 集中 しゅうちゅう の状態 じょうたい に維持 いじ すること)」を説 と いており、これも後 のち に朱子学 しゅしがく の大 おお きな柱 はしら となった。
また、「気 き の哲学 てつがく 」を説 と いた張 ちょう 載 の も朱 しゅ 熹に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。彼 かれ は「太虚 たいきょ 」たる宇宙 うちゅう は、気 き の自己 じこ 運動 うんどう から生 しょう ずるものであり、そして気 き が調和 ちょうわ を保 たも ったところに「道 みち 」が現 あらわ れると考 かんが えた。かつて、唯物 ゆいぶつ 史観 しかん が主流 しゅりゅう の時代 じだい には、中国 ちゅうごく の学界 がっかい では程 ほど 顥・朱 しゅ 熹の「性 せい 即 そく 理 り 」を客観 きゃっかん 唯心 ゆいしん 論 ろん 、陸 りく 象山 ぞうさん ・王 おう 陽明 ようめい の「心 こころ 即 そく 理 り 」を主観 しゅかん 唯心 ゆいしん 論 ろん 、張 ちょう 載 の と後 のち に彼 かれ の思想 しそう を継承 けいしょう した王 おう 夫 おっと 之 の の「気 き 」の哲学 てつがく を唯物 ゆいぶつ 論 ろん とし、張 ちょう 載 の の思想 しそう は高 たか く評価 ひょうか された。
北 きた 宋 そう に端 はし を発 はっ した道学 どうがく は、南 みなみ 宋 そう の頃 ころ には、士 し 大夫 たいふ の間 あいだ にすでに相当 そうとう の信奉 しんぽう 者 しゃ を得 え ていた。ここで朱 しゅ 熹が現 あらわ れ、彼 かれ らの学問 がくもん に首尾 しゅび 一貫 いっかん した体系 たいけい を与 あた え、いわゆる「朱子学 しゅしがく 」が完成 かんせい された。朱 しゅ 熹の出現 しゅつげん は、朱子学 しゅしがく の影響 えいきょう するところが単 たん に中国 ちゅうごく のみにとどまらなかったという点 てん でも、東 ひがし アジア世界 せかい における世界 せかい 的 てき 事件 じけん であった。
朱子学 しゅしがく を完成 かんせい させた朱 しゅ 熹 は、建 けん 炎 えん 4年 ねん (1130年 ねん )に南 みなみ 剣 つるぎ 州 しゅう 尤 ゆう 渓 けい 県 けん の山間 さんかん 地帯 ちたい で生 う まれた。「朱子 しゅし 」というのは尊称 そんしょう 。19歳 さい で科挙 かきょ 試験 しけん に合格 ごうかく して進士 しんし となり、以後 いご 各地 かくち を転々 てんてん とした。朱 しゅ 熹は、乾 いぬい 道 みち 6年 ねん (1170年 ねん )に張 ちょう 栻 ・呂 りょ 祖 そ 謙 けん とともに「知 ち 言 げん 疑義 ぎぎ 」を著 あらわ し、当時 とうじ の道学 どうがく の中心 ちゅうしん 的 てき 存在 そんざい であった湖南 こなん 学 まなぶ に対 たい して疑義 ぎぎ を表明 ひょうめい すると、「東南 とうなん の三 さん 賢 けん 」として尊 たっと ばれ、南 みなみ 宋 そう の思想 しそう 界 かい で勢力 せいりょく を広 ひろ げた。しかし、張 ちょう 栻・呂 りょ 祖 そ 謙 けん が死去 しきょ すると、徐々 じょじょ に朱 しゅ 熹を思想 しそう 面 めん において批判 ひはん する者 もの が現 あらわ れた。その一人 ひとり は陳 ちん 亮 あきら であり、夏 なつ 殷 いん 周 しゅう 三 さん 代 だい ・漢 かん 代 だい の統治 とうち をどのように理解 りかい するかという問題 もんだい をめぐって「義利 よしとし ・王 おう 覇 は 論争 ろんそう 」が展開 てんかい された。
また、朱 しゅ 熹の論争 ろんそう 相手 あいて として著名 ちょめい なのが陸 りく 九 きゅう 淵 ふち であり、淳 じゅん 熙 2年 ねん (1175年 ねん )に呂 りょ 祖 そ 謙 けん の仲介 ちゅうかい によって両者 りょうしゃ が対面 たいめん して行 おこな われた学術 がくじゅつ 討論 とうろん 会 かい (鵝湖の会 かい )では、「心 こころ 即 そく 理 り 」の立場 たちば の陸 りく 九 きゅう 淵 ふち と、「性 せい 即 そく 理 り 」の立場 たちば の朱 しゅ 熹が論争 ろんそう を繰 く り広 ひろ げた。両者 りょうしゃ はその後 ご もたびたび討論 とうろん を行 おこな ったが、両者 りょうしゃ は政治 せいじ 的 てき に近 ちか い立場 たちば にいた時期 じき もあり、陸 りく 氏 し の葬儀 そうぎ に朱 しゅ 熹が門人 もんじん を率 ひき いて訪 おとず れるなど、必 かなら ずしも対立 たいりつ していたわけではない。
朱 しゅ 熹は、最後 さいご には侍講 じこう となって寧 やすし 宗 むね の指導 しどう に当 あ たったが、韓 かん 侂冑 に憎 にく まれわずか45日 にち で免職 めんしょく となった。韓 かん 侂冑の一派 いっぱ は、朱子 しゅし など道学 どうがく 者 しゃ に対 たい する迫害 はくがい を続 つづ け、慶 けい 元 もと 元年 がんねん (1195年 ねん )には慶 けい 元 もと 党 とう 禁 きん を起 お こし朱 しゅ 熹ら道学 どうがく 一派 いっぱ を追放 ついほう 、著書 ちょしょ を発禁 はっきん 処分 しょぶん とした。朱 しゅ 熹の死後 しご 、理 り 宗 むね の時期 じき になると、一転 いってん して朱 しゅ 熹は孔子 こうし 廟 びょう に従 したがえ 祀 まつ されることとなり、国家 こっか 的 てき な尊敬 そんけい の対象 たいしょう となった。
島田 しまだ 虔 けん 次 じ は、朱子学 しゅしがく の内容 ないよう を大 おお きく以下 いか の五 いつ つに区分 くぶん している。
存在 そんざい 論 ろん - 「理 り 気 き 」の説 せつ (理 り 気 き 二元論 にげんろん )
倫理 りんり 学 がく ・人間 にんげん 学 がく - 「性 せい 即 そく 理 り 」の説 せつ
方法 ほうほう 論 ろん - 「居 きょ 敬 けい ・窮理 きゅうり 」の説 せつ
古典 こてん 注釈 ちゅうしゃく 学 がく ・著述 ちょじゅつ - 『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』『詩集 ししゅう 伝 でん 』といった経書 けいしょ 注釈 ちゅうしゃく 、また歴史 れきし 書 しょ 『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 綱目 こうもく 』や『文 ぶん 公家 くげ 礼 れい 』など。
具体 ぐたい 的 てき な政策 せいさく 論 ろん - 科挙 かきょ に対 たい する意見 いけん 、社 しゃ 倉 くら 法 ほう 、勧 すすむ 農 のう 文 ぶん など。
朱子学 しゅしがく では、おおよそ存在 そんざい するものは全 すべ て「気 き 」から構成 こうせい されており、一気 いっき ・陰陽 いんよう ・五 ご 行 ぎょう の不断 ふだん の運動 うんどう によって世界 せかい は生成 せいせい 変化 へんか すると考 かんが えられる。気 き が凝集 ぎょうしゅう すると物 もの が生 う み出 だ され、解体 かいたい すると死 し に、季 き 節 ぶし の変化 へんか 、日月 じつげつ の移動 いどう 、個体 こたい の生滅 しょうめつ など、一切 いっさい の現象 げんしょう とその変化 へんか は気 き によって生 う み出 だ される。
この「気 き 」の生成 せいせい 変化 へんか に根拠 こんきょ を与 あた えるもの、筋道 すじみち を与 あた えるものが「理 り 」である。「理 り 」は、宇宙 うちゅう ・万物 ばんぶつ の根拠 こんきょ を与 あた え、個別 こべつ の存在 そんざい を個別 こべつ の存在 そんざい たらしめている。「理 り 」は形而上 けいじじょう の存在 そんざい であり、超 ちょう 感覚 かんかく 的 てき ・非 ひ 物質 ぶっしつ 的 てき なものとされる。
天下 てんか の物 もの 、すなわち必 かなら ずおのおの然 しか る所以 ゆえん の故 ゆえ と、其 そ の当 とう (まさ)に然 しか るべきの則 のり と有 あ り、これいわゆる理 り なり。 — 朱子 しゅし 、『大学 だいがく 或 ある 問 とい 』
「理 り 」は、あるべきようにあらしめる「当然 とうぜん の則 のり 」と、その根拠 こんきょ を表 あらわ す「然 しか る所以 ゆえん の故 ゆえ 」を持 も っている。理 り と気 き の関係 かんけい について、朱 しゅ 熹はどちらが先 さき とも言 い えぬとし、両者 りょうしゃ はともに存在 そんざい するものであるとする。
朱子学 しゅしがく において最 もっと も重点 じゅうてん があるのが、倫理 りんり 学 がく ・人間 にんげん 学 がく であり、「性 せい 即 そく 理 り 」はその基礎 きそ である。「性 せい 」がすなわち「理 り 」に他 た ならず、人間 にんげん の性 せい が本来 ほんらい 的 てき には天理 てんり に従 したが う「善 ぜん 」なるものである(性善説 せいぜんせつ )という考 かんが え方 かた である。
島田 しまだ 虔 けん 次 じ は、性 せい と理 り に関 かん する諸 しょ 概念 がいねん を以下 いか のように整理 せいり している。
体 からだ - 理 り - 形而上 けいじじょう - 道 みち - 未発 みはつ - 中 なか - 静 しず - 性 せい
用 よう - 気 き - 形而下 けいじか - 器 うつわ - 已 やめ 発 はつ - 和 わ - 動 どう - 情 じょう
「性 せい 」は、仁 ひとし ・義 よし ・礼 れい ・智 さとし ・信 しん の五常 ごじょう であるが、これは喜怒哀楽 きどあいらく の「情 じょう 」が発動 はつどう する前 まえ の未発 みはつ の状態 じょうたい である。これは気質 きしつ の干渉 かんしょう を受 う けない純粋 じゅんすい 至善 しぜん のものであり、ここに道徳 どうとく の根拠 こんきょ が置 お かれるのである。一方 いっぽう 、「情 じょう 」は必 かなら ず悪 わる いものというわけではないが、気質 きしつ の干渉 かんしょう を受 う けた動的 どうてき 状態 じょうたい であり、中正 ちゅうせい を失 うしな い悪 あく に流 なが れる傾向 けいこう をもつ。ここで、人 ひと 欲 ほっ (気質 きしつ の性 せい )に流 なが れず、天理 てんり (本然 ほんぜん の性 せい )に従 したが い、過不及 かふきゅう のない「中 なか 」の状態 じょうたい を維持 いじ することを目標 もくひょう とする。
朱子学 しゅしがく における学問 がくもん の方法 ほうほう とは、聖人 せいじん になるための方法 ほうほう 、つまり天理 てんり を存 そん し、人 ひと 欲 よく を排 はい するための方法 ほうほう に等 ひと しい。その方法 ほうほう の一 ひと つは「居 きょ 敬 けい 」また「尊徳 そんとく 性 せい 」つまり徳性 とくせい を尊 とうと ぶこと、もう一 ひと つは「窮理 きゅうり (格物致知 かくぶつちち )」また「道 みち 問 とい 学 がく 」つまり知的 ちてき な学問 がくもん 研究 けんきゅう を進 すす めることである。
朱 しゅ 熹が儒教 じゅきょう の修養 しゅうよう 法 ほう として「居 きょ 敬 けい ・窮理 きゅうり 」を重視 じゅうし するのは、程 ほど 顥の以下 いか の言葉 ことば に導 みちび かれたものである。
涵養 かんよう は須 すべか らく敬 けい を用 もちい うべし、進学 しんがく は則 のり ち致知に在 あ り。 — 程 ほど 顥、『程 ほど 氏 し 遺書 いしょ 』第 だい 十 じゅう 八 はち
ここから、朱 しゅ 熹は経書 けいしょ の文脈 ぶんみゃく から居 きょ 敬 けい ・窮理 きゅうり の二 に 者 しゃ を抽出 ちゅうしゅつ し、儒教 じゅきょう 的 てき 修養 しゅうよう 法 ほう を整理 せいり した。三浦 みうら 國雄 くにお は、この二 に 者 しゃ の関係 かんけい は智 さとし 顗 『天台 てんだい 小 しょう 止観 しかん 』による「止 とめ 」と「観 かん 」の樹立 じゅりつ の関係 かんけい に相似 そうじ し、仏教 ぶっきょう の修養 しゅうよう 法 ほう との共通 きょうつう 点 てん が見 み られる。
「居 きょ 敬 けい 」とは、意識 いしき の高度 こうど な集中 しゅうちゅう を目指 めざ す存 そん 心 しん の法 ほう のこと。但 ただ し、静坐 せいざ や坐禅 ざぜん のように特定 とくてい の身体 しんたい 姿勢 しせい に拘束 こうそく されるものではなく、むしろ動 どう ・静 せい の場 ば の両方 りょうほう において行 おこな われる修養 しゅうよう 法 ほう である。また、道教 どうきょう における養生 ようじょう 法 ほう とは異 こと なり、病 やまい の治癒 ちゆ や長生 ちょうせい は目的 もくてき ではなく、あくまで心 しん の修養 しゅうよう を目的 もくてき としたものであった。
「窮理 きゅうり 」とは、理 り を窮 きわ めること、『大学 だいがく 』でいう「格物致知 かくぶつちち 」のことで、事物 じぶつ の理 り をその究極 きゅうきょく のところまで極 きわ め至 いた ろうとすることを
指 さ す。以下 いか は、朱 しゅ 熹が「格物致知 かくぶつちち 」を解説 かいせつ した一段 いちだん である。
いわゆる「致知在 ざい 格 かく 物 ぶつ (知 ち を致 いた すは物 もの に格 かく (いた)るに在 あ り」とは、吾 われ の知 ち を致 いた さんと欲 ほっ すれば、物 もの に即 そく きて其 そ の理 り を窮 きゅう むるに在 あ るを言 い う。蓋 けだ し人心 じんしん の霊 れい なる、知 ち 有 あ らざるはなく、而 しか して天下 てんか の物 もの 、理 り 有 あ らざるは莫(な)し。惟 おもんみ だ理 り に於 お いて未 いま だ窮 きわ めざる有 あ るが故 ゆえ に、其 そ の知 ち も尽 つ くさざる有 あ り。是 ぜ を以 もっ て大学 だいがく の始 はじ めの教 おし えは、必 かなら ず学者 がくしゃ をして凡 およ そ天下 てんか の物 もの に即 そく きて、其 そ の已 すで に知 し れるの理 り に因 よ りて益 えき ます之 これ を窮 きわ め、以 もっ て其 そ の極 きょく に至 いた るを求 もと めざること莫からしむ。 — 朱 しゅ 熹、『大学 だいがく 』第 だい 五 ご 章 しょう ・注 ちゅう 、島田 しまだ 1967a、p.76
朱 しゅ 熹のこの説 せつ は、もともと程 ほど 顥の影響 えいきょう を受 う けたものであり、朱 しゅ 熹注の『大学 だいがく 』に附 ふ された「格 かく 物 ぶつ 補 ほ 伝 でん 」に詳 くわ しく記 しる されている。
儒教 じゅきょう 的 てき 世界 せかい 観 かん の中 なか で全 すべ てを説明 せつめい する朱子学 しゅしがく は仏教 ぶっきょう と対立 たいりつ し、やがて中国 ちゅうごく から仏教 ぶっきょう 的 てき 色彩 しきさい を帯 お びたものの一掃 いっそう を試 こころ みていくこととなる[38] 。
『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』
朱 しゅ 熹やその弟子 でし たちは、経書 けいしょ に注釈 ちゅうしゃく を附 ふ す、または経書 けいしょ そのものを整理 せいり するという方法 ほうほう によって学問 がくもん 研究 けんきゅう を進 すす め、自分 じぶん の意見 いけん を表明 ひょうめい した。特 とく に、『礼 れい 記 き 』の中 なか の一 いち 篇 へん であった「大学 だいがく 」「中庸 ちゅうよう 」を独自 どくじ の経典 きょうてん として取 と り出 だ したのは朱 しゅ 熹に始 はじ まる。更 さら に、朱 しゅ 熹は『大学 だいがく 』のテキストを大幅 おおはば に改定 かいてい して「経 けい 」一章 いっしょう と「伝 つて 」十 じゅう 章 しょう に整理 せいり し、脱落 だつらく を埋 う めるために自 みずか らの言葉 ことば で「伝 つて 」を補 おぎな うこともあった。
宋 そう 学 がく においては孔子 こうし の継承 けいしょう 者 しゃ として孟子 もうし が非常 ひじょう に重視 じゅうし され、従来 じゅうらい は諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ の書 しょ であった『孟子 もうし 』が、経書 けいしょ の一 ひと つとしての位置 いち づけを得 え ることになった。『大学 だいがく 』『中庸 ちゅうよう 』『孟子 もうし 』に『論語 ろんご 』を加 くわ えた四 よん 種 しゅ の経書 けいしょ が「四書 ししょ 」と総称 そうしょう され、朱 しゅ 熹はその注釈 ちゅうしゃく 書 しょ として『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』を制作 せいさく した。これにより、古典 こてん 学 がく の中心 ちゅうしん が五経 ごきょう から四書 ししょ へと移行 いこう した。
朱 しゅ 熹の思想 しそう は、同 どう 時代 じだい の諸派 しょは の中 なか では急進 きゅうしん 的 てき な革新 かくしん 思想 しそう であり、その批判 ひはん の対象 たいしょう は高級 こうきゅう 官僚 かんりょう や皇帝 こうてい にも及 およ んだ。朱 しゅ 熹の現実 げんじつ 政治 せいじ への提言 ていげん は非常 ひじょう に多 おお く、上奏 じょうそう 文 ぶん が数多 かずおお く残 のこ されている。朱 しゅ 熹は、理想 りそう の帝王 ていおう としての古 いにしえ の聖王 せいおう の威光 いこう を借 か りる形 かたち で、現実 げんじつ の皇帝 こうてい を叱咤 しった 激励 げきれい した。また、朱 しゅ 熹は地方 ちほう 官 かん として熱心 ねっしん に仕事 しごと に当 あ たったことでも知 し られ、飢饉 ききん の救済 きゅうさい や税 ぜい の軽減 けいげん 、社 しゃ 倉 くら 法 ほう といった社会 しゃかい 施設 しせつ の創設 そうせつ なども行 おこな っている。
朱 しゅ 熹の説 せつ を信奉 しんぽう し、慶 けい 元 もと 党 とう 禁 きん の後 のち の朱子学 しゅしがく の再興 さいこう に力 ちから を尽 つ くした真 ま 徳 とく 秀 しゅう は、数々 かずかず の役職 やくしょく を歴任 れきにん し、数 すう 十 じゅう 万言 まんげん の上奏 じょうそう を行 おこな うなど、積極 せっきょく 的 てき に政治 せいじ に参加 さんか している。
朱子学 しゅしがく は元 もと 代 だい に入 はい るころには南方 なんぽう では学問 がくもん の主流 しゅりゅう となり、許 もと 衡 ・劉 りゅう 因 いん によって北方 ほっぽう にも広 ひろ まった。これに呉 ご 澄 きよし を加 くわ えた三 さん 人 にん は元 もと の三 さん 大儒 たいじゅ と呼 よ ばれる。許 もと 衡の学 がく は真 ま 徳 とく 秀 しゅう から引 ひ き継 つ がれた熊 くま 禾(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の全体 ぜんたい 大用 おおゆう 思想 しそう を受 う け、知識 ちしき 思索 しさく の面 めん よりも精神 せいしん 涵養 かんよう を重視 じゅうし した。呉 ご 澄 きよし は朱子学 しゅしがく を説 と きながらも陸 りく 学 がく を称賛 しょうさん し、朱 しゅ 陸 りく 同 どう 異論 いろん の端緒 たんしょ を開 ひら いた。
延 のべ 祐 ゆう 元年 がんねん (1314年 ねん )、元朝 がんちょう が中断 ちゅうだん していた科挙 かきょ を再開 さいかい した際 さい 、学科 がっか として「四書 ししょ 」を立 た て、その注釈 ちゅうしゃく として朱 しゅ 熹の『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』が用 もち いられた。つまり、科挙 かきょ が準拠 じゅんきょ する経書 けいしょ 解釈 かいしゃく として朱子学 しゅしがく が国家 こっか に認定 にんてい されたのであり、これによって朱子学 しゅしがく は国家 こっか 教学 きょうがく としてその姿 すがた を変 か えることになった。
明代 あきよ の初期 しょき 、朱子学 しゅしがく 者 しゃ である宋 そう 濂 が朱 しゅ 元 もと 璋 あきら のもとで礼 れい 学 がく 制度 せいど の裁定 さいてい に携 たずさ わったほか、王子 おうじ 充 たかし が『元 もと 史 し 』編纂 へんさん の統括 とうかつ に当 あ たった。国家 こっか 教学 きょうがく となった朱子学 しゅしがく は、変 か わらず科挙 かきょ に採用 さいよう され、国家 こっか 的 てき な注釈 ちゅうしゃく として朱子学 しゅしがく に基 もと づいて『四書 ししょ 大全 たいぜん 』『五経 ごきょう 大全 たいぜん 』『性 せい 理 り 大全 たいぜん 』が制作 せいさく された。
明代 あきよ の朱子学 しゅしがく 思想 しそう の発達 はったつ の端緒 たんしょ に挙 あ げられるのは薛瑄 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ・呉 ご 与 あずか 弼(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) である。ともに呉 ご 澄 きよし と似 に た傾向 けいこう を有 ゆう し、朱子学 しゅしがく の博学 はくがく 致知の面 めん はやや希薄 きはく になり、精神 せいしん 涵養 かんよう の面 めん が強調 きょうちょう された。特 とく に呉 ご 与 あずか 弼の門下 もんか には陳 ひね 献 けんじ 章 あきら (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) が出 で て、陸 りく 象山 ぞうさん の心学 しんがく と共通 きょうつう する思想 しそう を強調 きょうちょう し陽明学 ようめいがく の先駆 せんく 的 てき 役割 やくわり を果 は たしたため、呉 ご 与 あずか 弼は「明 あかり 学 がく の祖 そ 」とも呼 よ ばれる。
薛瑄は純粋 じゅんすい な朱子学 しゅしがく の信奉 しんぽう 者 しゃ で、理 り 気 き 二元論 にげんろん を深 ふか く理解 りかい していた。同 おな じく胡 えびす 居 きょ 仁 ひとし (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) も朱子学 しゅしがく を信奉 しんぽう し、特 とく に仏教 ぶっきょう ・道教 どうきょう などの異端 いたん を批判 ひはん する議論 ぎろん を積極 せっきょく 的 てき に展開 てんかい した。陽明学 ようめいがく の勃興 ぼっこう と時 じ を同 おな じくした朱子学 しゅしがく 者 しゃ が羅 ら 欽順(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) であり、彼 かれ は陽明学 ようめいがく を激 はげ しく批判 ひはん し、その良知 りょうち 説 せつ や格 かく 物 ぶつ 説 せつ 、王 おう 陽明 ようめい の「朱子 しゅし 晩年 ばんねん 定論 ていろん 」などに異論 いろん を唱 とな えた。
明 あかり 末 まつ には、東 ひがし 林 りん 党 とう が活動 かつどう し、体得 たいとく 自認 じにん と気節 きせつ 清 きよし 議 ぎ に務 つと め、国内外 こくないがい の多難 たなん に対 たい して清 きよし 議 ぎ を唱 とな えて節義 せつぎ を全 まっと うした。
清 しん 代 だい に入 はい ると、朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく から転換 てんかん し、考証 こうしょう 学 がく と呼 よ ばれる経書 けいしょ に対 たい するテキスト考証 こうしょう の研究 けんきゅう が盛 さか んになった。この原因 げんいん については、明 あきら 末 まつ に朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく が空虚 くうきょ な議論 ぎろん に終始 しゅうし したことに対 たい する全面 ぜんめん 的 てき な反発 はんぱつ と見 み る説 せつ が一般 いっぱん 的 てき で、そこに文字 もじ の獄 ごく に代表 だいひょう される清朝 せいちょう の知識 ちしき 人 じん 弾圧 だんあつ が加 くわ わり、研究 けんきゅう 者 しゃ の関心 かんしん が訓詁 くんこ 考証 こうしょう の学 がく に向 む かわざるを得 え なかったとされる。
一方 いっぽう 、中国 ちゅうごく 思想 しそう 研究 けんきゅう 者 しゃ の余 よ 英時 ひでとき は、考証 こうしょう 学 がく は朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく に対 たい する反発 はんぱつ と見 み る説 せつ と、朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく の影響 えいきょう が考証 こうしょう 学 がく にも及 およ んでいると見 み る説 せつ があることを述 の べた上 うえ で、宋 そう 以後 いご の儒学 じゅがく は当初 とうしょ から尊 みこと 徳性 とくせい ・道 みち 問 とい 学 がく の両方向 りょうほうこう を不可分 ふかぶん に持 も っていたのであり、考証 こうしょう 学 がく は宋 そう 学 がく の反対 はんたい 物 ぶつ ではなく、宋 そう 学 がく が考証 こうしょう 学 がく に発展 はってん しうる内在 ないざい 的 てき 要因 よういん があったことと説明 せつめい する。
京都工芸繊維大学 きょうとこうげいせんいだいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ の衣川 きぬがわ 強 つよし は、理 り 宗 むね 以来 いらい の朱子学 しゅしがく の国家 こっか 教学 きょうがく 化 か の動 うご き(科挙 かきょ における他 た 説 せつ の排除 はいじょ など)を中国 ちゅうごく 史 し の転機 てんき と捉 とら え、多様 たよう 的 てき な学説 がくせつ ・思想 しそう が許容 きょよう されることで儒学 じゅがく を含 ふく めた新 あたら しい学問 がくもん ・思想 しそう が生 う み出 だ されて発展 はってん してきた中国 ちゅうごく 社会 しゃかい が朱子学 しゅしがく による事実 じじつ 上 じょう の思想 しそう 統制 とうせい の時代 じだい に入 はい ることによって変質 へんしつ し、中国 ちゅうごく 社会 しゃかい の停滞 ていたい 、ひいては緩 ゆる やかな弱体 じゃくたい 化 か の一因 いちいん になったと指摘 してき している。
清 しん 代 だい の朱子学 しゅしがく 者 しゃ として、康 かん 熙帝 の儒臣を務 つと めた湯 ゆ 斌 あきら ・李 り 光 ひかり 地 ち (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、桐 きり 城 じょう 派 は (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の方 ほう 東 ひがし 樹 じゅ 、湖南 こなん の唐 から 鑑 かん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ・賀 が 長 ちょう 齢 よわい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ・羅 ら 沢 さわ 南 みなみ ・曽 そ 国 こく 藩 はん ら[54] がいる。
朱子学 しゅしがく は13世紀 せいき には元 もと に留学 りゅうがく した安 あん 裕 ひろし によって朝鮮半島 ちょうせんはんとう に伝 つた わり、朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう の国家 こっか の統治 とうち 理念 りねん として用 もち いられた。朝鮮 ちょうせん はそれまでの高 こう 麗 うらら の国教 こっきょう であった仏教 ぶっきょう を排 はい し、朱子学 しゅしがく を唯一 ゆいいつ の学問 がくもん (官学 かんがく )とした。そのため朱子学 しゅしがく は今日 きょう まで朝鮮 ちょうせん の文化 ぶんか に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。特 とく に李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい 、国家 こっか 教学 きょうがく として採用 さいよう され、朱子学 しゅしがく が朝鮮 ちょうせん 人 じん の間 あいだ に根付 ねつ いた[55] 。日常 にちじょう 生活 せいかつ に浸透 しんとう した朱子学 しゅしがく を思想 しそう 的 てき 基盤 きばん とした両 りょう 班 はん は、知識 ちしき 人 じん ・道徳 どうとく 的 てき 指導 しどう 者 しゃ を輩出 はいしゅつ する身分 みぶん 階層 かいそう に発展 はってん した。
高 こう 麗 うらら の末期 まっき の白 しろ 頤正(朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) 、李 り 斉 ひとし 賢 けん 、李 り 穑(朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) 、鄭 てい 夢 ゆめ 周 しゅう 、鄭 てい 道 みち 伝 でん らが安 あん 裕 ひろし の跡 あと を継承 けいしょう し、その後 ご は權 けん 陽 ひ 村 むら らが崇 たかし 儒抑仏 ぼとけ に貢献 こうけん した。李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい に入 はい ると朝鮮 ちょうせん 朱子学 しゅしがく はより一層 いっそう 発展 はってん した。その初期 しょき には、死 し 六 ろく 臣 しん ・生 なま 六 ろく 臣 しん や趙 ちょう 光 ひかり 祖 そ など、特 とく に実践 じっせん の方向 ほうこう (政治 せいじ ・文章 ぶんしょう ・通 つう 経 けい 明 あかり 史 し )で展開 てんかい し、徐々 じょじょ に形而上学 けいじじょうがく 的 てき な根拠 こんきょ 確立 かくりつ の問題 もんだい 追求 ついきゅう に向 む かうようになった。
16世紀 せいき には李 り 滉 ひろし (李 り 退 すさ 渓 けい )・李 り 珥 (李 り 栗谷 くりや )の二 に 大儒 たいじゅ 者 しゃ が現 あらわ れ、より朱子学 しゅしがく の議論 ぎろん が深 ふか められた。李 り 退 すさ 渓 けい は「主 しゅ 理 り 派 は 」と呼 よ ばれ、徹底 てってい した理 り 気 き 二元論 にげんろん から理 り 尊 みこと 気 き 卑を唱 とな え、その思想 しそう は後 のち に嶺 みね 南 みなみ 地方 ちほう で受 う け継 つ がれた。一方 いっぽう 、李 り 栗谷 くりや は「主 しゅ 気 き 派 は 」とされ、気 き 発 はつ 理 り 乗 じょう の立場 たちば から理 り 気 き 一途 いっと 説 せつ を唱 とな え、その思想 しそう は京畿 けいき 地方 ちほう で受 う け継 つ がれた。のち、権 けん 尚 なお 夏 なつ の門下 もんか の韓 かん 元 もと 震 ふるえ と李 り 柬 が「人物 じんぶつ 性 せい 同 どう 異 こと 」の問題 もんだい (人 ひと と動物 どうぶつ などの性 せい は同 おな じか否 ひ か)をめぐって論争 ろんそう になり、主 しゅ 気 き 派 は の「湖 みずうみ 学 がく 」と主 しゅ 理 り 派 は の「洛 らく 学 がく 」の間 あいだ で湖 みずうみ 洛 らく 論争 ろんそう が交 か わされた。
朝鮮 ちょうせん の朱子学 しゅしがく 受容 じゅよう の特徴 とくちょう として、李 り 朝 あさ 500年間 ねんかん にわたって、仏教 ぶっきょう はもちろん、儒教 じゅきょう の一派 いっぱ である陽明学 ようめいがく ですら異端 いたん として厳 きび しく弾圧 だんあつ し、朱子学 しゅしがく 一 いち 尊 みこと を貫 つらぬ いたこと、また、朱 しゅ 熹 の「文 ぶん 公家 くげ 礼 れい 」(冠婚葬祭 かんこんそうさい 手引 てびき 書 しょ )を徹底的 てっていてき に制度 せいど 化 か し、朝鮮 ちょうせん 古来 こらい の礼 れい 俗 ぞく や仏教 ぶっきょう 儀礼 ぎれい を儒式に改変 かいへん するなど、朱子学 しゅしがく の研究 けんきゅう が中国 ちゅうごく はじめその他 た の国 くに に例 れい を見 み ないほどに精密 せいみつ を極 きわ めたことが挙 あ げられる[55] 。こうした朱子学 しゅしがく の純化 じゅんか が他 た の思想 しそう への耐 たい 性 せい のなさを招 まね き、それが朝鮮 ちょうせん の近代 きんだい 化 か を阻 はば む一 いち 要因 よういん となったとする見方 みかた もある[55] 。
土田 つちた (2014) の整理 せいり に従 したが い、朱子学 しゅしがく の日本 にっぽん 伝来 でんらい のうち初期 しょき の例 れい を以下 いか に示 しめ す。
年代 ねんだい 的 てき に早 はや いものとしては、臨済宗 りんざいしゅう の栄西 えいさい 、律 りつ 宗 むね の俊 しゅん 芿 、臨済宗 りんざいしゅう の円爾 えんに などが南 みなみ 宋 そう に留学 りゅうがく し多 おお くの書物 しょもつ を持 も ち帰 かえ ったことから、朱子学 しゅしがく の紹介 しょうかい 者 しゃ とされる[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい には虎 とら 関 せき 師 し 錬 ね が禅宗 ぜんしゅう の僧侶 そうりょ の中 なか ではいち早 はや く道学 どうがく を論難 ろんなん した。その門下 もんか の中 ちゅう 巌 いわお 円 えん 月 がつ も道学 どうがく に対 たい する仏教 ぶっきょう の優位 ゆうい を述 の べる。また、義 ぎ 堂 どう 周 しゅう 信 しん は『四書 ししょ 』の価値 かち や新 しん 注 ちゅう ・古 こ 注 ちゅう の相違 そうい に言及 げんきゅう している。
室町 むろまち 時代 ときよ の一条 いちじょう 兼良 かねら の『尺 せき 素 す 往来 おうらい 』には、朝廷 ちょうてい の講義 こうぎ で道学 どうがく の解釈 かいしゃく が採 と られ始 はじ めたことが記録 きろく されている。
博士 はかせ 家 か では、清原 きよはら 宣 せん 賢 けん が道学 どうがく を重視 じゅうし した。
ほか、北畠 きたばたけ 親房 ちかふさ の『神 かみ 皇 すめらぎ 正統 せいとう 記 き 』や、楠木 くすのき 正成 まさしげ の出処 しゅっしょ 進退 しんたい には朱子学 しゅしがく の影響 えいきょう があるとの説 せつ もあるが、土田 つちた (2014 , p. 44-48)は慎重 しんちょう な姿勢 しせい を示 しめ し、日本 にっぽん の思想 しそう 史 し の中 なか に活 い きた形 かたち で朱子学 しゅしがく を取 と り込 こ んだ最初 さいしょ 期 き の人物 じんぶつ としては、清原 きよはら 宣 せん 賢 けん ・岐陽方秀 かたひで とその門人 もんじん を挙 あ げる。また、室町 むろまち 時代 じだい には朱子学 しゅしがく は地方 ちほう にも広 ひろ まっており、桂庵 けいあん 玄 げん 樹 じゅ は明 あかり への留学 りゅうがく 後 ご 、応仁 おうにん の乱 らん を避 さ けて薩摩 さつま まで行 い き、蔡沈 の『書 しょ 集 しゅう 伝 でん 』を用 もち いて講義 こうぎ をし、ここから薩南学派 がくは が始 はじ まった。また、土佐 とさ では南村 なんそん 梅軒 ばいけん が出 で て海南 かいなん 学派 がくは が始 はじ まった。
朱子学 しゅしがく 入門 にゅうもん 書 しょ である『近 きん 思 おもえ 録 ろく 』の和 わ 刻 こく 本 ほん (寛永 かんえい 年間 ねんかん の古 こ 活字 かつじ 版 ばん )。日本語 にほんご でのおびただしい書 か き入 い れが見受 みう けられる。
江戸 えど 時代 じだい の朱子学 しゅしがく の嚆矢 こうし として、藤原 ふじわら 惺窩 せいか が挙 あ げられる。室町 むろまち 時代 じだい まで、日本 にっぽん の朱子学 しゅしがく は仏教 ぶっきょう の補助 ほじょ 学 がく という立 た ち位置 いち にある場合 ばあい が多 おお かったが、彼 かれ は朱子学 しゅしがく を仏教 ぶっきょう から独立 どくりつ させようとした。実際 じっさい には彼 かれ の思想 しそう は純粋 じゅんすい な朱子学 しゅしがく ではなく、陸 りく 九 きゅう 淵 ふち の思想 しそう や林 はやし 兆 ちょう 恩 おん の解釈 かいしゃく を交 まじ えており、諸 しょ 学派 がくは 融合 ゆうごう 的 てき な方向 ほうこう 性 せい を有 ゆう している。惺窩 せいか 以来 いらい 京都 きょうと に伝 つた わった朱子学 しゅしがく を「京 きょう 学派 がくは 」と呼 よ び、その一人 ひとり に木下 きのした 順 じゅん 庵 あん がいる。その門下 もんか からは新井 あらい 白石 はくせき 、室鳩巣 むろきゅうそう 、祇園 ぎおん 南海 なんかい 、雨森 あめのもり 芳洲 ほうしゅう らが出 で た。詩文 しぶん の応酬 おうしゅう が多 おお く見 み られるのが京 きょう 学派 がくは の特徴 とくちょう で、思想家 しそうか として自己 じこ 主張 しゅちょう を行 おこな うというよりも、自身 じしん の教養 きょうよう の中核 ちゅうかく に朱子学 しゅしがく があり、文芸 ぶんげい 活動 かつどう が盛 さか んであった。
また、山崎 やまざき 闇斎 あんさい から、朱子学 しゅしがく の純粋 じゅんすい な理解 りかい を目指 めざ す学風 がくふう が始 はじ まった。彼 かれ は仏教 ぶっきょう に対 たい する儒教 じゅきょう の特質 とくしつ を「三綱 さんこう 」と「五常 ごじょう 」に見 み て、社会 しゃかい 的 てき 倫理 りんり 規範 きはん を重視 じゅうし した。闇斎 あんさい の学派 がくは は「崎 さき 門 もん 」と呼 よ ばれ、浅見 あさみ 絅斎 けいさい ・佐藤 さとう 直方 なおかた ・三宅 みやけ 尚 しょう 斎 とき らが出 で たが、闇斎 あんさい が後 のち に神道 しんとう に傾斜 けいしゃ したことによって主要 しゅよう な門弟 もんてい と齟齬 そご が生 しょう じ、多 おお くは破門 はもん された。ただ、厳格 げんかく さを特徴 とくちょう とするこの学派 がくは は驚異 きょうい 的 てき な持続 じぞく 性 せい を見 み せ、明治 めいじ まで継続 けいぞく した。
幕府 ばくふ に仕 つか えた朱子学 しゅしがく 者 しゃ である林 はやし 羅山 らざん は、将軍 しょうぐん への進講 しんこう 、和文 わぶん 注釈 ちゅうしゃく 書 しょ の作成 さくせい 、学者 がくしゃ の育成 いくせい など、朱子学 しゅしがく を軸 じく にした啓蒙 けいもう 活動 かつどう を積極 せっきょく 的 てき に行 い った。林 はやし 羅山 らざん の子 こ の林 はやし 鵞峰 も同 おな じく啓蒙 けいもう 的 てき 活動 かつどう に力 ちから を入 い れ、儒家 じゅか の家元 いえもと としての林家 はやしや の確立 かくりつ に尽力 じんりょく した。
当初 とうしょ は朱子学 しゅしがく を信奉 しんぽう したが、後 のち に転向 てんこう し反 はん 朱子学 しゅしがく の主張 しゅちょう を取 と るようになった学者 がくしゃ として伊藤 いとう 仁斎 じんさい がいる。仁斎 じんさい は朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく ・仏教 ぶっきょう を受容 じゅよう したうえで、それらを否定 ひてい し、日常 にちじょう 道徳 どうとく が独立 どくりつ して成立 せいりつ する根拠 こんきょ を究明 きゅうめい した。そして、仁斎 じんさい 学 がく と朱子学 しゅしがく をまとめて批判 ひはん することで自分 じぶん の立場 たちば を鮮明 せんめい にしたのが荻生 おぎゅう 徂徠 そらい である。徂徠 そらい は、朱 しゅ 熹『論語 ろんご 集 しゅう 注 ちゅう 』と仁斎 じんさい 『論語 ろんご 古 こ 義 ぎ 』を批判 ひはん しながら、自己 じこ の主張 しゅちょう を展開 てんかい し、『論語 ろんご 徴 ちょう 』を著 あらわ した。
山崎 やまざき 闇斎 あんさい らの朱子学 しゅしがく の純粋 じゅんすい 化 か を求 もと める思想 しそう と、伊藤 いとう 仁斎 じんさい らの反 はん 朱子学 しゅしがく 的 てき 思想 しそう の形成 けいせい はほぼ同 どう 時期 じき である。土田 つちた (2014 , pp. 96–97)は、朱子学 しゅしがく があったからこそ思想 しそう 表現 ひょうげん が可能 かのう になった反 はん 朱子学 しゅしがく が登場 とうじょう したのであり、朱子学 しゅしがく と反 はん 朱子学 しゅしがく の議論 ぎろん の土台 どだい が形成 けいせい されたことが、江戸 えど 時代 じだい の思想 しそう 形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたと述 の べている。たとえば、反 はん 朱子学 しゅしがく を主張 しゅちょう した伊藤 いとう 仁斎 じんさい は、自分 じぶん の主張 しゅちょう を理論 りろん 化 か する際 さい には朱子学 しゅしがく の問題 もんだい 意識 いしき と思想 しそう 用語 ようご を利用 りよう し、朱子学 しゅしがく との対比 たいひ から自分 じぶん の思想 しそう を確立 かくりつ した。
松平 まつだいら 定信 さだのぶ は、1790年 ねん (寛政 かんせい 2年 ねん )に寛政 かんせい 異 こと 学 がく の禁 きん を発 はっ したが、この時期 じき は多 おお くの藩 はん で藩校 はんこう を立 た ち上 あ げる時期 じき に当 あ たり、各地 かくち で幕府 ばくふ に倣 なら って朱子学 しゅしがく を採用 さいよう する傾向 けいこう を促進 そくしん した。この頃 ころ の学者 がくしゃ としては、尾藤 びとう 二洲 にしゅう ・古賀 こが 精里 せいり ・柴野 しばの 栗山 りつざん ら「寛政 かんせい の三 さん 博士 はかせ 」のほか、林 はやし 述 じゅつ 斎 とき ・頼 よりゆき 春水 しゅんすい ・菅 かん 茶山 ちゃやま ・西山 にしやま 拙 つたな 斎 とき らがいる。二洲 にしゅう や拙 つたな 斎 とき を含 ふく め、この時期 じき には徂徠 そらい 学 がく から朱子学 しゅしがく に逆 ぎゃく に転向 てんこう してくる学者 がくしゃ が多 おお かった[80] 。
朱子学 しゅしがく の思想 しそう は、近代 きんだい 日本 にっぽん にも影響 えいきょう を与 あた えたとされる。「学制 がくせい 」が制定 せいてい された当時 とうじ 、教科 きょうか の中心 ちゅうしん であった儒教 じゅきょう は廃 はい され、西洋 せいよう の知識 ちしき ・技術 ぎじゅつ の習得 しゅうとく が中心 ちゅうしん となった。その後 ご 、明治 めいじ 政府 せいふ は自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の高 たか まりを危惧 きぐ し、それまでの西洋 せいよう の知識 ちしき ・技術 ぎじゅつ 習得 しゅうとく を重視 じゅうし する流 なが れから、仁義 じんぎ 忠孝 ちゅうこう を核 かく とした方針 ほうしん に転換 てんかん した。1879年 ねん の「教学 きょうがく 聖旨 せいし 」、1882年 ねん 「幼 よう 学 がく 綱要 こうよう 」に続 つづ き、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )、山縣 やまがた 有朋 ありとも 内閣 ないかく のもと、『教育 きょういく 勅語 ちょくご 』が下賜 かし された。明治天皇 めいじてんのう の側近 そっきん の儒学 じゅがく 者 しゃ である元田 もとだ 永 えい 孚 まこと の助力 じょりょく があったことから、『教育 きょういく 勅語 ちょくご 』には儒教 じゅきょう 朱子学 しゅしがく の五倫 ごりん の影響 えいきょう が見 み られる。
また、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )に明治天皇 めいじてんのう から勅 みことのり 諭 さと された『軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし 』にも儒教 じゅきょう の影響 えいきょう が見 み られる。『軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし 』には忠節 ちゅうせつ 、礼儀 れいぎ 、武 たけ 勇 いさむ 、信義 しんぎ 、質素 しっそ の5か条 じょう の解説 かいせつ があり、これらは儒教 じゅきょう 朱子学 しゅしがく における五常 ごじょう ・五 ご 論 ろん の影響 えいきょう が見 み られる。この「軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし 」は、後 ご の1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )に発布 はっぷ された『戦陣 せんじん 訓 くん 』にも強 つよ く影響 えいきょう を与 あた え、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ の全 ぜん 軍隊 ぐんたい の行動 こうどう に大 おお きく影響 えいきょう を与 あた えた。
日本 にっぽん 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ の丸山 まるやま 眞男 まさお は、徳川 とくがわ 政権 せいけん に適合 てきごう した朱子学 しゅしがく 的 てき 思惟 しい が解体 かいたい していく過程 かてい に、日本 にっぽん の近代 きんだい 的 てき 思惟 しい への道 みち を見出 みいだ した。但 ただ し、この見解 けんかい には批判 ひはん も寄 よ せられており、少 すく なくとも江戸 えど 時代 じだい の朱子学 しゅしがく 人口 じんこう は徐々 じょじょ に増加 ぞうか する傾向 けいこう にあり、儒学 じゅがく 教育 きょういく の基礎 きそ 作 づく りとしての朱子学 しゅしがく の役割 やくわり は変 か わらず大 おお きかった。江戸 えど 時代 じだい には『四書 ししょ 』また『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』、『近 きん 思 おもえ 録 ろく 』といった朱子学 しゅしがく 関連 かんれん の書籍 しょせき は数多 かずおお く出版 しゅっぱん されてよく読 よ まれ、朱子学 しゅしがく は江戸 えど 時代 じだい の基礎 きそ 教養 きょうよう という役割 やくわり を担 にな っていた。
『四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 』
朱 しゅ 熹 が『大学 だいがく 』『中庸 ちゅうよう 』『孟子 もうし 』『論語 ろんご 』の「四書 ししょ 」に対 たい して制作 せいさく した注釈 ちゅうしゃく 書 しょ 。『大学 だいがく 』『中庸 ちゅうよう 』には「或 ある 問 とい 」が附 ふ されており、特 とく に『大学 だいがく 或 ある 問 とい 』は朱子学 しゅしがく のエッセンスを伝 つた えるものとされる。
『近 きん 思 おもえ 録 ろく 』
北 きた 宋 そう 四 よん 子 し の発言 はつげん をテーマ別 べつ に抜粋 ばっすい したもの。朱 しゅ 熹・呂 りょ 祖 そ 謙 けん の共編 きょうへん 。朱 しゅ 熹は、本書 ほんしょ は四書 ししょ を読 よ む際 さい の入門 にゅうもん 書 しょ であると言 い い、日本 にっぽん でも『十 じゅう 八 はち 史 し 略 りゃく 』や『唐詩 とうし 選 せん 』と並 なら んでインテリの必読 ひつどく 書 しょ として普及 ふきゅう した。のちに宋 そう の葉 は 采 さい ・清 きよし の茅 ちがや 星 ぼし 来 らい や江 こう 永 ひさし らによって注釈 ちゅうしゃく が作 つく られた。
『伊 い 洛 らく 淵源 えんげん 録 ろく 』
朱 しゅ 熹編。伊 い 洛 らく (二 に 程 ほど 子 こ のこと)の学問 がくもん の由来 ゆらい を明 あき らかにするために、周 しゅう 敦 あつし 頤 ・程 ほど 顥 ・程 ほど 頤 ・邵雍 ・張 ちょう 載 の やその弟子 でし たちの事跡 じせき ・墓誌 ぼし 銘 めい ・遺書 いしょ ・逸話 いつわ などを集 あつ めた本 ほん 。
『周子 かねこ 全書 ぜんしょ 』
明 あかり の徐 じょ 必達が周 しゅう 敦 あつし 頤の著作 ちょさく を集 あつ めたもの。周 しゅう 敦 あつし 頤の著作 ちょさく はほとんど残 のこ されていないが、『太極 たいきょく 図 ず 』『太極 たいきょく 図説 ずせつ 』『通 つう 書 しょ 』に対 たい して朱 しゅ 熹が「解 かい 」をつけたものが残 のこ されており、これらが収録 しゅうろく されている。
『河南 かなん 程 ほど 氏 し 遺書 いしょ 』
朱 しゅ 熹が程 ほど 顥・程 ほど 頤の発言 はつげん を整理 せいり したもの、加 くわ えて『程 ほど 氏 し 外 がい 書 しょ 』もある。ほか、『明道 みょうどう 先生 せんせい 文集 ぶんしゅう 』『伊川 いがわ 先生 せんせい 文集 ぶんしゅう 』『周 しゅう 易 えき 程 ほど 氏 し 伝 でん 』『経 けい 説 せつ 』、そして楊時 編 へん 『程 ほど 氏 し 粋 いき 言 げん 』もあり、これらをまとめて『二 に 程 ほど 全書 ぜんしょ 』という。二 に 程 ほど の発言 はつげん は、どれがどちらのものか混乱 こんらん が生 しょう じている場合 ばあい があり、注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。
『周 しゅう 易 えき 本義 ほんぎ 』
朱 しゅ 熹による『易 えき 経 けい 』に対 たい する注釈 ちゅうしゃく 。易 えき 数 すう に関 かん する研究 けんきゅう 書 しょ の『易学 えきがく 啓蒙 けいもう 』もある(蔡元定 じょう との共著 きょうちょ )。
『書 しょ 集 しゅう 伝 でん 』
『書 しょ 経 けい 』の注釈 ちゅうしゃく だが、朱 しゅ 熹の生前 せいぜん に完成 かんせい せず、弟子 でし の蔡沈 によって完成 かんせい した。
『詩集 ししゅう 伝 でん 』
朱 しゅ 熹による『詩経 しきょう 』に対 たい する注釈 ちゅうしゃく 。
『儀礼 ぎれい 経伝 けいでん 通 どおり 解 かい 』
「礼 れい 」に関 かん する体系 たいけい 的 てき な編纂 へんさん 書 しょ で、朱 しゅ 熹の没後 ぼつご にも継続 けいぞく して編纂 へんさん された。より具体 ぐたい 的 てき な冠婚葬祭 かんこんそうさい の手順 てじゅん を明示 めいじ する『家 いえ 礼 れい (文 ぶん 公家 くげ 礼 れい )』もある。
『五朝名臣言行録』
朱 しゅ 熹が、北 きた 宋 そう の朝廷 ちょうてい を担 にな った名 めい 臣 しん たちの言動 げんどう を検証 けんしょう する歴史 れきし 書 しょ 。ほか、『三朝 みささ 名 めい 臣 しん 言行 げんこう 録 ろく 』『八朝名臣言行録』もある。
『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 綱目 こうもく 』
司馬 しば 光 ひかり 『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 』を朱 しゅ 熹が再 さい 検証 けんしょう した歴史 れきし 書 しょ 。
『西銘 にしめ 解 かい 』
張 ちょう 載 の の『西銘 にしめ 』に対 たい して朱 しゅ 熹が注釈 ちゅうしゃく をつけたもの。
『朱子 しゅし 語 ご 類 るい 』
朱 しゅ 熹とその門人 もんじん が交 か わした座談 ざだん の筆記 ひっき 集 しゅう 。門人 もんじん 別 べつ のノートが黎 はじむ 靖 やすし 徳 とく によって集大成 しゅうたいせい され、テーマ別 べつ に再 さい 編成 へんせい された。当時 とうじ の俗語 ぞくご が多 おお く見 み られ、言語 げんご 資料 しりょう としても価値 かち が高 たか い。
島田 しまだ 虔 けん 次 じ 「思想 しそう 史 し 3 宋 そう -清 きよし 」『アジア歴史 れきし 研究 けんきゅう 入門 にゅうもん 』 3巻 かん 、同朋 どうほう 舎 しゃ 出版 しゅっぱん 、1983年 ねん 。ISBN 4810403688 。
日原 ひのはら 利国 としくに 編 へん 『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』研 けん 文 ぶん 出版 しゅっぱん 、1984年 ねん 。
宇野 うの 茂彦 しげひこ 「四書 ししょ 集 しゅう 注 ちゅう 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、169頁 ぺーじ 。
串田 くしだ 久治 きゅうじ 「詩集 ししゅう 伝 でん 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、168頁 ぺーじ 。
黒坂 くろさか 満 みつる 輝 てる 「真 ま 徳 とく 秀 しゅう 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、235頁 ぺーじ 。
佐藤 さとう 仁 ひとし 「性 せい 即 そく 理 り 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、246頁 ぺーじ 。
西 にし 順 じゅん 蔵 ぞう 「宋 そう 学 まなぶ 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、261-262頁 ぺーじ 。
野村 のむら 茂夫 しげお 「書 しょ 集 しゅう 伝 でん 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、221頁 ぺーじ 。
三浦 みうら 國雄 くにお 「朱子 しゅし 語 ご 類 るい 」『中国 ちゅうごく 思想 しそう 辞典 じてん 』1984年 ねん 、193頁 ぺーじ 。