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孟子 (書物) - Wikipedia

孟子もうし (書物しょもつ)

孟子もうし逸話いつわ問答もんどう集成しゅうせい

孟子もうし』(もうじ[1]、もうし、拼音: Mèngzǐ)は、儒教じゅきょう思想家しそうかである孟子もうし逸話いつわ問答もんどう集成しゅうせいである。成立せいりつ紀元前きげんぜん4世紀せいき後半こうはん戦国せんごく時代じだいまでさかのぼ[2]そうだい以降いこうは「四書ししょ」「じゅうさんけい」にふくめられ儒教じゅきょう経典きょうてんひとつとされる。

孟子もうし
著者ちょしゃ孟子もうしまたはまんしょうなど
くに中国ちゅうごく
言語げんご漢文かんぶん
ジャンル中国ちゅうごく哲学てつがく
孟子もうし
中国ちゅうごく 孟子もうし
文字通もじどおりの意味いみMaster Meng
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音Mèngzǐ
ウェードしきMeng-tzu
マ字まじMan-tsy
粤語
イェール粤拼Maahng-jí
粤拼Maang6-zi2
閩南
閩南白話はくわBēng-chú
ちゅう古音こおん
ちゅう古音こおんMæ̀ng dzí
上古じょうこおん
バクスター-
サガール
*mˤrang-s mə-dzəʔ
儒家じゅか経典きょうてん
五経ごきょう つて
きゅうけい
えき
しょ

れい儀礼ぎれい/しゅうあや
春秋しゅんじゅう
れい
春秋しゅんじゅうひだりでん
春秋しゅんじゅうこうひつじでん
春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ
ななけい じゅうけい
論語ろんご
こうけい
しかみやび
じゅうさんけい
孟子もうし

著者ちょしゃ

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中国ちゅうごく歴史れきしとおして、『孟子もうし』の著者ちょしゃだれであるかについて複数ふくすう見解けんかいがあった。司馬しばは、『孟子もうし』は孟子もうしみずからの弟子でしである公孫こうそんうし中国語ちゅうごくごばんまんしょうとともにげたものであるとしている。一方いっぽうしゅ熹・ちょうこげらは、孟子もうし自分じぶん一人ひとりげたとしている。かんいよいよまご中国語ちゅうごくごばんあきら公武こうぶ中国語ちゅうごくごばんらは、孟子もうし死後しご公孫こうそんうしまんしょう自身じしん記録きろく記憶きおくもとにして『孟子もうし』をあらわしたとしている。

注釈ちゅうしゃく

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注釈ちゅうしゃく複数ふくすう存在そんざいするが、ちょうしゅによる注釈ちゅうしゃくもっと権威けんいがある。ちょう岐の『孟子もうしちゅう』は『じゅうさんけい注疏ちゅうそ』にふくまれ「ちゅう」としょうされるのにたいし、しゅ熹の『孟子もうししゅうちゅう』は「しんちゅう」としょうされる。ほかにも、こげの『孟子もうし正義まさよし中国語ちゅうごくごばん』、和書わしょでは伊藤いとう仁斎じんさいの『孟子もうし』などがられている。

評価ひょうか受容じゅよう

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孟子もうし』は元々もともと経書けいしょとしての地位ちいあたえられていなかった。『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしでは『孟子もうし』は経書けいしょではなく諸子しょしひゃくいえのうちの儒家じゅかしゃりゅうふくめられ、かんだいにおいては『荀子』としても評価ひょうかひくかった。漢文かんぶんみかどは『論語ろんご』・『こうけい』・『しかみやび』とともに『孟子もうし』を「伝記でんき」のひとつとして博士はかせいたが、のちのぞいた[3]

とうだいはいるとかんいよいよやなぎはじめもと功績こうせきにより評価ひょうかたかまった。だいじゅうこく時代じだいこうしょく皇帝こうていであるはじめあきら(もうちょう)は、石経いしきょうに『孟子もうし』をふくめた。これはおそらく『孟子もうし』をしん経書けいしょ範疇はんちゅうふくめた最初さいしょれいである。

きたそうではおうやすしせきが『孟子もうし』を科挙かきょ科目かもくくわえたが、これに反発はんぱつして司馬しばひかりの『うたぐはじめ』も作成さくせいされた。みなみそうこうむね統治とうち時代じだい朱子学しゅしがくであるしゅにより四書ししょ(『論語ろんご』・『孟子もうし』・『中庸ちゅうよう』・『大学だいがく』)にれっせられ、以来いらい重視じゅうしされる。あきらきよしいたるまで、『孟子もうし』は科挙かきょ試験しけん題材だいざいであった。

きよしだい5だい皇帝こうていである雍正みかどは、はなえびす思想しそうにより満州まんしゅうじん支配しはいしとせずあきら復活ふっかつとなえる思想家しそうかたいしてはみずか論破ろんぱし、討論とうろん経緯けいいを『大義たいぎさとし迷録』という書物しょもつにまとめ、『孟子もうし』にある「しゅんしょまれてなつうつり、じょうくなった東夷あずまえびすひとである。ぶんおう岐周まれ、畢郢した西にしえびすひとだ。距離きょりはなれることせんあまりさと時代じだいにしておくれることせんねんあまりだが、こころざしてて中国ちゅうごく実行じっこうしたことはわせたように一致いっちしている。さき聖人せいじん聖人せいじんも、みないつにしているのである[4][5]」という孟子もうし言葉ことばをなぞりつつ[6]、「本朝ほんちょう満州まんしゅうだしであるのは、中国人ちゅうごくじん原籍げんせきがあるようなものだ。しゅん東夷あずまえびすひとだったし、ぶんおう西にしえびすひとだったが、その聖徳せいとくなんそこなわれてはいない」「とくのあるものだけが天下てんかきみになれるのだ」と強調きょうちょうしている[6]

夷狄いてきは、本朝ほんちょういみなむところではない。孟子もうしは、「しゅん東夷あずまえびすひとであり、ぶんおう西にしえびすひとである」とっている。もとのまれたところは、なおいまじんせきぬきのようなものである。いわんや満州まんしゅうじんはみな漢人かんどれつすることをじている。ジュンガル満州まんしゅうじんを蛮子とび、満州まんしゅうじんはこれをいて、いきどおうらまないものはなかった。それなのに逆賊ぎゃくぞく(のせい)が夷狄いてきであることをつみとしたことは、まことに(『ほど語録ごろく』にいう)酔生夢死すいせいむしなにすことなく無自覚むじかく一生いっしょうおくる)禽獣きんじゅうである。 — 大義たいぎさとし迷録[7]

日本にっぽんにおける『孟子もうし

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孟子もうししゅう江戸えど時代じだい刊本かんぽん

江戸えど時代じだい以前いぜん

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日本にっぽんにも『孟子もうし』はまれたが、「易姓革命えきせいかくめい」の概念がいねんれられず、あまり流布るふしなかったとわれている。これは、うつわっていく中国ちゅうごく政権せいけんことなり、日本にっぽん皇室こうしつ政治せいじ体制たいせい変動へんどうにもかかわらず(形式けいしきだけでも)頂点ちょうてんにありつづけたために、矛盾むじゅん発生はっせいしてしまうためであるとかんがえられる。また、あかりけいどう家学かがくとした公家くげ清原きよはらでは、易姓革命えきせいかくめい部分ぶぶん講義こうぎおこなわないれいがあったとされている。ぞくに「『孟子もうし』をせたふねは、日本にっぽんまえ沈没ちんぼつする」ともわれていたとつたわる(「孟子もうこ舶載はくさいせんくつがえおぼれせつ」)。あきらしゃはじめ(しゃ ちょうせつ)の『ざつぐみ(ござっそ)』には「やまとやつ日本人にっぽんじんこと)もまた儒書をおもんじ仏法ぶっぽうしんじず。およ中国ちゅうごく経書けいしょみなじゅうもってこれをあがな う。ひと孟子もうこしという。そのしょたずさえてものあれば、ふねすなわくつがえおぼらす。これまたいちごとなり」とあり、それを参考さんこうにした上田うえだ秋成あきなりの『雨月物語うげつものがたり』で西行さいぎょうかたらせた台詞せりふはちひゃくよろずのかみにくませきゅうふて神風かみかぜこしてふねくつがえきゅうふとく」の記述きじゅつとも関係かんけいがあるとかんがえられる。

しかし、宇多天皇うだてんのう寛平かんぺい3ねん891ねん)に藤原ふじわらたすくあらわした『日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』にはすでに『孟子もうしちょう岐注』14かんなどがあったと記録きろくされている。おそらく上記じょうき伝説でんせつ危険きけんちた航海こうかいしゃ畏怖いふねんからてきたものとおもわれる。そもそも、『孟子もうし』が中国ちゅうごくにおいて儒教じゅきょう経典きょうてんとしての地位ちいみとめられた時代じだいきたそう後期こうきみなみそう前期ぜんき)には、遣唐使けんとうしすで廃止はいしされてにちちゅうあいだ学術がくじゅつてき交流こうりゅう大幅おおはば縮小しゅくしょうされており、日本にっぽんにおける儒教じゅきょう遣唐使けんとうし廃止はいし以前いぜんとうだい儒教じゅきょう延長線えんちょうせんじょうにあった。そのため、日本にっぽんだい学寮がくりょうあかりけいどう教科書きょうかしょには『孟子もうし』はふくまれておらず、鎌倉かまくら時代ときよ以前いぜん日本にっぽんでは『孟子もうし』はほとんどられていなかった可能かのうせいたかい。儒教じゅきょう経典きょうてんとしての『孟子もうし』の伝来でんらい鎌倉かまくら時代じだいそうまなぶ一部いちぶとしてのものであったとかんがえられている。鎌倉かまくら末期まっき花園はなぞの上皇じょうこう皇太子こうたいしりょうじん親王しんのうひかりげん天皇てんのう)にてた『誡太子たいししょ』には『孟子もうし』の革命かくめいせつ引用いんようされており、『徒然草つれづれぐさ』や『太平たいへい』にも『孟子もうし』の知識ちしき垣間見かいまみられるなど、すで支配しはいそう知識ちしきじんあいだでは『孟子もうし』はひろられていた。なお、後醍醐天皇ごだいごてんのう足利あしかが義満よしみつが『孟子もうし』をはじめとする四書ししょ講習こうしゅうしていたことを後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく義満よしみつ皇位こうい簒奪さんだつ計画けいかくむすびつけるせつおこなわれるが、鎌倉かまくら時代じだい末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいつうじて『孟子もうし』をふくめた四書ししょまなぶことは、天皇てんのうをはじめ公家くげ社会しゃかい流行りゅうこうとなっており、後醍醐天皇ごだいごてんのう義満よしみつもその流行りゅうこうなかにあった。『孟子もうし』にしるされた性善説せいぜんせつ仁義じんぎせつなどはそうがく伝来でんらい以後いごはや段階だんかいより日本にっぽん知識ちしきじんあいだ受容じゅようされており、『孟子もうし』の一部分いちぶぶんぎない易姓革命えきせいかくめいむすびつけて、そこから特定とくてい意図いとみとれるものではないという主張しゅちょうもある[8]

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいには朱子学しゅしがく官学かんがくとされたことによって、朱子学しゅしがくにて四書ししょいちである『孟子もうし』は、儒学じゅがく研究けんきゅうのみならず、武士ぶし階級かいきゅうにとって必読ひつどく倫理りんりしょ格上かくあげされた。『孟子もうし』が日本人にっぽんじん爆発ばくはつてき普及ふきゅうするようになったのは、江戸えど時代じだいからである。後世こうせい朱子学しゅしがく批判ひはんまわった伊藤いとう仁斎じんさい荻生おぎゅう徂徠そらいらも、当然とうぜんのごとく『孟子もうし』を熟読じゅくどくするところから研究けんきゅう生活せいかつはじめたのである。

伊藤いとう仁斎じんさいは、朱子学しゅしがく批判ひはんして、『論語ろんご』『孟子もうし』のふる意義いぎすなわちをもってむべきことを主張しゅちょうし、「がく」を提唱ていしょうした。かれは、自己じこがく入門にゅうもんてき著作ちょさく童子どうじとい』において、「天下てんかは、論語ろんご孟子もうこしょきている。さらにくわえる内容ないようなどないのである。うたがってはいけない。」と激賞げきしょうした[9]かれは『孟子もうし』のしょを『論語ろんご』の意義いぎたっするためのいかだ(しんばつ。わたしぶね)であるとひょうして、『論語ろんご』の解説かいせつしょとしてかなら熟読じゅくどくしなければならない、といた[10]

一方いっぽう後進こうしん儒学じゅがくしゃ仁斎じんさい学説がくせつ批判ひはんした荻生おぎゅう徂徠そらいは、著書ちょしょべんどう』において、「おもえはじめ外人がいじんそうそう)フしゃナリ」とひょうした。このかたり意味いみは、おもえおよびそれをいだ孟子もうしは、外人がいじんすなわち論敵ろんてきあらそうための言葉ことばついやしたものたちであるということである。りょう道家みちやぼくほかのどう時代じだい論客ろんかくたいして論争ろんそうしたのは、諸子しょしひゃくいえあいなら時代じだい要請ようせいでやむをえなかった。徂徠そらいは、論争ろんそうして孔子こうしのちまもったてんについては、りょう功績こうせき評価ひょうかした。しかし、徂徠そらい孔子こうしつたえた「先王せんおうみち」とは「礼楽れいがくけいせい」、すなわち単純たんじゅんにいいつくすことができない中国ちゅうごく古代こだい伝統でんとう文化ぶんか総体そうたい継承けいしょう意味いみしていたにもかかわらず、おもえはじめりょう論争ろんそうによって理論りろん重視じゅうしした結果けっかとして、「先王せんおうみち」をたんなるいち学説がくせつである「儒家じゅかしゃりゅう」に卑小ひしょうさせた、とだんじた。自説じせつ遊説ゆうぜい論争ろんそう単純たんじゅん明確めいかくした孟子もうしは、徂徠そらいによって、後世こうせいもの孔子こうしつたえた「先王せんおうみち」をあやまらせるきっかけをつくった一人ひとりとして、批判ひはんされた。

幕末ばくまつ志士しし吉田よしだ松陰しょういんもまた、『孟子もうし』の愛読あいどくしゃであった。かれの『孟子もうし講義こうぎしょが、『こうはじめ箚記(こうもうさっき)』である。この講義こうぎしょには、孟子もうし言葉ことばおうじて長州ちょうしゅうはん日本にっぽんうれい、また当時とうじ西洋せいよう列強れっきょう侵略しんりゃくにいかにたいすべきかをおもいきどおが、よくあらわれている。ただし松蔭しょういんは、孟子もうし展開てんかいする「易姓革命えきせいかくめいろん」を、日本にっぽん万世ばんせいいちけい国体こくたいわないとして否定ひていした。

なお赤穂あこう浪士ろうしのひとり、武林たけばやし隆重たかしげ孟子もうし子孫しそんであるとつたわる。豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさいあきら従軍じゅうぐんであったはじめひろし日本にっぽん連行れんこうされ、武林たけばやし名乗なのったものである。

江戸えど時代じだい川柳せんりゅうには孟母三遷もうぼさんせん茶化ちゃかした「おっかさんまたすのかと孟子もうしい」というがある。

新出にいで文献ぶんけんとの関係かんけい

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構成こうせい

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  • りょうめぐみおうじょう
  • りょうめぐみおう
  • 公孫こうそんうしじょう
  • 公孫こうそんうし
  • 滕文こうじょう
  • 滕文おおやけ
  • はなれ婁上
  • はなれ婁下
  • まんしょうじょう
  • まんしょう
  • つげじょう
  • つげ
  • つきしんじょう
  • つきしん

現代げんだいやく

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日本語にほんごばん

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ISBN 978-4909001047ISBN 978-4909001054ISBN 978-4909001061ISBN 978-4909001078

英語えいごばんほか

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  • レッグ, ジェームズ (1895) [1861]. The works of Mencius. 中国ちゅうごく古典こてん. II (2 ed.). オックスフォード: クラレンドン出版しゅっぱん. https://archive.org/details/chineseclassics02minggoog  1990ねんにドーヴァー出版しゅっぱんさい出版しゅっぱんされた。 (ISBN 978-0-486-26375-5).
  • クヴルール, セラファン (1895) (フランス語ふらんすご). 孟子もうし作品さくひん [孟子もうし作品さくひん]. 四書ししょ. 河間こうま: ミッションカソリック 
  • ヴィルヘルム, リヒャルト (1916) (ドイツ). 孟子もうし. イェーナ: オイゲン・ディーデリヒスしゃ 
  • ライオール, ロナルド A. (1932). 孟子もうし. ロンドン: Longmans, Green and Co. 
  • ウェア, ジェームス R. (1960). 孟子もうし言葉ことば. New York: メントール出版しゅっぱんしゃ 
  • ドブソン, W. A. C. H. (1963). 孟子もうし,一般いっぱんけのあらたな翻訳ほんやく. ロンドン: オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく出版しゅっぱん 
  • ラウ, D. C. (1970). 孟子もうし. ロンドン: ペンギン出版しゅっぱん. ISBN 978-0140449716 
  •     (2003). 孟子もうし (しんバイリンガルばん). 香港ほんこん: 香港ほんこんちゅうぶん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ. ISBN 978-9622018518 
  • ヴァンノーデン, ブライアン (2008). 孟子もうし伝統でんとうてき注釈ちゅうしゃくづけ. インディアナポリス: ハケット出版しゅっぱんしゃ. ISBN 978-0872209138 
  • ブルーム, アイリーン (2009). 孟子もうし. ニューヨーク: コロンビア大学ころんびあだいがく出版しゅっぱん. ISBN 978-0231122047 

解説かいせつしょ

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脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ 人物じんぶつとしての孟子もうし一般いっぱんに「もうし」とむが、書物しょもつとしての『孟子もうし』は「もうじ」とむ。なお、「もうし」の慣用かんようみも一般いっぱんしつつある。
  2. ^ Magill, Frank N. Magill and John Roth (1991). Masterpieces of World Philosophy. HarperCollins. p. 93. ISBN 0-06-270051-0 
  3. ^ ちょう岐『孟子もうし題辞だいじ』による
  4. ^
    孟子もうし曰:「しゅんなま於諸馮,遷於なつそつ於鳴じょう東夷あずまえびすひと也。ぶんおうせい於岐しゅうそつ於畢郢,西にし夷之えびすのじん也。相去あいさり也,せん有餘ゆうよさとこれしょう也,せん有餘ゆうよとしとくこころざしぎょう乎中こくわか合符あいふぶしさきひじりきよし,其揆一也かずや。」 — 孟子もうしはなれ婁下
  5. ^ 杉山すぎやま清彦きよひこ. だい8かい中華ちゅうか」の世界せかいかんと「正統せいとう」の歴史れきし (PDF). 正統せいとう」の歴史れきしと「おうみつる」の歴史れきし (東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ): p. 6. オリジナルの2016ねん9がつ10日とおか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160910050756/https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/11348/8/notes/ja/08sugiyama20121203final.pdf 
  6. ^ a b おういさおたけし (2020ねん3がつ16にち). 基調きちょう講演こうえん記録きろく はなえびすへんはなけい研究けんきゅうあたらしいビジョン―”. 愛知大学あいちだいがく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ紀要きよう = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学あいちだいがく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ): p. 10-11. http://id.nii.ac.jp/1082/00010030/ 
  7. ^ かんあずまいく (2018ねん9がつ). 清朝せいちょうの「かん民族みんぞく世界せかい」における「大中おおなかはな」の表現ひょうげん : 『大義たいぎさとし迷録』から『きよしみかどへりくだくらい詔書しょうしょ』まで”. 北東ほくとうアジア研究けんきゅう = Shimane journal of North East Asian research (別冊べっさつ4) (島根しまね県立けんりつ大学北だいがくきたひがしアジア地域ちいき研究けんきゅうセンター): p. 17. http://id.nii.ac.jp/1377/00001920/ 
  8. ^ 小川おがわ剛生たけお南北なんぼくあさの『孟子もうし』の受容じゅよういち様相ようそう-二条にじょう良基よしもととその周辺しゅうへんから」(『国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん紀要きよう』28ごう(2002ねん2がつ)、所収しょしゅう:『二条にじょう良基よしもと研究けんきゅう』(笠間かさま書院しょいん、2005ねんISBN 978-4-305-10362-8 だいよんへんだいさんしょうだいせつ孟子もうし受容じゅよう」)
  9. ^ 童子どうじといだいさんしょう、「天下てんかかたりはじめしょいたリテつきク。ふく(また)ウベキコトシ。うたぐフ勿カレ。」
  10. ^ どうだいななしょう學者がくしゃ孟子もうこ熟讀じゅくどくセズンバ、必ズ論語ろんごノ羲ニたちスルコトのうハズ。ぶた論語ろんごいかだナリ。」
  11. ^ 大学だいがく中庸ちゅうよう」は金谷かなやおさむ訳注やくちゅう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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