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赤穂事件の人物一覧 - Wikipedia

赤穂あこう事件じけん人物じんぶつ一覧いちらん

赤穂あこう事件じけん吉良きら義央よしなからを殺害さつがいした武士ぶしたち
赤穂あこう浪士ろうしから転送てんそう
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赤穂あこう事件じけん人物じんぶつ一覧いちらん(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂あこう浪士ろうし(あこうろうし)をはじめとした、赤穂あこう事件じけん関連かんれんする人物じんぶつかんして記載きさいする。

赤穂あこう浪士ろうし 編集へんしゅう

 
赤穂あこう浪士ろうし扮装ふんそう歌舞伎かぶきなどの創作そうさくにおいてひろまった典型てんけいてきりの装束しょうぞくだが、史実しじつではない。

赤穂あこう浪士ろうし(あこうろうし)とは、元禄げんろく15ねん12月14にち1703ねん1がつ30にちよる江戸えど本所ほんじょにおいて、この前年ぜんねん赤穂あこうはんあるじ浅野あさの長矩ながのり内匠たくみあたま)が遺恨いこんありとして殿中でんちゅう刃傷にんじょうおよぶもらした高家こうか肝煎きもいり吉良きら義央よしなか上野うえのかい)の首級しゅきゅうをあげ、主君しゅくん浅野あさの長矩ながのり内匠たくみあたま)の墓前ぼぜんそなえた大石おおいし良雄よしお内蔵助くらのすけ以下いか46にんきゅう赤穂あこうはんのことをいう[1]討入うちいりのさい脱落だつらくした寺坂てらさか信行のぶゆき吉右衛門きちえもん)もくわえて一般いっぱんよんじゅうななという[1]

よんじゅうなな行為こうい賞賛しょうさんする立場たちばからは、よんじゅうななこと赤穂あこう義士ぎし(あるいはたん義士ぎし)とぶ。 それ以外いがい立場たちば場合ばあいは、よんじゅうななふくめた赤穂あこうはん浪人ろうにんこと赤穂あこう浪士ろうしことおおいが、この名称めいしょう事件じけんのあった元禄げんろく時代じだいには一般いっぱんてき言葉ことばではなく、作家さっか大佛だいぶつ次郎じろうがこれまでの義士ぎしとしてのよんじゅうななぞう浪人ろうにんとしてのよんじゅうななだい転換てんかんする意図いとっていた小説しょうせつ赤穂あこう浪士ろうし』で一般いっぱんてきになったものである[2]。(ただし先行せんこうさくにも使用しようれいあり[3])。


赤穂あこう浪士ろうしほうむられた泉岳寺せんがくじでは、現在げんざい毎年まいとしりの義士ぎしさいもよおしている(りの元禄げんろく15ねん12月14にち(1703ねん1がつ30にち深夜しんや[注釈ちゅうしゃく 1]。また元禄げんろく15ねん12月15にち西暦せいれき1703ねん1がつ31にちであるが、義士ぎしさいグレゴリオれき12月14にちおこなわれている)。

参加さんかしゃ傾向けいこう 編集へんしゅう

参加さんかしゃ半数はんすうきょうにあたる24にんが、内匠たくみあたま刃傷にんじょうさい江戸えどにいた浪士ろうしたちである[4]藩士はんしおおくは国元くにもとにいたことかんがえれば、この比率ひりつ際立きわだってたかい。 国元くにもと在住ざいじゅうだが江戸えどまで内匠たくみあたまについてきて刃傷にんじょう事件じけん遭遇そうぐうしたものも12にんいる[4]

家臣かしんだん頂点ちょうてん位置いちする家老がろう4にん番頭ばんがしら5にんのうち、りに参加さんかしたのは内蔵ないぞうすけのみで[4]ものあたま吉田よしだ忠左衛門ちゅうざえもんはら惣右衛門そうえもんのみであり[4]のこりは用人ようにんうままわり小姓こしょう、およびその家族かぞく大半たいはんであった[4]

また親族しんぞくでの参加さんかおおく、単独たんどくりに参加さんかしたものは21にんのこり26にん親子おやこあるいはなんらかの親族しんぞく関係かんけいのものとともにりに参加さんかしている[4]


参加さんかしゃおおくは内匠たくみあたま個人こじんから特別とくべつ恩寵おんちょうけたものはおらず[5] 、むしろ内匠たくみあたまとの関係かんけいわるかったものもいた。

例外れいがい片岡かたおか源五右衛門げんごえもん磯貝いそがい十郎左衛門じゅうろうざえもんで、かれらは浅野内匠頭あさのたくみのかみ側近そっきんであり、一昔ひとむかしまえであれば内匠たくみあたまとともに殉死じゅんしするような関係かんけいにある[6]

一方いっぽう内匠たくみあたま関係かんけいわるかったれいとしては千馬ちば三郎兵衛さぶろべえがおり、千馬ちば主君しゅくん度々どど諫言して不興ふきょうい、閉門へいもんにさせられ、刃傷にんじょう事件じけんのあった元禄げんろく14ねんの3がつにはえい暇乞いとまごいをしようとしていたほどであったにもかかわらず、りに参加さんかしている[5]

不破ふわ数右衛門かずえもん内匠たくみあたまから勘気かんきこうむり、刃傷にんじょう事件じけんさいには浪人ろうにんちゅうだったにもかかわらず、内蔵助くらのすけたのんでりに参加さんかしている[5]

脱落だつらくしゃ傾向けいこう 編集へんしゅう

赤穂あこう藩士はんし士分しぶん隠居いんきょふくめたさんひゃくすうじゅうにんのうち[7]、1/3以上いじょう神文しんもん提出ていしゅつ[7]。そこから80めいほどがだっめい[7]りに参加さんかしたのは46めい寺坂てらさか士分しぶんではなく足軽あしがる身分みぶん)であった。 神文しんもん提出ていしゅつ段階だんかいでまず下級かきゅう武士ぶしがいなくなり[7]、そこから46にんしぼられる段階だんかい比較的ひかくてき高禄こうろくのものが離脱りだつした[7]

最初さいしょ下級かきゅう武士ぶしがいなくなったのは、町人ちょうにんになるなど生計せいけいてるみちがあったからであろうし[7]、その高禄こうろくのものが離脱りだつしたのは浅野あさの大学だいがく処分しょぶんまりおいえ再興さいこうみちざされたためだろう[7]

離脱りだつしゃとき参加さんかしゃから義絶ぎぜつされたり不通ふつうにされたりするが、それは参加さんかしゃ離脱りだつしゃ援助えんじょけられなくなるということでもあった[8][注釈ちゅうしゃく 2]

よんじゅうなな 編集へんしゅう

氏名しめい 事柄ことがら役職やくしょくろくだか役割やくわり享年きょうねん辞世じせいなど)
大石おおいし内蔵助くらのすけ良雄よしお
おおいしくらのすけよしお(よしたか)
国家老くにがろう、1500せき譜代ふだい)。りの指導しどうしゃ享年きょうねん45。辞世じせいは「あららくおもひははれるゝは捨つる浮世うきよつきにかゝるくもなし」とされる場合ばあいおおいが、熊本くまもとはん堀内ほりうちあずかった真筆しんぴつは「武士ぶし矢並やなみつくろふ 小手こてのうへに あられたはしる 那須なすのしのはら」。
大石おおいし主税ちから良金よしかね
おおいしちからよしかね
部屋住へやずみ。大石おおいし良雄よしお長男ちょうなん大石おおいし内蔵助くらのすけ嫡男ちゃくなんよんじゅうななでは最年少さいねんしょうで、内匠たくみあたま刃傷にんじょうさい元服げんぷくまえ幼名ようみょうまつすすむ名乗なのっていた[9]りのさいには裏門うらもんたい大将たいしょうつとめた[9]享年きょうねん16[9]

辞世じせいは「あふときはかたりつくすとおもへどもわかれとなればのこること」。

はら惣右衛門そうえもん元辰もととき
はらそうえもんもととき
足軽あしがるあたま、300せき新参しんざん)。はやくから江戸えど急進きゅうしん同調どうちょうしていた。享年きょうねん56。辞世じせいは「きみがためおもえもつもるしろゆきらすは今朝けさみね松風まつかぜ」。
片岡かたおか源五右衛門げんごえもん高房たかふさ
かたおかげんごえもんたかふさ
側用人そばようにん小姓こしょうあたま、350せき譜代ふだい)。浅野あさの長矩ながのり遺体いたいる。芝居しばい忠臣蔵ちゅうしんぐらでは主君しゅくん切腹せっぷくまえ最後さいご対面たいめんをした。かたきちを強硬きょうこう主張しゅちょう独自どくじ行動こうどうをとっていた。享年きょうねん37。
堀部ほりべ弥兵衛やへえ金丸かねまる
ほりべやへえかなまる(あきざね)
ぜん江戸えど留守居るすいぜん300せき隠居いんきょりょう20せき譜代ふだい)。高田馬場たかだのばば決闘けっとうせた安兵衛やすべえいてもとめて養子ようしにした[10]よんじゅうななさい高齢こうれい享年きょうねん77[10]辞世じせいは「ゆきはれておもひをとげるあしたかな」。
堀部ほりべ安兵衛やすべえ武庸たけつね
ほりべやすべえたけつね
うままわり、200せき越後えちごこく新発田しばたはん出身しゅっしん旧姓きゅうせい中山ちゅうざん。25さいとき[11]おい叔父おじ義理ぎりむすんだ菅野かんの六郎ろくろう左衛門さえもん危機きき助太刀すけだちした高田馬場たかだのばば決闘けっとうせ、堀部金丸ほりべあきざね婿養子むこようしとなる。赤穂あこう浅野あさの家臣かしんとなる。かたき急進きゅうしん中心ちゅうしん人物じんぶつ享年きょうねん34[11]辞世じせいは「梓弓あずさゆみためしにも武士ぶしみちは迷はぬあとおもはば」。
吉田よしだ忠左衛門ちゅうざえもん兼亮かねすけ
よしだちゅうざえもんかねすけ
大石おおいし内蔵助くらのすけいで事実じじつじょうふく頭領とうりょう[12]足軽あしがるあたまぐん奉行ぶぎょう、200せきやくりょう50せき譜代ふだい)。享年きょうねん64。辞世じせいは「かねてよりきみははとにしらせんとひとよりいそぐ死出しで山道さんどう」。寺坂てらさか信行のぶゆきあるじ
吉田よしだ沢右衛門さわえもんけんさだ
よしださわえもんかねさだ
部屋住へやずみ。くら奉行ぶぎょう吉田よしだ兼亮かねすけ長男ちょうなん享年きょうねん29。
近松ちかまつ勘六かんろく行重ゆきしげ
ちかまつかんろくゆきしげ
うままわり、250せき譜代ふだい)。りのさい負傷ふしょうする。享年きょうねん34。
間瀬ませ久太夫きゅうだゆう正明まさあき
ませきゅうだゆうまさあき
大目おおめづけ、200せきやくりょう50せきだい)。享年きょうねん63。
間瀬ませ孫九郎まごくろう正辰まさとき
ませまごくろうまさとき
部屋住へやずみ。間瀬ませ正明まさあき長男ちょうなん享年きょうねん23。
赤埴あかはに源蔵げんぞう重賢しげかた
あかばねげんぞうしげかた
うままわり、200せき譜代ふだい)。忠臣蔵ちゅうしんぐらでは「徳利とっくりわかれ」で有名ゆうめい享年きょうねん35。
潮田うしおだ又之丞またのじょうだかきょう
うしおだまたのじょうたかのり
ぐん奉行ぶぎょう絵図えず奉行ぶぎょう、200せき譜代ふだい)。享年きょうねん35。吉良きら義央よしなかるとその首級しゅきゅうやりさきくくりつけげた。辞世じせいは「武士ぶしみちとばかりを一筋ひとすじおもだてぬる死出しで旅路たびじを」。
とみもり助右衛門すけえもん正因まさより
とみのもりすけえもんまさより
うままわり使番つかいばん、200せきだい)。享年きょうねん34。屋内おくないせん有利ゆうりな9しゃくたんやり使用しようした。辞世じせいは「先立さきだてひともありけりけふのをつひの旅路たびじおもにして」。
不破ふわ数右衛門かずえもん正種まさたね
ふわかずえもんまさたね
もとうままわりはま奉行ぶぎょうもと100せき譜代ふだい)。元禄げんろく10ねんごろ[13]浅野内匠頭あさのたくみのかみ勘気かんきけて浪人ろうにんしていたが、浅野内匠頭あさのたくみのかみ刃傷にんじょう大石おおいし内蔵助くらのすけゆるされて帰参きさんし、りに参加さんか[13]吉良きらていりでは裏門うらもん屋外おくがいかためるやくであったが、じっとしてられずなか侵入しんにゅうし、二人ふたりだおし、吉良きらひだり兵衛ひょうえりかかった。ひだり兵衛ひょうえげてしまったものの、べつ一人ひとりりあいをしてたお[14]いのしすぎでかたながささらのようになりくなるほどだったという[14]かんった仙石せんごく指示しじによりおながたな介錯かいしゃくされたともつたわる[15]享年きょうねん34[13]
岡野おかの金右衛門きんえもん包秀かねひで
おかのきんえもんかねひで
部屋住へやずみ。十文字じゅうもんじやり使つかであり、せまもんからしてげくるものを突殺した。忠臣蔵ちゅうしんぐら物語ものがたりでは美男びなんとされ、大工だいくむすめつうじて吉良きら屋敷やしき図面ずめんれたとなっており、またちち内蔵ないぞうすけ放蕩ほうとう頓死とんしするが、いずれも史実しじつではない。享年きょうねん24。辞世じせいは「そのにおいゆきのあさぢのうめかな」。
小野寺おのでら十内じゅうない秀和しゅうわ
おのでらじゅうないひでかず
京都きょうと留守居るすいばん、150せきやくりょう70せき譜代ふだい)。享年きょうねん61。辞世じせいは「いまははやことそうもなかりけりなにのためとてつゆむすぶらむ」。
小野寺おのでら幸右衛門こうえもん秀富ひでとみ
おのでらこうえもんひでとみ
部屋住へやずみ。小野寺おのでら秀和ひでかず養子ようし享年きょうねん28。辞世じせいは「今朝けさもはやいふこともなかりけりなにのためとてつゆむすぶらん」。
木村きむら岡右衛門おかえもん貞行さだゆき
きむらおかえもんさだゆき
うままわり絵図えず奉行ぶぎょう、150せき譜代ふだい)。享年きょうねん46。辞世じせいは「おもひきや武士ぶしみちならで御法みのりのゑんにあふとは」。
奥田おくだ孫太夫まごだゆう重盛しげもり
おくだまごだゆうしげもり
武具ぶぐ奉行ぶぎょう江戸えど定府じょうふ、150せき新参しんざん)。かたき急進きゅうしん中心ちゅうしん人物じんぶつ享年きょうねん57。
奥田おくだ貞右衛門さだえもん行高ゆきたか
おくださだえもんゆきたか
部屋住へやずみ。奥田おくだ重盛しげもり養子ようし近松ちかまつ勘六かんろく異母弟いぼてい享年きょうねん26。
早水はやみ藤左衛門とうざえもん満尭みつたか
はやみとうざえもんみつたか
うままわり、150せきだい)。刃傷にんじょう事件じけん第一報だいいっぽう江戸えどから赤穂あこうつたえる。享年きょうねん40。辞世じせいは「地水火風空ちすいかふうくうのうちよりのたどりてかえるもとのすみかに」。
矢田やた五郎右衛門ごろうえもん助武すけたけ
やだごろうえもんすけたけ
うままわり江戸えど定府じょうふ、150せきだい)。享年きょうねん29。
大石おおいし瀬左衛門せざえもん信清のぶきよ
おおいしせざえもんのぶきよ
うままわり、150せき譜代ふだい)。享年きょうねん27。
いそかい十郎左衛門じゅうろうざえもん正久まさひさ
いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
ものあたま側用人そばようにん、150せき新参しんざん)。享年きょうねん25。
あいだ喜兵衛きへえ光延みつのぶ
はざまきへえみつのぶ
勝手かってかた吟味ぎんみやく、100せきだい)。享年きょうねん69。辞世じせいは「草枕くさまくらむすぶかり寐のゆめさめて常世とこよにかへるはるあけぼの」。
あいだ十次郎じゅうじろう光興みつおき
はざまじゅうじろうみつおき
部屋住へやずみ。あいだ光延みつのぶ長男ちょうなん吉良上野介きらこうずけのすけ一番槍いちばんやりをつけ、武林たけばやし絶命ぜつめいさせたその首級しゅきゅうをあげた。享年きょうねん26。辞世じせいは「ついにそのつにぞたまいとぐちのけふえて死出しで山道さんどう」。
あいだ新六郎しんろくろう光風こうふう
はざましんろくろうみつかぜ
あいだ光延みつのぶ次男じなん養子ようしされたが養父ようふいがわる江戸えど浪人ろうにんになっていた。ねがめいくわえられた。赤穂あこう義士ぎしのなかで本当ほんとう切腹せっぷくしている[16]享年きょうねん24。辞世じせいは「おもえくさしげるれる野辺のべ旅枕たびまくら仮寝かりねゆめむすばざりしを」。
中村なかむら勘助かんすけ正辰まさとき
なかむらかんすけまさとき
書物しょもつやく、100せき譜代ふだい)。享年きょうねん46。辞世じせいは「うめこう日足ひあしつて大書たいしょいん」。
千馬ちば三郎兵衛さぶろべえ光忠みつただ
せんば(ちば)さぶろべえみつただ
うままわり、100せきだい)。享年きょうねん51。
菅谷すがや半之丞はんのじょう政利まさとし
すがやはんのじょうまさとし
うままわり郡代ぐんだい、100せき譜代ふだい)。享年きょうねん44。
村松むらまつ喜兵衛きへえ秀直ひでなお
むらまつきへえひでなお
扶持ふち奉行ぶぎょう江戸えど定府じょうふ、20せき5にん扶持ふちだい)。享年きょうねん62。辞世じせいは「いのちにもかえぬいちをうしなはばげかくれてもこゝをのがれん」。
村松むらまつ三太夫さんだゆう高直こうじき
むらまつさんだゆうたかなお
部屋住へやずみ。村松むらまつ秀直ひでなお長男ちょうなん享年きょうねん27。辞世じせいは「極楽ごくらくことわりなしにとおらばやわたる陀諸どもよんじゅうはちにん」。
倉橋くらはし伝助でんすけ武幸たけゆき
くらはしでんすけたけゆき
扶持ふち奉行ぶぎょう中小ちゅうしょうせい、20せき5にん扶持ふちだい)。享年きょうねん34。
岡嶋おかじま八十右衛門やそえもん常樹つねき
おかじまやそえもんつねしげ
さつ勘定かんじょう奉行ぶぎょう、20せき5にん扶持ふちだい)。はら惣右衛門そうえもんおとうと享年きょうねん38。
大高おおだか源五げんご忠雄ただお
おおたかげんごただお(ただたけ)
きむ奉行ぶぎょうぜんばん元方もとかたこしぶつかた、20せき5にん扶持ふち小野寺おのでら秀富ひでとみあに俳諧はいかいをよくして『ツのたけ』の俳諧はいかい撰集せんしゅうがある。享年きょうねん32。辞世じせいは「うめ茶屋ちゃやもあるべし死出しでやま」。
あたま右衛門七えもしち教兼のりかね
やとう(やこうべ)えもしちのりかね
部屋住へやずみ(譜代ふだい)。刃傷にんじょうちちあたま長助ちょうすけとともに盟約めいやくくわわったが、大阪おおさかうつんだころからちちやまいたおれ、かえらぬひととなったため、右衛門七えもしちのみがりに参加さんかする[17]りへの参加さんかは、やまいたおれていたころからのちち遺言ゆいごんであったという[18]大石おおいし主税ちから若年じゃくねん[17]享年きょうねん18[17]
勝田かつた新左衛門しんざえもん武尭たけたか
かつたしんざえもんたけたか
さつ横目よこめ、15せき3にん扶持ふち譜代ふだい)。享年きょうねん24。
武林たけばやし唯七ただしち隆重たかしげ
たけばやしただしちたかしげ
うままわり、15りょう3にん扶持ふちだい)。武林たけばやし唯七ただしち豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさい捕虜ほりょになった中国人ちゅうごくじんまごで、中国ちゅうごく浙江せっこうしょう武林たけばやし出身しゅっしんだったことからせい武林たけばやし名乗なのった[19]唯七ただしち上方かみがたではもっと急進きゅうしんてき同志どうし一人ひとりであった[19]享年きょうねん32。辞世じせいは「さんじゅう年来ねんらいいち夢中むちゅう 捨ゆめひさしどう そうおややまい故郷こきょうざい おんゆめどもそら」(「」はかん詩文しぶん訓読くんどくかえてん)。
前原まえはら伊助いすけ宗房むねふさ
まえばらいすけむねふさ
きむ奉行ぶぎょう中小ちゅうしょうせい、10せき3にん扶持ふちだい)。江戸えど呉服ごふくひら吉良きら屋敷やしき探索たんさくした。享年きょうねん40。辞世じせいは「春来はるきんとさしもしらじな年月としつきのふりゆくものはひと白髪はくはつ」。
貝賀かいが弥左衛門やざえもん友信とものぶ
かいがやざえもんとものぶ
中小ちゅうしょうせいぞう奉行ぶぎょう、10りょう3にん扶持ふち新参しんざん)。吉田よしだ兼亮かねすけおとうと享年きょうねん54。
杉野すぎの十平次じゅうへいじ次房つぎふさ
すぎのじゅうへいじつぎふさ
さつ横目よこめ、8りょう3にん扶持ふちだい)。享年きょうねん28。
神崎かんざき与五郎よごろう則休のりやす
かんざきよごろうのりやす
目付めつけ、5りょう3にん扶持ふち新参しんざん)。享年きょうねん38。辞世じせいは「ほしはよそづかひやそらかわ」。
三村みつむら次郎左衛門じろうざえもん包常かねつね
みむらじろうざえもんかねつね
台所だいどころ奉行ぶぎょうさけ奉行ぶぎょう、7せき2人ふたり扶持ふちだい)。享年きょうねん37。
横川よこかわ勘平かんぺい宗利むねとし
よこかわかんべいむねとし
目付めつけ、5りょう3にん扶持ふち新参しんざん)。12月14にち吉良きら屋敷やしき茶会ちゃかいがあることを調しらべる。享年きょうねん37。辞世じせいは「まてしばし死出しで遅速ちそくはあらんともまつさきかけてみちしるべせむ」。吉良きらてい茶会ちゃかいひらかれる茶坊主ちゃぼうず手紙てがみぬすみして「茶会ちゃかいじゅうよんにち」と大石おおいし報告ほうこくまった[20]
茅野ちの和助わすけ常成つねなり
かやのわすけつねなり
横目よこめづけ、5りょう3にん扶持ふち新参しんざん)。享年きょうねん37。辞世じせいは「てんそとはあらじな千種ちくさたにほんさく野辺のべに枯るるとおもへはいのちさきにかかるいのち」。
寺坂てらさか吉右衛門きちえもん信行のぶゆき
てらさかきちえもんのぶゆき
吉田よしだ兼亮かねすけ足軽あしがる、3りょう2ふん2人ふたり扶持ふちよんじゅうななではもっと身分みぶんひくく、の46にん士分しぶんなのにたいし、寺坂てらさか士分しぶんではなく足軽あしがるである[21]。おそらくもともとは百姓ひゃくしょう[22]吉田よしだ忠左衛門ちゅうざえもん家来けらいになったが、忠左衛門ちゅうざえもん足軽あしがるあたまになったことにより忠左衛門ちゅうざえもん足軽あしがるからはん直属ちょくぞく足軽あしがる昇格しょうかく[22]りには参加さんかしたがげのさい姿すがたした。それゆえ赤穂あこう浪士ろうし切腹せっぷくのちのこる。享年きょうねん83[21]

死亡しぼうしゃ 編集へんしゅう

赤穂あこう義士ぎし斬殺ざんさつされた吉良きら以外いがい死者ししゃつぎの14にん[23]史料しりょうによってはのちに死亡しぼうした重傷じゅうしょうしゃくわ人数にんずうことなる場合ばあいあり。また、火事かじ連呼れんこ狂言きょうげんだと見破みやぶってられた門番もんばん士分しぶんではなく、上杉うえすぎ家重いえしげしん大石おおいしかかえて派遣はけんしたわた中間ちゅうかんるいだとしているものもある。

大河内おおこうち文書ぶんしょ』によれば、赤穂あこう浪士ろうし吉良きらていりのさいげようとしたところを赤穂あこう浪士ろうしたちらえられ、「上野うえのかい義央よしなか)はどこか?」とかれたのにたいして、「下々しもじもものなのでらない」とこたえるも、「下々しもじもきぬ衣服いふくているはずがない」とわれ、くびとされたとしている[24]
一方いっぽう赤穂あこうかた落合おちあい与左衛門よざえもん瑤泉院ようせんいん用人ようにん)のしょといわれる『こうあか見聞けんぶん』には「小林こばやし平八へいはちは、やりっさげてはげしくたたかい、上野うえのかいをよくまもったが、大勢おおぜい赤穂あこう浪士ろうしたたかってついにられた」となっている[24]
忠臣蔵ちゅうしんぐら武者むしゃ肉筆にくひつなどでは、女性じょせいまと女装じょそう剣客けんかくとしてえがかれている。中島なかじま八右衛門はちえもんたつせい(ときまさ)は曾孫そうそん
 
代目だいめ尾上おがみ菊五郎きくごろうふんする清水しみずいちがく豊原とよはら国周くにちか
大河内おおこうち文書ぶんしょ』には吉良上野介きらこうずけのすけ吉良きら義周よしちかにおきょうして、「少々しょうしょうおののいてたれこう」とある[25]。『こうあか見聞けんぶん』によれば、当時とうじよんじゅうさい台所だいどころんだ[25]一方いっぽう吉良きらがわ資料しりょう大熊おおくま弥一やいちみぎ衛門えもん見聞けんぶんしょ』によると、吉良きらとともに小屋こやなかにいた3にん一人ひとりである(二人ふたり須藤すとう与一よいちみぎ衛門えもん鳥居とりい利右衛門りえもん[27]。3にんのうちいちにん堀部ほりべ安兵衛やすべえ矢田やた五郎右衛門ごろうえもんめ、もう一人ひとりあいだ十次郎じゅうじろうやりいた[よう出典しゅってん]最後さいご一人ひとりについてはしょ記録きろく記載きさいがない[よう出典しゅってん]
忠臣蔵ちゅうしんぐらではけん達人たつじんとしてつたわり、もっと奮戦ふんせんした剣客けんかくとしてえがかれている。にわこおったいけ石橋いしばしうえ奮戦ふんせんたおちるシーンがよくえがかれる。
歌舞伎かぶきでは「清水しみず一角いっかく[28] 、「清水しみず大学だいがく[29]などと表現ひょうげんされる。
なお、いちがくあにふじ兵衛ひょうえ旧姓きゅうせい児玉こだまふくし、その子孫しそん今日きょうまでつづいている。
  • しんかいわたる七郎しちろう 近習きんじゅ 玄関げんかん やめおうもときゅう信士しんじまんあきらいん
  • 笠原かさはらちょうみぎ衛門えもん 祐筆ゆうひつ 書院しょいん
  • 大須賀おおすが治部じぶみぎ衛門えもん 用人ようにん 台所だいどころこう
  • 榊原さかきばらひらみぎ衛門えもん 文官ぶんかん どう
  • 大石おおいしはんみぎ衛門えもん 門番もんばん 馬屋うまやまえ
  • 鈴木すずきただしちく 僧侶そうりょ しょう玄関げんかんまえ
  • すぎ松三まつぞう左衛門さえもん 祐筆ゆうひつ 小屋こや出口でぐち
  • 牧野まきのはるとき 僧侶そうりょ どう こころおうもと信士しんじまんあきらいん
  • 須藤すとう与一よいちみぎ衛門えもん 取次とりつぎ みなみ書院しょいん
吉良きらとともに小屋こやなかにいた3にん一人ひとり(『大熊おおくま弥一やいちみぎ衛門えもん見聞けんぶんしょ』)[27]
宝蔵ほうぞういんりゅう槍術そうじゅつ赤穂あこう義士ぎし翻弄ほんろうしたという[30]吉良きらとともに小屋こやなかにいた3にん一人ひとり(『大熊おおくま弥一やいちみぎ衛門えもん見聞けんぶんしょ』)[27]
  • 斎藤さいとう清左衛門せいざえもん 小姓こしょう どう ほんおきな元来がんらい信士しんじまんあきらいん

負傷ふしょうのち死亡しぼう

  • 大河内おおこうち六郎ろくろう左衛門さえもん けんしつむねかん信士しんじまんあきらいん

その関連かんれん人物じんぶつ 編集へんしゅう

赤穂あこうはん 編集へんしゅう

浅野内匠頭あさのたくみのかみ長矩ながのり
赤穂あこうはんおもまつだい廊下ろうか吉良きら義央よしなか刃傷にんじょうおよ即日そくじつ切腹せっぷく辞世じせいは「ふうさそふはなよりもなおはまたはる名残なごりをいかにとか(や)せん」というがこれは「門伝もんでん八郎はちろう筆記ひっき」にあるだけで、多門たもん創作そうさくかんがえられる。(「元禄げんろく赤穂あこう事件じけん」p122)
瑤泉院ようせんいん
浅野あさの長矩ながのり正室せいしつ自身じしん化粧けしょうりょうである赤穂あこう塩田えんでんからがった運上うんじょうぎん大石おおいしたくした。
浅野あさの大学だいがく長広ながひろ
浅野あさの長矩ながのり実弟じってい浅野あさの長矩ながのり養嗣子ようししとなる。刃傷にんじょう事件じけん閉門へいもんとなり、のち領地りょうちげ、浅野あさの宗家そうけえいあづけとなる。この処分しょぶん大石おおいし良雄よしお吉良きら殺害さつがい決意けついする。
大野おおの九郎兵衛くろべえぼう
国家老くにがろう650せき次席じせき)。平時へいじには藩札はんさつのシステムをつくるなどの貢献こうけんがあった[31]
しかし赤穂あこうはん改易かいえきまると、切腹せっぷく反対はんたいするなど弱腰よわごし姿勢しせいせ、はら惣右衛門そうえもん賛同さんどうできないものはこのるようにとうと、大野おおのは10にんほどのものとともにった[32]
4がつ12にち赤穂あこうじょうわたしが決定けっていすると、そのばん息子むすこぐんみぎ衛門えもんとともに逃亡とうぼうした[33][34]逃亡とうぼうさいぐんみぎ衛門えもんおさなむすめりしていったという[34]
逃亡とうぼう原因げんいんは、『こうあか見聞けんぶん』のまきによると、大野おおのはんきん分配ぶんぱいかんして岡島おかじま八十右衛門やそえもんめ、いのち危険きけんかんじたことが原因げんいんだというが、よくからない[34]
こうした経緯けいいもあってか、忠臣蔵ちゅうしんぐらのドラマでは「義士ぎし」の親玉おやだまとしてえがかれることがおおく、元禄げんろく16ねんかれた『えきすい連袂れんべいろく』ではすでに「日本にっぽん無双むそうだい臆病おくびょう腰抜こしぬけ」とえがかれている[34]
宮澤みやざわ誠一せいいちは「義士ぎし伝説でんせつ創出そうしゅつされるさい大野おおのがいわば悪役あくやくとしてスケープゴートにされたかたちだとひょうしている[34]
安井やすい彦右衛門えもん
江戸家えどやろう650せき江戸えど扶持ふち9にんはん勅使ちょくし御馳走ごちそうやくとなった主君しゅくん浅野内匠頭あさのたくみのかみ補佐ほさ失敗しっぱいする。
藤井ふじいまた左衛門さえもんそうしげる
家老がろう800せき勅使ちょくし御馳走ごちそうやくとなった主君しゅくん浅野あさの長矩ながのり補佐ほさ失敗しっぱいする。藤井ふじい直明なおあき長矩ながのり批判ひはんして勘当かんどうされた長男ちょうなん
近藤こんどうはじめはち正憲まさのり
1000せき大石おおいし良雄よしお縁者えんじゃめいには参加さんかしていない。
岡林おかばやしもくじょ直之なおゆき
組頭くみがしら1000せき開城かいじょう恭順きょうじゅんめいには不参加ふさんかあにまご左衛門さえもんおとうと左門さもん親族しんぞく不義ふぎをなじられ、おとうと介錯かいしゃくにより12月28にち切腹せっぷくした[35]
寺井てらいげんけい
はん300せき5にん扶持ふち円山まるやま会議かいぎ以前いぜんから浪士ろうしたちの活動かつどうささえており、りに参加さんかしたいという意思いしっていたが、げんけい武士ぶしでないという理由りゆうにより、内蔵助くらのすけことわられている[36]

だつめいしたもと赤穂あこう藩士はんし 編集へんしゅう

高田たかだ郡兵衛ぐんべえ
江戸詰えどづめ200せき15にん扶持ふち
りに参加さんかした堀部ほりべ奥田おくだおな堀内ほりうち道場どうじょう同門どうもんであったためか[37]江戸えど急進きゅうしん一人ひとりとしてこのにんとともに行動こうどうし、吉良きらつよう大石おおいしせまっていたにもかかわらず、だつめいした。父方ちちかた伯父おじ高田たかだ養子ようしにしたいとってきたのをことわりきれず、仲介ちゅうかいにたった高田たかだあにかたきちのことを伯父おじはなさざるをなくなったからである[38]高田たかだ堀部ほりべ相談そうだんし、伯父おじ納得なっとくさせるためにだつめい[38]最初さいしょだつめいしゃとなった[39]元禄げんろく14ねん12がつごろのことである[40]
泉岳寺せんがくじかう赤穂あこう浪士ろうしたちのもとにけつけたが、堀部ほりべ以外いがい全員ぜんいんから無視むしされた[38]。そのさけって赤穂あこう浪士ろうしのいる泉岳寺せんがくじにもおこなったが、赤穂あこう浪士ろうしからは「ころしてやりたい」とののしられた[38]
萱野かやの三平さんぺい重実しげざね
中小ちゅうしょうせい近習きんじゅ12りょう2ふん3にん扶持ふち刃傷にんじょう事件じけん第一報だいいっぽう赤穂あこうへもたらした。
めいくわわるが、ちち他家たけちちあに主君しゅくんである大島おおしま義也よしや)への仕官しかんくちつけ、内諾ないだくをもらってしまう。板挟いたばさみになった三平さんぺい元禄げんろく15ねん1がつ14にち切腹せっぷく自害じがいしてしまった[38]

仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』の早野はやの勘平かんぺいのモデル。

橋本はしもと平左衛門へいざえもん
うままわり100せきめいくわわるが、大阪おおさかしじみかわ茶屋ちゃや淡路あわじ遊女ゆうじょ「はつ」にれあげ、2人ふたり心中しんじゅうしてしまった[41][42]
2人ふたり心中しんちゅうの元禄げんろく15ねん7がつ15にちのことだとされるが[41]後記こうき佐々ささ小左衛門こざえもん早水はやみ藤左衛門とうざえもんにあてた手紙てがみではそれは11月のことだとある[42]
奥野おくのすすむかんていりょう
組頭くみがしら1000せき大石おおいし親戚しんせき[43]しろわたしのさい最初さいしょ血判けっぱんじょう署名しょめいし、大石おおいしとともに幕府ばくふ対応たいおうにあたるなど、大石おおいしささえてきたが、円山まるやま会議かいぎのち、もう一度いちどいえ再興さいこう嘆願たんがんをすべきだと主張しゅちょうしてだつめいした[43]
小山こやま源五げんご左衛門さえもんりょう
足軽あしがるあたま300せき大石おおいし内蔵助くらのすけ親戚しんせき[44]大石おおいしつね行動こうどうともにしてきた中核ちゅうかくてきなメンバーだった[45]にもかかわらず、浅野あさの大学だいがく処分しょぶんまり、浅野あさの再興さいこうのぞみがなくなるとだつめいしてしまった[44]
なお、小山こやま山科やましな会議かいぎさいすでに消極しょうきょくてき姿勢しせいせていたが、同時どうじにそのうらでは堀部ほりべひとし急進きゅうしん同調どうちょうするような書状しょじょうおくっていた。それゆえ堀部ほりべとう急進きゅうしん小山こやまのことをしんじ、大石おおいしをはずして小山こやま急進きゅうしん首領しゅりょうかつぎあげようと画策かくさくしていたが、山科やましな会議かいぎでの態度たいど堀部ほりべひとし急進きゅうしん激怒げきどした[46]
また小山こやまむすめユウは、よんじゅうなな一人ひとりである潮田うしおだ又之丞またのじょうのもとにとついでいたが、源五げんご左衛門さえもんだつめいにより実家じっかかえされ、源五げんご左衛門さえもんともども又之丞またのじょうから義絶ぎぜつされた[47]
進藤しんどうみなもと四郎しろうしゅんしき
足軽あしがるあたま400せき小山こやま源五げんご左衛門さえもん同様どうよう大石おおいし内蔵助くらのすけ親戚しんせき[44]中核ちゅうかくてきなメンバーだった[45]が、浅野あさの大学だいがく処分しょぶんまり、浅野あさの再興さいこうのぞみがなくなるとだつめい[44]
大石おおいしまごよんろうしんきょう
大石おおいし親戚しんせきにあたる。円山まるやま会議かいぎには出席しゅっせきしたものの、そのままだつめいした[48]
実録じつろくぶつの『赤穂あこう義士ぎしでん一夕いっせきばなし』ではりと老母ろうぼ世話せわとどちらをするかおとうと大石おおいし瀬左衛門せざえもんくじいたとあるが、史実しじつではそのようなことはなく、大石おおいしまごよんろうだつめいによりよんじゅうなな一人ひとりであるおとうと大石おおいし瀬左衛門せざえもんから義絶ぎぜつされている[48]
岡本おかもと次郎左衛門じろうざえもん重之しげゆき
大阪おおさか留守居るすい400せき円山まるやま会議かいぎだつめい
多川たがわきゅう左衛門さえもん
とうあたま足軽あしがるあたま400せき開城かいじょうにあたって大石おおいし嘆願たんがんしょ幕府ばくふ目付めつけ提出ていしゅつしようとするが、にんあやまる。円山まるやま会議かいぎだつめい
田中たなかさだ四郎しろう
150せき浅野あさの長矩ながのり遺骸いがい埋葬まいそうした。片岡かたおか高房たかふさ行動こうどうともにする急進きゅうしんりをまえ逐電ちくでんした。酒色しゅしょくおぼくずしたとされる[49]病毒びょうどくのため、かおまでわっていたという[49]
しょう山田庄やまだのしょう左衛門さえもん
江戸詰えどづめ100せきめいくわわるが、よんじゅうなな一人ひとりである片岡かたおか源五右衛門げんごえもんから小袖こそでかねさんりょうぬすんで逃亡とうぼうした[50]深川ふかがわ会議かいぎのあった元禄げんろく15ねん11月2にちのことであった[49]さけ原因げんいんかねこまっていたという[49]
しょう左衛門さえもんちちであるいち閑は、このことをると胸元むなもとから背後はいごかべまでとおして自害じがいした[50][51]
渡辺わたなべはんみぎ衛門えもん
よんじゅうなな一人ひとり武林たけばやし唯七ただしちあに。は当初とうしょ盟約めいやく参加さんかしていたが、武林たけばやしから自分じぶんわって両親りょうしん面倒めんどうてほしいと説得せっとくされ、離脱りだつしている[52]。のち武林たけばやしいんたかし改名かいめいして広島ひろしまはんつかえた。
中村なかむらきよしみぎ衛門えもん
年老としおいたははいて盟約めいやくくわわったが、(老母ろうぼ世話せわたのんでいる人物じんぶつおもわれる)太郎左衛門たろうざえもん自殺じさつかんがえているとき、なか脅迫きょうはくのようなかたちりを断念だんねんさせられた[53]。のち神田かんだ明神下みょうじんした剣術けんじゅつ道場どうじょうぬし
瀬尾せおまご左衛門さえもん
大石おおいし良雄よしお家臣かしん山科やましな江戸えどきをめられて立腹りっぷくし、江戸えどまでついてきた[54]。そして内蔵助くらのすけひがしくだりに先行せんこうして瀬踏せぶやくをしたり平間ひらまむらかり宿やど斡旋あっせんしたりする活躍かつやくがあったが[55]矢野やの伊助いすけとともにだっめい[56]
だっめいは12月6にちのこととされるが[57]、『寺坂てらさか私記しき』によれば12にちであり[55][58]、これが事実じじつなら通常つうじょう最後さいごだつめいしゃ」とされる毛利もうり小平こだいらふとしよりものちだつめいしたことになる[55]
一説いっせつには赤穂あこうもどり、剃髪ていはつしてきゅうしんごうしたという。
矢野やの伊助いすけ
平間ひらまむら滞在たいざいしょ大石おおいし不在ふざいのあいだあずかるが、瀬尾せおまご左衛門さえもんとともにだつめい[55]、どこかへ逃亡とうぼう
毛利もうり小平こだいらふとし
だい納戸なんどやく20せき5にん扶持ふち。さる大名だいみょう下男げなんになりすまして吉良きらてい潜入せんにゅうし、世間せけんうほど警備けいび強固きょうこでないという報告ほうこくをもたらした[59]さんにちまえ元禄げんろく15ねん12月11にちだつめい[60]最後さいごだつめいしゃとなった。
同志どうしたちは毛利もうり本当ほんとうだつめいしたのかからず、前日ぜんじつになっても大石おおいし毛利もうり同志どうし一人ひとりとしてかぞえていたという[57]
だつめい経緯けいい不明ふめいのため、小説しょうせつ映画えいがでは様々さまざま動機どうき創作そうさくされている。
灰方はいがたふじ兵衛ひょうえ
武具ぶぐ奉行ぶぎょう150せき男色なんしょく相手あいて常陸ひたち浪人ろうにん村木むらき隼人はやとちして、きょう同棲どうせい[61]
佐々ささ小左衛門こざえもん
足軽あしがるあたま200せき大坂おおさか曽根崎新地そねざきしんち移住いじゅうする。
渡部わたなべすみ兵衛ひょうえ
在地ざいち奉行ぶぎょう150せき佐賀さがはん鍋島なべしまりょう逃亡とうぼう

浅野あさの親族しんぞく 編集へんしゅう

戸田とだ采女うねめただしじょう
美濃みのこく大垣おおがきはんおも浅野あさの長矩ながのり親類しんるい刃傷にんじょう事件じけん連座れんざして出仕しゅっしめられた。
安部あべ丹波たんばまもるしんみね
武蔵むさしこく岡部おかべはんおも浅野あさの長矩ながのり親類しんるい刃傷にんじょう事件じけん連座れんざして出仕しゅっしめられた。
浅野あさの美濃みのまもるちょうつね
幕府ばくふ旗本はたもと浅野あさの長矩ながのり大石おおいし良雄よしお親類しんるい刃傷にんじょう事件じけんりに連座れんざして出仕しゅっしめられた。
浅野あさのひだり兵衛ひょうえ長武ながたけ
幕府ばくふ旗本はたもと浅野あさの長矩ながのり大石おおいし良雄よしお親類しんるい浅野あさのちょうつねおとうと刃傷にんじょう事件じけんりに連座れんざして出仕しゅっしめられた。
松平まつだいら浅野あさの安芸あきまもるつなちょう
安芸あきこく広島ひろしまはんおも赤穂あこう浅野あさの本家ほんけすじ連座れんざおそれて吉良きらていりを妨害ぼうがいした。宝永ほうえい6ねん大赦たいしゃがなされたのち武林たけばやし隆重たかしげあに渡辺わたなべはんみぎ衛門えもん大石おおいし良雄よしお遺児いじ大石おおいしだいさんろう召抱めしかかえた。大石おおいし武林たけばやし両家りょうけともすうだい絶家ぜっけとされる。
浅野あさの土佐とさまもるちょうきよし
備後びんごこくさんはんおもつなちょうおとうと三好みよし浅野あさの瑤泉院ようせんいん実家じっかで、赤穂あこうはん改易かいえき瑤泉院ようせんいんった。

赤穂あこう浪士ろうし親族しんぞく 編集へんしゅう

りく
大石おおいし良雄よしおつま大石おおいし良金よしかねはは
大石おおいしくう
大石おおいし良雄よしお長女ちょうじょ大石おおいし良金よしかねいもうと
大石おおいし吉之よしゆきすすむ
大石おおいし良雄よしお次男じなん大石おおいし良金よしかねおとうと
大石おおいしるり
大石おおいし良雄よしお次女じじょ大石おおいし良金よしかねいもうと浅野あさの一族いちぞく浅野あさの長道ながみちとつぐ。
大石おおいしだい三郎さぶろう
大石おおいし良雄よしお三男さんなん大石おおいし良金よしかねおとうと広島ひろしま浅野本あさのほんちちおなじ1500せきつかえた。
けい
山科やましなでの大石おおいし良雄よしおわらわじゅうねんにわたり各地かくち放浪ほうろうしたのち旅先たびさき死亡しぼう[62]
堀部ほりべほり
堀部ほりべ武庸たけつねつま堀部金丸ほりべあきざねむすめ
内田うちだ三郎さぶろうみぎ衛門えもんもと
旗本はたもと高田たかだ郡兵衛ぐんべえだつめいさせる。
萱野かやの七郎しちろう左衛門さえもん重利しげとし
旗本はたもと大島おおしま義也よしや家老がろう萱野かやの重実しげざね父親ちちおや重実しげざね自刃じじん原因げんいんとなった。
松平まつだいらまご左衛門さえもんちゅうきょう
旗本はたもとりにくわわらなかったもと赤穂あこう藩士はんしおとうと岡林おかばやし直之なおゆきめて切腹せっぷくさせた。
小山田おやまだ一閃いっせん
しょう山田庄やまだのしょう左衛門さえもんちち江戸詰えどづめ100せき息子むすこ同志どうしかねぬすんで逃亡とうぼうしたことに愕然がくぜんとし自刃じじんした。
吉田よしだつたえない
吉田よしだ兼亮かねすけよんなん赤穂あこう事件じけん連座れんざして伊豆いず大島おおしまながされた。赦免しゃめん仕官しかんできず、出家しゅっけしていたるげん名乗なの放浪ほうろうした。

吉良きら 編集へんしゅう

吉良上野介きらこうずけのすけ義央よしなか
高家こうか旗本はたもとまつだい廊下ろうか浅野あさの長矩ながのりから刃傷にんじょうける。赤穂あこう浪士ろうしはいられ斬殺ざんさつされた。
上杉うえすぎ富子とみこ
吉良きら義央よしなか正室せいしつ長男ちょうなん三之さんのすけ上杉うえすぎ養子ようしにいき、家督かとくいで上杉うえすぎつなけんとなっている[63]上杉うえすぎつなけん将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし孫娘まごむすめ結婚けっこんしており、吉良きら将軍家しょうぐんけとも親戚しんせき関係かんけいにあることになる[63]
吉良きらひだり兵衛ひょうえ義周よしちか
高家こうか旗本はたもと吉良きら義央よしなか養子ようし上野うえのかい引退いんたいしたさい家督かとくゆずけている[64]りのさいたたかって重傷じゅうしょうう。事件じけん吉良きら領地りょうちげとなり、信州しんしゅう高島たかしま配流はいるされた。
赤穂あこう浪士ろうしりのさいひだり兵衛ひょうえ薙刀なぎなたって相手あいてきずつけたが、自身じしんがくこしから背中せなかにかけてきずい、気絶きぜつ[65](「ひだり兵衛ひょうえさまきずハ、武林たけばやしゆいなな御座ぎょざこうよし」『米沢よねざわ塩井しおい覚書おぼえがき』より)。その気付きづいてちち上野うえのかいさがしに寝室しんしつかったが、上野うえのかいつからず、落胆らくたんしてまた気絶きぜつしている[65]
みずか武器ぶき奮闘ふんとうにもかかわらず、ひだり兵衛ひょうえは「不届ふとどき」で「おや恥辱ちじょくとして遁れがたく」あるという理由りゆうで、信濃しなの高島たかしま藩主はんしゅ諏訪すわ安芸あきまもるちゅうとらにおあづけとなった[66]。 そこで罪人ざいにんだからと月代さかやきことすらゆるされない生活せいかつおくり、宝永ほうえい3ねんに20さいほどのわかさでんだ[66]
左右田そうだまご兵衛ひょうえ重次しげつぐ
吉良きら家老がろう事件じけん吉良きら義周よしちか配流はいるしたがう。義周よしちかくなったのち三河みかわ国吉くによしりょうもど余生よせいごした。
斎藤さいとう宮内みやうち忠長ただなが
吉良きら筆頭ひっとう家老がろうたたかわずにのこった。吉良きらくび泉岳寺せんがくじからる。
山吉やまよし新八しんぱちろうもりさむらい
吉良上野介きらこうずけのすけ家臣かしん[67]近習きんじゅ[67]。(吉良きら義周よしちか中小ちゅうしょうせい[67])。赤穂あこう浪士ろうしりのとき負傷ふしょう。その吉良きら義周よしちか幽閉ゆうへいされたとき左右田そうだまご兵衛ひょうえとともにしたがい、義周よしちかくなるまで面倒めんどうをはじめとする[67]

米沢よねざわはんとその周囲しゅうい 編集へんしゅう

上杉うえすぎ弾正だんじょうだい弼綱けん
出羽でわこく米沢よねざわはんおも吉良きら義央よしなか実子じっしはは上杉うえすぎ定勝さだかつさんじょ
吉良きらつま富子とみこ上杉うえすぎ出身しゅっしんであったことから、長男ちょうなん三之さんのすけ上杉うえすぎ養子ようしにいき、家督かとくいで上杉うえすぎつなけんとなっている[68]
つなけん紀州きしゅう藩主はんしゅ徳川とくがわ光貞みつさだむすめさかえひめ結婚けっこんしており、さかえひめあに徳川とくがわ綱教つなのり正室せいしつつるひめ将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしむすめであることから、吉良きら将軍家しょうぐんけとも親戚しんせき関係かんけいにあることになる。
畠山はたけやまよしやすし
上杉うえすぎ親族しんぞくこう米沢よねざわ藩邸はんていにも度々たびたび出入でいりしていた。まくかくけ、つなけん挙兵きょへい制止せいしする。

幕府ばくふ 編集へんしゅう

徳川とくがわ綱吉つなよし
江戸えど幕府ばくふだい5だい将軍しょうぐん浅野あさの長矩ながのり即日そくじつ切腹せっぷく改易かいえきしょした。
柳沢やなぎさわ出羽守でわのかみ保明やすあき
徳川とくがわ綱吉つなよし側用人そばようにん大老たいろうかくとして幕政ばくせい主導しゅどう多門たもん浅野あさのへの取調とりしらべに慎重しんちょうもとめたのを却下きゃっかする。
仙石せんごく伯耆ほうきもり久尚ひさなお
幕府ばくふ大目おおめづけにおける赤穂あこう浪士ろうしたちの自首じしゅ浪士ろうしたちの処分しょぶんにあたった。
梶川かじかわ与惣兵衛よそべえ頼照よりてる
吉良きら義央よしなか刃傷にんじょうおよんだ浅野あさの長矩ながのりさえた旗本はたもと刃傷にんじょう事件じけん史料しりょうとなる『梶川かじかわ与惣兵衛よそべえ日記にっき』をのこした。
浅野あさのさえたさい行動こうどう幕府ばくふ評価ひょうかされて500せき加増かぞうになり、旗本はたもとになった[69]
しかし浅野あさの不幸ふこうをもとに旗本はたもとになったかたちなので、世間せけん評判ひょうばん悪化あっかした[69]。そのためか梶川かじかわのちになって浅野あさの無念むねんおもんばかるべきだったと後悔こうかいしたむねはなしがあるが、実際じっさいには手記しゅきで、そのような議論ぎろんは「朋友ほうゆうへの」にぎず、「うえ」にたいしてはこのような議論ぎろん無用むようだと弁明べんめいしている[69]
庄田しょうだ下総しもうさ守安もりやすとし
幕府ばくふ大目おおめづけ浅野あさの長矩ながのり切腹せっぷく検死けんしやくをつとめる。
門伝もんでん八郎はちろうじゅうとも
幕府ばくふ目付めつけ目付めつけとして浅野あさの長矩ながのり切腹せっぷくふく検死けんしやくをつとめる。偽書ぎしょわれることおお史料しりょう多門たもん筆記ひっき』をのこした。
大久保おおくぼけん左衛門さえもんちゅう
幕府ばくふ目付めつけ刃傷にんじょう事件じけん吉良きら取調とりしらべにあたり、また浅野あさの長矩ながのり切腹せっぷくふく検死けんしやくをつとめた。
荒木あらき十郎左衛門じゅうろうざえもんせい
おさむじょう目付めつけとして赤穂あこうじょうおもむき、大石おおいし良雄よしおからさんかい嘆願たんがんける。赤穂あこう浪士ろうし切腹せっぷくさいしては大石おおいしらの検死けんしやくをつとめる。
榊原さかきばら采女うねめせいこと
おさむじょう目付めつけとして赤穂あこうじょうおもむき、大石おおいし良雄よしおからさんかい嘆願たんがんける。
石原いしはら新左衛門しんざえもんただし
幕府ばくふ代官だいかん赤穂あこうはん天領てんりょうとなったのち、その統治とうちのため赤穂あこうおもむき、大石おおいし良雄よしおからさんかい嘆願たんがんける。
岡田おかだしょう大夫たいふしゅんひね
幕府ばくふ代官だいかん赤穂あこうはん天領てんりょうとなったのち、その統治とうちのため赤穂あこうおもむき、大石おおいし良雄よしおからさんかい嘆願たんがんける。
土屋つちや主税ちから逵直
吉良きらていきたとなり西側にしがわ屋敷やしきがあった老中ろうじゅう土屋つちや政直まさなおいえ本家ほんけ三男さんなんよんなん土屋つちや政直まさなお養子ようしになり、三男さんなんは3000ひょうあたえられて独立どくりつし、よんなんがそのいえいだ。

朝廷ちょうてい京都きょうと 編集へんしゅう

東山ひがしやま天皇てんのう
だい113だい天皇てんのう柳原やなぎはら高野たかの勅使ちょくしとして江戸えど派遣はけんした。
れいもと上皇じょうこう
だい112だい天皇てんのう退位たいい以来いらい院政いんせいいている。いん使として清閑寺せいかんじ江戸えど派遣はけんした。
おおやけべん法親王ほうしんのう
こう西にし天皇てんのうだいろく皇子おうじ天台座主てんだいざしゅ徳川とくがわ綱吉つなよし赤穂あこう浪士ろうし処分しょぶんについて相談そうだんした。
やなぎ原資げんしれん
まえけん大納言だいなごん刃傷にんじょう事件じけんさい東山ひがしやま天皇てんのう勅使ちょくしとして江戸えど下向げこうしていた。
高野たかのたもつはる
まえけん中納言ちゅうなごん刃傷にんじょう事件じけんさい東山ひがしやま天皇てんのう勅使ちょくしとして江戸えど下向げこうしていた。
清閑寺せいかんじ熈定
まえけん大納言だいなごん刃傷にんじょう事件じけんさいれいもと上皇じょうこういん使として江戸えど下向げこうしていた。
進藤しんどう刑部おさかべ大輔だいすけちょう
近衛このえしょ大夫たいふ進藤しんどうしゅんしき一族いちぞく

大名だいみょう 編集へんしゅう

伊達だて左京さきょうあきら宗春むねはる
伊予いよこく吉田よしだはんおもいん使御馳走ごちそうやくとして浅野あさの長矩ながのり相役あいやくだった。
田村たむら右京大夫うきょうのだいぶけんあらわ
陸奥みちのくこく一関いちのせきはんおも藩邸はんてい庭先にわさき浅野あさの長矩ながのり切腹せっぷくした。
脇坂わきさか淡路あわじ守安もりやすあきら
播磨はりまこく龍野たつのはんおもおさむしろ使として赤穂あこうじょうる。
木下きのした肥後守ひごのかみ公定こうてい
備中びっちゅうこく足守あしもりはんおもおさむしろ使として赤穂あこうじょうる。
細川ほそかわえつちゅうもりつな
だい3だい肥後ひごこく熊本くまもとはんおも赤穂あこう事件じけんのち大石おおいし良雄よしおらのおあずかりを担当たんとうしたことでられる。熊本くまもとはん細川ほそかわ4だい

あずかり・切腹せっぷく関連かんれん 編集へんしゅう

堀内ほりうちつたえみぎ衛門えもん
熊本くまもとはん徒士かちあたま細川ほそかわにおあずかりとなった大石おおいし良雄よしおじゅうなな世話せわがかり
安場やすば一平いっぺい
おなじくつがえかた大石おおいし良雄よしお介錯かいしゃくをした。介錯かいしゃく失敗しっぱいした痕跡こんせきのこかたなを、全国ぜんこく義士ぎしかい連合れんごう会長かいちょうだった安場やすばたもつみやび所有しょゆう
波賀はがきよし太夫たゆう
松山まつやまはん歩行ほこうづけ剣術けんじゅつ指南しなん久松ひさまつ松平まつへいにおあずかりとなった10めい罪人ざいにんとしてきびしくあつかった。大石おおいし良金よしかね介錯かいしゃくやく

その 編集へんしゅう

細井ほそい広沢ひろさわ
堀部ほりべ武庸たけつね親友しんゆう儒者じゅしゃりの口述こうじゅつしょ作成さくせいおこない、「堀部ほりべ武庸たけつね筆記ひっき」をたくされた。
栗崎くりさきみちゆう
蘭学らんがく刃傷にんじょうけた吉良上野介きらこうずけのすけ治療ちりょうした。
荻生おぎゅう徂徠そらい
赤穂あこう浪士ろうしさばきにかかわる。このはなし講談こうだん落語らくごの「徂徠そらい豆腐とうふ」になっている。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 当時とうじ武家ぶけにおいては現代げんだい同様どうよう午前ごぜん0が1にちはじまり、庶民しょみんにおいてはが1にちはじまりとされていた。そのため、りは武家ぶけときほうでは12月15にち未明みめいであるが、庶民しょみんときほうでは12月14にち深夜しんやとなる。
  2. ^ たとえばよんじゅうなな一人ひとりである小野寺おのでら十内じゅうない義兄ぎけいつまあに)がだつめいしたため義兄ぎけい義絶ぎぜつしたが、その結果けっかとして小野寺おのでらつま「おたん」はあにたよことができなくなってしまっている[8]。 おたんは京都きょうと自害じがいしている[8]

出典しゅってん 編集へんしゅう

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  14. ^ a b 宮澤みやざわ(1999) p159
  15. ^ 宮澤みやざわ(1999) p159
  16. ^ あいだしんろくはだだつまえ三宝さんぼう脇差わきざしをとり、はら突立つきたてこうなり。目付めつけしゅ及もはらにつきてたるときゅうゆえに、小人こどもづけもっせられこうしょに、もはやおけにゅうこう取出とりだこうへば、はら突立つきたてろくななすんほど引まはしこう也」
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  20. ^ 中央ちゅうおう義士ぎしかいは「大高おおたか山田やまだはじめ徧から情報じょうほうたり、大石おおいし羽倉はぐらひとしから日程にっていきだしたというはなしよりは信憑しんぴょうせいたかい。おおむね事実じじつである」としている(赤穂あこう義士ぎしかい忠臣蔵ちゅうしんぐらよんじゅうなな義士ぎしぜん名鑑めいかん 子孫しそんつづる、赤穂あこう義士ぎし正史せいし銘々めいめいでん』(小池こいけ書院しょいん、2007ねん
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参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

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  • 野口のぐち武彦たけひこ忠臣蔵ちゅうしんぐら赤穂あこう事件じけん史実しじつ肉声にくせいちくま新書しんしょ、1994ねん平成へいせい6ねん)。ISBN 978-4480056146 
  • 野口のぐち武彦たけひこはな忠臣蔵ちゅうしんぐら講談社こうだんしゃ、2015ねん平成へいせい27ねん)。ISBN 978-4062198691 
  • 田口たぐち章子あきこ『おんな忠臣蔵ちゅうしんぐらちくま新書しんしょ、1998ねん平成へいせい10ねん)。ISBN 978-4480057808 
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  • 谷口たにぐち眞子しんじ赤穂あこう浪士ろうし実像じつぞう 歴史れきし文化ぶんかライブラリー 214』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4642056144 
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  • 山本やまもと博文ひろぶみ『これが本当ほんとうの「忠臣蔵ちゅうしんぐら赤穂あこう浪士ろうし事件じけん真相しんそう小学館しょうがくかん101新書しんしょ、2012ねん平成へいせい24ねん)。ISBN 978-4098251346 
  • 山本やまもと博文ひろぶみ『「忠臣蔵ちゅうしんぐら」の決算けっさんしょ新潮しんちょう新書しんしょ、2012ねん平成へいせい24ねん)。ISBN 978-4106104954 
  • 山本やまもと博文ひろぶみ赤穂あこう事件じけんよんじゅうろく (敗者はいしゃ日本にっぽん)』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2013ねん平成へいせい25ねん)。ISBN 978-4642064613 
  • 山本やまもと博文ひろぶみ知識ちしきゼロからの忠臣蔵ちゅうしんぐら入門にゅうもん幻冬舎げんとうしゃ、2014ねん平成へいせい26ねん)。ISBN 978-4344902886 

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

 
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外部がいぶリンク 編集へんしゅう