赤穂 事件 の人物 一覧
赤穂 浪士
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討 ち入 り参加 者 の傾向
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また
脱落 者 の傾向
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四 十 七 士
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おおいしくらのすけよしお(よしたか) |
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おおいしちからよしかね |
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はらそうえもんもととき |
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かたおかげんごえもんたかふさ |
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ほりべやへえかなまる(あきざね) |
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ほりべやすべえたけつね |
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よしだちゅうざえもんかねすけ |
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よしださわえもんかねさだ |
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ちかまつかんろくゆきしげ |
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ませきゅうだゆうまさあき |
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ませまごくろうまさとき |
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あかばねげんぞうしげかた |
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うしおだまたのじょうたかのり |
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とみのもりすけえもんまさより |
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ふわかずえもんまさたね |
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おかのきんえもんかねひで |
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おのでらじゅうないひでかず |
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おのでらこうえもんひでとみ |
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きむらおかえもんさだゆき |
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おくだまごだゆうしげもり |
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おくださだえもんゆきたか |
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はやみとうざえもんみつたか |
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やだごろうえもんすけたけ |
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おおいしせざえもんのぶきよ |
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いそがいじゅうろうざえもんまさひさ |
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はざまきへえみつのぶ |
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はざまじゅうじろうみつおき |
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はざましんろくろうみつかぜ |
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なかむらかんすけまさとき |
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せんば(ちば)さぶろべえみつただ |
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すがやはんのじょうまさとし |
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むらまつきへえひでなお |
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むらまつさんだゆうたかなお |
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くらはしでんすけたけゆき |
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おかじまやそえもんつねしげ |
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おおたかげんごただお(ただたけ) |
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やとう(やこうべ)えもしちのりかね |
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かつたしんざえもんたけたか |
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たけばやしただしちたかしげ |
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まえばらいすけむねふさ |
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かいがやざえもんとものぶ |
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すぎのじゅうへいじつぎふさ |
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かんざきよごろうのりやす |
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みむらじろうざえもんかねつね |
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よこかわかんべいむねとし |
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かやのわすけつねなり |
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てらさかきちえもんのぶゆき |
死亡 者
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- 『
大河内 文書 』によれば、赤穂 浪士 の吉良 邸 討 ち入 りの際 、逃 げようとしたところを赤穂 浪士 達 に捕 らえられ、「上野 介 (義央 )はどこか?」と聞 かれたのに対 して、「下々 の者 なので知 らない」と答 えるも、「下々 が絹 の衣服 を着 ているはずがない」と言 われ、首 を落 とされたとしている[24]。 一方 、赤穂 方 の落合 与左衛門 (瑤泉院 付 き用人 )の書 といわれる『江 赤 見聞 記 』には「小林 平八 は、槍 を引 っさげて激 しく戦 い、上野 介 をよく守 ったが、大勢 の赤穂 浪士 と戦 ってついに討 ち取 られた」となっている[24]。忠臣蔵 や武者 肉筆 画 などでは、女性 の打 ち掛 けを纏 う女装 の剣客 として描 かれている。中島 八右衛門 辰 政 (ときまさ)は曾孫 。
- 『
大河内 文書 』には吉良上野介 と吉良 義周 にお供 して、「少々 戦 いて討 たれ候 」とある[25]。『江 赤 見聞 記 』によれば、当時 四 十 歳 で台所 で死 んだ[25]。一方 吉良 側 の資料 『大熊 弥一 右 衛門 見聞 書 』によると、吉良 とともに小屋 の中 にいた3人 の一人 である(他 の二人 は須藤 与一 右 衛門 、鳥居 利右衛門 )[27]。3人 のうち一 人 を堀部 安兵衛 と矢田 五郎右衛門 が討 ち止 め、もう一人 を間 十次郎 が槍 で突 いた[要 出典 ]。最後 の一人 については諸 記録 に記載 がない[要 出典 ]。 忠臣蔵 では剣 の達人 として伝 わり、最 も奮戦 した剣客 として描 かれている。庭 の凍 った池 の石橋 の上 で奮戦 し池 に倒 れ落 ちるシーンがよく描 かれる。歌舞伎 では「清水 一角 」 [28] 、「清水 大学 」[29]などと表現 される。- なお、
一 学 の兄 の藤 兵衛 は旧姓 の児玉 に復 し、その子孫 が今日 まで続 いている。
新 貝 弥 七郎 近習 玄関 罷 翁 元 休 信士 (万 昌 院 )笠原 長 右 衛門 祐筆 書院 次 大須賀 治部 右 衛門 用人 台所 口 榊原 平 右 衛門 文官 同 大石 半 右 衛門 門番 馬屋 前 鈴木 正 竹 僧侶 小 玄関 前 杉 松三 左衛門 祐筆 小屋 出口 牧野 春 斎 僧侶 同 心 翁 元 無 信士 (万 昌 院 )須藤 与一 右 衛門 取次 南 書院 次
吉良 とともに小屋 の中 にいた3人 の一人 (『大熊 弥一 右 衛門 見聞 書 』)[27]
榊原 平 右 衛門 文官 台所 口 鳥居 利右衛門 正次 用人 座敷 庭
斎藤 清左衛門 小姓 同 本 翁 元来 信士 (万 昌 院 )
大河内 六郎 左衛門 剣 室 宗 寒 信士 (万 昌 院 )
その他 関連 人物
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赤穂 藩
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浅野内匠頭 長矩 赤穂 藩 主 。松 之 大 廊下 で吉良 義央 に刃傷 に及 び即日 切腹 。辞世 は「風 さそふ花 よりも猶 我 はまた春 の名残 をいかにとか(や)せん」というがこれは「多 門伝 八郎 筆記 」にあるだけで、多門 の創作 と考 えられる。(「元禄 赤穂 事件 」p122)瑤泉院 浅野 長矩 の正室 。自身 の化粧 料 である赤穂 の塩田 から上 がった運上 銀 を大石 に託 した。浅野 大学 長広 浅野 長矩 の実弟 。浅野 長矩 の養嗣子 となる。刃傷 事件 後 に閉門 となり、後 に領地 召 し上 げ、浅野 宗家 へ永 預 けとなる。この処分 を受 け大石 良雄 は吉良 殺害 を決意 する。大野 九郎兵衛 知 房 国家老 650石 (次席 )。平時 には藩札 のシステムを作 るなどの貢献 があった[31]。- しかし
赤穂 藩 改易 が決 まると、切腹 に反対 するなど弱腰 の姿勢 を見 せ、原 惣右衛門 が賛同 できないものはこの場 を去 るようにと言 うと、大野 は10人 ほどの者 とともに立 ち去 った[32]。 - 4
月 12日 に赤穂 城 の明 け渡 しが決定 すると、その日 の晩 に息子 の郡 右 衛門 とともに逃亡 した[33][34]。逃亡 に際 し郡 右 衛門 の幼 い娘 を置 き去 りしていったという[34]。 逃亡 の原因 は、『江 赤 見聞 記 』の巻 二 によると、大野 が藩 庫 金 の分配 に関 して岡島 八十右衛門 と揉 め、命 の危険 を感 じたことが原因 だというが、よく分 からない[34]。- こうした
経緯 もあってか、忠臣蔵 のドラマでは「不 義士 」の親玉 として描 かれることが多 く、元禄 16年 に書 かれた『易 水 連袂 録 』ではすでに「日本 無双 大 臆病 ノ腰抜 」と描 かれている[34]。 宮澤 誠一 は「義士 」伝説 が創出 される際 、大野 がいわば悪役 としてスケープゴートにされた形 だと評 している[34]。安井 彦右衛門 江戸家 老 650石 江戸 扶持 9人 半 。勅使 御馳走 役 となった主君 浅野内匠頭 の補佐 に失敗 する。藤井 又 左衛門 宗 茂 家老 800石 。勅使 御馳走 役 となった主君 ・浅野 長矩 の補佐 に失敗 する。藤井 直明 は長矩 を批判 して勘当 された長男 。近藤 源 八 正憲 - 1000
石 。大石 良雄 の縁者 。義 盟 には参加 していない。 岡林 杢 之 助 直之 組頭 1000石 。開城 恭順 派 で義 盟 には不参加 。討 ち入 り後 、兄 の孫 左衛門 や弟 の左門 ら親族 に不義 をなじられ、弟 の介錯 により12月28日 に切腹 した[35]。寺井 玄 渓 藩 医 300石 5人 扶持 。円山 会議 以前 から浪士 たちの活動 を支 えており、討 ち入 りに参加 したいという意思 を持 っていたが、玄 渓 は武士 でないという理由 により、内蔵助 に断 られている[36]。
脱 盟 した元 赤穂 藩士
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高田 郡兵衛 江戸詰 200石 15人 扶持 。討 ち入 りに参加 した堀部 、奥田 と同 じ堀内 道場 の同門 であったためか[37]、江戸 急進 派 の一人 としてこの二 人 とともに行動 し、吉良 を討 つよう大石 に迫 っていたにもかかわらず、脱 盟 した。父方 の伯父 が高田 を養子 にしたいと言 ってきたのを断 りきれず、仲介 にたった高田 の兄 が仇 討 ちのことを伯父 に話 さざるを得 なくなったからである[38]。高田 は堀部 と相談 し、伯父 を納得 させるために脱 盟 [38] 。最初 の脱 盟 者 となった[39]。元禄 14年 12月 頃 のことである[40] 。討 ち入 り後 泉岳寺 に向 かう赤穂 浪士 達 のもとに駆 けつけたが、堀部 以外 の全員 から無視 された[38]。その後 酒 を持 って赤穂 浪士 のいる泉岳寺 にも行 ったが、赤穂 浪士 からは「踏 み殺 してやりたい」と罵 られた[38]。萱野 三平 重実 中小 姓 近習 12両 2分 3人 扶持 。刃傷 事件 の第一報 を赤穂 へもたらした。義 盟 に加 わるが、父 が他家 (父 や兄 の主君 である大島 義也 )への仕官 の口 を見 つけ、内諾 をもらってしまう。板挟 みになった三平 は元禄 15年 1月 14日 、切腹 で自害 してしまった[38]。
『
橋本 平左衛門 馬 廻 100石 。義 盟 に加 わるが、大阪 で蜆 川 の茶屋 淡路 屋 の遊女 「はつ」に入 れあげ、2人 で心中 してしまった[41][42]。2人 の心中 は元禄 15年 7月 15日 のことだとされるが[41]、後記 の佐々 小左衛門 が早水 藤左衛門 にあてた手紙 ではそれは11月のことだとある[42]。奥野 将 監 定 良 組頭 1000石 。大石 の親戚 で[43]、城 明 け渡 しの際 最初 に血判 状 に署名 し、大石 とともに幕府 の対応 にあたるなど、大石 を支 えてきたが、円山 会議 の後 、もう一度 お家 再興 の嘆願 をすべきだと主張 して脱 盟 した[43]。小山 源五 左衛門 良 師 足軽 頭 300石 。大石 内蔵助 の親戚 で[44]、大石 と常 に行動 を共 にしてきた中核 的 なメンバーだった[45]にもかかわらず、浅野 大学 の処分 が決 まり、浅野 家 再興 の望 みがなくなると脱 盟 してしまった[44]。- なお、
小山 は山科 会議 の際 すでに消極 的 な姿勢 を見 せていたが、同時 にその裏 では堀部 等 急進 派 に同調 するような書状 も送 っていた。それゆえ堀部 等 急進 派 は小山 のことを信 じ、大石 をはずして小山 を急進 派 の首領 に担 ぎあげようと画策 していたが、山科 会議 での態度 を見 て堀部 等 急進 派 は激怒 した[46]。 - また
小山 の娘 ユウは、四 十 七 士 の一人 である潮田 又之丞 のもとに嫁 いでいたが、源五 左衛門 の脱 盟 により実家 に返 され、源五 左衛門 ともども又之丞 から義絶 された[47]。 進藤 源 四郎 俊 式 足軽 頭 400石 。小山 源五 左衛門 と同様 大石 内蔵助 の親戚 で[44]中核 的 なメンバーだった[45]が、浅野 大学 の処分 が決 まり、浅野 家 再興 の望 みがなくなると脱 盟 [44]。大石 孫 四 郎 信 興 大石 の親戚 にあたる。円山 会議 には出席 したものの、そのまま脱 盟 した[48]。実録 物 の『赤穂 義士 伝 一夕 話 』では討 ち入 りと老母 の世話 とどちらをするか弟 の大石 瀬左衛門 と籤 を惹 いたとあるが、史実 ではそのようなことはなく、大石 孫 四 郎 は脱 盟 により四 十 七 士 の一人 である弟 の大石 瀬左衛門 から義絶 されている[48]。岡本 次郎左衛門 重之 大阪 留守居 400石 。円山 会議 後 に脱 盟 。多川 九 左衛門 持 筒 頭 ・足軽 頭 400石 。開城 にあたって大石 の嘆願 書 を幕府 目付 に提出 しようとするが、任 を誤 る。円山 会議 後 に脱 盟 。田中 貞 四郎 - 150
石 。浅野 長矩 の遺骸 を引 き取 り埋葬 した。片岡 高房 と行動 を伴 にする急進 派 。討 ち入 りを前 に逐電 した。酒色 に溺 れ身 を持 ち崩 したとされる[49]。病毒 のため、顔 まで変 わっていたという[49]。 小 山田庄 左衛門 江戸詰 100石 。義 盟 に加 わるが、四 十 七 士 の一人 である片岡 源五右衛門 から小袖 と金 三 両 を盗 んで逃亡 した[50]。深川 会議 のあった元禄 15年 11月2日 のことであった[49]。酒 が原因 で金 に困 っていたという[49]。庄 左衛門 の父 である一 閑は、このことを知 ると刃 で胸元 から背後 の壁 まで突 き通 して自害 した[50][51]。渡辺 半 右 衛門 四 十 七 士 の一人 武林 唯七 の兄 。は当初 盟約 に参加 していたが、武林 から自分 に代 わって両親 の面倒 を見 てほしいと説得 され、離脱 している[52]。のち武林 尹 隆 と改名 して広島 藩 に仕 えた。中村 清 右 衛門 年老 いた母 を置 いて盟約 に加 わったが、(老母 の世話 を頼 んでいる人物 と思 われる)太郎左衛門 が自殺 を考 えていると聞 き、半 ば脅迫 のような形 で討 ち入 りを断念 させられた[53]。のち神田 明神下 で剣術 道場 主 。瀬尾 孫 左衛門 大石 良雄 の家臣 。山科 で江戸 行 きを止 められて立腹 し、江戸 までついてきた[54]。そして内蔵助 の東 下 りに先行 して瀬踏 み役 をしたり平間 村 の仮 宿 を斡旋 したりする活躍 があったが[55]、矢野 伊助 とともに脱 名 [56]。脱 名 は12月6日 のこととされるが[57]、『寺坂 私記 』によれば12日 であり[55][58]、これが事実 なら通常 「最後 の脱 盟 者 」とされる毛利 小平 太 よりも後 に脱 盟 したことになる[55]。一説 には赤穂 に戻 り、剃髪 して休 真 と号 したという。矢野 伊助 平間 村 の滞在 所 を大石 不在 のあいだ預 かるが、瀬尾 孫 左衛門 とともに脱 盟 [55]、どこかへ逃亡 。毛利 小平 太 大 納戸 役 20石 5人 扶持 。さる大名 の下男 になりすまして吉良 邸 に潜入 し、世間 で言 うほど警備 は強固 でないという報告 をもたらした[59]。討 ち入 り三 日 前 の元禄 15年 12月11日 に脱 盟 [60]。最後 の脱 盟 者 となった。同志 たちは毛利 が本当 に脱 盟 したのか分 からず、討 ち入 り前日 になっても大石 は毛利 を同志 の一人 として数 えていたという[57]。脱 盟 の経緯 が不明 のため、小説 や映画 では様々 な動機 が創作 されている。灰方 藤 兵衛 武具 奉行 150石 。男色 相手 の常陸 浪人 ・村木 隼人 と駆 け落 ちして、京 で同棲 [61]。佐々 小左衛門 足軽 頭 200石 。大坂 曽根崎新地 に移住 する。渡部 角 兵衛 在地 奉行 150石 。佐賀 藩 鍋島 領 に逃亡 。
浅野 家 親族
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戸田 采女 正 氏 定 美濃 国 大垣 藩 主 。浅野 長矩 の親類 。刃傷 事件 後 に連座 して出仕 を止 められた。安部 丹波 守 信 峯 武蔵 国 岡部 藩 主 。浅野 長矩 の親類 。刃傷 事件 後 に連座 して出仕 を止 められた。浅野 美濃 守 長 恒 幕府 旗本 。浅野 長矩 と大石 良雄 の親類 。刃傷 事件 と討 ち入 りに連座 して出仕 を止 められた。浅野 左 兵衛 長武 幕府 旗本 。浅野 長矩 と大石 良雄 の親類 。浅野 長 恒 の弟 。刃傷 事件 と討 ち入 りに連座 して出仕 を止 められた。松平 (浅野 )安芸 守 綱 長 安芸 国 広島 藩 主 。赤穂 浅野 家 の本家 筋 。連座 を恐 れて吉良 邸 討 ち入 りを妨害 した。宝永 6年 に大赦 がなされた後 、武林 隆重 の兄 ・渡辺 半 右 衛門 や大石 良雄 の遺児 ・大石 大 三 郎 を召抱 えた。大石 ・武林 両家 とも数 代 後 に絶家 とされる。浅野 土佐 守 長 澄 備後 国 三 次 藩 主 。綱 長 の弟 。三好 浅野 家 は瑤泉院 の実家 で、赤穂 藩 改易 後 、瑤泉院 を引 き取 った。
赤穂 浪士 の親族
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- りく
大石 良雄 の妻 。大石 良金 の母 。大石 くう大石 良雄 の長女 。大石 良金 の妹 。大石 吉之 進 大石 良雄 の次男 。大石 良金 の弟 。大石 るり大石 良雄 の次女 。大石 良金 の妹 。浅野 氏 一族 浅野 長道 に嫁 ぐ。大石 大 三郎 大石 良雄 の三男 。大石 良金 の弟 。広島 浅野本 家 に父 と同 じ1500石 で仕 えた。- お
軽 山科 での大石 良雄 の妾 。十 年 にわたり各地 を放浪 した後 、旅先 で死亡 [62]堀部 ほり堀部 武庸 の妻 。堀部金丸 の娘 。内田 三郎 右 衛門 元 知 旗本 。高田 郡兵衛 を脱 盟 させる。萱野 七郎 左衛門 重利 旗本 大島 義也 の家老 。萱野 重実 の父親 。重実 自刃 の原因 となった。松平 孫 左衛門 忠 郷 旗本 。討 ち入 りに加 わらなかった元 赤穂 藩士 の弟 ・岡林 直之 を責 めて切腹 させた。小山田 一閃 小 山田庄 左衛門 の父 。江戸詰 め100石 。息子 が同志 の金 を盗 んで逃亡 したことに愕然 とし自刃 した。吉田 伝 内 吉田 兼亮 の四 男 。赤穂 事件 に連座 して伊豆 大島 へ流 された。赦免 後 は仕官 できず、出家 して達 玄 と名乗 り放浪 した。
吉良 家
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吉良上野介 義央 高家 旗本 。松 之 大 廊下 で浅野 長矩 から刃傷 を受 ける。赤穂 浪士 に討 ち入 られ斬殺 された。上杉 富子 吉良 義央 の正室 。長男 の三之 助 は上杉 に養子 にいき、家督 を継 いで上杉 綱 憲 となっている[63]。上杉 綱 憲 は将軍 徳川 綱吉 の孫娘 と結婚 しており、吉良 は将軍家 とも親戚 関係 にある事 になる[63]。吉良 左 兵衛 義周 高家 旗本 。吉良 義央 の養子 。上野 介 が引退 した際 に家督 を譲 り受 けている[64]。討 ち入 りの際 に戦 って重傷 を負 う。事件 後 に吉良 家 は領地 召 し上 げとなり、信州 高島 へ配流 された。赤穂 浪士 討 ち入 りの際 、左 兵衛 は薙刀 を持 って相手 を傷 つけたが、自身 も額 と腰 から背中 にかけて傷 を負 い、気絶 [65](「左 兵衛 様 疵 ハ、武林 唯 七 手 に御座 候 由 」『米沢 塩井 家 覚書 』より)。その後 気付 いて父 ・上野 介 を探 しに寝室 に向 かったが、上野 介 が見 つからず、落胆 してまた気絶 している[65]。自 ら武器 を取 り奮闘 にもかかわらず、左 兵衛 は「不届 き」で「親 の恥辱 は子 として遁れ難 く」あるという理由 で、信濃 高島 藩主 諏訪 安芸 守 忠 虎 にお預 けとなった[66]。 そこで罪人 だからと月代 を剃 る事 すら許 されない生活 を送 り、宝永 3年 に20歳 ほどの若 さで死 んだ[66]。左右田 孫 兵衛 重次 吉良 家 家老 。事件 後 、吉良 義周 の配流 に従 う。義周 が亡 くなった後 は三河 国吉 良 へ戻 り余生 を過 ごした。斎藤 宮内 忠長 吉良 家 筆頭 家老 。戦 わずに生 き残 った。吉良 の首 を泉岳寺 から受 け取 る。山吉 新八 郎 盛 侍 吉良上野介 の家臣 [67] 、近習 [67]。(吉良 義周 の中小 姓 [67])。赤穂 浪士 討 ち入 りの時 負傷 。その後 吉良 義周 が幽閉 されたとき左右田 孫 兵衛 とともに付 き従 い、義周 が亡 くなるまで面倒 をはじめとする見 た[67]。
米沢 藩 とその周囲
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上杉 弾正 大 弼綱憲 出羽 国 米沢 藩 主 。吉良 義央 の実子 。母 は上杉 定勝 の三 女 。吉良 の妻 富子 は上杉 家 の出身 であったことから、長男 の三之 助 は上杉 に養子 にいき、家督 を継 いで上杉 綱 憲 となっている[68]。綱 憲 は紀州 藩主 徳川 光貞 の娘 栄 姫 と結婚 しており、栄 姫 の兄 徳川 綱教 の正室 鶴 姫 が将軍 徳川 綱吉 の娘 であることから、吉良 は将軍家 とも親戚 関係 にある事 になる。畠山 義 寧 上杉 家 の親族 で高 家 。米沢 藩邸 にも度々 出入 りしていた。幕 閣 の意 を受 け、綱 憲 の挙兵 を制止 する。
幕府
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徳川 綱吉 江戸 幕府 第 5代 将軍 。浅野 長矩 を即日 切腹 ・改易 に処 した。柳沢 出羽守 保明 徳川 綱吉 の側用人 。大老 格 として幕政 を主導 。多門 が浅野 への取調 べに慎重 を求 めたのを却下 する。仙石 伯耆 守 久尚 幕府 大目 付 。討 ち入 り後 における赤穂 浪士 たちの自首 を受 け浪士 たちの処分 にあたった。梶川 与惣兵衛 頼照 吉良 義央 に刃傷 に及 んだ浅野 長矩 を取 り押 さえた旗本 。刃傷 事件 の史料 となる『梶川 与惣兵衛 日記 』を残 した。浅野 を取 り押 さえた際 の行動 が幕府 に評価 されて500石 加増 になり、旗本 になった[69]。- しかし
浅野 の不幸 をもとに旗本 になった形 なので、世間 の評判 は悪化 した[69]。そのためか梶川 は後 になって浅野 の無念 を慮 るべきだったと後悔 した旨 の話 があるが、実際 には手記 で、そのような議論 は「朋友 への義 」に過 ぎず、「上 」に対 してはこのような議論 は無用 だと弁明 している[69]。 庄田 下総 守安 利 幕府 大目 付 。浅野 長矩 の切腹 の検死 役 をつとめる。多 門伝 八郎 重 共 幕府 目付 。目付 として浅野 長矩 の切腹 の副 検死 役 をつとめる。偽書 と言 われる事 の多 い史料 『多門 筆記 』を残 した。大久保 権 左衛門 忠 鎮幕府 目付 。刃傷 事件 後 、吉良 の取調 べにあたり、また浅野 長矩 の切腹 の副 検死 役 をつとめた。荒木 十郎左衛門 政 羽 収 城 目付 として赤穂 城 へ赴 き、大石 良雄 から三 回 の嘆願 を受 ける。赤穂 浪士 の切腹 に際 しては大石 らの検死 役 をつとめる。榊原 采女 政 殊 収 城 目付 として赤穂 城 へ赴 き、大石 良雄 から三 回 の嘆願 を受 ける。石原 新左衛門 正 氏 幕府 代官 。赤穂 藩 が天領 となったのち、その統治 のため赤穂 へ赴 き、大石 良雄 から三 回 の嘆願 を受 ける。岡田 庄 大夫 俊 陳 幕府 代官 。赤穂 藩 が天領 となったのち、その統治 のため赤穂 へ赴 き、大石 良雄 から三 回 の嘆願 を受 ける。土屋 主税 逵直吉良 邸 の北 隣 西側 に屋敷 があった老中 土屋 政直 の家 の本家 。三男 と四 男 は土屋 政直 の養子 になり、三男 は3000俵 を与 えられて独立 し、四 男 がその家 を継 いだ。
朝廷 ・京都
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東山 天皇 第 113代 天皇 。柳原 と高野 を勅使 として江戸 へ派遣 した。霊 元 上皇 第 112代 天皇 。退位 以来 院政 を敷 いている。院 使 として清閑寺 を江戸 へ派遣 した。公 弁 法親王 後 西 天皇 の第 六 皇子 。天台座主 。徳川 綱吉 が赤穂 浪士 の処分 について相談 した。柳 原資 廉 前 権 大納言 。刃傷 事件 の際 に東山 天皇 の勅使 として江戸 へ下向 していた。高野 保 春 前 権 中納言 。刃傷 事件 の際 に東山 天皇 の勅使 として江戸 へ下向 していた。清閑寺 熈定前 権 大納言 。刃傷 事件 の際 に霊 元 上皇 の院 使 として江戸 へ下向 していた。進藤 刑部 大輔 長 之 近衛 家 諸 大夫 。進藤 俊 式 の一族 。
大名
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伊達 左京 亮 宗春 伊予 国 吉田 藩 主 。院 使 御馳走 役 として浅野 長矩 の相役 だった。田村 右京大夫 建 顕 陸奥 国 一関 藩 主 。藩邸 の庭先 で浅野 長矩 が切腹 した。脇坂 淡路 守安 照 播磨 国 龍野 藩 主 。収 城 使 として赤穂 城 を受 け取 る。木下 肥後守 公定 備中 国 足守 藩 主 。収 城 使 として赤穂 城 を受 け取 る。細川 越 中 守 綱 利 第 3代 肥後 国 熊本 藩 主 。赤穂 事件 後 に大石 良雄 らのお預 かりを担当 したことで知 られる。熊本 藩 細川 家 4代 。
お預 かり・切腹 関連
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堀内 伝 右 衛門 熊本 藩 の徒士 頭 。細川 家 にお預 かりとなった大石 良雄 ら十 七 士 の世話 係 。安場 一平 同 じく番 方 。大石 良雄 の介錯 をした。介錯 に失敗 した痕跡 の残 る刀 を、全国 義士 会 連合 会長 だった安場 保 雅 が所有 。波賀 清 太夫 松山 藩 の歩行 目 付 で剣術 指南 。久松 松平 家 にお預 かりとなった10名 を罪人 として厳 しく扱 った。大石 良金 の介錯 役 。
その他
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脚注
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注釈
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出典
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- ^ a b
百科 事典 マイペディア『赤穂 浪士 』 - コトバンク - ^
宮澤 (2001) p28、p147-151 - ^
例 えば1888年 の『江戸 本所 讐討 :赤穂 浪士 吉良 義英 』森 仙吉 編 、東京 屋 近代 デジタルイブラリー - ^ a b c d e f
谷口 (2006) p164-171 - ^ a b c
山本 (2012b)第 一 章 3節 「新参 者 と元 藩士 」 - ^
山本 (2012b)第 一 章 3節 「討 ち入 り参加 者 の特徴 」 - ^ a b c d e f g
谷口 (2006) p108-117 - ^ a b c
谷口 (2006) p134-135 - ^ a b c
佐々木 (1983) p203-206 - ^ a b
佐々木 (1983) p290-293 - ^ a b
佐々木 (1983) p294-301 - ^
佐々木 (1983) p318-322 - ^ a b c
佐々木 (1983) p287-288 - ^ a b
宮澤 (1999) p159 - ^
宮澤 (1999) p159 - ^ 「
間 新 六 は肌 を不 脱 前 に三宝 を載 、脇差 をとり、腹 に突立 候 なり。御 目付 衆 の見 及も腹 につき立 てたると見 給 ふ故 に、御 小人 目 付 を以 て見 せられ候 所 に、もはや桶 に入 候 を取出 し見 候 へば、腹 に突立 、六 七 寸 程 引まはし候 也」 - ^ a b c
佐々木 (1983) p313-314 - ^
谷口 (2006) p142 - ^ a b
山本 (2012b)第 三 章 2節 「安兵衛 の焦 り」 - ^
中央 義士 会 は「大高 が山田 宗 徧から情報 を得 たり、大石 が羽倉 斎 から日程 を聞 きだしたという話 よりは信憑 性 が高 い。おおむね事実 である」としている(赤穂 義士 会 『忠臣蔵 四 十 七 義士 全 名鑑 子孫 が綴 る、赤穂 義士 「正史 」銘々 伝 』(小池 書院 、2007年 ) - ^ a b
佐々木 (1983) p259-262 - ^ a b
山本 (2012a)第 六 章 三 節 「寺坂 吉右衛門 の行方 」 - ^ 「
本所 方 ニハ死人 十 五 人 、手負 二 十 三 人 に候 」(『上杉 家 文書 』より「米沢 塩井 家 覚書 」) - ^ a b
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参考 文献
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関連 項目
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花岳寺 (赤穂 ) -義士 (赤穂 浪士 )墓所 がある。花岳寺 (吉 良 ) -吉良 家 の菩提寺 。諏訪 大社 -上社 本宮 に吉良 義周 の墓 がある。萬 昌 院 功運寺 -江戸 における吉良 家 の菩提寺 。内藤 忠勝 に斬殺 された永井 尚 長 や赤穂 藩 主 ・永井 直 敬 ら歴代 永井 家 の墓 もある。忠臣蔵 -赤穂 浪士 を題材 とした作品 については忠臣蔵 #作品 一覧 を参照 のこと。赤穂 大石 神社 -大石 内蔵助 屋敷 跡 に建 つ神社 。義士 宝物殿 と義士 木像 奉安 殿 で赤穂 浪士 に関 する資料 を展示 する。赤穂 市立 歴史 博物館 - 「赤穂 浪士 」をメインテーマの一 つとする史学 系 博物館 。赤穂 城 の米蔵 跡 に立地 。赤穂 義士 祭 松平 信望 -本所 吉良 屋敷 の先住 者 で将軍 綱吉 の小姓 。従兄 で次席 側用人 の松平 輝 貞 とは懇意 のなか。町谷 の町野 幸重 の上ケ屋 敷 を居抜 きで拝領 し本所 屋敷 を立 ち退 いたが、本所 材木 蔵 の大川 端 に松平 輝 貞 と地続 きの抱 屋敷 を持 っていた。明星 院 -浅野 家 縁 の寺院 。浪士 の木像 が安置 されている。本妙寺 -通称 「赤穂 義士 の寺 」。- マツダ -
広島 県 の自動車 メーカー。山本 健一 を中心 としたロータリーエンジン研究 部 が赤穂 浪士 四 十 七 士 からとってロータリー四 十 七 士 と呼 ばれた。