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代官 - Wikipedia

代官だいかん

日本にっぽん武家ぶけ政権せいけんにおける役職やくしょくの1つ。領主りょうしゅわって任地にんち事務じむつかさどものまたはその地位ちい

代官だいかん(だいかん)とは、君主くんしゅないし領主りょうしゅわって任地にんち事務じむつかさどものまたはその地位ちいをいう。日本にっぽんでは、武家ぶけ政権せいけんにおける役職やくしょくの1つとなった。

江戸えど時代じだいよりまえ代官だいかん

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中世ちゅうせい以降いこう日本にっぽんでは、あずかしょだい国司こくし目代もくだい守護しゅごだいしょう守護しゅごだい地頭じとうだいあるいは出征しゅっせいした軍勢ぐんぜい統括とうかつ代行だいこうするじんだいなどの代官だいかんしょくがあり、さらにそれらの代官だいかんであるまただいというのもあった。

そもそも、代官だいかんという概念がいねんは、おおやけりょうおよび所領しょりょう政務せいむ支配しはい代行だいこうするしょくをいった。おもれい武家ぶけ政権せいけん成立せいりつ以前いぜん国司こくしとその職務しょくむ代行だいこうした目代もくだいげられる。平安へいあん時代じだい以降いこう国司こくしみずか着任ちゃくにんすることなく国府こくふ政務せいむ代行だいこうはるかつとむされたはるかつとむという制度せいど確立かくりつし、はるかつとむをした国司こくしより国府こくふ目代もくだいという地位ちいかれることが一般いっぱんてきとなった。

鎌倉かまくら時代じだい以降いこう守護しゅご地頭じとうせいもとづく武家ぶけ政権せいけん土地とち支配しはい権力けんりょく構造こうぞう成立せいりつすると、複数ふくすう諸国しょこく守護しゅごしょく御家人ごけにん守護しゅごだいくようになり、守護しゅご職権しょっけん代行だいこうした。室町むろまち時代ときよにおいては幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう管理かんりしゃ代官だいかんしょうされ、守護しゅご代官だいかんたる守護しゅごだいやその代官だいかんたるしょう守護しゅごだいなどとは区別くべつされた(守護しゅごだい項目こうもく参照さんしょう)。

このように、広義こうぎにおける代官だいかんしょく国司こくし目代もくだい守護しゅごだいのように、任国にんごく職務しょくむ代行だいこうする地位ちいひろしたが、室町むろまち時代じだい以降いこうとなると、当初とうしょ室町むろまち幕府ばくふ直轄ちょっかつ領地りょうち支配しはい代行だいこうする地位ちいすようになり、これにならい、戦国せんごく大名だいみょうたちも自身じしん直轄ちょっかつりょう代官だいかんくようになったことから代官だいかん職名しょくめいとする地位ちい全般ぜんぱんすようになった。

とく安土あづち桃山ももやま時代じだい以降いこう織田おだ信長のぶなが自身じしん家中いえじゅうにおいて家臣かしん城下じょうか居住きょじゅうさせることを徹底てっていし、領主りょうしゅ不在ふざい領地りょうち急激きゅうげきえたこともあり、家臣かしん新知しんち知行ちぎょうもまとめて代官だいかん管理かんりさせるようにした[よう出典しゅってん]

江戸えど時代じだいにおける代官だいかん

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江戸えど幕府ばくふ場合ばあい

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江戸えど時代じだい幕府ばくふ代官だいかん郡代ぐんだいとも勘定かんじょう奉行ぶぎょう支配しはいにおかれ小禄ころく旗本はたもと知行ちぎょう天領てんりょうおさめていた。初期しょき代官だいかんしょく世襲せしゅうであることがおおく、在地ざいちしょう豪族ごうぞくさむらいえらばれ、幕臣ばくしんまれていった。代官だいかんなか有名ゆうめい人物じんぶつとして、韮山にらやま代官だいかんしょ江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん富士川ふじかわ治水ちすい代官だいかん古郡ふるこおりまご大夫たいふさんだい松崎まつざき代官だいかんしょ宮川みやがわ智之としゆき助佐衛門すけざえもん天草あまくさ代官だいかん鈴木すずき重成しげなりなどがいる。寛永かんえい1624ねん-1644ねん以降いこうは、吏僚てき代官だいかんえ、任期にんき不定ふていではあるがすうねん交替こうたいすることがおおくなった。おおむ代官だいかんしょ支配しはいは、大名だいみょう支配しはいよりもらしやすかったという(なお、駿府すんぷまち奉行ぶぎょう佐渡さど奉行ぶぎょうなどとは役割やくわりちがうので注意ちゅうい必要ひつようである)。

代官だいかん身分みぶんは150ひょう旗本はたもととしては最下さいかそうぞくするが、身分みぶんわりには支配しはい地域ちいき権限けんげんおおきかった。後述こうじゅつとお代官だいかんしょ勤務きんむする人員じんいんかずかぎられていたため、代官だいかん仕事しごと非常ひじょう多忙たぼうだった。

通常つうじょう代官だいかん支配しはいすうまんせき単位たんい編成へんせいされる。代官だいかん支配しはいしょ陣屋じんや代官だいかんしょ)を設置せっちし、統治とうちにあたる。代官だいかん配下はいかには10めい程度ていど手付てつき幕府ばくふ御家人ごけにん)とすうめい手代てだい現地げんち採用さいようかかせき)がかれ、代官だいかん補佐ほさした。とく関東かんとう近辺きんぺん代官だいかん江戸えど定府じょうふで、支配しはい手付てつき連絡れんらくおこない、代官だいかん検地けんち検見けんみ巡察じゅんさつ重大じゅうだい事件じけん発生はっせいにのみ支配しはいおもむいた。遠隔えんかくでは代官だいかん在地ざいち原則げんそくであった。

また私利しり私欲しよくはしるなどで、すこしでも評判ひょうばんわる代官だいかんはすぐに罷免ひめんされる政治せいじ体制たいせいになっていた。過酷かこく年貢ねんぐては農民のうみん逃散につながり、かえって年貢ねんぐ収量しゅうりょう減少げんしょうするためである。実際じっさい飢饉ききんとき餓死がししゃした責任せきにん罷免ひめん処罰しょばつされた代官だいかんもいる[よう出典しゅってん]。しかしながら、その一方いっぽうでは、領民りょうみんたちをおもぜいからすくうためにみずからのいのち犠牲ぎせいにして年貢ねんぐ減免げんめん幕府ばくふうったつづけた鈴木すずき重成しげなりや、おなじく支配しはいへの甘藷さつまいも導入どうにゅうによって領民りょうみんたちを飢饉ききんからすくった井戸いど正明まさあきなどをはじめ、名代なだいかんぶにふさわしい代官だいかん存在そんざいした。

あく代官だいかん

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播磨はりまこくで8わり8ぶん年貢ねんぐ正徳しょうとく時代じだい天領てんりょう年貢ねんぐ平均へいきんが2わり7ふん6りんであったことと比較ひかくすると、あきらかに法外ほうがいてである)をてていた代官だいかんがいたこと確認かくにんされている[よう出典しゅってん]

時代じだいげきあく代官だいかん登場とうじょうすることがおおい。こうしたことから、代官だいかんえば、圧政あっせい百姓ひゃくしょうしいたげ、商人しょうにんから賄賂わいろり、土地とちおんなきにするなどのいわゆるあく代官だいかんのステレオタイプなイメージがひろ浸透しんとうした。今日きょう無理むり難題なんだいいる上司じょうし目上めうえして代官だいかんさま揶揄やゆするのも、こうしたドラマをつうじたあく代官だいかんのイメージがつよいことに由来ゆらいする。ジョークで物事ものごと懇願こんがんするさい相手あいてをお代官だいかんさま場合ばあいがあるのも、こうした時代じだいげき影響えいきょうによるところである。[独自どくじ研究けんきゅう?]

しょはんれい

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しょはんでも代官だいかん設置せっちされており、家臣かしん地方ちほう知行ちぎょう蔵米くらまいすすむと、給人きゅうにん自身じしんわって代官だいかんがまとめて知行ちぎょう徴税ちょうぜい管理かんりするようになった。

しょはんにおいての代官だいかんは、しょうはんにおいては10せき未満みまん徒士かちクラスがにんぜられているはんもあるが、御目見得おめみえ以上いじょう上士じょうし代官だいかんにんじているはんおおい。また、土地とち有力ゆうりょくしゃとう世襲せしゅうしているものもある。その場合ばあいはんないでの家格かかく徒士かちであることがおおい。

れいとして、柳河やなかわはん長州ちょうしゅうはんなどではうままわり代官だいかんになっていた。広島ひろしまはんでは代官だいかんは100せきから250せき程度ていど上士じょうしにんじられており、福山ふくやまはんでも代官だいかん上士じょうし相当そうとう役職やくしょくであった。また、一律いちりつではないが、おおくのはん代官だいかんすくなくともぐん奉行ぶぎょうよりはしたであるてん共通きょうつうする。また、柳河やなかわはんでは長崎ながさき外聞がいぶんやく長崎ながさき聞役ききやく)よりはうえである。

またなどでは在地ざいち富農ふのう代官だいかん任命にんめいすることがおおく、役人やくにん派遣はけんしないはんもあった。このような場合ばあい報酬ほうしゅう名字みょうじ帯刀たいとうなどの身分みぶん特権とっけん免租めんそ効用こうよう便びん利用りよう許可きょかなどの租税そぜい特権とっけんなどであった。

10まん9せんせき柳河やなかわはん代官だいかんやくりょう明和めいわ安永やすながごろの分限ぶげんちょうでは「白米はくまい2せき31しょうおっとぎん1まい」とある(柳河やなかわはん立花りっか分限ぶげんちょう)。人員じんいん会津あいづ松平まつへい時代じだい会津あいづはんで15にん戸田とだ時代じだい大垣おおがきはんで11にん米沢よねざわはんで5にんである。

代官だいかん役人やくにん変遷へんせん過程かてい

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幕府ばくふ初期しょき財政ざいせい貿易ぼうえき収入しゅうにゅう金銀きんぎん採掘さいくつによって潤沢じゅんたくだったが、次第しだい輸入ゆにゅう超過ちょうかとなり、採掘さいくつりょう減少げんしょうするなか、1657ねんあかりれき大火たいか復興ふっこうのため家康いえやす以来いらい貯蓄ちょちくもほとんど使つかたした[1]。そこで年貢ねんぐ収入しゅうにゅうけられ、代官だいかんかた督励とくれいするようになった[1]初期しょき代官だいかんには家康いえやすとの個人こじんてきむすびつきによってにんじられた土豪どごう代官だいかんと、これを統率とうそつする代官だいかんあたまがあり、ときには年貢ねんぐ収入しゅうにゅう地元じもと農民のうみん臨時りんじ代官だいかん)もあった[1]幕府ばくふ代官だいかん土地とち経営けいえい商売しょうばいきんじ、代官だいかんはんわたし領地りょうちてきであった支配しはいえて知行ちぎょうあたえるなどして公私こうし混同こんどうてき地方ちほう経営けいえいからの転換てんかんはかったが、年貢ねんぐ私的してき利用りようなどがつづき、改革かいかく困難こんなんきわめた[1]。そのため、1681ねん天和てんわ元年がんねん)に勘定かんじょう吟味ぎんみやく設置せっち、1687ねん貞享ていきょう4ねん)にそう代官だいかん会計かいけい監査かんさ実施じっしして、不良ふりょう代官だいかん大量たいりょう粛清しゅくせい人事じんじ異動いどうおこなった[1]。さらに1716ねんからのとおる改革かいかくでも代官だいかん粛清しゅくせいおこなわれ、1725ねんとおる10ねん)のくちまい直接ちょくせつ収得しゅうとく廃止はいしとともに、代官だいかん役人やくにん強化きょうかされた[1]

代官だいかんしょ

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きゅう大森おおもり代官だいかんしょもん長屋ながや現存げんそん

代官だいかんしょとは、江戸えど時代じだい江戸えど幕府ばくふ直轄ちょっかつ領地りょうち支配しはいしょ天領てんりょう)に設置せっちされ、代官だいかん派遣はけんされて統治とうちおこな役所やくしょのことである。江戸えど時代じだいにおいては、まくはん体制たいせい確立かくりつしていたこともあり、代官だいかんしょ規模きぼはその支配しはい地域ちいきくらべて比較的ひかくてきちいさかった。幕末ばくまつ五条ごじょう代官だいかんしょ南大和みなみやまと7まんせき)では、代官だいかん1にん幕臣ばくしん手付てつき3にん、おかかえの手代てだい10にん士分しぶん)しかいなかったという(下働したばたらきの足軽あしがる中間ちゅうかんはいる)。また、在地ざいち有力ゆうりょくしゃ代官だいかん任命にんめいする場合ばあいは、専用せんよう代官だいかんしょ設置せっちせず代官だいかん居宅きょたく代官だいかんしょとして使用しようし、代官だいかん補佐ほさやく家族かぞく使用人しようにんなど在地ざいちもの兼任けんにんした。

おも代官だいかんしょ陣屋じんや一覧いちらん

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東北とうほく地方ちほう

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関東かんとう地方ちほう

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中部ちゅうぶ地方ちほう

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近畿きんき地方ちほう

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中国ちゅうごく四国しこく地方ちほう

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九州きゅうしゅう地方ちほう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現存げんそんする彦根ひこねはん飛地とびち代官だいかんしょ

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f とおる改革かいかく による代官だいかん支配しはい変化へんかについて-さんとう代官だいかん廃止はいし韮山にらやま代官だいかん成立せいりつ背景はいけいから 仲田なかた正之まさゆき駒澤こまざわ史学しがく 58, 200-221, 2002-03
  2. ^ 会津あいづ武家ぶけ屋敷やしき”. 会津あいづ物語ものがたり. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじんニッポニア・ニッポン. 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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