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国司 - Wikipedia

国司こくし

日本にっぽんれいせいこく官吏かんり

国司こくし(こくし、くにのつかさ、くにのみこともち[注釈ちゅうしゃく 1]は、古代こだいから中世ちゅうせい日本にっぽんで、地方ちほう行政ぎょうせい単位たんいであるくに支配しはいする行政ぎょうせいかんとして朝廷ちょうていから任命にんめいされ派遣はけんされた中央ちゅうおう官吏かんりたちをす。

もり(かみ)(=長官ちょうかん)、かい(すけ)、じょう(じょう)、(さかん)が派遣はけんされた(四等官しとうかん)。さらにそのした史生ふみお(ししょう)、博士はかせ医師いしなどがかれており、広義こうぎでは国司こくしなかふくめてあつかわれていた[2]

まもり唐名とうみょう刺史しし太守たいしゅなど。大国たいこくうえこくまもり比較ひかくてき位階いかいたか貴族きぞく任命にんめいされ、中央ちゅうおうでは中級ちゅうきゅう貴族きぞく位置いちする。

任期にんきは6ねん(のちに4ねん)だったが、実際じっさいには任期にんきわらないうちに交代こうたいしているものおおかった[2]国司こくしたちは国衙こくがにおいて政務せいむたり、祭祀さいし行政ぎょうせい司法しほう軍事ぐんじのすべてをつかさどり、赴任ふにんした国内こくないでは絶大ぜつだい権限けんげんあたえられた。

国司こくしたちは、その国内こくないかくぐん官吏かんり郡司ぐんじ)へ指示しじおこなった。郡司ぐんじ中央ちゅうおう官僚かんりょうではなく、在地ざいち有力ゆうりょくしゃ、いわゆるふる豪族ごうぞく任命にんめいされた(詳細しょうさい古代こだい日本にっぽん地方ちほう官制かんせい参照さんしょう)。

このほか国司こくしした事務じむ処理しょりなどの雑務ざつむおこな書生しょせいざつてのひらことばれる下級かきゅう職員しょくいんがいた。原則げんそくとして在地ざいち白丁はくちょう身分みぶんからることになっていたが、実際じっさいにはきゅう豪族ごうぞくそう出身しゅっしんおおかったと推測すいそくされる[3]

沿革えんかく

編集へんしゅう
 
1920ねん大正たいしょう9ねん)、といはたけゆきだいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねん切手きって制作せいさくするにさいし、『日本書紀にほんしょき大化たいか元年がんねん9がつの「きのえさる使者ししゃ於諸こくろくみんもとかず」の記述きじゅつから高橋たかはしけんとともに再現さいげんした大化たいか年間ねんかん国司こくし姿すがた[4][5])。

国司こくし」とはなにか

編集へんしゅう

今日きょうにおいて「国司こくし」は、地方ちほうれいせいこく)に派遣はけんされた官吏かんりもしくはその官職かんしょくすと定義ていぎされるのが一般いっぱんてきであるが、その定義ていぎについては議論ぎろんされたことがないとする指摘してきもある[6]

公式こうしきれいでは、かい書式しょしきとしてにちづけのち提出ていしゅつもとかん所属しょぞくする四等官しとうかん上位じょういしゃから下位かいしゃいたるまでのしょさだめられているが、実際じっさいれいせいこくにおいては作成さくせいされた現存げんそんかいは「もりかいじょう」という四等官しとうかん順序じゅんじょにてしょおこなわれており、これは中央ちゅうおうにおけるかんまったおな手続てつづきとえる。つまり、本来ほんらい国司こくしとは地方ちほうかん個人こじんやその官職かんしょくすのではなく、まもり長官ちょうかんとするかんすなわち行政ぎょうせい機関きかん名称めいしょうであるとする指摘してきされている。つまり、官吏かんり個人こじん対象たいしょうとして「国司こくし」と呼称こしょうするのは本来ほんらい誤用ごようであるとみなすべき(まもりならば、「国守こくしゅ」としょうすべき)であるが、国司こくしそのものが元々もともと中央ちゅうおう大王だいおう天皇てんのう)から地方ちほう派遣はけんされた使者ししゃ役割やくわり常設じょうせつ機関きかんとしてえた性格せいかくをもっており、公式こうしきではともかくそれ以外いがいでははやくからかんとしての呼称こしょうである「国司こくし」をそこにぞくする官吏かんりたいしてももちいることがおこなわれ、平安へいあん時代じだいには一般いっぱんしてしまったとかんがえられている。しかし、現存げんそんする公文書こうぶんしょ分析ぶんせきかぎりにおいては、公文書こうぶんしょにおいてはすくなくても9世紀せいきまでは国司こくしかんのみを対象たいしょうにした用法ようほうだという本来ほんらい原則げんそくまもられていたとかんがえられている[7]

国司こくし制度せいどはじまり

編集へんしゅう

国司こくし制度せいど前史ぜんしとして、一説いっせつに、国司こくしというかたりていないが、すめらぎごく天皇てんのう元年がんねん642ねん)9がつじょう記述きじゅつに、「○○くに」という単位たんい徴発ちょうはつおこなわれている(舒明天皇てんのう時代じだいでは、「ひがしみん」「西にしみん」というかたりもちいた)ことから、すめらぎごく天皇てんのう時代じだいにはすでに国司こくし使つかわれたとかんがえられ、すめらぎごく天皇てんのう2ねん643ねん)にも「国司こくし」をもちいた記述きじゅつられるが、これらは後世こうせい国司こくしとはことなり、臨時りんじ派遣はけんされる官僚かんりょうであったとみられる[8]

日本書紀にほんしょき』には、大化たいか改新かいしんどき改新かいしんみことのりにおいて、穂積ほづみ東国とうごく国司こくしにんじられるなど、国司こくしいたことが記録きろくされている。このとき全国ぜんこく一律いちりつ国司こくし設置せっちされたとはかんがえられておらず、また当初とうしょくにおさむ(くにのみこともち)という呼称こしょうもちいられたとわれており、くにおさむうえには数ヶ国すうかこく統括とうかつするだいおさむ(おほ みこともち)が設置せっちされたという(「大宰府だざいふ」のかたりはその名残なごりだとわれている)。その7世紀せいきすえまでにれいせいこく制度せいど確立かくりつし、それにともなって国司こくし全国ぜんこくてき配置はいちされるようになったとされている。

8世紀せいき初頭しょとう大宝たいほう元年がんねん701ねん)に制定せいていされた大宝たいほう律令りつりょうで、日本にっぽん国内こくないくにぐんさとさん段階だんかい行政ぎょうせい組織そしきであるくにぐんさとせい編成へんせいされ、地方ちほう分権ぶんけんてき律令制りつりょうせいかれることとなった。律令制りつりょうせいにおいて、国司こくし非常ひじょう重要じゅうよう位置いちかれた。律令制りつりょうせい根幹こんかんてきささえたはんでんおさむ授制は、戸籍こせき作成さくせい田地でんちはんきゅう租庸調そようちょうおさむなどから構成こうせいされていたが、これらはいずれも国司こくし職務しょくむであった。このように、律令制りつりょうせい理念りねん日本にっぽん全国ぜんこく貫徹かんてつすることが国司こくしもとめられていたのである。

国司こくし中央ちゅうおうかんじん任命にんめいされて家族かぞくれて任国にんごくおもむくことがみとめられていた。また、公務こうむ都合つごうなどで在任ざいにんちゅうもたびたび上京じょうきょうしており、在任ざいにんちゅうずっと帰京ききょうできなかったわけではなかった[9]

国司こくし通常つうじょう国府こくふもうけられた国衙こくがなかにあるくにちょう政務せいむおこなっているが、郡司ぐんじ業務ぎょうむ監査かんさ農民のうみんへのすすむのうなどの業務ぎょうむたすために責任せきにんしゃであるまもり毎年まいとし1かい国内こくないかくぐん視察しさつする義務ぎむがあった。これを部内ぶない巡行じゅんこうという[10]

平安へいあん時代じだいてんちょう3ねん826ねん)からは親王しんのう任国にんごく制度せいどはじまった。桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのうおおくの皇子おうじ皇女おうじょめぐまれたためてるべき官職かんしょく不足ふそくし、親王しんのう官職かんしょくとして親王しんのう任国にんごく国司こくしてられ、親王しんのう任国にんごく国司こくし筆頭ひっとうかんであるまもりにはかなら親王しんのう補任ほにんされるようになった。親王しんのう任国にんごくまもりとなった親王しんのう太守たいしゅしょうし、任国にんごく赴任ふにんしないはるかつとむだったため、実務じつむじょう最高さいこう次官じかんかいであった。

はるかつとむ受領じゅりょう

編集へんしゅう

平安へいあん時代じだいになると、朝廷ちょうてい地方ちほう統治とうち方法ほうほうあらため、国司こくしには一定いってい租税そぜい納入のうにゅうたすことが主要しゅよう任務にんむとされ、従前じゅうぜん律令制りつりょうせいてき人民じんみん統治とうちもとめられなくなっていった。また本来ほんらい任命にんめいされた国司こくしもりかいじょう)の共同きょうどう責任せきにんだった地方ちほう統治とうちあらため、「まもり」(ただし親王しんのう任国にんごくでは「かい」)が租税そぜい納入のうにゅう責任せきにんうこととなった(受領じゅりょう)。それは、律令制りつりょうせいてき統治とうち方法ほうほうによらなくとも、一定いってい租税そぜい徴収ちょうしゅうすることが可能かのうになったからである。9世紀せいき10世紀せいきころにはばれる富豪ふごう農民のうみん登場とうじょうし、ときおなじくして、国衙こくが国司こくし役所やくしょ)が支配しはいしていた公田くでんが、名田なだという単位たんい再編さいへんされた。国司こくしは、名田なだ経営けいえいさせ、名田なだからの租税そぜい納付のうふわせることで、一定いってい租税そぜいがく確保かくほするようになった(これをまけめいという)。律令制りつりょうせいでは、人民じんみんいちにんひとりに租税そぜいせられていたため、人民じんみん個別こべつ支配しはい必要ひつようとされていたが、10世紀せいきごろになると、上記じょうきのように名田なだ、すなわち土地とち対象たいしょう租税そぜい賦課ふかする体制たいせいめい体制たいせい(みょうたいせい))が確立かくりつしたのである。

一定いってい租税そぜい収入しゅうにゅう確保かくほされると、任国にんごく赴任ふにんしないはるかつとむ国司こくし多数たすうあらわれるようになった。そして国司こくしもりかいじょう)のなか実際じっさい現地げんち赴任ふにんする最高さいこう責任せきにんしゃ受領じゅりょうぶようになった(またそれより下位かい国司こくし任用にんようぶようになった)。王朝おうちょう国家こっか体制たいせいへの転換てんかんなかで、受領じゅりょう一定いっていがく租税そぜい国庫こっこ納付のうふたしさえすれば、朝廷ちょうてい制限せいげんけることなく、それ以上いじょう収入しゅうにゅう私的してき獲得かくとく蓄積ちくせきすることができるようになった。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう開発かいはつ領主りょうしゅによる墾田こんでん開発かいはつさかんになり、かれらは国衙こくがから田地でんち私有しゆうみとめられたが、その権利けんりあやういものであった。そこでかれらはその土地とち荘園しょうえんこうりょうせいにより国司こくし任命にんめいされた受領じゅりょうそうである中級ちゅうきゅう貴族きぞく寄進きしんすることとなる。また、受領じゅりょうそう中級ちゅうきゅう貴族きぞくは、私的してき蓄積ちくせきしたとみ摂関せっかんなどの有力ゆうりょく貴族きぞくみつぎおさめすることでのこりをはかり、国司こくし任命にんめいされることはとみ蓄積ちくせき直結ちょっけつしたため、中級ちゅうきゅう貴族きぞくきそって国司こくしへの任命にんめいのぞみ、重任じゅうにんのぞんだ。『枕草子まくらのそうし』には除目じもく悲喜ひきえがいている[注釈ちゅうしゃく 2]平安へいあん中期ちゅうき以降いこう知行ちぎょうこくという制度せいどができた。これは皇族こうぞくだい貴族きぞくいちこく指定していして国司こくし推薦すいせんけんあたえるもので、だい貴族きぞく親族しんぞく家来けらい国司こくし任命にんめいさせてとうくにから莫大ばくだい収益しゅうえきた。

あたらしく国司こくしにんぜられる候補こうほとしては、蔵人くろうど式部しきぶすすむみんすすむそと検非違使けびいしなどがめぐによってしたがえじょせられたものからえらばれる[11]ほか、成功せいこういんみやぶんこくせいなどもあった。

国司こくし選任せんにんたっては、そのくに所領しょりょうものは、癒着ゆちゃく防止ぼうしするという観点かんてんから任命にんめいけるという慣例かんれいがあった。寛弘かんこう3ねん1006ねん1がつ28にち除目じもくにおいて、右大臣うだいじん藤原ふじわらあらわこう伊勢いせもり平維衡たいらのこれひら推挙すいきょしたが、藤原ふじわら道長みちながが「維衡はかつて伊勢いせこく事件じけんこしたものである」ことを理由りゆう反対はんたいしている[12]。この「事件じけん」とは、かつて維衡が伊勢いせにおいてひら致頼合戦かっせんこしたことである[13]。なお道長みちながは8ねん長和ながわ3ねん2がつ除目じもくで、摂津せっつ地盤じばんとしていたみなもとよりゆきおや摂津せっつもり推挙すいきょするという矛盾むじゅんした行動こうどうをとっている[14]

鎌倉かまくら時代ときよにも国司こくし存続そんぞくしたが、鎌倉かまくら幕府ばくふによって各地かくち配置はいちされた地頭じとう積極せっきょくてき荘園しょうえん、そして国司こくし管理かんりしていた国衙こくがりょう侵出しんしゅつしていった。当然とうぜん国司こくしはこれに抵抗ていこうしたが、地頭じとう国衙こくがりょう侵出しんしゅつすることで、徐々じょじょ国司こくし支配しはいけんうばっていった。

また、北条ほうじょうによる鎌倉かまくら幕府ばくふ支配しはい確立かくりつしてからは、執権しっけん幕府ばくふ本拠ほんきょがある相模さがみこく国司こくしふく執権しっけんである連署れんしょ武蔵むさし国司こくしにんじられるようになり、執権しっけん連署れんしょあわせて「りょう国司こくし[15]ばれた[16]

国司こくし形骸けいがい受領じゅりょうめい発生はっせい

編集へんしゅう

室町むろまち時代ときよになると、守護しゅご大幅おおはば権限けんげんたとえば半済はんせい給付きゅうふけん使節しせつ遵行けんなどが付与ふよされた。これらの権限けんげんは、国司こくし管理かんりする国衙こくがりょうにおいても強力きょうりょく効力こうりょく発揮はっきし、その結果けっか国司こくし権限けんげん大幅おおはば守護しゅごうつることとなった。国衙こくが機構きこう守護しゅご守護しゅご大名だいみょう)に吸収きゅうしゅうされ、大半たいはん国司こくし名目めいもくだけの官職かんしょくとなり、くに支配しはいとは一切いっさい関係かんけいがなくなった。

戦国せんごく時代じだいには武将ぶしょうが、国司こくし官職かんしょく仮名かめい (通称つうしょう)として自称じしょう、あるいは主君しゅくんからさづけられることがられるようになった。これは受領じゅりょうめいばれる。一方いっぽう自国じこく領土りょうど支配しはいもしくは他国たこく侵攻しんこう正当せいとうせい主張しゅちょうするため、国司こくし正式せいしき任官にんかんもとめることもみられた。大内おおうち義隆よしたか周防すおうかい伊予いよかい織田おだ信秀のぶひで今川いまがわ義元よしもと徳川とくがわ家康いえやす三河みかわまもるなどはそのれいである[17]。こうした戦国せんごく大名だいみょう叙任じょにんのために朝廷ちょうてい公家くげさかんに献金けんきんなどをおこなった。これは、天皇てんのう地位ちいさい認識にんしきされる契機けいきともなった[注釈ちゅうしゃく 3]

特殊とくしゅれいとしては伊勢いせこく北畠きたばたけ飛騨ひだこくあね小路こうじ土佐とさこく一条いちじょうのいわゆる「さん国司こくし」がある。このさんいえはいずれも公家くげとしての家格かかくち、まもり官職かんしょくについていたわけではないが、「国司こくし」としていちこく支配しはいけんていると認識にんしきされていた。

江戸えど時代じだい受領じゅりょうめい

編集へんしゅう

江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ以降いこうは、大名だいみょう旗本はたもと一部いちぶ上級じょうきゅう陪臣ばいしん幕府ばくふ許可きょかうえで、家格かかくおうじて受領じゅりょうめいしょうすることがおこなわれた(武家ぶけ官位かんい)。まもり親王しんのう任国にんごくかい国司こくしめいしょうすることのできた大名だいみょう旗本はたもとは「しょ大夫たいふ」とばれた[18]。しかし受領じゅりょうめい朝廷ちょうてい正式せいしき叙任じょにんけた形式けいしきをとるにせよ、「名前なまえ」のあつかいであり、律令制りつりょうせい官位かんい相当そうとうにおける上下じょうげは、特段とくだん意味いみゆうしていなかった[19]受領じゅりょうめいしょうするにたっては幕府ばくふおよ朝廷ちょうてい礼金れいきん支払しはらことおこなわれた[20]受領じゅりょうめいかぎられていたため、どう時期じき複数ふくすう人物じんぶつおなめい名乗なのることもおおかった。おな役職やくしょくいた場合ばあいには先任せんにんのものに遠慮えんりょしてしょくに遷任するれいであった。また律令りつりょうにおける受領じゅりょう官位かんい相当そうとう考慮こうりょされず、上下じょうげはなかった。

また、しょ大夫たいふ以上いじょう家格かかくである「よんひん以上いじょう家格かかくしょ大名だいみょう高家こうかも「侍従じじゅう」や「近衛このえ少将しょうしょう」といった官職かんしょくめいとはべつ受領じゅりょうめいしょうした。たとえば赤穂あこう事件じけん有名ゆうめい吉良きら義央よしなかしたがえよんじょう侍従じじゅう近衛このえ少将しょうしょうなどの官位かんいにあったが、「上野うえのかい」の受領じゅりょうめいしょうしている。なお、国持くにもち大名だいみょう自分じぶん領国りょうごく国司こくし名乗なのるのは一種いっしゅ特権とっけんとされており、小倉こくらはんから熊本くまもとはん加増かぞうてんふうされて肥後ひご国主こくしゅとなった細川ほそかわ忠利ただとし息子むすこひかりひさし元服げんぷくに「肥後守ひごのかみ」を名乗なのりれるよう運動うんどうしている[21]

浄瑠璃じょうるりなどの芸能げいのうしゃや、菓子かし舗などの職人しょくにん朝廷ちょうてい公家くげとうから免許めんきょけてじょうなどの下級かきゅう国司こくしめいしょうすることもおこなわれた。播磨はりまぶし創始そうししゃ井上播磨掾いのうえはりまのじょうや、菓子かし虎屋とらや近江おうみだいじょうしょうしたのはそのれいである。

明治維新めいじいしん律令りつりょう制度せいど廃止はいしとともに国司こくし廃止はいしされた[注釈ちゅうしゃく 4]

くに等級とうきゅう区分くぶん

編集へんしゅう

各国かっこくせられた納税のうぜい規模きぼは、当時とうじ各国かっこく国力こくりょくもとづき判定はんていされた。

各国かっこく時節じせつ国情こくじょう時勢じせいもと変動へんどうする大国たいこく(たいこく、たいごく)・うえこく(じょうこく、じょうごく)・中国ちゅうごく(ちゅうごく)・したこく(げこく)の4等級とうきゅうけられた。

国司こくしかく役職やくしょくすう時勢じせいもとづき変動へんどうしたが、基本きほんてき官位かんい相当そうとう大国たいこくまもりしたがえじょううえこくまもりしたがえ中国ちゅうごくまもり大国たいこくかいしたがえろくうえこくにはかい中国ちゅうごくにはかいかずしたこくにはかいじょうかないなどの規則きそく大宝たいほうれい養老ようろうれいさだめられていたものの、実際じっさいには各国かっこく国司こくし繁忙はんぼうさにわせて国司こくし人員じんいん調整ちょうせいおこなわれていた。これをしめすものとして、以下いかのようなれいがある。

  1. ぞく日本にっぽんたからひさし6ねん775ねん3月2にちじょうによれば、「はじめて伊勢いせこくすくな2いんまいりかわこく大目おおめ1いんしょう1いん遠江とおとうみこくしょう2いん駿河するがこく大目おおめ1いんしょう1いん武蔵むさしこくしょう2いん下総しもうさこくしょう2いん常陸ひたちこくしょうじょう2いんしょう2いん美濃みのこくしょう2いん下野げやこく大目おおめ1いんしょう1いん陸奥みちのくこくしょう2いん越前えちぜんこくしょう2いんえつ中国ちゅうごく大目おおめ1いんしょう1いん但馬たじまこく大目おおめ1いんしょう1いん因幡いなばこく大目おおめ1いんしょう1いん伯耆ほうきこく大目おおめ1いんしょう1いん播磨はりまこくしょう2いん美作みさくこく大目おおめ1いんしょう1いん備中びっちゅうこく大目おおめ1いんしょう1いん阿波あわこく大目おおめ1いんしょう1いん伊予いよこく大目おおめ1いんしょう1いん土佐とさこく大目おおめ1いんしょう1いん肥後ひごこくしょう2いん豊前ぶぜんこく大目おおめ1いんしょう1いんく」とある。
  2. 文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくてんやす2ねん858ねん4がつ15にちじょうによれば、「下野げやこくだいじょうしょうじょうかく1めいずつ配置はいちする」とある。
  3. 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん8ねん866ねん3月7にちじょうによれば、当時とうじ国司こくしかいいていなかったうえこくふくはちこく甲斐かいこく能登のとこく丹後たんごこく石見いわみこく周防すおうこく長門ながとこく土佐とさこく日向ひなたこく)にかい飛騨ひだこくじょうくなど、おおやけ廨稲おおやけ廨田ことりょくあらたな分配ぶんぱいしめ太政官だじょうかん判定はんていがあったむねえ、これら9こく国司こくし増員ぞういんおこなわれていたことがかる。

ただし、この増員ぞういん国司こくし繁忙はんぼうさだけを理由りゆうには出来できないとするせつもある。天平てんぴょうたから元年がんねん(757ねん)に余剰よじょうおおやけ一部いちぶ国司こくしかんじんたち分配ぶんぱいして収入しゅうにゅうとすることがみとめられた結果けっか国司こくし四等官しとうかん地位ちい利権りけんとしての要素ようそたかまり、地方ちほうへの赴任ふにんのぞもの増加ぞうかしたため、そうした需要じゅようこたえるために財政ざいせいてき余裕よゆうがあるくに定員ていいんやしたのではないかとする見方みかたもある。神護かんごけいくも元年がんねん(767ねん以降いこう記録きろくじょうあらわれる権守ごんもりをはじめとするけんかん設置せっちがみられるようになるのも同様どうよう趣旨しゅしとみられている。この指摘してき裏付うらづけるものとして、てんおう元年がんねん(781ねん)に郡司ぐんじぐんあつしのぞいてこれまでの増員ぞういんぶんすべ一律いちりつ廃止はいしされている。また、権守ごんもりなどのけんかんつづのこされるが、こちらもはるかつとむとしてあつかわれるようになっている[22]

延喜えんぎしき時代じだい各国かっこく等級とうきゅう

編集へんしゅう

延喜えんぎしき策定さくていされた10世紀せいきごろの各国かっこく等級とうきゅう以下いかのとおり。

大国たいこく(13カ国かこく
大和やまとこく河内かわちこく伊勢いせこく武蔵むさしこく上総かずさこく下総しもふさこく常陸ひたちこく近江おうみこく上野うえのこく陸奥みちのくこく越前えちぜんこく播磨はりまこく肥後ひごこく
うえこく(35カ国かこく
山城やましろこく摂津せっつこく尾張おわりこく三河そうごこく遠江とおのえこく駿河するがこく甲斐かいこく相模さがみこく美濃みのこく信濃しなのこく下野げやこく出羽いずはこく加賀かがこくえつ中国ちゅうごく越後えちごこく丹波たんばこく但馬たじまこく因幡いなばこく伯耆ほうきこく出雲いずもこく美作みさくこく備前びぜんこく備中びっちゅうこく備後びんごこく安芸あきこく周防すおうこく紀伊きいこく阿波あわこく讃岐さぬきこく伊予いよこく豊前ぶぜんこく豊後ぶんごこく筑前ちくぜんこく筑後ちくごこく肥前ひぜんこく
中国ちゅうごく(11カ国かこく
安房あわこく若狭わかさこく能登のとこく佐渡さどこく丹後たんごこく石見いわみこく長門ながとこく土佐とさこく日向ひなたこく大隅おおすみこく薩摩さつまこく
したこく(9カ国かこく
和泉いずみこく伊賀いがこく志摩しまこく伊豆いずこく飛騨ひだこく隠岐おきこく淡路あわじこく壱岐いきこく対馬つしまこく

じゅくこく亡国ぼうこく

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摂関せっかん政治せいじ(10世紀せいき以降いこうには、「じゅくこく」と「亡国ぼうこく」とばれる表現ひょうげん登場とうじょうする。じゅくこくは「大国たいこく」「ようこく」ともしょうされて税収ぜいしゅうゆたかで朝廷ちょうてい財政ざいせいささえるくに亡国ぼうこくは「ほろびへいこく」「なんこく」「難治なんじこく」ともしょうされて税収ぜいしゅう不安定ふあんていであったり、災害さいがい治安ちあん悪化あっかなどで統治とうち困難こんなんくにした。ただし、その判断はんだん具体ぐたいてき数字すうじもとづくものではなく、中央ちゅうおう判断はんだん依拠いきょするところがおおきい(権力けんりょくしゃ思惑おもわく認定にんてい有無うむわることがある)。受領じゅりょうによる租税そぜい徴収ちょうしゅう請負うけおい確立かくりつされていた(うらかえせば中央ちゅうおう納税のうぜいしたのち余剰よじょう収入しゅうにゅうにすることが可能かのうであった)当時とうじにおいて、おおくの人々ひとびとじゅくこく受領じゅりょうくことをのぞみ、とくにほとんどの時期じきにおいてじゅくこく判断はんだんされていた播磨はりまこく伊予いよこく国司こくしになることは大変たいへん名誉めいよなこととされていた。ただし、朝廷ちょうてい財政ざいせい財源ざいげんとしてじゅくこく租税そぜい期待きたいされており、規定きてい納税のうぜいとはべつ臨時りんじ納税のうぜい成功せいこうへの協力きょうりょくもとめられることがおおかった。反対はんたい亡国ぼうこく国司こくしへの任命にんめい租税そぜい徴収ちょうしゅう不振ふしんから受領じゅりょう功過こうかじょうなどで責任せきにんわれる可能かのうせいたかくなるために忌避きひされていた。ただしぜい減免げんめん申請しんせい亡国ぼうこくにのみみとめるなど中央ちゅうおうでも一定いってい配慮はいりょおこなわれ、さら中央ちゅうおうへの租税そぜい確実かくじつおさめかつ国内こくないなおしに成功せいこうすれば有能ゆうのうとみなされて、その昇進しょうしんにもおおきなプラスにはたら可能かのうせいもあった[23]

親王しんのう任国にんごく

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諸国しょこく任国にんごくうち上総かずさこく常陸ひたちこく上野うえのこくさんヶ国かこくは、親王しんのう任国にんごくとして、その長官ちょうかんを「太守たいしゅ(たいしゅ)」とった。 しかし、皇族こうぞくであるため赴任ふにんはせず、ただ俸給ほうきゅうのみをとっていたことから、欠員けついんがあっても俸給ほうきゅう使つかわず、無品むほん(むほん)親王しんのうようにあてられていた。 このさんヶ国かこく親王しんのう任国にんごくとしたのは、淳和天皇じゅんなてんのう在位ざいい823ねん~833ねん)の時代じだいからはじまったものである。 後醍醐天皇ごだいごてんのう在位ざいい1318ねん~1339ねん)の時代じだいには、陸奥みちのくこく親王しんのう任国にんごくとされ、義良親王のりながしんのう太守たいしゅとしたことが「かみすめらぎ正統せいとう」に記載きさいされている。

武家ぶけ官位かんいにおいても、親王しんのう任国にんごくについては「かい」の受領じゅりょうめいしょうすることが通常つうじょうであり、まもりしょうしたれいはほとんどないが、織田おだ信長のぶなが一時期いちじき上総かずさまもる」の受領じゅりょうめいしょうしたことがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 天皇てんのう命令めいれい=みことをつ」の[1]
  2. ^ 「すさまじきもの」さんかんほん基準きじゅんじゅうだん能因のういんほん基準きじゅんじゅうだん
  3. ^ とくこう土御門天皇つちみかどてんのうからこう奈良なら天皇てんのう時代じだい皇室こうしつ経済けいざい状態じょうたい疲弊ひへいはなはだしく、こと国司こくししょくかんしてはほとんど申請しんせいのままににんじられた。
  4. ^ したがって、国司こくし廃止はいし設置せっちされた磐城いわきこく岩代いわしろこく陸前りくぜんこくりく中国ちゅうごく陸奥むつ(りくおう)こく羽前うぜんこく羽後うごこく北海道ほっかいどう11かこく対応たいおうする受領じゅりょうめい(「陸前りくぜんもり」「羽後うごまもる」など)は成立せいりつしない。

出典しゅってん

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  19. ^ わき秀和ひでかず氏名しめい誕生たんじょう』(だいしょう「2名前なまえとしてのかんめい」>「かんめい選択せんたく」、「叙任じょにんという手続てつづき」)
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