徳川 家康
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( | |
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概要
生涯
※
生 い立 ち
3
人質 として今川 家 、そして織田 家 へ
2
なお、
元服 ・初陣
なお、
清洲 同盟 から三河 国 平定
5月19
「徳川 」への改姓
この
今川 領 遠江 への侵攻
5月に
武田 氏 との戦 い
ようやく
その
なお、
また
また
本能寺 の変 と天正 壬 午 の乱
6月2
ここに
小牧 ・長久手 の戦 いから豊臣 政権 への臣従
しかし
これに
豊臣 家臣 時代 ・関東 への移 封
家康 が北条 親子 のことを讒言 せず、北条 氏 の分 国 (領国 )を一切 望 まない今月 中 に兄弟 衆 を京都 に派遣 する豊臣 家 への出仕 を拒否 する場合 、娘 (氏直 に嫁 いだ督 姫 )を離別 させる
なお、これに
この
12 |
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10 |
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3.3 |
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3.3 |
ただし、1.3 | |||
3 |
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3 |
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1.2 |
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3 |
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2 |
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2 |
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4.5 |
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1 |
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1 |
なお、
徳 川内 府
秀吉 死後
伊達 政 宗 の長女 ・五郎八 姫 と家康 の六 男 ・松平 忠 輝 。松平 康 元 (家康 の甥 )の娘 と福島 正之 (福島 正則 の養子 )。蜂須賀 至 鎮(蜂須賀 家政 の世子 )と小笠原 秀政 の娘 (家康 の外 曽 孫 で養女 )。水野 忠重 (家康 の叔父 )の娘 と加藤 清正 。保科 正直 の娘 ・栄 姫 (家康 の姪 で養女 )と黒田 長政 (黒田 孝高 の嫡男 )。
このころより
3月3
9月7
9月13
秀忠 が江戸 へ下向 したため正室 お江 と離 れるので、彼女 以外 の女性 が秀忠 の子 を生 む可能 性 があり両者 の仲 が悪 くなるのを避 けるため、お江 も下向 させようとしたが淀殿 周辺 から反対 されたこと。後 陽成 天皇 が譲位 の意向 を示 したが、秀吉 の遺言 とは異 なる子 を指名 したため、家康 が譲位 の断念 を申 し入 れざる得 なかったこと。秀吉 遺言 で東国 の大名 は大坂 、西国 の大名 は伏見 にいることが求 められたが、宇喜多 秀家 は大 坂 に留 まったため家康 の抗議 で伏見 に移 ることを承諾 したが、同様 の者 がまだ複数 いること。
9月9
またこのころ、
対馬 国 の宗義 智 に1万 石 を加増 。その家臣 の柳川 智永 を従 五 位 下 豊前 守 に叙任 (豊臣 姓 )[104][105]。遠江 国 ・浜松 12万 石 の堀尾 吉晴 に越前 国 ・府中 5万 石 を加増 。美濃 国 ・金山 7万 石 の森 忠政 を信濃 国 ・川中島 13万 7,000石 に加増 移 封 。丹後 国 ・宮津 の細川 忠興 に豊後 国 ・杵築 6万 石 を加増 。薩摩 国 ・大隅 の島津 義久 に5万 石 を加増 。
関ヶ原 の戦 い
これに
6月16
この
さらに
9月、
9月15
9月18
その
家康 のスペイン外交 と浦賀
メキシコ
征夷大将軍
なお
大御所 政治
大坂 の陣
そのような
そして、
方広寺 鐘 銘 事件
さらに8
これに
この
その
大坂 冬 の陣
大坂 夏 の陣
このころ、
これに
その
最 晩年
3月27
最期
『
- 「
嬉 やと再 び覚 めて一眠 り浮世 の夢 は暁 の空 」 - 「
先 にゆき跡 に残 るも同 じ事 つれて行 ぬを別 とぞ思 ふ」
没後
家康 の神格 化
『
また、
墓所 ・霊廟
久能山 東照宮 の廟所 宝塔 元和 2年 (1616年 )に創建 された。創建 当初 は木造 桧皮葺 の造 りであったが、寛永 17年 (1640年 )に家光 により現在 の石造 宝塔 に造 替 された。「神 廟 」ともいう。家康 の遺命 により西向 きに建 てられている[181]。1955年 6月 22日 に重要 文化財 に指定 された[182]。
日光 東照宮 の奥 社 宝塔 元和 3年 (1617年 )4月 に日光 の社殿 が完成 し、4月 8日 に家康 は奥 院 廟 塔 に改葬 された。そして一 周忌 にあたる4月 17日 に遷座 祭 が行 われた。1908年 8月 1日 に旧 国宝 (重要 文化財 )に指定 された[183]。
年表
1542 |
12月26 |
1 |
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1560 |
5月19 |
19 |
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1562 |
1 |
21 |
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1566 |
12月29 |
25 |
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1568 |
1 |
27 |
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1570 |
6月28 |
29 |
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1571 |
1 |
30 |
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1 |
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1572 |
10月16 |
31 |
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1573 |
12月22 |
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1574 |
1 |
33 |
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1575 |
5月 | 34 |
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1578 |
12月10 |
36 |
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12月29 |
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1580 |
1 |
39 |
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1582 |
6月2 |
41 |
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1583 |
10月5 |
42 |
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10月7 |
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1584 |
2 |
43 |
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3-4 |
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1586 |
10月4 |
45 |
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10月27 |
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11月5 |
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1587 |
8 |
46 |
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1588 |
12月28 |
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1588 |
1 |
47 |
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1590 |
8 |
49 |
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1592 |
9月16 |
51 |
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1596 |
5月8 |
55 |
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1600 |
9月15 |
59 |
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1602 |
1 |
61 |
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1603 |
2 |
62 |
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10月16 |
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1605 |
4 |
64 |
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1614 |
3月8 |
73 |
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1614 |
11月-12月 | |||
1615 |
5月 | 74 |
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7 |
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7 |
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1616 |
3月17 |
75 |
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4 |
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1617 |
3月9 |
※
※
※
さらに、その
人物 ・逸話
人物
容貌 家康 に謁見 したルソン総督 ロドリゴ・デ・ビベロは、著作 の『ドン・ロドリゴ日本 見聞 録 』で、家康 の外貌 について「彼 は中背 の老人 で尊敬 すべき愉快 な容貌 を持 ち、太子 (秀忠 )のように、色 黒 くなく、肥 っていた」と記 している。下腹 が膨 れており、自 ら下帯 を締 めることができず、侍女 に結 ばせていたとされている(『岩淵 夜話 』)[192]。家康 着用 の辻 ヶ花 染 の小袖 は、身丈 139.5cm、背中 の中心 から袖 端 まで59cmの長 さがあるため、身長 は155cmから160cmと推定 される[193]。
武術 の達人 -
剣術 は、新 当流 の有馬 満 盛 、上泉 信綱 の新 陰 流 の流 れをくむ神 影 流 [注釈 55]剣術 開祖 で家来 でもある奥平 久賀 (号 の一 に急 賀 斎 )に元 亀 元年 (1570年 )から7年間 師事 。文 禄 2年 (1593年 )に小野 忠明 を200石 (一刀 流 剣術 の伊東 一刀斎 の推薦 )で秀忠 の指南 として、文 禄 3年 (1594年 )に新 陰 流 の柳生 宗矩 [注釈 56]を召抱 える。塚原 卜伝 の弟子 筋 の松岡 則 方 より一 つの太刀 の伝授 を受 けるなど、生涯 かけて学 んでいた。ただし、家康 本人 は「家臣 が周囲 にいる貴人 には、最初 の一 撃 から身 を守 る剣法 は必要 だが、相手 を切 る剣術 は不要 である」と発言 したと『三河 物語 』にあり、息子 にも「大将 は戦場 で直接 闘 うものではない」と言 っていたといわれる。馬術 も、室町 時代 初期 の大坪 慶 秀 を祖 とする大坪 流 を学 んでいる。小田原 征伐 の際 に橋 をわたるとき、周囲 は家康 の馬術 に注目 したが、家康 本人 は馬 から降 りて家臣 に負 ぶさって渡 った(『武将 感状 記 』)。弓術 については三方 ヶ原 の戦 いにおいて退却 途中 に、前方 を塞 いだ武田 の兵 を騎射 で何人 も射 ち倒 して突破 している(『信長 公 記 』)。鉄砲 も名手 だったと云 われ、浜松 居城 期 に5.60間 (約 100m)先 の櫓 上 の鶴 を長 筒 で射止 めたという。また鳶 を立 て続 けに撃 ち落 としたり、近臣 が当 たらなかった的 の中央 に当 てたという(『徳川 実紀 』)。
好学 の士 家康 は実学 を好 み、板坂 卜 斎 は家康 について「『論語 』『中庸 』『史記 』『貞 観 政 要 』『延喜 式 』『吾妻 鑑 』を好 んだ」と記載 している[194]。家康 はこれらの書物 を関ヶ原 以前 より木版 (伏見 版 )で、大御所 になってからは銅 活字 版 (駿府 版 )で印刷 ・刊行 していた。特 に『吾妻 鑑 』は散逸 した史料 を集 めて後 の「北条 本 」を開板 し[195]、また林 羅山 に抄出 本 を作成 させており[196]、吾妻 鑑 研究 の草分 け的 存在 と言 える。また『源氏物語 』の教授 を受 けたり、三浦 按針 から幾何 学 や数学 を学 ぶなど、その興味 は幅広 かった。古 典籍 の蒐集 に努 め、駿府 城 に「駿河 文庫 」を作 り、約 一 万 点 の蔵書 があったという。これらは将軍家 や御三家 に譲 られて「駿河 御 譲 本 」と呼 ばれ、幕府 の紅葉山 文庫 や尾張 家 の蓬 左 文庫 などに受 け継 がれ、今日 まで伝 わっている。南蛮 から贈 られた薄 石 が瑪瑙 と知 らされたおり、『本草 綱目 』で確認 させたように実証 的 であった[194]。多趣味 鷹狩 と薬 作 りが家康 の趣味 として特 に有名 であるが、他 にも非常 に多 くの趣味 があった。鷹狩 は、府中 御殿 に滞在 しながら[注釈 57] お鷹 の道 で行 われたとの記録 が残 っているほか、家康 の鷹狩 にちなむ地名 [198]や青山 忠 成 や内藤 清成 の駿馬 伝説 などの伝説 を各地 に残 すことになった。家康 の鷹狩 に対 する見方 は独自 で、鷹狩 を慰 め(気分 転換 )のための遊芸 にとどめずに、政治 的 ・軍事 的 視察 も兼 ねた、身体 を鍛 える一法 とみなし、内臓 の働 きを促 して快 食 ・快眠 に資 する摂生 (養生 )と考 えていた(『中泉 古老 諸 談 』)[199][200]。薬 作 りは、八 味 地黄 丸 など生薬 調合 を行 い、この薬 が、俗 に「八 の字 」とよばれていたことから、頭文字 の八 になぞらえ、八 段 目 の引 き出 しに保管 していた[199]。「薬 喰 い」とも言 われる獣肉 を食 すなど記録 が多 い。駿府 城 外 には家康 が開 いた薬園 があり、死後 に廃 れたが享 保 年間 に復興 した。猿楽 (現在 の名称 は能 )は、若 いころから世阿弥 の家系 に連 なる観世 十郎 太夫 に学 び、自 ら演 じるだけでなく、故実 にも通 じていた。このためもあってか、能 は江戸 幕府 の式 楽 とされた。特 に幸 若 舞 を好 んだという。駿府 城 三 の丸 には能楽 専用 の屋敷 があり、家康 は度々 家族 や大名 ・公家 と共 に観覧 した。囲碁 の本因坊 算 砂 を天正 15年 (1587年 )閏 11月 13日 、京都 から駿府 に招 いている。家臣 の奥平 信 昌 が京都 で本因坊 の碁 の門下 となり下 国 の際 に駿府 へ連 れてきたとされる[193]。自身 で嗜 んだのみならず家元 を保護 し、確立 した功績 から、家康 は囲碁 殿堂 に顕彰 されている。将棋 は一世 名人 ・大橋 宗 桂 に慶長 17年 (1612年 )に扶持 を与 える。この功績 により、平成 24年 (2012年 )の名人 制度 400年 を記念 して、将棋 十 段 の推戴 状 が贈呈 される[201]。香道 を好 み ()の薫物 用材 として、東南 アジア各国 へ宛 てた国書 の中 で特 に極上 とされた伽羅 を所望 する記述 があり、遺品 にも高 品質 の香木 が多数 遺 されている[202]。なお有名 な蘭奢 待 については、慶長 7年 6月 10日 、東大寺 に奉行 の本多 正純 と大久保 長安 が派遣 されて正 倉 院 宝庫 の調査 を実施 し[203]、現物 の確認 こそしたものの、切 り取 ると不幸 があるというい伝 えに基 づき切 り取 りは行 わなかった(『当代 記 』)。同 8年 2月 25日 、開封 して修理 が行 われている(続々 群 書 類従 所収 「慶長 十 九年薬師院実祐記」)[203]。
新 しいもの好 き
芸事 は好 まない-
今川 家 での人質 時代 に今川 義元 に舞 を所望 されたが、猿楽 にして欲 しいと請 い唖然 とさせた。家臣 が代 わりに舞 っている。家康 は幼少 期 より茶 の湯 の世界 が身近 にあったが、信長 や秀吉 と異 なり茶 の湯 社交 に対 する積極 性 は見 られない[205]。家康 の遺産 である『駿府 御 文物 』には足利 将軍家 以来 の唐物 の名物 ・大 名物 が目白押 し[206]だが、久能山 東照宮 にある家康 が日常 に用 いた手沢 品 はそれらに比 べ質素 な品 が多 い。- ただし
茶 を飲 むこと自体 は好 んでおり、天正 12年 (1584年 )に松平 親 宅 と上林 政重 に製茶 支配 を命 じ、毎年 茶 葉 を献上 させている。なお、親 宅 は家康 へ肩 衝茶入 『初 花 』を献上 し、政重 は後 に宇治 の茶畑 の支配 を任 せられ、伏見 城 の戦 いで戦死 している。
家康 が尊敬 していた人物
家康 は、中国 の人物 として劉邦 、唐 の太 宗 、魏 徴 、張 良 、韓 信 、太公望 、文 王 、武 王 、周 公 を尊敬 している。着目 すべきはすべて周 ・漢 ・唐 時代 の人物 で前 王朝 の暴君 を倒 して長期 政権 を樹立 した王 (皇帝 )とその功臣 の名 が挙 げられている。日本 の人物 では源 頼朝 を尊敬 していた(『慶長 記 』)。師 は武田 信玄 武田 信玄 に大 いに苦 しめられた家康 ではあるが、施政 には軍事 ・政治 共 に武田 家 を手本 にしたものが多 い。軍令 に関 しては重臣 ・石川 数 正 の出奔 により以前 のものから改 める必要 に駆 られたという事情 もある。天正 10年 (1582年 )の武田 氏 滅亡 ・本能寺 の変 後 の天正 壬 午 の乱 を経 て武田 遺 領 を確保 すると、武田 遺臣 の多 くを家臣 団 に組 み込 んでいる。自分 の五男 ・信吉 に「武田 」の苗字 を与 え、武田 信吉 と名乗 らせ水戸 藩 を治 めさせている。書画 - 『
翁草 』(神沢 貞 幹 )や『永 茗夜話 』(渡辺 幸 庵 )には「権現 様 (家康 )は無筆 同様 の悪筆 にて候 」とある。しかし、少年 から青年 期 の自 ら発給 した文書 類 には、規矩 に忠実 で作法 通 りの崩 し方 を見 せ、よく手習 いした跡 が察 せられる。特 に岡崎 時代 の初期 の書風 には力強 い覇気 が溢 れ、気力 充実 した様子 が窺 える。こうした文書 類 には、普通 右筆 が書 くべき公文書 が含 まれており、初期 には専属 の右筆 が置 かれていなかったようだ。天正 年間 には、家臣 や領土 も増 えて発給 する文書 も増加 し、大半 は奉行 や右筆 に委 ねられていく。しかし、近臣 に宛 てた書状 や子女 に宛 てた消息 、自 らの誠意 を披露 する誓書 は自身 で筆 を執 っている。家康 は筆 まめで、数値 から小 録 の代官 に宛 てたとみられる金銭 請取 書 や年貢 皆済 状 が天正 期 から晩年 まで確認 できる。家臣 や金銀 に関 する実務 的 な内容 なものから、薬種 や香 合 わせなどの趣味 的 な覚書 、さらに駿府 城 時代 の鷹狩 の日程 を記 した道中 宿 付 なども残 っている。 文芸 として家康 の書 を眺 めると、家康 は定家 流 を好 み、藤原 定家 筆 の小倉 色紙 を臨模 し、手紙 でも定家 流 の影響 を受 けたやや癖 の強 い筆跡 が窺 えるようになるが、一方 で連綿 とした流麗 な書風 を見 せる和歌 短冊 も残 っており、家康 が実学 ばかりでなく古典 や名筆 にも学 んだ教養 人 でもあった一 面 を表 している[207]。ただし『慶長 記 』には、先述 の実学 との対比 で、根本 ・詩作 ・歌 ・連歌 は嫌 ったとある。絵 も簡略 な筆致 の墨画 が10点 余 り伝 わっているが、確実 に家康 の遺品 と言 われるものはなく、伝承 の域 を出 ない。しかし、『寛政 重 修 諸家 譜 』に家康 が描 いた絵 を拝領 した記録 があり、余技 として絵 を描 いていたことが窺 える。健康 指向 家康 は健康 に関 する指向 が強 く、当時 としては長寿 の75歳 (満 73歳 4ヵ月 )まで生 きた。これは少 しでも長 く生 きることで天下取 りの機会 を得 ようとした物 と言 われ、実際 に関ヶ原 の合戦 は家康 59歳 、豊臣 家 滅亡 は74歳 のときであり、長寿 ゆえに手 にした天下 であった。- その
食事 は質素 で、戦国 武将 として戦場 にいたころの食生活 を崩 さなかった。麦飯 と魚 を好 み、野菜 の煮付 けや納豆 もよく食 べていた。決 して過食 することのないようにも留意 していたといわれる。酒 は強 かったようだが、これも飲 みすぎないようにしていた。 和漢 の生薬 にも精通 し、その知識 は専門 家 も驚 くほどであった。海外 の薬学 書 である本草 綱目 や和 剤 局方 を読破 し、慶長 12年 (1607年 )から、本格 的 な本草 研究 に踏 みだした[202]。調合 の際 に用 いたという小刀 や、青磁 鉢 と乳棒 も現存 する。腎臓 や膵臓 によいとされている八 味 地黄 丸 を特 に好 んで処方 して日常 服用 していたという。松前 慶 広 から精力 剤 になる ()を海 狗 腎 慶長 15年 (1610年 )と慶長 17年 (1612年 )の2回 にわたり献上 されており、家康 の薬 の調合 に使用 されたという記録 も残 っている(『当代 記 』)[199][202]。欧州 の薬剤 にも関心 を示 しており、関ヶ原 の戦 いでは、怪我 をした家来 に石鹸 を使用 させ、感染 症 を予防 させたりもしている。東 照 大 権現 の本地 仏 が薬師 如来 となった所以 は家康 のこの健康 指向 に由来 している。本草 研究 も、後 の幕府 の薬園 開設 につながることから、医療 史上 に一定 の役割 を果 たしたといえる[199]。家康 の侍医 の一人 、呂 一 官 が創業 した柳屋 本店 は今 も現存 する。晩年 には心身 の健康 のために東南 アジアから香木 を集 めていたという[208]。- しかし、
晩年 に病 に倒 れた際 には、介抱 した侍医 頭 の片山 宗 哲 は診察 の結果 「胃癌 」であると突 き止 めたものの[209]、家康 本人 は寸 白 (サナダ虫 )の固 まりであると誤 った自己 診断 を下 してしまう。宗 哲 の調合 した薬 は服用 せず、自身 で調合 した万病 丹 や銀 液 丹 などを飲 み続 けるも、効果 は無 く病状 は悪化 を続 けた。父 を心配 した秀忠 は万病 丹 の服用 を諫めてもらうよう宗 哲 に頼 み、同 じことを思 っていた宗 哲 は服用 を控 えるよう家康 に進言 した。 - すると
薬学 研究 者 のプライドを傷 つけられた家康 は顎 を震 わせて怒 りだし、宗 哲 を信州 高島 藩 へ流罪 にするという暴挙 に及 んだ。日頃 養生 に細心 の注意 を払 い、「御 医師 家康 」と言 われるほど医療 に自信 を持 っていた家康 が人生 の最後 にきて誤診 により寿命 を縮 めてしまったのは皮肉 といえる[210][199][211]。
寡黙 な苦労 人 幼少 のころから、十 数 年 もの人質 生活 をおくり、譜代 家臣 の裏切 りにより祖父 と父 を殺 されており、家督 相続 後 は三河 一向 一揆 において多数 の家臣 に裏切 られている。また、小牧 ・長久手 の戦 い後 には重臣 ・石川 数 正 にも裏切 られている。働 き者 で律儀 者 ・忠義 者 が多 く、結束 が固 い強兵 と賞賛 される三河 国人 だが反面 、頑固 で融通 が利 かず利己 的 でプライドが高 い。結束 も縁故 関係 による所 が大 きい。腹心 以外 の家臣 団 との交流 は少 なく家臣 たちの家康 評 には「なにを考 えているかわからない」「言葉 数 が非常 に少 ない」といった表現 が多 い。倹約 家康 の倹約 にまつわる逸話 は多 い。侍 が座敷 で相撲 をしているときに畳 を裏返 すように言 った(『駿河 土産 』)。商人 より献上 された蒔絵 装飾 を施 した御虎子 (便器 )の悪 趣味 さに激怒 し、直 ちに壊 させた(『膾 餘 雑録 』)。代官 からの金銀 納入 報告 を直 に聞 き、貫目 単位 までは蔵 に収 め、残 りの匁 ・分 単位 を私用 分 として女房 衆 を集 めて計算 させた(『翁草 』)。三河 にいたとき、夏 に家康 は麦飯 を食 べていた。ある時 部下 が米飯 の上 に麦 をのせ出 した所 、戦国 の時代 において百姓 にばかり苦労 させて(夏 は最 も食料 がなくなる時期 )自分 だけ飽食 できるかと言 った(『正 武将 感状 記 』)。厩 が壊 れても、そちらのほうが頑強 な馬 が育 つと言 い、そのままにした(『明良 洪 範 』)。家臣 が華美 な屋敷 を作 らないよう与 える敷地 は小 さくし、自身 の屋敷 も質素 であった(『前橋 旧聞 覚書 』『見聞 集 』)。蒲生 氏 郷 は秀吉 の後 に天下 を取 れる人物 として前田 利家 をあげ、家康 については人 に知行 を多 く与 えないので人心 を得 られず、天下 人 にはなれないだろうといった(『老人 雑話 』)。
- この
結果 、家康 は莫大 な財 を次代 に残 している。『落穂 集 追加 』では家康 のは吝嗇 でなく倹約 と評 している。例 えば『信長 公 記 』に記 された織田 信長 の接待 においては京 から長谷川 秀一 を招 いて趣向 を凝 らした接待 を行 っている。 家康 公 遺訓 家康 の遺訓 として「人 の一生 は重荷 を負 て遠 き道 をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由 を常 とおもへば不足 なし、こころに望 おこらば困窮 したる時 を思 ひ出 すべし。堪忍 は無事 長久 の基 、いかりは敵 とおもへ。勝 事 ばかり知 りて、まくる事 をしらざれば、害 其身にいたる。おのれを責 て人 をせむるな。及 ばざるは過 たるよりまされり」という言葉 が広 く知 られているが、これは偽作 である。明治 時代 に元 500石 取 りの幕臣 ・池田 松 之 介 が徳川 光圀 の遺訓 と言 われる『人 のいましめ』を元 に、家康 63歳 の自筆 花押 文書 に似 せて偽造 したものである。これを高橋泥舟 らが日光 東照宮 など各地 の東照宮 に収 めた[212]。- また、これとよく
似 た『東照宮 御 遺訓 』(『家康 公 御 遺訓 』)は『松永 道 斎 聞書 』、『井上 主計 頭 聞書 』、『万歳 賜 』ともいう。これは松永 道 斎 が、井上 主計 頭 (井上 正 就)が元和 の初 め、二 代 将軍 ・徳川 秀忠 の使 いで駿府 の家康 のもとに数日 間 滞在 した際 に家康 から聞 いた話 を収録 したものという。江戸 時代 は禁書 であった。一説 には偽書 とされている。
織田 家 との関係
その他
居城
家康 の生誕 地 は、三河 国 ・岡崎 だが、生涯 を通 じて現在 の静岡 県 (浜松 ・駿府 )を本城 あるいは生活 の拠点 としている期間 が長 く、岡崎 にいたのは、尾張 国 の織田 氏 のもとで人質 として過 ごした2年 を含 め、幼少 期 および桶 狭間 の戦 い後 10年 と極 めて短 い。
幼少 から持 っていた洞察 力
- 10
歳 のころ、竹 千 代 (家康 )は駿河 の安倍川 の河原 で子供 達 の石 合戦 を見物 した。150人組 と300人組 の二 組 の対決 で、付添 いの家臣 は人数 の多 い300人組 が勝 つと予想 した。だが竹 千 代 は「人数 が少 ない方 が却 ってお互 いの力 を合 わせられるから(150人組 が)勝 つだろう」と言 った。家臣 は「何 をおかしなことを言 われるのですか」と取 り合 わなかったが、竹 千 代 の予想 通 り、150人組 が勝 ったので、竹 千 代 は家臣 の頭 を叩 き、「それ見 たことか」と笑 ったという。ただしこの逸話 は、天下 人 となり江戸 幕府 を開 いた家康 を顕彰 するために後世 創作 されたのではないかとする指摘 もある[216]。
肖像 画
平成 24年 (2012年 )、徳川 記念 財団 が所蔵 している歴代 将軍 の肖像 画 の紙 形 (下絵 )が公開 された[217]。家康 の紙 形 は「東 照 大権 現像 」(白描 淡彩 本 )とされており、よく知 られている肖像 画 とは違 った趣 で描 かれている。
信長 の兄弟
神君 伊賀越 え
本能寺 の変 直後 の神君 伊賀越 えでは伊賀 ・甲賀 忍者 の力添 えを受 けて三河 国 まで逃走 した。その道中 、甲賀 忍者 の多羅尾 氏 の居館 に着 いたとき、家康 は警戒 して城 に入 ろうとしなかったが、城主 ・多羅尾 光俊 が赤飯 を与 えたところ、信用 して城 で一泊 した。その後 は伊賀 の豪族 ・百 地 氏 、服部 氏 、稲 守 氏 、柘植 氏 の柘植 清広 等 の護衛 で白子 まで辿 り着 き、この功 で多羅尾 氏 は近江 国 で8,000石 を領 する代官 に、柘植 氏 は江戸城 勤 めの旗本 となった。他 の伊賀 ・甲賀 忍者 らは「伊賀 同心 」として召 し抱 えられ後 に江戸 へ移 った。また、このときの礼 として百 地 氏 には仏像 を与 え、これは現在 も一族 の辻 家 が所有 している。
影武者 説
大坂 夏 の陣 の際 に家康 は真田 信繁 に討 ち取 られ、混乱 を避 け幕府 の安定 作業 を円滑 に進 めるために影武者 が病死 するまで家康 の身代 わりをしていたとされる説 。一説 に異母弟 の樵 臆 恵 最 もしくは小笠原 秀政 ではないかといわれる。大阪 府 堺 市 の南 宗 寺 には家康 の墓 とされるものがある。徳川 家康 の影武者 説 も参照 。
源 氏 への「復姓 」時期 について
しかし
江戸 幕府 の支配 に関 して
このように
一族 ・譜代 の取 り扱 いに関 して
しかし
また、
家康 と同 時代 の人々
そのためか、
その
家康 と宗教
ちなみに、
また、
これら
近 現代 における評価
2000
遺品
武具 類 刀剣 ・薙刀 ・槍 ・弓 ・鉄砲 ・拵 装 剣 具 ・甲冑 ・旗幟 ・幕 ・法螺貝 ・陣太鼓 ・軍配 ・采配 ・馬印 ・陣中 使用 調度 ・馬具 ・鷹狩 道具 金銀 道具 風炉 ・釜 ・天目 茶碗 等 の茶 の湯 道具 一式 ・香箱 ・香 盆 ・盃 等 御 数寄屋 道具 茶 壺 ・茶入 ・茶碗 ・釜 ・花 活 等 の茶 の湯 道具 ・掛物 ・歌書 ・香道 具 類 ・文房具 類 能狂言 道具 面 ・衣装 ・腰帯 ・髷 帯 ・被服 ・小道具 ・楽器 等 振舞 道具 茶碗 ・皿 ・徳利 ・盃 ・盆 ・膳 ・椀 等 調度 類 碁 将棋 道具 ・屏風 ・各種 箱 類 ・敷物 ・鋏 ・爪 切 ・望遠鏡 ・ビードロ鏡 等 衣類 反物 類 小袖 ・羽織 ・帷子 等 衣服 類 、絹 ・木綿 ・麻 等 反物 類 、糸 ・綿 類 - その
他 紙 ・蝋燭 ・香木 ・薬 類 ・薬 道具 等
これらの
刀剣
「
お
なお、かつては
- 『
三河 後 風土記 』で、家康 が村 正 を忌避 し、織田有楽斎 が家康 を憚 って村 正 の槍 を打 ち捨 てたという逸話 が捏造 された[245]。これは正保 年間 (1645-1648年 )後 に書 かれた著者 不明 の偽書 だが、江戸 時代 後期 までは慶長 15年 (1610年 )に平岩 親 吉 が自 ら著 した神君 家康 の真実 と信 じられていた[246]。 家康 の親族 が村 正 で傷 つけられたという妖刀 伝説 の逸話 も、出処 が怪 しいものが多 くそもそもどこまでが真実 か極 めて疑 わしい[247]。主家 の家康 自身 が村 正 を好 んだように、徳川 家 の重臣 には村 正 や千 子 派 (村 正 派 )の作 を持 つ者 が多 かった[239]。仮 にそれらの傷害 事件 が事実 としても、確 率 の問題 でたまたま用 いられたのが村 正 だったとしても不思議 はなく[239]、また、嘘 だとしても、家臣 団 に普及 していた村 正 を物語 に登場 させるのは説得 力 があった。家康 の村 正 愛好 のせいで逆 に忌避 伝説 につながった皮肉 な例 と言 える。
甲冑
また
衣服
蔵書
一族 縁者
正室 :築山殿 (清池 院 ) -関口 親 永 娘 継室 :朝日 姫 (南明 院 ) -豊臣 秀吉 妹 側室 :西郡 局 (蓮葉 院 ) -鵜殿 長持 娘 側室 :於古茶 (長 勝 院 ) -永見 吉 英 娘 側室 :於愛(竜泉院 ) -西郷 清 員 養女 、戸塚 忠春 娘 側室 :於竹(良 雲 院 ) -市川 昌永 娘 [注釈 64]側室 :於都摩 (妙 真 院 ) -穴山 信 君 養女 、秋山 虎 康 娘 側室 :於茶阿 (朝 覚 院 )側室 :於亀(相応 院 ) -志水 宗 清 娘 側室 :於久(普 照 院 ) -間宮 康 俊 娘 側室 :於万(養 珠 院 ) -蔭山 氏 広 養女 、正木 頼 忠 娘 [注釈 67]側室 :於梶(英勝 院 ) -太田 康 資 娘 [注釈 68]五 女 :市姫
側室 :於富(山田 氏 ・信寿 院 )側室 :於夏(清 雲 院 ) -長谷川 藤 直 娘 側室 :於六(養 儼 院 ) -黒田 直 陣 娘 側室 :於仙(泰 栄 院 ) -宮崎 泰 景 娘 側室 :於梅(蓮華 院 ) -青木 一 矩 娘 側室 :阿茶局 (雲光院 ) -飯田 直政 娘 側室 :於牟須(正栄 院 )側室 :於松(法 光 院 )側室 :三条 氏 側室 :松平 重吉 娘
養女 小松 姫 (大蓮 院 ) -本多 忠勝 の娘 、真田 信之 正室 [注釈 69]満天 姫 (葉 縦 院 ) -家康 の異父 弟 松平 康 元 の娘 、福島 正之 妻 のち津軽 信 枚 正室 栄 姫 (大 涼 院 ) -保科 正直 と家康 の異父 妹 多 劫 姫 の娘 、黒田 長政 継室 阿 姫 (光照 院 ) -家康 の異父 弟 松平 定勝 の娘 、山内 忠義 正室 蓮 姫 (長寿 院 ) -家康 の異母 妹 矢田 姫 の子 の松平 康 直 の娘 、有馬 豊 氏 室 国 姫 (栄寿 院 ) -本多 忠政 の娘 、家康 の曽 孫 、堀 忠俊 妻 ・有馬 直純 継室 亀 姫 (円 照 院 ) -本多 忠政 の娘 、家康 の曽 孫 、小笠原 忠 脩 ・小笠原 忠真 室 万 姫 (敬 台 院 ) -小笠原 秀政 娘 、家康 の曽 孫 、蜂須賀 至 鎮室 振 姫 (孝 勝 院 ) -池田 輝政 娘 、家康 の孫 、のちに徳川 秀忠 養女 、伊達 忠 宗 正室 久松 院 -家康 の異父 弟 松平 康 元 の娘 、田中 忠政 室 のち松平 成 重 継室 浄 明 院 -家康 の異父 弟 松平 康 元 の娘 、中村 一 忠 室 のち毛利 秀 元 継室 流 光 院 -家康 の異父 弟 松平 康 元 の娘 、菅沼 定 仍正室 唐 梅 院 -松平 康 親 娘 、井伊 直政 正室 菊 姫 (高 源 院 ) -岡 部長 盛 娘 、鍋島 勝茂 継室 清浄 院 (清浄 院 ) -家康 の母 の弟 水野 忠重 の娘 、加藤 清正 継室 貞 松 院 -保科 正直 と家康 の異父 妹 多 劫 姫 の娘 、小出 吉 英 室 清元 院 -保科 正直 と家康 の異父 妹 多 劫 姫 の娘 、安部 信 盛 室 昌 泉 院 -牧野 康成 娘 、福島 正則 継室 名前 不 詳 -松 平家 清 の娘 、浅野 長重 室 名前 不 詳 -家康 の異父 弟 松平 康 元 の娘 、松平 忠政 (大須賀 忠政 )妻 ・菅沼 定 芳 正室 名前 不 詳 -家康 の異父 弟 松平 康 元 娘 、岡 部長 盛 継室 松尾 君 -家康 の異父 弟 松平 定勝 娘 、服部 正 就正室 紀 為 君 -家康 の異父 弟 松平 定勝 娘 、中川 久盛 正室
偏 諱 を与 えた人物
二 条 康 道 (公家 ・摂関 家 の二 条 家 )松平 家 元 (異母弟 ?)松平 康 元 (異父 弟 )松平 康 俊 (異父 弟 、康 元 の弟 )松平 家 清 松平 家 忠 (深溝 松平 家 )松平 家 忠 (家 次 )(東条 松平 家 )松平 家 次 (桜井 松平 家 )松平 家 乗 松平 家 広 松平 康 忠 (従弟 ・義弟 )松平 康 忠 (矢田 松平 家 、松平 張 忠 の嫡男 )松平 康 親 (松井 忠次 より改名 )松平 康 次 (康 重 )(康 親 の子 )松平 康 長 (戸田 康長 )松平 康 安 (大草 松平 家 )天野 康 景 有馬 康 純 (家康 の玄孫 にあたる)石川 家 成 石川 康 通 (家 成 の子 )伊丹 康 直 伊丹 康 勝 (康 直 の子 )太田 康 資 (側近 、のちの資 宗 )奥平 家 昌 松平 家 治 (養子 ・奥 平家 昌 の実弟 )西郷 家 員 酒井 家 次 榊原 康 政 島津 家 久 (初 名 :忠 恒 )田中 康 政 最上 家 親 (初 名 :義親 )最上 家 信 (家 親 の子 ・義 俊 の初 名 )本多 家 忠 (本多 忠政 の別名 )本多 康 重 牧野 康 成 来島 康 親 山内 康 豊 (別名 :家 豊 )?依田 康 国 (依田 信 蕃 の長男 )依田 康 勝 (依田 信 蕃 の二男 、のち加藤 康 寛 と名乗 る)越前 康 継 (江戸 幕府 御用 鍛冶 、葵 紋 の使用 も許 される)
関連 史料
同 時代 の人物 による記録
家 忠 日記 (松 平家 忠 )信長 公 記 (太田 牛一 ) -織田 信長 についての記事 が主 だが、同盟 者 の家康 についての情報 も多 い。慶長 記 (板坂 ト斎 )本 光 国師 日記 (以心崇伝 )駿府 政事 録 (駿府 記 とも、後藤 庄三郎 光次 ?林 羅山 ?)当代 記 (松平 忠明 ?)三河 物語 (大久保 忠教 ) -元和 8年 成立 、覚書 。言 経 卿 記 (山科 言 経 ) -公家 の日記 だが、公私 に渡 って家康 と交流 があり、その様子 が記 されている。
編纂 物 (資料 的 価値 が高 いとされるもの)
関連 作品
小説
明治 時代 以降 に形成 されていた老獪 な陰謀 家 という家康 像 を、その一 生涯 を通 じて描 くことによって一新 した長編 小説 。本 作 を原作 としたメディア展開 作 は多 く、最初 の映像 化 は1964年 のNET(現 ・テレビ朝日 )テレビドラマ『徳川 家康 』で主演 は市川 右 太 衛門 、青年 期 を市川 の息子 の北大路 欣也 が演 じている。1965年 公開 の映画 『徳川 家康 』(東映 、監督 :伊藤 大輔 )では再 び北大路 欣也 が家康 を演 じた。1970年 には日本 テレビで『竹 千代 と母 』という題名 で放送 されて家康 を中村 光輝 が演 じ、1975年 にはNETで少年 期 が『少年 徳川 家康 』としてアニメ化 、1982年 から1984年 には横山 光輝 によって漫画 『徳川 家康 』が連載 された。1983年 にはNHK大河 ドラマ『徳川 家康 』が滝田 栄 を主演 として1年間 放映 され、1992年 にはテレビ朝日 の『戦国 最後 の勝利 者 !徳川 家康 』で再 び北大路 欣也 が家康 を演 じている。
- ※
上記 三 作品 は「家康 三 部 作 」とも呼 ばれる。
高橋 直樹 - 『
最後 の総領 ・松平 次郎 三郎 』 (1995年 、講談社 、後 に『若 獅子 家康 』と改題 されて講談社 文庫 )
- 『
門井 慶喜 伊東 潤 - 『
峠 越 え』(2016年 、講談社 、徳川 家康 最大 の切所 「伊賀越 え」を描 いた小説 ) - 『
天地 雷 動 』(2016年 、KADOKAWA、長篠 合戦 を描 いた小説 )
- 『
上田 秀人 - 『
夢幻 』(2020年 、中央公論 新 社 、徳川 家 と織田 家 の因縁 を描 いた小説 )
- 『
安部 龍太郎 - 『
家康 』(2020年 ~、幻冬舎 時代 小説 文庫 )
- 『
眞邊 明人 - 『もしも
徳川 家康 が総理 大臣 になったら』(2021年 、サンマーク出版 ) - 2024年 に野村 萬 斎 をキャストとして映画 化 。
- 『もしも
今村 翔 吾 - 『
幸 村 を討 て』(2022年 、中央公論 新 社 、大坂 の陣 の謎 に探偵 役 として家康 自身 が迫 る小説 ) - 『
竹 千 代 の値 』(『戦国 武将 伝 東日本 編 』収録 、2023年 、PHP研究所 )
- 『
映画
- 『
家康 公 徳川 栄達 物語 』(1911年 、横田 商会 、監督 :牧野 省三 ) - 『
徳川 家康 』(1919年 、日活 、演 :尾上 松之助 ) - 『ブレイブ -
群青 戦記 -』(2021年 、演 :三浦 春 馬 )
主人公 達 を導 き、主人公 の人生 を転換 させる重要 人物 であり、戦国 時代 の世 を治 める者 として描 かれている。
テレビドラマ
主役 作品 登場 作品 - 『
太閤 記 』(1965年 、NHK大河 ドラマ、出演 :尾上 菊蔵 ) - 『
国 盗 り物語 』(1973年 、NHK大河 ドラマ、出演 :寺尾 聰 ) - 『
関ヶ原 』(1981年 、TBS、演 :森繁 久彌 ) - 『おんな
太閤 記 』(1981年 、NHK大河 ドラマ、出演 :フランキ ー堺 ) - 『
独眼竜 政 宗 』(1987年 、NHK大河 ドラマ、出演 :津川 雅彦 、山岡 荘八 の小説 を原作 としたテレビドラマ) - 『
信長 KING OF ZIPANGU』(1992年 、NHK大河 ドラマ、出演 :郷 ひろみ)
主人公 である織田 信長 の盟友 として登場 し、情 に厚 く、哀愁 漂 う人物 として描 かれている。
- 『
琉球 の風 』(1993年 、NHK大河 ドラマ、出演 :小林 旭 ) - 『
秀吉 』(1996年 、NHK大河 ドラマ、出演 :西村 雅彦 ) - 『
利家 とまつ〜加賀 百 万 石 物語 〜』(2002年 、NHK大河 ドラマ、出演 :髙嶋政宏 ) - 『
武蔵 MUSASHI』(2003年 、NHK大河 ドラマ、出演 :北村 和夫 ) - 『
大奥 〜第 一 章 〜』(2004年 、フジテレビ時代 劇 シリーズ、出演 :藤田 まこと) - 『
功名 が辻 』(2006年 、NHK大河 ドラマ、出演 :西田 敏行 ) - 『
風林火山 』(2007年 、NHK大河 ドラマ、出演 :坂本 恵 介 )松平 元信 →松平 元康 として登場 。 - 『
天地人 』(2009年 、NHK大河 ドラマ、出演 :松方 弘樹 )
主人公 である直江 兼 続 にとっての好敵手 として家康 が登場 し、悪役 ではあるが人間味 のある姿 が描 かれている。
主人公 である江 にとっての後見人 的 存在 として家康 が登場 する。
主人公 ・真田 信繁 にとっての生涯 の宿敵 として登場 するが、単純 な悪役 ではなく、喜怒哀楽 を交 え戦国 大名 として悩 み苦 しみ成長 しながら真田 家 に対峙 していく様子 が描写 されている。真田 家 の人物 が直接 関与 しない事項 は歴史 上 重要 な事象 でも大胆 に割愛 する作品 構成 にあって、家康 側 の事情 は(真田 家 の人物 が登場 しなくとも)一 続 きの場面 として取 り上 げられている。
主人公 は井伊 直 虎 。家康 は、共 に今川 家 配下 であった時代 から、その動向 の如何 が井伊 家 にとって影響 の大 きい人物 として設定 されており、遠江 への侵攻 による井伊 家 の消滅 や、直 虎 の養子 である井伊 虎松 の出仕 など、幼少 時 から天正 壬 午 の乱 後 の北条 との同盟 までの関 わりが描 かれている。
主人公 ・明智 光秀 との関 わりがあった重要 人物 として登場 する。家康 の幼少 期 から今川 氏 や織田 氏 との関 わりが描 かれている。
- ドラマの
案内 役 として主 に番組 冒頭 で登場 して、歴史 上 の出来事 やその背景 についてカメラ目線 で視聴 者 に解説 する。幕末 から大正 時代 までを描 いている作中 で、江戸 幕府 の祖 として、その終焉 とその後 の日本 を視聴 者 と共 に見守 っていく役割 になっている。
- 『
漫画
- 『
按針 と家康 : イギリス人 侍 三浦 按針 』 - 『あずみ』(
小山 ゆう) - 『へうげもの』(
山田 芳裕 )NHKBSプレミアムテレビアニメ版 の声 は鶴見 辰吾 。 - 『ねこねこ
日本 史 』(そにしけんじ)
ゲーム
- 『
戦国 BASARA』シリーズ(CAPCOM、声 :大川 透 )-関ヶ原 の戦 いをモチーフとした「3」と、そのアニメ映像 化 作品 『劇場 版 戦国 BASARA -The Last Party-』で主人公 の一人 として描 かれている。
舞台
- 『TEAM NACS ニッポン
公演 「WARRIOR〜唄 い続 ける侍 ロマン」』(2012年 、出演 :安田 顕 ) 劇団 砂 喰 社 『鶴 姫 亀 姫 伝説 ~瀬名 姫 と椿 姫 ~』(2011年 -2013年 )劇団 砂 喰 社 『徳川 信康 物語 』(2012年 -2014年 )劇団 砂 喰 社 『徳川 家康 と井伊 直 虎 』(2014年 -2017年 )劇団 静岡 県 史 『徳川 家康 と山内 一豊 ~鶴 姫 亀 姫 物語 ~』(2021年 )
※
音楽
展覧 会
脚注
注釈
- ^
家康 の没後 、その神格 化 を主導 した天海 は東 照 大権 現像 を絵 仏師 の木村 了 琢 や神田 宗 庭 らに多数 制作 させた[1]。東 照 大権 現像 の多 くは、天上 にある神社 (画面 の上下 に雲 を、手前 に狛犬 一対 を配 する)において、束帯 を着用 した東 照 大 権現 (徳川 家康 )が繧繝 縁 の上 畳 に座 り、葵 紋 のある御 帳 と御簾 を引 き上 げて姿 を現 した構図 で描 かれた[1][2]。 - ^
徳川 家 譜 でも松平 記 でも天文 11年 12月26日 の生 まれと記 されているが、家康 自身 は慶長 8年 (1603年 )に作成 したまじないに使 う願文 に自 らの年齢 を『六 十 一 歳 癸 卯 歳 』と記 しており、生年 を天文 12年 (癸 卯 )としている。徳川 美術館 学芸 部 部長 代理 を務 めた原 史彦 はこのズレについて、家康 が生 まれたとされる天文 11年 12月26日 は寅 年 、寅 の日 、寅 の刻 であり、誕生 日 すらも帝王 になる資質 を備 えていたことを強調 するため誕生 日 をわざと書 き換 えたと推測 され、本来 の生年 は家康 自身 の言 う通 り天文 12年 であるとする説 を唱 えている。歴史 学者 の磯田 道 史 も原 の説 に近 い立場 を取 っており、勇敢 にみせるイメージ戦略 をとるため卯 年 ではなく寅 年 生 まれであることにしたと推測 する他 、家康 の幼名 である竹 千 代 は父 ・広 忠 が天文 12年 2月 26日 夜 の連歌 会 で詠 んだ句 にちなんでおり、嫡男 である家康 が2カ月 以上 も命名 されなかったのは不自然 であるとして、家康 本来 の誕生 日 は天文 12年 2月 26日 からそう遠 くない日 であるとの可能 性 を指摘 している[13]。その後 、歴史 学者 の遠藤 珠紀 が家康 の生年 が卯 年 であるとする史料 が全 て陰陽 道 関係 のものであることに注目 し、陰陽 道 では実際 の暦日 に基 づく暦 月 と異 なって立春 をもって正月 とする節 月 (節 切 り)を採用 しており、天文 11年 は12月21日 に立春 を迎 えていることからそれ以降 (12月26日 )に生 まれた家康 は暦 月 では寅 年 ・節 月 では卯 年 生 まれとなるため、陰陽 道 に関 する文書 では卯 年 として扱 われたとしている(遠藤 は家康 と同様 の事例 として南北 朝 時代 の公家 で暦 応 4年 12月23日 に生 まれた広橋 仲 光 の例 を挙 げている)[14]。遠藤 説 は、家康 が天文 11年 12月26日 生 まれであるが故 に発生 した特殊 な問題 として捉 えている。 - ^
松平 氏 では天文 12年 (1543年 )に長 く松平 広 忠 の名代 (家督 代行 )を務 めていた松平 信孝 (広 忠 の叔父 )が広 忠 や重臣 の阿部 大蔵 らによって追放 されているが、広 忠 と大子 の婚姻 自体 が水野 氏 と連携 関係 にあった信孝 主導 による縁組 であり、信孝 を排除 した結果 として水野 氏 との同盟 関係 が終了 したと新説 も出 されている[17]。なお、当時 の水野 氏 は複数 の流 れに分 かれており、信 元 (緒川 家 )の水野 氏 が織田 方 についたことが明確 になるのは織田 信長 が織田 氏 を継承 して知多 郡 への支配 の立 て直 しを意図 した後 であり、可能 性 の1つとして松平 広 忠 の死後 に今川 氏 が安 祥 松平 家 を断絶 させずに竹 千 代 (家康 )を後継 者 とする方針 を決 めたことに対 する反発 が信 元 離反 の一因 になったとする指摘 もある[18]。 - ^ この
説 では、松平 広 忠 が叔父 ・信孝 、戸田 氏 が牧野 氏 と争 った際 に今川 義元 ・織田 信秀 が共 に信孝 および牧野 氏 を支援 したことで今川 ・織田 両氏 の間 に一時 的 な連携 が生 じたとする[21]。また、重臣 の酒井 忠 尚 も信孝 陣営 にあったとされる[22]。なお、天文 期 の今川 ・織田 両氏 による三河 侵攻 については村岡 幹生 の「織田 信秀 岡崎 攻落 考証 」[23]をきっかけに岡崎 城 が織田 氏 に攻 め落 とされたことが新 たな有 力説 になっているが、その際 の松平 広 忠 の政治 的 立場 については依然 として今川 方 にあったとする村岡 と今川 からの離反 を図 ったために今川 ・織田 両氏 による三河 侵攻 が生 じたとみる平野 明夫 [24]や糟谷 幸裕 [25]らとの議論 がある[26]。その後 、村岡 も説 を修正 し、両者 の連携 を認 めた上 で岡崎 城 の陥落 に前後 して連携 が破綻 してしまったことが、今川 義元 の行動 を不可解 にしている(松平 広 忠 との和睦 と今川 方 への帰参 誘引 )と推測 している[27]。 - ^ なお、
当時 の情報 伝達 の状況 から、実際 の松平 広 忠 の織田 氏 への降伏 と人質 の差出 が8月 であった可能 性 も指摘 されている[28]ため、時期 的 には竹 千 代 が人質 に出 されたと伝 えられる時期 と被 ることになる。 - ^
家臣 の岩松 八弥 の謀反 によって殺害 されたとする説 がある(『岡崎 市 史 』は暗殺 説 を採 る)一方 で、暗殺 説 は信頼 性 の低 い史料 からの付会 に過 ぎず、岩松 による襲撃 が事実 としてもそれが死因 と断定 できる根拠 はなく、病死 を否定 する理由 はないとする意見 もある[23]。 - ^
前年 の天文 18年 (1549年 )、安 祥 城 を太 原 雪 斎 に攻 められ生 け捕 りにされていた。 - ^ 『
東照宮 御 実紀 』では少将 宮 町 、『武徳 編 年 集成 』では宮 カ崎 とされている。 - ^
松平 広 忠 の嫡男 である竹 千 代 を人質 にとった処遇 は、今川 氏 による松平 氏 に対 する過酷 な処遇 であるというのが通説 である。しかし近年 、むしろ今川 義元 の厚意 (もちろん義元 の側 の思惑 もあるが)によるものだという説 もある[30]。また、そもそもの話 として幼少 の竹 千 代 では松平 家中 ・領国 の存続 は不可能 であり、松平 領 の安定 のためにも駿府 で保護 する必要 性 があった[31][32]。 - ^
近年 の研究 では、岡崎 城 そのものには今川 氏 の城代 が入 っていたものの、松平 領 はあくまでも将来 的 には竹 千 代 が継 ぐものであり、今川 義元 は安 祥 松平 家 で唯一 岡崎 城 に残 されていた随 念 院 (松平 信忠 の娘 、竹 千 代 の大叔母 )を擁 した松平 家臣 団 による政務 を承認 する形 で実際 の統治 が行 われたと考 えられている[33]。 - ^ 『
武徳 編 年 集成 』によると今川 家 の家臣 の中 でも岡部 家 は息子 (岡部 正 綱 )が同 年齢 の家康 と仲良 くなったことから、家康 に極 めて好意 的 かつ協力 的 であったようである。後 に岡部 正 綱 は家康 の家臣 となり、甲州 制圧 作戦 でその外交 手腕 を発揮 することになる。 - ^ なお、この
駿府 人質 時代 に北条 氏規 も駿府 で人質 となっていたため、このころから二 人 に親交 があったとする説 があり、『大 日本 史料 』などはこの説 を載 せている。また、住居 が隣 同士 だったという説 もある[34]。さらに浅倉 直美 は北条 氏規 は関口 親 永 の婿養子 であったとする説 を唱 えている(つまり、氏規 の妻 とされる女性 は築山殿 の姉妹 ということになる)[35]。後 に後 北条 氏 と同盟 を結 んだ際 に氏規 はその交 わりの窓口 となった。氏規 の系統 は、狭山 藩 として小 藩 ながらも廃藩置県 まで存続 。 - ^ なお、
天文 16年 の政治 的 混乱 の中 で、広 忠 の存命 中 に竹 千 代 へ家督 を譲 らされた可能 性 も指摘 されている[37]が、現時点 では結論 が出 せないとされている[28]。 - ^
近年 では築山殿 の母親 を義元 の近親 または養 妹 とする説 に否定 的 な説 もある(関口 親 永 は婿養子 であるという指摘 があり、その説 が正 しければ妻 は関口 氏 出身 ということになる[41][42])。それでも関口 氏 自体 が今川 氏 一門 として遇 された家 であり、関口 氏 の婿 になることはそのまま今川 氏 の親類 衆 に加 えられることを意味 していた[43]。 - ^
祖父 の清康 、父 の広 忠 の官途 名 は確認 されておらず(名乗 る前 に早世 したためか)、曽 祖父 である信忠 の左近 蔵人 佐 を継 ぐ形 で今川 義元 から与 えられたものと考 えられる[44]。 - ^
山中 は岡崎 城 が織田 軍 に落 とされたとされる天文 16年 9月 から間 もない天文 17年 (1548年 )1月 に今川 義元 によって奥平 貞 能 に与 えられていたが、その貞 能 は三河 忩劇において反 今川 派 に属 していた[46]。 - ^
永 禄 10年 (1567年 )に今川 氏真 が鈴木 重勝 と近藤 康 用 に所領 を宛 行 した判 物 [58]の中 で氏真 が「酉 年 四 月 十 二 日 岡崎 逆 心 之 刻 」における両者 の戦功 を評価 する文言 があり、氏真 が酉 年 にあたる永 禄 4年 (1561年 )4月 に岡崎 城 の松平 元康 が(今川 氏 視点 から見 て)反逆 を起 こしたと認識 していたことが分 かる。 - ^
近年 、永 禄 4年 の合意 は松平 ・織田 間 の和睦 の合意 に過 ぎず同盟 の性格 を持 っていない[61]、実際 の同盟 締結 は永 禄 10年 5月 の信康 と徳 姫 の婚姻 に伴 って成立 したとする柴 裕之 の説 もある[62]。 - ^
一般 的 に場所 は清州 城 と言 われ同盟 の名 になっているが、史実 上 の場所 は不明 である[63]。会談 自体 の存在 を疑問 視 する見解 もある[61]。 - ^
経営 史 学者 の菊地 浩之 は大子 の再婚 相手 である久松 俊勝 が「長 家 」と名乗 っていた時期 があることを指摘 し、久松 長 家 (俊勝 )を父親 代 わりとみなしてその偏 諱 を用 いたが、家光 以後 に「家 」の通 字 が徳川 将軍家 として重要 になりその由来 は隠 された。また長 家 も家康 が大名 となり、その権勢 が拡大 して逆 に「家 」のつく名 「長 家 」をはばかり「俊勝 」と改名 したという説 を唱 えている[66]。日本 史 研究 家 の渡邊 大門 は「根拠 不 詳 で説得 力 に欠 ける」[67]、日本 史 家 の平山 優 は「何 らの裏 づけもない、印象 論 としかいいようがなく、まったく検討 に値 しません。松平 ・徳川 氏 の研究 者 は、そもそもこれを学説 と認定 すらしていません」と述 べている[68][69] - ^
永 禄 7年 4月 に今川 氏真 は「三 州 急用 」すなわち家康 討伐 を理由 に免税 特権 を無視 した臨時 徴収 を実施 し、更 に武田 信玄 にも援軍 を要請 しているが、同年 7月 に北条 氏康 の要請 で氏康 の太田 資 正 討伐 に援軍 を派遣 した結果 、家康 討伐 は先送 りにされた。その結果 、三河 側 では氏真 による家康 討伐 に期待 して反 家康 勢力 が挙兵 し、遠江 側 では臨時 徴税 をしながら家康 討伐 を起 こさなかった氏真 への不信 感 が高 まったことによって遠 州 忩劇が引 き起 こされたと指摘 されている。しかし、前後 して発生 した2つの反乱 は「今川 氏真 の来援 を期待 していた三河 の反乱 軍 は氏真 が遠江 の反乱 鎮圧 に専念 したために支援 を得 られず家康 に敗 れる」「松平 家康 の来援 を期待 していた遠江 の反乱 軍 は家康 が三河 の反乱 鎮圧 に専念 したために支援 を得 られず氏真 に敗 れる」という皮肉 な形 で終結 することになった[72][73]。 - ^
正確 には以前 より織田 領 であった加茂 ・碧海 両 郡 の西部 地域 はそのまま織田 領 となっている[74]。 - ^
引用 元 は『岡崎 市 史 』。 - ^
細川 氏 嫡流 の当主 は管領 の地位 に就 くとともに代々 右京大夫 に任 じられたことから「京 兆 家 」と称 されていた。これに対 して管領 を支 える盟友 的 存在 の守護 大名 が左京 大夫 に任 じられており、足利 義澄 -細川 政 元 期 の赤松 政則 、足利 義稙 -細川 高 国 期 の大内 義興 、足利 義晴 -細川 晴 元 期 の六角 義賢 がこれに該当 する。 - ^ ただし、
家康 が左京 大夫 任命 そのものを辞退 していないことは、公家 側 の日記 に「徳川 左京 大夫 (家康 )」[79][80]という記述 があることより確認 できる。また、家康 自身 が延暦寺 に充 てて「左京 大夫 家康 」と自書 した文書 [81]も現存 しているため、朝廷 や寺社 に対 しては三河 守 よりも格 上 とみなされている左京 大夫 を称 した可能 性 もある[82]。 - ^
後年 、義昭 は天下 の実権 をめぐって信長 との間 に対立 を深 めると、義昭 の家康 に対 する呼称 も「徳川 三河 守 」と変 わっている。 - ^
一方 で義昭 が家康 の徳川 改姓 を認 めていなかったとする説 もある。元 亀 元年 (1570年 )9月 に三好 三 人 衆 討伐 のために足利 義昭 から家康 に宛 てられたとみられる御内 書 [83]の宛名 が徳川 改姓 ・三河 守 任官 以前 の「松平 蔵人 」になっており、これは松平 改姓 が将軍 不在 時 に行 われ、かつ義昭 の従兄弟 でありながら不仲 だった近衛 前 久 の推挙 であったことに、義昭 が不満 を抱 いていたとみられている[84][注釈 26]。 - ^ なお、
武田 氏 は友好 的 関係 にある織田 信長 を通 じて信長 の同盟 相手 である家康 に武田 との協調 再考 を持 ちかけているが家康 はこれを退 けており、家康 は信長 からも一定 程度 独立 した立場 であったと考 えられている。ただし、元 亀 元年 の4月 頃 までは双方 の取次 である榊原 康政 と土屋 昌 続 の間 で外交 交渉 が行 われており、公式 に手 切 が宣言 されたのは、同年 10月 の上杉 謙信 との同盟 締結 時 であったとみられている[85]。 - ^ 『
当代 記 』によれば、当初 は見附 に本拠地 を移 す予定 で普請 を行 っていた(城之崎 城 がその跡 という)が、織田 信長 の要望 を受 けて浜松 に変更 したという。信長 からすれば、織田 と徳川 の本拠地 が離 れすぎてしまうことを望 まなかったと推測 される[86]。 - ^ これを
遡 る元 亀 2年 4月 には武田 氏 による三河 ・遠江 への大 規模 な侵攻 があったとされているが、近年 は根拠 となる文書 群 の年代 比定 の誤 りが指摘 され、これは天正 3年 (1575年 )の出来事 であったことが指摘 されている[87]。 - ^
家康 と朝日 姫 の婚姻 について、当初 家康 側 は朝日 姫 が家康 の男子 を生 んだ場合 、秀吉 が徳川 家 の家督 問題 に干渉 することを警戒 していた。同 時代 史料 では確認 できないものの、『三河 後 風土記 』や『武徳 編 年 集成 』にはこの時 家康 が、朝日 姫 が家康 の子 を産 んでも嫡子 とはしないこと。長 丸 (後 の秀忠 )を秀吉 の人質 としないこと。万一 、家康 が死去 しても秀吉 は徳川 領 5か国 を長 丸 に安堵 して家康 の家督 を継 がせること。
婚姻 の条件 にしたとされる。(1)と(3)は実際 起 こらなかったものの、(2)については家康 が秀吉 の小田原 征伐 に従 って北条 氏 と断交 することを決 めた天正 18年 1月 に家康 自身 の意向 で長 丸 を人質 に差 し出 したものの、秀吉 は同月 のうちに長 丸 を帰国 させている。秀吉 は他 の大名 の妻子 と異 なる扱 いを長 丸 に対 して行 ったのは、(2)の条件 に基 づく判断 であったと考 えられ、(1)と(3)の条件 も実在 した可能 性 が高 い[101]。 - ^ もっとも、
初期 における家康 の秀吉 への臣従 は不完全 であったとする見方 もある。軍事 力 によって家康 を服属 させた訳 ではない秀吉 は、徳川 ・北条 両氏 の同盟 関係 を破棄 させる強制 力 を持 たず、家康 は秀吉 と北条 氏 の間 では「中立 」的 存在 であった。このため、秀吉 は西国 平定 を優先 にし、家康 との調整 が必要 となる北条 氏 討伐 は先 延 ばしにされることになった[101][103]。 - ^ この
官職 は武家 の名誉 職 で、一般 の大名 が帯 びられるものではなく、将軍 の嫡子 および実弟 などのみに許 されていたものである[要 出典 ]。 - ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノは1588
年 5月6日 付 の書簡 で、「坂東 の戦 は、7月 にはすでに(挙行 される)とい触 らされており、坂東 の北条 殿 (の領地 )が家康 の領国 に(加 えられることに)なっていますから、それも暴君 (秀吉 )にとっては喜 ばしいことではありません(原文 :e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書 いている[109]。ただし、1588年 には結局 出兵 は無 く、2年 後 に持 ち越 しとなった。またこの訳文 は松田 毅一 ・川崎 桃 太 によるが、原文 は家康 の関東 移 封 ではなく、北条 の侵攻 を意味 するという異論 もある[110]。 - ^ ただし、『
家 忠 日記 』によれば、7月 18日 には家康 が江戸城 に入城 している。8月1日 は佐竹 氏 の領国 画定 によって、徳川 氏 を含 めた関東 諸 将 の国分 が確定 した日 であり、それが八朔 の祝 いと結 びつけられたと考 えられている[117]。 - ^
井伊 直政 ・本多 忠勝 ・榊原 康政 の知行 割 に関 しては、川田 貞夫 が豊臣 政権 によって配置 ・石高 を指定 されたとする説 を唱 えて、以後 通説 となっている。ただし、川田 が主張 した鳥居 元忠 ・大久保 忠世 にも適用 されたとする考 えには、通説 を支持 する学者 の間 でもこれは認 めないとする市村 高男 らの反論 (井伊 ・本多 ・榊原 家 のみとする)がある。なお、こうした豊臣 政権 の大 名家 内部 の知行 割 に対 する関与 自体 は、上杉 家 における直江 兼 続 の事例 などがあり徳川 家 に限 ったことではなかった[118]。 - ^ 『
常山 紀 談 』には、本多 正信 の「殿 は渡海 なされますか」との問 いに家康 が「箱根 を誰 に守 らせるのか」と答 えたエピソードが書 かれている。 - ^
他 にも加藤 清正 や宇喜多 秀家 および細川 忠興 の計画 への関与 の噂 もあった。また、石田 三成 は増田 ・長束 両 奉行 とともに家康 に協力 的 な立場 を取 ったという[123]。 - ^ ただし、
加賀 征伐 そのものが当時 流布 した根拠 の無 い風説 に過 ぎないとし、家康 の大 坂城 入城 とそれに伴 う新 体制 (家康 による事実 上 の専権 )構築 をめぐって、家康 と利長 の意見 の相違 が生 じて一時 的 な緊迫 をもたらしたとする説 もある[125]。 - ^ なお
出典 の定 かでない話 ではあるが、これに先立 ち、伊尾 川 (現 ・揖斐川 )で家康 自身 が銃撃 されたという伝承 もあるという。詳 しくは神戸 町 の項 を参照 のこと。 - ^
豊臣 家 は摂家 の一 つにすぎないとされただけで、将来 の豊臣 秀頼 の関白 職 就任 が完全 に否定 されたということではない。 - ^
家康 の源氏 復姓 の時期 については諸説 がある(後述 )。清和 源 氏 の出自 でなくとも将軍 職 への就任 には問題 がなく、過去 には摂家 将軍 や皇族 将軍 の例 もあり、将軍 になるには清和 源 氏 でなければならないというのは江戸 時代 に作 られた俗説 である。 - ^
関ヶ原 の戦 い後 の戦後 処理 で家康 の五 男 である武田 信吉 と娘 婿 である蒲生 秀行 の新 しい所領 が確定 していなかった。このため、上杉 氏 ・佐竹 氏 の処分 との関連 性 が言 われ、島津 氏 家臣 鎌田 政 近 が国元 に充 てた書状 では、「武田 信吉 が直江 兼 続 の娘 を娶 って上杉 景勝 の養嗣子 となる」という風説 を記 している(『旧記 雑録 後編 』)。しかし、武田 信吉 の病気 もあってこの風説 は実現 されず、慶長 6年 8月 の上杉 氏 の減 封 確定 後 に没収 された旧 上杉 領 の中 から会津 60万 石 が蒲生 秀行 に与 えられた[136]。その後 、減 転 封 の処分 を受 けた佐竹 氏 の旧領 が信吉 に与 えられることになる。 - ^
※
同日 、右大臣 に転任 し、源氏 長者 、牛車 乗車 宮中 出入 許可 、兵仗 随身 、淳和 奨学 両院 別当 の宣旨 も賜 う。 - ^
当時 のオランダは公式 には共和 制 であった(ネーデルラント連邦 共和 国 )。オランダが正式 に王制 となるのは19世紀 初 めのウィーン会議 後 である。 - ^
家康 はこの時期 、主筋 である豊臣 氏 を滅 ぼすことの是非 を林 羅山 に諮問 しているともいわれるが[147]、この時期 の林 羅山 は家康 に対 して、そのような大 きな発言 権 はないとする近年 研究 もある[148]。 - ^ 『
摂 戦 実録 』によれば、撰文 をした文 英 清 韓 は「国家 安康 と申 し候 は、御 名乗 りの字 をかくし題 にいれ、縁語 をとりて申 す也」と弁明 し、家康 の諱 を「かくし題 」とした意識 的 な撰文 であると認 め、五山 の僧 の答申 はいずれも諱 を避 けなかったことについて問題 視 したという[147]。ただし『摂 戦 実録 』の成立 年代 は江戸 時代 ・1752年 である[1]。 - ^
京 で評判 になっている目新 しい料理 として茶屋 四郎次 郎 清次 が紹介 し、田中 城 (現 ・静岡 県 藤枝 市 )にて供 したものである[167]。なお、「天 ぷら」とは呼 ばれているが、衣 は無 く、実際 はから揚 げに近 い。cf.天 ぷら#逸話 。 - ^
江戸城 内 に限 った話 ではなく、温度 計 による油 温 管理 ができなかった時代 、食用 油 は容易 に引火 し、かつ消火 は困難 であった。それゆえにそれ以外 の建物 内 においても、天 ぷらは火災 予防 のため忌避 され、専 ら屋台 で調理人 により料理 される時代 が太平洋戦争 まで続 いた[170]。 - ^
従来 は、天海 指揮 による日光 への改葬 説 が幕府 文献 などにも「改葬 」と記述 されていたため広 く信 じられてきたが、近年 になってその矛盾 を指摘 する議論 ・研究 が盛 んとなり、日光 へ運 ばれた「神 柩 」の中 に遺体 はなかったとする説 が有力 となっている。なお、『東武 実録 』では、久能 での埋葬 の段 では「神 柩 」とし、日光 への「改葬 」の段 では「霊柩 」として、柩 の呼称 を区別 している。 - ^
野村 玄 によれば、当時 国内 では寛永 飢饉 、国外 では明 清 交替 と鎖国 令 に伴 うポルトガルの報復 の可能 性 によって江戸 幕府 は緊迫 した状況 にあり、将軍 であった徳川 家光 は単 なる家康 への崇敬 のみならず、元 寇のときの風 宮 改号 の故事 を先例 として東 照 社 を東照宮 と改号 して「敵国 降伏 」を祈願 したとする[173]。 - ^
徳川 慶喜 の墓地 がある「谷中 墓地 」と称 される区域 は、都立 谷中 霊園 の他 に天王寺 墓地 と寛永寺 墓地 も含 まれており、寛永寺 墓地 に属 する。 - ^ a b
年 は、1582年 10月 4日 以前 はユリウス暦 、それ以降 はグレゴリオ暦 に基 づく。日付 は宣明 暦 長 暦 。 - ^
天正 14年 の段階 で遡及 的 に叙位 されたと考 えられる。以下 同 じ[190]。 - ^ 『
奥平 家 譜 』、直心 影 流伝 書 による。なお『急 賀 斎 由緒 書 』では奥山 流 。 - ^
柳生 宗厳 と立 ち会 って無 刀 取 りされたため宗厳 に剣術 指南 役 として出仕 を命 ずるも、宗 厳 は老齢 を理由 に辞退 。 - ^
家康 は、将軍 即位 後 も鷹狩 や鮎 漁 の際 に、頻繁 に府中 御殿 に滞在 [197]。 - ^
渡辺 守 綱 伝 世 品 は個人 蔵 、榊原 康政 伝 世 品 は東京 国立 博物館 蔵 (南蛮 胴 具足 e国宝 ) - ^
吉 良 氏 は安城 松平 家 (徳川 宗家 )にも影響 を与 えた三河 の名 族 というだけではなく、足利 氏 の有力 な庶流として御 一家 に列 せられた一族 であった[45]。谷口 雄太 は「新田 氏 流 」という概念 は『太平 記 』の影響 によって後世 作 り出 されたフィクションで、室町 ・戦国 期 には新田 氏 は足利 氏 の庶流・一門 として扱 われていたとする(当然 、世良田 氏 や得 河 氏 も足利 一門 ということになる)認識 から、家康 は徳川 氏 を(新田 氏 ではなく)将軍 ・足利 氏 の一門 として位置 づけるために実際 に有力 一門 である吉 良 氏 の系図 の借用 を行 ったと主張 している[220]。 - ^
中 には福島 家 のような取 り潰 され方 [要 出典 ]をした大名 もあり、徳川 政権 の安定 を優先 させていたと思 われる。 - ^
天正 13年 (1585年 )の石川 数 正 の寝返 りにより、様々 な制度 を改 めざるを得 なくなったという事情 もある。 - ^ とはいえ、
秀吉 ・家康 の天下 人 となった二人 とも信長 の元 にいたことから、その影響 を排除 して考 えることはできない。信長 の姪 達 である浅井 三 姉妹 から秀吉 は自身 の側室 に長女 の茶々 を、家康 は後継 者 である秀忠 の正室 に三 女 の江 を迎 えており、信長 の血縁 が重 みをもっていたことが窺 える。 - ^ 2013
年 の時点 では無疵 の健全 作 と思 われていたが[239]、その後 の調査 で疵 をならして修復 した形跡 が発見 されている[240]。 - ^
他 に穴山 信 君 や秋山 虎 康 、または武田 信玄 の娘 などという説 もある。 - ^
一説 に母 は下山 殿 ともいわれる。 - ^
一説 に母 は於梶ともいわれる。 - ^
他 に蔭山 氏 広 や冷川 村 百姓 の娘 などという説 もある。 - ^
他 に江戸 重通 の娘 などという説 もある。 - ^
松代 藩 主 真田 幸 道 が江戸 幕府 に提出 した諸 系図 には台 徳 院 殿 (徳川 秀忠 )娘 となっている。 - ^ 『
柳営 婦女 伝 系 』(『徳川 諸家 系譜 』第 1巻 続 群 書 類従 完成 会 )の長 勝 院 (小 督 局 )の項 に結城 秀康 が双子 であったことが記載 されており、また、高野 山 にある小 督 局 の墓 には永見 貞 愛 の名 も刻 まれている[260]。 - ^ 『
徳川 実紀 』に落胤 説 があったとの記述 がある。 - ^ 『
後藤 庄三郎 由緒 書 』、寛政 10年 (1798年 )ころの史料 なので信憑 性 には疑問 がある。 - ^
日光山輪王寺 所蔵 にある重要 文化財 の守 り袋 の考察 の一説 。
出典
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論文
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関連 項目
外部 リンク
- 『
徳川 家康 』 - コトバンク 徳川 家康 ー将軍家 蔵書 からみるその生涯 ー -国立 公文書 館 徳川 家康 とはどんな人 ?有名 なエピソードや名言 、死因 などわかりやすく解説 - マイナビニュース歴史 にドキリ|徳川 家康 〜戦国 から江戸 へ〜 - NHK for School初代 将軍 /徳川 家康 の歴史 -刀剣 ワールド徳川 家康 ゆかりの地 巡 り - 【公式 】愛知 県 の観光 サイトAichi Now(一般 社団 法人 愛知 県 観光 協会 )徳川 家康 公 の足跡 をたどる平和 の礎 を築 いた男 - SANPAI JAPAN(一般 社団 法人 全日本 社寺 観光 連盟 )- 【
愛知 】徳川 家康 ゆかりの地 をめざして、岡崎 ・新城 ・清須 ・長久手 へ - るるぶ&more.(JTB) - 【どうする
家康 】徳川 家康 と城郭 (概要 編 )~居城 の変遷 を探究 する - 【
教科書 と武将 】歴史 教科書 における「徳川 家康 」の扱 いを探究 する~小学校 ・中学校 の教科書 の比較 から~ 徳川 家康 - Google Arts & Culture