(Translated by https://www.hiragana.jp/)
徳川家康 - Wikipedia

徳川とくがわ家康いえやす

日本にっぽん戦国せんごく江戸えど時代じだい武将ぶしょう大名だいみょう初代しょだい江戸えど幕府ばくふ征夷大将軍せいいたいしょうぐん

徳川とくがわ 家康いえやす(とくがわ いえやす、きゅう字体じたい德川とくがわ 家康いえやす)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき日本にっぽん武将ぶしょう戦国せんごく大名だいみょう江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ御三家ごさんけなど)のさん英傑えいけつ1人ひとりかぞえられる。

 
徳川とくがわ 家康いえやす
あずまあきら大権たいけん現像げんぞう狩野かのさがせかそけ大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかくぞう
徳川とくがわ家康いえやすを「あずまあきらだい権現ごんげん」として神格しんかくした姿すがたえがいたもの[注釈ちゅうしゃく 1]
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん11ねん12月26にち1543ねん1がつ31にち[3][4]
死没しぼつ 元和がんわ2ねん4がつ17にち1616ねん6月1にち[5][6]
享年きょうねん75(73さいぼつ
改名かいめい 松平まつだいらたけせんだい幼名ようみょう)→ 元信もとのぶはつ) → 元康もとやす家康いえやす徳川とくがわ家康いえやす
別名べつめい 仮名かめい次郎じろう三郎さぶろう蔵人くろうど
敬称けいしょう大御所おおごしょ将軍しょうぐん辞任じにん
尊称そんしょう神君しんくん死後しご[7]
かみごう あずまあきらだい権現ごんげん
戒名かいみょう 安国やすくにいん殿どのとくはちすしゃたかしほまれ道和みちかずだい居士こじ
墓所はかしょ 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう
日光にっこう東照宮とうしょうぐう
大樹寺たいきでら
高野山こうのやま
官位かんい したがえ三河みかわまもる左京さきょう大夫たいふしたがえじょう侍従じじゅうせいしたがえよんみぎ近衛このえけん少将しょうしょうしたがえよんじょうせいよんひだり近衛このえけん中将ちゅうじょうしたがえさん参議さんぎけん中納言ちゅうなごんせいさんしたがえけん大納言だいなごんひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかんせい内大臣ないだいじんしたがえいち右大臣うだいじん征夷大将軍せいいたいしょうぐん太政大臣だじょうだいじん源氏げんじ長者ちょうじゃおくせいいち
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 初代しょだい征夷大将軍せいいたいしょうぐん
在任ざいにん1603ねん - 1605ねん
主君しゅくん 今川いまがわ義元よしもと今川いまがわ氏真うじざね足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶなが[8]豊臣とよとみ秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀頼ひでよりこう陽成ようぜい天皇てんのう後水尾天皇ごみずのおてんのう
氏族しぞく 松平まつだいら徳川とくがわ
父母ちちはは ちち松平まつだいらひろただし
はは水野みずの大子だいご伝通院でんづういん
継父けいふ久松ひさまつ俊勝としかつ[9]
兄弟きょうだい 家康いえやす松平まつだいら家元いえもと?、内藤ないとう信成のぶなり?、きこりおくめぐみさい?、松平まつだいら忠政ただまさ市場いちばひめ矢田やたひめ[10]
異父いふおとうと松平まつだいらやすしもと松平まつだいらかんしゅん松平まつだいら定勝さだかつ
異母いぼ姉妹しまいこうひめ
つま 正室せいしつ築山殿ちくやまどの
継室けいしつ朝日あさひひめ
側室そくしつ雲光院うんこういんほか
松平まつだいら信康のぶやすかめひめとくひめ結城ゆうき秀康ひでやす秀忠ひでただ松平まつだいら忠吉ただよしひめ武田たけだ信吉のぶよし松平まつだいらただしてる義直よしなお頼宣よりのぶ頼房よりふさなど
花押かおう 徳川家康の花押
テンプレートを表示ひょうじ

概要がいよう

編集へんしゅう

家系かけい三河みかわこく国人くにびと土豪どごう松平まつだいらうちあんさち松平まつだいら5だい当主とうしゅ幼名ようみょうたけせんだい[7]幼少ようしょう織田おだついで今川いまがわした人質ひとじちとしてごし[7]いみな元服げんぷく今川いまがわ義元よしもとよりへんいみなけて元信もとのぶ(もとのぶ)、いで元康もとやす(もとやす)とあらため、通称つうしょう当初とうしょ次郎じろう三郎さぶろう元康もとやす改名かいめいしたさい蔵人くろうどもちいている[11]

当初とうしょ今川いまがわ配下はいかとして活動かつどうするが、えいろく3ねん1560ねん)におけ狭間はざまたたか今川いまがわ義元よしもと討死うちじにしたのを今川いまがわから独立どくりつして家康いえやすあらためいみなし、織田おだ信長のぶなが接近せっきんしてえいろく5ねん(1562ねん)に清洲きよす同盟どうめいむす[7]えいろく9ねん12月29にち1567ねん2がつ18にち)には徳川とくがわ改姓かいせいした。本拠ほんきょ三河そうごこく平定へいてい信長のぶなが協調きょうちょう従属じゅうぞくしながら今川いまがわ武田たけだなど周辺しゅうへん大名だいみょうこうそう展開てんかい勝利しょうりして版図はんと遠江とおとうみこく駿河するがこくにまでひろげていく。天正てんしょう10ねん1582ねん)には本能寺ほんのうじへんでの信長のぶなが死亡しぼう発生はっせいした天正てんしょうみずのえうまらんせいして甲斐かいこく信濃しなのこく手中しゅちゅうおさ[7]、5かこく領有りょうゆうするだい大名だいみょうとなった。

信長のぶながぼつ織田おだ政権せいけん勢力せいりょく伸張しんちょうした豊臣とよとみ秀吉ひでよしとは天正てんしょう12ねん1584ねん)に小牧こまき長久手ながくてたたか対峙たいじするが[7]のち秀吉ひでよし臣従しんじゅうし、天正てんしょう18ねん(1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつこうこう北条ほうじょう旧領きゅうりょう関東かんとう8かこくへのてんふうめいぜられ、豊臣とよとみ政権せいけんした最大さいだい領地りょうちる。秀吉ひでよし晩年ばんねんには大老たいろうれっせられ大老たいろう筆頭ひっとうとなる[7]

秀吉ひでよしぼつ慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたかではひがしぐんひきいて西にしぐん勝利しょうり天下てんかじん地位ちい獲得かくとく慶長けいちょう8ねん1603ねん)に征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされ武蔵むさしこく江戸えど幕府ばくふひらく。慶長けいちょう20ねん1615ねん)の大坂おおさかじん豊臣とよとみ滅亡めつぼうさせ、江戸えど幕府ばくふ中心ちゅうしんとなって日本にっぽん統治とうちするまくはん体制たいせいいしずえきずいた。

没後ぼつごあずまあきらだい権現ごんげんかみごう後水尾天皇ごみずのおてんのうからおくられ[12]東照宮とうしょうぐうまつられるなどして神格しんかくされ、江戸えど時代じだいつうじて崇拝すうはいされた。

生涯しょうがい

編集へんしゅう
 
岡崎おかざきしろ天守てんしゅ
 
孟齋もうさいよしとら三河みかわすぐるいさむつたえ」より『したがえいち右大臣うだいじん 征夷大将軍せいいたいしょうぐんみなもと家康いえやすおおやけ
 
たけせんだい時代じだいごした臨済寺りんさいじ (静岡しずおか)(2016ねん8がつ14にち撮影さつえい

日付ひづけは、太陰暦たいいんれきによるれき西暦せいれき暦法れきほう便宜上べんぎじょうユリウスれきとする。

編集へんしゅう

天文てんもん11ねん1542ねん)12月26にち岡崎おかざき城主じょうしゅ松平まつだいらひろただし嫡男ちゃくなんとして岡崎おかざきしろにおいてまれる[4][注釈ちゅうしゃく 2]生母せいぼ緒川おがわじょうあるじ水野みずの忠政ただまさむすめ大子だいご伝通院でんづういん[4]幼名ようみょうたけせんだい(たけちよ)[4][15]。胞刀のやく酒井さかいまさし蟇目ひきめやく石川いしかわきよしけんつとめた[16]

3さいのころ、水野みずの忠政ただまさぼつ水野みずの当主とうしゅとなった水野みずのしんもと大子だいごあに)が尾張おわりこく織田おだ同盟どうめいする。織田おだ敵対てきたいする駿河するがこく今川いまがわ庇護ひごされているこうちゅう大子だいご離縁りえんたけせんだいは3さいにしてははわかれになる[注釈ちゅうしゃく 3]

人質ひとじちとして今川いまがわ、そして織田おだ

編集へんしゅう

天文てんもん16ねん1547ねん)8がつ2にち[19]たけせんだいかぞえ6さい今川いまがわへの人質ひとじちとして駿府すんぷおくられることとなる。しかし、駿府すんぷへの護送ごそう途中とちゅうった田原たはらしろ義母ぎぼちち戸田とだ康光やすみつ裏切うらぎりにより、尾張おわりこく織田おだ信秀のぶひでおくられた。だがこうちゅう今川いまがわへの従属じゅうぞくつらぬいたため、たけせんだいはそのまま人質ひとじちとして2年間ねんかん尾張おわりこく熱田あつた加藤かとうじゅんもり屋敷やしきかれた。このとき織田おだ信長のぶながったという伝説でんせつがあるが、史料しりょうにはない[20]。また、近年きんねん研究けんきゅう[注釈ちゅうしゃく 4]では、天文てんもん16ねん9がつ[注釈ちゅうしゃく 5]岡崎おかざきじょう織田おだによって攻略こうりゃくされたとする文書ぶんしょ(「本成寺ほんじょうじ文書ぶんしょ」『証文しょうもん』)の存在そんざい指摘してきされ、松平まつだいらひろちゅう織田おだへの降伏ごうぶくあかしとしてたけせんだい人質ひとじちした可能かのうせい浮上ふじょうしている[29]

2ねんこうちゅう死去しきょする[注釈ちゅうしゃく 6]今川いまがわ義元よしもと織田おだ信秀のぶひで長子ちょうし織田おだ信広のぶひろ[注釈ちゅうしゃく 7]との人質ひとじち交換こうかんによってたけせんだいもどす。しかしたけせんだい駿府すんぷ[注釈ちゅうしゃく 8]うつされ、岡崎おかざきじょう今川いまがわから派遣はけんされた城代しろだい朝比奈あさひなやすしのう山田やまだけいたかしなど)により支配しはいされた[注釈ちゅうしゃく 9][注釈ちゅうしゃく 10][注釈ちゅうしゃく 11][注釈ちゅうしゃく 12]墓参はかまいりのためとしょうして岡崎おかざきじょう帰参きさんしたさいには、本丸ほんまるには今川いまがわ城代じょうだいかれていたためれず、まるはいった。

なお、安城あき松平まつだいら家督かとくは、こうちゅうくなった時点じてんたけせんだい継承けいしょうしていたとかんがえられている。そのことが今川いまがわ家中かちゅうにおいて、すで領主りょうしゅとなっていたたけせんだいたいする人質ひとじちとしてあつかいが領主りょうしゅたいする通常つうじょう人質ひとじちれいとはことなった理由りゆうとしてかんがえられる[36][注釈ちゅうしゃく 13][38]。また、今川いまがわ家臣かしんしゅうじゅう政策せいさくすすめており、傘下さんかくにしゅたいしても例外れいがいではなかったとするせつもある。その場合ばあいたけせんだい元信もとのぶ元康もとやす)の人質ひとじち期間きかん家臣かしんとしての駿府すんぷ滞在たいざい期間きかん混在こんざいしていたことになる[39]

元服げんぷく初陣ういじん

編集へんしゅう

天文てんもん24ねん1555ねん)3がつ、14さいのとき、駿府すんぷ今川いまがわ義元よしもとした元服げんぷくし、次郎じろう三郎さぶろう元信もとのぶ名乗なのった[40]義元よしもとへんいみなもと」のあたえられており、これはあらためて今川いまがわ配下はいかになったことを意味いみした[40]

弘治こうじ3ねん1557ねん)もしくは2ねん1556ねん)、今川いまがわ義元よしもとめいとされる関口せきぐちちかしひさしじゅん)のむすめ築山殿ちくやまどの)をめと[40][注釈ちゅうしゃく 14]。これにより、今川いまがわ一門いちもんじゅんじる立場たちばとなった[40]

弘治こうじ4ねん1558ねんごろに、祖父そふ松平まつだいら清康きよやすいちをとり、元康もとやすあらた[40]仮名かめい蔵人くろうどあらためている[11][注釈ちゅうしゃく 15]

なお、松平まつだいら元康もとやす徳川とくがわ家康いえやす)の今川いまがわとの関係かんけいについてはよしりょうとの関係かんけい考慮こうりょする必要ひつようがあるとする指摘してきもある。よしりょう三河そうごこく幡豆はずぐん根拠こんきょとした足利あしかが一家いっかひとつで、今川いまがわ宗家そうけすじであった。よしりょう守護しゅごではないものの、三河みかわ国主こくしゅじゅんじられて国内こくないくにしゅにも影響えいきょうあたえ、松平まつだいら信忠のぶただ吉良きら義信よしのぶ松平まつだいら清康きよやす吉良きらもちきよし松平まつだいらひろちゅう吉良きらひろへんいみなたと推定すいていされている。今川いまがわ義元よしもとよしりょうわってあんさち松平まつだいら当主とうしゅたいしてみずからのへんいみなあたえるとともにみずからの一門いちもんむことによってよしりょう三河みかわ国主こくしゅとしての地位ちい間接かんせつてき否定ひていするとともに、今川いまがわ三河みかわ支配しはい安定あんてい実質じっしつじょう三河みかわ最大さいだい勢力せいりょくである松平まつだいらかいしてはかったとかんがえられる[45]

当時とうじ三河そうごこくではくにしゅあいだだい規模きぼ反乱はんらんきており(三河みかわ忩劇)、えいろく元年がんねん1558ねん)2がつ5にちには今川いまがわから織田おだつうじた加茂かもぐん寺部てらべじょうおも鈴木すずきしげるたつめた。これが初陣ういじんであり、城下じょうかいてげ、てんじて附近ふきん広瀬ひろせ挙母ころも梅坪うめつぼ伊保いほめた(寺部てらべじょうたたか)。この戦功せんこうにより、義元よしもと旧領きゅうりょうのうち山中さんちゅう300かんぶん返付へんぷ[注釈ちゅうしゃく 16]し、腰刀こしがたなおくった[47]えいろく2ねん(1559ねん)5がつ16にち駿府すんぷ元康もとやすは7かじょうからなるじょうしょ岡崎おかざきにいる家臣かしんだんとのあいだわしている。これは、将来しょうらいてき今川いまがわ氏直うじなおしん岡崎おかざき城主じょうしゅとなるであろう元康もとやす今川いまがわによる間接かんせつ統治とうち希薄きはくした家臣かしんだんとのあいだ主従しゅうじゅう関係かんけいさい確認かくにんする性格せいかくっていた[48]。また、家臣かしんだんたいしては家康いえやすが諫言をかなければ、義父ぎふである一門衆関口親永と今川いまがわ家老がろう朝比奈あさひなちかしとくうったるようにともしるされており、つづ松平まつだいらへの関与かんよ継続けいぞくすることも明記めいきされていた[49]

清洲きよす同盟どうめいから三河そうごこく平定へいてい

編集へんしゅう
 
徳川とくがわ家紋かもん"まるあおい徳川とくがわまもる)"

えいろく3ねん1560ねん)5がつおけ狭間はざまたたか先鋒せんぽうまかされ、だい高城たかぎ鵜殿うどのちょうあきら城中じょうちゅう兵糧ひょうろうりないことを義元よしもとうったえたため、義元よしもとから兵糧ひょうろう補給ほきゅうめいじられた。しかし織田おだぐん大高おおたかじょう包囲ほういしており、兵糧ひょうろうはこむには包囲ほうい突破とっぱする必要ひつようがあった。そこで5がつ18にち鷲津わしづとりで丸根まるねとりであいだ突破とっぱして、小荷駄こにだ城中じょうちゅうおくみ、ぜんぐん無事ぶじ引上ひきあげた。5月19にち丸根まるねとりでとし、朝比奈あさひなやすしあさ鷲津わしづとりでとした[50]

5月19にちひるごろ今川いまがわ義元よしもと織田おだ信長のぶながたれた。織田おだかた武将ぶしょう水野みずのしんもとは、おい元康もとやすのもとへ、浅井あさいみちただし使者ししゃとしてつかわした。同日どうじつ夕方ゆうがたみちちゅうは、元康もとやすまもっていた大高おおたかじょう到着とうちゃくし、義元よしもと戦死せんしほうつたえた。織田おだぜい来襲らいしゅうするまえ退却たいきゃくするようとのすすめにたいし、元康もとやすはいったん物見ものみしておけ狭間はざま敗戦はいせん確認かくにんした。同日どうじつ夜半やはん退城たいじょう岡崎おかざき城内きうちには今川いまがわざんへいがいたため、これをけてよく20にち菩提寺ぼだいじ大樹寺たいきでらはいった。ほどなくして今川いまがわぐん岡崎おかざきじょう退去たいきょ。23にち元康もとやすは「捨城ならばひろえはん」とって岡崎おかざきじょう入城にゅうじょうした[51][52][53]岡崎おかざきじょうはいさい大樹寺たいきでら住職じゅうしょくのぼりほまれてんしつ相談そうだんうえ独自どくじ軍事ぐんじ行動こうどうをとり、今川いまがわからの独立どくりつたそうとしたとされる[54]。またおけ狭間はざまたたかいの直後ちょくごから、元康もとやす今川いまがわ織田おだ両氏りょうしたいして軍事ぐんじ行動こうどうおこな両面りょうめん作戦さくせんおこなったとするせつもある[55]。さらに近年きんねん新説しんせつとして、おけ狭間はざまでの勝利しょうりじょうじた織田おだぐん三河みかわ侵攻しんこう警戒けいかいした今川いまがわ氏真うじざねがこれにそなえるために元康もとやす岡崎おかざきじょう帰還きかんゆるしたとするせつされている[56]

えいろく4ねん(1561ねん)2がつ元康もとやす将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるあらし鹿毛かげとよばれる駿馬しゅんめ献上けんじょうして室町むろまち幕府ばくふとの直接的ちょくせつてき関係かんけいきずくことで、独立どくりつした領主りょうしゅとして幕府ばくふ承認しょうにんけようとしている[57]。4月、元康もとやすひがしさんかわにおける今川いまがわかた拠点きょてんであった牛久保うしくぼしろ攻撃こうげき今川いまがわからの自立じりつ意思いし明確めいかくにした[注釈ちゅうしゃく 17]

おりしも今川いまがわ盟友めいゆうであった武田たけだ信玄しんげん北条ほうじょう氏康うじやすは、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさほうじた長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)の関東かんとう出兵しゅっぺい小田原おだわらじょうたたか)への対応たいおうわれており、武田たけだ北条ほうじょうからの援軍えんぐんないという判断はんだんがあったとされる[59]。また、おけ狭間はざまたたか直後ちょくご三河みかわ今川いまがわかたをまとめて織田おだかた侵攻しんこう対峙たいじしていた元康もとやすさんかわへの軍事ぐんじてき支援しえん後回あとまわしにして同盟どうめいこく武田たけだ北条ほうじょう支援しえんうご氏真うじざね失望しつぼうして、援軍えんぐんられないまま織田おだ抵抗ていこうつづけるよりも織田おだむすんで独立どくりつはかったほう領国りょうごく維持いじうえ得策とくさく判断はんだんしたとする見方みかたもある[56]。この事態じたい義元よしもとのちいだ今川いまがわ氏真うじざねには痛恨つうこん事態じたいであり、後々あとあとまで「松平まつだいら蔵人くろうど逆心ぎゃくしん」「さんしゅう錯乱さくらん」などとしるしていきどおりをせている[59]。その元康もとやす藤波ふじなみなわてたたかなどに勝利しょうりして、西にしさんかわしょしろ攻略こうりゃくする。

えいろく4ねん1561ねんさき今川いまがわ見限みかぎ織田おだ同盟どうめいむすんだ伯父おじ水野みずのしんもと仲介ちゅうかいもあって、信長のぶなが和睦わぼくし、今川いまがわ断交だんこうして信長のぶなが同盟どうめいむすんだ(清洲きよす同盟どうめい)(『史料しりょう総覧そうらんまき10)[60][注釈ちゅうしゃく 18]同年どうねん4がつ西にしさんかわ今川いまがわとのたたかいが開始かいしされた。

えいろく5ねん1562ねん)には、元康もとやす信長のぶながって会談かいだんし、同盟どうめい確認かくにんをして関係かんけいかためている[注釈ちゅうしゃく 19][60]一方いっぽう今川いまがわ氏真うじざね要請ようせいけた将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる松平まつだいら今川いまがわ両氏りょうし和睦わぼくはかり、義輝よしてるから北条ほうじょう氏康うじやすらにたいしても和睦わぼく仲介ちゅうかい指示しじしているが、和睦わぼく実現じつげんしなかった[64]

えいろく6ねん1563ねん)には、義元よしもとからのへんいみなである「もと」の返上へんじょうして元康もとやすから家康いえやすあらためた。「いえ」をえらんだ理由りゆう明確めいかくではない[65][注釈ちゅうしゃく 20]。ほぼおな時期じき今川いまがわ義元よしもとならった花押かおうかたち変更へんこうしている。改名かいめい以前いぜん花押かおうが「もと」の変形へんけいさせたものである以上いじょう花押かおう変更へんこう当然とうぜんのことであったともえるが、これも今川いまがわからの決別けつべつしめしたこととえる[70]。こうしたうごきが桜井さくらい大草おおくさりょう松平まつだいらをはじめとするおや今川いまがわ刺激しげきして、翌年よくねん一斉いっせい蜂起ほうきにつながったとする見方みかたがある[71]同年どうねん3がつには、同盟どうめいあかしとして嫡男ちゃくなんたけせんだい信康のぶやす)と信長のぶながむすめ五徳ごとくとの婚約こんやくむすばれる。

えいろく7ねん1564ねん)、今川いまがわ氏真うじざね家康いえやす討伐とうばつ意向いこうしめすと[注釈ちゅうしゃく 21]酒井さかいただしなお吉良きら義昭よしあき三河そうご国内こくないはん家康いえやす勢力せいりょくくにしゅ挙兵きょへいし、つづいて三河みかわ一向いっこう一揆いっき勃発ぼっぱつするも、これを鎮圧ちんあつ。こうして岡崎おかざき周辺しゅうへん不安ふあん要素ようそはらうと、たい今川いまがわ戦略せんりゃくすすめた。ひがしさんかわ戸田とだ西郷さいごうといった土豪どごうみながら、軍勢ぐんぜいひがしすすめて鵜殿うどののような敵対てきたい勢力せいりょく排除はいじょしていった。遠江とおのえこく発生はっせいしたくにしゅ反乱はんらんとおしゅう忩劇)の影響えいきょう三河そうごこくへの対応たいおうおくれる今川いまがわとのあいだ宝飯ほいぐん主戦しゅせんじょうとした攻防こうぼうせんひろげたのちえいろく9ねん1566ねん)までにはひがしさんかわおくさんかわ三河そうごこく北部ほくぶ)を平定へいていし、三河そうごこく統一とういつした[注釈ちゅうしゃく 22]。このさい家康いえやすは、西にし三河みかわしゅう旗頭はたがしら:石川いしかわなりのち石川いしかわすうただし))・ひがし三河みかわしゅう旗頭はたがしら:酒井さかい忠次ただつぐ)・旗本はたもとさん備のせいへの軍制ぐんせい改正かいせいおこない、旗本はたもとには旗本はたもと先手せんてやくあらたにいた。

徳川とくがわ」への改姓かいせい

編集へんしゅう

えいろく9ねん1566ねん)、家康いえやす朝廷ちょうていから藤原ふじわらとしてしたがえ三河みかわまもる叙任じょにんされ、その直前ちょくぜん、あるいは同時どうじ苗字みょうじを「徳川とくがわ」にあらためている。

この改姓かいせい朝廷ちょうていねがさいにはいくらかの工夫くふうようした。松平まつだいらすくなくとも清康きよやす時代じだいから新田にった支流しりゅう世良田せらだ系統けいとう清和せいわはじめであると自称じしょうしていたが、当初とうしょ正親町おおぎまち天皇てんのう清和せいわはじめ世良田せらだ三河みかわまもる任官にんかんした先例せんれいがないことを理由りゆうにこの叙任じょにんみとめなかった[75]。そこで家康いえやす三河そうごこく出身しゅっしんきょう誓願寺せいがんじ住持じゅうじだったたいおきなかいして近衛このえぜんひさ相談そうだんした[76]

ぜんひさ対処たいしょにより、吉田よしだけんみぎ万里小路まりこうじ先例せんれいたる系譜けいふ文書ぶんしょ徳川とくがわ根元ねもととくがわ)は源氏げんじだがもうひとつのながれに藤原ふじわらになったれいがある」を発見はっけんうつしが譲渡じょうとされ申請しんせい使用しようした。このとくかわすえだと藤原ふじわら名乗なの特例とくれいともいえる措置そちて、家康いえやすしたがえした三河みかわまもる叙任じょにんされた(近衛このえ文書ぶんしょ[75]。この先例せんれいとされたのは松平まつだいらとされる新田にった庶流の世良田せらださん河守こうもりよりゆきで、藤原ふじわらとなったのは嫡男ちゃくなんゆうとそのおとうときょうで、松平まつだいら清康きよやす世良田せらだ改姓かいせいとつなげたとのせつがある[75][注釈ちゅうしゃく 23]。この勅許ちょっきょ関連かんれんした改姓かいせい当面とうめん徳川とくがわせい名乗なのるのは家康いえやす一人ひとりであり、松平まつだいら一族いちぞく家臣かしんだん統制とうせい役立やくだった[77]。この改姓かいせいともな家康いえやすは「本姓ほんせい」を「藤原ふじわら」としているが、のちみなもとふくしている(#みなもとへの「復姓ふくせい時期じきについて)。

今川いまがわりょう遠江とおのえへの侵攻しんこう

編集へんしゅう

えいろく10ねん1567ねん)5がつ長男ちょうなんたけ千代ちよ信長のぶながむすめであるとくひめ結婚けっこんさせ、ともに9さい形式けいしき夫婦ふうふとはいえ岡崎おかざきじょうらさせる。たけせんだいは、7がつ元服げんぷくして信長のぶながよりへんいみなの「しん」のあたえられて信康のぶやす名乗なのことになった。

えいろく11ねん1568ねん)、信長のぶなが室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるおとうと義昭よしあきほうじて上洛じょうらくにつくと、家康いえやす信長のぶながへの援軍えんぐんとして松平まつだいら信一しんいち派遣はけんした。同年どうねん1がつ11にち家康いえやす左京さきょう大夫たいふ任命にんめいされている(『れきめい土代どだい』)。左京さきょう大夫たいふ歴代れきだい管領かんりょう盟友めいゆうてき存在そんざい有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょうさづけられた官職かんしょくであり[注釈ちゅうしゃく 24]、これは義昭よしあき信長のぶなが管領かんりょう任命にんめいする人事じんじ連動れんどうした武家ぶけ執奏しっそうであったとみられる。だが、信長のぶなが管領かんりょう就任しゅうにん辞退じたいしたことから、家康いえやす依然いぜんとして従来じゅうらいの「三河みかわまもる」をもちつづけた[78][注釈ちゅうしゃく 25][注釈ちゅうしゃく 27]

同年どうねん12がつ6にち甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん今川いまがわりょう駿河するがへの侵攻しんこう開始かいしすると(駿河するが侵攻しんこう)、家康いえやす酒井さかい忠次ただつぐ取次とりつぎやく遠江とおとうみ割譲かつじょう条件じょうけんとして武田たけだ同盟どうめいむすび、13にち遠江とおとうみこく今川いまがわりょう侵攻しんこうして曳馬ひくまじょうとし、ぐん退しりぞかずに遠江とおのえこく越年えつねんする。

武田たけだとの今川いまがわりょう分割ぶんかつかんして、徳川とくがわでは大井川おおいがわさかいひがし駿河するがこく武田たけだりょう西にし遠江とおのえこく徳川とくがわりょうとする協定きょうていむすんでいたとされる(『三河みかわ物語ものがたり』)。しかしえいろく12ねん1569ねん)1がつ8にち信濃しなのこくから武田たけだ家臣かしん秋山あきやまとらしげる信友のぶとも)による遠江とおとうみこくへの侵攻しんこうけ、武田たけだとはきりとなった[注釈ちゅうしゃく 28]

5月に駿府すんぷじょうから本拠ほんきょうつした今川いまがわ氏真うじざね掛川かけがわしろ攻囲こうい籠城ろうじょうせんすえ開城かいじょう勧告かんこくびかけて氏真うじざねくだし、遠江とおとうみこく支配しはいく(遠江とおとうみ侵攻しんこう)。氏真うじざね和睦わぼくすると家康いえやす北条ほうじょう氏康うじやす協力きょうりょく武田たけだぐん退しりぞけた。以来いらい東海とうかい地方ちほうにおける織田おだ徳川とくがわ武田たけだ関係かんけいは、織田おだ2しゃ同盟どうめい関係かんけいにあるが徳川とくがわ武田たけだ敵対てきたい関係かんけい推移すいいする。

もとかめ元年がんねん1570ねん)、岡崎おかざきじょうから遠江とおとうみこく曳馬ひくまじょううつると、ここを浜松はままつ改名かいめいし、浜松はままつじょうきずいてこれを本城ほんじょうとした[注釈ちゅうしゃく 29]。なお、岡崎おかざきじょう長男ちょうなん信康のぶやすゆずった。また信長のぶながたすけ、金ヶ崎かねがさきたたか参戦さんせんしたほか、朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ連合れんごうぐんとの姉川あねがわたたかでは活躍かつやくせた。

武田たけだとのたたか

編集へんしゅう

家康いえやす北条ほうじょう氏康うじやす氏政うじまさ父子ふし協調きょうちょうして武田たけだりょう攻撃こうげきしていたが、武田たけだ信玄しんげん氏康うじやすぼつもとかめ2ねん(1571ねんまつ北条ほうじょう氏政うじまさとのかぶとしょう同盟どうめい回復かいふく駿河するがこく確保かくほする。信長のぶなが反目はんもくした将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ石山いしやま本願寺ほんがんじはん織田おだ勢力せいりょく糾合きゅうごうして信長のぶなが包囲ほういもうくわだてたさい家康いえやすにもふく将軍しょうぐんへの就任しゅうにん要請ようせい協力きょうりょくもとめた。しかし家康いえやすはこれを黙殺もくさつし、信長のぶながとの同盟どうめい関係かんけい維持いじした。

もとかめ3ねん1572ねん)10がつには武田たけだ徳川とくがわりょうである遠江とおとうみこく三河そうごこくへの侵攻しんこう西上にしがみ作戦さくせん)を開始かいしした[注釈ちゅうしゃく 30]。これにより武田たけだ織田おだきりとなった。家康いえやす信長のぶなが援軍えんぐん要請ようせいするが、信長のぶなが包囲ほういもうへの対応たいおう苦慮くりょしており、武田たけだぐん美濃みのこく岩村いわむらしろ攻撃こうげきされたことから十分じゅうぶん援軍えんぐんおくられず、徳川とくがわぐんはほぼ単独たんどくというかたち武田たけだぐんたたかうこととなる。

 
徳川とくがわ家康いえやす三方みかたげん戦役せんえき画像がぞう』(徳川とくがわ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう)。

徳川とくがわぐん遠江とおのえこく侵攻しんこうしてきた武田たけだぐん本隊ほんたいたたかうため、天竜川てんりゅうがわわたって見附みつけ磐田いわた)にまで進出しんしゅつ浜松はままつ北方ほっぽうかためる要衝ようしょう二俣ふたまたしろられることをけたい徳川とくがわぐんが、武田たけだぐん動向どうこうさぐるために内藤ないとう信成のぶなり本多ほんだ忠勝ただかつらを偵察ていさつたいとしてつかわせるも武田たけだぐん遭遇そうぐうし、一言ひとことざか敗走はいそうする(一言ひとことざかたたか)。遠江とおとうみ方面ほうめん武田たけだぐん本隊ほんたい同時どうじ武田たけだぐん別働隊べつどうたい侵攻しんこうする三河みかわ方面ほうめんへの防備ぼうび充分じゅうぶんかためられないばかりか、このたたかいを徳川とくがわぐん劣勢れっせい確定かくていしてしまう。そして12月、二俣ふたまたじょう落城らくじょうした(二俣ふたまたじょうたたか)。

ようやく信長のぶながから佐久間さくましんもり平手ひらてひろししゅうひきいる援軍えんぐんおくられてきたころ、別働隊べつどうたい合流ごうりゅうした武田たけだぐん本隊ほんたい浜松はままつじょうちかづきつつあった。対応たいおうせまられる徳川とくがわぐんであったが、武田たけだぐん浜松はままつじょう悠然ゆうぜん素通すどおりして三河そうごこく侵攻しんこうするかのように転進てんしんした。これをいた家康いえやすは、佐久間さくましんもりらが籠城ろうじょうとなえるのにはんして武田たけだぐん追撃ついげき。しかしその結果けっか鳥居とりい忠広ただひろ成瀬なるせ正義まさよしや、二俣ふたまたじょうたたかいで開城かいじょう恥辱ちじょくそそごうとした中根なかねただしあきら青木あおき貞治さだはるといった家臣かしんをはじめ1,000にん以上いじょう死傷ししょうしゃし、平手ひらてひろししゅうといった織田おだぐんからの援将が戦死せんしするなど、徳川とくがわ織田おだ連合れんごうぐん惨敗ざんぱいした。家康いえやす夏目なつめ吉信よしのぶ代表だいひょうされるように、身代みがわりとなった家臣かしんたすけられていのちからがら浜松はままつじょうかえったという。(三方みかたばらたたか武田たけだぜい浜松はままつじょうまで追撃ついげきされたが、じょうしてから家康いえやすは「空城そらじょうけい」をもちいることによって武田たけだぐんにそれ以上いじょう追撃ついげき断念だんねんさせたとされているが、信憑しんぴょうせい疑問ぎもんていされている。

その家康いえやすは、三方原みかたはら失敗しっぱいいましめとするため、合戦かっせん直後ちょくご自身じしん姿すがたえがかせ、それが徳川とくがわ家康いえやす三方みかたげん戦役せんえき画像がぞうであるとするのが通説つうせつとされてきた。ただし近年きんねん上記じょうき通説つうせつたい疑問ぎもんていされている(詳細しょうさいは「徳川とくがわ家康いえやす三方みかたげん戦役せんえき画像がぞう」を参照さんしょう)。

浜名湖はまなこほとり堀江ほりえじょう攻略こうりゃく断念だんねんして一旦いったん浜名湖はまなこ北岸ほくがん越年えつねんしたのち三河そうごこくへの進軍しんぐん再開さいかいした武田たけだぐんによって三河みかわこく設楽したらぐん野田城のだじょうを2がつにはとされ、城主じょうしゅ菅沼すがぬまじょうみつる拘束こうそくされた。ところがその武田たけだぐん信玄しんげん発病はつびょうによって長篠城ながしのじょうまで退しりぞき、武田たけだ信玄しんげん死去しきょ享年きょうねん51さい)により撤兵てっぺいした。

武田たけだぐん突然とつぜん撤退てったいは、家康いえやす信玄しんげん死去しきょ疑念ぎねんいだかせた。その生死せいし確認かくにんするため家康いえやす武田たけだりょうである駿河するがこく岡部おかべ侵攻しんこう放火ほうかし、三河そうごこくでは長篠城ながしのじょうめるなどしている。そして、これら一連いちれん行動こうどう武田たけだぐん抵抗ていこうがほとんどなかったことから信玄しんげん確信かくしんした家康いえやすは、武田たけだくみしていたおくさんかわ豪族ごうぞく山家やまがさんぽうしゅ一角いっかくであるおく平貞能たいらのさだよしさだあきら親子おやこ調しらべりゃくし、さいぞくさせた。奪回だっかいした長篠城ながしのじょうには奥平おくだいらぐんはいし、武田たけだぐんさい侵攻しんこうそなえさせた。

武田たけだ西上にしがみ作戦さくせん頓挫とんざにより信長のぶながはん織田おだ勢力せいりょく撃滅げきめつし、家康いえやす勢力せいりょく回復かいふくして長篠城ながしのじょうからおくさんかわ奪還だっかんし、駿河するがこく武田たけだりょうまでおどかした。これにたいして信玄しんげん後継こうけいしゃである武田たけだ勝頼かつより攻勢こうせいて、天正てんしょう2ねん1574ねん)にはひがし美濃みの明智めいちじょう遠江とおとうみ高天こうてん神城かみしろ攻略こうりゃくし、家康いえやす武田たけだ攻防こうぼうかえした。同年どうねん家康いえやすいぬ居城きょじょうめるが、城主じょうしゅ天野あまのけいぬき奇襲きしゅうにより敗退はいたいする。どう時期じき武田たけだ内通ないつうしていたとして、家臣かしん大岡おおおか弥四郎やしろうらをとらえ、のこ処刑しょけいした。この大岡おおおか弥四郎やしろう事件じけんについては、築山殿ちくやまどの参画さんかくしており武田たけだへの内通ないつう中心ちゅうしん人物じんぶつだったとのせつとなえられている。

信長のぶなが家康いえやすへの支援しえん後手ごてまわったが、天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ長篠ながしのたたかでは主力しゅりょくって武田たけだたたかい、武田たけだ宿老しゅくろうそう主要しゅよう家臣かしん数多かずおおうしな大敗たいはいきっし、駿河するが領国りょうごく動揺どうよう外交がいこう方針ほうしん転換てんかん余儀よぎなくさせた。一方いっぽう家康いえやす戦勝せんしょうじょうじて光明こうみょういぬきょ二俣ふたまたといったしろ奪取だっしゅ攻略こうりゃくし、こと諏訪原すわはらじょう奪取だっしゅしたことでこう天神てんじんじょう大井川おおいがわ沿いの補給ほきゅうふうじ、武田たけだへの優位ゆういきずいた。

なお、家康いえやす長篠ながしの城主じょうしゅ奥平おくだいらしんあきらしんあきらいみなしん」は従来じゅうらい信長のぶながの「しん」をこのとき拝領はいりょうしたものとされていたが、近年きんねん信玄しんげん従属じゅうぞくしたときいち拝領はいりょうけたせつもある)の戦功せんこうたいする褒美ほうびとして、名刀めいとうだい般若はんにゃ長光ちょうこうさづけてしょうした。そのうえ、翌年よくねんには長女ちょうじょかめひめ正室せいしつとしてとつがせている。だが、このころから、信長のぶながとの関係かんけい対等たいとうではなくなり、信長のぶなが主君しゅくんとする「一門いちもんじゅんずる織田おだ政権せいけんいち大名だいみょう」の立場たちばになる。軍事ぐんじ行動こうどうでもこれ以前いぜん将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき要請ようせいでの軍事ぐんじ援助えんじょという形式けいしきだったが、以後いご信長のぶなが臣下しんかとしてのさんぐんとなる[88]

天正てんしょう3ねん(1575ねん)、家康いえやす唐人とうじん五官ごかん五官ごかん通称つうしょうか)に浜松はままつ城下じょうか屋敷やしきしょやく免除めんじょみとめる朱印しゅいんじょう発行はっこうしており、かかづかみなと上流じょうりゅう馬込川まごめがわ中国ちゅうごく商船しょうせん来航らいこうして浜松はままつ城下じょうかにて貿易ぼうえきおこなっていたことがられている。五官ごかんは『慶長けいちょう見聞けんぶんろく』にも登場とうじょうしており、五官ごかん唐人とうじんはその家康いえやすしたがって江戸えど移住いじゅうしたとみられている[89]天正てんしょう5ねん1577ねん)2がつ以降いこうおそくても翌年よくねん4がつまでに花押かおうあらためている。家康いえやす元服げんぷく以来いらいえいろく6ねん家康いえやす改名かいめいともな全面ぜんめんてき変更へんこう前述ぜんじゅつ)をふくめて度々たびたび花押かおう変更へんこうおこなってきたが、このとき変更へんこうされた花押かおうさい晩年ばんねんまでもちいられることになる[70]

天正てんしょう6ねん1578ねん)、越後えちご上杉うえすぎ急死きゅうしした上杉うえすぎ謙信けんしん後継こうけいしゃあらそ御館みたてらん発生はっせいし、武田たけだ勝頼かつより北信濃きたしなの出兵しゅっぺいらん介入かいにゅうする。謙信けんしん養子ようしである上杉うえすぎ景勝かげかつ謙信けんしんおい)が勝頼かつせむすんでらんせいし、おなじく養子ようし上杉うえすぎ景虎かげとら謙信けんしんめい婿むこのち北条ほうじょう出身しゅっしん)をはいさせたことで武田たけだ北条ほうじょうあいだかぶとしょう同盟どうめい破綻はたんした。よく天正てんしょう7ねん1579ねん)9がつ北条ほうじょう家康いえやす同盟どうめいむすぶ。このあいだ家康いえやす横須賀よこすかじょうなどをきずき、多数たすうづけじょうによってこう天神てんじんじょうへのけを強化きょうかした。

またおなじころ、信長のぶながから正室せいしつ築山殿ちくやまどの嫡男ちゃくなん松平まつだいら信康のぶやすたいして武田たけだへの内通ないつう疑惑ぎわくがかけられたとされる。家康いえやす酒井さかい忠次ただつぐ使者ししゃとして信長のぶなが談判だんぱんさせたが、信長のぶながからの詰問きつもん忠次ちゅうじおおむみとめたために信康のぶやす切腹せっぷく通達つうたつされ、家康いえやす熟慮じゅくりょすえ信長のぶながとの同盟どうめい関係かんけい維持いじ優先ゆうせんし、築山殿ちくやまどの殺害さつがいし、信康のぶやす切腹せっぷくさせたという。だが、この通説つうせつには疑問ぎもんてんおおく、より信頼しんらいせいたか史料しりょうでは信長のぶながは「信康のぶやすころせ」とはっておらず「家康いえやすおもどおりにせよ」とっており、近年きんねんでは築山殿ちくやまどの殺害さつがい信康のぶやす切腹せっぷく家康いえやす信康のぶやす父子ふし対立たいりつ原因げんいんとするせつや、築山殿ちくやまどの信康のぶやす実際じっさい武田たけだ内通ないつうして家康いえやすへの謀反むほんたくらんだとするせつされている[90][91][92][93][94][95]。なお家康いえやす本人ほんにんほり秀政ひでまさあてに「今度こんど左衛門尉さえもんのじょう(酒井さかい忠次ただつぐ)をもってもうこうしょ種々しゅじゅねんごだんりなしゆえこうかたじけなそんこう。よって三郎さぶろう覚悟かくごいて、よんにち岡崎おかざきもうこうなおおもむき小栗ささぐり大六だいろく成瀬なるせふじはち(国次くにつぐ)もうはいるべきにこう恐々きょうきょう謹言きんげん」としている[96]松平まつだいら信康のぶやす#信康のぶやす自刃じじん事件じけんについてこう参照さんしょう)。

岩村いわむらじょうたたか以降いこう織田おだ武田たけだだい規模きぼこうそうをしておらず、こう北条ほうじょうとの対立たいりつをもかかえることにもなった勝頼かつより人質ひとじちにしていた信長のぶなが五男いつお勝長かつなが返還へんかんするなど織田おだとの和睦わぼくきのえこうかずあずか)を模索もさくしている。しかし、信長のぶながはこれを黙殺もくさつし、天正てんしょう9ねん1581ねん)、降伏ごうぶく開城かいじょうふうじたうえでのそう攻撃こうげきによって家康いえやすこう天神てんじんじょう奪回だっかいする(こう天神てんじんじょうたたか)。高天こうてん神城かみしろ落城らくじょう、しかも後詰ごづめおくらず見殺みごろしにしたことは武田たけだ威信いしん致命ちめいてき失墜しっついさせ、国人くにびとしゅおおきく動揺どうようした。木曾きそ義昌よしまさ調しらべりゃく成功せいこうをきっかけに、天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ信長のぶなが家康いえやす共同きょうどう武田たけだりょう本格ほんかくてき侵攻しんこう開始かいしした。織田おだぐん信濃しなの方面ほうめんからの侵攻しんこう呼応こおうして徳川とくがわぐん駿河するが方面ほうめんから侵攻しんこうし、甲斐かい南部なんぶ河内かわうちりょう駿河するが江尻えじり領主りょうしゅ穴山あなやましんくん梅雪ばいせつ)を調しらべりゃくによって離反りはんさせるなどして駿河するがりょう確保かくほした。勝頼かつせいちぎょう同年どうねん3がつ天目山てんもくざん自害じがいして武田たけだ滅亡めつぼうした。最後さいごまで抵抗ていこうした武田たけだかたあししんじしげる依田よだしんしげる)がまも田中たなかしろ成瀬なるせ正一しょういちらの説得せっとくにより大久保おおくぼ忠世ただよわたされた。

家康いえやすは3がつ10日とおかしんくんとともに甲府こうふ着陣ちゃくじんしており、信長のぶなが甲斐かい仕置しおきおこなうと中道ちゅうどう往還おうかん通過つうかして帰還きかんしている(甲州こうしゅう征伐せいばつ)。

家康いえやすはこの戦功せんこうにより駿河するがこく庵原いはらぐん江尻えじり穴山あなやましんくんりょう)をあたえられ、駿府すんぷにおいて信長のぶなが接待せったいしている。家康いえやすはこの接待せったいのために莫大ばくだい私財しざいとうじて街道かいどう整備せいび宿しゅくかん造営ぞうえいした。信長のぶながはこの接待せったいをことのほかよろこんだ。

またおそくともこのころには、三河みかわ一向いっこう一揆いっきおり出奔しゅっぽんした本多ほんだ正信まさのぶが、徳川とくがわ正式せいしき帰参きさんしている(正式せいしき帰参きさん時期じき不明ふめいで、姉川あねがわたたかいのころにすで帰参きさんしていたとも)。

本能寺ほんのうじへん天正てんしょうみずのえうまらん

編集へんしゅう

天正てんしょう10ねん(1582ねん)5がつ21にち駿河するが拝領はいりょうれいのため、信長のぶながまねきにおうじて降伏ごうぶくした穴山あなやましんくんとともに居城きょじょう安土あづちじょうおとずれ、だい接待せったいけた。このさい秀吉ひでよしより援軍えんぐん要請ようせいがあった信長のぶながみずか出陣しゅつじんすることをめたが、家康いえやすもこれにしたが帰国きこく軍勢ぐんぜいととのえて西国さいこく出陣しゅつじんする予定よていだった。

6月2にちさかい遊覧ゆうらんちゅうきょう本能寺ほんのうじへんこった。このときの家康いえやすきょう小姓こしょうしゅうなどしょう人数にんずうであったためきわめて危険きけん状態じょうたいとなり、一時いちじ狼狽ろうばいして信長のぶながのちおうとするほどであった。しかし本多ほんだ忠勝ただかつ説得せっとくされて翻意ほんいし、服部はっとり半蔵はんぞう進言しんげんけ、伊賀いがこくけわしい山道さんどう加太かだえつ伊勢いせこくから海路かいろ三河そうごこくかろうじてもどった(神君しんくん伊賀越いがごえ)。帰国きこく家康いえやすただちにへいひきいて上洛じょうらくしようとしたが、鳴海なるみ秀吉ひでよし光秀みつひでったほうけてかえした。穴山あなやましんくん帰国きこく途中とちゅう戦死せんししたため、駿河するがこく江尻えじり併呑へいどんした。

一方いっぽう織田おだ領国りょうごくとなっていたきゅう武田たけだりょう甲斐かいこく信濃しなのこくでは大量たいりょう一揆いっきこった。さらに、越後えちごこく上杉うえすぎ相模さがみこく北条ほうじょうきゅう武田たけだりょうへの侵攻しんこう気配けはいせた。きゅう武田たけだ領国りょうごくのうち上野うえのいちこく信濃しなの小県ちいさがたぐん佐久さくぐん支配しはいになっていた滝川たきがわ一益かずますは、きゅう武田たけだりょうおさめてまだ3かげつほどしかっておらず、ぐん編成へんせいんでいなかったことや、武田たけだ遺臣いしんによる一揆いっき相次あいついで勃発ぼっぱつしたため、滝川たきがわ配下はいかであった信濃しなのこく森長もりなが毛利もうり秀頼ひでより領地りょうち畿内きない敗走はいそうした。また、甲斐かいいちこく信濃しなの諏訪すわぐん支配しはいになったかわしり秀隆ひでたか一揆いっきぜいやぶ戦死せんしするなど緊迫きんぱくした状況じょうきょうにあった。ちをかけるように、織田おだ同盟どうめい関係かんけいきずいていた北条ほうじょう一方いっぽうてき同盟どうめいやぶり、北条ほうじょう氏直うじなおひきいる6まんぐん武蔵むさし上野うえの国境こっきょう襲来しゅうらいした。滝川たきがわ一益かずます北条ほうじょう氏直うじなお迎撃げいげき緒戦しょせん勝利しょうりするも敗北はいぼく尾張おわりこくまで敗走はいそうした。このため、甲斐かい信濃しなの上野うえの領主りょうしゅのいない空白くうはく地帯ちたいとなり、家康いえやす武田たけだ遺臣いしん岡部おかべただしつな依田よだしんしげる甲斐かいこく辺境へんきょう武士ぶしだんである武川たけかわしゅうらを先鋒せんぽうとし、みずからも8,000にん軍勢ぐんぜいひきいて甲斐かいこくはいった(天正てんしょうみずのえうまらん)。

一方いっぽう甲斐かい信濃しなの上野うえの空白くうはく地帯ちたいとなったのを北条ほうじょう氏直うじなおも、叔父おじ北条ほうじょう氏規うじのり北条ほうじょう氏照うじてるら5まん5,000にん軍勢ぐんぜいひきいて碓氷峠うすいとうげえて信濃しなのこく侵攻しんこうした。北条ほうじょうぐん上杉うえすぎぐん川中島かわなかじま対峙たいじしたのち和睦わぼくし、みなみ進軍しんぐんした。家康いえやす甲府こうふみことからだてら一条いちじょうしんりゅう屋敷やしき本陣ほんじんいていたが、しんじょう韮崎にらさき中田なかだまち中條ちゅうじょう)に本陣ほんじんうつすと七里しちりいわたいじょう城砦じょうさいぐん布陣ふじんし、若神子わかみこじょうきたもり須玉すたままち若神子わかみこ)に本陣ほんじん北条ほうじょうぜい対峙たいじした。

ここに徳川とくがわぐん北条ほうじょうぐん全面ぜんめん対決たいけつ様相ようそうていしたが、依田よだしんしげる調しらべりゃくけて滝川たきがわ配下はいかから北条ほうじょう転身てんしんしていた真田さなだ昌幸まさゆき徳川とくがわぐん再度さいど寝返ねがえり、その執拗しつようゲリラ戦法せんぽうまえ戦意せんい喪失そうしつした北条ほうじょうぐんは、いた岡江おかえゆきとき使者ししゃとして家康いえやす和睦わぼくもとめた。和睦わぼく条件じょうけんは、上野うえのこく北条ほうじょうが、甲斐かいこく信濃しなのこく徳川とくがわがそれぞれ領有りょうゆうし、家康いえやす次女じじょとくひめ氏直うじなおとつぐというものであった。こうして、家康いえやす北条ほうじょう縁戚えんせき同盟どうめい関係かんけいむすび、同時どうじ甲斐かい信濃しなの北信濃きたしなのよんぐん上杉うえすぎりょう)・駿河するが遠江とおとうみ三河みかわ碧海あおみぐん矢作川やはぎかわ以西いせい)をのぞ[97])の5かこく領有りょうゆうするだい大名だいみょうへとのしがった。

小牧こまき長久手ながくてたたかいから豊臣とよとみ政権せいけんへの臣従しんじゅう

編集へんしゅう
 
豊臣とよとみ秀吉ひでよし

信長のぶなが死後しご織田おだ政権せいけんにおいては織田おだ家臣かしん羽柴はしば秀吉ひでよし台頭たいとうし、秀吉ひでよし信長のぶなが次男つぐお織田おだ信雄のぶおむすび、天正てんしょう11ねん1583ねん)には織田おだ筆頭ひっとう家老がろうであった柴田しばた勝家かついえ賤ヶだけたたかやぶり、勝家かついえむすんだ信長のぶなが三男みつお織田おだ信孝のぶたか自害じがいさせることで、さらに影響えいきょうりょくつよめた。家康いえやす賤ヶだけたたかった秀吉ひでよしに、戦勝せんしょういわいとして松平まつだいらちかしたく入手にゅうしゅした茶器ちゃきはつはなおくった。また本能寺ほんのうじへん光秀みつひで加担かたんしたうたがいで京都きょうとからのがれてきたもと関白かんぱく近衛このえぜんひさ家康いえやす保護ほごしていたが、秀吉ひでよし交渉こうしょうして近衛このえ無事ぶじ帰洛きらくさせることができた。

しかし天正てんしょうみずのえうまらんにおいて家康いえやす北条ほうじょうあいだ仲裁ちゅうさいした織田おだ信雄のぶおが、賤ヶだけたたか織田おだ政権せいけんにおいては信長のぶなが嫡孫ちゃくそんさん法師ほうし織田おだ秀信ひでのぶ)を推戴すいたいする秀吉ひでよし対立たいりつするようになると、信雄のぶお家康いえやす接近せっきんして秀吉ひでよし対抗たいこうすることとなった(『岩田いわた覚書おぼえがき』)。

天正てんしょう12ねん1584ねん)3がつ信雄のぶおしゅう吉方えほうつうじたとする家老がろう粛清しゅくせいした事件じけん契機けいき合戦かっせんこり、家康いえやすは3がつ13にち尾張おわりこく出兵しゅっぺい信雄のぶお合流ごうりゅうする。当初とうしょりょういきおいきた伊勢いせ方面ほうめん出兵しゅっぺいしていたが、17にちには徳川とくがわ家臣かしん酒井さかい忠次ただつぐしゅう吉方えほう森長もりなが撃破げきはし(羽黒はぐろたたかい)、家康いえやすは28にち尾張おわりこく小牧こまき小牧山こまきやま)に着陣ちゃくじんした。

秀吉ひでよしひきいる羽柴はしばぐん本隊ほんたいは、尾張おわり犬山いぬやましろ陥落かんらくさせると楽田がくでん布陣ふじんし、4がつはじめには森長もりなが池田いけだひさしきょうらが三河そうごこく出兵しゅっぺいした。4月9にちには長久手ながくてにおいてりょうぐん激突げきとつし、徳川とくがわぐんもり池田いけだぜい撃退げきたいした(小牧こまき長久手ながくてたたか)。「家康いえやすおおやけ天下てんかるはだいさかにあらずして関ケ原せきがはらにあり。関ケ原せきがはらにあらずして小牧こまきにあり」といわれた[98]

小牧こまき長久手ながくてたたかいは羽柴はしば徳川とくがわりょうぐん全面ぜんめん衝突しょうとつのないまま推移すいいし、一方いっぽう家康いえやす北条ほうじょう土佐とさこく長宗我部ちょうそかべ遠方えんぽうしょ大名だいみょう迎合げいごうし、秀吉ひでよしもこれにたいして越後えちごこく上杉うえすぎ安芸あきこく毛利もうり常陸ひたちこく佐竹さたけ徳川とくがわ対抗たいこうするしょ勢力せいりょくびかけ、外交がいこうせん様相ようそうていしていった。秀吉ひでよし家康いえやす信雄のぶお双方そうほう同年どうねん9がつ和睦わぼくし、講和こうわ条件じょうけんとして、家康いえやす次男じなん・於義まる結城ゆうき秀康ひでやす)を秀吉ひでよし養子ようし徳川とくがわ本願寺ほんがんじ認識にんしき秀吉ひでよしがわ認識にんしき人質ひとじち)とした。

戦後せんご和議わぎ秀吉ひでよし優位ゆういであったとされる。えつ中国ちゅうごく佐々ささしげるせいみずから、厳冬げんとう飛騨山脈ひださんみゃくえて浜松はままつ家康いえやすたずね、秀吉ひでよしとのたたかいの継続けいぞくうったえたが、家康いえやす承諾しょうだくしなかった。天正てんしょう13ねん1585ねん)にはいると、紀伊きいこく雑賀さいかしゅう土佐とさこく長宗我部ちょうそかべ元親もとちかえつ中国ちゅうごく佐々ささしげるせいら、小牧こまき長久手ながくてたたかいにおいて家康いえやす迎合げいごうしたしょ勢力せいりょく秀吉ひでよし服属ふくぞくしている。さらに秀吉ひでよしは7がつ11にち関白かんぱく補任ほにんされ、豊臣とよとみ政権せいけん確立かくりつする。

これにたいして家康いえやすは、東国とうごくにおいて武田たけだのこりょう甲斐かい信濃しなのふくめた5かこく領有りょうゆう相模さがみこく北条ほうじょうとも同盟どうめい関係かんけいきずいていたが、北条ほうじょうとの同盟どうめい条件じょうけんである上野うえのこく沼田ぬまた群馬ぐんまけん沼田ぬまた)の割譲かつじょうたいして、沼田ぬまた領有りょうゆうしていた信濃しなのこく上田うえだしろおも真田さなだ昌幸まさゆき上杉うえすぎ秀吉ひでよしかた帰属きぞくして抵抗ていこうした。家康いえやす大久保おおくぼ忠世ただよ鳥居とりい元忠もとただ平岩ひらいわちかしきちらの軍勢ぐんぜい派兵はへいして上田うえだめるが、昌幸まさゆき抵抗ていこう上杉うえすぎ増援ぞうえんなどにより撤兵てっぺいしている(だいいち上田うえだ合戦かっせん)。

勢力せいりょくけん拡大かくだい一方いっぽうで、徳川とくがわ領国りょうごくでは天正てんしょう11ねん(1583ねん)から12ねん(1584ねん)にかけて地震じしん大雨おおあめ見舞みまわれ、とく天正てんしょう11ねん5がつから7がつにかけて関東かんとう地方ちほうから東海とうかい地方ちほういちえんにかけてだい規模きぼ大雨おおあめ相次あいつぎ、徳川とくがわ領国りょうごくも「50年来ねんらい大水おおみず[99]見舞みまわれた。その状況じょうきょう北条ほうじょう豊臣とよとみ政権せいけんとのたたかいをせざるをなかった徳川とくがわ領国りょうごく打撃だげき深刻しんこくで、三河みかわ国田くにたげんにあるりゅうもんてら歴代れきだい住持じゅうじしるしたとされる『りゅうもんてらよりどころ実記じっき』には、天正てんしょう12ねん小牧こまき長久手ながくてたたかいでおおくの人々ひとびと動員どういんされた結果けっか田畑たはた荒廃こうはい飢饉ききんまねいてのこされた老少ろうしょうみずかいのちったとしるしている。徳川とくがわ領国りょうごく荒廃こうはい豊臣とよとみ政権せいけんとのたたかいの継続けいぞく困難こんなんにし、国内こくないなおしをせまられることになる[100]

家康いえやす豊臣とよとみ政権せいけんへの臣従しんじゅうまでの経緯けいいは『いえちゅう日記にっき』にしるされているが、こうした情勢じょうせいなか同年どうねん9がつ秀吉ひでよし家康いえやすたいしてさらなる人質ひとじちしをもとめ、徳川とくがわ家中かちゅう酒井さかい忠次ただつぐ本多ほんだ忠勝ただかつ豊臣とよとみ政権せいけんたいする強硬きょうこう石川いしかわすうただし融和ゆうわ分裂ぶんれつし、さらに秀吉ひでよしかたとの和睦わぼく風聞ふうぶん北条ほうじょうとの関係かんけい緊張きんちょうしょうじさせていたという。同年どうねん11がつ13にちには石川いしかわすうせい出奔しゅっぽんして秀吉ひでよし帰属きぞくする事件じけん発生はっせいする。この事件じけん徳川とくがわぐん機密きみつ筒抜つつぬけになったことから、軍制ぐんせい刷新さっしん武田たけだぐん見習みならったものに改革かいかくしたという(『駿河するが土産みやげ』)。

天正てんしょう14ねん1586ねん)にはいると秀吉ひでよし織田おだ信雄のぶおつうじて家康いえやす懐柔かいじゅうこころみ(『当代とうだい』)、4がつ23にちには臣従しんじゅう要求ようきゅうこばつづける家康いえやすたいして秀吉ひでよし実妹じつまい朝日あさひひめ南明なんめいいん)を正室せいしつとしてし、5月14にち家康いえやすはこれをしつとしてむかえ、秀吉ひでよし家康いえやす義兄弟ぎきょうだいとなる[注釈ちゅうしゃく 31]。さらに10がつ18にちには秀吉ひでよし生母せいぼ大政所おおまんどころ朝日あさひひめ見舞みまいとして岡崎おかざきおくると、24にち家康いえやす浜松はままつ出立しゅったつ上洛じょうらくしている。ただし、天正てんしょう14ねん正月しょうがつ織田おだ信雄のぶお岡崎おかざきじょう訪問ほうもんしたさい家康いえやす秀吉ひでよし臣従しんじゅうする内意ないい表明ひょうめいし(『貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき』)、2がつには秀吉ひでよしから一柳いちりゅうただしまつたいして家康いえやす赦免しゃめんすることにしたので家康いえやす討伐とうばつ命令めいれい中止ちゅうしになったことをつたえる朱印しゅいんじょう送付そうふされている(『一柳いちりゅう文書ぶんしょ』)。このため、朝日あさひひめとの婚姻こんいん家康いえやす臣従しんじゅうけた対応たいおうともかんがえられる。なお、家康いえやす臣従しんじゅうから上洛じょうらくまでの間隔かんかくひらいた背景はいけいとして、家康いえやすから秀吉ひでよし離反りはんした信濃しなのこくくにしゅ3めい木曽きそ義昌よしまさ小笠原おがさわら貞慶じょうけい真田さなだ昌幸まさゆき)のあつかいをめぐ調整ちょうせい必要ひつようとしたこともかんがえられる。実際じっさいに7がつ家康いえやすしたがわない真田さなだ昌幸まさゆき討伐とうばつうごきがあり、よく8がつ上杉うえすぎ景勝かげかつ嘆願たんがん家康いえやす昌幸まさゆき赦免しゃめんして昌幸まさゆき家康いえやす与力よりき大名だいみょうとなることが確定かくていしている。しば裕之ひろゆき大政所おおまんどころ岡崎おかざき訪問ほうもん家康いえやす上洛じょうらくちゅうしゅう吉方えほう危害きがいくわえられることをおそれる家康いえやす徳川とくがわ家中かちゅうたいする配慮はいりょであったとしている。また、同年どうねん9がつ11にち家康いえやす本拠地ほんきょち浜松はままつじょうから駿府すんぷじょううつしているのも、秀吉ひでよし臣従しんじゅうえに5かこく安堵あんどみとめたことをきっかけにしているとしている[102]

家康いえやすは10月26にちだいさか到着とうちゃく豊臣とよとみ秀長ひでながやしき宿泊しゅくはくした。そのよるには秀吉ひでよし本人ほんにん家康いえやすひそかにいにきて、あらためて臣従しんじゅうもとめた。こうして家康いえやす完全かんぜん秀吉ひでよしくっすることとなり、10月27にちだい坂城さかきにおいて秀吉ひでよし謁見えっけんし、しょ大名だいみょうまえ豊臣とよとみ臣従しんじゅうすることを表明ひょうめいした。この謁見えっけんさい家康いえやすは、秀吉ひでよし着用ちゃくようしていた陣羽織じんばおり所望しょもうし、今後こんご秀吉ひでよし陣羽織じんばおり合戦かっせん指揮しきるようなことはさせない、という意思いししめ諸侯しょこうまえ忠誠ちゅうせいちかった(徳川とくがわ実紀みき[注釈ちゅうしゃく 32]

豊臣とよとみ家臣かしん時代じだい関東かんとうへのうつりふう

編集へんしゅう

天正てんしょう14ねん1586ねん)11月1にちきょうのぼり、11月5にちせいさんじょされる。このとき、おおくの家康いえやす家臣かしん叙任じょにんされた[104][105]。11月11にちには三河そうごこく帰還きかんし、11月12にちには大政所おおまんどころ秀吉ひでよしもとおくかえしている。12月4にち本城ほんじょうを17年間ねんかんごした浜松はままつじょうから隣国りんごく駿河するがこく駿府すんぷじょううつした。5かこく支配しはい安定あんてい今後こんごの「関東かんとうそう無事ぶじ」のための拠点きょてんとして駿府すんぷ重要じゅうよう場所ばしょであった[106]。 これは、出奔しゅっぽんした石川いしかわすうせい浜松はままつじょう軍事ぐんじ機密きみつくしていたため、それにそなえたとするせつがある。

天正てんしょう15ねん1587ねん)8がつふたた上洛じょうらくし、秀吉ひでよし推挙すいきょにより、朝廷ちょうていから8がつ8にちしたがえけん大納言だいなごん叙任じょにんされ、所領しょりょうから駿河するが大納言だいなごんばれた。このさい秀吉ひでよしから羽柴はしば名字みょうじ下賜かしされた[104][105]

同年どうねん12がつ3にち豊臣とよとみ政権せいけんより関東かんとうおく両国りょうこくそう無事ぶじれいされ、家康いえやす関東かんとうおく両国りょうこく陸奥みちのくこく出羽でわこく)の監視かんしたくされた。12月28にち秀吉ひでよし推挙すいきょにより、朝廷ちょうていからひだり近衛このえ大将たいしょうおよびひだりりょうかんにんぜられる[注釈ちゅうしゃく 33]。このことにより、このころの家康いえやす駿府すんぷひだり大将たいしょうばれた[よう出典しゅってん]

家康いえやす北条ほうじょう縁戚えんせき関係かんけいにある経緯けいいから、北条ほうじょう氏政うじまさ氏直うじなお父子ふしての5がつ21にちづけ起請文きしょうもん[107]で、以下いか内容ないよう北条ほうじょう秀吉ひでよしへの恭順きょうじゅんうながした。

  1. 家康いえやす北条ほうじょう親子ちかこのことを讒言ざんげんせず、北条ほうじょうぶんこく領国りょうごく)を一切いっさいのぞまない
  2. 今月こんげつちゅう兄弟きょうだいしゅ京都きょうと派遣はけんする
  3. 豊臣とよとみへの出仕しゅっし拒否きょひする場合ばあいむすめ氏直うじなおとついだとくひめ)を離別りべつさせる

家康いえやす仲介ちゅうかいは、氏政うじまさおとうとであり家康いえやす旧友きゅうゆうでもある北条ほうじょう氏規うじのり上洛じょうらくさせるなど、ある程度ていど成果せいかげたが、北条ほうじょう氏直うじなお秀吉ひでよし臣従しんじゅうすることにおうじなかった。天正てんしょう18ねん1590ねん)1がつ家康いえやす嫡男ちゃくなんとみなされていた三男さんなんちょうまる秀忠ひでただ)を上洛じょうらくさせて事実じじつじょう人質ひとじちとさせることであらためて秀吉ひでよしへの臣従しんじゅう意思いし明確めいかくにして北条ほうじょう事実じじつじょう断交だんこうし、これをけた秀吉ひでよし北条ほうじょう討伐とうばつ開始かいし家康いえやす豊臣とよとみぐん先鋒せんぽうつとめるととも自分じぶんしろ提供ていきょうし、4がつには吉川よしかわひろ豊臣とよとみしろばんとして岡崎おかざきじょう入城にゅうじょうしている(小田原おだわら征伐せいばつ[101]

なお、これに先立さきだって天正てんしょう17ねん1589ねん)7がつから翌年よくねんにかけて「ヶ国かこくそう検地けんち」としょうせられるだい規模きぼ検地けんち断行だんこうする。これは想定そうていされる北条ほうじょう討伐とうばつたいする準備じゅんびであると同時どうじに、領内りょうない徹底てっていした実情じつじょう把握はあく目指めざしたものである。この直後ちょくご秀吉ひでよしによって関東かんとう領地りょうちうつりふうされてしまい、成果せいかかすことはできなかったが、ここで知識ちしき経験けいけんしん領地りょうち関東かんとう統治とうちかされた。

天正てんしょう18ねん(1590ねん)7がつ5にち北条ほうじょう降伏ごうぶく秀吉ひでよし命令めいれいで、駿河するがこく遠江とおのえこく三河そうごこく甲斐かいこく信濃しなのこく上杉うえすぎりょう川中島かわなかじまのぞく)の5かこくげられ、北条ほうじょう旧領きゅうりょうである武蔵むさしこく伊豆いずこく相模さがみこく上野うえのこく上総かずさこく下総しもうさこく下野げやこく一部いちぶ常陸ひたちこく一部いちぶせきはちしゅううつりふうされた。石高こくだかやく240まんせきで、さらに上洛じょうらくさい費用ひよう在京ざいきょうまかないりょう)として、近江おうみこく伊勢いせこく遠江とおのえこく駿河するがこくのうちでやく11まんせきあたえられた[108]家康いえやす関東かんとううつりふううわさ戦前せんぜんからあり[注釈ちゅうしゃく 34]家康いえやす北条ほうじょうとの交渉こうしょうで、自分じぶんには北条ほうじょうりょうへの野心やしんはないことを弁明べんめいしていたが[107]結局けっきょく北条ほうじょうきゅう領国りょうごくうつされることになった。

秀吉ひでよし関東かんとう奥羽おううそう無事ぶじという目的もくてき達成たっせいするために家康いえやす関東かんとう安定あんてい奥羽おううおさえを期待きたいしたとかんがえられている。一方いっぽう家康いえやす豊臣とよとみ政権せいけんから政治せいじてき軍事ぐんじてき保護ほごている以上いじょううつりふう拒絶きょぜつすることは出来できなかった[111]。ただし、関東かんとううつりふうかんしては流動的りゅうどうてき側面そくめんがあり、その奥羽おうう情勢じょうせい悪化あっかともなって陸奥みちのくこくへのさいうつりふううわさ徳川とくがわ家中かちゅうながれている(『いえちゅう日記にっき天正てんしょう20ねん2がつ6にちじょう[112]

このうつりふうによってさんとお駿しゅん甲信こうしん上杉うえすぎ北信ほくしんのぞく)119まんせき[113]徳川とくがわ家内かないの「ヶ国かこくそう検地けんち」ではだか150まんせきとも)から関東かんとう250まんせき家康いえやす240まんせきおよび結城ゆうき秀康ひでやす10まんせき合計ごうけい)へのるいない大幅おおはば加増かぞうけたことになるが、徳川とくがわえんふか三河そうごこくうしない、さらに当時とうじ関東かんとうには北条ほうじょう残党ざんとうなどによって不穏ふおんうごきがあり、しかも北条ほうじょうよんおおやけろくみんという当時とうじとしてはきわめてひく税率ぜいりつ採用さいようしており、これをむやみにげるわけにもいかず、石高いしたかほどにはじつ収入しゅうにゅう見込みこめない状況じょうきょうであった。こういった事情じじょうから、このうつりふう秀吉ひでよし家康いえやすたいする優遇ゆうぐうさく冷遇れいぐうさくかという議論ぎろんふるくからある。阿部あべ能久よしひさは、鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ以来いらい西国さいこく政権せいけん東国とうごく一元いちげん支配しはいしたれいく、古河ふるかわ公方くぼう断絶だんぜつとともに機能きのう停止ていししていた室町むろまち幕府ばくふ鎌倉かまくら同様どうよう役割やくわり東国とうごくつうじた家康いえやすによってになわせようとしたと考察こうさつしている[114]。この命令めいれいしたがって関東かんとううつり、北条ほうじょう本城ほんじょうとした相模さがみ小田原おだわらじょうではなく、武蔵むさし江戸城えどじょう居城きょじょうとした。なお、小田原おだわら合戦かっせんちゅう秀吉ひでよしみずからの「御座所ござしょ」を江戸えどもうける構想こうそうしめしており(「富岡とみおか文書ぶんしょ」)、江戸城えどじょう家康いえやす本拠地ほんきょちとしたのも秀吉ひでよし積極せっきょくてき意向いこう関与かんよしていた[115]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)8がつ1にち家康いえやす江戸えど入城にゅうじょうした(江戸えどいれ[116][注釈ちゅうしゃく 35]。この正式せいしき入城にゅうじょうしたであり、これ以前いぜんにも、視察しさつのため江戸えどはいっている[116]

家康いえやすは、関東かんとう統治とうちさいして、有力ゆうりょく家臣かしん重要じゅうようささえじょう配置はいちする[注釈ちゅうしゃく 36]とともに、100まんせきあまりといわれる直轄ちょっかつには大久保おおくぼ長安ながやす伊奈いな忠次ただつぐ長谷川はせがわちょうつな彦坂ひこさか元正がんしょう向井むかいただしつな成瀬なるせ正一しょういち日下部くさかべじょうこのみ有能ゆうのう家臣かしん代官だいかんなどに抜擢ばってきすることによってなんなく統治とうちし、関東かんとうはこれ以降いこう現在げんざいいたるまでおおきく発展はってんげることとなる。ちなみに、関東かんとうにおけるよんおおやけろくみんという北条ほうじょうさだめたてい税率ぜいりつは、徳川とくがわ吉宗よしむねとおる改革かいかくげられるまで継承けいしょうされた。

家康いえやすによってはいされた有力ゆうりょく家臣かしんたちは以下いかとおりである。

国名こくめい 領地りょうちめい 石高いしたか 家臣かしんめい 備考びこう
上野うえのこく 箕輪みのわのち高崎たかさき 12まんせき 井伊いい直政なおまさ
館林たてばやし 10まんせき 榊原さかきばら康政やすまさ
厩橋うまやばし 3.3まんせき 平岩ひらいわちかしきち
白井しらい 3.3まんせき 本多ほんだかんしげる ただし、1.3まんせきちちこうこうぶんとされる。
宮崎みやざき小幡おばた 3まんせき 奥平おくだいらしんあきら
藤岡ふじおか 3まんせき 依田よだやすしかち
大胡おおご 2まんせき 牧野まきの康成やすなり
吉井よしい 2まんせき 菅沼すがぬまじょう
総社そうじゃ 1.2まんせき 諏訪すわよりゆきすい よりゆきただしせつもある。
1まんせき 松平まつだいらじょう
下野げやこく 皆川みなかわ 1まんせき 皆川みなかわひろあきら
下総しもうさこく 結城ゆうきけん常陸ひたち国内こくない土浦つちうら 10.1まんせき 結城ゆうき秀康ひでやす
矢作やさく 4まんせき 鳥居とりい元忠もとただ
臼井うすい 3まんせき 酒井さかい家次いえつぐ
古河ふるかわ 3まんせき 小笠原おがさわら秀政ひでまさ
関宿せきやど 2まんせき 松平まつだいらやすしもと
山崎やまざき 1.2まんせき おか部長ぶちょうもり かんつなせつもある。
あし阿知あち 1まんせき 木曾きそ義昌よしまさ
守谷もりや 1まんせき 菅沼すがぬまじょうせい
多古たこ 1まんせき 保科ほしなただしこう
佐倉さくら 1まんせき 三浦みうら義次よしじ 久能くのうはじめのうせつもある。
岩富いわとみ 1まんせき 北条ほうじょう氏勝うじかつ
武蔵むさしこく いわづけ岩槻いわつき 2まんせき 高力こうりききよしちょう
騎西きさいよせ西にし 2まんせき 松平まつだいらかんしげる
かわこし 1まんせき 酒井さかい重忠しげただ
小室こむろ 1まんせき 伊奈いな忠次ただつぐ
松山まつやま 1まんせき まつ平家ひらかひろ
にん 1まんせき まつ平家ひらかただし
羽生はぶ 1まんせき 大久保おおくぼ忠隣ただちか 2まんせきとも。
深谷ふかや 1まんせき 松平まつだいらかんただし
東方とうほう 1まんせき 戸田とだ康長やすなが
本庄ほんじょう 1まんせき 小笠原おがさわらしんみね
阿保あほ 1まんせき 菅沼すがぬまじょうみつる
八幡山はちまんやま 1まんせき 松平まつだいらきよしむね
上総かずさこく 大多喜おおたき 10まんせき 本多ほんだ忠勝ただかつ 当初とうしょまんとも。
久留里くるり 3まんせき 大須賀おおすが忠政ただまさ
佐貫さぬき 2まんせき 内藤ないとう家長かちょう
鳴戸なると成東なるとう 2まんせき 石川いしかわやすしどおり
相模さがみこく 小田原おだわら 4.5まんせき 大久保おおくぼ忠世ただよ
あまなわ 1まんせき 本多ほんだ正信まさのぶ
伊豆いずこく 韮山にらやま 1まんせき 内藤ないとう信成のぶなり

なお、小田原おだわら直前ちょくぜん天正てんしょう18ねん1がつ14にち前年ぜんねんより京都きょうと聚楽第じゅらくだいやまいせっていた朝日あさひひめ病死びょうしした。朝日あさひひめ徳川とくがわとの婚姻こんいん関係かんけいくなることを憂慮ゆうりょした秀吉ひでよし同月どうげつ自分じぶん養女ようじょであるしょうひめ実父じっぷ織田おだ信雄のぶお)をちょうまる秀忠ひでただ)と婚姻こんいんさせている(一説いっせつには婚約こんやくとも)。しかし、しょうひめ天正てんしょう19ねん1591ねん)7がつ早世そうせいしている。のち豊臣とよとみ秀勝ひでかつ死別しべつしたべつ養女ようじょ達子たつこ実父じっぷ浅井あさい長政ながまさ)を秀忠ひでただとつがせたのも、秀吉ひでよし家康いえやすおよ徳川とくがわ親族しんぞくとしてめたいというかんがえがあったと推測すいそくされる[119]

天正てんしょう19ねん(1591ねん6がつ20日はつか秀吉ひでよし奥州おうしゅうでの一揆いっき鎮圧ちんあつのため号令ごうれいをかけて豊臣とよとみ秀次しゅうじそう大将たいしょうとした奥州おうしゅうさい仕置しおきぐん編成へんせいした。家康いえやす秀次しゅうじぐんくわわり、葛西かさい大崎おおさき一揆いっき和賀わが稗貫ひえぬき一揆いっき仙北せんぼく一揆いっき藤島ふじしま一揆いっき九戸くのへ政実まさみらんなどの鎮圧ちんあつ貢献こうけんした。

ぶんろく元年がんねん1592ねん)から秀次しゅうじ関白かんぱくゆず太閤たいこうとなった秀吉ひでよし命令めいれいにより朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい開始かいしされるが、家康いえやす渡海とかいすることなく名護屋なごやしろざいじんしただけであった[注釈ちゅうしゃく 37]。『いえちゅう日記にっき』にはこのとき伊達だてまさしむね南部なんぶしんただし上杉うえすぎ景勝かげかつ佐竹さたけ義宣よしのぶ家康いえやす指揮しきにあったとしるしてある。このころの家康いえやす武蔵大むさしだい納言なごんとよばれた。

ぶんろく4ねん1595ねん)7がつに「秀次しゅうじ事件じけん」がきた。豊臣とよとみ政権せいけんるがすこのだい事件じけんけて、秀吉ひでよししょ大名だいみょう上洛じょうらくめいじ、事態じたい鎮静ちんせいはかった。家康いえやす秀吉ひでよし命令めいれい上洛じょうらくした。これ以降いこう開発かいはつ途上とじょう居城きょじょう江戸城えどじょうよりも伏見ふしみじょう滞在たいざいする期間きかんながくなっている。豊臣とよとみ政権せいけんにおける家康いえやす立場たちばたかまっていたのはあきらかだが、家康いえやす自身じしん政権せいけん中枢ちゅうすうくことにより中央ちゅうおう政権せいけん政治せいじ制度せいど直接ちょくせつまなぶことになった[120]

とく川内せんだい

編集へんしゅう

慶長けいちょう元年がんねん1596ねん)5がつ8にち秀吉ひでよし推挙すいきょにより内大臣ないだいじんにんぜられる。これ以後いご江戸えどうちばれる。

慶長けいちょう2ねん1597ねん)、ふたた朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい開始かいしされた。日本にっぽんぐん前回ぜんかい反省はんせいまえ、初期しょき攻勢こうせい以降いこう前進ぜんしんせず、朝鮮半島ちょうせんはんとう沿岸えんがん地盤じばんがために注力ちゅうりょくした。このときも家康いえやす渡海とかいしなかった。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)、秀吉ひでよしやまいたおれると、自身じしんぼつ豊臣とよとみ政権せいけん磐石ばんじゃくにするため、後継こうけいしゃである豊臣とよとみ秀頼ひでより補佐ほさするための大老たいろう奉行ぶぎょう制度せいどを7がつさだめ、大老たいろう一人ひとり家康いえやす任命にんめいした。8月に秀吉ひでよしぬと大老たいろう奉行ぶぎょう朝鮮ちょうせんからの撤退てったいめ、日本にっぽんぐん撤退てったいした。結果けっかてき家康いえやす兵力へいりょく財力ざいりょくなどの消耗しょうもうまぬかれ、自国じこくかためることができた[120]。しかし渡海とかい免除めんじょされたのは家康いえやすだけではなく、一部いちぶ例外れいがいのぞくと東国とうごく大名だいみょう名護屋なごや残留ざんりゅうであった。

秀吉ひでよし死後しご

編集へんしゅう

豊臣とよとみ秀吉ひでよし死後しご内大臣ないだいじん家康いえやす朝廷ちょうてい官位かんい最高さいこうになり、また秀吉ひでよしから「秀頼ひでより成人せいじんするまで政事せいじ家康いえやすたくす」という遺言ゆいごんけていたため大老たいろう筆頭ひっとうされるようになる。また生前せいぜん秀吉ひでよしによりぶんろく4ねん(1595ねん)8がつ禁止きんしさだめられた、合議ごうぎによる合意ごういないだい名家めいか同士どうし婚姻こんいんおこなう。婚約こんやくしたむすめは、すべ家康いえやす養女ようじょとし、その内容ないようつぎとおりである。

このころより家康いえやすは、細川ほそかわ忠興ただおき島津しまつ義弘よしひろ増田ますだちょうもりらの屋敷やしきにも頻繁ひんぱん訪問ほうもんするようになった。こうした政権せいけん運営うんえいをめぐって、大老たいろう前田まえだ利家としいえ奉行ぶぎょう石田いしだ三成みつなりらより「専横せんおう」との反感はんかんい、慶長けいちょう4ねん1599ねん)1がつ19にち家康いえやすたいしてさん中老ちゅうろう堀尾ほりお吉晴よしはるらが問罪もんざい使として派遣はけんされたが、吉晴よしはるらを恫喝どうかつしてかえした。利家としいえらと家康いえやすは2がつ2にちには誓書せいしょわし、利家としいえ家康いえやすを、家康いえやす相互そうご訪問ほうもん、さらに家康いえやす後述こうじゅつする伏見ふしみじょう治部じぶしょうまる直下ちょっかにある自身じしん屋敷やしきから、対岸たいがん向島むこうじまじょううつることでこのいちけん和解わかいとなった。

3月3にち利家としいえ病死びょうし直後ちょくご福島ふくしま正則まさのり加藤かとう清正きよまさ7しょうが、大坂おおさか屋敷やしき石田いしだ三成みつなり殺害さつがい目的もくてき襲撃しゅうげきする事件じけんきた(石田いしだ三成みつなり襲撃しゅうげき事件じけん)。三成みつなり佐竹さたけ義宣よしのぶ協力きょうりょく大坂おおさか脱出だっしゅつして伏見ふしみ城内きうち治部じぶしょうまるにある自身じしん屋敷やしきのがれたが[121]家康いえやす仲裁ちゅうさいにより三成みつなり奉行ぶぎょう退任たいにん承諾しょうだくして佐和さわ山城やましろ蟄居ちっきょすることになり、退去たいきょさいには護衛ごえいやくとして家康いえやす次男じなん結城ゆうき秀康ひでやすがあたった。結果けっかとしてさんなり失脚しっきゃくさせ、もっと中立ちゅうりつてきられている北政所きたのまんどころ仲裁ちゅうさいけたことにより、結論けつろん客観きゃっかんせい正当せいとうせい)がられ、家康いえやす評価ひょうか相対そうたいてきたかまったと評価ひょうかされ[122]同時どうじ三成みつなり生存せいぞんさせることによって豊臣とよとみ家臣かしん同士どうし対立たいりつ継続けいぞくすることになる。もっとも、家康いえやす三成みつなり対立たいりつ一辺倒いっぺんとうではなく協調きょうちょう模索もさくする時期じきもあり、家康いえやす中立ちゅうりつてき立場たちばからの解決かいけつはか双方そうほう均衡きんこうたもとうとしたが、それがかえって政争せいそう悪化あっかさせたとする見方みかたもある[123]

9月7にち、「増田ますだ長束ながつかりょう奉行ぶぎょう要請ようせい」として大坂おおさかはいり、三成みなり大坂おおさか屋敷やしき宿所しゅくしょとした。9月9にち登城とじょうして豊臣とよとみ秀頼ひでよりたいし、重陽ちょうよう節句せっくにおける祝意しゅくいべた。9月12にちには三成みなりあに石田いしだただしきよし大坂おおさか屋敷やしきうつり、9月28にちにはだい坂城さかき西にしまるうつり、大坂おおさか政務せいむることとなる。

9月13にちづけ毛利もうりしげるもとあて輝元てるもと書状しょじょうには、家康いえやすだいさかりした理由りゆうとしてつぎの3つをげている。

  1. 秀忠ひでただ江戸えど下向げこうしたため正室せいしつはなれるので、彼女かのじょ以外いがい女性じょせい秀忠ひでただ可能かのうせいがあり両者りょうしゃなかわるくなるのをけるため、お下向げこうさせようとしたが淀殿よどどの周辺しゅうへんから反対はんたいされたこと。
  2. こう陽成ようぜい天皇てんのう譲位じょうい意向いこうしめしたが、秀吉ひでよし遺言ゆいごんとはことなる指名しめいしたため、家康いえやす譲位じょうい断念だんねんもうれざるなかったこと。
  3. 秀吉ひでよし遺言ゆいごん東国とうごく大名だいみょう大坂おおさか西国さいこく大名だいみょう伏見ふしみにいることがもとめられたが、宇喜多うきた秀家ひでいえだいさかとどまったため家康いえやす抗議こうぎ伏見ふしみうつることを承諾しょうだくしたが、同様どうようものがまだ複数ふくすういること。

9月9にち登城とじょうしたさい前田まえだ利長としなが浅野あさの長政ながまさ大野おおの治長はるなが土方ひじかた雄久かつひさの4めい家康いえやす暗殺あんさつたくらんだと増田ますだ長束ながつかりょう奉行ぶぎょうより密告みっこくがあったとして[注釈ちゅうしゃく 38]、10月2にち長政ながまさ隠居いんきょうえ徳川とくがわりょう武蔵むさし府中ふちゅう蟄居ちっきょさせ、治長はるなが下総しもふさこく結城ゆうき秀康ひでやすのもとに、雄久かつひさ常陸ひたちこく水戸みと佐竹さたけ義宣よしのぶのもとへ追放ついほうとした。さらに利長としながたいしては加賀かが征伐せいばつ企図きとするが、利長としなが生母せいぼ芳春よしはるいん江戸えど人質ひとじちとして[124]出兵しゅっぺいりやめとなる[注釈ちゅうしゃく 39]。これを前田まえだ完全かんぜん家康いえやす支配しはいまれたとなされることになる。

またこのころ、秀頼ひでよりのもとしょ大名だいみょうへの加増かぞうおこなっている。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)3がつ豊後ぶんごこく南蛮なんばんせん(オランダせん)のリーフデごう漂着ひょうちゃくした。家康いえやすはリーフデごう大阪おおさかうつし、航海こうかいちょうウィリアム・アダムス三浦みうらやすしはり)や船員せんいんヤン・ヨーステン家康いえやす厚遇こうぐうされ、外交がいこうじょう諮問しもんにこたえるようになる。とくにウィリアム・アダムスは航海こうかい水先案内みずさきあんない技術ぎじゅつだけでなく、数学すうがく天文学てんもんがく得意とくいとしていたことから家康いえやすにヨーロッパの科学かがく知識ちしき技術ぎじゅつつたえたり、西洋せいようせんつくったりして、家康いえやすから寵愛ちょうあいされた[126]

関ヶ原せきがはらたたか

編集へんしゅう
 
関ヶ原せきがはら古戦場こせんじょう家康いえやす馬印うまじるしもちいられたとされる「厭離えんり穢土えど欣求ごんぐ浄土じょうど」のはた[54]跡地あとちかかげてある。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)3がつ越後えちごこくほり秀治しゅうじから会津あいづ上杉うえすぎ景勝かげかつ重臣じゅうしん直江なおえけんつづけ越後えちごにあった年貢ねんぐ下半期しもはんきぶんまでされたうったえを、出羽でわこく最上もがみ義光よしみつらからは会津あいづ軍備ぐんび増強ぞうきょうする不穏ふおんうごきがあるというらせをけた[よう出典しゅってん]。さらに上杉うえすぎ家臣かしん津川つがわしろ城代しろだいつと家康いえやすとも懇意こんいにあった避戦藤田ふじた信吉のぶよし栗田くりた国時くにとき二人ふたりが、会津あいづから江戸えど徳川とくがわ秀忠ひでただもと上杉うえすぎ行動こうどうかんする釈明しゃくめいをしようとする途中とちゅうで、けんつづけ仕向しむけた使者ししゃたち襲撃しゅうげきされ、国時くにとき殺害さつがいされる事件じけんまできた[よう出典しゅってん]

これにたいして家康いえやすは、伊奈いなあきらつな正使せいしとして景勝けいしょうもと問罪もんざい使派遣はけんした。ところが、すで徳川とくがわとのいちせんかためていたけんつづけが、『直江すぐえじょう』(真贋しんがん諸説しょせつり。詳細しょうさい直江なおえじょう#真贋しんがん論争ろんそう参照さんしょう。)とばれる挑発ちょうはつてき文書ぶんしょしるした書簡しょかん返書へんしょとしておくったことから家康いえやす激怒げきど景勝けいしょう叛意はんいがあることは明確めいかくであるとして会津あいづ征伐せいばつ宣言せんげんした[よう出典しゅってん]。これにさいしてこう陽成ようぜい天皇てんのうから出馬しゅつば慰労いろうとしてさらしぬの下賜かしされ、豊臣とよとみ秀頼ひでよりからは黄金おうごん2まんりょう兵糧ひょうろうまい2まんせき下賜かしされた[よう出典しゅってん]。これにより、朝廷ちょうてい豊臣とよとみから家康いえやす上杉うえすぎ征伐せいばつは「豊臣とよとみ忠臣ちゅうしんである家康いえやす謀反むほんひと景勝けいしょうつ」という大義名分たいぎめいぶんかたちとなった。

6月16にち家康いえやすだい坂城さかき京橋きょうばしくちから軍勢ぐんぜいひきいて上杉うえすぎ征伐せいばつ出征しゅっせいし、同日どうじつ夕刻ゆうこくには伏見ふしみじょうはいった。ところが、6月23にち浜松はままつ、6月24にち島田しまだ、6月25にち駿府すんぷ、6月26にち三島みしま、6月27にち小田原おだわら、6月28にち藤沢ふじさわ、6月29にち鎌倉かまくら、7がつ1にち金沢かなざわ、7がつ2にち江戸えどという、遅々ちちたる進軍しんぐんおこなっている[よう出典しゅってん]

この出兵しゅっぺいには、家康いえやす反感はんかんをもつ石田いしだ三成みつなりらの挙兵きょへいっていたとの見方みかたもある。実際じっさい、7がつさんなり大谷おおやきちまましとともに挙兵きょへいすると、家康いえやすによって占拠せんきょされていただい坂城さかき西にしまるうばかえし、増田ますだちょうもり長束ながつかただし奉行ぶぎょうしゅ説得せっとくするとともに、大老たいろう一人ひとり毛利もうり輝元てるもとそう大将たいしょうとして擁立ようりつし、『うちちかひ(ちがい)の条々じょうじょう』という13かじょうにおよぶ家康いえやす弾劾だんがいじょうしょ大名だいみょうたいして公布こうふした。三成みなり挙兵きょへいすると、家康いえやす古参こさん重臣じゅうしん鳥居とりい元忠もとただまも伏見ふしみじょうが4まん軍勢ぐんぜいめられ、元忠もとただ戦死せんし伏見ふしみじょう落城らくじょうした(伏見ふしみじょうたたか)。

さらに三成みなりらは伊勢いせこく美濃みのこく方面ほうめん侵攻しんこうした。家康いえやす下野げやこく小山こやまじんにおいて、伏見ふしみじょうもとちゅうはっした使者ししゃ報告ほうこくにより、三成みなり挙兵きょへいった。家康いえやす重臣じゅうしんたちと協議きょうぎしたのち上杉うえすぎ征伐せいばつ従軍じゅうぐんしていたしょ大名だいみょう大半たいはんあつめ、「秀頼ひでよりおおやけがい君側くんそく奸臣かんしん三成みなりつため」として、上方かみがた反転はんてんするとげた。これにたいし、福島ふくしま正則せいそくさんなり反感はんかんをもつ武断ぶだん大名だいみょうらは家康いえやす味方みかたし、こうして家康いえやすそう大将たいしょうとしたひがしぐん結成けっせいされていった(小山こやま評定ひょうじょう)。

ひがしぐんは、家康いえやす徳川とくがわ直属ちょくぞくぐん福島ふくしま正則せいそくらの軍勢ぐんぜいわせて10まんにんほどで編成へんせいされていた。そのうちいちたいは、徳川とくがわ秀忠ひでただ大将たいしょうとし榊原さかきばら康政やすまさ大久保おおくぼ忠隣ただちか本多ほんだ正信まさのぶらをけて宇都うと宮城みやぎから中山道なかせんどう進軍しんぐんさせ、結城ゆうき秀康ひでやすには上杉うえすぎ景勝かげかつ佐竹さたけ義宣よしのぶたいするおさえとして関東かんとう防衛ぼうえいたくし、家康いえやすのこりの軍勢ぐんぜいひきいて東海道とうかいどうから上方かみがたかった。それでも家康いえやす動向どうこう不明ふめい佐竹さたけ義宣よしのぶたいする危険きけんから江戸城えどじょうに1かげつほどまり、7がつ24にちから9がつ14にちまでのあいだに、関ヶ原せきがはら合戦かっせんかんする内容ないよう文書ぶんしょだけでも外様とざましょしょう82めいに155つう家康いえやす近臣きんしんに20つうほどの文書ぶんしょおくっている[127]

正則せいそくひがしぐんは、清洲きよすしろはいると、西にしぐん勢力せいりょくにあった美濃みのこく侵攻しんこうし、織田おだ秀信ひでのぶまも岐阜ぎふじょうとした。このとき家康いえやす信長のぶなが嫡孫ちゃくそんであるとして秀信ひでのぶいのちたすけている。

9月、家康いえやす江戸城えどじょうから出陣しゅつじんし、11にち清洲きよす、14にちには美濃赤坂みのあかさか着陣ちゃくじんした。前哨ぜんしょうせんとして三成みつなり家臣かしんしま左近さこん宇喜多うきた秀家ひでいえ家臣かしん明石あかしぜんとう奇襲きしゅうし、それにたいしてひがしぐん中村なかむら一栄かずえ有馬ありまゆたからが迎撃げいげきするがやぶれ、中村なかむら一栄かずえ家臣かしん野一色のいしきすけよし戦死せんししている(くい瀬川せがわたたか[注釈ちゅうしゃく 40]

家康いえやすみずからの軍師ぐんし臨済宗りんざいしゅう禅僧ぜんそうである閑室もとただし関ヶ原せきがはらたたかいに従軍じゅうぐんしていた)にえきによる占筮せんぜいせんぜいおこなわせ、大吉だいきちた。

9月15にち午前ごぜん8ごろ、美濃みのこく関ヶ原せきがはらにおいて東西とうざいりょうぐんによる決戦けっせんひろげられた。開戦かいせん当初とうしょ高所こうしょった三成みなり西にしぐん有利ゆうりであったが、正午しょうごごろかねてより懐柔かいじゅうさくをとっていた西にしぐん小早川こばやかわ秀秋ひであき軍勢ぐんぜいが、おな西にしぐん大谷おおやよしつぎ軍勢ぐんぜいおそいかかったのを形成けいせい逆転ぎゃくてんする。さらに脇坂わきさか安治やすじ朽木くちきもとつなあかちょく小川おがわゆうただしらの寝返ねがえりもあって大谷おおやたい壊滅かいめつ西にしぐん総崩そうくずれとなった。たたかいの終盤しゅうばんでは、てきちゅう突破とっぱ退却たいきゃくせんいどんだ島津しまつ義弘よしひろぐんが、家康いえやす本陣ほんじん目前もくぜんにまで突撃とつげきしてくるという非常ひじょう危険きけん局面きょくめんもあったが、ひがしぐん完勝かんしょうわった(関ヶ原せきがはらたたか)。

9月18にち三成みなり居城きょじょう佐和山さわやまじょうとして近江おうみこく進出しんしゅつし、9月21にちには戦場せんじょうから逃亡とうぼうしていた三成みつなり捕縛ほばく。10月1にちには小西こにし行長ゆきなが安国寺あんこくじ恵瓊えけいらとともろくじょう河原かわはら処刑しょけいした。その大坂おおさかはいった家康いえやすは、西にしぐんくみしたしょ大名だいみょうほとんどを処刑しょけい流罪るざい改易かいえきげんふうしょし、げた所領しょりょうひがしぐんしょしょう加増かぞう分配ぶんぱいするかたわみずからの領地りょうちも250まんせきから400まんせき加増かぞう秀頼ひでより淀殿よどどのたいしては「おんな子供こどものあずかりらぬところ」としてとがめなかったが、論功行賞ろんこうこうしょうによりかくだい名家めいか領地りょうちふくめていた太閤たいこうくら入地いりじ豊臣とよとみ全国ぜんこく散在さんざいしていた直轄ちょっかつ)はひがしぐんしょしょう恩賞おんしょうとして分配ぶんぱいされた。また太閤たいこうくら入地いりじのうち、さかい長崎ながさき生野いくの銀山ぎんざん管理かんりには家康いえやす家臣かしん派遣はけんされ、家康いえやす直轄ちょっかつりょうとなっていくことになる。

その結果けっか豊臣とよとみ摂津せっつこく河内かわうちこく和泉いずみこくの3かこく65まんせきいち大名だいみょうとなり、家康いえやす天下てんかじんとしての立場たちば確立かくりつした[128]。だが、まだ西国さいこく大名だいみょう新年しんねん挨拶あいさつだい坂城さかき伺候しこう豊臣とよとみ西国さいこく支配しはいするじゅう公儀こうぎ体制たいせいとのせつがある[129]

家康いえやすのスペイン外交がいこう浦賀うらが

編集へんしゅう

鈴木すずきかほるの研究けんきゅうによれば、秀吉ひでよし没後ぼつご家康いえやす大老たいろう筆頭ひっとうとしておもて舞台ぶたいったとき、どのくによりもいちはや対外たいがい交渉こうしょうをもったのは、当時とうじ世界せかい最強さいきょうこくしょうされたスペインであったという。その目的もくてきはスペインりょうメキシコでおこなわれている画期的かっきてき金銀きんぎんせいほうであるアマルガムほう導入どうにゅうであり、スペインじん招致しょうちするため浦賀うらがみなと国際こくさい貿易ぼうえきこうとして開港かいこう[130]西洋せいよう事情じじょうくわしいウィリアム・アダムス外交がいこう顧問こもんとしたという。

家康いえやすはフィリピン(スペインりょう近海きんかいにおけるわたし貿易ぼうえきせん絶滅ぜつめつさせるため、慶長けいちょう6ねん(1601ねん正月しょうがつ、フィリピン総督そうとくてておおやけ貿易ぼうえきせんあかしとして日本にっぽんからフィリピンへ渡海とかいする朱印しゅいんじょう交付こうふすることをつたえた。日本にっぽんでは古来こらいから難破なんぱせん漂着ひょうちゃく龍神りゅうじんたたりとして積荷つみに没収ぼっしゅうし、そのげをもってその土地とち寺社じしゃ修復しゅうふくてるならわしであったが、家康いえやすはこの仕来しきたりをやぶり、慶長けいちょう7ねん(1602ねん)8がつ漂着ひょうちゃくせん積荷つみに保証ほしょうすることをつたえ、安心あんしんして浦賀うらがみなと商船しょうせん派遣はけんするようフィリピン総督そうとく通告つうこくした[131]。つまり家康いえやす朱印船しゅいんせん制度せいど創設そうせつ浦賀うらがースペイン外交がいこうにあったのである。浦賀うらがにはウィリアム・アダムスの尽力じんりょくにより慶長けいちょう9ねんにスペイン商船しょうせんはじめて入港にゅうこうし、以後いご毎年まいとし入港にゅうこうしている。

メキシコがわ思慮しりょによりアマルガムほう導入どうにゅう実現じつげんにはいたらなかったが、慶長けいちょう6ねんあき上総かずさ大多喜おおたきうら漂着ひょうちゃくした司令しれいかんジュアン・エスケラや[132]慶長けいちょう14ねん(1610ねん)9がつ上総かずさこく岩和田いわわだおき漂着ひょうちゃくしたフィリピン総督そうとくドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造けんぞうしたふね帰国きこくさせたが、その返礼へんれい大使たいしとしてセバスチャン・ビスカイノ浦賀うらがみなと入港にゅうこうしている。このときのビスカイノは日本にっぽん東西とうざいみなと測量そくりょうおよび金銀きんぎんとう探検たんけん使命しめいびて来航らいこうしたのであるが、金銀きんぎんとう発見はっけんにはいたらず、そのうえふね破船はせんしてしまう。ビスカイノは帰国きこくのためのふね建造けんぞう家康いえやすうたがことわられた[133]。そこでビスカイノは奥州おうしゅうみなと測量そくりょうさい伊達だてまさしむねがメキシコとの貿易ぼうえき希望きぼうしていたことをおもこし、宣教師せんきょうしルイス・ソテロかいしてせいむね帰国きこく大型おおがた帆船はんせん建造けんぞう依頼いらいし、これが実現じつげんしてサン・ファン・バウティスタごうおういたるのである。このとき将軍しょうぐん秀忠ひでただ向井むかい忠勝ただかつせいむねおうせん随行ずいこうせんとしてふね造船ぞうせんさせている。このふね江戸えど内海うちうみくち座礁ざしょうしてしまったが[134]、このように秀忠ひでただおうせん造船ぞうせんしていた事実じじつや、向井むかい忠勝ただかつ公儀こうぎ大工だいく伊達だてまさしむねのもとに派遣はけんしている事実じじつ、また幕府ばくふ禁教きんきょうれいによりビスカイノいちぎょう本国ほんごく帰国きこくさせなければならなかったことをかんがえれば、せいむねおうせん幕府ばくふるところであったことはうたが余地よちもない。

 
家康いえやす開港かいこうしたスペイン貿易ぼうえきこう浦賀うらが記念きねん横須賀よこすか東浦賀ひがしうらがひがしかのう神社じんじゃ

元和がんわ元年がんねん(1615ねん)6がつ、サン・ファン・バウティスタごうがビスカイノの返礼へんれい大使たいしディエゴ・デ・サンタ・カタリナ浦賀うらがみなと帰帆きはんした。このふねにはせいむね家臣かしん横沢よこざわすすむかん吉久よしひさ日本にっぽん商人しょうにんらが同船どうせんしていた。しかし、家康いえやす死去しきょするとサンタ・カタリナに国外こくがい退去たいきょれいされ、かれらは元和がんわ2ねん(1616ねん)8がつ浦賀うらがはつこうした。これがメキシコへかう最後さいご貿易ぼうえきせんとなった。こうして浦賀うらがみなと国際こくさい貿易ぼうえきこうとしての生命せいめいたれ、スペインじん鉱夫こうふ招聘しょうへい実現じつげんすることなく訣別けつべつむかえたのである[135]

長崎ながさき平戸ひらど貿易ぼうえきこうとしてよくられるが、江戸えど初期しょき家康いえやすによって浦賀うらががスペイン商船しょうせん寄港きこうとして開港かいこうされ、貿易ぼうえきおこなわれていたことは教科書きょうかしょにもしるされていない。この史実しじつつたえようと、地元じもと住民じゅうみんによって市民しみん団体だんたい結成けっせいされ賛助さんじょきんあつめられ、平成へいせい31ねん2019ねん)4がつ神奈川かながわけん横須賀よこすか東浦賀ひがしうらがひがしかのう神社じんじゃ境内けいだいに「にち西にしすみ貿易ぼうえきこういしぶみ」がてられ除幕じょまくしきおこなわれた。[よう出典しゅってん]

征夷大将軍せいいたいしょうぐん

編集へんしゅう

慶長けいちょう5ねん(1600ねん)12月19にちぶんろく4ねん(1595ねん)に豊臣とよとみ秀次しゅうじ解任かいにんされて以来いらいいたままになっていた関白かんぱく九条くじょうけんこう家康いえやす奏上そうじょうによりにんじられた。このことにより、豊臣とよとみによる関白かんぱくしょく世襲せしゅう旧来きゅうらい五摂家ごせっけ関白かんぱくしょくもど[注釈ちゅうしゃく 41]

洛中らくちゅう洛外らくがい』の徳川とくがわ時代じだい伏見ふしみじょう
二条城にじょうじょうからもん

関ヶ原せきがはらたたかいの戦後せんご処理しょりわらせた慶長けいちょう6ねん1601ねん)3がつ23にち家康いえやすだい坂城さかき西にしまる伏見ふしみじょうにて政務せいむり、征夷大将軍せいいたいしょうぐんとして幕府ばくふひらくため、徳川とくがわ系図けいず改姓かいせいおこなった[注釈ちゅうしゃく 42]

慶長けいちょう7ねん1602ねん)、関ヶ原せきがはらたたかいの戦後せんご処理しょり唯一ゆいいつ処分しょぶんまっていなかった常陸ひたちこく水戸みと佐竹さたけ義宣よしのぶ出羽いずはこく久保田くぼたげんてんふうわりに佐竹さたけおなじく源義光みなもとのよしみつながれをくむ武田たけだ継承けいしょうした五男いつお武田たけだ信吉のぶよし水戸みとれた[注釈ちゅうしゃく 43]。これによって確定かくていした徳川とくがわ領域りょういき一門いちもん譜代ふだい大名だいみょう所領しょりょうふくめると、ひがし岩城いわきりょうから関東かんとういちえんきた南信濃みなみしなのから美濃みのこく越前えちぜんこく西にし近江おうみこく山城やましろこく大和やまとこくきた伊勢いせ桑名くわなりょうをほぼいちえん支配しはいしつつ、西国さいこくでは長崎ながさきさかい石見いわみ銀山ぎんざん生野いくの銀山ぎんざん直轄ちょっかつりょう点在てんざいする内容ないようであった(秋田あきた里見さとみなどの小規模しょうきぼ外様とざま大名だいみょう支配しはいのぞく)[137]

慶長けいちょう8ねん1603ねん)2がつ12にち右大臣うだいじんにんじられる[138]同日どうじつ征夷大将軍せいいたいしょうぐん源氏げんじ長者ちょうじゃ奨学しょうがく淳和じゅんないんとう別当べっとう牛車うしぐるま兵仗ひょうじょうひとし宣下せんげがあった[138][注釈ちゅうしゃく 44]

同年どうねん3がつ12にち伏見ふしみじょうから二条城にじょうじょううつり、3月21にち衣冠いかん束帯そくたいまと行列ぎょうれつととのえて御所ごしょ参内さんだいし、将軍しょうぐん拝賀はいがれいおこない、年頭ねんとう祝賀しゅくがべた。3月27にち二条城にじょうじょう勅使ちょくしむかえ、重臣じゅうしん公家くげしゅまねいて将軍しょうぐん就任しゅうにん祝賀しゅくがおこなった。また4がつ4にちから3日間にちかん二条城にじょうじょう能楽のうがくおこなわれしょ大名だいみょう公家くげしゅ饗応きょうおうした。

なお家康いえやす将軍しょうぐん宣下せんげすうヵ月かげつまえの、慶長けいちょう7ねん12月4にち新暦しんれきでは1603ねん1がつ15にち)に、秀吉ひでよし造立ぞうりゅうした方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん失火しっかのため全焼ぜんしょうし、きょうちゅう騒然そうぜんとさせた[139]。この火事かじについて、豊臣とよとみ権威けんい失墜しっついさせるために徳川とくがわかた故意こい放火ほうかしたのではないかという風説ふうせつながれたという。

慶長けいちょう8ねん10がつ16にち右大臣うだいじん辞任じにんした[138]

大御所おおごしょ政治せいじ

編集へんしゅう
 
イギリスおうジェームズ1せい徳川とくがわ家康いえやすへの書簡しょかん(1613ねん

慶長けいちょう10ねん1605ねん)4がつ16にち将軍しょうぐんしょくするとともに朝廷ちょうてい嫡男ちゃくなん秀忠ひでただへの将軍しょうぐん宣下せんげおこなわせ、将軍しょうぐんしょく以後いご徳川とくがわ世襲せしゅうしていく」ことを天下てんかしめした。同時どうじ豊臣とよとみ秀頼ひでよりしん将軍しょうぐん秀忠ひでただ対面たいめんするよう要請ようせいしたが、秀頼ひでよりはこれを拒絶きょぜつ結局けっきょく六男むつお松平まつだいらただしてる大坂おおさかじょう派遣はけんしたことでことおさまった。なお、このとき次世代じせだい家臣かしんである井伊いい直孝なおたか板倉いたくら重昌しげまさ叙任じょにんされた[140]どう7がつ23にち近衛このえしんいん関白かんぱく推挙すいきょする。

慶長けいちょう12ねん1607ねん)には駿府すんぷじょううつって、東国とうごく大名だいみょう幕府ばくふ制度せいど整備せいびすすめる「江戸えど将軍しょうぐん秀忠ひでただ御所ごしょ)にたいして、ぜん将軍しょうぐん家康いえやすは「駿府すんぷ大御所おおごしょ」としておも朝廷ちょうてい寺社じしゃ西国さいごく大名だいみょう外交がいこう担当たんとうした(大御所おおごしょ政治せいじ)。ただ明確めいかく線引せんひきされていたわけではなく、越後えちご福嶋ふくしま騒動そうどうでは当事とうじしゃたちが秀忠ひでただ駿府すんぷ出向でむいたさいうったえたため、家康いえやす秀忠ひでただまえ弁論べんろんさせ、越後えちご高田たかだはんほり改易かいえきめいじた。

同年どうねん朝鮮ちょうせん通信使つうしんし来日らいにち秀忠ひでただ謁見えっけんして国書こくしょ贈物おくりもの交換こうかん、その家康いえやすとも謁見えっけん文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき以来いらい断絶だんぜつしていた朝鮮ちょうせんとの国交こっこう回復かいふくした[141]

慶長けいちょう13ねん1608ねん)、大坂おおさかかた朝廷ちょうていはたらきかけ秀頼ひでより左大臣さだいじんにする兆候ちょうこう事前じぜんとらえ、これを阻止そしする(しばらく左大臣さだいじん空位くうい)。同年どうねん右大臣うだいじん九条くじょうただしさかえ関白かんぱく推挙すいきょする。

慶長けいちょう14ねん1609ねん)、オランダ使節しせつ会見かいけんオランダ総督そうとく使節しせつ国王こくおう自称じしょう[注釈ちゅうしゃく 45]マウリッツからの親書しんしょり、朱印しゅいんじょうによる交易こうえき平戸ひらどオランダひがしインド会社かいしゃ商館しょうかん開設かいせつ許可きょかした。

慶長けいちょう15ねん(1610ねん)、足尾あしお銅山どうざん開山かいさん。1600ねん天領てんりょうにした石見いわみ銀山ぎんざんひとしぎん、1601ねん天領てんりょうにした佐渡さど金山かなやまひとしきむあわせ、どうもその江戸えど幕府ばくふ主要しゅよう財源ざいげんとなる。

慶長けいちょう16ねん1611ねん)3がつ家康いえやす後水尾天皇ごみずのおてんのう即位そくいわせて上洛じょうらく同月どうげつ20にちきゅうなん徳川とくがわ義利よしとし義直よしなお)、じゅうなんよりゆきしょう頼宣よりのぶ)を参議さんぎ中将ちゅうじょうに、じゅういちなん鶴松つるまつ頼房よりふさ)を少将しょうしょう叙任じょにんさせた。「御三家ごさんけ体制たいせいへの布石ふせきといえよう[142][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。3月22にちには、みずからの祖先そせんしょうする新田にった義重よししげ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんを、実父じっぷ松平まつだいらひろちゅうにはけん大納言だいなごん贈官ぞうかんした[143]

同月どうげつ28にち二条城にじょうじょうにて秀頼ひでより会見かいけんした(二条城にじょうじょう会見かいけん)。当初とうしょ秀頼ひでよりはこれを秀忠ひでただ征夷大将軍せいいたいしょうぐん任官にんかんさい要請ようせいおなじく拒絶きょぜつする方向ほうこうでいたが、家康いえやす織田おだゆうらく仲介ちゅうかいとして上洛じょうらく要請ようせいし、ついには秀頼ひでより上洛じょうらくさせることに成功せいこうした[よう出典しゅってん]。この会見かいけんにより、天下てんか衆目しゅうもくに、徳川とくがわ公儀こうぎ豊臣とよとみよりも優位ゆういであることを明示めいじしたとする見解けんかいがある[144]よく4がつ12にち挙行きょこうされた後水尾天皇ごみずのおてんのう即位そくいしきを、家康いえやすは裹頭(僧兵そうへいこうむしの覆面ふくめん)でおしのびとして見物けんぶつしき義直よしなお頼宣よりのぶともあらためて参内さんだいして即位そくいした。同日どうじつ西国さいごく大名だいみょうらにたいしてさんカ条かじょう法令ほうれいしめして誓紙せいしっており、これにより徳川とくがわ公儀こうぎ天下てんか支配しはいおおむったともいわれる[145]

同年どうねんヌエバ・エスパーニャ現在げんざいメキシコふくおうルイス・デ・ベラスコ使者ししゃセバスティアン・ビスカイノ会見かいけんし、スペイン国王こくおうフェリペ3せい親書しんしょる。両国りょうこく友好ゆうこうについては合意ごういしたものの、通商つうしょうのぞんでいた日本にっぽんがわたいし、スペインがわ前提ぜんてい条件じょうけんキリスト教きりすときょう布教ふきょうで、家康いえやすけいきょう分離ぶんり外交がいこう無視むししたことが、家康いえやすをして禁教きんきょうらせた真因しんいんである。こののち家康いえやすたい外交がいこう政策せいさく貿易ぼうえき制限せいげん意図いとまったくないことから、この禁教きんきょうれい鎖国さこく直結ちょっけつするものではない[146]

慶長けいちょう17ねん1612ねん)、九条くじょうただしさかえ左大臣さだいじんに、鷹司たかつかさしんなお関白かんぱく推挙すいきょする。

慶長けいちょう18ねん1613ねん)、イギリスひがしインド会社かいしゃジョン・セーリス会見かいけん。イングランド国王こくおうジェームズ1せいからの親書しんしょ献上けんじょうひんり、朱印しゅいんじょうによる交易こうえき平戸ひらどイギリス商館しょうかん開設かいせつ許可きょかした。

慶長けいちょう19ねん1614ねん)3がつ8にち勅使ちょくし駿府すんぷ下向げこうして家康いえやすまご和子かずこ入内じゅだい許可きょかともに、太政大臣だじょうだいじんじゅん三后さんこうへの昇進しょうしんすすめるが、家康いえやす太政大臣だじょうだいじん贈官ぞうかん希望きぼうして辞退じたいした。よく9にち秀忠ひでただ右大臣うだいじん就任しゅうにんし、豊臣とよとみ秀頼ひでより官位かんいいつく。

大坂おおさかじん

編集へんしゅう

晩年ばんねんむかえていた家康いえやすにとって豊臣とよとみ脅威きょういでありつづけた[注釈ちゅうしゃく 46]。なお特別とくべつ地位ちい保持ほじしていて実質じっしつてきには徳川とくがわ支配しはいには編入へんにゅうされておらず、関ヶ原せきがはらたたか西国さいごく配置はいちしたひがしぐん大名だいみょうほとん豊臣とよとみ恩顧おんこ大名だいみょうであった。また、家康いえやす将軍しょうぐん宣下せんげには、同時どうじ秀頼ひでより関白かんぱく任官にんかんされるとの風説ふうせつ当然とうぜんのこととしてられていた。秀忠ひでただ将軍しょうぐん宣下せんげ官位かんい内大臣ないだいじんであったが、秀頼ひでより家康いえやす引退いんたいいた右大臣うだいじんゆずられており、秀忠ひでただ上回うわまわっていた。

家康いえやす大坂おおさか周囲しゅういにある伏見ふしみさかい大和郡山やまとこおりやま直轄ちょっかつりょうにしつつも、当初とうしょ徳川とくがわ豊臣とよとみ共存きょうぞん模索もさくしているようなうごきもあり、秀吉ひでよし遺言ゆいごんけて孫娘まごむすめ千姫せんひめ秀頼ひでよりとつがせてもいる。しかし、豊臣とよとみ人々ひとびと政権せいけんうばわれたことにより次第しだい家康いえやす警戒けいかいするようになっていった。さらに豊臣とよとみは、徳川とくがわとの決戦けっせんそなえておおくの浪人ろうにんやとれていたが、それが天下てんからんをもたらす準備じゅんびであるとして一層いっそう幕府ばくふ警戒けいかいつよめた[147][148]

そのようななか慶長けいちょう12ねん1607ねん)には結城ゆうき秀康ひでやす慶長けいちょう16ねん1611ねん)に加藤かとう清正きよまさ堀尾ほりお吉晴よしはる浅野あさの長政ながまさ慶長けいちょう18ねん1613ねん)には浅野あさの幸長よしなが池田いけだ輝政てるまさなど、豊臣とよとみ恩顧おんこ大名だいみょう次々つぎつぎ死去しきょしたため、次第しだい豊臣とよとみ孤立こりつふかめていった。

そして、慶長けいちょう19ねん1614ねん)の方広寺ほうこうじかねめい事件じけんをきっかけに、豊臣とよとみ処遇しょぐうけっするべく、うごはじめる。

方広寺ほうこうじかねめい事件じけん

編集へんしゅう
 
現在げんざいのこ方広寺ほうこうじかねめいの「国家こっか安康あんこう」「君臣くんしん豊楽ほうらく」の文字もじ
 
エンゲルベルト・ケンペルえがいた方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)のスケッチ[149]
ただし、このスケッチにえがかれている大仏だいぶつは、寛文ひろふみ7ねん(1667ねん)に再建さいけんされた3代目だいめ大仏だいぶつで、秀頼ひでより再建さいけんした2代目だいめ大仏だいぶつではない

大坂おおさかじん契機けいきとなった方広寺ほうこうじかねめい事件じけんは、秀吉ひでよし発願ほつがんした方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)の再建さいけんにあたり発生はっせいしたものだが、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん何故なぜ滅失めっしつしていたかは以下いかとおりである。

秀吉ひでよし焼損しょうそんした東大寺とうだいじわるあらたな大仏だいぶつとして、京都きょうと大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん造立ぞうりゅうした(きょう大仏だいぶつ)。「国土こくど安全あんぜん万民ばんみん快楽かいらく」をスローガンに、かたなかり民衆みんしゅうから奪取だっしゅした刀剣とうけんるい大仏だいぶつ造立ぞうりゅうのためのくぎ・鎹(かすがい)に利用りようした。この大仏だいぶつ一応いちおう完成かんせいしたが、開眼かいがん供養くようまえぶんろく5ねんうるう7がつ13にち1596ねん9月5にち)の慶長けいちょう伏見ふしみ地震じしん大破たいはし、その秀吉ひでよしいのちやぶ却された[150]大仏殿だいぶつでん地震じしんでの倒壊とうかいまぬかれたので、慶長けいちょう2ねん(1597)には当時とうじ甲斐かいこくにあった善光寺ぜんこうじ如来にょらいが、大仏だいぶつわるあらたな本尊ほんぞんとするため方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん遷座せんざさせられ、大仏殿だいぶつでんは「善光寺ぜんこうじ如来にょらいどう」としょうされるようになったが、よく慶長けいちょう3ねんには善光寺ぜんこうじ如来にょらい本国ほんごく信濃しなの善光寺ぜんこうじ)にかえされた[150]豊臣とよとみ政権せいけん秀吉ひでよしぼつ大仏だいぶつ再建さいけんかったが、慶長けいちょう7ねん(1602ねん)12月に大仏だいぶつ鋳造ちゅうぞうちゅう失火しっか火災かさい発生はっせいし、大仏だいぶつのみならず大仏殿だいぶつでん滅失めっしつしてしまった[151]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし死後しご秀吉ひでよし追善ついぜん供養くようとして、戦乱せんらん荒廃こうはいした多数たすう寺社じしゃ寄進きしんおこない、伽藍がらん社殿しゃでん整備せいびはかった(豊臣とよとみ秀頼ひでより寺社じしゃ造立ぞうりゅう参照さんしょう)。おもなもので東寺とうじ金堂こんどう延暦寺えんりゃくじ横川よこかわ中堂なかどう熱田あつた神宮じんぐう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう北野きたの天満てんまみや鞍馬あんばてら毘沙門堂びしゃもんどうなど、多数たすうにのぼった。慶長けいちょう12ねん1607ねん)には、豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより、豊臣とよとみ家臣かしん片桐かたぎり且元奉行ぶぎょうとして、ふたたどうせい大仏だいぶつおよび大仏殿だいぶつでん再建さいけん企図きとされるようになった。通説つうせつでは、家康いえやす秀頼ひでより方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再建さいけんすすめ、それを豊臣とよとみかたれて再建さいけん工事こうじはこびとなったとされるが、それは豊臣とよとみ財力ざいりょく蕩尽とうじんさせるための家康いえやす謀略ぼうりゃくとされてきた[152]。しかし歴史れきし学者がくしゃ河内かわうちすすむかおるは、豊臣とよとみ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再建さいけん工事こうじ負担ふたんさせたのは事実じじつだが、「大仏だいぶつ再建さいけん秀頼ひでより徳川とくがわ共同きょうどう事業じぎょうで、徳川とくがわもかなりの労力ろうりょくそそいだ。幕府ばくふ大仏だいぶつ豊臣とよとみ一色いっしょくとは認識にんしきせず、東大寺とうだいじわりになるものとして重視じゅうししたのではないか[153]。」とし、豊臣とよとみ徳川とくがわ共同きょうどう事業じぎょうであったとしている。河内かわうちは『しん大仏殿だいぶつでん自記じき』に以下いか記述きじゅつがあることをその証左しょうさとしている。慶長けいちょう15ねん(1610ねん)6がつ12にちえんじ導師どうしとして大仏殿だいぶつでん地鎮祭じちんさいおこなわれたが[154]、このときのことをえんじあらわしたしょが『しん大仏殿だいぶつでん自記じき』である。そのしょでは、工事こうじだい檀那だんな発注はっちゅうしゃ)について「ぜん将軍しょうぐん昨年さくねん慶長けいちょう14ねんとうどう再興さいこう下知げじす、造作ぞうさくりょうにおいては、右大臣うだいじん豊臣とよとみ朝臣あそん秀頼ひでより御下おしもぎょうなり」とあり、さき将軍しょうぐん家康いえやす大仏殿だいぶつでん再建さいけん命令めいれいはっし、工事こうじ豊臣とよとみ秀頼ひでより負担ふたんすることになっていた[155]。また工事こうじ棟梁とうりょうについては「番匠ばんじょう大和やまともり中井なかいただしきよしぜん将軍しょうぐん大工だいくなり、ことごとくみなこの大工だいくがままなり」とあり、家康いえやすかかえの大工だいく中井なかいただしきよし工事こうじすべてを仕切しきることになっていた[155]上記じょうき記述きじゅつより河内かわうちは、大仏だいぶつ再建さいけんにかかる費用ひよう豊臣とよとみ負担ふたんするが、大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再建さいけん工事こうじそのものについては徳川とくがわ主導しゅどうけんにぎったとしている[156]

大仏だいぶつ再建さいけん工事こうじについては史料しりょうとぼしく、いつおこなわれたか詳細しょうさい不明ふめいである。大仏殿だいぶつでん再建さいけん工事こうじについては史料しりょうおおのこっており、それらによれば、大仏殿だいぶつでんたてはしら工事こうじ慶長けいちょう15ねん(1610ねん)8がつ22にちからおこなわれ[157]慶長けいちょう17ねん1612ねん)1がつ29にちから大仏殿だいぶつでん屋根やねかわら作業さぎょうはじまった[158]慶長けいちょう17ねん1612ねんちゅう大仏殿だいぶつでんはほぼ完成かんせいし、工事こうじ着工ちゃっこうから2ねんらずという異例いれいはやさで大仏殿だいぶつでん再建さいけん完了かんりょうしたことがかる[158]

方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再建さいけん完了かんりょうしたため、落慶らっけい供養くよう段取だんどりをすすめることになった。段取だんどりは片桐かたぎり且元すすめ、武家ぶけあいだでは京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげや、家康いえやすとの協議きょうぎがなされた。しかし落慶らっけい供養くよう武家ぶけがわだけで決定けっていできるものではなく、朝廷ちょうてい公家くげ寺社じしゃ勢力せいりょくとの協議きょうぎ必要ひつようであった[159]方広寺ほうこうじは、正式せいしき寺号じごうたず(「方広寺ほうこうじ」という寺号じごう江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう自然しぜん発生はっせいてきしょうじたもので、当時とうじたんに「大仏だいぶつ」もしくは「東山ひがしやま大仏だいぶつ」「きょう大仏だいぶつ」などと呼称こしょうされていた)、あさ創立そうりつされた寺院じいんではなかったため(わるえば豊臣とよとみ私的してき建造けんぞうぶつであった)、正式せいしき寺院じいんとなるよう、朝廷ちょうていとの協議きょうぎがなされた。寺号じごうについては「東大寺とうだいじ」とするか、もしくはあらたにさだめるかなどが候補こうほとしてがっていたが、方広寺ほうこうじ寺号じごうを「東大寺とうだいじ」とさだめ、方広寺ほうこうじ東大寺とうだいじ継承けいしょう寺院じいんとするあん検討けんとうされていた[160]

方広寺ほうこうじ再建さいけん落慶らっけい供養くよう出席しゅっせきしゃについて、各種かくしゅ史料しりょう記述きじゅつから、家康いえやす落慶らっけい供養くよう出席しゅっせきするため、上洛じょうらくする計画けいかくであったことがうかがえる[161]。また『ほんひかり国師こくし日記にっき』には、「秀頼ひでよりおおやけ供養くよう上洛じょうらく」については「いかようにもこころ次第しだいと」と家康いえやすおおしたとあり(慶長けいちょう19ねん7がつ18にちじょう)、秀頼ひでより家康いえやす双方そうほう落慶らっけい供養くよう参加さんかする可能かのうせいもあった[161]

慶長けいちょう19ねん1614ねん)には梵鐘ぼんしょう完成かんせいし、片桐かたぎり且元梵鐘ぼんしょう銘文めいぶん南禅寺なんぜんじぶんえいしんかん作成さくせいさせ、梵鐘ぼんしょう銘文めいぶんれた。ところが幕府ばくふは、方広寺ほうこうじ梵鐘ぼんしょう銘文めいぶんちゅう不適切ふてきせつかたりがあると供養くようめた。問題もんだいとされたのは「国家こっか安康あんこう」で、大御所おおごしょ家康いえやすいみなけなかったことが不敬ふけいであるとするものであった[146][147][148]。「国家こっか安康あんこう」を「家康いえやす分断ぶんだんして呪詛じゅそする言葉ことば」とし、「君臣くんしん豊楽ほうらく子孫しそんいんあきら」を豊臣とよとみくんとして子孫しそんいんあきらたのしむとし、さらに「みぎぼくしゃげん朝臣あそん」については、「家康いえやするという言葉ことばだ」と非難ひなんしたとするせつもあるが(「みぎぼくしゃげん朝臣あそん」の本来ほんらい意味いみは、みぎぼくしゃ右大臣うだいじん唐名とうみょうみなもと家康いえやすという意味いみである)、これは後世こうせい俗説ぞくせつである[147]>[148]

さらに8がつ18にち京都きょうと五山ごさん長老ちょうろうたちにかねめい解釈かいしゃくおこなわせた結果けっか五山ごさん僧侶そうりょたちは「みなこのめいちゅう国家こっか安康あんこう一句いっく御名ぎょめいおかことゆう不敬ふけいとすべし」(徳川とくがわ実紀みき)と返答へんとうしたという。

これにたいして豊臣とよとみは、家老がろう片桐かたぎり且元かねめい作成さくせいしたぶんえいしんかん駿府すんぷ派遣はけん弁明べんめいこころみた。ところが、家康いえやす会見かいけんすら拒否きょひし、ぎゃくしんかん拘束こうそくし、且元を大坂おおさかかえした。且元は、秀頼ひでよりだい坂城さかき退去たいきょなどを提案ていあん妥協だきょうはかったが、豊臣とよとみ拒否きょひ。そして、豊臣とよとみが9月26にちに且元を家康いえやす内通ないつうしているとして追放ついほうすると、家康いえやす豊臣とよとみ浪人ろうにんあつめて軍備ぐんび増強ぞうきょうしていることを理由りゆうに、豊臣とよとみ宣戦せんせん布告ふこくしたのである。

この事件じけんは、豊臣とよとみ攻撃こうげき口実こうじつとするために家康いえやす以心崇伝すうでんらと画策かくさくして問題もんだいさせたものであるとかんがえられているが、当時とうじいみな常識じょうしきからすれば不敬ふけいかんがえられるものであり、また近年きんねん研究けんきゅうでは問題もんだい崇伝すうでん関与かんよはなかったとされている[147][148][注釈ちゅうしゃく 47]。なお歴史れきし学者がくしゃ河内かわうちすすむかおるは、以心崇伝すうでんあらわした『ほんひかり国師こくし日記にっき』に、以下いかのような通説つうせつとはぎゃく記述きじゅつがあることを指摘してきしている。 以心崇伝すうでん板倉いたくら勝重かつしげてた書状しょじょう(8がつ22にちじょう)には「文言もんごん以下いか善悪ぜんあく片桐かたぎり且元ぞんぜられざることも、もっともとの御諚ごじょう」「かねをばめいをすりつぶしそうらえとの内証ないしょう」とあり、かね銘文めいぶん重大じゅうだい問題もんだいだが、片桐かたぎり且元責任せきにんはなく、梵鐘ぼんしょうから問題もんだい銘文めいぶんをすりつぶせばいとの家康いえやす内意ないいがあったとしている[162]

その梵鐘ぼんしょう太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつまぬかれ、鋳潰いつぶされることもなく方広寺ほうこうじ境内けいだいのこされている(重要じゅうよう文化財ぶんかざい)。なお江戸えど時代じだいに、梵鐘ぼんしょう懲罰ちょうばつてき措置そちとして地面じめんかれらないようにされていたとする俗説ぞくせつがあるが、実際じっさいあやまりである(詳細しょうさい方広寺ほうこうじ記事きじ参照さんしょう)。

 

大坂おおさかふゆじん

編集へんしゅう

慶長けいちょう19ねん1614ねん)11月15にち家康いえやす二条城にじょうじょうはっしてだい坂城さかきめのについた。そして20まんにんからなる大軍たいぐん大坂おおさかしろ完全かんぜん包囲ほういしたが、ちからめはせずにだい坂城さかきがいにあるとりでなどをめるという局地きょくちせんおこなうにめた。徳川とくがわぐん木津きづ川口かわぐち今福いまふく鴫野しぎの博労ばくろうふちなどの局地きょくちせん勝利しょうりかさねたが、真田さなだまるたたかでは敗戦はいせんきっした。とはいえ戦局せんきょくるがすほどの敗戦はいせんではなく、徳川とくがわぐんあらたな作戦さくせん始動しどうした。午後ごご8午前ごぜん0午前ごぜん4一斉いっせいどきをあげさせ、さらに午後ごご10午前ごぜん2午前ごぜん6大砲たいほう石火矢いしびや大筒おおづつ和製わせい大砲たいほう)をはなたせ、これがきっかけとなり和睦わぼく交渉こうしょうおこなわれた。

和睦わぼく締結ていけつ慶長けいちょう20ねん1615ねん)1がつ中旬ちゅうじゅんまでにだい坂城さかき本丸ほんまるだけをのこ無防備むぼうびはだかじょうとなった。

従来じゅうらいせつでは、「豊臣とよとみかたまるさんまる破壊はかい形式けいしきてきなものでませ、時間じかんかせぎをねらっていたが、徳川とくがわかたそうすべてのくるわ曲解きょっかいすることで強引ごういん工事こうじ参加さんかして、豊臣とよとみがわおこなうとされたまるやぶ作業さぎょう勝手かってはじめ、さらに和議わぎ条件じょうけんはんして内堀うちぼりまでもてたため、豊臣とよとみがわ抗議こうぎしたが、最初さいしょから和議わぎまもるつもりの家康いえやすはこれを黙殺もくさつした」とされていたが、当時とうじ記録きろくには和議わぎ条件じょうけんだい坂城さかきの「そう構と内堀うちぼりふくまるさんまる破壊はかい」であることがしるされており、あやまりとえる。まる内堀うちぼり破壊はかいおこなわないという記述きじゅつ後世こうせいしょでのみ確認かくにんできる。またそう構を徳川とくがわかたが、まるさんまる豊臣とよとみかた破壊はかいする予定よていだったが、後者こうしゃ作業さぎょう徳川とくがわかたおこなったことは当時とうじ記録きろくにもしるされている。しかし、これにたいして豊臣とよとみかた抗議こうぎおこなったこと、時間じかんかせぎが目的もくてきだったこと、家康いえやすだますことを目的もくてきとしたこととうも、後世こうせいしょでしか確認かくにんはできない。この工事こうじ関係かんけいした伊達だてまさしむね細川ほそかわ忠利ただとししょ大名だいみょう往復おうふく書状しょじょうなどをても、工事こうじめぐ大坂おおさかかたとのあいだごと発生はっせいしているような形跡けいせきつからず「そう構の周囲しゅういをめぐる外堀そとぼりのみならず、まるさんまるて、これらのを壊平するというのは、大坂おおさかかた納得なっとくしていた、幕府ばくふ大坂おおさかかたとの当初とうしょからの合意ごういもとづくものであった」といえる[163]

大坂おおさかなつじん

編集へんしゅう

このころ、豊臣とよとみ主戦しゅせん穏健おんけん対立たいりつ主戦しゅせん和議わぎ条件じょうけんであったそうほりてを不服ふふくとし、内堀うちぼりかえ仕儀しぎた。そのため幕府ばくふは「豊臣とよとみたたかえ準備じゅんびすすめている」と詰問きつもん大坂おおさか城内きうち浪人ろうにん追放ついほう豊臣とよとみうつりふう要求ようきゅう。さらに、徳川とくがわ義直よしなお婚儀こんぎのためとしょうして上洛じょうらくするのにわせ、近畿きんき方面ほうめん大軍たいぐんおくんだ。そして、豊臣とよとみ要求ようきゅう拒否きょひされると、再度さいど侵攻しんこう開始かいしした。

これにたいして豊臣とよとみだい坂城さかきからの出撃しゅつげきさくをとったが、兵力へいりょく圧倒的あっとうてき不利ふりであり、幕府ばくふかたかく戦闘せんとう勝利しょうりおさめた。最終さいしゅうせん天王寺てんのうじ岡山おかやまたたかにおいても徳川とくがわぐん大軍たいぐんゆえに混乱こんらんきて一時いちじ本陣ほんじんげたが、結果けっか大勝たいしょうおさめ、豊臣とよとみかた大坂おおさかじょう退却たいきゃく内部ないぶ裏切うらぎりにより放火ほうかもあり落城らくじょうした。5月8にち秀頼ひでより淀殿よどどの、その側近そっきんらは自害じがい、ここに豊臣とよとみ宗家そうけ滅亡めつぼうした。

その大坂おおさかじょう完全かんぜんてられ、そのうえ徳川とくがわによってあらたなだい坂城さかき再建さいけんされて、秀吉ひでよし死後しごさづけられた豊国とよくに大明神だいみょうじんかみごうはいされ、豊國とよくに神社じんじゃ秀吉ひでよし廟所びょうしょであった豊国とよくにびょう閉鎖へいさ放置ほうちされている。明治維新めいじいしんのち豊国とよくに大明神だいみょうじんごう復活ふっかつし、東照宮とうしょうぐうにも信長のぶなが秀吉ひでよしまつられるようになっている。

さい晩年ばんねん

編集へんしゅう
 
鷹狩たかが姿すがた徳川とくがわ家康いえやすこうこれぞう駿府すんぷじょう本丸ほんまるあと

慶長けいちょう20ねん1615ねん)6がつ28にちこう陽成ようぜい天皇てんのうだいはち皇子おうじであるはちみや良純よしずみ親王しんのう猶子ゆうしとする。元和がんわ元年がんねん1615ねん)7がつ17にち禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと17じょう[164]制定せいていして、あさまく関係かんけい規定きていした。また、しょ大名だいみょう統制とうせいのために武家ぶけしょ法度はっと[165]一国一城いっこくいちじょうれい制定せいていされた。こうして、徳川とくがわによる日本にっぽん全域ぜんいき支配しはい実現じつげんし、徳川とくがわ264ねん天下てんかいしずえきずいた。

同年どうねん12がつみずからの本格ほんかくてき隠居いんきょしろとして駿河するが沼津ぬまづ柿田かきたがわ湧水わきみずにある古城こじょういずみあたまじょう縄張なわばり・さい整備せいびめいじたが、翌年よくねんやまいたおれる直前ちょくぜん1がつ12にち諸人もろびと迷惑めいわくするとの理由りゆう中止ちゅうしし、駿府すんぷじょうまるにあるもと竹腰たけこし正信まさのぶ屋敷やしき改築かいちく方針ほうしん転換てんかんしたが、これも体調たいちょう悪化あっか死去しきょによりえになっている[166]

元和がんわ2ねん1616ねん)の年始ねんしより、幕府ばくふによる各種かくしゅ儀礼ぎれい整備せいび一環いっかんとして武家ぶけしょ法度はっと条文じょうぶんしたがい、江戸城えどじょう駿府すんぷじょうとも登城とじょうするものには烏帽子えぼし装束しょうぞく狩衣かりぎぬ大紋だいもん素襖すおう)の着用ちゃくようめいじられた。1月9にち前年ぜんねん12がつ段階だんかいではきょうおこな意向いこうだったまごこう元服げんぷくを、吾妻あづまきょうなら勅使ちょくし下向げこうとも自身じしん江戸えどかい同地どうちおこなうことを秀忠ひでただつたえた。

同月どうげつ21にち鷹狩たかがり田中たなかやまいたおれ、小康しょうこう状態じょうたいとなった25にち駿府すんぷ帰還きかんした。その療養りょうよう生活せいかつはいるが、病状びょうじょう一進一退いっしんいったいをたどりつつも徐々じょじょ悪化あっかしていった。

3月27にち朝廷ちょうていから太政大臣だじょうだいじんにんぜられ、やまいして任官にんかん勅使ちょくし対面たいめんした。先述せんじゅつのように家康いえやすはかねてより太政大臣だじょうだいじん贈位ぞうい希望きぼうしていた。武家ぶけ出身しゅっしんしゃ太政大臣だじょうだいじんとしては、平清盛たいらのきよもりみなもと義満よしみつ足利あしかが義満よしみつ)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしいで史上しじょう4にんであった。これ以後いご駿府すんぷ相国しょうこくさまばれる。同月どうげつ29にち勅使ちょくし饗応きょうおう駿府すんぷあつまった大名だいみょう公家くげしゅ江戸えど下向げこう帰洛きらくめいじた。任官にんかん家康いえやす病状びょうじょうはいよいよ悪化あっかし、4がつ1にちには後述こうじゅつする遺言ゆいごんのこした。

元和がんわ2ねん1616ねん4がつ17にちこく現在げんざい午前ごぜん10ごろ)、家康いえやす駿府すんぷじょうにおいて75さいまん73さい4かげつ)で死去しきょした。即夜そくや久能山くのうざん遺体いたいうつされた[6]死去しきょさいして幕府ばくふは、大名だいみょう旗本はたもとたいして家康いえやす弔問ちょうもんのための下向げこう無用むようつたえ、寺院じいんたいしても後述こうじゅつする遺言ゆいごん法事ほうじおこな増上寺ぞうじょうじ以外いがい法要ほうよう不要ふようであるむね伝達でんたつしている。

東照宮とうしょうぐう実記じっき』がつたえるところでは、以下いかの2しゅ辞世じせいとしてんでいる。

  • うれしやと ふたためて 一眠ひとねむ浮世うきよゆめあかつきそら
  • さきにゆき あとのこるも おなごと つれてくだりぬを べつとぞおもふ」

死因しいんについては、たいかやあぶらげ、そのうえにすったにらをふりかけたてんぷらによる食中毒しょくちゅうどくせつなが一般いっぱんされてきた。しかし、家康いえやすたいてんぷらをべたのは、1がつ21にち夕食ゆうしょく[注釈ちゅうしゃく 48]死去しきょしたのは4がつ17にち日数にっすうがかかりぎていることから、食中毒しょくちゅうどく死因しいんとするには無理むりがあった。わって主流しゅりゅうとなっているのは胃癌いがんせつである。『徳川とくがわ実紀みき』が家康いえやす病状びょうじょうを「あいだせていき、吐血とけつくろ便びんはらにできたおおきなシコリは、さわって確認かくにんできるくらいだった」とめていること、および、かか症状しょうじょう胃癌いがん患者かんじゃおお見受みうけられるものである事実じじつが、その論拠ろんきょとなっている[168][169]

後代こうだい江戸城えどじょうないにてはてんぷらを料理りょうりすることが禁止きんしされており、これは家康いえやす死因しいんてんぷらによる食中毒しょくちゅうどくであるためにまれた禁忌きんきであるという説明せつめいがなされることもあるが、実際じっさいには、大奥おおおく侍女じじょ一人ひとりてんぷらを料理りょうりしていて火事かじしかけたために禁止きんしされたものである[注釈ちゅうしゃく 49]

当時とうじ殉死じゅんしかれ忠吉ただよし秀康ひでやす死去しきょにもおこなわれたように、すで流行りゅうこうきざしがえていたが、家康いえやす自身じしん殉死じゅんしきらきんじていた。このためのあるもの殉死じゅんしはなかったが、ふるくからつかえた老齢ろうれい小者こもの2にん殉死じゅんししたという逸話いつわがある。

家康いえやす神格しんかく

編集へんしゅう
 
日光にっこう東照宮とうしょうぐう陽明ようめいもんかかげられた「あずまあきらだい権現ごんげん」の勅額ちょくがく後水尾天皇ごみずのおてんのう宸筆しんぴつ

ほんひかり国師こくし日記にっき』によると、家康いえやすは「臨終りんじゅうこうはばからだをば久能くのおさめ葬禮そうれいをば增上寺ぞうじょうじにて申付もうしつけ位牌いはいをば三川みかわ大樹寺たいきでらだて一周忌いっしゅうきこう以後いご日光にっこうさんしょうどうをたて。勧請かんじょうこうへ。」と遺言ゆいごんしたとされる。この遺言ゆいごんしたがい、葬儀そうぎは5月17にち増上寺ぞうじょうじおこなわれ「安国やすくにいん殿どのとくはちすしゃたかしほまれ道和みちかずだい居士こじいん殿どのごう)(はちすしゃごう)(ほまれごう)(戒名かいみょう)(ごう)」という浄土宗じょうどしゅう戒名かいみょうがつけられた。この葬儀そうぎかみとしてまつられたため内々うちうちおこなわれ、しょ大名だいみょう参列さんれつ香典こうでん無用むようそう近国きんごくからのみの参集さんしゅうであった。遺体いたい駿府すんぷ南東なんとう久能山くのうざんげん久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう)にほうむられ、遺言ゆいごんどおり、いち周忌しゅうき関東平野かんとうへいやさい北部ほくぶにある日光にっこうあずまあきらしゃ分霊ぶんれいされた[171][注釈ちゅうしゃく 50]

かみごう側近そっきん天海てんかい崇伝すうでんかみりゅういん梵舜あいだで、権現ごんげん明神みょうじんのいずれとするかがあらそわれたが、秀吉ひでよしが「豊国とよくに大明神だいみょうじん」だったために明神みょうじん不吉ふきつとされ、山王さんのう一実かずみ神道しんとうのっとって薬師やくし如来にょらい本地ほんじとする権現ごんげんとされた。こののち壬生みぶたかしあきらじょう関白かんぱくていで「日本にっぽんだい権現ごんげん」「東光とうこうだい権現ごんげん」のふたつをしめし、また一説いっせつによると菊亭きくていはるも「れいだい権現ごんげん」「あずまあきらだい権現ごんげん」のあん勧進かんじんした[172]日本にっぽんだい権現ごんげん有力ゆうりょく候補こうほであったが、元和がんわ3ねん(1617ねん)2がつ21にちあずまあきらだい権現ごんげんかみごう、3月9にち神階しんかいせいいちおくられた。

また、あずまあきらしゃ今川いまがわただしぼう酒井さかい忠勝ただかつ尽力じんりょくにより正保まさやす2ねん1645ねん)11月3にちみやごう宣下せんげけ、東照宮とうしょうぐうとなり[注釈ちゅうしゃく 51]、さらに東照宮とうしょうぐうせいいち神階しんかいおくられた。

以上いじょうのように神格しんかくされた家康いえやす江戸えど幕府ばくふ始祖しそとしてあずまあきら神君しんくん権現ごんげんさま神祖しんそ[174]れつ[175]などともばれ、しょ大名だいみょう東照宮とうしょうぐう勧請かんじょうしたことにより全国ぜんこく各地かくちまつられ、江戸えど時代じだいとおして崇拝すうはいされた。徳川とくがわ家中かちゅうにおいては明治維新めいじいしん権現ごんげんさまとして崇拝すうはいされつづけた。

墓所はかしょ霊廟れいびょう

編集へんしゅう

徳川とくがわ家康いえやす埋葬まいそうとしての「墓所はかしょ」は一般いっぱんに、久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう廟所びょうしょ宝塔ほうとうかみびょう)と、日光にっこう東照宮とうしょうぐうおくしゃ宝塔ほうとうの2つとされる[176][177][178][179]徳川とくがわ宗家そうけだい18だい当主とうしゅ徳川とくがわ恒孝つねたかは、「徳川とくがわ家康いえやすおおやけ顕彰けんしょうよんひゃくねん記念きねん事業じぎょう」にさいして静岡しずおか商工しょうこう会議かいぎしょ広報こうほう連載れんさいしたコラムで、「日本にっぽん各地かくち開催かいさいされた家康いえやすおおやけよんひゃく大祭たいさいは、駿府すんぷきずかれたおおやけ墓所はかしょである久能くのさん東照宮とうしょうぐう大祭たいさいからスタートし」ときした[180]徳川とくがわ将軍しょうぐん15にんちゅう寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじのどちらにも墓所はかしょがないのは家康いえやす以外いがいには徳川とくがわ家光いえみつ徳川とくがわ慶喜よしのぶがいる[注釈ちゅうしゃく 52]

久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう廟所びょうしょ宝塔ほうとう
元和がんわ2ねん(1616ねん)に創建そうけんされた。創建そうけん当初とうしょ木造もくぞう桧皮葺ひわだぶきつくりであったが、寛永かんえい17ねん(1640ねん)に家光いえみつにより現在げんざい石造せきぞう宝塔ほうとうみやつこがえされた。「かみびょう」ともいう。家康いえやす遺命いめいにより西向にしむきにてられている[181]。1955ねん6がつ22にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた[182]
日光にっこう東照宮とうしょうぐうおくしゃ宝塔ほうとう
元和がんわ3ねん(1617ねん)4がつ日光にっこう社殿しゃでん完成かんせいし、4がつ8にち家康いえやすおくいんびょうとう改葬かいそうされた。そしていち周忌しゅうきにあたる4がつ17にち遷座せんざさいおこなわれた。1908ねん8がつ1にちきゅう国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)に指定していされた[183]
その
寛永かんえい20ねん(1643ねん)、将軍家しょうぐんけこう高野山こうのやまに10ねん歳月さいげつをかけて、家康いえやす秀忠ひでただまつ霊屋たまや徳川とくがわれいだい)をてた。かってみぎ建物たてもの家康いえやす霊屋たまやである。1926ねん4がつ19にちきゅう国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)に指定していされた[184][185]
1969ねん4がつ松平まつだいら菩提寺ぼだいじである愛知あいちけん岡崎おかざき大樹寺たいきでらにおいて、松平まつだいらはちだいはかとなり家康いえやす墓碑ぼひてられた[186][187]かたち久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう廟所びょうしょ宝塔ほうとうにも日光にっこう東照宮とうしょうぐうおくしゃ宝塔ほうとうにもているが、実際じっさいには日光にっこう東照宮とうしょうぐう宝塔ほうとうして制作せいさくされた[188][189]

年表ねんぴょう

編集へんしゅう
れき 西暦せいれき[注釈ちゅうしゃく 53] 月日つきひ[注釈ちゅうしゃく 53] かぞどし 内容ないよう
天文てんもん11ねん 1542ねん 12月26にち 1さい 誕生たんじょう三河みかわこく岡崎おかざきしろ
えいろく3ねん 1560ねん 5月19にち 19さい おけ狭間はざまたたか
えいろく5ねん 1562ねん 1がつ15にち 21さい 清洲きよすしろ訪問ほうもん織田おだ信長のぶなが同盟どうめいむすぶ。
えいろく9ねん 1566ねん 12月29にち 25さい 藤原ふじわら徳川とくがわ改姓かいせいしたがえ叙位じょいし、三河みかわまもる任官にんかん
えいろく11ねん 1568ねん 1がつ11にち 27さい 左京さきょう大夫たいふ
もとかめ元年がんねん 1570ねん 6月28にち 29さい 姉川あねがわたたか
もとかめ2ねん 1571ねん 1がつ5にち 30さい したがえじょう
1がつ11にち 侍従じじゅう
もとかめ3ねん 1572ねん 10月16にち 31さい 二俣ふたまたじょうたたか
1573ねん 12月22にち 三方みかたばらたたか
天正てんしょう2ねん 1574ねん 1がつ5にち 33さい せい
天正てんしょう3ねん 1575ねん 5月 34さい 長篠ながしのたたか
天正てんしょう5ねん 1578ねん 12月10にち 36さい したがえよん
12月29にち みぎ近衛このえけん少将しょうしょう
天正てんしょう8ねん 1580ねん 1がつ5にち 39さい したがえよんじょう
天正てんしょう10ねん 1582ねん 6月2にち 41さい 本能寺ほんのうじへん神君しんくん伊賀越いがごえ
天正てんしょう11ねん 1583ねん 10月5にち 42さい せいよん遡及そきゅう[注釈ちゅうしゃく 54]
10月7にち ひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう遡及そきゅう
天正てんしょう12ねん 1584ねん 2がつ27にち 43さい したがえさん参議さんぎ遡及そきゅう
3-4がつ 小牧こまき長久手ながくてたたか
天正てんしょう14ねん 1586ねん 10月4にち 45さい けん中納言ちゅうなごん
10月27にち だい坂城さかきにて豊臣とよとみ秀吉ひでよし臣従しんじゅう
11月5にち せいさん
天正てんしょう15ねん 1587ねん 8がつ8にち 46さい したがえけん大納言だいなごん羽柴はしば下賜かしされる(豊臣とよとみせいもか?)
1588ねん 12月28にち ひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかんりょう官職かんしょく兼任けんにん
天正てんしょう16ねん 1588ねん 1がつ13にちまでに 47さい ひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかんりょう官職かんしょく兼帯けんたいす。
天正てんしょう18ねん 1590ねん 8がつ 49さい 関東かんとううつりふうはちがつ朔日さくじつ江戸城えどじょうはいる。
天正てんしょう20ねん 1592ねん 9月16にち 51さい 豊臣とよとみ秀吉ひでよし執奏しっそうにより清華せいか家格かかく勅許ちょっきょ
慶長けいちょう元年がんねん 1596ねん 5月8にち 55さい せい内大臣ないだいじん
慶長けいちょう5ねん 1600ねん 9月15にち 59さい 関ヶ原せきがはらたたか
慶長けいちょう7ねん 1602ねん 1がつ6にち 61さい したがえいち
慶長けいちょう8ねん 1603ねん 2がつ12にち 62さい 右大臣うだいじん征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ源氏げんじ長者ちょうじゃ宣下せんげ
10月16にち 右大臣うだいじん辞任じにん
慶長けいちょう10ねん 1605ねん 4がつ16にち 64さい 征夷大将軍せいいたいしょうぐん辞職じしょく源氏げんじ長者ちょうじゃは如元
慶長けいちょう19ねん 1614ねん 3月8にち 73さい 朝廷ちょうていよりの太政大臣だじょうだいじんまたはじゅん三后さんこううちむね辞退じたい
1614ねん - 1615ねん 11月-12月 大坂おおさかふゆじん
慶長けいちょう20ねん/元和がんわ元年がんねん 1615ねん 5月 74さい 大坂おおさかなつじん
7がつ7にち 武家ぶけしょ法度はっと制定せいてい
7がつ17にち 禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと制定せいてい
元和がんわ2ねん 1616ねん 3月17にち 75さい 太政大臣だじょうだいじん
4がつ17にち 死去しきょ
元和がんわ3ねん 1617ねん 3月9にち おくせいいち

天正てんしょう15ねん(1587ねん)8がつ8にちづけの「したがえけん大納言だいなごん昇叙しょうじょ転任てんにん」の宣旨せんじでは豊臣とよとみ家康いえやす名義めいぎでなされた可能かのうせいがある。同日どうじつづけ息子むすこ徳川とくがわ秀忠ひでただ侍従じじゅう任官にんかんしているが、これは豊臣とよとみ秀忠ひでただ名義めいぎとなっている(「秀忠ひでただおおやけ任官にんかん位記いき宣旨せんじ宣命せんみょう書留かきとめ」(宮内庁くないちょうしょりょう蔵本ぞうほん))。同様どうように、同年どうねん12がつ28にちづけの「ひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかんりょう官職かんしょく兼帯けんたい」の宣旨せんじ慶長けいちょう元年がんねん(1595ねん)5がつ8にちづけせい内大臣ないだいじん昇叙しょうじょ転任てんにん宣旨せんじについても豊臣とよとみ家康いえやす名義めいぎであったとかんがえられる。現存げんそん日光にっこう東照宮とうしょうぐう所蔵しょぞう徳川とくがわ家康いえやす任官にんかん叙位じょい宣旨せんじは、もと宣旨せんじ遺失いしつしたため(徳川とくがわ実紀みき正保しょうほう2ねん5がつ8にちじょう)、正保まさやす2ねん1645ねん)に将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ要請ようせいにより朝廷ちょうていさい発行はっこうした文書ぶんしょとしてつたわっており、このさい発行はっこう手続てつづきの段階だんかい豊臣とよとみからみなもと変更へんこうした可能かのうせいがある。

天正てんしょう15ねん(1587ねん)12がつぼうしたがえ一位行左大臣近衛信輔、ひだり近衛このえ大将たいしょう兼帯けんたいす(公卿くぎょう補任ほにん)。同月どうげつ28にちしたがえぎょうけん大納言だいなごん徳川とくがわ家康いえやすひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかん兼帯けんたい日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ)。天正てんしょう16ねん(1588ねん正月しょうがつ13にちしたがえぎょうけん大納言だいなごん鷹司たかつかさ信房のぶふさひだり近衛このえ大将たいしょう兼帯けんたい公卿くぎょう補任ほにん)。これにより、同日どうじつまでに徳川とくがわ家康いえやすひだり近衛このえ大将たいしょうおよびひだりりょうかん兼帯けんたいすと想定そうてい出来できる。なお、ぶんろく5ねん(1596ねん)5がつ8にちづけ家康いえやすたいする内大臣ないだいじん宣旨せんじ日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ)においては、家康いえやす官位かんいは、せい二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿くぎょう補任ほにんでは、家康いえやすひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん記事きじく、けん大納言だいなごん鷹司たかつかさ信房のぶふさひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにんしている記事きじとなっている。

ぶんろく3ねん(1594ねん)9がつ21にちづけ、「ぶんろく三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重みえけんせきまちせき地蔵じぞういん文書ぶんしょ四日市よっかいちだい8かん史料しりょうへん近世きんせい四日市よっかいちへん発行はっこう所収しょしゅう)によれば、宛名あてな家康いえやす)は、「羽柴はしば江戸えど大納言だいなごん殿どの」となっており、この時点じてんでは、羽柴はしば苗字みょうじたまわっていたとかんがえられる[191]

さらに、その前年ぜんねんぶんろく2ねん(1593ねん)5がつ20日はつか羽柴はしばせい使用しようしている。東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう文書ぶんしょ[191]

人物じんぶつ逸話いつわ

編集へんしゅう
 
久能山くのうざん東照宮とうしょうぐうにある、徳川とくがわ家康いえやす手形てがた
 
徳川とくがわ家康いえやすぞうしば東照宮とうしょうぐうくら
 
徳川とくがわ家康いえやすぞう岡崎おかざき公園こうえん
 
徳川とくがわ家康いえやすぞうひがし岡崎おかざきえきまえ

人物じんぶつ

編集へんしゅう
容貌ようぼう
家康いえやす謁見えっけんしたルソン総督そうとくロドリゴ・デ・ビベロは、著作ちょさくの『ドン・ロドリゴ日本にっぽん見聞けんぶんろく』で、家康いえやす外貌がいぼうについて「かれ中背ちゅうぜい老人ろうじん尊敬そんけいすべき愉快ゆかい容貌ようぼうち、太子たいし秀忠ひでただ)のように、いろくろくなく、ふとっていた」としるしている。下腹かふくふくれており、みずか下帯したおびめることができず、侍女じじょむすばせていたとされている(『岩淵いわぶち夜話やわ』)[192]家康いえやす着用ちゃくようつじはなしみ小袖こそでは、身丈みたけ139.5cm、背中せなか中心ちゅうしんからそではしまで59cmのながさがあるため、身長しんちょうは155cmから160cmと推定すいていされる[193]
武術ぶじゅつ達人たつじん
  • 剣術けんじゅつは、しん当流とうりゅう有馬ありまみつるもり上泉かみいずみ信綱のぶつなしんかげりゅうながれをくむかみかげりゅう[注釈ちゅうしゃく 55] 剣術けんじゅつ開祖かいそ家来けらいでもある奥平おくだいら久賀くかごういちきゅうとき)にもとかめ元年がんねん(1570ねん)から7年間ねんかん師事しじぶんろく2ねん1593ねん)に小野おの忠明ただあきを200せき一刀いっとうりゅう剣術けんじゅつ伊東いとう一刀斎いっとうさい推薦すいせん)で秀忠ひでただ指南しなんとして、ぶんろく3ねん1594ねん)にしんかげりゅう柳生やぎゅう宗矩むねのり[注釈ちゅうしゃく 56]召抱めしかかえる。塚原つかはら卜伝ぼくでん弟子でしすじ松岡まつおかのりかたよりひとつの太刀たち伝授でんじゅけるなど、生涯しょうがいかけてまなんでいた。ただし、家康いえやす本人ほんにんは「家臣かしん周囲しゅういにいる貴人きじんには、最初さいしょいちげきからまも剣法けんぽう必要ひつようだが、相手あいて剣術けんじゅつ不要ふようである」と発言はつげんしたと『三河みかわ物語ものがたり』にあり、息子むすこにも「大将たいしょう戦場せんじょう直接ちょくせつたたかうものではない」とっていたといわれる。
  • 馬術ばじゅつも、室町むろまち時代じだい初期しょき大坪おおつぼけいしゅうとする大坪おおつぼりゅうまなんでいる。小田原おだわら征伐せいばつさいはしをわたるとき、周囲しゅうい家康いえやす馬術ばじゅつ注目ちゅうもくしたが、家康いえやす本人ほんにんうまからりて家臣かしんぶさってわたった(『武将ぶしょう感状かんじょう』)。
  • 弓術きゅうじゅつについては三方みかたばらたたかにおいて退却たいきゃく途中とちゅうに、前方ぜんぽういだ武田たけだへい騎射きしゃ何人なんにんたおして突破とっぱしている(『信長のぶながこう』)。
  • 鉄砲てっぽう名手めいしゅだったとわれ、浜松はままつ居城きょじょうに5.60あいだやく100m)さきじょうづるちょうとう射止いとめたという。またとんびつづけにとしたり、近臣きんしんたらなかったてき中央ちゅうおうてたという(『徳川とくがわ実紀みき』)。
好学こうがく
家康いえやす実学じつがくこのみ、板坂いたさかぼくとき家康いえやすについて「『論語ろんご』『中庸ちゅうよう』『史記しき』『さだかんせいよう』『延喜えんぎしき』『吾妻あづまあきら』をこのんだ」と記載きさいしている[194]家康いえやすはこれらの書物しょもつ関ヶ原せきがはら以前いぜんより木版もくはん伏見ふしみばん)で、大御所おおごしょになってからはどう活字かつじばん駿府すんぷばん)で印刷いんさつ刊行かんこうしていた。とくに『吾妻あづまあきら』は散逸さんいつした史料しりょうあつめての「北条ほうじょうほん」を開板かいはん[195]、またはやし羅山らざん抄出しょうしゅつほん作成さくせいさせており[196]吾妻あづまあきら研究けんきゅう草分くさわてき存在そんざいえる。また『源氏物語げんじものがたり』の教授きょうじゅけたり、三浦みうら按針あんじんから幾何きかがく数学すうがくまなぶなど、その興味きょうみ幅広はばひろかった。
典籍てんせき蒐集しゅうしゅうつとめ、駿府すんぷじょうに「駿河するが文庫ぶんこ」をつくり、やくいちまんてん蔵書ぞうしょがあったという。これらは将軍家しょうぐんけ御三家ごさんけゆずられて「駿河するがゆずるほん」とばれ、幕府ばくふ紅葉山もみじやま文庫ぶんこ尾張おわりよもぎひだり文庫ぶんこなどにがれ、今日きょうまでつたわっている。
南蛮なんばんからおくられたうすいし瑪瑙めのうらされたおり、『本草ほんぞう綱目こうもく』で確認かくにんさせたように実証じっしょうてきであった[194]
多趣味たしゅみ
鷹狩たかがりくすりつくりが家康いえやす趣味しゅみとしてとく有名ゆうめいであるが、ほかにも非常ひじょうおおくの趣味しゅみがあった。
  • 鷹狩たかがりは、府中ふちゅう御殿ごてん滞在たいざいしながら[注釈ちゅうしゃく 57] たかどうおこなわれたとの記録きろくのこっているほか、家康いえやす鷹狩たかがりにちなむ地名ちめい[198]青山あおやまただしなり内藤ないとう清成きよなり駿馬しゅんめ伝説でんせつなどの伝説でんせつ各地かくちのこすことになった。家康いえやす鷹狩たかがりたいする見方みかた独自どくじで、鷹狩たかがりなぐさめ(気分きぶん転換てんかん)のための遊芸ゆうげいにとどめずに、政治せいじてき軍事ぐんじてき視察しさつねた、身体しんたいきたえる一法いっぽうとみなし、内臓ないぞうはたらきをうながしてかいしょく快眠かいみんする摂生せっせい養生ようじょう)とかんがえていた(『中泉なかいずみ古老ころうしょだん』)[199][200]
  • くすりつくりは、はちあじ地黄じおうまるなど生薬きぐすり調合ちょうごうおこない、このくすりが、ぞくに「はち」とよばれていたことから、頭文字かしらもじはちになぞらえ、はちだんしに保管ほかんしていた[199]。「くすりい」ともわれる獣肉じゅうにくしょくすなど記録きろくおおい。駿府すんぷじょうがいには家康いえやすひらいた薬園やくえんがあり、死後しごすたれたがとおる年間ねんかん復興ふっこうした。
  • 猿楽さるがく現在げんざい名称めいしょうのう)は、わかいころから世阿弥ぜあみ家系かけいつらなる観世かんぜ十郎じゅうろう太夫たゆうまなび、みずかえんじるだけでなく、故実こじつにもつうじていた。このためもあってか、のう江戸えど幕府ばくふしきらくとされた。とくさいわいわかまいこのんだという。駿府すんぷじょうさんまるには能楽のうがく専用せんよう屋敷やしきがあり、家康いえやす度々たびたび家族かぞく大名だいみょう公家くげとも観覧かんらんした。
  • 囲碁いご本因坊ほんいんぼうさんすな天正てんしょう15ねん(1587ねんうるう11がつ13にち京都きょうとから駿府すんぷまねいている。家臣かしん奥平おくだいらしんあきら京都きょうと本因坊ほんいんぼう門下もんかとなりこくさい駿府すんぷれてきたとされる[193]自身じしんたしなんだのみならず家元いえもと保護ほごし、確立かくりつした功績こうせきから、家康いえやす囲碁いご殿堂でんどう顕彰けんしょうされている。
  • 将棋しょうぎ一世いっせい名人めいじん大橋おおはしそうかつら慶長けいちょう17ねん1612ねん)に扶持ふちあたえる。この功績こうせきにより、平成へいせい24ねん2012ねん)の名人めいじん制度せいど400ねん記念きねんして、将棋しょうぎじゅうだん推戴すいたいじょう贈呈ぞうていされる[201]
  • 香道こうどうこの薫物たきものたきもの用材ようざいとして、東南とうなんアジア各国かっこくてた国書こくしょなかとく極上ごくじょうとされた伽羅きゃら所望しょもうする記述きじゅつがあり、遺品いひんにもこう品質ひんしつ香木こうぼく多数たすうのこされている[202]。なお有名ゆうめい蘭奢らんじゃまちについては、慶長けいちょう7ねん6がつ10日とおか東大寺とうだいじ奉行ぶぎょう本多ほんだ正純まさずみ大久保おおくぼ長安ながやす派遣はけんされてせいくらいん宝庫ほうこ調査ちょうさ実施じっし[203]現物げんぶつ確認かくにんこそしたものの、ると不幸ふこうがあるといういいつたえにもとづきりはおこなわなかった(『当代とうだい』)。どう8ねん2がつ25にち開封かいふうして修理しゅうりおこなわれている(続々ぞくぞくぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう慶長けいちょうじゅう九年薬師院実祐記」)[203]
あたらしいもの
 
関ケ原せきがはらたたかいにくまでの道中どうちゅう着用ちゃくようしたとされる南蛮なんばんどう具足ぐそく
南蛮なんばんどう南蛮なんばん時計とけいなどあたらしい物好ものずきだった。
芸事げいごとこのまない
  • 今川いまがわでの人質ひとじち時代じだい今川いまがわ義元よしもとまい所望しょもうされたが、猿楽さるがくにしてしいと唖然あぜんとさせた。家臣かしんわりにっている。
  • 家康いえやす幼少ようしょうよりちゃ世界せかい身近みぢかにあったが、信長のぶなが秀吉ひでよしことなりちゃ社交しゃこうたいする積極せっきょくせいられない[205]家康いえやす遺産いさんである『駿府すんぷ文物ぶんぶつ』には足利あしかが将軍家しょうぐんけ以来いらい唐物とうぶつ名物めいぶつだい名物めいぶつ目白押めじろお[206]だが、久能山くのうざん東照宮とうしょうぐうにある家康いえやす日常にちじょうもちいた手沢しゅたくひんはそれらにくら質素しっそしなおおい。
  • ただしちゃむこと自体じたいこのんでおり、天正てんしょう12ねん(1584ねん)に松平まつだいらちかしたく上林うえばやし政重まさしげ製茶せいちゃ支配しはいめいじ、毎年まいとしちゃ献上けんじょうさせている。なお、おやたく家康いえやすかた茶入ちゃいれはつはな』を献上けんじょうし、政重まさしげのち宇治うじ茶畑ちゃばた支配しはいまかせられ、伏見ふしみじょうたたかいで戦死せんししている。
家康いえやす尊敬そんけいしていた人物じんぶつ
家康いえやすは、中国ちゅうごく人物じんぶつとして劉邦りゅうほうとうふとそうちょうちょうりょうかんしん太公望たいこうぼうぶんおうたけおうしゅうこう尊敬そんけいしている。着目ちゃくもくすべきはすべてしゅうかんとう時代じだい人物じんぶつぜん王朝おうちょう暴君ぼうくんたおして長期ちょうき政権せいけん樹立じゅりつしたおう皇帝こうてい)とその功臣こうしんげられている。日本にっぽん人物じんぶつではみなもと頼朝よりとも尊敬そんけいしていた(『慶長けいちょう』)。
武田たけだ信玄しんげん
武田たけだ信玄しんげんおおいにくるしめられた家康いえやすではあるが、施政しせいには軍事ぐんじ政治せいじども武田たけだ手本てほんにしたものがおおい。軍令ぐんれいかんしては重臣じゅうしん石川いしかわすうただし出奔しゅっぽんにより以前いぜんのものからあらためる必要ひつようられたという事情じじょうもある。天正てんしょう10ねん(1582ねん)の武田たけだ滅亡めつぼう本能寺ほんのうじへん天正てんしょうみずのえうまらん武田たけだのこりょう確保かくほすると、武田たけだ遺臣いしんおおくを家臣かしんだんんでいる。自分じぶん五男いつお信吉のぶよしに「武田たけだ」の苗字みょうじあたえ、武田たけだ信吉のぶよし名乗なのらせ水戸みとはんおさめさせている。
書画しょが
翁草おきなぐさ』(神沢かみさわさだみき)や『えい茗夜ばなし』(渡辺わたなべみゆきあん)には「権現ごんげんさま家康いえやす)は無筆むひつ同様どうよう悪筆あくひつにてこう」とある。しかし、少年しょうねんから青年せいねんみずか発給はっきゅうした文書ぶんしょるいには、規矩きく忠実ちゅうじつ作法さほうどおりのくずかたせ、よく手習てならいしたあとさっせられる。とく岡崎おかざき時代じだい初期しょき書風しょふうには力強ちからづよ覇気はきあふれ、気力きりょく充実じゅうじつした様子ようすうかがえる。こうした文書ぶんしょるいには、普通ふつう右筆ゆうひつくべき公文書こうぶんしょふくまれており、初期しょきには専属せんぞく右筆ゆうひつかれていなかったようだ。天正てんしょう年間ねんかんには、家臣かしん領土りょうどえて発給はっきゅうする文書ぶんしょ増加ぞうかし、大半たいはん奉行ぶぎょう右筆ゆうひつゆだねられていく。しかし、近臣きんしんてた書状しょじょう子女しじょてた消息しょうそくみずからの誠意せいい披露ひろうする誓書せいしょ自身じしんふでっている。家康いえやすふでまめで、数値すうちからしょうろく代官だいかんてたとみられる金銭きんせん請取うけとりしょ年貢ねんぐ皆済かいさいじょう天正てんしょうから晩年ばんねんまで確認かくにんできる。家臣かしん金銀きんぎんかんする実務じつむてき内容ないようなものから、薬種やくしゅこうわせなどの趣味しゅみてき覚書おぼえがき、さらに駿府すんぷじょう時代じだい鷹狩たかがり日程にっていしるした道中どうちゅう宿やどづけなどものこっている。
文芸ぶんげいとして家康いえやすしょながめると、家康いえやす定家さだいえりゅうこのみ、藤原ふじわら定家さだいえふで小倉おぐら色紙いろがみ臨模りんもし、手紙てがみでも定家さだいえりゅう影響えいきょうけたややくせつよ筆跡ひっせきうかがえるようになるが、一方いっぽう連綿れんめんとした流麗りゅうれい書風しょふうせる和歌わか短冊たんざくのこっており、家康いえやす実学じつがくばかりでなく古典こてん名筆めいひつにもまなんだ教養きょうようじんでもあったいちめんあらわしている[207]。ただし『慶長けいちょう』には、先述せんじゅつ実学じつがくとの対比たいひで、根本こんぽん詩作しさくうた連歌れんがきらったとある。簡略かんりゃく筆致ひっち墨画ぼくがが10てんあまつたわっているが、確実かくじつ家康いえやす遺品いひんわれるものはなく、伝承でんしょういきない。しかし、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』に家康いえやすえがいた拝領はいりょうした記録きろくがあり、余技よぎとしてえがいていたことがうかがえる。
健康けんこう指向しこう
家康いえやす健康けんこうかんする指向しこうつよく、当時とうじとしては長寿ちょうじゅの75さいまん73さい4ヵ月かげつ)まできた。これはすこしでもながきることで天下取てんかとりの機会きかいようとしたものわれ、実際じっさい関ヶ原せきがはら合戦かっせん家康いえやす59さい豊臣とよとみ滅亡めつぼうは74さいのときであり、長寿ちょうじゅゆえににした天下てんかであった。
その食事しょくじ質素しっそで、戦国せんごく武将ぶしょうとして戦場せんじょうにいたころの食生活しょくせいかつくずさなかった。麦飯むぎめしさかなこのみ、野菜やさい煮付につけや納豆なっとうもよくべていた。けっして過食かしょくすることのないようにも留意りゅういしていたといわれる。さけつよかったようだが、これもみすぎないようにしていた。
和漢わかん生薬きぐすりにも精通せいつうし、その知識ちしき専門せんもんおどろくほどであった。海外かいがい薬学やくがくしょである本草ほんぞう綱目こうもくざい局方きょくほう読破どくはし、慶長けいちょう12ねん1607ねん)から、本格ほんかくてき本草ほんぞう研究けんきゅうみだした[202]調合ちょうごうさいもちいたという小刀こがたなや、青磁せいじはち乳棒にゅうぼう現存げんそんする。腎臓じんぞう膵臓すいぞうによいとされているはちあじ地黄じおうまるとくこのんで処方しょほうして日常にちじょう服用ふくようしていたという。松前まさきけいひろから精力せいりょくざいになるうみいぬじんオットセイ慶長けいちょう15ねん1610ねん)と慶長けいちょう17ねん1612ねん)の2かいにわたり献上けんじょうされており、家康いえやすくすり調合ちょうごう使用しようされたという記録きろくのこっている(『当代とうだい』)[199][202]欧州おうしゅう薬剤やくざいにも関心かんしんしめしており、関ヶ原せきがはらたたかいでは、怪我けがをした家来けらい石鹸せっけん使用しようさせ、感染かんせんしょう予防よぼうさせたりもしている。あずまあきらだい権現ごんげん本地ほんじふつ薬師やくし如来にょらいとなった所以ゆえん家康いえやすのこの健康けんこう指向しこう由来ゆらいしている。
本草ほんぞう研究けんきゅうも、幕府ばくふ薬園やくえん開設かいせつにつながることから、医療いりょう史上しじょう一定いってい役割やくわりたしたといえる[199]家康いえやす侍医じい一人ひとりりょいちかん創業そうぎょうした柳屋やなぎや本店ほんてんいま現存げんそんする。
晩年ばんねんには心身しんしん健康けんこうのために東南とうなんアジアから香木こうぼくあつめていたという[208]
しかし、晩年ばんねんやまいたおれたさいには、介抱かいほうした侍医じいあたま片山かたやまそうあきら診察しんさつ結果けっか胃癌いがん」であるとめたものの[209]家康いえやす本人ほんにんすんしろ(サナダちゅうかたまりであるとあやまった自己じこ診断しんだんくだしてしまう。そうあきら調合ちょうごうしたくすり服用ふくようせず、自身じしん調合ちょうごうした万病まんびょうぎんえきなどをつづけるも、効果こうか病状びょうじょう悪化あっかつづけた。ちち心配しんぱいした秀忠ひでただ万病まんびょう服用ふくようを諫めてもらうようそうあきらたのみ、おなじことをおもっていたそうあきら服用ふくようひかえるよう家康いえやす進言しんげんした。
すると薬学やくがく研究けんきゅうしゃのプライドをきずつけられた家康いえやすあごふるわせていかりだし、そうあきら信州しんしゅう高島たかしまはん流罪るざいにするという暴挙ぼうきょおよんだ。日頃ひごろ養生ようじょう細心さいしん注意ちゅういはらい、「医師いし家康いえやす」とわれるほど医療いりょう自信じしんっていた家康いえやす人生じんせい最後さいごにきて誤診ごしんにより寿命じゅみょうちぢめてしまったのは皮肉ひにくといえる[210][199][211]
寡黙かもく苦労くろうじん
幼少ようしょうのころから、じゅうすうねんもの人質ひとじち生活せいかつをおくり、譜代ふだい家臣かしん裏切うらぎりにより祖父そふちちころされており、家督かとく相続そうぞく三河みかわ一向いっこう一揆いっきにおいて多数たすう家臣かしん裏切うらぎられている。また、小牧こまき長久手ながくてたたかのちには重臣じゅうしん石川いしかわすうただしにも裏切うらぎられている。はたらもの律儀りちぎしゃ忠義ちゅうぎしゃおおく、結束けっそくかた強兵きょうへい賞賛しょうさんされる三河そうご国人くにびとだが反面はんめん頑固がんこ融通ゆうずうかず利己りこてきでプライドがたかい。結束けっそく縁故えんこ関係かんけいによるところおおきい。腹心ふくしん以外いがい家臣かしんだんとの交流こうりゅうすくなく家臣かしんたちの家康いえやすひょうには「なにをかんがえているかわからない」「言葉ことばすう非常ひじょうすくない」といった表現ひょうげんおおい。
倹約けんやく
家康いえやす倹約けんやくにまつわる逸話いつわおおい。
  • さむらい座敷ざしき相撲すもうをしているときにたたみ裏返うらがえすようにった(『駿河するが土産みやげ』)。
  • 商人しょうにんより献上けんじょうされた蒔絵まきえ装飾そうしょくほどこした御虎子おまる便器べんき)のあく趣味しゅみさに激怒げきどし、ただちにこわさせた(『なますあまり雑録ざつろく』)。
  • 代官だいかんからの金銀きんぎん納入のうにゅう報告ほうこくじかき、貫目かんめ単位たんいまではぞうおさめ、のこりのもんめぶん単位たんい私用しようぶんとして女房にょうぼうしゅあつめて計算けいさんさせた(『翁草おきなぐさ』)。
  • 三河みかわにいたとき、なつ家康いえやす麦飯むぎめしべていた。あるとき部下ぶか米飯べいはんうえむぎをのせしたところ戦国せんごく時代じだいにおいて百姓ひゃくしょうにばかり苦労くろうさせて(なつもっと食料しょくりょうがなくなる時期じき自分じぶんだけ飽食ほうしょくできるかとった(『せい武将ぶしょう感状かんじょう』)。
  • うまやこわれても、そちらのほうが頑強がんきょううまそだつとい、そのままにした(『明良あきよしひろしはん』)。
  • 家臣かしん華美かび屋敷やしきつくらないようあたえる敷地しきちちいさくし、自身じしん屋敷やしき質素しっそであった(『前橋まえばし旧聞きゅうぶん覚書おぼえがき』『見聞けんぶんしゅう』)。
  • 蒲生がもうきょう秀吉ひでよしのち天下てんかれる人物じんぶつとして前田まえだ利家としいえをあげ、家康いえやすについてはひと知行ちぎょうおおあたえないので人心じんしんられず、天下てんかじんにはなれないだろうといった(『  老人ろうじん雑話ざつわ』)。
この結果けっか家康いえやす莫大ばくだいざい次代じだいのこしている。『落穂おちぼしゅう追加ついか』では家康いえやすのは吝嗇りんしょくでなく倹約けんやくひょうしている。たとえば『信長のぶながこう』にしるされた織田おだ信長のぶなが接待せったいにおいてはきょうから長谷川はせがわ秀一ひでかずまねいて趣向しゅこうらした接待せったいおこなっている。
家康いえやすおおやけ遺訓いくん
家康いえやす遺訓いくんとして「ひと一生いっしょう重荷おもにまけとおみちをゆくがごとし、いそぐべからず。不自由ふじゆうつねとおもへば不足ふそくなし、こころにもちおこらば困窮こんきゅうしたるときおもすべし。堪忍かんにん無事ぶじ長久ちょうきゅうもと、いかりはてきとおもへ。かちごとばかりりて、まくることをしらざれば、がい其身にいたる。おのれをせめひとをせむるな。およばざるはたるよりまされり」という言葉ことばひろられているが、これは偽作ぎさくである。明治めいじ時代じだいもと500せきりの幕臣ばくしん池田いけだまつかい徳川とくがわ光圀みつくに遺訓いくんわれる『ひとのいましめ』をもとに、家康いえやす63さい自筆じひつ花押かおう文書ぶんしょせて偽造ぎぞうしたものである。これを高橋泥舟たかはしでいしゅうらが日光にっこう東照宮とうしょうぐうなど各地かくち東照宮とうしょうぐうおさめた[212]
また、これとよくた『東照宮とうしょうぐう遺訓いくん』(『家康いえやすおおやけ遺訓いくん』)は『松永まつながみちとき聞書ききがき』、『井上いのうえ主計かずえあたま聞書ききがき』、『万歳ばんざいたまもの』ともいう。これは松永まつながみちときが、井上いのうえ主計かずえあたま井上いのうえただし)が元和がんわはじめ、だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ使つかいで駿府すんぷ家康いえやすのもとに数日すうじつあいだ滞在たいざいしたさい家康いえやすからいたはなし収録しゅうろくしたものという。江戸えど時代じだい禁書きんしょであった。一説いっせつには偽書ぎしょとされている。

織田おだとの関係かんけい

編集へんしゅう

平野ひらの明夫あきお家康いえやすあて信長のぶなが書状しょじょうもとかめよんねんよんがつろくにちまではしょとめ文言もんごん恐々きょうきょう謹言きんげん宛名あてな脇付わきづけすすむらんないしすすむらんこうとあるが天正てんしょうねんいちがつじゅうにちづけ以後いごしょどめ謹言きんげんになり、脇付わきづけくなっている。これをとうやからたいする書札しょさつれいからしたさまへの書札しょさつれい変化へんかしていると分析ぶんせきしている[213]。 また家康いえやすから信長のぶながへの書状しょじょう天正てんしょうねんきゅうがつじゅうさんにちけのしょとめ文言もんごん恐々きょうきょう謹言きんげんだが、天正てんしょうねんうるうじゅういちがつきゅうにちづけ以降いこう最高さいこう恐惶きょうこう謹言きんげんもちいられていてしかも脇付わきづけ最高さいこう敬意けいいしめす「人々ひとびと御中おんちゅう」がもちいられている。 これをって平野へいや家康いえやす一門いちもんじゅんずる織田おだ政権せいけんいち大名だいみょうであったとくくっている[214]谷口たにぐち克広かつひろ武田たけだ滅亡めつぼうさい駿河するが信長のぶながから家康いえやすあておこないをけたといてあるのは信長のぶながこうだけでなく当代とうだいにも「駿河するが国家こっかやすしくださる」とあるうえ、三河みかわ物語ものがたりでさえも、「駿河するがをは家康いえやすつかわされて」という表現ひょうげんもちいているとしちゅう日記にっきでもこのころ信長のぶながを「上様うえさま」とんでおり、家康いえやす家臣かしんでさえ、たて関係かんけいしょうじていることをみとめざるをえなかったとしている[215]

家康いえやす生誕せいたんは、三河そうごこく岡崎おかざきだが、生涯しょうがいつうじて現在げんざい静岡しずおかけん浜松はままつ駿府すんぷ)を本城ほんじょうあるいは生活せいかつ拠点きょてんとしている期間きかんながく、岡崎おかざきにいたのは、尾張おわりこく織田おだのもとで人質ひとじちとしてごした2ねんふくめ、幼少ようしょうおよびおけ狭間はざまたたか10ねんきわめてみじかい。

幼少ようしょうからっていた洞察どうさつりょく

編集へんしゅう
 
教導きょうどう立志りっしもと』「徳川とくがわたけせんだい」(小林こばやし清親きよちかふで)。松平まつだいらちくせんだい徳川とくがわ家康いえやす)がいし合戦かっせん勝敗しょうはい行方ゆくえてる場面ばめんえがく。
10さいのころ、たけせんだい家康いえやす)は駿河するが安倍川あべかわ河原かわら子供こどもたちいし合戦かっせん見物けんぶつした。150人組にんぐみと300人組にんぐみくみ対決たいけつで、付添つきそいの家臣かしん人数にんずうおおい300人組にんぐみつと予想よそうした。だがたけせんだいは「人数にんずうすくないほうかえっておたがいのちからわせられるから(150人組にんぐみが)つだろう」とった。家臣かしんは「なにをおかしなことをわれるのですか」とわなかったが、たけせんだい予想よそうどおり、150人組にんぐみったので、たけせんだい家臣かしんあたまはたき、「それたことか」とわらったという。ただしこの逸話いつわは、天下てんかひととなり江戸えど幕府ばくふひらいた家康いえやす顕彰けんしょうするために後世こうせい創作そうさくされたのではないかとする指摘してきもある[216]

肖像しょうぞう

編集へんしゅう
平成へいせい24ねん2012ねん)、徳川とくがわ記念きねん財団ざいだん所蔵しょぞうしている歴代れきだい将軍しょうぐん肖像しょうぞうかみがた下絵したえ)が公開こうかいされた[217]家康いえやすかみがたは「あずまあきら大権たいけん現像げんぞう」(白描はくびょう淡彩たんさいほん)とされており、よくられている肖像しょうぞうとはちがったおもむきえがかれている。

信長のぶなが兄弟きょうだい

編集へんしゅう
フロイス日本にっぽん』では、「信長のぶなが姉妹しまいめとり」とあり[218]家康いえやす一貫いっかんして「信長のぶなが義弟ぎてい」とかれている。しかし現在げんざいのところ、この女性じょせい存在そんざい裏付うらづける史料しりょうつかっていない。

神君しんくん伊賀越いがごえ

編集へんしゅう
本能寺ほんのうじへん直後ちょくご神君しんくん伊賀越いがごえでは伊賀いが甲賀こうが忍者にんじゃ力添ちからぞえをけて三河みかわこくまで逃走とうそうした。その道中どうちゅう甲賀こうが忍者にんじゃ多羅尾たらお居館きょかんいたとき、家康いえやす警戒けいかいしてしろにゅうろうとしなかったが、城主じょうしゅ多羅尾たらお光俊みつとし赤飯せきはんあたえたところ、信用しんようしてしろ一泊いっぱくした。その伊賀いが豪族ごうぞくひゃく服部はっとりいねもり柘植つげ柘植つげ清広きよひろひとし護衛ごえい白子しらこまで辿たどき、このこう多羅尾たらお近江おうみこくで8,000せきりょうする代官だいかんに、柘植つげ江戸城えどじょうつとめの旗本はたもととなった。伊賀いが甲賀こうが忍者にんじゃらは「伊賀いが同心どうしん」としてかかえられのち江戸えどうつった。また、このときのれいとしてひゃくには仏像ぶつぞうあたえ、これは現在げんざい一族いちぞくつじ所有しょゆうしている。

影武者かげむしゃせつ

編集へんしゅう
大坂おおさかなつじんさい家康いえやす真田さなだ信繁のぶしげられ、混乱こんらん幕府ばくふ安定あんてい作業さぎょう円滑えんかつすすめるために影武者かげむしゃ病死びょうしするまで家康いえやす身代みがわりをしていたとされるせつ一説いっせつ異母弟いぼていきこりおくめぐみさいもしくは小笠原おがさわら秀政ひでまさではないかといわれる。大阪おおさかさかいみなみはじめてらには家康いえやすはかとされるものがある。徳川とくがわ家康いえやす影武者かげむしゃせつ参照さんしょう

みなもとへの「復姓ふくせい時期じきについて

編集へんしゅう

家康いえやすえいろく4-6ねんごろの文書ぶんしょでは本姓ほんせいとして「源氏げんじ」を使用しようしており、えいろく9ねん1566ねん)に「徳川とくがわ」を名乗なのったさい藤原ふじわら改姓かいせいしているが、みなもと復姓ふくせいした時期じきについては、はっきりしない。かつては近衛このえぜんひさによる年代ねんだい不明ふめい書状しょじょうが「(改姓かいせいは)将軍しょうぐんもちづけこうてのこと」としていることから[219]関ヶ原せきがはらたたか勝利しょうり征夷大将軍せいいたいしょうぐん任官にんかんのためよしりょう系図けいず借用しゃくよう[注釈ちゅうしゃく 59]して系図けいず加工かこうし、みなもともどしたというのが通説つうせつであった[75][221]

しかし米田よねだ雄介ゆうすけかんつとむ壬生みぶ文書ぶんしょ調査ちょうさしたところ、天正てんしょう20ねん9がつ清華せいかしげる勅許ちょっきょくちせんあんにおいてみなもと氏姓しせいもちいられているなど[222]秀吉ひでよし生前せいぜんからの源氏げんじ使用しようれい存在そんざいしている。りゅうたに和比古かずひこは、天正てんしょう16ねん4がつこう陽成ようぜい天皇てんのう聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこう様子ようすおさめた『聚楽じゅらく行幸ぎょうこう』には、家康いえやすが「大納言だいなごんみなもと家康いえやす」と誓紙せいし署名しょめいしているという記述きじゅつがあることから、みなもとへの復姓ふくせいすくなくともこの時期じきからではないかとている[223]

天正てんしょう14ねん1586ねん)、安房あわこく里見さとみ義康よしやす新田にった一族いちぞく)におくった同年どうねん3がつ27にちづけ起請文きしょうもんでは、徳川とくがわ里見さとみ新田にった一族いちぞく同族どうぞく関係かんけいにあることを主張しゅちょうしている。ただし、これ以降いこうも「藤原ふじわら家康いえやす名義めいぎ書状しょじょう現存げんそんしており[224]、この起請文きしょうもん偽文書ぎぶんしょ可能かのうせい指摘してきされている[225]。また、天正てんしょう14ねんには藤原ふじわらもちいた寺社じしゃへの朱印しゅいんじょうのこっている[226]天正てんしょう19ねん1591ねん)、家康いえやす発給はっきゅうした朱印しゅいんじょうせいしるされているものは「大納言だいなごんげん朝臣あそん」ないし「せいげん朝臣あそん」としるされており、藤原ふじわら使用しようされていない[226]

笠谷かさだに家康いえやす源氏げんじ復姓ふくせい時期じき将軍しょうぐんであった足利あしかが義昭よしあき出家しゅっけ時期じきかさなっており、ひだりりょうかんひだり近衛このえ大将たいしょうなど将軍家しょうぐんけしかゆるされてこなかったかんをうけていることから、“豊臣とよとみ政権せいけんした家康いえやすはすでにみなもと公称こうしょうゆるされ将軍しょうぐん任官にんかんうごきが公然こうぜんし、豊臣とよとみ関白かんぱく政権せいけんしたでの徳川とくがわすすむ軍制ぐんせい内包ないほうするかたちでの、権力けんりょくじゅう構造こうぞうてきくにせい検討けんとうしていた”と記述きじゅつしている[227]阿部あべ能久よしひさは、天正てんしょう16ねん足利あしかが義昭よしあき正式せいしき征夷大将軍せいいたいしょうぐん辞任じにんしたとしであり、豊臣とよとみ秀吉ひでよし家康いえやす将来しょうらいの「徳川とくがわ将軍しょうぐん体制たいせい」を見越みこして源氏げんじ改姓かいせいをしたことを認識にんしきしつつ、それを逆手さかてって関東かんとう地方ちほうおさめさせたととらえ、さらに清和せいわはじめ河内かわうちはじめ)の正統せいとう末裔まつえいである足利あしかがのこりとえる喜連川きつれがわ古河ふるかわ公方くぼう再興さいこうさせることで、家康いえやす喜連川きつれがわ佐竹さたけなど関東かんとうしょ大名だいみょうとのあいだ一定いってい緊張きんちょう関係かんけいをもたらすことで家康いえやす野心やしんふうめようとしたと推測すいそくしている[114]

江戸えど幕府ばくふ支配しはいかんして

編集へんしゅう
 
徳川とくがわ家康いえやす発行はっこうされたオランダとの通商つうしょう許可きょかしょう慶長けいちょう)14ねん7がつ25にち1609ねん8がつ24にちづけ

家康いえやすいしずえきずいた徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ頂点ちょうてんとする江戸えど幕府ばくふ支配しはい体系たいけいは、それまでの日本にっぽん統治とうちしたどの組織そしきよりもきわめて[独自どくじ研究けんきゅう?]完成かんせいたかいものである。江戸えど幕府ばくふきょう大坂おおさかさかいなど全国ぜんこく幕府ばくふ直轄ちょっかつ主要しゅよう都市とし天領てんりょう)をふくやく400まんせき旗本はたもと知行ちぎょうふくめれば全国ぜんこくそう石高いしたかの1/3に相当そうとうするやく700まんせき独占どくせん管理かんり親藩しんぱん譜代ふだい大名だいみょうりょうくわえればさらに増加ぞうかする)し、さらには佐渡さど金山かなやまなど重要じゅうよう鉱山こうざん貨幣かへいつく権利けんり独占どくせんして貨幣かへい経済けいざい根幹こんかんもおさえるなど、大名だいみょう追随ついずいゆるさない圧倒的あっとうてき権力けんりょく基盤きばんち、これを背景はいけい全国ぜんこくしょ大名だいみょう寺社じしゃ朝廷ちょうてい、そして皇室こうしつまでをもいくつもの法度はっとまり支配しはいした。これにさからうもの、もしくは幕府ばくふたいして危険きけんであると判断はんだんされたものには容赦ようしゃをせず、そのため江戸えど幕府ばくふ初期しょきはいくつもの大名だいみょう改易かいえきつぶし)のにあっており[注釈ちゅうしゃく 60]、これには譜代ふだい親藩しんぱん大名だいみょうふくまれる。これは朝廷ちょうてい皇室こうしつでさえも例外れいがいではなく、紫衣しえ事件じけんなどはその象徴しょうちょうてき事件じけんであった。

幕府ばくふ従順じゅうじゅん大名だいみょうたいしても参勤交代さんきんこうたいなどでつね財政ざいせい圧迫あっぱくさせ幕府ばくふ反抗はんこうするちからたくわえることをゆるさず、また、とく近世きんせい初期しょきおおくのてんふうをおこない「鉢植はちうえ」にした。些細ささい問題もんだいでも大名だいみょう改易かいえきげんふうしょし、神経質しんけいしつ公儀こうぎ威光いこうしたがわせるように仕向しむけた。大名だいみょうへの叙位じょい任官にんかん松平まつだいら下賜かし授与じゅよ)で、このように圧倒的あっとうてき権力けんりょく基盤きばん背景はいけいにして徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ頂点ちょうてん君臨くんりんさせた[104]全国ぜんこくしょ大名だいみょう朝廷ちょうてい皇室こうしつを「かさずころさず。さからえば(もしくはその危険きけんがあるならば)つぶす」の姿勢しせい支配しはいしたのが江戸えど幕府ばくふであった。

このように徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ頂点ちょうてんとする江戸えど幕府ばくふ絶対ぜったいてき支配しはい体系たいけいについては「保守ほしゅてき封建ほうけんてき」との見方みかたもできる一方いっぽう強固きょうこ支配しはい体系たいけい確立かくりつされたからこそ、戦国せんごく時代じだい完全かんぜん終結しゅうけつさせ、そして江戸えど幕府ばくふが250ねん以上いじょうにおよぶ長期ちょうき安定あんてい政権せいけんとなったことは否定ひていできない事実じじつである。

鎖国さこく政策せいさくにつながるような限定げんていてき外交がいこう方針ほうしんしょ外国がいこくとの外交がいこう基本きほん政策せいさくにしたことから、幕末ばくまつまで海外かいがい諸国しょこくからの侵略しんりゃくふせげたという評価ひょうかもある。ただし、これらの「業績ぎょうせき」は家康いえやす死後しごに、当時とうじ情勢じょうせいにおいておこなわれたものである。またあきらうみきんさくをとるなど、当時とうじ世界せかいてき趨勢すうせいであるともえる。

家康いえやす朝廷ちょうてい幕府ばくふ支配しはいにおこうとした。慶長けいちょう11ねん(1606ねん)には幕府ばくふ推挙すいきょしに大名だいみょうへの官位かんい授与じゅよ禁止きんしし、禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと制定せいていするなどして朝廷ちょうてい政治せいじ関与かんよ徹底的てっていてき排除はいじょしている。大坂おおさかふゆじん最中さいちゅうである12月17にち朝廷ちょうてい家康いえやす勅命ちょくめいによる和睦わぼく斡旋あっせんしたが、家康いえやすはこれを拒否きょひした。さらに家康いえやす秀忠ひでただじょ和子かずこ入内じゅだいさせ、外祖父がいそふとして皇室こうしつまであやつろうとしたのである(入内じゅだいはなし慶長けいちょう17ねん(1612ねん)からはじまっていたという。和子わこ入内じゅだい元和がんわ6ねん1620ねん)まで長引ながびいたのは、家康いえやす陽成ようぜい天皇てんのう死去しきょしたためである)。家康いえやす死後しご幕府ばくふ紫衣しえ事件じけんなどをて、天皇てんのうおよび朝廷ちょうていをほぼ完全かんぜん支配しはいすることに成功せいこうした。このちから関係かんけい幕末ばくまつ尊王そんのう運動うんどうこるまでつづいた。

一族いちぞく譜代ふだいあつかいにかんして

編集へんしゅう

息子むすこ家臣かしんたいしても冷酷れいこく非情ひじょうめんせる人物じんぶつだったとされることがおおいが、じょうながされず息子むすこ一族いちぞくたいしても一律いちりつ公平こうへいであったときもある。[だれ?]

長男ちょうなん信康のぶやす切腹せっぷくかんしては、信長のぶなが要求ようきゅうによるものではなく、家康いえやすみずからの粛清しゅくせいせつ近年きんねんとなえられている。また、生母せいぼ身分みぶんひく次男じなん結城ゆうき秀康ひでやす六男むつおただてるを、出生しゅっしょう疑惑ぎわく容貌ようぼうみにくいなどの理由りゆうつねとおざけていたとされるが、これには異論いろんもある。

関ヶ原せきがはらたたかいにおいて江戸えど留守居るすいやくめいじられた秀康ひでやすは、戦功せんこうげるために秀忠ひでただわり西上にしがみしたいともうたがれられなかった。かねてから秀康ひでやすには石田いしだ三成みつなりとの交流こうりゅうがあり、豊臣とよとみかた内通ないつうするおそれがあったともかんがえられる一方いっぽうで、武将ぶしょうとして実績じっせきのある秀康ひでやす三成みなり友誼ゆうぎふか西にしぐん呼応こおうするおそれがつよ佐竹さたけ義宣よしのぶ監視かんしさせ、東北とうほく戦線せんせん上杉うえすぎたたか伊達だてまさしむね最上もがみ義光よしみつらの後詰ごづやくとして待機たいきさせたとされる。秀康ひでやす論功行賞ろんこうこうしょうにおいて破格はかくの50まんせき加増かぞう官位かんいけん中納言ちゅうなごんまで昇進しょうしんしており、最終さいしゅうてきに67まんせきものだいふうあたえられ、江戸えどへの参勤さんきん免除めんじょ幕府ばくふからの使役しえき免除めんじょ関所せきしょ大砲たいほう破壊はかいしても黙認もくにんされるなど、別格べっかくあつかいをけている。将軍しょうぐん継嗣けいしがならなかったのは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし養子ようしで、のち結城ゆうき養子ようしはい名跡みょうせきいでいることなどが理由りゆうとされる。また、秀忠ひでただ生母せいぼである於愛(竜泉院りゅうせんいん)は、築山殿ちくやまどの死後しご家康いえやす正室せいしつとされていた時期じきがあったのではないかとする新説しんせつされており[228]、このせつただしければ秀忠ひでただ後継こうけいはかなりはや時期じきからの既定きてい路線ろせんであったともかんがえられる。なお、秀康ひでやす松平まつだいら忠直ただなおには、秀忠ひでただむすめかちひめとつがせている。

ちゅうてるについてもきらわれ、冷遇れいぐうされたといわれたが、それをしめ史料しりょうはなく、改易かいえきまえには御三家ごさんけなみ所領しょりょう越後えちごこく高田たかだ55まんせき)があたえられていた。

しかし秀康ひでやすはともかく、嫡子ちゃくし忠直ただなおちゅうてる家康いえやすよりもむしろ秀忠ひでただ不仲ふなかであったとされる。松平まつだいら忠直ただなお大坂おおさかじん真田さなだ信繁のぶしげ通称つうしょう幸村ゆきむら)らを功績こうせきげたが、論功行賞ろんこうこうしょう不満ふまんをいいたてた。家康いえやす死後しご幕政ばくせい批判ひはん乱行らんぎょう目立めだったために秀忠ひでただによって隠居いんきょさせられ、越前えちぜん福井ふくいはんいだのは忠直ただなおおとうと忠昌ただまさであった。ちゅうてる秀忠ひでただにより数々かずかず行状ぎょうじょう追及ついきゅうされて改易かいえきさせられた。

徳川とくがわ四天王してんのうである本多ほんだ忠勝ただかつ榊原さかきばら康政やすまさ関ヶ原せきがはらたたか中枢ちゅうすうからはずし、この2人ふたり大久保おおくぼ忠隣ただちか改易かいえき失脚しっきゃくさせている。しかし、榊原さかきばら康政やすまさ老臣ろうしん要職ようしょくあらそうことをきらみずか老中ろうじゅうしょく辞退じたいしていることにくわえ、康政やすまさあといだ榊原さかきばらやすしかちだいさかじんぼっしたのちこった騒動そうどう家老がろう処分しょぶんにとどめ、本多ほんだ忠勝ただかつたいしては、その本多ほんだ忠政ただまさまご本多ほんだ忠刻ただとき自分じぶんまごくまひめ松平まつだいら信康のぶやすむすめ)と千姫せんひめとつがせるなど、譜代ふだい大名だいみょう相応そうおう配慮はいりょしめしており、そのれい例外れいがいおおいが鳥居とりい石川いしかわなど枚挙まいきょひまがない。大久保おおくぼ忠隣ただちかまごちゅうしょく大名だいみょうとして復権ふっけんし、家康いえやす死後しご加増かぞうおこなわれ次代じだい大久保おおくぼただしあさ旧領きゅうりょう小田原おだわらへの復帰ふっきと、11まんせきという有力ゆうりょく譜代ふだい大名だいみょうとしての加増かぞうけている。ただし、ちゅうしょく家康いえやすまごであるから、という見方みかたもできるのもいなめない。しかし、忠隣ただちか自身じしん家康いえやす家康いえやすあやまりをしめすとして秀忠ひでただからの赦免しゃめん要請ようせい拒否きょひしていることから、大久保おおくぼけていたわけではないとおもわれる。

家康いえやすは吏僚の造反ぞうはん行為こういにはきびしく、三河みかわ時代じだい武田たけだ勝頼かつより内通ないつうした寵臣ちょうしん大岡おおおか弥四郎やしろうのこという極刑きょっけい処刑しょけいしている。大久保おおくぼ長安ながやすについても、幕府ばくふ中枢ちゅうすうにあるもの汚職おしょく不正ふせい蓄財ちくざいあつか殊更ことさらきびしくすることで、綱紀こうき粛正しゅくせいうながしたとする見方みかたもできる。さらには、人材じんざいたまきりゅう組織そしき活性かっせい必須ひっすであり、一連いちれん行為こういはあくまで幕府ばくふ体制たいせいがためとしておこなわれた政治せいじてき行為こういとして解釈かいしゃくすることもできる。また、松平まつだいら信康のぶやすふくめ、秀康ひでやすただてる共通きょうつうするのは武将ぶしょうとしての評価ひょうかたかかったことにあり、武将ぶしょうとしては凡庸ぼんようとされ失敗しっぱいもありけいいて将軍しょうぐんとなった秀忠ひでただ手前てまえかれらをたか評価ひょうかすることははばかられたことが背景はいけいにある。

また、家康いえやすはかつて敵対てきたいしていた今川いまがわ武田たけだ北条ほうじょう家臣かしんおお登用とうようし、かれらの戦法せんぽう政策せいさく数多かずおおれている。『故老ころうしょだん』には家康いえやす本多ほんだかんしげるかたった言葉ことばとして「われ、素知そしらぬからだをし、のう使つかいひしかば、みな股肱ここうとなり。いさむいさおあらわしたり」としるされている。

家康いえやすどう時代じだい人々ひとびと

編集へんしゅう

家康いえやすは、武田たけだ信玄しんげん尊敬そんけいし、武田たけだ遺臣いしんから信玄しんげん戦術せんじゅつ思想しそう積極せっきょくてきまなんだ[注釈ちゅうしゃく 61]。その反面はんめん信長のぶながのように身分みぶん序列じょれつ無視むしした徹底的てっていてき能力のうりょく主義しゅぎをとることはなく、秀吉ひでよしのようにみずからのカリスマせいきむ領地りょうちえさって家臣かしんやすこともなかった[注釈ちゅうしゃく 62]家康いえやす重臣じゅうしんのほとんどは三河みかわ以来いらい代々だいだいつかえてきた家臣かしんたちであった。

そのためか、かれらに天下てんか統一とういつされおくれをとったが、わりに自身じしん信頼しんらいできる部下ぶかだけで周囲しゅういかため、豊臣とよとみ政権せいけん不備ふびもあって天下てんかじんとなった。とはいえ、その部下ぶかなかには今川いまがわ武田たけだ北条ほうじょうとう自身じしん直接ちょくせつ主導しゅどうてきにはほろぼしてはいない大名だいみょう家臣かしんふくまれているためいちしゅ漁夫ぎょふ統一とういつさいよごやく信長のぶなが秀吉ひでよしこうむってくれた)ともいえる。一方いっぽう偉大いだい先人せんじんからまなびとり、それを取捨選択しゅしゃせんたくしその時流じりゅう自分じぶん状況じょうきょうにあう行動こうどうをとったことは十分じゅうぶん名君めいくんぶにあたいするという見方みかたもできる。

そのせんりにかんしては、秀吉ひでよしから「海道かいどういち弓取ゆみと」と賞賛しょうさんされたとつたわる[229][230][231]家康いえやすつね冷静れいせい沈着ちんちゃく知将ちしょうだったとされているが短気たんき神経質しんけいしついちめんち、関ヶ原せきがはらたたかでは開戦かいせん間際まぎわにおいていちめんしだめるきりなか使番つかいばん野々村ののむら四郎しろうみぎ衛門えもん方向ほうこう感覚かんかくうしなじんまくうまれたさい苛立いらだち、門奈かどな長三郎ちょうさぶろうという小姓こしょう侵入しんにゅうしゃ何者なにものたずねるが、門奈かどな侵入しんにゅうしゃだれだかっていたが当人とうにん責任せきにんからないように配慮はいりょごたえなかった。家康いえやす門奈かどなのこの態度たいどはらて、門奈かどな指物さしもの竿ざお一刀いっとうのもとにてたという。さらに家康いえやす苛立いらだったり、自分じぶん不利ふりになったりすると、親指おやゆびつめつねみ、ときには皮膚ひふやぶってながすこともあったという。その一方いっぽういかりにまか家臣かしん領民りょうみん手打てうちにするようなことは生涯しょうがいほとんどなかった。幼少ようしょう今川いまがわ人質ひとじちだったころ自分じぶんからたった今川いまがわかた孕石はらみいしもとやすし後年こうねんさがしだし切腹せっぷくさせた(『三河みかわ物語ものがたり』)のは例外れいがいてき処置しょちである。

じょうはいする冷徹れいてつ現実げんじつ主義しゅぎしゃとの評価ひょうかがある一方いっぽうほうよりも人情にんじょう優先ゆうせんさせた事例じれいもある。たとえば三方みかたばらたたか家康いえやす身代みがわりとなって討死うちじにした夏目なつめ吉信よしのぶ規律きりつ違反いはんおかしてもちょう法規ほうきてきゆるし、関ヶ原せきがはら合戦かっせん真田さなだ信之のぶゆき本多ほんだ忠勝ただかつらの決死けっし嘆願たんがん真田さなだ昌幸まさゆき真田さなだ幸村ゆきむら助命じょめいしている。とく苦労くろうともにしてきた三河みかわ時代じだいからの家臣かしんたちとの信頼しんらい関係かんけいあつく、三方みかたばらたたかいで三河みかわ武士たけしけずんでったという俗説ぞくせつをはじめ、夏目なつめ吉信よしのぶ鳥居とりい元忠もとただらの盲目的もうもくてきともいえる三河みかわ武士たけしたちの忠節ちゅうせつぶりはてきから「いぬのように忠実ちゅうじつ」とわれたこと(『葉隠はがくれ覚書おぼえがき』)から、すくなくとも地元じもとである三河みかわ武士たけし家康いえやすへの人望じんぼう非常ひじょうあつかったようだが、一向いっこう一揆いっきこされたことも考慮こうりょする必要ひつようがある。無論むろん有能ゆうのう人材じんざい重視じゅうしし、あんさち岡崎おかざき譜代ふだいだけでなく今川いまがわ武田たけだ北条ほうじょう旧臣きゅうしんおお召抱めしかかえ、大御所おおごしょ時代じだいには武士ぶしのみならずそう商人しょうにん学者がくしゃ、さらには英国えいこくじんウィリアム・アダムス外国がいこくじん武士ぶしとして知行ちぎょうあたえた[232]のは家康いえやすのみ)と実力じつりょく考慮こうりょして登用とうようし、江戸えど幕府ばくふ基礎きそつくげていった。

家康いえやす宗教しゅうきょう

編集へんしゅう

戦国せんごく時代じだい最大さいだい武装ぶそう宗教しゅうきょう勢力せいりょくであった一向いっこうそうだい11せい門主もんしゅ顕如けんにょ死後しご顕如けんにょ長男ちょうなんきょう三男さんなん准如じゅんにょ対立たいりつし、きょう如が独立どくりつするかたち東本願寺ひがしほんがんじ真宗しんしゅう大谷おおや)を設立せつりつのちにこれにたいして准如じゅんにょ西本願寺にしほんがんじ浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ)を設立せつりつし、東西とうざい本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつするが、この分裂ぶんれつげき関与かんよしているのも家康いえやすである。一説いっせつによると、わか三河みかわ一向いっこう一揆いっきくるしめられたことのある家康いえやすが、本願寺ほんがんじ勢力せいりょく弱体じゃくたいさせるために、きょう如をそそのかして本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつさせたとわれているが、明確めいかくにその意図いとしるされた史料しりょうがないため断定だんていはできない。しかし、すくなくともこの分裂ぶんれつげきさいし、きょう如を支持しじして東本願寺ひがしほんがんじ土地とち寄進きしんしたのが家康いえやすであることはたしかである(真宗しんしゅう大谷おおやきょう如の東本願寺ひがしほんがんじ設立せつりつ家康いえやす関与かんよがあったことはみとめている)。

現在げんざい真宗しんしゅう大谷おおやは、このときの経緯けいいについて、「きょう如は法主ほっしゅ退すさかくしてからも各地かくち門徒もんと名号みょうごう本尊ほんぞん消息しょうそく手紙てがみ)の配布はいふといった法主ほっしゅとしての活動かつどうつづけており、本願寺ほんがんじ教団きょうだん関ヶ原せきがはらたたかいよりもまえから准如じゅんにょ法主ほっしゅとする一派いっぱきょう如を法主ほっしゅとする一派いっぱ分裂ぶんれつしていた。徳川とくがわ家康いえやす寺領じりょう寄進きしん本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつさせるためというより、元々もともと分裂ぶんれつ状態じょうたいにあった本願寺ほんがんじ教団きょうだん現状げんじょう追認ついにんしたにぎない」という見解けんかいしめしている[233]

東西とうざい本願寺ほんがんじ分立ぶんりつ後世こうせいあたえた影響えいきょうについては、『戦国せんごく時代じだいには大名だいみょう匹敵ひってきする勢力せいりょくほこった本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつし、弱体じゃくたい余儀よぎなくされた』という見方みかた存在そんざいするが、前述ぜんじゅつとお本願寺ほんがんじ武装ぶそう解除かいじょ顕如けんにょ准如じゅんにょきょう如派の対立たいりつ信長のぶなが秀吉ひでよし存命ぞんめいのころからはじまっており、また江戸えど時代じだいどういち宗派しゅうはない本山ほんざんわき門跡もんぜきという関係かんけいだった西本願寺にしほんがんじきょうせいてらが、寺格じかくめぐってながらく対立たいりつして幕府ばくふ介入かいにゅうまねいたことをかんがみれば、きょう如派が平和へいわてき公然こうぜん独立どくりつたしたことは、むしろりょう本願寺ほんがんじそうまさし安定あんていさせた可能かのうせい否定ひてい出来できない。

ちなみに、三河みかわ一向いっこう一揆いっきこったさいてきかた一向いっこうむねがわには本多ほんだ正信まさのぶ夏目なつめ吉信よしのぶなど、家康いえやす家来けらいだったものもいた。だが家康いえやすかれらをうらまず、ぎゃくふたた召抱めしかかえている。かれらは家康いえやすおんかんじ、本多ほんだ正信まさのぶ家康いえやす晩年ばんねんまで参謀さんぼうとして活躍かつやくし、夏目なつめ吉信よしのぶさんぽうばらたたかいで家康いえやす身代みがわりになって戦死せんしした。

また、同様どうよう町衆まちしゅうたいつよ影響えいきょうりょくゆうする日蓮宗にちれんしゅうたいしても、秀吉ひでよしめいじた方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん千僧せんぞ供養くよう他宗たしゅう布施ふせけることを容認ようにんした受布施ふせと、きんじた宗義しゅうぎしたがった受不ほどこせうち後者こうしゃ家康いえやす公儀こうぎしたがわぬものとして日蓮宗にちれんしゅう他宗たしゅうへの攻撃こうげきしょくつよいこともわせて危険きけんした。そのため、家康いえやす出仕しゅっし命令めいれいしたがわぬ受不ほどこせにちおく対馬つしまこく配流はいるしたり、他宗たしゅうへの攻撃こうげきはげしい日経にっけいらをみみはなぎのうえ追放ついほうした。家康いえやす受不ほどこせ江戸えど幕府ばくふ布施ふせ供養くようけぬことを理由りゆうとして、江戸えど時代じだいつうじて弾圧だんあつされつづけた。

これら新興しんこう宗派しゅうは以外いがいふる天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅう法相ほうしょうむねにも独占どくせんした門跡もんぜきつう朝廷ちょうていとのふかつながりを懸念けねんし、あらたに浄土宗じょうどしゅうおんいん門跡もんぜきくわえ、さらに天台宗てんだいしゅう関東かんとうにおける最高さいこう権威けんいとしてはなわ王寺おうじ門跡もんぜきもうけた。これらおんいんはなわ王寺おうじ江戸えど幕府ばくふつよつながりをった。

一方いっぽうキリスト教きりすときょうたいしては秀吉ひでよし死後しご南蛮なんばん貿易ぼうえきによる収益しゅうえきなどの観点かんてんから当初とうしょ容認ようにんしており、実際じっさい江戸えど時代じだい初期しょきキリスト教きりすときょう東北とうほく地方ちほうへの布教ふきょうおこなっている。しかしマードレ・デ・デウスごう事件じけん岡本おかもと大八だいはち事件じけんて、慶長けいちょう18ねん(1613ねん)にバテレン追放ついほうれい公布こうふする。

家康いえやす死後しご幕府ばくふてら制度せいどひとしにより、寺社じしゃ勢力せいりょく完全かんぜん公儀こうぎしたくことに成功せいこうしている。また、家康いえやす自身じしんあずまあきら神君しんくんとして信仰しんこう対象たいしょうになった。

きん現代げんだいにおける評価ひょうか

編集へんしゅう

家康いえやす江戸えどつうじて神格しんかくされ[234][235]否定ひていてき評価ひょうかきんじられており、自由じゆう評価ひょうか解禁かいきんされたのは江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいした明治維新めいじいしんである。山岡やまおか荘八しょうはち小説しょうせつ徳川とくがわ家康いえやす』では、おさないころから我慢がまん我慢がまんかさねて、逆境ぎゃっきょう困難こんなんにもけっしてくっすることもなく先見せんけんあかりをもって勝利しょうりった人物じんぶつ泰平たいへいねが求道きゅうどうしゃとしてえがかれている。この小説しょうせつをきっかけに家康いえやすへのさい評価ひょうかはじまっている。

司馬しばりょう太郎たろう家康いえやすについてしるした小説しょうせつ覇王はおういえ』あとがきで、家康いえやすきずいた江戸えど時代じだいについては「功罪こうざいなかばする」とし、「(日本人にっぽんじんの)民族みんぞくてき性格せいかく矮小わいしょうされ、奇形きけいされた」といったろんやその支配しはい閉鎖へいさないし保守ほしゅせいについてはきわめて批判ひはんてきである。ただし、司馬しば家康いえやす本人ほんにんたいしては、かならずしも否定ひていてきではい。初陣ういじんを15さい経験けいけんし、大坂おおさかなつじんでは73さいでありながらそう大将たいしょうとして指揮しきり、その生涯しょうがいではさんぽうばらたたかいなど大敗たいはい経験けいけんしたが、晩年ばんねんまで幾多いくたもの戦争せんそう経験けいけんし、指揮しきり、戦死せんししなかったことを、「歴史れきしじょう古今ここん東西とうざい見渡みわたしても滅多めったるいない」とし、「せんつよくはなかったが、せん上手じょうずであった」とひょうしている。

2000ねん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ実施じっしした識者しきしゃ5にん荒俣あらまたひろし岸田きしだしげるドナルド・キーン堺屋さかいや太一たいち杉本すぎもと苑子そのこ)がえらんだ西暦せいれき1000ねんから1999ねんまでの「日本にっぽんかお10にん」において、家康いえやす得票とくひょうすうで1獲得かくとくした[236]

死去しきょにおける家康いえやす遺品いひんは「駿府すんぷぶんぶつ」として秀忠ひでただ側室そくしつむすめまご一部いちぶが、のこりのだい部分ぶぶん御三家ごさんけ分与ぶんよされた。尾張おわり水戸みとにはその目録もくろくがあり、大雑把おおざっぱ分類ぶんるい下記かきする[237]

  • 武具ぶぐるい 刀剣とうけん薙刀なぎなたやりゆみ鉄砲てっぽうこしらえそうけん甲冑かっちゅう旗幟きしまく法螺貝ほらがい陣太鼓じんだいこ軍配ぐんばい采配さいはい馬印うまじるし陣中じんちゅう使用しよう調度ちょうど馬具ばぐ鷹狩たかがり道具どうぐ
  • 金銀きんぎん道具どうぐ 風炉ふろがま天目てんもく茶碗ぢゃわんとうちゃ道具どうぐ一式いっしき香箱こうばここうぼんさかずきとう
  • 数寄屋すきや道具どうぐ ちゃつぼ茶入ちゃいれ茶碗ちゃわんがまはなかつとうちゃ道具どうぐ掛物かけもの歌書うたがき香道こうどうるい文房具ぶんぼうぐるい
  • 能狂言のうきょうげん道具どうぐ めん衣装いしょう腰帯こしおびまげたい被服ひふく小道具こどうぐ楽器がっきとう
  • 振舞ふるまい道具どうぐ 茶碗ちゃわんさら徳利とっくりさかずきぼんぜんわんとう
  • 調度ちょうどるい 将棋しょうぎ道具どうぐ屏風びょうぶ各種かくしゅばこるい敷物しきものやっとこつまきり望遠鏡ぼうえんきょう・ビードロきょうとう
  • 衣類いるい反物たんものるい 小袖こそで羽織はおり帷子かたびらとう衣服いふくるいきぬ木綿ゆうあさとう反物たんものるいいと綿めんるい
  • その かみ蝋燭ろうそく香木こうぼくくすりるいくすり道具どうぐとう

これらの大半たいはんなが年月としつきうち使用しよう贈答ぞうとう破損はそんとううしなわれたが、それでもおおくの遺品いひん残存ざんそんしている。このほか生前せいぜん家臣かしんとう下賜かししたものをふくめれば、人物じんぶつとは比較ひかくにならない多種たしゅ多様たよう遺品いひん伝来でんらいしている。

刀剣とうけん

編集へんしゅう

駿府すんぷぶんぶつ目録もくろく記載きさいされた刀剣とうけん薙刀なぎなたやり総数そうすうは1,172てんかぞえる。このうち目録もくろく記述きじゅつ簡略かんりゃくなため現存げんそんひん確認かくにんできるのはすくなく100てん刀剣とうけん85てんちゅう国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい重要じゅうよう美術びじゅつひん指定してい42てん御物ぎょもつ4てん、また名物めいぶつは40てんかぞえる。

家康いえやすは、武家ぶけ棟梁とうりょうとしてふる名刀めいとう蒐集しゅうしゅうし、「日光にっこうじょしん」(国宝こくほう東照宮とうしょうぐうくら)などおおくの名物めいぶつがその手元てもとにあった。また、晩年ばんねん慶長けいちょう19ねん(1614ねんはるには、大坂おおさかふゆじんそなえるために、伊賀いがまもる金道きんどうという刀工とうこうに1,000りのじん太刀だち急造きゅうぞう発注はっちゅうし、その政治せいじてき見返みかえりとして朝廷ちょうていたい金道きんどうを「日本にっぽん鍛冶かじそうたくみ」に斡旋あっせんしている[238]

一方いっぽうで、家康いえやすはじめとする徳川とくがわ家臣かしんだんが、戦場せんじょう使つか武器ぶきとして愛用あいようしていたのが、当時とうじの「現代げんだいがたな」だった伊勢いせこく桑名くわな現在げんざい三重みえけん桑名くわな)の刀工とうこうせんむらただし(せんご むらまさ)とせんむらせい一派いっぱ)、そしてその周辺しゅうへん流派りゅうはさくである[239]

家康いえやす自身じしんむらせいかたな脇差わきざし所有しょゆうし、これらは尾張おわり徳川とくがわに「むらただし大小だいしょう(むらまさおだいしょう)」として伝来でんらいした[240]脇差わきざし大正たいしょう売却ばいきゃくされたが、かたな現在げんざい徳川とくがわ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされ、むらせいめずらしいみなしょう(ひたつら)傑作けっさくとして名高なだか[240]家康いえやすがこの大小だいしょういちぞろいで実戦じっせん使用しようしたのか確実かくじつなところは不明ふめいだが、すくなくともいまがたなにはわずかにきずあとのこっている[240][注釈ちゅうしゃく 63]。この「みなしょう」のぶんむらせい相当そうとう稀少きしょうひん[240]現存げんそんするのは短刀たんとう群千鳥むらちどり(むらちどり)」[241]短刀たんとうゆめつげ(むこく)」[242]などのすうてんしかなく、そのいずれもが評価ひょうかたか名作めいさくとされている[242]

膝元ひざもと駿河するがにはむらせい作風さくふう共有きょうゆうする島田しまだ義助よしすけもと今川いまがわのおかか刀工とうこう)がいて、ろく代目だいめ義助よしすけ御朱印ごしゅいんあたえるなど厚遇こうぐうしている[243]むらせい義助よしすけ直接ちょくせつ師弟してい関係かんけいではないが、おたがいの技術ぎじゅつてき交流こうりゅうつづけていたから、作風さくふうちかづくことがよくあった[242]

なお、かつては家康いえやすむらせい忌避きひしていたという俗説ぞくせつがあったが、現在げんざいでは完全かんぜん否定ひていされている[244][239]むらせい徳川とくがわたたるとする妖刀ようとう伝説でんせつ江戸えど時代じだいひろ流布るふしていたことそのものは事実じじつむらただし#妖刀ようとうむら正伝せいでんせつ)で、むらせいめいつぶされるなどの悲惨ひさん被害ひがいけたが、そうした伝説でんせつ家康いえやす死後しご発生はっせいしたものである[239]徳川とくがわ美術館びじゅつかんは、家康いえやすむらせい忌避きひしていたとするのは後世こうせい創作そうさく家康いえやす実際じっさいむらせいこのんでいた、と断言だんげんしている[244]

妖刀ようとう伝説でんせつひろまった理由りゆうとしては、以下いか理由りゆうかんがえられる。

  • 三河みかわ風土記ふどき』で、家康いえやすむらせい忌避きひし、織田有楽斎おだうらくさい家康いえやすはばかってむらせいやりてたという逸話いつわ捏造ねつぞうされた[245]。これは正保まさやす年間ねんかん(1645-1648ねんかれた著者ちょしゃ不明ふめい偽書ぎしょだが、江戸えど時代じだい後期こうきまでは慶長けいちょう15ねん(1610ねん)に平岩ひらいわちかしきちみずかあらわした神君しんくん家康いえやす真実しんじつしんじられていた[246]
  • 家康いえやす親族しんぞくむらせいきずつけられたという妖刀ようとう伝説でんせつ逸話いつわも、出処しゅっしょあやしいものがおおくそもそもどこまでが真実しんじつきわめてうたがわしい[247]主家しゅか家康いえやす自身じしんむらせいこのんだように、徳川とくがわ重臣じゅうしんにはむらせいせんむらせい)のさくものおおかった[239]かりにそれらの傷害しょうがい事件じけん事実じじつとしても、かくりつ問題もんだいでたまたまもちいられたのがむらせいだったとしても不思議ふしぎはなく[239]、また、うそだとしても、家臣かしんだん普及ふきゅうしていたむらせい物語ものがたり登場とうじょうさせるのは説得せっとくりょくがあった。家康いえやすむらせい愛好あいこうのせいでぎゃく忌避きひ伝説でんせつにつながった皮肉ひにくれいえる。

甲冑かっちゅう

編集へんしゅう
   
伊予いよさつくろいと胴丸どうまる具足ぐそく
きむ溜塗ためぬり具足ぐそく
 
文字もじ胴丸どうまる具足ぐそくかぶと別品べっぴん

家康いえやす所用しょようとされる甲冑かっちゅう多数たすう伝来でんらいしており、記録きろく伝承でんしょう確実かくじつなものだけで10りょう現存げんそんする。

代表だいひょうてきなものとして上述じょうじゅつの「南蛮なんばんどう具足ぐそく」(下賜かしひんふくめ5りょうかぶとのみもゆう)、「伊予いよさつくろいと胴丸どうまる具足ぐそく歯朶しだ具足ぐそく)」(2りょううち1りょうかぶとかけ[248]、「きむ溜塗ためぬり具足ぐそく」(2りょう)などが伝来でんらいしている。

当時とうじ武将ぶしょう存在そんざい誇示こじするため派手はで甲冑かっちゅうぜんだてこのんでいたが、家康いえやす大坂おおさかじん使用しようした歯朶しだ具足ぐそくかざりがすくない漆黒しっこく甲冑かっちゅうは「現代げんだいがたな」ととも家康いえやす気質きしつあらわしているとされる[249][248]一方いっぽうで、金色きんいろの「きむ溜塗ためぬり具足ぐそく」や「きむしょうさつ緋縅ひおどし具足ぐそく[250]水牛すいぎゅうかくだてぶつとして熊毛くまげえた「熊毛くまげうえくろいと具足ぐそく[251]いちたにだいくぎわせただてぶつ銀箔ぎんぱく白糸しらいとによるそう白色はくしょくの「白糸しらいといちたにがたかぶと[252]華麗かれい姿すがたきりもんから当初とうしょ秀吉ひでよし所用しょようおもわれた「花色はないろまる胴丸どうまる具足ぐそく[253]ひとし派手はで甲冑かっちゅう多数たすう伝来でんらいしており、実際じっさいには多種たしゅ多様たよう甲冑かっちゅう着用ちゃくよう所持しょじした。

また家康いえやす秀吉ひでよし同様どうよう欧州おうしゅう甲冑かっちゅうおくっているが、オーストリアアンブラスじょうにある「文字もじ胴丸どうまる具足ぐそく」は「日本にっぽん皇帝こうていおよ皇后こうごう神聖しんせいローマ皇帝こうていルドルフ2せい」におくったしな記録きろくがある。この具足ぐそく先述せんじゅつの「花色はないろまる胴丸どうまる具足ぐそく」や1613ねん秀忠ひでただがイギリス国王こくおうジェームズ1せいおくった甲冑かっちゅうとう家康いえやすやその近辺きんぺん甲冑かっちゅう同一どういつ特徴とくちょうがあり、1608ねんから1612ねん家康いえやすおくった甲冑かっちゅうとされる。この甲冑かっちゅうどう前面ぜんめんひだりそでに「天下てんか」、どうめんみぎそでに「太平たいへい」の文字もじべにいとおどしてある[254]

目録もくろく記載きさいおも衣類いるいとして小袖こそで2,746りょう単物ひとえもの2,258りょういと490かんがある。生前せいぜん下賜かしひんふくめた現存げんそんひんは180てんえ、その種類しゅるい羽織はおりどうふく陣羽織じんばおり小袖こそで綿めん下着したぎ・カルサン・小袴こはかま襟巻えりまきちょうかみしもかみしも肩衣かたぎぬ帷子かたびら浴衣ゆかた紙子かみこ下帯したおび足袋たび素材そざいきぬ天鵞絨びろうど羅紗らしゃかわあさ多彩たさいである。

衣類いるいなかでもつじはな小袖こそで技術ぎじゅつてき美術びじゅつてきにも価値かちたか遺品いひんおおく、「あおいかじようぶんしみぶんつじはなしみ小袖こそで」のように重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされたしなおおい。『慶長けいちょう板坂いたさかぼくとき』には家康いえやす家臣かしんすうおおくの小袖こそで年間ねんかんに9から14・15りょう)を下賜かしした結果けっか天正てんしょうまつからぶんろくけて小袖こそで天下てんかひろまったとして、日本にっぽん衣装いしょう結構けっこうこと家康いえやすはじまるとして、日本にっぽん建築けんちく結構けっこうこと秀吉ひでよしはじまると対比たいひさせている。

れいとして「ねりぬきはくむらさきだんあおいもんつじはなしみ陣羽織じんばおり[255]天正てんしょう10ねん(1582ねん伊賀いが下賜かしひんとされ時期じき判明はんめいするもっとふる衣装いしょうであり、慶長けいちょう15ねん(1610ねん)に下賜かしされた「白練しろねりぬきまつがわひしちく模様もよう小袖こそで[256]はん世紀せいき以上いじょうのち流行りゅうこうした寛文ひろふみ小袖こそでとするせつ斬新ざんしんなデザインである[257]。また大破たいはした残欠ざんけつ化学かがく分析ぶんせきした結果けっか黄金おうごんしょく復元ふくげんされた「黄金おうごんしょくあおいもんうさぎぶん辻ケ花つじがはなしみ羽織はおり[258]地味じみわれる家康いえやす趣向しゅこうたいする認識にんしきおおきくえた。

蔵書ぞうしょ

編集へんしゅう

家康いえやす駿府すんぷじょうちゅうにあった文庫ぶんこ駿府すんぷ文庫ぶんこ」におさめられた蔵書ぞうしょは、「国内こくない旧記きゅうき稀覯きこうほん」は将軍家しょうぐんけおさめられ「紅葉山もみじやま文庫ぶんこ」のもととなった。のこりは前述ぜんじゅつのように御三家ごさんけ相続そうぞくされ、この内尾うちおちょうおさめられたぶんは「よもぎひだり文庫ぶんこ」のもととなった。

将軍家しょうぐんけ相続そうぞくぶんは「先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ」・「古事記こじき」・「しゃく日本にっぽんとう国書こくしょおおく、史書ししょ故実こじつしょ大半たいはんめるが、漢詩かんし文集ぶんしゅう漢籍かんせき史書ししょほとんど)もある。これらのおおくは社寺しゃじ公家くげいん御所ごしょとうからられたもので、概算がいさんで511,200さつかぞえる。御三家ごさんけうち目録もくろくのある尾張おわりぶんは3782,838さつ水戸みとぶんは180907さつとされる。「駿府すんぷ文庫ぶんこ」の収蔵しゅうぞうすうやく1,0007,800さつ推測すいそくされ、これとはべつはやし羅山らざんあづけたぶん記録きろくがある漢籍かんせき800和書わしょくわえれば1,000になると推測すいそくされる。

蔵書ぞうしょ分類ぶんるい漢籍かんせきが8わり和書わしょが2わりとされ、学問がくもんしょおおくをめている。これらの蔵書ぞうしょ江戸えど幕府ばくふによる文治ぶんじ政策せいさく基礎きそしたとられる[259]

一族いちぞく縁者えんじゃ

編集へんしゅう

家康いえやすは2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただちち、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ水戸みと藩主はんしゅ水戸みと光圀みつくにらの祖父そふ、4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな、5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし徳川とくがわ綱重つなしげ(6だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶちち)、8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね祖父そふたる。家康いえやす実子じっしでは、ろくなん松平まつだいらただしてるもっとながきた。家康いえやす存命ぞんめいちゅう玄孫げんそんまれており、家康いえやすまごけいだいいん蜂須賀はちすかいたるとついでんだ三保さんぼうひめ蜂須賀はちすか忠英ただひで正徳しょうとくいんほか家康いえやすまご同士どうし結婚けっこんした小笠原おがさわらただしおさむまどかあきらいんあいだよわいあきらいん小笠原おがさわら長次ちょうじ家康いえやすまご栄寿えいじゅいん有馬ありま直純なおずみとついでんだ有馬ありまかんじゅん該当がいとうする。

へんいみなあたえた人物じんぶつ

編集へんしゅう

功績こうせきのあったしん元服げんぷくするもの自分じぶんいち太字ふとじ)をあたえた。

関連かんれん史料しりょう

編集へんしゅう

どう時代じだい人物じんぶつによる記録きろく

編集へんしゅう

編纂へんさんぶつ資料しりょうてき価値かちたかいとされるもの)

編集へんしゅう

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう

小説しょうせつ

編集へんしゅう
 
山岡やまおか荘八しょうはちちょ徳川とくがわ家康いえやすだい1かん
明治めいじ時代じだい以降いこう形成けいせいされていた老獪ろうかい陰謀いんぼうという家康いえやすぞうを、そのいち生涯しょうがいつうじてえがくことによって一新いっしんした長編ちょうへん小説しょうせつ
ほんさく原作げんさくとしたメディア展開てんかいさくおおく、最初さいしょ映像えいぞう1964ねんのNET(げんテレビ朝日てれびあさひ)テレビドラマ『徳川とくがわ家康いえやす』で主演しゅえん市川いちかわみぎふと衛門えもん青年せいねん市川いちかわ息子むすこ北大路きたおおじ欣也きんやえんじている。1965ねん公開こうかい映画えいが徳川とくがわ家康いえやす』(東映とうえい監督かんとく伊藤いとう大輔だいすけ)ではふたた北大路きたおおじ欣也きんや家康いえやすえんじた。1970ねんには日本にほんテレビで『たけ千代ちよはは』という題名だいめい放送ほうそうされて家康いえやす中村なかむら光輝みつてるえんじ、1975ねんにはNETで少年しょうねんが『少年しょうねん徳川とくがわ家康いえやす』としてアニメ1982ねんから1984ねんには横山よこやま光輝みつてるによって漫画まんが徳川とくがわ家康いえやす』が連載れんさいされた。1983ねんにはNHK大河たいがドラマ徳川とくがわ家康いえやす』が滝田たきたさかえ主演しゅえんとして1年間ねんかん放映ほうえいされ、1992ねんにはテレビ朝日てれびあさひの『戦国せんごく最後さいご勝利しょうりしゃ!徳川とくがわ家康いえやす』でふたた北大路きたおおじ欣也きんや家康いえやすえんじている。
上記じょうきさん作品さくひんは「家康いえやすさんさく」ともばれる。
主人公しゅじんこうたちみちびき、主人公しゅじんこう人生じんせい転換てんかんさせる重要じゅうよう人物じんぶつであり、戦国せんごく時代じだいおさめるものとしてえがかれている。

テレビドラマ

編集へんしゅう
主役しゅやく作品さくひん
登場とうじょう作品さくひん
主人公しゅじんこうである織田おだ信長のぶなが盟友めいゆうとして登場とうじょうし、じょうあつく、哀愁あいしゅうただよ人物じんぶつとしてえがかれている。
主人公しゅじんこうである直江なおえけんつづけにとっての好敵手こうてきしゅとして家康いえやす登場とうじょうし、悪役あくやくではあるが人間味にんげんみのある姿すがたえがかれている。
主人公しゅじんこうであるこうにとっての後見人こうけんにんてき存在そんざいとして家康いえやす登場とうじょうする。
主人公しゅじんこう真田さなだ信繁のぶしげにとっての生涯しょうがい宿敵しゅくてきとして登場とうじょうするが、単純たんじゅん悪役あくやくではなく、喜怒哀楽きどあいらくまじ戦国せんごく大名だいみょうとしてなやくるしみ成長せいちょうしながら真田さなだ対峙たいじしていく様子ようす描写びょうしゃされている。真田さなだ人物じんぶつ直接ちょくせつ関与かんよしない事項じこう歴史れきしじょう重要じゅうよう事象じしょうでも大胆だいたん割愛かつあいする作品さくひん構成こうせいにあって、家康いえやすがわ事情じじょうは(真田さなだ人物じんぶつ登場とうじょうしなくとも)いちつづきの場面ばめんとしてげられている。
主人公しゅじんこう井伊いいただしとら家康いえやすは、とも今川いまがわ配下はいかであった時代じだいから、その動向どうこう如何いか井伊いいにとって影響えいきょうおおきい人物じんぶつとして設定せっていされており、遠江とおのえへの侵攻しんこうによる井伊いい消滅しょうめつや、ちょくとら養子ようしである井伊いい虎松とらまつ出仕しゅっしなど、幼少ようしょうから天正てんしょうみずのえうまらん北条ほうじょうとの同盟どうめいまでのかかわりがえがかれている。
主人公しゅじんこう明智あけち光秀みつひでとのかかわりがあった重要じゅうよう人物じんぶつとして登場とうじょうする。家康いえやす幼少ようしょうから今川いまがわ織田おだとのかかわりがえがかれている。
ドラマの案内あんないやくとしておも番組ばんぐみ冒頭ぼうとう登場とうじょうして、歴史れきしじょう出来事できごとやその背景はいけいについてカメラ目線めせん視聴しちょうしゃ解説かいせつする。幕末ばくまつから大正たいしょう時代じだいまでをえがいている作中さくちゅうで、江戸えど幕府ばくふとして、その終焉しゅうえんとその日本にっぽん視聴しちょうしゃとも見守みまもっていく役割やくわりになっている。

影武者かげむしゃとしての家康いえやす主題しゅだい作品さくひんは「徳川とくがわ家康いえやす影武者かげむしゃせつ参照さんしょう

音楽おんがく

編集へんしゅう

展覧てんらんかい

編集へんしゅう
  • 夏季かき特別とくべつてん 徳川とくがわ家康いえやす天下てんかじんへのあゆみ―」、2023ねん7がつ23にち~2023ねん9がつ18にち徳川とくがわ美術館びじゅつかん名古屋なごやよもぎひだり文庫ぶんこ読売新聞社よみうりしんぶんしゃ[264]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 家康いえやす没後ぼつご、その神格しんかく主導しゅどうした天海てんかいあずまあきら大権たいけん現像げんぞう仏師ぶっし木村きむらりょうみがく神田かんだはじめにわらに多数たすう制作せいさくさせた[1]あずまあきら大権たいけん現像げんぞうおおくは、天上てんじょうにある神社じんじゃ画面がめん上下じょうげくもを、手前てまえ狛犬こまいぬ一対いっついはいする)において、束帯そくたい着用ちゃくようしたあずまあきらだい権現ごんげん徳川とくがわ家康いえやす)が繧繝うんげんえんうえたたみすわり、あおいもんのあるとばり御簾みすげて姿すがたあらわした構図こうずえがかれた[1][2]
  2. ^ 徳川とくがわでも松平まつだいらでも天文てんもん11ねん12月26にちまれとしるされているが、家康いえやす自身じしん慶長けいちょう8ねん(1603ねん)に作成さくせいしたまじないに使つか願文がんもんみずからの年齢ねんれいを『ろくじゅういちさいみずのととし』としるしており、生年せいねん天文てんもん12ねんみずのと)としている。徳川とくがわ美術館びじゅつかん学芸がくげい部長ぶちょう代理だいりつとめたはら史彦ふみひこはこのズレについて、家康いえやすまれたとされる天文てんもん11ねん12月26にちとらねんとらとらこくであり、誕生たんじょうすらも帝王ていおうになる資質ししつそなえていたことを強調きょうちょうするため誕生たんじょうをわざとえたと推測すいそくされ、本来ほんらい生年せいねん家康いえやす自身じしんとお天文てんもん12ねんであるとするせつとなえている。歴史れきし学者がくしゃ磯田いそだみちはらせつちか立場たちばっており、勇敢ゆうかんにみせるイメージ戦略せんりゃくをとるためねんではなくとらねんまれであることにしたと推測すいそくするほか家康いえやす幼名ようみょうであるたけせんだいちちこうちゅう天文てんもん12ねん2がつ26にちよる連歌れんがかいんだにちなんでおり、嫡男ちゃくなんである家康いえやすが2カ月かげつ以上いじょう命名めいめいされなかったのは不自然ふしぜんであるとして、家康いえやす本来ほんらい誕生たんじょう天文てんもん12ねん2がつ26にちからそうとおくないであるとの可能かのうせい指摘してきしている[13]。その歴史れきし学者がくしゃ遠藤えんどう珠紀たまき家康いえやす生年せいねんねんであるとする史料しりょうすべ陰陽いんようどう関係かんけいのものであることに注目ちゅうもくし、陰陽いんようどうでは実際じっさい暦日れきじつもとづくこよみがつことなって立春りっしゅんをもって正月しょうがつとするふしがつふしり)を採用さいようしており、天文てんもん11ねんは12月21にち立春りっしゅんむかえていることからそれ以降いこう(12月26にち)にまれた家康いえやすこよみがつではとらねんふしがつではねんまれとなるため、陰陽いんようどうかんする文書ぶんしょではねんとしてあつかわれたとしている(遠藤えんどう家康いえやす同様どうよう事例じれいとして南北なんぼくあさ時代じだい公家くげこよみおう4ねん12月23にちまれた広橋ひろはしなかひかりれいげている)[14]遠藤えんどうせつは、家康いえやす天文てんもん11ねん12月26にちまれであるがゆえ発生はっせいした特殊とくしゅ問題もんだいとしてとらえている。
  3. ^ 松平まつだいらでは天文てんもん12ねん(1543ねん)になが松平まつだいらひろちゅう名代なだい家督かとく代行だいこう)をつとめていた松平まつだいら信孝のぶたかこうちゅう叔父おじ)がこうちゅう重臣じゅうしん阿部あべ大蔵たいぞうらによって追放ついほうされているが、こうちゅう大子だいご婚姻こんいん自体じたい水野みずの連携れんけい関係かんけいにあった信孝のぶたか主導しゅどうによる縁組えんぐみであり、信孝のぶたか排除はいじょした結果けっかとして水野みずのとの同盟どうめい関係かんけい終了しゅうりょうしたと新説しんせつされている[17]。なお、当時とうじ水野みずの複数ふくすうながれにかれており、しんもと緒川おがわ)の水野みずの織田おだかたについたことが明確めいかくになるのは織田おだ信長のぶなが織田おだ継承けいしょうして知多ちたぐんへの支配しはいなおしを意図いとしたのちであり、可能かのうせいの1つとして松平まつだいらひろちゅう死後しご今川いまがわあんさち松平まつだいら断絶だんぜつさせずにたけせんだい家康いえやす)を後継こうけいしゃとする方針ほうしんめたことにたいする反発はんぱつしんじもと離反りはん一因いちいんになったとする指摘してきもある[18]
  4. ^ このせつでは、松平まつだいらひろちゅう叔父おじ信孝のぶたか戸田とだ牧野まきのあらそったさい今川いまがわ義元よしもと織田おだ信秀のぶひでとも信孝のぶたかおよび牧野まきの支援しえんしたことで今川いまがわ織田おだ両氏りょうしあいだ一時いちじてき連携れんけいしょうじたとする[21]。また、重臣じゅうしん酒井さかいただしなお信孝のぶたか陣営じんえいにあったとされる[22]。なお、天文てんもん今川いまがわ織田おだ両氏りょうしによる三河みかわ侵攻しんこうについては村岡むらおか幹生みきおの「織田おだ信秀のぶひで岡崎おかざき攻落こうらく考証こうしょう[23]をきっかけに岡崎おかざきじょう織田おだとされたことがあらたなゆう力説りきせつになっているが、そのさい松平まつだいらひろちゅう政治せいじてき立場たちばについては依然いぜんとして今川いまがわかたにあったとする村岡むらおか今川いまがわからの離反りはんはかったために今川いまがわ織田おだ両氏りょうしによる三河みかわ侵攻しんこうしょうじたとみる平野ひらの明夫あきお[24]糟谷かすや幸裕ゆきひろ[25]らとの議論ぎろんがある[26]。その村岡むらおかせつ修正しゅうせいし、両者りょうしゃ連携れんけいみとめたうえ岡崎おかざきじょう陥落かんらく前後ぜんごして連携れんけい破綻はたんしてしまったことが、今川いまがわ義元よしもと行動こうどう不可解ふかかいにしている(松平まつだいらひろちゅうとの和睦わぼく今川いまがわかたへの帰参きさん誘引ゆういん)と推測すいそくしている[27]
  5. ^ なお、当時とうじ情報じょうほう伝達でんたつ状況じょうきょうから、実際じっさい松平まつだいらひろちゅう織田おだへの降伏ごうぶく人質ひとじち差出さしでが8がつであった可能かのうせい指摘してきされている[28]ため、時期じきてきにはたけせんだい人質ひとじちされたとつたえられる時期じきこうむることになる。
  6. ^ 家臣かしん岩松いわまつ八弥はちや謀反ぼうほんによって殺害さつがいされたとするせつがある(『岡崎おかざき』は暗殺あんさつせつる)一方いっぽうで、暗殺あんさつせつ信頼しんらいせいひく史料しりょうからの付会ふかいぎず、岩松いわまつによる襲撃しゅうげき事実じじつとしてもそれが死因しいん断定だんていできる根拠こんきょはなく、病死びょうし否定ひていする理由りゆうはないとする意見いけんもある[23]
  7. ^ 前年ぜんねん天文てんもん18ねん1549ねん)、あんさちじょうふとしはらゆきときめられりにされていた。
  8. ^ 東照宮とうしょうぐう実紀みき』では少将しょうしょうみやまち、『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』ではみやさきとされている。
  9. ^ 松平まつだいらひろちゅう嫡男ちゃくなんであるたけせんだい人質ひとじちにとった処遇しょぐうは、今川いまがわによる松平まつだいらたいする過酷かこく処遇しょぐうであるというのが通説つうせつである。しかし近年きんねん、むしろ今川いまがわ義元よしもと厚意こうい(もちろん義元よしもとがわ思惑おもわくもあるが)によるものだというせつもある[30]。また、そもそものはなしとして幼少ようしょうたけせんだいでは松平まつだいら家中かちゅう領国りょうごく存続そんぞく不可能ふかのうであり、松平まつだいらりょう安定あんていのためにも駿府すんぷ保護ほごする必要ひつようせいがあった[31][32]
  10. ^ 近年きんねん研究けんきゅうでは、岡崎おかざきじょうそのものには今川いまがわ城代じょうだいはいっていたものの、松平まつだいらりょうはあくまでも将来しょうらいてきにはたけせんだいぐものであり、今川いまがわ義元よしもとあんさち松平まつだいら唯一ゆいいつ岡崎おかざきじょうのこされていたずいねんいん松平まつだいら信忠のぶただむすめたけせんだい大叔母おおおば)をようした松平まつだいら家臣かしんだんによる政務せいむ承認しょうにんするかたち実際じっさい統治とうちおこなわれたとかんがえられている[33]
  11. ^ 武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』によると今川いまがわ家臣かしんなかでも岡部おかべ息子むすこ岡部おかべただしつな)がどう年齢ねんれい家康いえやす仲良なかよくなったことから、家康いえやすきわめて好意こういてきかつ協力きょうりょくてきであったようである。のち岡部おかべただしつな家康いえやす家臣かしんとなり、甲州こうしゅう制圧せいあつ作戦さくせんでその外交がいこう手腕しゅわん発揮はっきすることになる。
  12. ^ なお、この駿府すんぷ人質ひとじち時代じだい北条ほうじょう氏規うじのり駿府すんぷ人質ひとじちとなっていたため、このころからにん親交しんこうがあったとするせつがあり、『だい日本にっぽん史料しりょう』などはこのせつせている。また、住居じゅうきょとなり同士どうしだったというせつもある[34]。さらに浅倉あさくら直美なおみ北条ほうじょう氏規うじのり関口せきぐちちかしなが婿養子むこようしであったとするせつとなえている(つまり、氏規うじのりつまとされる女性じょせい築山殿ちくやまどの姉妹しまいということになる)[35]のち北条ほうじょう同盟どうめいむすんださい氏規うじのりはそのまじわりの窓口まどぐちとなった。氏規うじのり系統けいとうは、狭山さやまはんとしてしょうはんながらも廃藩置県はいはんちけんまで存続そんぞく
  13. ^ なお、天文てんもん16ねん政治せいじてき混乱こんらんなかで、こうちゅう存命ぞんめいちゅうたけせんだい家督かとくゆずらされた可能かのうせい指摘してきされている[37]が、現時点げんじてんでは結論けつろんせないとされている[28]
  14. ^ 近年きんねんでは築山殿ちくやまどの母親ははおや義元よしもと近親きんしんまたはやしなえいもうととするせつ否定ひていてきせつもある(関口せきぐちちかしひさし婿養子むこようしであるという指摘してきがあり、そのせつただしければつま関口せきぐち出身しゅっしんということになる[41][42])。それでも関口せきぐち自体じたい今川いまがわ一門いちもんとしてぐうされたいえであり、関口せきぐち婿むこになることはそのまま今川いまがわ親類しんるいしゅくわえられることを意味いみしていた[43]
  15. ^ 祖父そふ清康きよやすちちこうちゅう官途かんとめい確認かくにんされておらず(名乗なのまえ早世そうせいしたためか)、祖父そふである信忠のぶただ左近さこん蔵人くろうどかたち今川いまがわ義元よしもとからあたえられたものとかんがえられる[44]
  16. ^ 山中さんちゅう岡崎おかざきじょう織田おだぐんとされたとされる天文てんもん16ねん9がつからあいだもない天文てんもん17ねん(1548ねん)1がつ今川いまがわ義元よしもとによって奥平おくだいらさだのうあたえられていたが、そのさだのう三河みかわ忩劇においてはん今川いまがわぞくしていた[46]
  17. ^ えいろく10ねん(1567ねん)に今川いまがわ氏真うじざね鈴木すずき重勝しげかつ近藤こんどうやすしよう所領しょりょうあてぎょうしたはんぶつ[58]なか氏真うじざねが「とりねんよんがつじゅうにち岡崎おかざきぎゃくしんこく」における両者りょうしゃ戦功せんこう評価ひょうかする文言もんごんがあり、氏真うじざねとりねんにあたるえいろく4ねん(1561ねん)4がつ岡崎おかざきじょう松平まつだいら元康もとやすが(今川いまがわ視点してんからて)反逆はんぎゃくこしたと認識にんしきしていたことがかる。
  18. ^ 近年きんねんえいろく4ねん合意ごうい松平まつだいら織田おだあいだ和睦わぼく合意ごういぎず同盟どうめい性格せいかくっていない[61]実際じっさい同盟どうめい締結ていけつえいろく10ねん5がつ信康のぶやすとくひめ婚姻こんいんともなって成立せいりつしたとするしば裕之ひろゆきせつもある[62]
  19. ^ 一般いっぱんてき場所ばしょ清州きよすじょうわれ同盟どうめいになっているが、史実しじつじょう場所ばしょ不明ふめいである[63]会談かいだん自体じたい存在そんざい疑問ぎもんする見解けんかいもある[61]
  20. ^ 経営けいえい学者がくしゃ菊地きくち浩之ひろゆき大子だいご再婚さいこん相手あいてである久松ひさまつ俊勝としかつが「ちょう」と名乗なのっていた時期じきがあることを指摘してきし、久松ひさまつちょう俊勝としかつ)を父親ちちおやわりとみなしてそのへんいみなもちいたが、家光いえみつ以後いごに「いえ」のつう徳川とくがわ将軍家しょうぐんけとして重要じゅうようになりその由来ゆらいかくされた。またちょう家康いえやす大名だいみょうとなり、その権勢けんせい拡大かくだいしてぎゃくに「いえ」のつくちょう」をはばかり「俊勝としかつ」と改名かいめいしたというせつとなえている[66]日本にっぽん研究けんきゅう渡邊わたなべ大門だいもんは「根拠こんきょしょう説得せっとくりょくける」[67]日本にっぽん平山ひらやまゆうは「なにらのうらづけもない、印象いんしょうろんとしかいいようがなく、まったく検討けんとうあたいしません。松平まつへい徳川とくがわ研究けんきゅうしゃは、そもそもこれを学説がくせつ認定にんていすらしていません」とべている[68][69]
  21. ^ えいろく7ねん4がつ今川いまがわ氏真うじざねは「さんしゅう急用きゅうよう」すなわち家康いえやす討伐とうばつ理由りゆう免税めんぜい特権とっけん無視むしした臨時りんじ徴収ちょうしゅう実施じっしし、さら武田たけだ信玄しんげんにも援軍えんぐん要請ようせいしているが、同年どうねん7がつ北条ほうじょう氏康うじやす要請ようせい氏康うじやす太田おおたせい討伐とうばつ援軍えんぐん派遣はけんした結果けっか家康いえやす討伐とうばつ先送さきおくりにされた。その結果けっか三河そうごがわでは氏真うじざねによる家康いえやす討伐とうばつ期待きたいしてはん家康いえやす勢力せいりょく挙兵きょへいし、遠江とおとうみがわでは臨時りんじ徴税ちょうぜいをしながら家康いえやす討伐とうばつこさなかった氏真うじざねへの不信ふしんかんたかまったことによってとおしゅう忩劇がこされたと指摘してきされている。しかし、前後ぜんごして発生はっせいした2つの反乱はんらんは「今川いまがわ氏真うじざね来援らいえん期待きたいしていた三河みかわ反乱はんらんぐん氏真うじざね遠江とおとうみ反乱はんらん鎮圧ちんあつ専念せんねんしたために支援しえんられず家康いえやすやぶれる」「松平まつだいら家康いえやす来援らいえん期待きたいしていた遠江とおとうみ反乱はんらんぐん家康いえやす三河みかわ反乱はんらん鎮圧ちんあつ専念せんねんしたために支援しえんられず氏真うじざねやぶれる」という皮肉ひにくかたち終結しゅうけつすることになった[72][73]
  22. ^ 正確せいかくには以前いぜんより織田おだりょうであった加茂かも碧海へきかいりょうぐん西部せいぶ地域ちいきはそのまま織田おだりょうとなっている[74]
  23. ^ 引用いんようもとは『岡崎おかざき』。
  24. ^ 細川ほそかわ嫡流ちゃくりゅう当主とうしゅ管領かんりょう地位ちいくとともに代々だいだい右京大夫うきょうのだいぶにんじられたことから「きょうちょういえ」としょうされていた。これにたいして管領かんりょうささえる盟友めいゆうてき存在そんざい守護しゅご大名だいみょう左京さきょう大夫たいふにんじられており、足利あしかが義澄よしずみ細川ほそかわまさしもと赤松あかまつ政則まさのり足利あしかが義稙よしたね細川ほそかわだかこく大内おおうち義興よしおき足利あしかが義晴よしはる細川ほそかわはるもと六角ろっかく義賢よしかたがこれに該当がいとうする。
  25. ^ ただし、家康いえやす左京さきょう大夫たいふ任命にんめいそのものを辞退じたいしていないことは、公家くげがわ日記にっきに「徳川とくがわ左京さきょう大夫たいふ家康いえやす)」[79][80]という記述きじゅつがあることより確認かくにんできる。また、家康いえやす自身じしん延暦寺えんりゃくじてて「左京さきょう大夫たいふ家康いえやす」と自書じしょした文書ぶんしょ[81]現存げんそんしているため、朝廷ちょうてい寺社じしゃたいしては三河みかわまもるよりもかくじょうとみなされている左京さきょう大夫たいふしょうした可能かのうせいもある[82]
  26. ^ 後年こうねん義昭よしあき天下てんか実権じっけんをめぐって信長のぶながとのあいだ対立たいりつふかめると、義昭よしあき家康いえやすたいする呼称こしょうも「徳川とくがわ三河みかわまもる」とわっている。
  27. ^ 一方いっぽう義昭よしあき家康いえやす徳川とくがわ改姓かいせいみとめていなかったとするせつもある。もとかめ元年がんねん(1570ねん)9がつ三好みよしさんにんしゅ討伐とうばつのために足利あしかが義昭よしあきから家康いえやすてられたとみられる御内おんうちしょ[83]宛名あてな徳川とくがわ改姓かいせい三河みかわまもる任官にんかん以前いぜんの「松平まつだいら蔵人くろうど」になっており、これは松平まつだいら改姓かいせい将軍しょうぐん不在ふざいおこなわれ、かつ義昭よしあき従兄弟いとこでありながら不仲ふなかだった近衛このえぜんひさ推挙すいきょであったことに、義昭よしあき不満ふまんいていたとみられている[84][注釈ちゅうしゃく 26]
  28. ^ なお、武田たけだ友好ゆうこうてき関係かんけいにある織田おだ信長のぶながつうじて信長のぶなが同盟どうめい相手あいてである家康いえやす武田たけだとの協調きょうちょう再考さいこうちかけているが家康いえやすはこれを退しりぞけており、家康いえやす信長のぶながからも一定いってい程度ていど独立どくりつした立場たちばであったとかんがえられている。ただし、もとかめ元年がんねんの4がつごろまでは双方そうほう取次とりつぎである榊原さかきばら康政やすまさ土屋つちやあきらつづけあいだ外交がいこう交渉こうしょうおこなわれており、公式こうしききり宣言せんげんされたのは、同年どうねん10がつ上杉うえすぎ謙信けんしんとの同盟どうめい締結ていけつであったとみられている[85]
  29. ^ 当代とうだい』によれば、当初とうしょ見附みつけ本拠地ほんきょちうつ予定よてい普請ふしんおこなっていた(城之崎きのさきじょうがそのあとという)が、織田おだ信長のぶなが要望ようぼうけて浜松はままつ変更へんこうしたという。信長のぶながからすれば、織田おだ徳川とくがわ本拠地ほんきょちはなれすぎてしまうことをのぞまなかったと推測すいそくされる[86]
  30. ^ これをさかのぼもとかめ2ねん4がつには武田たけだによる三河みかわ遠江とおのえへのだい規模きぼ侵攻しんこうがあったとされているが、近年きんねん根拠こんきょとなる文書ぶんしょぐん年代ねんだい比定ひていあやまりが指摘してきされ、これは天正てんしょう3ねん(1575ねん)の出来事できごとであったことが指摘してきされている[87]
  31. ^ 家康いえやす朝日あさひひめ婚姻こんいんについて、当初とうしょ家康いえやすがわ朝日あさひひめ家康いえやす男子だんしんだ場合ばあい秀吉ひでよし徳川とくがわ家督かとく問題もんだい干渉かんしょうすることを警戒けいかいしていた。どう時代じだい史料しりょうでは確認かくにんできないものの、『三河みかわ風土記ふどき』や『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』にはこのとき家康いえやすが、
    1. 朝日あさひひめ家康いえやすんでも嫡子ちゃくしとはしないこと。
    2. ちょうまる秀忠ひでただ)を秀吉ひでよし人質ひとじちとしないこと。
    3. 万一まんいち家康いえやす死去しきょしても秀吉ひでよし徳川とくがわりょう5かこくちょうまる安堵あんどして家康いえやす家督かとくがせること。
    婚姻こんいん条件じょうけんにしたとされる。(1)と(3)は実際じっさいこらなかったものの、(2)については家康いえやす秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつしたがって北条ほうじょう断交だんこうすることをめた天正てんしょう18ねん1がつ家康いえやす自身じしん意向いこうちょうまる人質ひとじちしたものの、秀吉ひでよし同月どうげつのうちにちょうまる帰国きこくさせている。秀吉ひでよし大名だいみょう妻子さいしことなるあつかいをちょうまるたいしてったのは、(2)の条件じょうけんもとづく判断はんだんであったとかんがえられ、(1)と(3)の条件じょうけん実在じつざいした可能かのうせいたか[101]
  32. ^ もっとも、初期しょきにおける家康いえやす秀吉ひでよしへの臣従しんじゅう不完全ふかんぜんであったとする見方みかたもある。軍事ぐんじりょくによって家康いえやす服属ふくぞくさせたわけではない秀吉ひでよしは、徳川とくがわ北条ほうじょう両氏りょうし同盟どうめい関係かんけい破棄はきさせる強制きょうせいりょくたず、家康いえやす秀吉ひでよし北条ほうじょうあいだでは「中立ちゅうりつてき存在そんざいであった。このため、秀吉ひでよし西国さいこく平定へいてい優先ゆうせんにし、家康いえやすとの調整ちょうせい必要ひつようとなる北条ほうじょう討伐とうばつさきばしにされることになった[101][103]
  33. ^ この官職かんしょく武家ぶけ名誉めいよしょくで、一般いっぱん大名だいみょうびられるものではなく、将軍しょうぐん嫡子ちゃくしおよび実弟じっていなどのみにゆるされていたものである[よう出典しゅってん]
  34. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588ねん5月6にちづけ書簡しょかんで、「坂東ばんどうせんは、7がつにはすでに(挙行きょこうされる)といいふらされており、坂東ばんどう北条ほうじょう殿どの(の領地りょうち)が家康いえやす領国りょうごくに(くわえられることに)なっていますから、それも暴君ぼうくん秀吉ひでよし)にとってはよろこばしいことではありません(原文げんぶん:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」といている[109]。ただし、1588ねんには結局けっきょく出兵しゅっぺいく、2ねんしとなった。またこの訳文やくぶん松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももふとしによるが、原文げんぶん家康いえやす関東かんとううつりふうではなく、北条ほうじょう侵攻しんこう意味いみするという異論いろんもある[110]
  35. ^ ただし、『いえちゅう日記にっき』によれば、7がつ18にちには家康いえやす江戸城えどじょう入城にゅうじょうしている。8月1にち佐竹さたけ領国りょうごく画定かくていによって、徳川とくがわふくめた関東かんとうしょしょう国分こくぶ確定かくていしたであり、それが八朔はっさくいわいとむすびつけられたとかんがえられている[117]
  36. ^ 井伊いい直政なおまさ本多ほんだ忠勝ただかつ榊原さかきばら康政やすまさ知行ちぎょうわりかんしては、川田かわた貞夫さだお豊臣とよとみ政権せいけんによって配置はいち石高こくだか指定していされたとするせつとなえて、以後いご通説つうせつとなっている。ただし、川田かわた主張しゅちょうした鳥居とりい元忠もとただ大久保おおくぼ忠世ただよにも適用てきようされたとするかんがえには、通説つうせつ支持しじする学者がくしゃあいだでもこれはみとめないとする市村いちむら高男たかおらの反論はんろん井伊いい本多ほんだ榊原さかきばらのみとする)がある。なお、こうした豊臣とよとみ政権せいけんだい名家めいか内部ないぶ知行ちぎょうわりたいする関与かんよ自体じたいは、上杉うえすぎにおける直江なおえけんつづけ事例じれいなどがあり徳川とくがわかぎったことではなかった[118]
  37. ^ 常山つねやまおさむだん』には、本多ほんだ正信まさのぶの「殿しんがり渡海とかいなされますか」とのいに家康いえやすが「箱根はこねだれまもらせるのか」とこたえたエピソードがかれている。
  38. ^ ほかにも加藤かとう清正きよまさ宇喜多うきた秀家ひでいえおよび細川ほそかわ忠興ただおき計画けいかくへの関与かんようわさもあった。また、石田いしだ三成みつなり増田ますだ長束ながつかりょう奉行ぶぎょうとともに家康いえやす協力きょうりょくてき立場たちばったという[123]
  39. ^ ただし、加賀かが征伐せいばつそのものが当時とうじ流布るふした根拠こんきょ風説ふうせつぎないとし、家康いえやすだい坂城さかき入城にゅうじょうとそれにともなしん体制たいせい家康いえやすによる事実じじつじょう専権せんけん構築こうちくをめぐって、家康いえやす利長としなが意見いけん相違そういしょうじて一時いちじてき緊迫きんぱくをもたらしたとするせつもある[125]
  40. ^ なお出典しゅってんさだかでないはなしではあるが、これに先立さきだち、伊尾いおがわげん揖斐川いびがわ)で家康いえやす自身じしん銃撃じゅうげきされたという伝承でんしょうもあるという。くわしくは神戸こうべまちこう参照さんしょうのこと。
  41. ^ 豊臣とよとみ摂家せっけひとつにすぎないとされただけで、将来しょうらい豊臣とよとみ秀頼ひでより関白かんぱくしょく就任しゅうにん完全かんぜん否定ひていされたということではない。
  42. ^ 家康いえやす源氏げんじ復姓ふくせい時期じきについては諸説しょせつがある(後述こうじゅつ)。 清和せいわはじめ出自しゅつじでなくとも将軍しょうぐんしょくへの就任しゅうにんには問題もんだいがなく、過去かこには摂家せっけ将軍しょうぐん皇族こうぞく将軍しょうぐんれいもあり、将軍しょうぐんになるには清和せいわはじめでなければならないというのは江戸えど時代じだいつくられた俗説ぞくせつである。
  43. ^ 関ヶ原せきがはらたたか戦後せんご処理しょり家康いえやすなんである武田たけだ信吉のぶよしむすめ婿むこである蒲生がもう秀行ひでゆきあたらしい所領しょりょう確定かくていしていなかった。このため、上杉うえすぎ佐竹さたけ処分しょぶんとの関連かんれんせいわれ、島津しまつ家臣かしん鎌田かまたまさしちか国元くにもとてた書状しょじょうでは、「武田たけだ信吉のぶよし直江なおえけんつづけむすめめとって上杉うえすぎ景勝かげかつ養嗣子ようししとなる」という風説ふうせつしるしている(『旧記きゅうき雑録ざつろく後編こうへん』)。しかし、武田たけだ信吉のぶよし病気びょうきもあってこの風説ふうせつ実現じつげんされず、慶長けいちょう6ねん8がつ上杉うえすぎげんふう確定かくてい没収ぼっしゅうされたきゅう上杉うえすぎりょうなかから会津あいづ60まんせき蒲生がもう秀行ひでゆきあたえられた[136]。そのげんてんふう処分しょぶんけた佐竹さたけ旧領きゅうりょう信吉のぶよしあたえられることになる。
  44. ^
    徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん補任ほにん宣旨せんじ

    内大臣ないだいじんげん朝臣あそん ひだりちゅうべん藤原ふじわら朝臣あそん光廣みつひろでんせんけん大納言だいなごん藤原ふじわら朝臣あそんけんかちせんたてまつ みことのりけんじんむべため征夷大將軍せいいたいしょうぐんしゃ 慶長けいちょうはちねんがつじゅうにち 中務なかつかさ大輔だいすけけんみぎだいさん博士はかせ小槻おおづく宿禰すくねこうあきらたてまつ

    訓読くんどくぶん
    内大臣ないだいじんげん朝臣あそん徳川とくがわ家康いえやすせいひだりちゅうべん藤原ふじわら朝臣あそん光広みつひろ烏丸からすま光広みつひろせいよんじょう蔵人くろうどあたま兼帯けんたいつてせん(の)る、けん大納言だいなごん藤原ふじわら朝臣あそんけんしょう広橋ひろはしけんかちせいせん(の)る、みことのり(みことのり)をたてまつ(うけたまは)るに、けんじん(くだんのひと)よろしく征夷大将軍せいいたいしょうぐんすべしもの(てへり) 慶長けいちょう8ねん(1603ねん)2がつ12にち 中務なかつかさ大輔だいすけみぎだいさん博士はかせ小槻おおづく宿禰すくねこうあきら壬生みぶたかしあきらしたがえたてまつ(うけたまは)る

    — 日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ壬生みぶよんかん日記にっき

    同日どうじつ右大臣うだいじん転任てんにんし、源氏げんじ長者ちょうじゃ牛車うしぐるま乗車じょうしゃ宮中きゅうちゅう出入でいり許可きょか兵仗ひょうじょう随身ずいじん淳和じゅんな奨学しょうがく両院りょういん別当べっとう宣旨せんじたまう。

  45. ^ 当時とうじのオランダは公式こうしきには共和きょうわせいであった(ネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく)。オランダが正式せいしき王制おうせいとなるのは19世紀せいきはじめのウィーン会議かいぎである。
  46. ^ 家康いえやすはこの時期じき主筋しゅうすじである豊臣とよとみほろぼすことの是非ぜひはやし羅山らざん諮問しもんしているともいわれるが[147]、この時期じきはやし羅山らざん家康いえやすたいして、そのようなおおきな発言はつげんけんはないとする近年きんねん研究けんきゅうもある[148]
  47. ^ せん実録じつろく』によれば、撰文せんぶんをしたぶんえいしんかんは「国家こっか安康あんこうもうこうは、名乗なのりのをかくしだいにいれ、縁語えんごをとりてもうす也」と弁明べんめいし、家康いえやすいみなを「かくしだい」とした意識いしきてき撰文せんぶんであるとみとめ、五山ごさんそう答申とうしんはいずれもいみなけなかったことについて問題もんだいしたという[147]。ただし『せん実録じつろく』の成立せいりつ年代ねんだい江戸えど時代じだい・1752ねんである[1]
  48. ^ きょう評判ひょうばんになっている目新めあたらしい料理りょうりとして茶屋ちゃや四郎次しろうじろう清次せいじ紹介しょうかいし、田中たなかしろげん静岡しずおかけん藤枝ふじえだ)にてきょうしたものである[167]。なお、「てんぷら」とはばれているが、ころもく、実際じっさいからちかい。cf. てんぷら#逸話いつわ
  49. ^ 江戸城えどじょうないかぎったはなしではなく、温度おんどけいによるあぶらゆたか管理かんりができなかった時代じだい食用しょくよう容易ようい引火いんかし、かつ消火しょうか困難こんなんであった。それゆえにそれ以外いがい建物たてものないにおいても、てんぷらは火災かさい予防よぼうのため忌避きひされ、もっぱ屋台やたい調理人ちょうりにんにより料理りょうりされる時代じだい太平洋戦争たいへいようせんそうまでつづいた[170]
  50. ^ 従来じゅうらいは、天海あまみ指揮しきによる日光にっこうへの改葬かいそうせつ幕府ばくふ文献ぶんけんなどにも「改葬かいそう」と記述きじゅつされていたためひろしんじられてきたが、近年きんねんになってその矛盾むじゅん指摘してきする議論ぎろん研究けんきゅうさかんとなり、日光にっこうはこばれた「かみひつぎ」のなか遺体いたいはなかったとするせつ有力ゆうりょくとなっている。なお、『東武とうぶ実録じつろく』では、久能くのでの埋葬まいそうだんでは「かみひつぎ」とし、日光にっこうへの「改葬かいそう」のだんでは「霊柩れいきゅう」として、ひつぎ呼称こしょう区別くべつしている。
  51. ^ 野村のむらげんによれば、当時とうじ国内こくないでは寛永かんえい飢饉ききん国外こくがいではあきらきよし交替こうたい鎖国さこくれいともなポルトガル報復ほうふく可能かのうせいによって江戸えど幕府ばくふ緊迫きんぱくした状況じょうきょうにあり、将軍しょうぐんであった徳川とくがわ家光いえみつたんなる家康いえやすへの崇敬すうけいのみならず、もとのときのかぜみや改号かいごう故事こじ先例せんれいとしてあずまあきらしゃ東照宮とうしょうぐう改号かいごうして「敵国てきこく降伏ごうぶく」を祈願きがんしたとする[173]
  52. ^ 徳川とくがわ慶喜よしのぶ墓地ぼちがある「谷中たになか墓地ぼち」としょうされる区域くいきは、都立とりつ谷中やなか霊園れいえんほか天王寺てんのうじ墓地ぼち寛永寺かんえいじ墓地ぼちふくまれており、寛永寺かんえいじ墓地ぼちぞくする。
  53. ^ a b としは、1582ねん10がつ4にち以前いぜんユリウスれき、それ以降いこうグレゴリオれきもとづく。日付ひづけ宣明のぶあきれきちょうこよみ
  54. ^ 天正てんしょう14ねん段階だんかい遡及そきゅうてき叙位じょいされたとかんがえられる。以下いかおな[190]
  55. ^ 奥平おくだいら』、直心ひたごころかげ流伝りゅうでんしょによる。なお『きゅうとき由緒ゆいしょしょ』では奥山おくやまりゅう
  56. ^ 柳生やぎゅう宗厳むねよしってかたなりされたため宗厳むねよし剣術けんじゅつ指南しなんやくとして出仕しゅっしめいずるも、そういわお老齢ろうれい理由りゆう辞退じたい
  57. ^ 家康いえやすは、将軍しょうぐん即位そくい鷹狩たかがりあゆりょうさいに、頻繁ひんぱん府中ふちゅう御殿ごてん滞在たいざい[197]
  58. ^ 渡辺わたなべまもるつなでんひん個人こじんぞう榊原さかきばら康政やすまさでんひん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう南蛮なんばんどう具足ぐそく e国宝こくほう
  59. ^ よしりょう安城あき松平まつだいら徳川とくがわ宗家そうけ)にも影響えいきょうあたえた三河みかわぞくというだけではなく、足利あしかが有力ゆうりょくな庶流として一家いっかれっせられた一族いちぞくであった[45]谷口たにぐち雄太ゆうたは「新田にったりゅう」という概念がいねんは『太平たいへい』の影響えいきょうによって後世こうせいつくされたフィクションで、室町むろまち戦国せんごくには新田にった足利あしかがの庶流・一門いちもんとしてあつかわれていたとする(当然とうぜん世良田せらだとくかわ足利あしかが一門いちもんということになる)認識にんしきから、家康いえやす徳川とくがわを(新田にったではなく)将軍しょうぐん足利あしかが一門いちもんとして位置いちづけるために実際じっさい有力ゆうりょく一門いちもんであるよしりょう系図けいず借用しゃくようおこなったと主張しゅちょうしている[220]
  60. ^ なかには福島ふくしまのようなつぶされかた[よう出典しゅってん]をした大名だいみょうもあり、徳川とくがわ政権せいけん安定あんてい優先ゆうせんさせていたとおもわれる。
  61. ^ 天正てんしょう13ねん(1585ねん)の石川いしかわすうせい寝返ねがえりにより、様々さまざま制度せいどあらためざるをなくなったという事情じじょうもある。
  62. ^ とはいえ、秀吉ひでよし家康いえやす天下てんかじんとなった二人ふたりとも信長のぶながもとにいたことから、その影響えいきょう排除はいじょしてかんがえることはできない。信長のぶながめいたちである浅井あさいさん姉妹しまいから秀吉ひでよし自身じしん側室そくしつ長女ちょうじょ茶々ちゃちゃを、家康いえやす後継こうけいしゃである秀忠ひでただ正室せいしつさんじょこうむかえており、信長のぶなが血縁けつえんおもみをもっていたことがうかがえる。
  63. ^ 2013ねん時点じてんでは無疵むきず健全けんぜんさくおもわれていたが[239]、その調査ちょうさきずをならして修復しゅうふくした形跡けいせき発見はっけんされている[240]
  64. ^ 穴山あなやましんくん秋山あきやまとらやすし、または武田たけだ信玄しんげんむすめなどというせつもある。
  65. ^ 一説いっせつはは下山しもやま殿どのともいわれる。
  66. ^ 一説いっせつははは於梶ともいわれる。
  67. ^ 蔭山かげやまこう冷川ひえかわむら百姓ひゃくしょうむすめなどというせつもある。
  68. ^ 江戸えど重通しげみちむすめなどというせつもある。
  69. ^ 松代まつだいはんあるじ真田さなだみゆきどう江戸えど幕府ばくふ提出ていしゅつしたしょ系図けいずにはたいとくいん殿どの徳川とくがわ秀忠ひでただむすめとなっている。
  70. ^ 柳営りゅうえい婦女ふじょでんけい』(『徳川とくがわ諸家しょか系譜けいふだい1かん つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい)のちょうかちいんしょうとくきょく)のこう結城ゆうき秀康ひでやす双子ふたごであったことが記載きさいされており、また、高野たかのさんにあるしょうとくきょくはかには永見ながみさだあいきざまれている[260]
  71. ^ 徳川とくがわ実紀みき』に落胤らくいんせつがあったとの記述きじゅつがある。
  72. ^ 後藤ごとう庄三郎しょうざぶろう由緒ゆいしょしょ』、寛政かんせい10ねん1798ねん)ころの史料しりょうなので信憑しんぴょうせいには疑問ぎもんがある。
  73. ^ 日光山輪王寺にっこうざんりんのうじ所蔵しょぞうにある重要じゅうよう文化財ぶんかざいまもぶくろ考察こうさつ一説いっせつ

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b 徳川とくがわ家康いえやす画像がぞうあずまあきら大権たいけん現像げんぞう - 徳川とくがわ美術館びじゅつかん、2024ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  2. ^ 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう あずまあきら大権たいけん現像げんぞう - 観光かんこうちょう、2024ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ 先発せんぱつグレゴリオれきだと1543ねん2がつ10日とおか
  4. ^ a b c d 中村なかむら 1965, p. 55.
  5. ^ ユリウスれきだと1616ねん5月22にち
  6. ^ a b 中村なかむら 1965, p. 682.
  7. ^ a b c d e f g 尾藤びとう正英まさひで徳川とくがわ家康いえやす」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  8. ^ 谷口たにぐち 2012、“織田おだ一門いちもんじゅんずる織田おだ政権せいけんいち大名だいみょう」の立場たちばになる。” 引用いんようさき平野ひらの明夫あきお徳川とくがわ権力けんりょく形成けいせい発展はってんだい2しょうゆたか大名だいみょう徳川とくがわ
  9. ^ 東照宮とうしょうぐう実紀みきまき
  10. ^ 新編しんぺん岡崎おかざき編集へんしゅう委員いいんかい へん新編しんぺん岡崎おかざき 2 (中世ちゅうせい)』新編しんぺん岡崎おかざきへんさん委員いいんかい、1989ねん3がつ31にち、696-697ぺーじNDLJP:9540743(よう登録とうろく)
  11. ^ a b 遠藤えんどう珠紀たまき. “#2 「わが同様どうよう松平まつだいら次郎じろう三郎さぶろう元信もとのぶ登場とうじょう”. ステラnet. 2023ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  12. ^ 小学館しょうがくかん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんあずまあきらだい権現ごんげんコトバンクhttps://kotobank.jp/word/あずまあきらだい権現ごんげん-580581#goog_rewarded 
  13. ^ 磯田いそだみち古今ここんをちこち『読売新聞よみうりしんぶん』2023ねん1がつ11にち朝刊ちょうかん、19めん
  14. ^ 遠藤えんどう珠紀たまき徳川とくがわ家康いえやす誕生たんじょうねんについて」『戦国せんごく研究けんきゅうだい86ごう、2023ねん9がつ、P34-35.
  15. ^ 新編しんぺん岡崎おかざき編集へんしゅう委員いいんかい 1989, p. 694.
  16. ^ 新編しんぺん岡崎おかざき編集へんしゅう委員いいんかい 1989, p. 692.
  17. ^ 小川おがわ 2020, pp. 166–168.
  18. ^ 小川おがわ 2020, pp. 168–171.
  19. ^ 中村なかむら 1965, p. 65.
  20. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ天下てんかじん父親ちちおや織田おだ信秀のぶひで 信長のぶながなにまなび、いだのか』〈祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ〉2017ねん、126-127ぺーじ 
  21. ^ しば 2017, pp. 40–41.
  22. ^ 黒田くろだ 1996, pp. 276–277, しば裕之ひろゆき松平まつだいら元康もとやすとの関係かんけい」.
  23. ^ a b 村岡むらおか幹生みきお織田おだ信秀のぶひで岡崎おかざき攻落こうらく考証こうしょう」『中京大学ちゅうきょうだいがく文学ぶんがく論叢ろんそう』1ごう、2015ねん 
  24. ^ 平野ひらの明夫あきお ちょ家康いえやすは、いつ今川いまがわから完全かんぜん自立じりつしたのか」、平野ひらの明夫あきお へん家康いえやす研究けんきゅう最前線さいぜんせんーここまでわかった「あずまあきら神君しんくん」の実像じつぞうよういずみしゃよういずみしゃ新書しんしょ〉、2017ねん 
  25. ^ 糟谷かすや幸裕ゆきひろ ちょ天文てんもんじゅうねんながろくさんねん」、大石おおいし泰史やすし へん今川いまがわふみ年表ねんぴょうおやてる義元よしもと氏真うじざね高志こうし書院しょいん、2017ねん 
  26. ^ 糟谷かすや幸裕ゆきひろ ちょくにしゅ本領ほんりょう家中かちゅう戦国せんごく大名だいみょう今川いまがわ領国りょうごく事例じれいに」、戦国せんごく研究けんきゅうかい へん戦国せんごく時代じだい大名だいみょうくにしゅ 支配しはい従属じゅうぞく自立じりつのメカニズム』えびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねん、145ぺーじISBN 978-4-86403-308-4 
  27. ^ 村岡むらおか幹生みきお戦国せんごく三河みかわ松平まつへい研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2023ねん)「織田おだ信秀のぶひで岡崎おかざき攻落こうらく考証こうしょう追記ついき、P291-295.
  28. ^ a b 大石おおいし泰史やすしくにしゅ松平まつへい今川いまがわ黒田くろだ基樹もとき へん『シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう だい3かん 徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9 P56-59.
  29. ^ しば 2017, pp. 41–42.
  30. ^ 今川いまがわ義元よしもと一代記いちだいき」『歴史れきしぐんぞう』2002ねん8がつごう
  31. ^ 黒田くろだ 2019, p. 278, しば裕之ひろゆき松平まつだいら元康もとやすとの関係かんけい」.
  32. ^ 黒田くろだ 2019, pp. 298–300, しば裕之ひろゆきおけ狭間はざま合戦かっせん性格せいかく」.
  33. ^ しんぎょう紀一きいち城代じょうだい支配しはい岡崎おかざき今川いまがわ部将ぶしょう松平まつだいら元康もとやす」『新編しんぺん 岡崎おかざき 中世ちゅうせいだい3しょうだい4せつだい5こうだい6こう、1989ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし 2019, pp. 134–141
  34. ^ 駿しゅんこく雑誌ざっし』(19世紀せいき前期ぜんき駿河するがこく地誌ちし阿部あべ正信まさのぶちょ
  35. ^ 黒田くろだ 2019, p. 226-228, 浅倉あさくら直美なおみ北条ほうじょうとの婚姻こんいん同盟どうめい」.
  36. ^ 愛知あいちけん通史つうしへん中世ちゅうせい2・ゆたか1(2018ねんだい1しょうだい3せつ織田おだ今川いまがわ勢力せいりょく拡大かくだい尾張おわり三河みかわ」のせつ執筆しっぴつ:平野ひらの明夫あきお)。
  37. ^ 小林こばやし輝久てるひさ彦「〈駿しゅんとおぐんちゅうしゅ矢文やぶみうつし〉についてのいち考察こうさつ」『静岡しずおかけん地域ちいき研究けんきゅう』11(2021ねん
  38. ^ 大石おおいし泰史やすしくにしゅ松平まつへい今川いまがわ黒田くろだ基樹もとき へん『シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう だい3かん 徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9 P55.
  39. ^ 黒田くろだ基樹もとき家康いえやす正妻せいさい 築山殿ちくやまどの 悲劇ひげき生涯しょうがいをたどる平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ、2022ねん、P56.
  40. ^ a b c d e 元服げんぷく婚姻こんいん”. 徳川とくがわ家康いえやす将軍家しょうぐんけ蔵書ぞうしょからみるその生涯しょうがい. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん. 2023ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  41. ^ 黒田くろだ基樹もとき今川いまがわおやしん研究けんきゅう」『今川いまがわおやえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2019ねん4がつ、27-31ぺーじISBN 978-4-86403-318-3 
  42. ^ 黒田くろだ基樹もとき総論そうろん 今川いまがわ氏真うじざね研究けんきゅう」『今川いまがわ氏真うじざねえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんかん〉、2023ねん9がつ、38-40ぺーじISBN 978-4-86403-485-2 
  43. ^ 黒田くろだ 2019, p. 286, しば裕之ひろゆき松平まつだいら元康もとやすとの関係かんけい」.
  44. ^ しんぎょう紀一きいち城代じょうだい支配しはい岡崎おかざき今川いまがわ部将ぶしょう松平まつだいら元康もとやす」『新編しんぺん 岡崎おかざき 中世ちゅうせいだい3しょうだい4せつだい5こうだい6こう、1989ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし 2019, p. 144
  45. ^ a b 小林こばやし輝久てるひさ天文てんもん弘治こうじ年間ねんかん三河みかわよしりょう」『安城あき歴史れきし博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きよう』12ごう、2012ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし 2019, pp. 273–276
  46. ^ 大石おおいし泰史やすし今川いまがわ奥平おくだいら-〈松平まつだいら奥平おくだいら古文こぶん書写しょしゃ〉の検討けんとうつうじて」『地方ちほう静岡しずおか』21ごう静岡しずおか県立けんりつ中央ちゅうおう図書館としょかん、1993ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし 2019, pp. 162-164・169-170
  47. ^ 中村なかむら 1965, p. 92.
  48. ^ しんぎょう紀一きいち城代じょうだい支配しはい岡崎おかざき今川いまがわ部将ぶしょう松平まつだいら元康もとやす」『新編しんぺん 岡崎おかざき 中世ちゅうせいだい3しょうだい4せつだい5こうだい6こう、1989ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし 2019, pp. 149–151
  49. ^ 黒田くろだ基樹もとき家康いえやす正妻せいさい 築山殿ちくやまどの 悲劇ひげき生涯しょうがいをたどる平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ、2022ねん、P32.
  50. ^ 中村なかむら 1965, p. 96.
  51. ^ 岡崎おかざき別巻べっかん 徳川とくがわ家康いえやすと其周圍しゅうい上巻じょうかん、1934ねん、p. 304-305”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2023ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  52. ^ 岡崎おかざき別巻べっかん 徳川とくがわ家康いえやすと其周圍しゅうい上巻じょうかん、1934ねん、p. 306-307”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2023ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  53. ^ 新編しんぺん岡崎おかざき編集へんしゅう委員いいんかい 1989, p. 809.
  54. ^ a b 平野ひらの明夫あきお戦国せんごく徳川とくがわ政治せいじてき立場たちば--織田おだとのかかわりをとおして」『国史こくしがくだい158ごう国史こくし学会がっかい、1995ねん12月、97-128ぺーじISSN 03869156NAID 40001320547 
  55. ^ 宮本みやもと義己よしみ松平まつだいら元康もとやす<徳川とくがわ家康いえやす>の器量きりょう存在そんざいかん」『大日だいにちこう』71ごう、2001ねん 
  56. ^ a b 丸島まるしま和洋わよう松平まつだいら元康もとやす岡崎おかざきじょう帰還きかん」『戦国せんごく研究けんきゅう』76ごう、2016ねん、24-25ぺーじ 
  57. ^ 宮本みやもと義己よしみ松平まつだいら元康もとやす<徳川とくがわ家康いえやす>の早道はやみち献納けんのう学説がくせつとその典拠てんきょ批判ひはんとおして―」『大日だいにちこう』73ごう、2003ねん 
  58. ^ 愛知あいちけん資料しりょうへん11・566ごう
  59. ^ a b しば 2005.
  60. ^ a b 谷口たにぐち 2012, p. 82-89.
  61. ^ a b しば裕之ひろゆき室町むろまち幕府ばくふ織田おだ政権せいけんとの政治せいじ関係かんけい黒田くろだ基樹もとき 編著へんちょ徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 3〉、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9。P225-226.
  62. ^ しば裕之ひろゆき室町むろまち幕府ばくふ織田おだ政権せいけんとの政治せいじ関係かんけい黒田くろだ基樹もとき 編著へんちょ徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 3〉、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9。P231-233.
  63. ^ 谷口たにぐち 2012, p. 83-86.
  64. ^ しば 2021, pp. 22–23, 「総論そうろん 戦国せんごくゆたか徳川とくがわ家康いえやす動向どうこう研究けんきゅう」.
  65. ^ 中村なかむら孝也たかやしんてい 徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう上巻じょうかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2017ねんだいへん 岡崎おかざきざいしろ時代じだい
  66. ^ 菊地きくち浩之ひろゆき徳川とくがわ家臣かしんだんなぞ角川書店かどかわしょてん<角川かどかわ選書せんしょ>、2016ねん ISBN 978-4-04-703598-0 pp.100-101
  67. ^ 渡邊わたなべ大門だいもん (2023ねん2がつ20日はつか). “ふかり「どうする家康いえやす」】松平まつだいら元康もとやすが「家康いえやす」に改名かいめいした最大さいだいとは”. Yahoo!ニュース. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  68. ^ @HIRAYAMAYUUKAIN (2023ねん2がつ21にち). "(2)家康いえやすの「いえ」はなに由来ゆらいするのか 家康いえやすいみなにある「いえ」とはなに由来ゆらいするのかをめぐっては、古来こらいから議論ぎろんがあります。そもそも家康いえやす自身じしんが、「いえ」の由来ゆらいについてかたのこすことも、のこすこともしていないため、かれ思惑おもわくなぞのままです。ただ、継父けいふ久松ひさまつちょう影響えいきょうによるものだというせつは、". X(きゅうTwitter)より2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  69. ^ @HIRAYAMAYUUKAIN (2023ねん2がつ22にち). "なんらのうらづけもない、印象いんしょうろんとしかいいようがなく、まったく検討けんとうあたいしません。松平まつへい徳川とくがわ研究けんきゅうしゃは、そもそもこれを学説がくせつ認定にんていすらしていません。もっと可能かのうせいたかいのは、みなもとである、八幡やはた太郎たろうにあやかったというものでしょう。このことは、ドラマの台詞せりふれられています。家康いえやすは、松平まつだいら". X(きゅうTwitter)より2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  70. ^ a b 播磨はりま良紀よしのり徳川とくがわ家康いえやす花押かおう名古屋なごや博物館はくぶつかん へんさん英傑えいけつ名古屋なごや』(平成へいせい26年度ねんど特別とくべつてん図録ずろく)、2014ねん。/所収しょしゅう:しば 2021, pp. 109–113
  71. ^ しば 2021, p. 23, 「総論そうろん 戦国せんごくゆたか徳川とくがわ家康いえやす動向どうこう研究けんきゅう」.
  72. ^ 平山ひらやまゆう新説しんせつ 家康いえやす三方原みかたはら合戦かっせん生涯しょうがい唯一ゆいいつ大敗たいはいく-』NHK出版しゅっぱん、2022ねん、14-21ぺーじISBN 978-4-14-088688-5 
  73. ^ 平山ひらやまゆう徳川とくがわ家康いえやす武田たけだ信玄しんげん』KADOKAWA〈角川かどかわ選書せんしょ〉、2022ねん、34-45・53・92-94・97-98・327-329ぺーじISBN 978-4-04-703712-0 
  74. ^ しば 2021, p. 25, 「総論そうろん 戦国せんごくゆたか徳川とくがわ家康いえやす動向どうこう研究けんきゅう」.
  75. ^ a b c d 谷口たにぐちけん流浪るろう戦国せんごく貴族きぞく 近衛このえぜんひさ - 天下てんか一統いっとう翻弄ほんろうされた生涯しょうがい』〈中公新書ちゅうこうしんしょ〉1994ねん、167-176ぺーじ 
  76. ^ 「「徳川とくがわ」への改姓かいせいと「家康いえやす」への改名かいめい」『徳川とくがわ家康いえやす 将軍家しょうぐんけ蔵書ぞうしょからみるその生涯しょうがい国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  77. ^ 上野うえの秀治しゅうじ徳川とくがわ」『だい日本にっぽん百科全書ひゃっかぜんしょ』16かん 小学館しょうがくかん 1987ねん、875ぺーじ
  78. ^ 木下きのしたさとし中世ちゅうせい武家ぶけ官位かんい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん、114-116ぺーじISBN 978-4-642-02904-9 
  79. ^ げんつぎきょうえいろく11ねん11がつ10日とおかじょう
  80. ^ げんけいきょう天正てんしょう14ねん10がつ26にちじょう
  81. ^ 延暦寺えんりゃくじ文書ぶんしょ」『だい日本にっぽん史料しりょうだいじゅういちへんじゅう』255ぺーじ
  82. ^ 木下きのしたさとし中世ちゅうせい武家ぶけ官位かんい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん、134-135ぺーじ 
  83. ^ 武田たけだ神社じんじゃ文書ぶんしょきゅうがつじゅうよんにちづけ足利あしかが義昭よしあき御内おんうちしょ
  84. ^ 木下きのしたあきらぶんまわし室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき徳川とくがわ家康いえやす」『戦国せんごく研究けんきゅう』63ごう、2012ねん /所収しょしゅう:木下きのしたあきらぶんまわし戦国せんごく足利あしかが将軍家しょうぐんけ権力けんりょく構造こうぞう岩田いわた書院しょいん、2014ねんISBN 978-4-87294-875-2 
  85. ^ 丸島まるしま和洋わよう武田たけだ徳川とくがわ同盟どうめいかんするいち史料しりょう」『武田たけだ研究けんきゅう』56ごう、2017ねん。/所収しょしゅう:しば 2021, pp. 185–189
  86. ^ 阿部あべ浩一こういち家康いえやす遠江とおとうみ平定へいてい三方原みかたはら合戦かっせん」『静岡しずおかけん通史つうしへん2中世ちゅうせい だい3へんだい7しょうだい1せつ、1997ねん。/所収しょしゅう:しば 2021, p. 190
  87. ^ 鴨川かもがわ達夫たつお武田たけだ信玄しんげん勝頼かつより
  88. ^ 谷口たにぐち 2012, pp. 229–233、“織田おだ一門いちもんじゅんずる織田おだ政権せいけんいち大名だいみょう」の立場たちばになる。”引用いんようさき平野ひらの昭夫あきお徳川とくがわ権力けんりょく形成けいせい発展はってんだい2しょうゆたか大名だいみょう徳川とくがわ
  89. ^ 久保田くぼたあきらのぞみ ちょ中世ちゅうせい後期こうき東日本ひがしにっぽんへの唐船とうせん来航らいこう」、橋詰はしづめしげる へん戦国せんごく近世きんせい初期しょき 西にしひがし地域ちいき社会しゃかい岩田いわた書院しょいん、2019ねん6がつ、414-416ぺーじISBN 978-4-86602-074-7 
  90. ^ てんうまやろう家康いえやす封印ふういんされた過去かこ』PHP研究所けんきゅうじょ、1998ねん 
  91. ^ 盛本もりもと昌広まさひろまつ平家ひらかただし日記にっき』〈角川かどかわ選書せんしょ〉1999ねん、26-28ぺーじ 
  92. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶながえた家臣かしんたち』〈中公新書ちゅうこうしんしょ〉2012ねん、200-211ぺーじ 
  93. ^ しば裕之ひろゆき徳川とくがわ家康いえやす 境界きょうかい領主りょうしゅから天下てんかじん平凡社へいぼんしゃ、2017ねん
  94. ^ 本多ほんだ隆成たかなり徳川とくがわ家康いえやす武田たけだ 信玄しんげん勝頼かつせとのじゅうよんねん戦争せんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん 歴史れきし文化ぶんかライブラリー、2019ねん
  95. ^ 黒田くろだ基樹もとき家康いえやす正妻せいさい 築山殿ちくやまどの 悲劇ひげき生涯しょうがいをたどる平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ、2022ねん、P202-210.
  96. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ 2019, p. 170.
  97. ^ 刈谷かりやしろ水野みずの忠重ただしげ天正てんしょう10ねん1582ねん)まで織田おだ信忠のぶただ本能寺ほんのうじへん以降いこうには織田おだ信雄のぶおぞくす(『織田おだ信雄のぶお分限ぶげんちょう』)。小牧こまきたたかいにも信雄のぶおかたとして従軍じゅうぐん天正てんしょう13ねん(1585ねん以降いこう秀吉ひでよしちょくしん
  98. ^ 日本にっぽん外史がいし
  99. ^ いえちゅう日記にっき天正てんしょう11ねん7がつ20日はつかじょう
  100. ^ しば裕之ひろゆき ちょ戦国せんごく大名だいみょう徳川とくがわ徳政令とくせいれい」、久保田くぼたあきらまれ へんまつ平家ひらかただし日記にっき戦国せんごく社会しゃかい岩田いわた書院しょいん、2011ねん /改題かいだい所収しょしゅう:しば裕之ひろゆき徳川とくがわ領国りょうごく支配しはい徳政令とくせいれい」『戦国せんごくゆたか大名だいみょう徳川とくがわ領国りょうごく支配しはい岩田いわた書院しょいん、2014ねん 
  101. ^ a b c 片山かたやま, 「豊臣とよとみ政権せいけんたい北条ほうじょう政策せいさく家康いえやす
  102. ^ しば裕之ひろゆき本能寺ほんのうじへん政局せいきょく秀吉ひでよしへの臣従しんじゅう黒田くろだ基樹もとき 編著へんちょ徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 3〉、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9。P267-270.
  103. ^ 片山かたやま, 「豊臣とよとみ政権せいけん統一とういつ過程かていにおける家康いえやす位置付いちづけ」
  104. ^ a b c d 村川むらかわ 2000.
  105. ^ a b c 村川むらかわ 2013.
  106. ^ だい37かい全国ぜんこく城郭じょうかく研究けんきゅうしゃセミナーレジメ, pp. L-1~L-7, 前田まえだ利久としひさ天正てんしょう駿府すんぷ築城ちくじょうかんする文献ぶんけんてき考察こうさつ
  107. ^ a b 戦國せんごく遺文いぶん こう北條ほうじょうへん だいかん』 「○よんさんよん 徳川とくがわ家康いえやす起請文きしょうもん鰐淵わにぶちてら文書ぶんしょ」 p.302
  108. ^ 市原いちはら教育きょういく委員いいんかい 1986, p. 193.
  109. ^ フロイス『日本にっぽんだい63しょう
  110. ^ フロイス, 服部はっとり英雄ひでお, 曽田そた菜穂美なおみ翻訳ほんやく・フロイス『日本にっぽん』31-4しょう」『比較ひかく社会しゃかい文化ぶんか : 九州大学大学院比較社会文化学府紀要』だい20かん九州大学きゅうしゅうだいがく大学院だいがくいん比較ひかく社会しゃかい文化ぶんか学府がくふ、2014ねん、31-52ぺーじdoi:10.15017/1456058ISSN 1341-1659NAID 120005456972 
  111. ^ しば 2017, p. 188.
  112. ^ しば 2017, p. 191.
  113. ^ 太閤たいこう検地けんち当代とうだい』、『だい日本にっぽんろくじゅうろくこくなみとう絵図えず』、『日本にっぽんぜい』、慶長けいちょう3ねん(1598ねん)など。wikipedia「石高こくだか記事きじ参照さんしょう
  114. ^ a b 阿部あべ能久よしひさ喜連川きつれがわ誕生たんじょう」『戦国せんごく関東かんとう公方くぼう研究けんきゅうおもえぶんかく、2006ねん、198-274ぺーじ 
  115. ^ しば 2017, pp. 194–195.
  116. ^ a b 市原いちはら教育きょういく委員いいんかい 1986, p. 192.
  117. ^ しば 2017, p. 193.
  118. ^ 平野ひらの明夫あきお関東かんとう領有りょうゆう徳川とくがわ家臣かしん豊臣とよとみ政権せいけん」、佐藤さとう博信ひろのぶ へん中世ちゅうせい東国とうごく政治せいじ構造こうぞう 中世ちゅうせい東国とうごくろんうえ』、岩田いわた書院しょいん、2007ねん ISBN 978-4-87294-472-3
  119. ^ 黒田くろだ基樹もとき羽柴はしば豊臣とよとみ政権せいけんにおける家康いえやす地位ちい黒田くろだ 編著へんちょ徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだい』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 3〉、2023ねん5がつISBN 978-4-86403-473-9。P288-292.
  120. ^ a b 小和田こわだ哲男てつお駿府すんぷ大御所おおごしょ 徳川とくがわ家康いえやす静岡新聞社しずおかしんぶんしゃしずかしん新書しんしょ〉、2007ねん 
  121. ^ りゅうたに和比古かずひこ豊臣とよとみななしょう石田いしだ三成みつなり襲撃しゅうげき事件じけん歴史れきし認識にんしき形成けいせいのメカニズムとその陥穽かんせい―」『日本にっぽん研究けんきゅう』22しゅう、2000ねん 
  122. ^ 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやす人情にんじょう決断けつだん三成みなり"隠匿いんとく"の顛末てんまつとその意義いぎ―」『大日だいにちこう』70ごう、2000ねん 
  123. ^ a b たに徹也てつや ちょ総論そうろん 石田いしだ三成みつなりろん」、たに徹也てつや へん石田いしだ三成みつなりえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいななかん〉、2018ねんISBN 978-4-86403-277-3 
  124. ^ 高沢たかさわ裕一ひろいち前田まえだ利長としなが」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  125. ^ 大西おおにし泰正やすまさ ちょゆたか前田まえだ権力けんりょく形成けいせい展開てんかい」、大西おおにし泰正やすまさ へん前田まえだ利家としいえ利長としながえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいさんかん〉、2016ねん、28-36ぺーじISBN 978-4-86403-207-0 
  126. ^ 北島きたじまただしもと徳川とくがわ家康いえやす組織そしきしゃ肖像しょうぞう―』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1963ねん、186ぺーじ 
  127. ^ 二木ふたき謙一けんいち関ケ原せきがはら合戦かっせん戦国せんごくのいちばんなが―』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1982ねん、41ぺーじ 
  128. ^ 今谷いまたに 1993, p. 113.
  129. ^ 笠谷かさだに 2007, p. 175.
  130. ^ 鈴木すずきかほる「徳川とくがわ家康いえやす浦賀うらが開港かいこうとその意図いと」『神奈川かながわ地域ちいき研究けんきゅう』12ごう、1994ねん 
  131. ^ 鈴木すずき 2010, pp. 32, 78.
  132. ^ 鈴木すずき 2010, p. 69.
  133. ^ ビスカイノ, p. 8.
  134. ^ ビスカイノ, p. 152.
  135. ^ 鈴木すずき 2010, p. 170.
  136. ^ 下成しもなりさとし蒲生がもう徳川とくがわ政権せいけん日野ひのまちへんさん委員いいんかいへん近江おうみ日野ひの歴史れきしだいかん 中世ちゅうせいへん だいよんしょうだいさんせつ、2009ねん。/所収しょしゅう:たに徹也てつや へん蒲生がもうきょう』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2021ねん、206-208ぺーじISBN 978-4-86403-369-5 
  137. ^ しば 2017, p.242-243図表ずひょう.
  138. ^ a b c 黒板こくばん 1936, p. 520.
  139. ^ 河内かわうち 2008, p. 207.
  140. ^ 村川むらかわ 2013, pp. 120–121.
  141. ^ 当代とうだい』『歴朝れきちょうらい聘』
  142. ^ 村川むらかわ2013-2, p. 117.
  143. ^ 村川むらかわ2013-2, p. 118.
  144. ^ 本多ほんだ隆成たかなり「Ⅴ.大所たいしょ政治せいじ展開てんかい-慶長けいちょうじゅうろくねん」『定本ていほん 徳川とくがわ家康いえやす吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん、pp236-239。
  145. ^ 村川むらかわ2013-2, pp. 117–118.
  146. ^ a b 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやすおおやけさい評価ひょうか」『大日だいにちこう』64ごう、1992ねん 
  147. ^ a b c d e f 笠谷かさだに 2007, pp. 204–215.
  148. ^ a b c d e 渡邊わたなべ 2012, p. 68-82
  149. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川とくがわ綱吉つなよし ドイツじん医師いし将軍しょうぐんとの交流こうりゅう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1994ねん、95ぺーじ 
  150. ^ a b 河内かわうち 2008, p. 73.
  151. ^ 河内かわうち 2008, p. 77.
  152. ^ 村山むらやま 2003, p. 116.
  153. ^ 豊臣とよとみ盛衰せいすいきざんだ大仏だいぶつ梵鐘ぼんしょう 方広寺ほうこうじ京都きょうと”. NIKKEI STYLE ふるきをあるけば(47) (2013ねん2がつ26にち). 2023ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  154. ^ 河内かわうち 2023, p. 138.
  155. ^ a b 河内かわうち 2023, p. 139.
  156. ^ 河内かわうち 2023, p. 137.
  157. ^ 河内かわうち 2023, p. 142.
  158. ^ a b 河内かわうち 2023, p. 145.
  159. ^ 河内かわうち 2023, p. 153.
  160. ^ 河内かわうち 2023, p. 158.
  161. ^ a b 河内かわうち 2023, p. 159.
  162. ^ 河内かわうち 2023, p. 162.
  163. ^ 笠谷かさだに 2007, pp. 239–241.
  164. ^ 中村なかむら 1965, p. 519.
  165. ^ 中村なかむら 1965, p. 492.
  166. ^ だい37かい全国ぜんこく城郭じょうかく研究けんきゅうしゃセミナーレジメ, pp. N-1~L-6, だいしま聖子せいこ徳川とくがわ家康いえやすさい晩年ばんねん隠居いんきょ構想こうそういずみあたまじょう普請ふしんをめぐるしょ大名だいみょう動向どうこう紙上しじょう報告ほうこく] 」
  167. ^ 生類しょうるい憐みのれい野良犬のらいぬ天国てんごく”の「その江戸えどきずいた徳川とくがわ・4つの後日ごじつだん. PRESIDENT Online (プレジデントしゃ). (2018ねん4がつ23にち). https://president.jp/articles/-/24965 2019ねん9がつ26にち閲覧えつらん 
  168. ^ 富士川ふじかわゆう徳川とくがわ家康いえやす身體しんたいいて」、『史学しがく雑誌ざっし』18へん12ごう、1907ねん
  169. ^ 篠田しのだいたるあきら徳川とくがわ将軍家しょうぐんけじゅうだいのカルテ』〈新潮しんちょう新書しんしょ〉2005ねん5がつISBN 978-4-10-610119-9 
  170. ^ 加藤かとうのぼる亭主ていしゅ寸話すんわ」38 『てんぷらてんうつわり』
  171. ^ 興津おきつたい此處ここきょル〜家康いえやすおおやけ久能くのうにあり〜』静岡新聞社しずおかしんぶんしゃ、2019ねん12月、ISBN 978-4-7838-1094-0
  172. ^ 今谷いまたに 1993, pp. 157–158.
  173. ^ 野村のむらげん日本にっぽん近世きんせい国家こっか確立かくりつ天皇てんのう清文せいぶんどう、2006ねん 
  174. ^ 神祖しんそ」『デジタル大辞泉だいじせん”. 小学しょうがくかん. 2015ねん10がつ15にち閲覧えつらん
  175. ^ れつ殿どのあといしぶみ”. あい地球ちきゅうはく. 2015ねん10がつ15にち閲覧えつらん
  176. ^ よんひゃくねんまえかがやきをりもどした家康いえやすおおやけ墓所はかしょ国宝こくほう 久能くのさん東照宮とうしょうぐう”. 公式こうしき静岡しずおかのおすすめ観光かんこうスポット. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんするが企画きかく観光かんこうきょく. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  177. ^ “【日光にっこう東照宮とうしょうぐう外伝がいでん家康いえやすおおやけ墓所はかしょ 遺体いたいはどこに もうひとつの遺言ゆいごん. 産経新聞さんけいしんぶん. (2021ねん10がつ13にち). https://www.sankei.com/article/20211013-BR54KQAEWRNG5DBZQRMFT4QAOI/ 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん 
  178. ^ 日光にっこう東照宮とうしょうぐう 奥宮おくのみやおくしゃ徳川とくがわ家康いえやすのおはか”. 栃木とちぎのしゅし. Yoriyork (2017ねん3がつ10日とおか). 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  179. ^ 日光にっこう東照宮とうしょうぐう”. NHK for School. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  180. ^ 『Sing』2016ねん3がつごう” (PDF). 静岡しずおか商工しょうこう会議かいぎしょ. p. 1. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  181. ^ 境内けいだいのご案内あんない”. 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  182. ^ 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう 廟所びょうしょ宝塔ほうとう”. 文化ぶんか遺産いさんデータベース. 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  183. ^ 東照宮とうしょうぐう おくしゃ宝塔ほうとう”. 文化ぶんか遺産いさんデータベース. 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  184. ^ 家康いえやす霊屋たまや金剛峯寺こんごうぶじ徳川とくがわれいだい”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース/文化庁ぶんかちょう. 2020ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  185. ^ 秀忠ひでただ霊屋たまや金剛峯寺こんごうぶじ徳川とくがわれいだい”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース/文化庁ぶんかちょう. 2020ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  186. ^ 大樹寺だいじゅうじ歴史れきし, p. 105.
  187. ^ 指定してい史跡しせき 松平まつだいらはちだいはか”. 岡崎おかざきホームページ (2020ねん9がつ8にち). 2021ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  188. ^ さんさんねんぶり〝郷土きょうど〟に 家康いえやすおおやけ墓碑ぼひ きのう開眼かいがん供養くよう法要ほうよう」 『愛知あいち新聞しんぶん』1969ねん4がつ17にち
  189. ^ 小雨こさめなか開眼かいがん供養くよう法要ほうよう 大樹寺だいじゅうじ 家康いえやすおおやけ墓碑ぼひ除幕じょまく」 『東海とうかい新聞しんぶん』1969ねん4がつ17にち
  190. ^ りゅうたに和比古かずひころん
  191. ^ a b 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』49ごう、1996ねん。『日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん』、近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん、30ぺーじ
  192. ^ 宮本みやもと 1992, p. 142.
  193. ^ a b 宮本みやもと 1992, p. 151.
  194. ^ a b 宮本みやもと 1992, p. 33.
  195. ^ いままた北条ほうじょうほんサセラレテ、校正こうせい開板かいはんいのちアリシナルヘシ、」『ほん日記にっきぞくろく
  196. ^ みぎひがしかん綱要こうよういちさつたてまつつりいのち所為しょいせんしょうしゃ也、」『羅山らざん先生せんせい文集ぶんしゅう
  197. ^ 秀吉ひでよしむかえた家康いえやす府中ふちゅう御殿ごてん
  198. ^ 千葉ちばけん (2017ねん8がつ1にち). “徳川とくがわ家康いえやすゆかりのたずねて 東金とうがね千葉ちばけん”. ウィークリー千葉ちばけん. 千葉ちばけん. 2017ねん12月29にち閲覧えつらん
  199. ^ a b c d e 宮本みやもと 1995.
  200. ^ 工藤くどう 英三えいぞう「013106 徳川とくがわ家康いえやす鷹狩たかがり(1.体育たいいく,一般いっぱん研究けんきゅう)」『日本にっぽん体育たいいく学会がっかい大会たいかいごう』、社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽん体育たいいく学会がっかい、1985ねん8がつ20日はつかdoi:10.20693/jspeconf.36.0_97NAID 110007676616 
  201. ^ だい70名人めいじんせん前夜祭ぜんやさい模様もよう日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいオフィシャルサイト
  202. ^ a b c 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやす本草学ほんぞうがく」、りゅうたに和比古かずひこへん徳川とくがわ家康いえやす―その政治せいじ文化ぶんか芸能げいのう―』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  203. ^ a b 飯田いいだ剛彦たけひこせいくらいん宝庫ほうこ修理しゅうり歴史れきし自然しぜん災害さいがいせいくらいん紀要きようだい38ごう、2016ねん 宮内庁くないちょう正倉院事務所しょうそういんじむしょ p.107、2018ねん6がつ15にち閲覧えつらん
  204. ^ 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう博物館はくぶつかんいち〇〇せん図録ずろく、1995ねん
  205. ^ 佐藤さとう豊三とよぞう徳川とくがわ家康いえやすちゃ」、りゅうたに和比古かずひこへん徳川とくがわ家康いえやす -その政治せいじ文化ぶんか芸能げいのう-』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  206. ^ 家康いえやす遺産いさん 駿府すんぷぶんぶつてん図録ずろく徳川とくがわ美術館びじゅつかん、1992ねん
  207. ^ 徳川とくがわ義宣よしのぶ ちょ家康いえやすしょ げんはれたあらたな人間像にんげんぞう」、徳川とくがわ黎明会れいめいかい五島ごしま美術館びじゅつかん へん家康いえやすしょ遺品いひん』1983ねん 
  208. ^ 日本にっぽん史上しじょう最強さいきょう健康けんこうオタクだった…徳川とくがわ家康いえやすが75さいという異例いれい長寿ちょうじゅぬまで情熱じょうねつかたむけていたこと
  209. ^ 片山かたやま系譜けいふ
  210. ^ 篠田しのだいたるあきら徳川とくがわ将軍家しょうぐんけじゅうだいのカルテ』〈新潮しんちょう新書しんしょ〉2005ねん5がつISBN 978-4-10-610119-9 
  211. ^ 徳川とくがわ家康いえやす健康けんこうオタクぎて病死びょうしした河合かわいあつし 幻冬舎げんとうしゃplus 2021ねん8がつ4にち
  212. ^ 徳川とくがわ義宣よしのぶ ちょ一連いちれん徳川とくがわ家康いえやす僞筆ぎひつ日課にっか念佛ねんぶつ僞作ぎさくしゃしゅうにん々-」、徳川とくがわ黎明会れいめいかい へんきむしゃち叢書そうしょ だい8輯』思文閣出版しぶんかくしゅっぱん 
  213. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ 2019, p. 173.
  214. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ 2019, p. 174.
  215. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ 2019, p. 185.
  216. ^ 渡邊わたなべ大門だいもん ふかり「どうする家康いえやす」】少年しょうねん松平まつだいら元康もとやす戦略せんりゃくすぐれ、けっして臆病おくびょうではなかった、2024ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  217. ^ 将軍しょうぐん肖像しょうぞう下絵したえはリアル 徳川とくがわ宗家そうけ伝来でんらい研究けんきゅうすす朝日新聞あさひしんぶん2012ねん8がつ8にち
  218. ^ ルイス・フロイス ちょ松田まつだ毅一きいち川崎かわさき ももたい やくだい12しょう」『完訳かんやくフロイス日本にっぽん4 秀吉ひでよし天下てんか統一とういつ高山たかやま右近うこん追放ついほう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2000ねん 
  219. ^ 笠谷かさだに 1997, p. 34.
  220. ^ 谷口たにぐち雄太ゆうた足利あしかが一門いちもん再考さいこう -[足利あしかがてき秩序ちつじょ]とその崩壊ほうかい-」『史学しがく雑誌ざっし』122かん12ごう、2013ねん。/所収しょしゅう:谷口たにぐち雄太ゆうた中世ちゅうせい足利あしかが血統けっとう権威けんい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん、184-191・202ぺーじISBN 978-4-642-02958-2 
  221. ^ 笠谷かさだに 1997, pp. 33–42.
  222. ^ 笠谷かさだに 1997, p. 44.
  223. ^ 笠谷かさだに 1997, pp. 44–46.
  224. ^ 笠谷かさだに 1997, p. 40.
  225. ^ 滝川たきがわひさしあきら里見さとみにあてた家康いえやす起請文きしょうもん」『季刊きかんぐんしょ』58ごう、2002ねんのち滝川たきがわひさしあきらへん房総ぼうそう里見さとみ』〈中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう13〉えびすひかりさち出版しゅっぱん、2014ねん10がつISBN 978-4-86403-138-7おさむむ。
  226. ^ a b 笠谷かさだに 1997, p. 42.
  227. ^ 笠谷かさだに 1997, pp. 46–47.
  228. ^ 黒田くろだ基樹もとき家康いえやすつまどもたち」黒田くろだ へん徳川とくがわ家康いえやすとその時代じだいえびすひかりさち出版しゅっぱん戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう3〉、2023ねん5がつ1にち、36-37ぺーじ
  229. ^ 新井あらい白石はくせきの『はん翰譜』。
  230. ^ 徳川とくがわ実紀みき』〈だい1へんまきさん〉、経済けいざい雑誌ざっししゃ。54ぺーじ
  231. ^ 馬上まけゆみ 25さい家康いえやすぞうひがし岡崎おかざき駅前えきまえ設置せっち”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ (2016ねん2がつ23にち). 2016ねん10がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん9がつ30にち閲覧えつらん
  232. ^ ウィリアム・アダムス(三浦みうら按針あんじん
  233. ^ 上場じょうじょう顕雄あきおきょう如上じょじょうじん-その生涯しょうがい事績じせき-』東本願寺ひがしほんがんじ出版しゅっぱん
  234. ^ 曽根原そねはらさとし徳川とくがわ家康いえやす神格しんかくへのみち : 中世ちゅうせい天台てんだい思想しそう展開てんかい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねん11月。ISBN 4-642-03330-0 
  235. ^ 野村のむらげん天下てんかじん神格しんかく天皇てんのうおもえぶんかく、2015ねん2がつISBN 978-4-7842-1781-6 
  236. ^ 識者しきしゃ5にんえらんだ日本にっぽんかお10にん家康いえやす信長のぶなが支持しじasahi.comインターネットアーカイブのキャッシュ)
  237. ^ 徳川とくがわ義宣よしのぶ家康いえやす遺品いひん」『徳川とくがわ家康いえやす事典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん
  238. ^ 福永ふくなが 1993, 2かん, pp. 30-33.
  239. ^ a b c d e f “「尾張おわり徳川とくがわ至宝しほうてん 妖刀ようとう 伝説でんせつから史実しじつへ”. 西日本にしにほん新聞しんぶん. (2013ねん11月21にち). http://www.nishinippon.co.jp/feature/kyuhaku/article/53703 2018ねん8がつ22にち閲覧えつらん 
  240. ^ a b c d e げん 2017.
  241. ^ 川田かわた & 古川ふるかわ 2017.
  242. ^ a b c 田畑たはた 1989, pp. 523–570.
  243. ^ 福永ふくなが 1993, 5かん, pp. 272-273.
  244. ^ a b 徳川とくがわ美術館びじゅつかん 2008.
  245. ^ 平岩ひらいわちかしよしつて) 1648, 38かん国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん資料しりょうでは2298-2302コマ(/ぜん2427コマ))
  246. ^ しんくだり 1997.
  247. ^ 福井ふくい 2016.
  248. ^ a b 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “徳川とくがわ家康いえやす甲冑かっちゅう(かっちゅう)の金物かなもの漆黒しっこくなぞせま彫金ちょうきん~ | NHK | WEB特集とくしゅう”. NHKニュース. 2022ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  249. ^ 国宝こくほう久能くのさん東照宮とうしょうぐうてん家康いえやす吉祥きっしょう具足ぐそく歯朶しだ具足ぐそく(しだぐそく)”. 静岡しずおか美術館びじゅつかん. 2022ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  250. ^ きむしょうさつ緋縅ひおどし具足ぐそく文化ぶんか遺産いさんオンライン
  251. ^ 熊毛くまげうえくろいと具足ぐそく文化ぶんか遺産いさんオンライン
  252. ^ 白糸しらいといちたにがたかぶと文化ぶんか遺産いさんオンライン
  253. ^ 花色はないろまる胴丸どうまる具足ぐそくDNPアートコミュニケーションズ
  254. ^ 家康いえやす遺産いさん-駿府すんぷぶんぶつ-』徳川とくがわ美術館びじゅつかん、1992ねん口絵くちえ
  255. ^ ねりぬきはくむらさきだんあおいもんつじはなしみ陣羽織じんばおり東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
  256. ^ 白練しろねりぬきまつがわひしちく模様もよう小袖こそで東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
  257. ^ 福島ふくしま雅子まさこ徳川とくがわ家康いえやす服飾ふくしょく中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、2018ねん
  258. ^ 黄金おうごんしょくあおいもんうさぎぶん辻ケ花つじがはなしみ羽織はおりDNPアートコミュニケーションズ
  259. ^ 徳川とくがわ義宣よしのぶ徳川とくがわ家康いえやす遺産いさん」『家康いえやす遺産いさん-駿府すんぷぶんぶつ-』徳川とくがわ美術館びじゅつかん、1992ねん
  260. ^ 秋元あきもとしげる徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ墓碑ぼひ総覧そうらん星雲せいうんしゃ、2008ねん
  261. ^ a b c 幕府ばくふ祚胤でん』(『徳川とくがわ諸家しょか系譜けいふだい2かんぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい
  262. ^ 国宝こくほう彦根城ひこねじょう築城ちくじょう400ねんさい 列伝れつでん井伊いいじゅうよんだい だい6かい おに夜叉やしゃ井伊いい直孝なおたか いち
  263. ^ 松本まつもとじゅん、2023ねん大河たいがドラマの主役しゅやく決定けってい 『どうする家康いえやす脚本きゃくほん古沢ふるさわ良太りょうた”. ORICON NEWS (2021ねん1がつ19にち). 2021ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  264. ^ 夏季かき特別とくべつてん 徳川とくがわ家康いえやす天下てんかじんへのあゆみ―”. 徳川とくがわ美術館びじゅつかん. 2023ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

書籍しょせき

編集へんしゅう

論文ろんぶん

編集へんしゅう
  • 富士川ふじかわゆう徳川とくがわ家康いえやす身體しんたいいて」、『史学しがく雑誌ざっし』18へん12ごう、1907ねん
  • 本間ほんまかおるさん ちょ文献ぶんけんむらせい年代ねんだいその」、佐藤さとうかんやま へん伊勢いせ刀工とうこう財団ざいだん法人ほうじん 日本にっぽん美術びじゅつ刀剣とうけん保存ほぞん協会きょうかい、1963ねん、1-2ぺーじ 
  • 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやすおおやけ医学いがく」『大日だいにちこう』66ごう、1995ねん 
  • りゅうたに和比古かずひこ徳川とくがわ家康いえやす源氏げんじ改姓かいせい問題もんだい」『日本にっぽん研究けんきゅう』16かん国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター、1997ねん9がつ30にちNAID 400048087552019ねん6がつ5にち閲覧えつらん 
  • 平野ひらの明夫あきお戦国せんごく徳川とくがわ政治せいじてき立場たちば--織田おだとのかかわりをとおして」『国史こくしがくだい158ごう国史こくし学会がっかい、1995ねん12月、97-128ぺーじISSN 03869156NAID 40001320547 
  • 滝川たきがわひさしあきら里見さとみにあてた家康いえやす起請文きしょうもん」『季刊きかんぐんしょ』58ごう、2002ねん /所収しょしゅう:滝川たきがわひさしあきら へん房総ぼうそう里見さとみえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう13〉、2014ねん10がつISBN 978-4-86403-138-7 
  • しば裕之ひろゆきえいろくにおける今川いまがわ松平まつだいら両氏りょうし戦争せんそう室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる駿しゅんさん停戦ていせんれい考察こうさつつうじて―」『地方ちほう研究けんきゅう』315ごう、2005ねん /改題かいだい所収しょしゅう:しば裕之ひろゆき今川いまがわ松平まつだいら両氏りょうし戦争せんそう室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん」『戦国せんごくゆたか大名だいみょう徳川とくがわ領国りょうごく支配しはい岩田いわた書院しょいん、2014ねん 
  • 赤坂あかさか恒明つねあきもとかめねんの『堂上どうじょう次第しだい』について ─とく左京さきょう大夫たいふ家康いえやす三川みかわ 徳川とくがわ)にかんする記載きさい中心ちゅうしんに ─」『じゅうろく世紀せいき論叢ろんそう創刊そうかんごう、2013ねん3がつ、58-78ぺーじ 
  • 村川むらかわ浩平こうへい天正てんしょうぶんろく慶長けいちょう武家ぶけ叙任じょにん豊臣とよとみせい下賜かし事例じれい」『駒沢こまざわ史学しがくだい80かん駒澤大学こまざわだいがく文学部ぶんがくぶ、2013ねん、112-129ぺーじ 
  • 福井ふくい款彦 ちょ「【総説そうせつ伊勢いせこく桑名くわな名工めいこう むらただし〜そのきょみのる〜」、桑名くわな博物館はくぶつかん へん特別とくべつ企画きかくてんむらただし伊勢いせ桑名くわな刀工とうこう―」』桑名くわな博物館はくぶつかん、2016ねん、41-46ぺーじ 
  • はら, 史彦ふみひこかたな めい むらただし」の伝来でんらい妖刀ようとうむら正伝せいでんせつ」『きむしゃち叢書そうしょだい45かん徳川とくがわ美術館びじゅつかん、2017ねん、27-57ぺーじ 
  • 小川おがわつよし ちょ今川いまがわ三河みかわ尾張おわり経略けいりゃく水野みずの一族いちぞく」、戦国せんごく研究けんきゅうかい へん論集ろんしゅう 戦国せんごく大名だいみょう今川いまがわ岩田いわた書院しょいん、2020ねん 

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう


徳川とくがわ家康いえやす系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 松平まつだいら長親ながちか
 
 
 
 
 
 
 
8. 松平まつだいら信忠のぶただ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 松平まつだいらきんむねむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 松平まつだいら清康きよやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 大河内おおこうちみつるなり
 
 
 
 
 
 
 
9. 大河内おおこうちみつるなりむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 松平まつだいらひろただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 青木あおききょうかた
 
 
 
 
 
 
 
10. 青木あおきさだけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 青木あおきさだけいむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
徳川とくがわ家康いえやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 水野みずの賢正けんしょう
 
 
 
 
 
 
 
12. 水野みずのきよしただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 水野みずの忠政ただまさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 於大おだい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 華陽かよういん