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能楽 - Wikipedia

能楽のうがく

日本にっぽん伝統でんとう芸能げいのうのう狂言きょうげんなどの総称そうしょう

能楽のうがく(のうがく、きゅう字体じたい能樂のうがく)は、日本にっぽん伝統でんとう芸能げいのうであり、式三番しきさんばおう)をふくのう狂言きょうげんとを包含ほうがんする総称そうしょうである。重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい指定していされ、ユネスコ無形むけい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくされている。

中尊寺ちゅうそんじ鎮守ちんじゅ 白山はくさん神社じんじゃのう舞台ぶたい
重要じゅうよう文化財ぶんかざい
にち牟禮むれ八幡宮はちまんぐうのう舞台ぶたい
にち牟禮むれ八幡宮はちまんぐうのう舞台ぶたいはしがかり
 
最古さいこのう舞台ぶたい厳島いつくしま神社じんじゃ
 
唐織からおり(からおり) 、江戸えど時代じだい(18世紀せいき
 
のう衣装いしょう 狩衣かりぎぬ 紺地こんじ石畳いしだたみ法螺貝ほらがい模様もよう江戸えど時代じだい、18世紀せいき東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう

風姿ふうしはなでんだいよんによれば、能楽のうがく始祖しそとされるはたかわしょうが「ろくじゅうろくばんものまね」を創作そうさくして紫宸殿ししんでんにて上宮かみみや太子たいし聖徳太子しょうとくたいし)のまえわせたものが「申楽さるがく」のはじまりとつたえられている。 江戸えど時代じだいまでは猿楽さるがくばれていたが、1881ねん明治めいじ14ねん)の能楽のうがくしゃ設立せつりつ能楽のうがくしょうされるようになったものである。明治維新めいじいしんにより、江戸えど幕府ばくふしきらくになとして保護ほごされていた猿楽さるがく役者やくしゃたちは失職しっしょくし、猿楽さるがくという芸能げいのう存続そんぞく危機ききむかえた。これにたいし、岩倉いわくら具視ともみはじめとする政府せいふ要人ようじん華族かぞくたちは資金しきんって猿楽さるがく継承けいしょうする組織そしき能楽のうがくしゃ」を設立せつりつ芝公園しばこうえんしば能楽堂のうがくどう建設けんせつした。このとき発起人ほっきにん九条くじょうみちこうらの発案はつあん猿楽さるがくという言葉ことば能楽のうがくにいいかえられ、以降いこう現在げんざいいたるまで、のう式三番しきさんば狂言きょうげんの3しゅ芸能げいのう総称そうしょうする概念がいねんとして使用しようされつづけている。

明治維新めいじいしん

編集へんしゅう

江戸えど幕府ばくふ儀式ぎしき芸能げいのうであった猿楽さるがくは、明治維新めいじいしんいえろくうしなったことによりおおくの芸能げいのう同様どうよう廃絶はいぜつ危機ききひんした。明治めいじ2ねん1869ねん)にはイギリス王子おうじエディンバラこうアルフレッド来日らいにちさいして猿楽さるがくえんじられたが、明治めいじ5ねん1872ねん)にはのう狂言きょうげんの「すめらぎじょう模擬もぎシ、うえヲ猥涜」するものが禁止きんしされ、「勧善懲悪かんぜんちょうあくしゅトス」ることもめいじられた。

しかし、明治天皇めいじてんのう明治めいじ11ねん1878ねん)に青山あおやま御所ごしょのう舞台ぶたい設置せっちし、数々かずかず猿楽さるがく鑑賞かんしょうした。また欧米おうべい外遊がいゆうさい各国かっこく芸術げいじゅつ保護ほご実見じっけんした岩倉いわくら具視ともみは、華族かぞくによる猿楽さるがく後援こうえん団体だんたい設立せつりつけてうごはじめ、明治めいじ12ねん1879ねん)にユリシーズ・グラント自邸じていまねいて猿楽さるがく上演じょうえんさせ、さら能楽のうがくしゃ(のちの能楽のうがくかい)の設立せつりつ明治めいじ14ねん1881ねん落成らくせいしば能楽堂のうがくどう建設けんせつすすめた[ちゅう 1]。このとき能楽のうがくしゃ発起人ほっきにん九条くじょうみちこうらの発案はつあん猿楽さるがく能楽のうがくといいかえ、「猿楽さるがくのう」は「能楽のうがくのう」とばれることになる[1]

明治維新めいじいしんおおくの芸能げいのうえたなか、名称めいしょう能楽のうがくといいか猿楽さるがく危機ききった。だが、やがてかく流派りゅうははおたがいに排他はいたてき姿勢しせいせるようになり、流派りゅうはあいだ交流こうりゅう共演きょうえん消滅しょうめつしていった。

昭和しょうわ初期しょき

編集へんしゅう

そのにちちゅう戦争せんそうこって戦時せんじ体制たいせいはいると、皇室こうしつおお題材だいざいとしたのうにはきびしいそそがれるようになり、昭和しょうわ14ねん1939ねん)、警視庁けいしちょう保安ほあん不敬ふけい理由りゆうに「大原おおはら御幸みゆき」を上演じょうえん禁止きんしとした。その一方いっぽうで、にちしん戦争せんそうにち戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん題材だいざいとした新作しんさくのうつくられるようになった。

だい世界せかい大戦たいせん

編集へんしゅう

だい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんは、のう世界せかいおおきな転機てんきをもたらした。戦災せんさいによっておおくののう舞台ぶたい焼失しょうしつしたため、それまで流派りゅうはごとにかれてえんじのうおこなっていた能楽のうがくたちが、のこったのう舞台ぶたい流派りゅうはちがいをえて共同きょうどう稽古けいこおこなはじめたのである。そのため、若手わかて能楽のうがくたちは流派りゅうは優秀ゆうしゅう能楽のうがくからもおしえをけることがおおくなり、おおいに刺激しげきけるようになった。観世かんぜ銕之すすむ次男じなんであった観世かんぜ栄夫ひでおはこのとき観世かんぜりゅう他流たりゅう身体しんたいろんちがいにおおきな衝撃しょうげき[2]結果けっかてきげい養子ようしというかたち喜多きたりゅううたてながして後藤ごとう得三とくぞう養子ようしとなり、後藤ごとう栄夫ひでお名乗なのった。また栄夫ひでおおとうとで八世観世銕之丞となった観世かんぜ静夫しずおも、この時期じき他流たりゅうとの交流こうりゅう開始かいし衝撃しょうげきおおきさをかたっている[3]

この時期じきにこうした交流こうりゅうとなったのう舞台ぶたいとしては、多摩川たまがわのう舞台ぶたい現在げんざいは銕仙かい能楽のうがく研修けんしゅうしょ移築いちく)などがげられている。

能楽のうがく技法ぎほう

編集へんしゅう

所作しょさ(カマエ・がたまい

編集へんしゅう

カマエとは能楽のうがく独特どくとくかたのことで、ひざこしれて重心じゅうしんとした体勢たいせいである。カマエは観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみ時代じだいには成立せいりつしていなかったとかんがえられている。文献ぶんけんじょうでカマエに類似るいじしたものがあらわれるのは16世紀せいきすえかれた『八帖はっちょうほんはな伝書でんしょ』のまきで、ここでは「どうづくり」の名称めいしょうで、男役おとこやく姿勢しせいとしてカマエにたものが絵図えずきでしめされている[4]。カマエが男役おとこやくだけでなくおんなやくふくめてすべての能楽のうがくやく姿勢しせい基本きほんとされるようになったのは、江戸えど後期こうきごろかんがえられている。またハコビとあわせ、こうした能楽のうがく身体しんたい技法ぎほうには日本にっぽん武術ぶじゅつ身体しんたい技法ぎほう影響えいきょうおおきいとかんがえられている[5]

能楽のうがくかた演技えんぎとう様式ようしき、パターン)によって構成こうせいされている。所作しょさうたい囃子はやしすべてに多様たようかたがある。しかしここでいうかたは、いわゆるまい所作しょさ構成こうせい要素ようそとしてのかたである。かた基本きほんあしであるが、あしうら舞台面ぶたいめんにつけてかかとをあげることなくすべるようにあゆ独特どくとくうん歩法ほほうで(とくにこれをハコビとしょうする)ある。また能楽のうがくは、歌舞伎かぶきやそこから発生はっせいした日本にっぽん舞踏ぶとう横長よこなが舞台ぶたいにおいて正面しょうめんきゃくむかって舞踏ぶとうせることを前提ぜんていとするのにたいして、正方形せいほうけい舞台ぶたいうえさんぽうからの観客かんきゃく意識いしきしながら、えんえがくようにしてうごてんにも特徴とくちょうがある。のう舞台ぶたいおとがよく反響はんきょうするようにつくられており、演者えんじゃあし舞台ぶたいむ(足拍子あしびょうし)ことも重要じゅうよう表現ひょうげん要素ようそである。

以下いかのうかたれいしめす。

シカケ(サシコミ)
すっとち、おうぎった右手みぎてをややたか正面しょうめんにだす。
ヒラキ
左足ひだりあし右足みぎあし左足ひだりあしさんそく(さんぞく)後退こうたいしながら、りょううでよこひろげる。シカケとヒラキを連続れんぞくさせるかたをシカケヒラキ(サシコミヒラキ)とぶ。
左右さゆう(さゆう)
左手ひだりてかかげてひだり一足いっそくないしすうそくのち右手みぎてかかげてみぎ一足いっそくないしすうそくかた
サシ
右手みぎておうぎよこからげて正面しょうめんたかくにかかげるかた
シオリ
まえす。くことをしめ[ちゅう 2]
拍子ひょうし(ひょうし)
いずれかのあしげ、舞台ぶたいむ。
とめ拍子ひょうし(とめびょうし)
いちきょくわりにはっきりと2かいむ。仕手してむこともワキがむこともある。

基本きほんてきにはのう狂言きょうげんおなじであるが、じつ世界せかい題材だいざいもとめた世俗せぞくてき科白せりふげきでありリアルな表現ひょうげん狂言きょうげんたいし、ちょう自然しぜんてきなものを題材だいざいとした抽象ちゅうしょうてき表現ひょうげん重視じゅうしするのうとではそれなりのちがいがあり、これら種々しゅじゅかた連続れんぞくによって表現ひょうげんされる所作しょさのまとまりをのうまいんでいる。

のうまいかた連続れんぞくであり、舞踊ぶようられるりほとんどおこなわれず無駄むだとしたきわめてシンプルな軌跡きせきえが静的せいてきであるという印象いんしょう一般いっぱんてきだが、序破急じょはきゅうばれる緩急かんきゅうがあり、ゆっくりとうごして、徐々じょじょにテンポをはやくし、ぴたっとまるようにえんじられる。まれはげしいきょくではアクロバテックな演技えんぎがえりやほとけたおれなど)もある。しかしまっている場合ばあいでもじっとやすんでいるわけでなく、いろいろなちからがつりあったために静止せいししているだけにすぎず、身体しんたい極度きょくど緊張きんちょういることで、内面ないめんからがる迫力はくりょく気合きあい表出ひょうしゅつさせようとする特色とくしょくっている。

のうではいちきょくのクライマックスでの表現ひょうげんとして、うたい中心ちゅうしんとなった「クセ」などでのまいや、囃子はやしのみでわれる「まいごと」がえんじられる。「まいごと」は以下いかのように分類ぶんるいされる。

それぞれ太鼓たいこはいった「太鼓たいこぶつ」や、太鼓たいこい「だい小物こもの」がある。(後述こうじゅつ囃子はやし項目こうもく参照さんしょう

りょちゅう(りょちゅうかん)のまい
定型ていけいりょちゅう)をかえしながら、途中とちゅう段落だんらく変化へんかをつけたきょくで、いろいろな役柄やくがらう。
ちゅうテンポの「中之なかのまい」や、ゆっくりとした「じょまい」、きゅうテンポの「きゅうまい」、「おとこまい」「はやまい」「かみまい」などがある。
らく(がく)
中国ちゅうごく舞台ぶたいとしたきょく神仙しんせんやくものう。楽人がくじんやく仕手してうこともある(「つるひさし」「てん」など)。
神楽かぐら(かぐら)
わきのう仕手して神仏しんぶつやくえんじるきょく)でわれる。かみがかりした女性じょせいやくまい太鼓たいこぶつ

まいほどながくないが舞台ぶたい一巡いちじゅんする所作しょさ仕手して品位ひんい勢威せいい内面ないめん心理しんり表現ひょうげんする囃子はやしごともあり総称そうしょうして「はたらけごと」とばれている。

まいはたらけ(まいはたらき)
竜神りゅうじんなどが勢威せいいしめすためのきょく太鼓たいこぶつ
しょう(かけり)
武人ぶじん修羅しゅら)や狂女きょうじょえんじるきょくだい小物こもの

狂言きょうげん舞踏ぶとうのう共有きょうゆうする技術ぎじゅつおおうというにふさわしいが、日常にちじょうえがくことのおお狂言きょうげんでは当然とうぜん日常にちじょうてき所作しょさ具体ぐたいせいびた演技えんぎおおく、身体しんたい上下じょうげうごかす所作しょさもありおどちか発想はっそうられる。狂言きょうげんまいかたいちれい演出えんしゅつ用語ようごとして分類ぶんるい下記かきする。

あし(あげあし)
あしひざたかげ、一歩一歩いっぽいっぽみしめるようにするあるかたおに山伏やまぶしあるきかたを表現ひょうげんする。
安座あんざ(あんざ)
あぐらをかくこと。
一巡いちじゅん(いちじゅん)
舞台ぶたい三角さんかくにひとまわりすること。道行みちゆ動作どうさ
く(うく)
かれるようにするかた左右さゆうあし交互こうご上下じょうげさせながら上半身じょうはんしんをやわらかにゆるがす。
さんだんまえ(さんだんのまい)
わき狂言きょうげんむこ狂言きょうげんなどにもちいられるまい名称めいしょう
シャギリ(しゃぎり)
ふえだけで演奏えんそうするきょくで、くるまきりすなきりをあてる。
連舞つれまい(つれまい)
二人ふたり以上いじょう演者えんじゃおなまいうこと。
水鏡みずかがみ(みずかがみ)
水面すいめん自分じぶん姿すがたうつすときのかた
みっ拍子ひょうし(みつびょうし)
むようにみっ狂言きょうげん特有とくゆう足拍子あしびょうし

のうにおける声楽せいがく部分ぶぶんであるうたい謡曲ようきょくい、大別たいべつするとシテ、ワキ、ツレなどげきちゅう登場とうじょう人物じんぶつと、「地謡じうたい(じうたい)」とばれる8めい(が標準ひょうじゅんだが、2めい以上いじょう10めい程度ていどまで)のバックコーラスの人々ひとびとである。げきちゅう登場とうじょう人物じんぶつうたいはそのまま登場とうじょう人物じんぶつ科白せりふとなる。一方いっぽう地謡じうたい登場とうじょう人物じんぶつ心理しんり描写びょうしゃ情景じょうけい描写びょうしゃ担当たんとうしているが、場合ばあいによってはシテの感情かんじょう代弁だいべんしてうたうこともあり、シテ・ワキ・ツレ・地謡じうたいいをするケースもある。

地謡じうたい地謡じうたい前後ぜんごれつになり、舞台ぶたいいてすわる。各々おのおのおうぎっており、うたさいにはそれをかまえ、やすみのさいにはろす。地謡じうたい地頭じとう(じがしら)とばれる存在そんざいがコンサートマスターのような役割やくわりたしており、以前いぜん一番いちばん左前ひだりまえしていたが、全体ぜんたい統率とうそつするために後列こうれつ中央ちゅうおう位置いちするようになった。

のうちがって、科白せりふげきである狂言きょうげんではいつでも地謡じうたい囃子方はやしかた登場とうじょうするわけではない。必要ひつよう演目えんもく必要ひつよう部分ぶぶんにだけ出演しゅつえんするというかたちる。また舞台ぶたい後方こうほうに4にん程度ていどならぶことがおおい。おうのときだけは囃子方はやしかた後方こうほうすわる。

新作しんさくのうのぞくとうたいもちいられている言葉ことば室町むろまち日本語にほんごである。うたい節回ふしまわしのある部分ぶぶん(フシ)と節回ふしまわしのない部分ぶぶん(コトバ)とにけることができる。ふしのある部分ぶぶんには拍子ひょうしあい拍子ひょうしごうがある。コトバは通常つうじょう科白せりふ対話たいわ相当そうとうし、候文そうろうぶんからだかたられ、やくえんじるもの(シテ、ワキ、ツレ)だけが発声はっせいする。コトバであっても、現代げんだいじん感覚かんかくからすればかなりおおげさな抑揚よくようがついており、しかもその抑揚よくようかたとして固定こていしているてんである。のうにおけるすべての言語げんご表現ひょうげんには、いかにこれを発話はつわ歌唱かしょうすべきかという楽譜がくふうたいほん)があらかじめ用意よういされているが、こまかいてん師伝しでんにより習得しゅうとくされる。地謡じうたいはかならずふしのあるうたいをうたう。またやくえんじるもの同士どうし対話たいわであっても、あるてんまでコトバのやりとりであったものが、役柄やくがら感情かんじょう高潮こうちょうによって途中とちゅうからふしのついたうたいへと切替きりかわることがすくなくない。

うたいとは、八世観世銕之亟によれば「七五調しちごちょう基本きほんにしたなが」である[6]七五調しちごちょうかれた12文字もじいちぎょうとして、はち拍子ひょうしでうたわれる。ただしはち拍子ひょうしからはずれたリズムでうたわれる部分ぶぶんもある。「拍子ひょうしあい」(ひょうしあい)では、拍子ひょうしたる文字もじ拍子ひょうしたらない拍子ひょうしあいだ文字もじ交互こうごにくるために、はち拍子ひょうしには16文字もじはいるわけであるが、標準ひょうじゅんてき七五調しちごちょうで2はく3文字もじ+1ぶんの「モチ」(または「ノベ」)とばれるばしたあいだうたうのを「たいらノリ」(ひらのり)、1はく2文字もじ文字もじつづいて(モチがって)強弱きょうじゃくのノリがつく部分ぶぶんを「なかノリ(修羅しゅらノリ)」、1はく1文字もじうたうのを「おおノリ」とぶ。はち拍子ひょうしからはずれているリズムのうたいは「拍子ひょうしごう」(ひょうしあわず)とばれる[7]拍子ひょうしごううたいでは、節回ふしまわしをおおきくたっぷりうたい、ふしいところはすらすらうたう。また拍子ひょうしごうであっても、うたい囃子はやしまった無関係むかんけいではなく、おおよその寸法すんぽうくらい雰囲気ふんいきなどにおいて絶妙ぜつみょう関係かんけいたもっている。

後述こうじゅつする「のう略式りゃくしき演奏えんそう」では、囃子方はやしかたともなわずにうた場合ばあいおおく、そのときは拍子ひょうし意識いしきしないでかなり自由じゆううたえる。これを「素謡すうたい」といい、囃子はやしにあわせてうたう「囃子はやしうたい拍子ひょうしうたい)」と区別くべつしている。素謡すうたいでは、いわゆる「モチ」をはぶいたり、拍子ひょうしごううたいのように節回ふしまわしをややおおきくうたうことがおこなわれている。仕舞しまいうたいでは、足拍子あしびょうしのある部分ぶぶん拍子ひょうしうたいうた以外いがい素謡すうたいとしてうたう。しかし囃子はやしうたいであっても、拍子ひょうししばりのなかでもなるべくふしおおきくうたい、「モチ」はなるべく目立めだたないようにうたうのが上手うまうたかたとされている。また囃子はやし名称めいしょうから、厳密げんみつにモチをつけてうたう「ツヅケうたい」と、モチをうたわなくても囃子はやしわせられる「さん地謡じうたい(みつじうたい)」に区別くべつされている。

のう発声はっせいほうは、もちろん演者えんじゃにより様々さまざま個性こせいがあるが、分厚ぶあつこえすことや子音しいんながうたおうとするところに特徴とくちょうがある。「うえこえしたこえ同時どうじす」といわれ、音階おんかいうえこえ表現ひょうげんするが、したこえこえあつみや迫力はくりょく安定あんていかん表現ひょうげんする。うたい場面ばめんによって「じゃくぎん」(よわぎん)と「つよぎん」(つよぎん)の2種類しゅるいかれている。おなじく八世観世銕之亟によると、「じゃくぎん」はこまかい音階おんかいをもつメロディアスな表現ひょうげん、「つよぎん」はおと迫力はくりょく強調きょうちょうした表現ひょうげんとされる。「じゃくぎん」とってもよわうたうわけでない。室町むろまち時代じだいのうじゃくぎんのみで演奏えんそうされていたが、江戸えど時代じだいになって音階おんかい簡素かんそされ、つよぎんうたかたかんがされた。じゃくぎんでは、うえおん中音ちゅうおんしたおんという基本きほんおんうえおんうえにクリおんきのえグリおん(かんぐりおん)、したおんしたりょおんがあり、うえおん中音ちゅうおんにはウキ(き)おと中音ちゅうおんしたおんにはくずし(くずし)おと、このように様々さまざま音階おんかいとそれをわせたふしがある。つよぎんではうえおん中音ちゅうおん中音ちゅうおんくずしした中音ちゅうおん)・したおんとがどう音階おんかいになって、ウキおんくなるなど簡略かんりゃくされているが、独特どくとくのはねあげるようなふしがある。

 
囃子方はやしかた

上手じょうずかってみぎより)から、ふえ小鼓こつづみだい太鼓たいこ

能楽のうがく囃子ばやしもちいられる楽器がっきは、ふえ能管のうかん)、小鼓こつづみ(こつづみ)、だい(おおつづみ、おおかわ、だいかわともしょうする)、太鼓たいこ(たいこ、しめ太鼓たいこ)の4しゅである。これを「四拍子しびょうし」(しびょうし)という。ひなまつかざられる五人囃子ごにんばやしは、雅楽ががく場合ばあいもあるが、のう場合ばあいの5にんは、のう舞台ぶたいるときとおなじで、ひだりから「太鼓たいこ」「だい」「小鼓こつづみ」「ふえ」「うたいおうぎっている)」である。小鼓こつづみだい太鼓たいこはこれを演奏えんそうする場合ばあいにはごえをかけながらつ。ごえもまた重要じゅうよう音楽おんがくてき要素ようそであり品位ひんい気合きあい表現ひょうげんで、流派りゅうはによってもいろいろであるが、「ヤごえ」(ヨーとこえる)はおもだい1はくだい5はくしめすために使つかわれ、それ以外いがいはくは「ハごえ」(ホーとこえる)をもちいる。「イヤ」は段落だんらくるときとごえ強調きょうちょうするときにすうはく使つかわれ、「ヨイ」は段落だんらく直前ちょくぜん合図あいずごえ強調きょうちょうするときにしゅとしてだい3はく使つかわれる。

いちきょくのうちには、「うたいのみによって構成こうせいされる場面ばめん」「うたい囃子はやしがともにそうされる場面ばめん」「囃子はやしのみがそうされる場面ばめん登場とうじょう人物じんぶつてくるときの登場とうじょうらくや、上記じょうきの「まい」や「はたらけ」である)」の3つが複雑ふくざつんでいる。がいしていえば囃子はやしうたいとともにそうされる場合ばあいにはうたい伴奏ばんそうてき役割やくわりをはたす。また現在げんざいではのうはじまる合図あいずとして、はしがかりのおくにある「かがみあいだ」で囃子方はやしかたおとしをおこなう「お調しらべ」がもちいられている。

狂言きょうげんでは囃子はやしつね登場とうじょうするわけではなく、狂言きょうげんアシライという言葉ことばもあるように音量おんりょうてきやわらかくひかはやし、舞台ぶたい邪魔じゃまにならないような心配こころくばりもある。

ふえ能管のうかん
能管のうかんは、たけせい横笛よこぶえで、歌口うたぐちいききこむあな)とゆびあな(7つ)をち、表面ひょうめんさくらかばうるしおおっている。おなゆびさえでかたえることにより、ひくめの「りょおと」と、たかめの「きのえ(かん)のおと」をこと出来できる。歌口うたぐちゆびあなあいだかんうちにノドとばれる細竹ほそだけめこんであり、これによってりゅうふえ篠笛しのぶえなど横笛よこぶえとは異色いしょくの、能楽のうがく独特どくとく高音こうおん(「ヒシギ」)を容易よういはっすることができる。またこのノドの存在そんざいにより、能管のうかん安定あんていした調律ちょうりつたない。これもまた能管のうかんおおきな特徴とくちょうとなっている。
能管のうかんは「四拍子しびょうし」のなかでは唯一ゆいいつ旋律せんりつ楽器がっきであるが、基本きほんとしては打楽器だがっきてき奏法そうほうおもとしている。つまり拍子ひょうしにあったところでふしやアクセントをつけるかたをする。囃子はやしのみによるまいじょまえ中之なかのまいなど)の演奏えんそう場合ばあいには拍子ひょうしにあった旋律せんりつくが、うたいにあわせるときや登場とうじょうらくおおくには拍子ひょうしわないメロディーく。これをうたいにつきあうという意味いみで「アシライ」という。
小鼓こつづみ(こつづみ)
小鼓こつづみは、さくらせい砂時計すなどけいかたどうに、表裏ひょうり2まいかわうまかわてつせいってある)をき、あさひも(「調しらべいとぐち(しらべお)」という)でめあげた楽器がっきである。左手ひだりて調しらべいとぐちち、右肩みぎかたにかついで右手みぎてち、調しらべいとぐちのしぼりかたかわ位置いちかた強弱きょうじゃくによって音階おんかいすことが出来できるが、のうでは4種類しゅるいおと(チ、タ、プ、ポ、という名前なまえがつけられている)をちわける。演奏えんそうにはつねに適度てきど湿気しっけ必要ひつようで、かわいきをかけたり、うらかわってある調子ちょうし和紙わし小片しょうへん)をつばでぬらしたりして調節ちょうせつする。「おう」をえんじるときには3めいれん調ちょうとなる。
だい(おおつづみ)
だいは、小鼓こつづみ区別くべつするためにだいかわ(おおかわ)ともばれるが、材質ざいしつ構造こうぞうはほぼ小鼓こつづみひとしく、全体ぜんたいてきにひとまわりおおきい。左手ひだりてってひだりひざき、右手みぎてよこしてつよちこむ。小鼓こつづみちが左手ひだりて調しらべいとぐち調節ちょうせつをしないために、音色ねいろ種類しゅるいは、右手みぎてかたによってけている。右腕うわんおおきくげてつよおと(チョン)、よわおと(ツ)、おさえるかた(ドン)。チョンとツの中間ちゅうかんに「チン」がある流派りゅうはもある。かたぶりにはんして全体ぜんたい小鼓こつづみよりたかんだおと[ちゅう 3]
湿気しっけ極度きょくどきらうので、かわ演奏えんそうまえ炭火すみびにかざして乾燥かんそうさせる必要ひつようがある。ふとなが調しらべいとぐち使つかってりつめたかわ素手すでつのは大変たいへんいたい(元来がんらい素手すでつべきとの主張しゅちょうもある)ので、中指なかゆび薬指くすりゆびに「ゆびがわ」をはめ、てのひら(てのひら)に「がわ」をつける。[8]だい流儀りゅうぎ小鼓こつづみのそれから派生はせいしたもので、同流どうりゅう小鼓こつづみちやすいように)が考慮こうりょされている
太鼓たいこ
太鼓たいこは、いわゆるしめ太鼓たいこのことで、構造こうぞう基本きほんてきつづみとかわらない。かわうしかわで、ばちたる部分ぶぶん補強ほきょうよう鹿しかかわることがおおい。ばちは2ほんで、太鼓たいこだいせてゆかき(このだい又右衛門またえもんだいという)、正座せいざしたからだまえつ。おとひびかせないちいさなおとさえるばち・ツクツク)とひびかせるおおきなおとしょうばちなかばちだいばちかたばち・テンテン)の2しゅで、四拍子しびょうしリズム主導しゅどうする役割やくわりになう。
太鼓たいこはいるのは基本きほんてき死者ししゃれい鬼畜きちく登場とうじょうする怪異かいいてき内容ないようきょくのみで、そのほかの場合ばあいにはふえ大小だいしょうつづみのみでえんじる(この場合ばあいにはだいがリズムの主導しゅどうやくになう)。前者ぜんしゃを「太鼓たいこぶつ太鼓たいこりもの、四拍子しびょうしもの)」、後者こうしゃを「だい小物こもの」とんで区別くべつする。
以上いじょうのほかに、舞台ぶたいじょうでシテが鉦鼓しょうこ(しょうこ)をらす場合ばあいもある(『隅田川すみだがわ』『三井寺みいでら』)。おおくはかねおと念仏ねんぶつ鉦鼓しょうこおと表現ひょうげんするためだが、この場合ばあいもやみくもにつのではなく、まったがある。また新作しんさくのうにおいては、これら囃子方はやしかた以外いがい音楽家おんがくか背景はいけい音楽おんがく演奏えんそうくわわることもある(「伽羅きゃらすな」でのキリスト教きりすときょう賛美さんびやパイプオルガンなど)[9]
 
めん
 
おんなめん猩々しょうじょう江戸えど時代じだい(19世紀せいき

能面のうめんは「のうめん」とむが、めんとだけけば「おもて」とむのが普通ふつう様々さまざま種類しゅるいがある。ちょう自然しぜんてきなものを題材だいざいとしたのうではめんをつけることがおおいが、めんをつけない直面ちょくめんぶつもある。狂言きょうげんでは、登場とうじょうする人物じんぶつ現世げんせい人間にんげんであり通常つうじょうめんはつけず仮面かめんげきとはえないが、人間にんげん以外いがいのものをえんずる場合ばあいなどではめんをつける。

装束しょうぞく

編集へんしゅう

今日きょうでは装束しょうぞく様式ようしきされ、使用しようほう厳格げんかくさだめられている。たとえばいろにおいても、しろ高貴こうきなもの、べにわか女性じょせいしめす。また中世ちゅうせい近世きんせいから能楽のうがくいえつたわる装束しょうぞくおおい。なお、のう装束しょうぞく現在げんざいのようにきぬいろいとをふんだんに使つかった豪華ごうかなものとなったのは江戸えどである。その背景はいけいには、江戸えどにおける織物おりもの技術ぎじゅつ発達はったつ将軍家しょうぐんけをはじめとする為政者いせいしゃ潤沢じゅんたく資金しきん流入りゅうにゅうがある[10]一方いっぽう狂言きょうげん装束しょうぞくあさ中心ちゅうしんである。

さくぶつ小道具こどうぐ

編集へんしゅう

舞台ぶたいせる道具どうぐるいで、あらかじつくって保管ほかんしておくものを「小道具こどうぐ」、えんじのうたびつくものを「さくぶつ」とぶ。さくぶつ比較的ひかくてきおおきなものおおく、ふねくるまづか屋台やたいとうあらわす。さくぶつ極端きょくたんなまでに簡略かんりゃくされ、たとえば「ふね」はたけヒゴせい模型もけい飛行機ひこうき主翼しゅよくおおきくしたようなものにぎないが、能楽のうがくにはこれで十分じゅうぶんである。おおきなさくぶつとしては、『道成寺どうじょうじ』のかねがある。これはなかでシテが装束しょうぞくえられるだけのおおきさがある。かつてはこれらさくぶつるい製作せいさくする「作物さくもつ」というせんもん役割やくわりがあったが、現在げんざいはシテかた担当たんとうになっている。

能楽のうがくにな

編集へんしゅう
 
観世かんぜ左近さこんによる『安宅あたか』(昭和しょうわ13ねん1938ねん)1がつ

能楽のうがくえんずるものには能楽のうがく協会きょうかい所属しょぞくする職業しょくぎょうじんとしての能楽のうがく(いわば玄人くろうと)のほか特定とくてい地域ちいき特定とくてい神社じんじゃ氏子うじこ集団しゅうだんにおいて保持ほじされている土着どちゃくのう狂言きょうげん式三番しきさんばえんじる人々ひとびと能楽のうがく協会きょうかい会員かいいん月謝げっしゃはらって技術ぎじゅつまな素人しろうと(アマチュア)の愛好あいこう学生がくせい大学だいがく高校こうこうのうサークル存在そんざいする。アマチュアの愛好あいこうなかには能楽のうがく職業しょくぎょうとする、いわゆる玄人くろうとてんずるものられる。

能楽のうがく協会きょうかい会員かいいん、すなわち能楽のうがく職業しょくぎょうとする能楽のうがくおよびアマチュアのかれらの弟子でしたちの職掌しょくしょうは、「シテかた」「ワキかた」「囃子方はやしかた」「狂言きょうげんかた」の4種類しゅるいけられる。「囃子方はやしかた」のなかにはさらに「ふえかた」「小鼓こつづみかた」「だいかた」「太鼓たいこかた」の4種類しゅるい技能ぎのう集団しゅうだんがある。「ワキかた」「囃子方はやしかた」「狂言きょうげんかた」は「さんやく」とばれる。これらの技術ぎじゅつ歴史れきしてきすうおおくの流派りゅうはしてきたが、現在げんざいまでに廃絶はいぜつした流派りゅうは存在そんざいしている。通常つうじょう、ある流派りゅうはまなんでいるひと流派りゅうはうつることはいが、ごくまれ例外れいがいとして分派ぶんぱ独立どくりつゆるされるしゃ江戸えどにおける喜多きたりゅう分派ぶんぱ)や、かく流派りゅうは宗家そうけ了承りょうしょう移籍いせきたすもの観世かんぜ栄夫ひでお;観世かんぜ榮夫ひでお喜多きたりゅうには後藤ごとう榮夫ひでお)もられる。

かく流派りゅうは最高さいこう指導しどうしゃ宗家そうけばれる。宗家そうけ伝統でんとう芸能げいのうにおける家元いえもと相当そうとうする。またかく流派りゅうはには宗家そうけ以外いがいにも江戸えど各地かくち大名だいみょういえつかえて能楽のうがく技術ぎじゅつ指導しどうおこなってきた由緒ゆいしょある家柄いえがら存在そんざいしているが、こうしたいえ職分しょくぶんぶ。

宗家そうけ権力けんりょく強大きょうだいであるが[ちゅう 4]とき職分しょくぶん家集かしゅうだんによって無力むりょくされることがあり、近年きんねんでは喜多きたりゅう職分しょくぶん家集かしゅうだん一斉いっせい宗家そうけ16せい喜多きた六平ろくへいふとし主宰しゅさいする「喜多きたかい」を離脱りだつし、その宗家そうけおよび実弟じってい逝去せいきょして後継こうけいしゃ不在ふざいとなったため、喜多きたりゅう職分しょくぶんかい事実じじつじょう喜多きたりゅう運営うんえいしている。また和泉いずみりゅうにおいてもじゅうきゅうせい宗家そうけ和泉いずみ元秀もとひで嫡男ちゃくなんである和泉いずみもとわたる宗家そうけ継承けいしょうみとめられず、最終さいしゅうてき能楽のうがく協会きょうかい退会たいかいまれる事態じたいとなった。

なんらかの事情じじょう宗家そうけ存在そんざいしなくなった場合ばあいには、一門いちもんちゅう有力ゆうりょくしゃが「宗家そうけあずかり」として宗家そうけ代行だいこうつとめる。また宗家そうけなんらかの事情じじょう宗家そうけとしての仕事しごと遂行すいこう出来できなくなった場合ばあいには、「宗家そうけ代理だいり」がてられることもある。[ちゅう 5]

能楽のうがくは、俳優はいゆう(「シテ(仕手して/ためしゅ)」)の歌舞かぶ中心ちゅうしんに、ツレやワキ、アイ狂言きょうげん配役はいやくとして、伴奏ばんそうである地謡じうたい囃子はやしなどをともなって構成こうせいされた音楽おんがくげき仮面かめんげきである。まいうたい担当たんとうし、実際じっさい演技えんぎおこなうのがシテかた、ワキかたおよび狂言きょうげんかたであり、伴奏ばんそう音楽おんがく担当たんとうするのが囃子方はやしかたふえかた小鼓こつづみかただいかた太鼓たいこかた)である。

のうでは、シテかた中心ちゅうしんてき存在そんざいであり権限けんげんおおきいが、シテかたやワキかただけでは実際じっさい演奏えんそうはできず、囃子方はやしかた狂言きょうげんかた協力きょうりょく不可欠ふかけつである。通常つうじょう、ワキかた囃子方はやしかた狂言きょうげんかた総称そうしょうしたかたの「さんやく」に、シテかたより役目やくめ依頼いらいをかける。

 
のう舞台ぶたい

舞台ぶたい中央ちゅうおうにいるのがシテ、一番いちばん手前てまえけているのがワキ、そのおく地謡じうたい、シテののち囃子方はやしかたかってみぎから、ふえ小鼓こつづみだい太鼓たいこ)、後見こうけんすわっている。

のう主人公しゅじんこうは「シテ(仕手して/ためしゅ)」とばれる。おおくの場合ばあい、シテがえんじるのはかみ亡霊ぼうれい天狗てんぐおになどちょう自然しぜんてき存在そんざいであるが、生身なまみ人間にんげんえんじることもある(『安宅あたか』における弁慶べんけいなど)。シテがちょう自然しぜんてき存在そんざいえんじるきょく夢幻むげんのう、シテが現実げんじつ人間にんげんえんじるきょく現在げんざいのうぶ。

シテをえんじるための訓練くんれん専門せんもんてきんでいる能楽のうがくをシテかたぶ。シテかたえんじるのはシテのほか、ツレ、トモである。また、一般いっぱん子方こかた[ちゅう 6]はシテかたとしての訓練くんれんけている最中さいちゅう子供こどもえんじる[ちゅう 7]。これらのう登場とうじょう人物じんぶつほか地謡じうたい後見こうけん[ちゅう 8]もシテかた担当たんとうである。

シテにかかわりのある登場とうじょう人物じんぶつのうち、おもだったものをツレ、物語ものがたりすじふか関係かんけいたない端役はやくてきなものをトモ、トモのうちたんだい人数にんずう舞台ぶたいすことを目的もくてきとして登場とうじょうするやくだてしゅ(たちしゅう)とぶ。このうちツレには『せみまる』『大原おおはら御幸みゆき(おはらごこう)』のように、ごくまれに仕手してとほぼ同格どうかくえる重要じゅうよう役割やくわりつものがあり、このようなのうを「りょうジテもの」としょうする。ツレ以下いか存在そんざいしないのうもある。

のうのシテかたは、狂言きょうげんには参加さんかしない。

シテとともにのう不可欠ふかけつ登場とうじょう人物じんぶつがワキである。ワキをえんじるため訓練くんれん専門せんもんてきんでいる能楽のうがくをワキかたぶ。ワキはシテのおもいをききだ役割やくわりになう。そのため、ワキは僧侶そうりょやくであることが非常ひじょうおおい。また、その役割やくわり上記じょうきのとおり一方いっぽうてきにシテのうところをけとめるものなので、舞台ぶたいじょう華々はなばなしい活躍かつやくせることはめったにない。その役柄やくがら舞台ぶたいじょうではすわっていることがほとんどなので、「ワキそう煙草たばこぼんでもほしげなり」という川柳せんりゅうまれている。なお、ワキにつくツレを「ワキツレ(ワキヅレ)」という。おおくの場合ばあいシテにおけるトモにちかいものである。

ワキおよびワキツレはワキかたえんずる。ワキかたはシテかたとの対比たいひじょう硬質こうしつ剛直ごうちょく芸風げいふうもとめられるとするのが一般いっぱんてきせつである。

ワキは本来ほんらいわき仕手して」のりゃくであり、ふるくはシテかたワキかたべつはなかったとされる。一座いちざだい役者やくしゃ、もしくはだいいち役者やくしゃ(「太夫たゆう」とう)の後見こうけんやくにある役者やくしゃがワキである。中世ちゅうせい、ワキが地謡じうたい統率とうそつしゃ地頭じとう)をねており、その影響えいきょうで、江戸えど時代じだいはいってシテかたとワキかた分離ぶんりした時期じきにおいても地謡じうたいはワキかた担当たんとうすることがおおかった。時代じだいくだるにつれてシテかた交替こうたいし、あるいは過渡かとてきに「地謡じうたいかた」というせんもん役職やくしょくができたりして変遷へんせんをたどりながら現在げんざいのかたちにちついたとされ、現在げんざいのシテかたにももと地謡じうたいかた、あるいはワキかたいえであったものはおお存在そんざいする。

のうのワキかたは、狂言きょうげんには参加さんかしない。

狂言きょうげんかた

編集へんしゅう

狂言きょうげんかたのうげきちゅう登場とうじょうすることもおおい。狂言きょうげんかた担当たんとうするやくを「アイ」もしくは「間狂言あいきょうげん(あいきょうげん)」とぶ。のう登場とうじょう人物じんぶつとして、シテもしくはワキのおともものなどの役柄やくがらとしての「アシライアイ」もあるが、おおくの場合ばあいは、中入なかいり(のう前場ぜんば後場ごばの2場面ばめんかれていることがおおく、そのあいだ)でシテが装束しょうぞくえる時間じかん利用りようし、そのをつなぐ目的もくてき狂言きょうげんかた役者やくしゃところもの(その土地とちひと)としてのう物語ものがたりにまつわる伝承でんしょう来歴らいれきかたる「かたりアイ」である。アイには一人ひとりおこなうものと、多人数たにんずうおこなうものがある。またかたりアイのなかでも、すわってかたるものを「きょアイ」、ってかたるものを「だてアイ」とぶ。まれに間狂言あいきょうげんのないのう存在そんざいする。これにたいして狂言きょうげんかた囃子方はやしかたのみでえんじられる狂言きょうげんを「ほん狂言きょうげん」とんで、間狂言あいきょうげん区別くべつする場合ばあいもある。

囃子方はやしかた

編集へんしゅう

上手じょうず舞台ぶたいかって正面しょうめん見所みどころより右側みぎがわ)よりふえ小鼓こつづみだいだいかわ)、太鼓たいこならぶ。のう場合ばあい小鼓こつづみかただいかた床几しょうぎもちいる(まい囃子ばやしでは正座せいざしている)。狂言きょうげんでは床几しょうぎもちいない。太鼓たいこ獅子ししおになどちょう自然しぜんてき威力いりょくのあるシテがあらわれるさいもちいられる。太鼓たいこなしの囃子はやし三拍子さんびょうし太鼓たいこふくむと四拍子しびょうしぶ。ふえ能管のうかん)は唯一ゆいいつ旋律せんりつ楽器がっきではあるが上述じょうじゅつしたように打楽器だがっきてき奏法そうほうおもとする。囃子方はやしかたはっするごえ気合きあいあいだくらい(テンポ)などは能楽のうがく重要じゅうよう要素ようそである。

能楽のうがく流派りゅうは

編集へんしゅう
 
能面のうめん 小尉こじょう小牛こうじじょう

能楽のうがく流派りゅうは大和やまと猿楽さるがくよん系統けいとう流派りゅうはと、それ以外いがい日本にっぽん各地かくち土着どちゃくのうけられる。

大和やまと猿楽さるがくよんとは観世かんぜ宝生ほうしょう金春こんぱるきむつよしであるが、さら江戸えど金剛こんごうからかれた喜多きたりゅういつつをあわせてよん一流いちりゅうぶ。喜多きたりゅう金剛こんごうりゅうよりて、金春こんぱるりゅう影響えいきょうけつつ江戸えどまれた新興しんこう一派いっぱであって、明治めいじいたってほかのよんりゅう同格どうかくとされた。喜多きたりゅうそうりゅう以来いらい座付ざつき制度せいどらず、「喜多きた」とばれることはなかったので、ではなくよん一流いちりゅうとなる。

よんのうち奈良ならから京都きょうと進出しんしゅつした観世かんぜ宝生ほうしょううえがかび、つづ奈良なら根拠地こんきょちとした金春こんぱる金剛こんごう下掛しもがかぶ。喜多きた下掛しもがかりにふくむ。

大和やまと猿楽さるがくよん豊臣とよとみ秀吉ひでよし政策せいさくてき猿楽さるがく丹波たんば猿楽さるがくさんなど)を吸収きゅうしゅうさせたため、江戸えど時代じだいはいころには事実じじつじょう日本にっぽん猿楽さるがく大半たいはん傘下さんかおさめていた。現在げんざいよん一流いちりゅう系統けいとう能楽のうがくたちは社団しゃだん法人ほうじん能楽のうがく協会きょうかい組織そしきしており、能楽のうがく協会きょうかい加盟かめい所属しょぞくしているもの職業しょくぎょうじんとしての能楽のうがく位置いちづけられている。

一方いっぽう大和やまと猿楽さるがくよん統合とうごうされなかった能楽のうがく残存ざんそんしている地域ちいきもあり、よん一流いちりゅうではえんじられない曲目きょくもくや、その地域ちいき独特どくとくいをることが出来できる。有名ゆうめいなものとしては、山形やまがたけん春日しゅんじつ神社じんじゃつたわる黒川くろかわのう黒川くろかわのうからかれた新潟にいがたけん大須戸おおすとのうなどがある。

なお、能楽のうがく協会きょうかい所属しょぞく能楽のうがくによって上演じょうえんされる能楽のうがくにおいては、能楽のうがく全体ぜんたい流儀りゅうぎはシテかた流儀りゅうぎによってしめされる。またのうかぎり、家元いえもと宗家そうけしょうする。これは江戸えど観世かんぜかぎ分家ぶんけ現在げんざい観世かんぜ銕之亟家)をて、これをほかの家元いえもとみにあつかうという特例とくれいみとめられたことにもとづくものである。分家ぶんけたいし、本家ほんけが「宗家そうけ」としょうしたのがやがて「家元いえもと」の意味いみもちいられるようになったものである。現在げんざいでは、同姓どうせい分家ぶんけとの関係かんけいもちいられないかぎり、ほぼ「家元いえもと」のいいかえである。

座付ざつき制度せいど

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい以前いぜん猿楽さるがく役者やくしゃたちはいずれかの所属しょぞくして活動かつどうしていたため、現在げんざいのようにシテかた自由じゆうさんやくきな流派りゅうはからえらんでえんじのうをすることはなかった。以下いか江戸えど時代じだいにおけるかく構成こうせいしめす。

現存げんそんする流派りゅうは

編集へんしゅう

(カッコないは2005ねん能楽のうがく協会きょうかい名簿めいぼにおける所属しょぞく能楽のうがくかず

能楽のうがく育成いくせい

編集へんしゅう

能楽のうがくおおくはなんだいつづ能楽のうがくいえまれたものであり、幼少ようしょうから父親ちちおやによる訓練くんれんける。かれらのなか最終さいしゅうてき能楽のうがく職業しょくぎょうとすることを決断けつだんをしたものは、所属しょぞくする流派りゅうは宗家そうけいえすう年間ねんかんんで修行しゅぎょうし(内弟子うちでし)、能楽のうがく職業しょくぎょうとするための初期しょき訓練くんれん仕上しあげをおこなう。職業しょくぎょうとして能楽のうがくえら能楽のうがく協会きょうかい会員かいいんとなったのちも、能楽のうがくとしての訓練くんれん生涯しょうがいつづけられる。

しかし、代々だいだい能楽のうがく職業しょくぎょうとするいえやアマチュアの入門にゅうもんしゃかず相対そうたいてきおおいシテかたとはべつに、さんやく(「ワキかた」「囃子方はやしかた」「狂言きょうげんかた」)として能楽のうがく職業しょくぎょうとすることを目指めざものかず非常ひじょうすくなく、上述じょうじゅつのような伝統でんとうてき育成いくせいシステムのまりは昭和しょうわには明白めいはくとなった。そこで開始かいしされたのが、国立こくりつ能楽堂のうがくどうさんやく技能ぎのう伝授でんじゅする学校がっこう設置せっちし、代々だいだい能楽のうがく職業しょくぎょうとするいえ子弟してい以外いがい人材じんざい能楽のうがくかいむというこころみである[ちゅう 10]。この制度せいどは1984ねん6がつ開始かいしされた。応募おうぼ資格しかく中学ちゅうがく卒業そつぎょう以上いじょう経験けいけん不問ふもん年齢ねんれい上限じょうげんありというもので、研修けんしゅう期間きかんは6年間ねんかんである。

職業しょくぎょうとしての能楽のうがく

編集へんしゅう

観世かんぜ栄夫ひでおによると、能楽のうがく協会きょうかいにおける暗黙あんもく了解りょうかいとして能楽のうがく職業しょくぎょうとするものには平等びょうどう仕事しごと斡旋あっせんすることとなっており[11]、シテかた場合ばあい年間ねんかんで30ばん程度ていど舞台ぶたいをこなしているとされる。[12]

また、能楽のうがくさんやく人手ひとで不足ふそく深刻しんこくであり、いちにちに2けんや3けん仕事しごとちすることが常態じょうたいしているとされる。[13]

なお、能楽のうがくえんじたりおしえたりして報酬ほうしゅう行為こういは、能楽のうがく協会きょうかい会員かいいん以外いがいであっても法律ほうりつじょう可能かのうであり、実際じっさい和泉いずみもとわたる能楽のうがく協会きょうかいからはなれたのち自身じしん親族しんぞくで「株式会社かぶしきがいしゃ和泉いずみ宗家そうけ」をおこして狂言きょうげんとして活動かつどうつづけているほか観世かんぜ栄夫ひでお能楽のうがく協会きょうかい退会たいかいちゅう仕事しごととして新劇しんげき俳優はいゆう学生がくせいのうおしえたり、国外こくがい観世かんぜ寿夫としおらとともにのうえんじたりしたこともあった[14]協会きょうかい所属しょぞくしないでもそれぞれの流儀りゅうぎから師範しはん免状めんじょうなどをけて活動かつどうする、セミプロてきものもいる。しかし現状げんじょうでは、能楽のうがく協会きょうかい会員かいいん以外いがいもの仕事しごととしてえんじのう依頼いらいされることは、和泉いずみのようなきわめてまれ事例じれいのぞき、日本にっぽん国内こくないではめったにない。観世かんぜ栄夫ひでお特例とくれいとして能楽のうがく協会きょうかい会員かいいんじって日本にっぽん国内こくないのうえんじたこともあったが、このときでも観世かんぜ栄夫ひでお支払しはらわれた報酬ほうしゅう出演しゅつえんりょうというかたちらなかった[15]

能楽のうがく協会きょうかい日本にっぽん能楽のうがくかい

編集へんしゅう

社団しゃだん法人ほうじん能楽のうがく協会きょうかいは、かく専門せんもんてき役割やくわり職能しょくのうとするかくりゅう能楽のうがく[16]たちの団体だんたいである。一方いっぽう社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽん能楽のうがくかいは、重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい能楽のうがく」の技能ぎのう保持ほじしゃとして総合そうごう認定にんていされた能楽のうがく構成こうせいいんとする団体だんたいである。

女人にょにん禁制きんせいとその緩和かんわ

編集へんしゅう

もともとのうえんじるのは男性だんせいのみにゆるされていた。能面のうめん使つかわれほうとして現在げんざいのう男性だんせいやくにはめんもちいない(直面ちょくめん(ひためん))が、女性じょせいやく場合ばあいおんなめん使つかって女性じょせいふんしているが、女性じょせい能楽のうがくえんじる場合ばあいでもおんなめんをつけていることからも、その名残なごりのこっている。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)に女性じょせい能楽のうがく協会きょうかいへの加入かにゅうみとめられた。2004ねん平成へいせい16ねん)に日本にっぽん能楽のうがくかいへの加入かにゅうみとめられた[17]

なお、前述ぜんじゅつ国立こくりつ能楽堂のうがくどう養成ようせい事業じぎょう女性じょせいにも門戸もんこひらかれており、これまでのところ女性じょせい研修生けんしゅうせい成績せいせき男性だんせいのそれに見劣みおとりしないという意見いけんもある[18]

しかし、のううたいつづみごえなどは低音ていおんひびかすことが大事だいじとされており、気合きあい声域せいいきなどがことなるための困難こんなん違和感いわかん見受みうけられる。

能楽のうがく上演じょうえん形式けいしき

編集へんしゅう

おう』を冒頭ぼうとうに、のう5きょくとそのあいだ狂言きょうげん4きょくれる「おうばんりつ」という番組ばんぐみ編成へんせいが、江戸えど時代じだい以来いらいつづいている能楽のうがく正式せいしきえんかたである[19]観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみ活躍かつやくした室町むろまち時代じだい初期しょきは、のう狂言きょうげんをどのような順序じゅんじょ上演じょうえんするのか、序破急じょはきゅう概念がいねん重要じゅうようされた[20]序破急じょはきゅうとは、スピードだけではなく、精神せいしんてき昂揚こうよう構成こうせいじょうがりなど、あるいはいちにち経過けいか考慮こうりょしたものである[20]具体ぐたいてきには、「おう」という儀典ぎてんてきのうをしたのちしずむまでのあいだに、狂言きょうげんはさみつつ5種類しゅるい曲目きょくもくえんじる[20]

  1. おう - 最初さいしょおきなえんじるのが正式せいしき番組ばんぐみりつであったが、現在げんざい特別とくべつもよおしでしかえんじられない。
  2. のうはつばんぶつかみ[20]- かみ仕手してとなる。わきのう神事しんじぶつとも。
  3. 狂言きょうげんはつばんぶつわき狂言きょうげんとも)
  4. のう番目ばんめぶつおとこ[20] - 武人ぶじん仕手してとなる。修羅しゅらぶつとも。ほとんどがいくさ修羅しゅら)である。かち修羅しゅらさんきょく田村たむら屋島やしまえびら)。やぶじょ
  5. 狂言きょうげん番目ばんめぶつ
  6. のうさん番目ばんめぶつおんな[20]- 美人びじん仕手してとなる。かずらぶつとも。やぶやぶ
  7. 狂言きょうげんさん番目ばんめぶつ
  8. のうよん番目ばんめぶつきょう[20]- 狂女きょうじょ仕手してとなる狂女きょうじょぶつきょうとは精神せいしんたかぶった状態じょうたいあらわすもので異常いじょうしゃではない、それ以外いがいにも様々さまざまなものがここにはいる。ざつのう現在げんざいものとも。やぶきゅう
  9. 狂言きょうげんよん番目ばんめぶつ とめ狂言きょうげんとも。
  10. のう番目ばんめぶつおに[20]- おに天狗てんぐといった荒々あらあらしく威力いりょくのあるものが仕手してとなる。切能きりのう鬼畜きちくぶつとも。きゅう

上記じょうきの1にちがかりとなる編成へんせい能楽のうがく上演じょうえんすることはまれとなり[20]能楽のうがく協会きょうかい主催しゅさい式能しきのうなどでしかられない[20]具体ぐたいてきには、のう狂言きょうげんかく1きょく、あるいはのう2きょく狂言きょうげん1きょく程度ていどわる上演じょうえん形式けいしきえている。ただし、ばんきょく以上いじょう場合ばあいは、かなら上記じょうき順番じゅんばんしたがっている[20]

ばんりつ能楽のうがく上演じょうえんするさい番目ばんめがめでたいきょく祝言しゅうげんのう)ではなくくら内容ないようのうである場合ばあいは、『高砂たかさごとうかみのうものの後場ごばのみをえんじ(後半こうはん部分ぶぶんのみえんずることをはんのうという)、めでたい気分きぶんおさめるのがまえであった。さらにりゃくして最後さいご一章いっしょうのみを素謡すうたいうたってすますこともあった。「づけ祝言しゅうげん」としょうするこの習慣しゅうかんは、えんじのう時間じかんみじかくなった今日きょうでもられる。

番組ばんぐみ

編集へんしゅう
 
のう番組ばんぐみかた

能楽のうがく番組ばんぐみめんれいみぎにしめす。シテの演者えんじゃめい演目えんもく右肩みぎかたかれ、ワキの演者えんじゃめい演目えんもく真下ましたかれるのが慣例かんれいである。なお「小書しょうしょ」とは特殊とくしゅ演出えんしゅつす。

のう略式りゃくしき演奏えんそう

編集へんしゅう

のういちきょくえんじるとおよそ1あいだほどかかることから、みじか時間じかん鑑賞かんしょうするため、あるいは稽古けいこ過程かていとして、略式りゃくしき演奏えんそう形式けいしきととのえられている。

仕舞しまい(しまい)
まいしゅ地謡じうたいすうめいとがきょくちゅうのハイライトとなるまい上演じょうえんすること。5ふん~10ふん程度ていどながさ。仕手してまいしゅ)はのう装束しょうぞくではなく紋付もんつはかまる。まためんはかけない。
「クセ」とは、きょくまいというのう以前いぜんにあった芸能げいのうで、観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみ親子おやこのう中心ちゅうしんれ、ながひらノリの地謡じうたいにあわせて部分ぶぶん、「キリ」はのうわりの部分ぶぶん。「○これだん」という印象いんしょうてきめい場面ばめん名称めいしょうもある。
まい囃子ばやし(まいばやし)
仕舞しまいまいことはたらけごと上記じょうき参照さんしょう)をくわえて、まいしゅ地謡じうたいすうめい囃子方はやしかた参加さんかすることでいちきょく主要しゅよう部分ぶぶんうこと。10ふん~20ふん程度ていどながさ。仕舞しまい同様どうようまいしゅ装束しょうぞくめんもちいないことがおおい。
はんのう(はんのう)
おもわきのうまたは番目ばんめきょく前場ぜんばみじか省略しょうりゃくして上演じょうえんすること。詳細しょうさいはんのう参照さんしょう
素謡すうたい(すうたい)
地謡じうたい(およびやくうたい)のみでいちきょく上演じょうえんすること。囃子方はやしかたともなわない。間狂言あいきょうげんはぶかれるのが普通ふつう
囃子はやしうたいとの対語たいごとして素謡すうたいという表現ひょうげんもちいられることがあり、のういちきょくうたうことをとくに「ばんうたい」としょうする場合ばあいもある。
連吟れんぎん(れんぎん)
素謡すうたい形式けいしきで、きょくのハイライトのみをうたう。
れん調ちょう(れんちょう)
うたいいちめいもしくはすうめい)と1種類しゅるい打楽器だがっきすうめいで、のう一部分いちぶぶん演奏えんそうする形式けいしき
いち調ちょう(いっちょう)
うたいいちめいと1種類しゅるい打楽器だがっきいちめいで、のう一部分いちぶぶん演奏えんそうする形式けいしきいち調ちょうようえのつこともある。
いちかん(いっかん)
ふえいちめいによる演奏えんそう普段ふだんのうではかないきょく演奏えんそうする場合ばあいもある。
いち調ちょういちかん
ふえいちめいと1種類しゅるい打楽器だがっきいちめいによる演奏えんそういち調ちょうようえのつこともある。
もと囃子ばやし(すばやし)
囃子方はやしかたによる演奏えんそうのみで上演じょうえんすること。
ばん囃子ばやし(ばんばやし)
地謡じうたい囃子方はやしかたいちきょく上演じょうえんすること。のう音声おんせい部分ぶぶん上演じょうえん
きょ囃子ばやし(いばやし)
地謡じうたい囃子方はやしかたきょくのハイライトを上演じょうえんすること。まい囃子ばやしから仕手してまいった形式けいしき

のう舞台ぶたい

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のう舞台ぶたい平面へいめん
 
のう舞台ぶたい手前てまえはしらわきはしらかってひだり目付めつけばしらまつがあるのが鏡板かがみいた舞台ぶたいから下手へたおくかい橋懸はしがかり(はしがかり)がえ、そのおく揚幕あげまくえる。
 
舞台ぶたいじょう位置いち名前なまえと、見所みどころ名前なまえ

能楽のうがく上演じょうえんするため舞台ぶたいのう舞台ぶたいぶ。

のう舞台ぶたい歴史れきし

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以前いぜんのう舞台ぶたい神社じんじゃとうつくられ、舞台ぶたい屋根やね青天井あおてんじょうさらされていた。そのため、照明しょうめい日光にっこう白洲しらすからの反射はんしゃこうによっていた。

わった設置せっち場所ばしょとしては、江戸えど時代じだい徳川とくがわ将軍しょうぐんかく藩邸はんてい御成おなをするさいのうでもてなすことが一般いっぱんされたことから、大藩たいはん江戸えど屋敷やしきには庭園ていえんはさんでのう舞台ぶたい設置せっちされていることがあった[21]

明治めいじ以降いこうのう舞台ぶたい見所みどころ(けんじょ・客席きゃくせきのこと)の全体ぜんたい建物たてものでくるむ形式けいしきえ、これを「能楽堂のうがくどう」とぶ。この場合ばあい屋根やねうえ能楽堂のうがくどう天井てんじょうがある形式けいしきになる。

一方いっぽうで、戦後せんご薪能たきぎのう」(本来ほんらい薪能たきぎのうにちちゅうからえんじのうはじめ、夕暮ゆうぐれまでえんじる形式けいしきだった)としょうして夜間やかん野外やがいのうさかんになり、この場合ばあい仮設かせつのう舞台ぶたいもちいられる。舞台ぶたいゆか寸法すんぽう適当てきとうで、四方しほうはしらがあり、橋懸はしがかり用意よういできれば、のうはいかなる場所ばしょでもえんじられる。

のう舞台ぶたい構造こうぞう

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  • 1:かがみあいだ シテのひかしょ。ここで装束しょうぞくをつけ、めんをかけるために、専用せんようかがみ姿見すがたみ)がある。またえんじのう前後ぜんごしょやく挨拶あいさつをかわし、上演じょうえんまえには囃子はやしのお調しらべがそうされる。
  • 2:橋懸はしがかり はしかけとも。歌舞伎かぶき花道かどうおなじように演技えんぎとして重視じゅうしされる。舞台ぶたいたいしてだいたい110前後ぜんこう角度かくどりつけられ、正面しょうめんきゃくからやすくなっている。
  • 3:舞台ぶたいほん舞台ぶたいつねすん京間きょうまさんあいだ四方しほう(=ほぼ6m四方しほう)。後方こうほうから正面しょうめんけてたていたわたす。ざいひのきおおい。足拍子あしびょうしひびきをよくするために要所ようしょけている。すべりをよくするためにおからこめぬか乾拭からぶきをしてつやをす。舞台ぶたいのぼさいにはどんな場合ばあいにも足袋たび原則げんそくとしてしろ足袋たび狂言きょうげんかた狂言きょうげん足袋たび)をくことをもとめられる。
  • 4-7:目付めつけばしらかく)、シテばしらふえばしらわきはしら大臣だいじんばしらめんをつけると視野しや非常ひじょう制限せいげんされるので、舞台ぶたいじょうではこれらのはしら目印めじるし目付めつけ)にしてう。したがってはしらえんじのうじょう必須ひっす舞台ぶたい機構きこうであり省略しょうりゃくすることができない。また『道成寺どうじょうじ』のかねるために、天井てんじょう滑車かっしゃが、ふえばしら金属きんぞくせいたまきがとりつけられている。
  • 8:地謡じうたい のうさい地謡じうたいれつになってすわ位置いち舞台ぶたいおなじくいたたてく。地謡じうたいおくには人口じんこうばれるとびらがついているが、現在げんざいではまったく使つかわれない。地謡じうたい後方こうほううらばれる客席きゃくせきがあったが、いまでは用地ようち関係かんけいつくられない能楽堂のうがくどうえている。
  • 9:こう/よこばん 舞台ぶたいとはちがっていたよこわたしているところからこのがある。囃子方はやしかたかってみぎからふえ小鼓こつづみだい太鼓たいこじゅんすわるために、おのおのの部分ぶぶんふえ小鼓こつづみといったりもする。のう場合ばあい小鼓こつづみだい床几しょうぎもちいる。
  • 10:後見こうけん 後見こうけんすわるためにこの呼名よびながある。後見こうけんとおるために、よこばん後半こうはんぶんをあけて囃子方はやしかたすわることになっている。
  • 11:狂言きょうげん アイがここで中入なかいりまで着座ちゃくざしているためにこの呼名よびながある。
  • 12:かい さんだん階段かいだん現在げんざいでは実用じつようされていないが、江戸えど時代じだい正式せいしきえんじのうさいには、開演かいえんまえ大目おおめづけがここから舞台ぶたいじょうにのぼり、まくかって開演かいえんげた。いまではもっぱら舞台ぶたいからシテがちたときにもちいられている。
  • 13:白洲しらす 現在げんざいでは簡略かんりゃくされているが、のう舞台ぶたい戸外こがいにあった時代じだいには客席きゃくせき舞台ぶたいとのあいだ玉砂利たまじゃりめていた。(うみみず象徴しょうちょうする。
  • 14-16:いちまつまつさんまつ はしかけでの演技えんぎさい目印めじるしにする。はしかけこうがわにもほんまつえられている。現在げんざいでは照明しょうめい加減かげんみやつこであることがおおい。
  • 17:楽屋がくや
  • 18:まくこう 五色ごしきぬのいあわせた揚幕あげまくがある。左右さゆうまくばんたけ利用りようしてまくをあげて(これをほんまくという)、シテやワキが出入でいりし、きょくおもむきおうじてまくのあげかたにもちがいがもうけられている。囃子方はやしかた後見こうけんなどが舞台ぶたい出入でいりするさいにはまくげずに、片側かたがわをめくってひととおす。これをかたまくという。
  • 19:切戸きりどこう のうさい地謡じうたいや、のう以外いがい上演じょうえん形式けいしきさい出入でいりするひと利用りようするちいさな出入でいぐち舞台ぶたいられたやくがここから退場たいじょうするので臆病おくびょうこうともいう。後見こうけんやアイは揚幕あげまくから出入でいりするのが本来ほんらいかたちだが、現在げんざいでは切戸きりどこう使つかうことが普通ふつうである。切戸きりどこうのあるめんいたにはたけえがかれている。
  • 20:鏡板かがみいた 桃山ももやま時代じだいれられた部分ぶぶんで、おおきな老松おいまつえがかれる。春日大社かすがたいしゃ影向ようごうまつがモデルである。ただし名古屋なごや能楽堂のうがくどうには若松わかまつ鏡板かがみいた設置せっちされている。かみだいとしての象徴しょうちょうてき意味いみのほかに、囃子はやしおと共鳴きょうめいさせる反響はんきょうばんとしての役割やくわりたしている。[22]
  • 21:人口じんこう地謡じうたい参照さんしょう

客席きゃくせき

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かつてのう客席きゃくせき正面しょうめんわき正面しょうめんはしかけがわ地謡じうたいただしたいするかたちになる)、中正ちゅうせいめん正面しょうめんわき正面しょうめんとのあいだ目付めつけばしらのほうをく)、うら地謡じうたい背後はいごわき正面しょうめん相対そうたいする)の4かしょけられ、舞台ぶたいさんぽうからることができた。ただし、昭和しょうわになってからのほとんどの能楽堂のうがくどうではうら廃止はいしされるようになった。

かんのう機会きかい

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実演じつえん

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のうのう舞台ぶたいにて)、厳島いつくしま神社じんじゃ
 
広島ひろしまけん廿日市はつかいち厳島いつくしま神社じんじゃえんじられるのう

舞台ぶたい芸術げいじゅつ同様どうように、実演じつえんなまるのが一番いちばんである。東京とうきょうには観世かんぜ宝生ほうしょう喜多きたかくりゅう能楽堂のうがくどうかまえ、国立こくりつ能楽堂のうがくどうでは金春こんぱる金剛こんごうふくんだりゅうすべてののうたのしむことができる(金春こんぱる奈良ならきむつよし京都きょうと能楽堂のうがくどうかまえている)。またおおきな都市としには能楽堂のうがくどうがあり、身近みぢかのうせっすることができる。

地方ちほうでも多目的たもくてきホールや野外やがい仮設かせつのう舞台ぶたい用意よういえんのうすることがあり、けっしてかんのう機会きかいすくなくない。また、佐渡さわたりのように、おおきな都市としはなくとも歴史れきしてきのう根付ねついた地域ちいきもある。神社じんじゃ木々きぎなかたのしむのう格別かくべつである。

地方ちほうによっては、黒川くろかわのうのようなりゅうからはなれた郷土色きょうどしょくゆたかなのうられる。

能楽のうがくおこなう(有料ゆうりょうの)のうえんじだけでなく、素人しろうと愛好あいこう玄人くろうと養成ようせい稽古けいこかいなどには無料むりょうかいもあり、能楽堂のうがくどうやホームページなどで予定よてい広報こうほうしているので、そちらを鑑賞かんしょうすることもできる。

放送ほうそう

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NHK-FMが「能楽のうがく鑑賞かんしょう」と銘打めいうって、毎週まいしゅうのう番組ばんぐみ放送ほうそうしている。素謡すうたいがほとんどである。またテレビ放送ほうそうのう放送ほうそうすることもある。

スカイパーフェクTV!(CSデジタルテレビ放送ほうそう)ののう番組ばんぐみ充実じゅうじつしており、「歌舞伎かぶきチャンネル」や「京都きょうとチャンネル」で度々たびたびのう録画ろくが放送ほうそうしている。

有線ゆうせん放送ほうそうでも「謡曲ようきょく」や「のうばん囃子ばやし)」の専門せんもんチャンネルがあったが、廃止はいしされてしまっている。

関連かんれん作品さくひん

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  • 能楽のうがく蘊奥うんおうしゅう』(のうがくうんのうしゅう) ‐ 1890ねん明治めいじ23ねん)に観世かんぜ流木りゅうぼくさん代目だいめである木下きのしたたかしけんによってしるされた。このなか秘伝ひでんがあったとして破門はもんされたが、のちにゆるされたというせつがある[23]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ しば能楽堂のうがくどうは、日本にっぽんはつ能楽堂のうがくどうのう舞台ぶたい屋内おくないおさめたもの)である。
  2. ^ かたにおいてものう狂言きょうげんではちがいがあり、たとえばくことをしめす「シオリ」でも、のうかおちかづけるだけだが、狂言きょうげんではエーエーとごえはっする
  3. ^ 小鼓こつづみが「ポン(ポ)」であればだいは「カン」とした音調おんちょう
  4. ^ ただしこうした伝統でんとうてき制度せいどには内部ないぶからの批判ひはん存在そんざいする。観世かんぜ栄夫ひでおによると、生前せいぜん観世かんぜ寿夫としおはこうした家元いえもと制度せいど不要ふようなものとかんがえていたとされる。(観世かんぜ栄夫ひでおはなよりかそけ観世かんぜ栄夫ひでお自伝じでん白水しろみずしゃ、2007ねん
  5. ^ 宗家そうけあずかり」「宗家そうけ代理だいり」が宗家そうけ代行だいこうつとめうることは能楽のうがく協会きょうかい約款やっかんにも規定きていされている。能楽のうがく協会きょうかい約款やっかん
  6. ^ 子供こどもやくもしくは非常ひじょう高貴こうき人物じんぶつ象徴しょうちょうてき表現ひょうげんするために子供こどもえんじることになっているやく
  7. ^ 適齢てきれいにあるさんやく子供こどもをシテかた指導しどうして使つかうこともある
  8. ^ 舞台ぶたいじょう待機たいきし、舞台ぶたい進行しんこう手助てだすけする役目やくめ人物じんぶつ小道具こどうぐつくもの世話せわをするほかえんしゅなんらかの理由りゆう舞台ぶたいつづけられなくなった場合ばあいには途中とちゅうから代役だいやくつとめることもある。
  9. ^ 観世かんぜひだりきちりゅうともいう
  10. ^ 現在げんざい正式せいしき名称めいしょうは「独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん日本にっぽん芸術げいじゅつ文化ぶんか振興しんこうかい養成ようせい事業じぎょう能楽のうがくさんやく研修生けんしゅうせい」である。

出典しゅってん

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  1. ^ 西野にしの春雄はるお 羽田はたあきら新版しんぱん のう狂言きょうげん事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2011ねんISBN 9784582126419、310ページ
  2. ^ 観世かんぜ栄夫ひでおはなよりかそけへ』白水しろみずしゃ、2007ねん
  3. ^ 観世かんぜ銕之すすむ『ようこそのう世界せかいへ』くらしの手帖てちょうしゃ、2000ねん
  4. ^ 横山よこやま太郎たろう天女てんにょまい身体しんたい技法ぎほう:カマエ成立せいりつ以前いぜんのう身体しんたい』『ZEAMI:中世ちゅうせい芸術げいじゅつ文化ぶんか』1ごうもりはなししゃ、2002ねん収録しゅうろく
  5. ^ 松岡まつおかこころひらめうたげ身体しんたい:バサラから世阿弥ぜあみへ』(岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ)、225-229ページ
  6. ^ 観世かんぜ銕之亟『ようこそのう世界せかいへ』くらしの手帖てちょうしゃ、2000ねん、37ページ
  7. ^ 井上いのうえ由理子ゆりこのうにアクセス』あわ交社、2003ねん
  8. ^ IPA「教育きょういくよう画像がぞう素材そざいしゅうサイト」[1]
  9. ^ 氷川ひかわまりこ・梅若うめわか六郎ろくろうのうしん世紀せいき
  10. ^ 観世かんぜ前掲ぜんけいしょ
  11. ^ 観世かんぜ栄夫ひでおはなよりかそけ観世かんぜ栄夫ひでお自伝じでん白水しろみずしゃ、2007ねん
  12. ^ 佐貫さぬき百合ゆりじん伝統でんとう芸能げいのうになるには』ぺりかんしゃ、2000ねん、82ページ
  13. ^ 佐貫さぬき前掲ぜんけいしょ、114-115ページ
  14. ^ 観世かんぜ栄夫ひでお前掲ぜんけいしょ
  15. ^ 同上どうじょう
  16. ^ 能楽のうがく協会きょうかい|能楽のうがく協会きょうかいについて
  17. ^ 女性じょせい能楽のうがくと2つのかべ能楽のうがく協会きょうかい日本にっぽん能楽のうがくかい入会にゅうかい
  18. ^ 佐貫さぬき前掲ぜんけいしょ、118-119ページ
  19. ^ 三浦みうら裕子ゆうこちょ山崎やまざき有一ゆういちろう監修かんしゅう能楽のうがく入門にゅうもん(1) はじめてののう狂言きょうげん小学館しょうがくかん 1999ねんISBN 4093431132、15ページ
  20. ^ a b c d e f g h i j k 能楽のうがく協会きょうかい, 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん. “きょく種類しゅるい | 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 能楽のうがく協会きょうかい”. www.nohgaku.or.jp. 2021ねん12月4にち閲覧えつらん
  21. ^ 江戸えど時代じだい大名だいみょう生活せいかつ上屋敷かみやしき下屋敷しもやしき 目白めじろ徳川とくがわ黎明会れいめいかい昭和しょうわじゅうねんきゅうがつじゅうきゅうにち
  22. ^ 原田はらだ香織かおり現代げんだい芸術げいじゅつとしてののう世界せかい思想しそうしゃ、2014ねん、37ページ
  23. ^ 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. “能楽のうがく秘伝ひでんしょ出版しゅっぱんしたために、破門はもんされた能楽のうがくについてりたい。”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 2023ねん12月27にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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のう舞台ぶたい劇場げきじょう建築けんちく

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単行本たんこうぼん

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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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