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幕藩体制 - Wikipedia

まくはん体制たいせい

近世きんせい日本にっぽん社会しゃかい体制たいせい

まくはん体制たいせい(ばくはんたいせい)とは、近世きんせい日本にっぽん社会しゃかい体制たいせいありかたを、幕府ばくふ将軍しょうぐん)とはん大名だいみょう)という封建ほうけんてき主従しゅうじゅう関係かんけい基点きてんにとらえた歴史れきしがくじょう概念がいねんである。戦前せんぜん段階だんかいには狭義きょうぎ政治せいじ体制たいせい自体じたいしていたが、戦後せんご歴史れきしがく進展しんてんともない、近世きんせい日本にっぽん社会しゃかい体制たいせい全体ぜんたい特色とくしょくしめ概念がいねんとして使つかわれるようになった。まくはん体制たいせい(ばくはんたいせい)ともいう。

概要がいよう

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江戸えど幕府ばくふすべての武士ぶし頂点ちょうてんとし、最高さいこう統治とうち機関きかんとしながらも、はん形成けいせいしていることと、べいなどを現物げんぶつおさめさせて年貢ねんぐとする石高こくだかせいをその基礎きそいていることが特徴とくちょうである。しょ大名だいみょう親藩しんぱん譜代ふだい大名だいみょう外様とざま大名だいみょうけ、参勤交代さんきんこうたい改易かいえきによってこれを統制とうせいした。また、職分しょくぶん区分くわけによって、武士ぶし一部いちぶ権利けんり階級かいきゅう位置いちづけた(もっとも、「士農工商しのうこうしょう」という言葉ことば当時とうじ階級かいきゅう正確せいかくあらわしてはいないと指摘してきされている)。

石高こくだかせいについては豊臣とよとみ政権せいけんによってへいのう分離ぶんりおこなわれ、太閤たいこう検地けんちによって徐々じょじょ形成けいせいされ、つづ江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやす以降いこう、2だい徳川とくがわ秀忠ひでただ、3だい徳川とくがわ家光いえみつ時代じだいに、鎖国さこく体制たいせい知行ちぎょうせいむら請制などが確立かくりつ、さらに武家ぶけしょ法度はっと朝廷ちょうていたいする禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと寺社じしゃたいするしょしゃ禰宜ねぎ神主かんぬし法度はっと諸宗しょしゅう寺院じいん法度はっと寺院じいんしょ法度はっとといった統制とうせいなどもおこなわれていった。 ふるくは「江戸えど時代じだい=まくはん体制たいせい」であり、当然とうぜん江戸えど幕府ばくふ成立せいりつした1603ねんまくはん体制たいせい始期しきかんがえられてきたが、1960年代ねんだいあんりょうじょう盛昭もりあき太閤たいこう検地けんちによる荘園しょうえんせい解体かいたい中世ちゅうせい近世きんせい統治とうち体制たいせいけるかんがえ、豊臣とよとみ政権せいけん日本にっぽん全国ぜんこく統一とういつした1590ねんまくはん体制たいせい始期しきとするかんがえをし、論争ろんそうんだ(太閤たいこう検地けんち論争ろんそう)。このため、現在げんざいでは1590ねんをもってまくはん体制たいせい始期しきとするせつ有力ゆうりょくではあるが、1590ねん・1603ねんどちらを採用さいようした場合ばあいでも、そのとしまくはん体制たいせい完成かんせいしたものではなく、最終さいしゅうてき完成かんせい17世紀せいき中期ちゅうき以後いごであったとかんがえられている。

江戸えど時代じだいには商人しょうにん資本しほん成長せいちょう農村のうそんへの商品しょうひん経済けいざい浸透しんとう、それらによる身分みぶんせい変質へんしつなど、村落そんらく共同きょうどうたい動揺どうよう一揆いっきちこわしまねき、幕府ばくふしょはん幕政ばくせい改革かいかく藩政はんせい改革かいかくおこない、再編さいへんこころみる。

幕末ばくまつには、しょ外国がいこく砲艦ほうかん外交がいこうにより幕府ばくふ鎖国さこく政策せいさくあらためて開国かいこくし、朝廷ちょうてい権威けんい伸長しんちょうして公武こうぶ合体がったい路線ろせんすすめられる。江戸えど幕府ばくふ大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこ江戸えど開城かいじょうにより解体かいたいされ、明治めいじ初期しょきには旧藩きゅうはんによる統治とうち維持いじされるが、中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさくのもと、版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけんによりまくはん体制たいせい完全かんぜん終結しゅうけつする。しかしその名残なごりとしてのこっている箇所かしょおおられている。

学説がくせつ

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戦前せんぜん段階だんかい

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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