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寛永寺 - Wikipedia

寛永寺かんえいじ

東京とうきょう台東たいとうにある仏教ぶっきょう寺院じいん

寛永寺かんえいじ(かんえいじ)は、東京とうきょう台東たいとう上野桜木うえのさくらぎいち丁目ちょうめにある天台宗てんだいしゅう関東かんとう総本山そうほんざん寺院じいん山号さんごうひがし叡山えいざん(とうえいざん)[2]ひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじえんひたぶるいんごうする。開基かいき創立そうりつしゃ)は江戸えど幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつであり、開山かいさん初代しょだい住職じゅうしょく)は天海てんかい本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいである。

寛永寺かんえいじ
根本中堂こんぽんちゅうどう
所在地しょざいち 東京とうきょう台東たいとう上野桜木うえのさくらぎいち丁目ちょうめ14ばん11ごう
位置いち 北緯ほくい3543ふん17びょう 東経とうけい13946ふん27.5びょう / 北緯ほくい35.72139 東経とうけい139.774306 / 35.72139; 139.774306座標ざひょう: 北緯ほくい3543ふん17びょう 東経とうけい13946ふん27.5びょう / 北緯ほくい35.72139 東経とうけい139.774306 / 35.72139; 139.774306
山号さんごう ひがし叡山えいざん[1]
院号いんごう えんひたぶるいん[1]
宗旨しゅうし 天台宗てんだいしゅう
寺格じかく 関東かんとう総本山そうほんざん
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい[1]秘仏ひぶつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
創建そうけんねん 寛永かんえい2ねん1625ねん
開山かいさん 天海てんかい[1]
開基かいき 徳川とくがわ家光いえみつ
正式せいしきめい ひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじえんひたぶるいん
札所ふだしょとう 江戸えどさんじゅうさん観音かんのん札所ふだしょ だい6ばん清水しみず観音堂かんのんどう
文化財ぶんかざい きゅうほんぼう表門おもてもん清水しみず観音堂かんのんどう木造もくぞう薬師くすしさん尊像そんぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
徳川とくがわ霊廟れいびょう
公式こうしきサイト ひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじ公式こうしきサイト
法人ほうじん番号ばんごう 5010505000200 ウィキデータを編集
寛永寺の位置(東京都区部内)
寛永寺
寛永寺かんえいじ
寛永寺かんえいじ (東京とうきょう都区とく)
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きゅう寛永寺かんえいじ五重塔ごじゅうのとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
広重ひろしげ名所めいしょ江戸えどひゃくけい』より寛永寺かんえいじ清水しみず観音堂かんのんどうえがかれた「上野うえの清水しみずどうにんいけ」。

徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ祈祷きとうしょ菩提寺ぼだいじであり、徳川とくがわ歴代れきだい将軍しょうぐん15にんのうち6にん寛永寺かんえいじねむる。17世紀せいきなかばからは皇族こうぞく歴代れきだい住職じゅうしょくつとめて朝廷ちょうていとのつながりがふかかった。日光にっこうさん比叡山ひえいざんをも管轄かんかつする天台宗てんだいしゅう本山ほんざんとして近世きんせいには強大きょうだい権勢けんせいほこったが、幕末ばくまつ動乱どうらん主要しゅよう伽藍がらん焼失しょうしつした。かつての境内けいだいだい部分ぶぶん上野公園うえのこうえんとなっている。

創建そうけん伽藍がらん整備せいび

編集へんしゅう

江戸えどにあった徳川とくがわ菩提寺ぼだいじのうち、増上寺ぞうじょうじ中世ちゅうせいから存在そんざいした寺院じいんであったが、寛永寺かんえいじ天海てんかい開山かいさんとし、徳川とくがわによりあらたに建立こんりゅうされた寺院じいんである。徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつの3だい将軍しょうぐん帰依きえしていた天台宗てんだいしゅうそう南光なんこうぼう天海てんかい江戸城えどじょう鬼門きもん方角ほうがく憂慮ゆうりょし、そのことをった秀忠ひでただは、元和がんわ8ねん1622ねん)、現在げんざい上野公園うえのこうえん天海あまみあたえた。当時とうじこのには伊勢いせはんおも藤堂とうどう高虎たかとら弘前ひろさきはんおも津軽つがるしんまい越後えちご村上むらかみはんおもほりただしよせの3大名だいみょう下屋敷しもやしきがあったが、それらをおさむこうして寺地てらじにあてたものである。秀忠ひでただ隠居いんきょ寛永かんえい2ねん1625ねん)、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつときいま東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん敷地しきちほんぼう貫主かんしゅじゅうぼう)が建立こんりゅうされた[3]。このとし寛永寺かんえいじ創立そうりつねんとされている。

創建そうけん当時とうじ年号ねんごうをとって「寛永寺かんえいじ」とすることをゆるされ、きょう鬼門きもん北東ほくとう)をまも比叡山ひえいざんにならい、「ひがし比叡山ひえいざん」という意味いみ山号さんごうを「ひがし叡山えいざん」とした[2]

寛永寺かんえいじ伽藍がらん延暦寺えんりゃくじ様式ようしきじゅんじて造営ぞうえいされた[2]寛永かんえい4ねん(1627ねん)には法華ほっけどう常行つねゆきどう多宝塔たほうとうぞう東照宮とうしょうぐうなどが、寛永かんえい8ねん(1631ねん)には清水しみず観音堂かんのんどう五重塔ごじゅうのとうが、根本中堂こんぽんちゅうどう建設けんせつは5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし時代じだい元禄げんろく10ねん7がつ1にち柳沢やなぎさわ吉保よしやすそう奉行ぶぎょう拝命はいめい開始かいしされ、元禄げんろく11ねん1698ねん)8がつ11にち上棟じょうとうしきおこなわれ落成らくせいした[ちゅう 1][3]

位置いち関係かんけいでは、根本中堂こんぽんちゅうどう護国寺ごこくじ根本中堂こんぽんちゅうどう浅草寺せんそうじむすせん一直線いっちょくせんにつながる。また、根本中堂こんぽんちゅうどう日光にっこう表参道おもてさんどう延長線えんちょうせんじょう存在そんざいしている。

寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじ

編集へんしゅう

近世きんせいつうじ、寛永寺かんえいじ徳川とくがわ将軍家しょうぐんけはもとよりしょ大名だいみょう帰依きえけ、おおいにさかえた。ただし、創建そうけん当初とうしょ寛永寺かんえいじ徳川とくがわ祈祷きとうてらではあったが、菩提寺ぼだいじという位置いちづけではなかった。徳川とくがわ菩提寺ぼだいじは2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただねむる、しば増上寺ぞうじょうじ浄土宗じょうどしゅう寺院じいん)だったのである。しかし、3だい将軍家しょうぐんけこう天海あまみおおいに帰依きえし、自分じぶん葬儀そうぎ寛永寺かんえいじおこなわせ、遺骸いがい家康いえやすびょうがある日光にっこううつすようにと遺言ゆいごんした。その、4だい家綱いえつな、5だい綱吉つなよしびょう上野うえのいとなまれ、寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじとともに徳川とくがわ菩提寺ぼだいじとなった。当然とうぜん増上寺ぞうじょうじがわからは反発はんぱつがあったが、6だい将軍しょうぐん家宣いえのぶびょう増上寺ぞうじょうじ造営ぞうえいされて以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐん墓所はかしょ寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじ交替こうたい造営ぞうえいすることが慣例かんれいとなり、幕末ばくまつまでつづいた[ちゅう 2]。また、よしはじめ以降いこう幕府ばくふ財政ざいせい倹約けんやくのため、寛永寺かんえいじもんかず削減さくげんされている。

寛永寺かんえいじではだいさんだい以降いこう幕末ばくまつまで歴代れきだい住職じゅうしょく法親王ほうしんのう就任しゅうにんした[2]

寛永かんえい20ねん(1643ねん)、天海あまみぼっしたのち弟子でし毘沙門堂びしゃもんどう門跡もんぜき公海こうかいが2せい貫主かんしゅとして入山にゅうざん。そのいで3せい貫主かんしゅとなったのは、後水尾天皇ごみずのおてんのうだい3皇子おうじまもりきよし法親王ほうしんのうである。法親王ほうしんのううけたまわおう3ねん1654ねん)、寛永寺かんえいじ貫主かんしゅとなり、日光にっこう山主やまぬしね、よくあかりれき元年がんねん(1655ねん)には天台座主てんだいざしゅねることとなった。

以後いご幕末ばくまつの15せいおおやけげん入道にゅうどう親王しんのう北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう)にいたるまで、皇子おうじまたは天皇てんのう猶子ゆうし寛永寺かんえいじ貫主かんしゅつとめた。貫主かんしゅは「王寺おうじみや」と尊称そんしょうされ、水戸みと尾張おわり紀州きしゅう徳川とくがわ御三家ごさんけなら格式かくしき絶大ぜつだい宗教しゅうきょうてき権威けんいをもっていた。

さんやま管領かんりょうみや

編集へんしゅう

歴代れきだい王寺おうじみやは、一部いちぶ例外れいがいもあるが、原則げんそくとして天台座主てんだいざしゅ兼務けんむし、ひがし叡山えいざん日光にっこうさん比叡山ひえいざんの3やま管掌かんしょうすることから「さんやま管領かんりょうみや」ともばれた[2]東国とうごく皇族こうぞく常駐じょうちゅうさせることで、西国さいごく皇室こうしついただいて倒幕とうばく勢力せいりょく決起けっきしたさいには、関東かんとうでは王寺おうじみやを「天皇てんのう」として擁立ようりつし、がくにおけるよんかみ相応そうおう土地とちしょうとし、徳川とくがわ一方いっぽうてきな「朝敵ちょうてき」とさせないため安全あんぜん装置そうちだったというせつもある(「奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい」、「北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう東武とうぶ皇帝こうてい参照さんしょう)。

歴代れきだい寛永寺かんえいじ貫首かんじゅ王寺おうじみや

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  1. 天海てんかい
  2. 公海こうかい
  3. まもりきよし法親王ほうしんのうだい179せい天台座主てんだいざしゅ王寺おうじみや門跡もんぜきはじまり。後水尾天皇ごみずのおてんのうだい3皇子おうじ
  4. 天真てんしん法親王ほうしんのうこう西にし天皇てんのうだい5皇子おうじ
  5. おおやけべん法親王ほうしんのうだい188、190せい天台座主てんだいざしゅこう西にし天皇てんのうだい6皇子おうじ赤穂あこう事件じけん将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし諮問しもんける)
  6. おおやけひろし法親王ほうしんのうだい196、199せい天台座主てんだいざしゅ東山ひがしやま天皇てんのうだい3皇子おうじ
  7. おおやけ遵法じゅんぽう親王しんのうだい203、206せい天台座主てんだいざしゅ中御門天皇なかみかどてんのうだい2皇子おうじ
  8. おおやけけい法親王ほうしんのうだい208せい天台座主てんだいざしゅ閑院みやただしじん親王しんのうだい2王子おうじ
  9. おおやけ遵法じゅんぽう親王しんのう (再任さいにん)
  10. おおやけのべ法親王ほうしんのうだい213せい天台座主てんだいざしゅ閑院みやのりじん親王しんのうだい4王子おうじ
  11. おおやけきよし法親王ほうしんのうだい216せい天台座主てんだいざしゅ伏見ふしみみやくによりゆき親王しんのうだい2王子おうじ
  12. しゅんじん入道にゅうどう親王しんのうだい226せい天台座主てんだいざしゅ有栖川ありすがわみやじん親王しんのうだい4王子おうじ。)
  13. おおやけ紹法親王しんのう有栖川ありすがわみや韶仁親王しんのうだい3王子おうじ
  14. 慈性入道にゅうどう親王しんのうだい230せい天台座主てんだいざしゅ有栖川ありすがわみや韶仁親王しんのうだい2王子おうじ
  15. おおやけげん入道にゅうどう親王しんのう(のち還俗げんぞくして北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう

衰退すいたい復興ふっこう

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上野うえの戦争せんそう野原のはらになった境内けいだい

江戸えど時代じだい後期こうき最盛さいせい寛永寺かんえいじてらいき30まん5せんつぼ寺領じりょう11,790せきゆうし、いんは36かいんおよんだ(現存げんそんするのは19かいん)。現在げんざい上野公園うえのこうえんのほぼ全域ぜんいきてらきゅう境内けいだいであり、最盛さいせいには、さらにその2ばい面積めんせき寺地てらちゆうしていた。たとえば、現在げんざい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん敷地しきち寛永かんえい寺本てらもとぼうあとであり、博物館はくぶつかん南側みなみがわだい噴水ふんすい広場ひろばは、根本中堂こんぽんちゅうどうのあったところである。

江戸えど時代じだいには飛鳥山あすかやまならさくら名所めいしょとしてられており、庶民しょみん行楽こうらくであった[2][4]

しかし、上野うえのやまは、幕末ばくまつ慶応けいおう4ねん(1868ねん)、あきらたいたたかえ上野うえの戦争せんそう)の戦場せんじょうとなり、根本中堂こんぽんちゅうどうをはじめ主要しゅよう堂宇どうう焼失しょうしつし、のこされた建物たてもの五重塔ごじゅうのとう清水しみずどう大仏殿だいぶつでんなどだけとなった[2]明治維新めいじいしん寺領じりょう没収ぼっしゅうされ、はなわ王寺おうじみや還俗げんぞく明治めいじ6ねん(1873ねん)にはきゅう境内けいだい公園こうえん用地ようち指定していされるなどして、廃寺はいじ状態じょうたいまれるが、明治めいじ8ねん(1875ねん)にさい発足ほっそく江戸えど時代じだい境内けいだいだった場所ばしょは、上野公園うえのこうえん上野うえのえき用地ようちとなりおおきく変貌へんぼうをとげた。明治めいじ12ねん(1879ねんいんの1つの大慈だいじいんがあった場所ばしょ川越かわごえ喜多きたいん天海あまみじゅうしていたてら)の本地ほんじどう移築いちくして本堂ほんどう中堂なかどう)とし、復興ふっこうについた[2][3]

太平洋戦争たいへいようせんそうなか東京とうきょうだい空襲くうしゅうでは、当時とうじのこっていた徳川とくがわ霊廟れいびょう建物たてものだい部分ぶぶん焼失しょうしつした。2戦災せんさいをまぬがれたいくつかの建築けんちくは、上野公園うえのこうえんない各所かくしょ点在てんざいしている。

 
きゅうほんぼう表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
 
にん弁天べんてんどう

現存げんそんする伽藍がらん

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きゅう伽藍がらん

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葛飾かつしか北斎ほくさいふで ひがし叡山えいざん中堂なかどうこれ
 
幕末ばくまつ寛永寺かんえいじ付近ふきん地図ちずだい日本にっぽん読史どくし地図ちずより)

すでにべたように、現在げんざい上野公園うえのこうえんのほぼ全域ぜんいき往時おうじ寛永寺かんえいじ境内けいだいであった。松坂屋まつざかや上野うえのてんあたりから上野公園うえのこうえん入口いりくちあたりのみちをかつて「広小路ひろこうじ」としょうしたが、これは将軍しょうぐん寛永寺かんえいじにある徳川とくがわ秀忠ひでただらの霊廟れいびょう参詣さんけいするための参道さんどうであり、防火ぼうか意味いみ道幅みちはばひろげていたため、広小路ひろこうじばれた。

上野公園うえのこうえん入口いりくち付近ふきんには「はし」または「さんきょう」としょうするはしがあっててら正面しょうめん入口いりくちとなっており、そのさき総門そうもんにあたる「黒門くろもん」があった。上野公園うえのこうえんない中央ちゅうおうとおり、だい噴水ふんすい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん方面ほうめんかうみちがかつての参道さんどうであり、文殊もんじゅろう、そのさき法華ほっけどう常行つねゆきどう多宝塔たほうとうぞう根本中堂こんぽんちゅうどうほんぼうなどがあった。その周囲しゅういには清水しみず観音堂かんのんどう現存げんそん)、五重塔ごじゅうのとう現存げんそん)、東照宮とうしょうぐう現存げんそん)、にん中島なかじま弁天べんてんどう現存げんそんするが20世紀せいき再建さいけん)などがち、また、36かいんにのぼるいんがあった。

天海あまみ江戸えど寛永寺かんえいじとの関係かんけいを、京都きょうと比叡山ひえいざん関係かんけいになぞらえて構想こうそうしていた。すなわち、根本中堂こんぽんちゅうどう法華ほっけどう常行つねゆきどうなどは比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじにも同名どうめい建物たてものがあり、清水しみず観音堂かんのんどう京都きょうと清水寺きよみずでらになぞらえたもの(傾斜地けいしゃち建築けんちく様式ようしき類似るいじする)、にん中島なかじま弁天べんてんどうは、琵琶湖びわことそこにかぶ竹生島ちくぶしま宝厳寺たからがんじ弁才天べんざいてんにならったものである。

かつて存在そんざいした建物たてもの
  • 根本中堂こんぽんちゅうどう - しょどうよりおくれて元禄げんろく11ねん1698ねん落慶らっけい現在げんざい上野公園うえのこうえんだい噴水ふんすいのあたりにあり、重層じゅうそう入母屋いりもやづくり間口まぐち45.5メートル、奥行おくゆき42メートル、たかさ32メートルという壮大そうだい規模きぼ仏堂ぶつどうであった。中堂なかどうまえには方形ほうけい回廊かいろうをめぐらし、正面しょうめんからもんもうけていた。
  • ほんぼう - 根本中堂こんぽんちゅうどううら現在げんざい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん敷地しきちにあった。前述ぜんじゅつのとおり、正門せいもんのみが上野うえの戦争せんそうのこり、しばらくは博物館はくぶつかん正門せいもんとして使用しようされていたが、その博物館はくぶつかんひがしはなわ王寺おうじ移築いちくされている。博物館はくぶつかん本館ほんかんうら日本にっぽん庭園ていえん寛永かんえい寺本てらもとぼう庭園ていえん名残なごりである。
  • 法華ほっけどう常行つねゆきどう - 入母屋いりもやづくり同形どうけい仏堂ぶつどう2むね左右さゆうならべ、そのあいだ屋根やねきのこう廊下ろうかつないだもので、参詣さんけいしゃこう廊下ろうかしたをくぐって根本中堂こんぽんちゅうどうかった。寛永かんえい4ねん(1627ねん)、紀州きしゅうはんおも徳川とくがわ頼宣よりのぶ尾張おわりはんおも徳川とくがわ義直よしなお寄進きしん建立こんりゅうされたものである。寛永かんえいえがいた『江戸えど屏風びょうぶ』には中堂なかどう位置いちにある。
  • 文殊もんじゅろう - 入母屋いりもやづくり重層じゅうそうもん寛永かんえい4ねん(1627ねん建立こんりゅう仁王門におうもん貞享ていきょう2ねん(1688ねん焼失しょうしつしたのち元禄げんろく10ねん(1697ねん)にてられたが、上野うえの戦争せんそう焼失しょうしつした。
  • 黒門くろもん - かつての総門そうもん現在げんざい上野公園うえのこうえん入口いりくちから噴水ふんすい広場ひろばいたひろみち途中とちゅう清水しみず観音堂かんのんどうしたあたりにあったもので、簡素かんそ冠木門かぶきもんであった。幕末ばくまつ上野うえの戦争せんそうにはのこったが、1907ねん明治めいじ40ねん)、東京とうきょう荒川あらかわ円通寺えんつうじ移築いちくされ、同所どうしょ現存げんそんする。あきらたい戦士せんし遺骸いがい円通寺えんつうじほうむられたえん移築いちくされたもので、もんには上野うえの戦争せんそうとき弾痕だんこん多数たすうのこる。なお、現在げんざい清水しみず観音堂かんのんどうちかくにあるくろもん復元ふくげんされたものである(すんでじゅつきゅうほんぼう表門おもてもんくろもん通称つうしょうされるが別個べっこもんである。)。

現在げんざいは、以下いかの19かいん

  • 真如しんにょいん
  • かんまついん
  • はやしひかりいん
  • 吉祥院きっしょういん
  • いずみりゅういん
  • おさむぜんいん
  • げんりゅういん
  • 見明みみょういん
  • ぶく聚院
  • もとさとしいん
  • もとひかりいん
  • 東漸とうぜんいん
  • さとしなりいん
  • はるせいいん
  • とうさとしいん

以上いじょう15かいんは、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん東側ひがしがわ所在しょざい

  • やしなえ寿ことぶきいん寛永寺かんえいじ本堂ほんどう裏手うらて
  • はりいん寛永寺かんえいじ本堂ほんどう裏手うらて
  • えんたまいん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ西側にしがわ
  • 護国ごこくいん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく美術びじゅつ学部がくぶ隣接りんせつ
    • 1927ねん昭和しょうわ2ねん)、東京とうきょう市立しりつちゅう旧制きゅうせいだい東京とうきょう市立しりつ中学校ちゅうがっこう現在げんざい東京都立上野高等学校とうきょうとりつうえのこうとうがっこう)の創立そうりつにあたり護国ごこくいん境内けいだい大半たいはん東京とうきょう市立しりつちゅう譲渡じょうと

徳川とくがわ霊廟れいびょう

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東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん裏手うらて寛永寺かんえいじ墓地ぼちには、徳川とくがわ将軍しょうぐん15にんのうち6にん家綱いえつな綱吉つなよしよしはじめ家治いえはる家斉いえなり家定いえさだ)がねむっている。いむゆういん家綱いえつな霊廟れいびょう常憲つねのりいん綱吉つなよし霊廟れいびょう建築けんちくぶつぐんは、東京とうきょう観光かんこう名所めいしょとしてられきゅう国宝こくほう指定していされていた貴重きちょう歴史れきしてき建造けんぞうぶつであったが、昭和しょうわ20ねん(1945ねん)の空襲くうしゅうだい部分ぶぶん焼失しょうしつのこった以下いか建造けんぞうぶつ現在げんざい重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

  • いむゆういん霊廟れいびょう勅額ちょくがくもんどう水盤すいばんしゃどうおくいんとうもんどうおくいん宝塔ほうとう
  • 常憲つねのりいん霊廟れいびょう勅額ちょくがくもんどう水盤すいばんしゃどうおくいんとうもんどうおくいん宝塔ほうとう

渋沢しぶさわれいどう

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渋沢しぶさわれいどうは、渋沢しぶさわ栄一えいいち前妻ぜんさい千代ちよの17回忌かいきにあわせててられたとつたえられている。れいどう一般いっぱん公開こうかいされていない。

いずれも寛永寺かんえいじ霊園れいえんないにあり(いむゆういん霊廟れいびょう勅額ちょくがくもんそと道路どうろからることができる)、通常つうじょう一般いっぱん公開こうかいされていないが、5めい以上いじょう団体だんたいかぎ予約よやくせい毎月まいつき3日間にちかん程度ていど公開こうかいされている[5]。また台東たいとう区役所くやくしょ主催しゅさいする特別とくべつ公開こうかい毎年まいとしあきに1にちだけおこなわれている[6]

文化財ぶんかざい

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上野うえの恩賜おんし公園こうえんない清水しみず観音堂かんのんどう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 清水しみずどう清水しみず観音堂かんのんどう
  • きゅうほんぼう表門おもてもんはなわ王寺おうじ所在しょざい
  • いむゆういん霊廟れいびょう(※しるし物件ぶっけん寛永寺かんえいじでなく個人こじん所有しょゆう
    • 勅額ちょくがくもん
    • 水盤すいばんしゃ  
    • おくいんとうもんどうづくり) 
    • おくいん宝塔ほうとうどうづくり
    • :浚明いん宝塔ほうとうぶんきょういん宝塔ほうとうかく石造せきぞう
  • 常憲つねのりいん霊廟れいびょう(※しるし物件ぶっけん寛永寺かんえいじでなく個人こじん所有しょゆう
    • 勅額ちょくがくもん
    • 水盤すいばんしゃ
    • おくいんとうもんどうづくり
    • おくいん宝塔ほうとうどうづくり
    • :有徳うとくいん宝塔ほうとうこうきょういん宝塔ほうとうあつしきょういん宝塔ほうとう天璋院てんしょういん宝塔ほうとうかく石造せきぞう
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい及両わき侍立じりつぞう - 本堂ほんどう根本中堂こんぽんちゅうどう)に安置あんちする秘仏ひぶつ本尊ほんぞん薬師くすしさん尊像そんぞうちゅうみことふくめ、3たいとも立像りつぞうであるてんめずらしい。ちゅうみことりょうわきさむらい伝来でんらいべつにしており、ちゅうみこと滋賀しがけん石津いしづてらから、りょうわきさむらい山形やまがたけん立石寺りっしゃくじからうつされたもので、寛永寺かんえいじ創建そうけんよりふる平安へいあん時代じだいさくである。本堂ほんどうない非公開ひこうかいで、夏場なつば檀家だんか相手あいてに1にちだけひらけとびらするだけなので、一般いっぱん拝観はいかんはできない(薬師くすしさん尊像そんぞう2006ねん3月28にち - 5月7にち東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた特別とくべつてん最澄さいちょう天台てんだい国宝こくほう」に出展しゅってんされ、はじめて一般いっぱん公開こうかいされた)。
  • 絹本けんぽんちょしょくりょうさかい曼荼羅まんだら東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 天海あまみ版木はんぎ活字かつじ 264,688箇 - 開山かいさん天海あまみ刊行かんこうした「天海てんかいばん一切経いっさいきょう」の印刷いんさつ使つかわれたもの。2003ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい
  • きゅう寛永寺かんえいじ五重塔ごじゅうのとう所有しょゆうしゃ東京とうきょう恩賜おんし上野動物園うえのどうぶつえん構内こうない所在しょざい

登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 渋沢しぶさわれいどう - 1898ねん建立こんりゅう[7]
  • 根本中堂こんぽんちゅうどう
  • あおいあいだ
  • さんがく 昭和しょうわ42ねん5がつ 下平しもだいら和夫かずお奉納ほうのう非公開ひこうかい

交通こうつう

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関連かんれん文献ぶんけん

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  • 浦井うらい正明まさあき上野寛永寺うえのかんえいじ将軍家しょうぐんけ葬儀そうぎ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん
  • 浦井うらい正明まさあき『「上野うえの時空じくう遊行ゆぎょう』(プレジデントしゃ、2002ねん
    著者ちょしゃ寛永寺かんえいじ執事しつじちょういんげんりゅういん住職じゅうしょく寛永寺かんえいじおよ上野うえの歴史れきし研究けんきゅうしゃ
  • 坂谷さかたにとおるねん江戸えど北極星ほっきょくせい信仰しんこう」(『歴史れきし読本とくほん』59かん9ごう、2014ねん)242-243ぺーじ
  • 坂谷さかたにとおるねん地理ちり情報じょうほうサイトで検証けんしょう」(『月刊げっかん地理ちり』748ごう、2017ねん)112-113ぺーじ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ それまでのやく70年間ねんかんほんぼう根本中堂こんぽんちゅうどう代用だいようだった。
  2. ^ 徳川とくがわ将軍しょうぐん15めいのうち、家康いえやす家光いえみつ慶喜よしのぶのぞのこり12めいは、寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじに6めいずつほうむられている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 特別とくべつてん図録ずろく 『創建そうけんさんろくねん記念きねん 上野寛永寺うえのかんえいじてん』、日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1985ねん
  • 根岸ねぎし鎮衛 『みみ (ぜん3かん)』 長谷川はせがわつよしこうちゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ、1991ねん。 - 江戸えど時代じだい随筆ずいひつ寛永寺かんえいじについての逸話いつわおさむむ。
  • 斎藤さいとうちょうあき へんまき たま衡之 ひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじ」『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』 3かん有朋ありともどう書店しょてん有朋ありともどう文庫ぶんこ〉、1927ねん、218-219,224-260ぺーじNDLJP:1174157/114 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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