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刀狩 - Wikipedia

かたなかり

武士ぶし軍人ぐんじん以外いがいから、かたな没収ぼっしゅうすること。

かたなかり(かたながり、かたな)は、日本にっぽん歴史れきしにおいて、武士ぶし以外いがい僧侶そうりょ農民のうみんなどに、武器ぶき所有しょゆう放棄ほうきさせた政策せいさくである。

鎌倉かまくら時代ときよ1228ねん安貞やすさだ2ねん)に、だい3だい執権しっけん北条ほうじょうやすしとき高野山こうのやま僧侶そうりょたいしてったものが、日本にっぽん記録きろくじょうはつみる[1]のち1242ねんじん3ねん)には、鎌倉かまくら市中しちゅうない僧侶そうりょとその従者じゅうしゃ稚児ちご中間ちゅうかん寺侍てらざむらいちからしゃなど)に帯刀たいとう禁止きんしする腰刀こしがたな停止ていしれいし、違反いはんしゃ刀剣とうけん没収ぼっしゅう大仏だいぶつ寄付きふするとした[2]。また1250ねんけんちょう2ねん)にだい5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆき範囲はんい拡大かくだいし、市中しちゅう庶民しょみん帯刀たいとう総員そういん夜間やかん弓矢ゆみや所持しょじ禁止きんしした(『吾妻あづまきょう』)[3]

戦国せんごく時代じだいにはしょ大名だいみょうによっておこなわれている[1]天下てんか統一とういつしつつあった豊臣とよとみ秀吉ひでよし安土あづち桃山ももやま時代じだい1588ねん8がつ29にち天正てんしょう16ねん7がつ8にち)に布告ふこくしたかたなかりれい同時どうじ海賊かいぞく停止ていしれい)がとくられており、全国ぜんこく単位たんいへいのう分離ぶんりすすめた政策せいさくとなった。

柴田しばた勝家かついえも、1575ねんから翌年よくねんにかけて越前えちぜんこく一向いっこう一揆いっき鎮圧ちんあつのために武器ぶき奨励しょうれい没収ぼっしゅうおこなったことがある(後述こうじゅつ)。

かたな神聖しんせい習俗しゅうぞくかたなかり

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かたなは、神聖しんせいされて神社じんじゃ神体しんたいとなったり信仰しんこう対象たいしょうともなった。一般いっぱんてき通念つうねんちがい、騎馬きばじょうかたなやりるうことはく、騎馬きば白兵戦はくへいせんかった[4]。14世紀せいき一時いちじ騎馬きばでのかたなせんおこなわれたが、小型こがた日本にっぽん馬上まけではむずかしくうまきずつきやすいので、すぐにうまからりてたたかうようになった。戦傷せんしょうきずがほとんどで、中心ちゅうしんせんでの遠距離えんきょりせんだった。くびるための近接きんせつ戦闘せんとう場合ばあいかたなせんとなり、これが日本にっぽん合戦かっせん白兵戦はくへいせん中心ちゅうしんだとのイメージとしてつたわった[5]。しかし、前線ぜんせんでもあくまで騎馬きばゆみへい中心ちゅうしんで、かたな本来ほんらい戦闘せんとうでの主役しゅやくではなかった。だが、はやくから武士ぶしにとってかたなたけ象徴しょうちょうとされ、織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすも、戦力せんりょく現実げんじつ使用しようえて名刀めいとうあつめていた。後述こうじゅつのように500まんほんものかたな太平洋戦争たいへいようせんそうのち存在そんざいしたことは、かたな精神せいしんせいびたものでたんなる武器ぶきかったことをあらわ[4]

そして16世紀せいきには、近畿きんき関東かんとう庶民しょみんにも15さい成人せいじんいわいを「かたなゆび」とんで脇差わきざしびることが習俗しゅうぞくとなっていた。柳田やなぎだ國男くにおの「日本にっぽん農民のうみん」によると、日向ひなた椎葉しいばむらでは「おとな百姓ひゃくしょう」のいえむらの3ぶんの1にのぼり、名字みょうじもあり帯刀たいとうするべつ階級かいきゅうで、農業のうぎょうの「小百姓こびゃくしょう」にまかせて、たえず戦争せんそう参加さんか武者むしゃおこなっていた。関東かんとうでもこう北条ほうじょう動員どういんれいでは「さむらい上層じょうそう農民のうみん)」でも「凡下ぼんげ((一般いっぱん農民のうみん)」でもゆみやり鉄砲てっぽう自弁じべんで、むら武装ぶそう参戦さんせん可能かのう当然とうぜんとしている[6]ルイス・フロイスは『日本にっぽん』で、 ぶんろく2ねん(1593ねん)の九州きゅうしゅうにおける豊臣とよとみ政権せいけんによるかたなかり記事きじで「日本にっぽんでは今日きょうまでの習慣しゅうかんとして、農民のうみんはじめとしてすべてのものがある年齢ねんれいたっすると」大小だいしょうかたな帯刀たいとうし、かたな脇差わきざしおもんじていて、げられるのをかなしんだ、と記述きじゅつしている[7]。また中世ちゅうせい近世きんせいで、農民のうみんこし指物さしもの不可侵ふかしんで、中世ちゅうせい以後いご16世紀せいきや17世紀せいきむらあらそいでも相手あいて脇差わきざしうばうことは重大じゅうだい犯罪はんざいとされた。中世ちゅうせい以来いらいかたな農民のうみんにとって武装ぶそうけんとともに成人せいじん男性だんせい人格じんかく名誉めいよ象徴しょうちょうであり、かたなかりはそれをうばうということでおおきな問題もんだいだった[6]

柴田しばた勝家かついえ越前えちぜんがたな行政ぎょうせい

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柴田しばた勝家かついえ農民のうみんかたな武装ぶそうたいする行政ぎょうせいは、豊臣とよとみ政権せいけんかたなかりとは意図いと内容ないようことにしており、寺社じしゃ農民のうみん武装ぶそう前提ぜんていに、寺社じしゃ門徒もんと中心ちゅうしん武器ぶき増減ぞうげんおこない、はん本願寺ほんがんじ織田おだえんしゃ武力ぶりょくたかめ、もと一揆いっきがわかたな減少げんしょうさせることで地域ちいき区別くべつ明確めいかくにさせるとともに、もと一揆いっきがわちからごうとしている。越前えちぜん一向いっこう一揆いっきそう大将たいしょう事実じじつじょう守護しゅごしもあいだ頼照よりてる織田おだぐんめ、落城らくじょうさい逃亡とうぼうするところを発見はっけんったはん本願寺ほんがんじ真宗しんしゅう高田たかだ寺院じいん門徒もんとたいしては、ぎゃく武装ぶそう奨励しょうれいしている。1575ねん天正てんしょう3ねん)10がつ真宗しんしゅう高田たかだ坂井さかいぐん黒目くろめ称名寺しょうみょうじに、門徒もんと地域ちいき黒目くろめむら4むら腰刀こしがたな武具ぶぐでの武装ぶそうめいじ、よく1576ねん天正てんしょう4ねん)5がつには同派どうは専修寺せんしゅうじ門徒もんとにも同様どうようの「へいそなえて忠節ちゅうせつくすよう」指令しれいしている。どう時期じき同派どうは大野おおのぐん折立おりたち称名寺しょうみょうじには、よりみ「購入こうにゅうしてでも帯刀たいとうするよう」指示しじしている。

その一方いっぽうで、総員そういん13まん8せん余人よにん越前えちぜん一揆いっきのうち丹生にゅうぐん越前えちぜん海岸かいがんやく3まん5せんにんしたが[8]同年どうねん天正てんしょう4ねん)1がつ丹生にゅうぐん織田おだ寺社じしゃ関係かんけいしゃたいして、知行ちぎょうによりかたな数量すうりょうめて提出ていしゅつさせる指令しれいした。寺社じしゃは、知行ちぎょうたいするやくととらえ、以前いぜんより知行ちぎょうだかたいするもろやく免除めんじょされていることを理由りゆう免除めんじょねがっている。

そのなかで、信長のぶなが先祖せんぞ神官しんかん氏神うじがみ関係かんけいふか織田おだ神社じんじゃへは対応たいおうちがい、りょう安堵あんど文書ぶんしょに、神社じんじゃ関係かんけいしゃに「かたなさらへ」を免除めんじょするとした。これは後代こうだいに、江戸えど時代じだい元禄げんろくさくの『明智あけち軍記ぐんき』に壮大そうだい誇張こちょうしてかれ「九頭竜川くずりゅうがわに、かたなかり刀剣とうけんかしくさりつく船橋ふなばしわたした」という「船橋ふなばし伝説でんせつ」や「農具のうぐ製作せいさくした」などの説話せつわ創作そうさくされ、柴田しばた神社じんじゃくさり展示てんじされるが、根拠こんきょ[9][10]。(以上いじょう本節ほんぶし[11]

豊臣とよとみかたなかりれい

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現在げんざい方広寺ほうこうじ本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ座像ざぞう往時おうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)の1/10のおおきさのぞうつたわる。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしが1588ねん天正てんしょう16ねん)にはっしたかたなかりれいつぎの3かじょうからなる。

  • だい1じょう 百姓ひゃくしょうかたな脇差わきざしゆみやり鉄砲てっぽうなどの武器ぶきつことをかたきんじる。よけいな武器ぶきをもって年貢ねんぐおこたったり、一揆いっきをおこしたりして役人やくにんうことをかないものばっする。
  • だい2じょう げた武器ぶきは、いまつくっている方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)のくぎや、かすがいにする。そうすれば、百姓ひゃくしょうはあのまですくわれる。
  • だい3じょう 百姓ひゃくしょう農具のうぐだけをって耕作こうさくはげめば、子孫しそん代々だいだいまで無事ぶじくれせる。百姓ひゃくしょうあいするから武器ぶきげるのだ。ありがたくおもって耕作こうさくはげめ。

このかたなれい発給はっきゅうは、実質じっしつ九州きゅうしゅう諸侯しょこう淡路あわじこく加藤かとう嘉明よしあきなどの近侍きんじ大名だいみょう武将ぶしょう一部いちぶ畿内きない近国きんごく主要しゅよう寺社じしゃかぎられる。だが、豊臣とよとみ政権せいけん法令ほうれいは、天正てんしょう18ねん(1590ねん)8がつ10日とおかこう北条ほうじょう殲滅せんめつ奥州おうしゅう仕置しおきしょ政策せいさく総覧そうらん確認かくにんのための石田いしだ三成みつなりあて朱印しゅいんじょうでは、かたなりで「かたなるいじゅう百姓ひゃくしょう所持しょじ日本にっぽん全国ぜんこく禁止きんし没収ぼっしゅうした、今後こんご出羽でわ奥州おうしゅう両国りょうこく同様どうようめいじる」とされ、秀吉ひでよしは、基本きほんてき法令ほうれいふく全国ぜんこく諸侯しょこうにはさないが、一度いちど発布はっぷした法令ほうれい全国ぜんこく適用てきようし、どこの大名だいみょうかく地域ちいき拘束こうそくするものととらえていた[13]

秀吉ひでよしは、関白かんぱく就任しゅうにん3かげつまえ1585ねん天正てんしょう13ねん)3がつから4がつ根来ねごろしゅう雑賀さいか一揆いっき制圧せいあつせんで、せん参加さんか百姓ひゃくしょう武装ぶそう解除かいじょ前提ぜんてい助命じょめい耕作こうさく専念せんねんいる、だい1じょうだい3じょう類似るいじする指令しれいして、すでに政策せいさく原型げんけいはできており、歴史れきし藤木ふじき久志ひさしから「はらがたなかりれい」と名付なづけられている[14]同年どうねん6がつにも高野山こうのやま僧侶そうりょたいして同様どうよう武装ぶそう放棄ほうき仏事ぶつじ専念せんねん指令しれいし、10月実行じっこうさせた。

多聞たもんいん日記にっき』などでは、政策せいさくしゅ目的もくてき一揆いっき盟約めいやくによる政治せいじ共同きょうどうたい)の防止ぼうしであったとしるされている。当時とうじ百姓ひゃくしょう身分みぶん自治じち組織そしきであるそうむら膨大ぼうだい武器ぶき所有しょゆうしており、相互そうごに「一揆いっき」の盟約めいやくむすんで団結だんけつし、領主りょうしゅ支配しはいたいしておおきな抵抗ていこうりょく存在そんざいだった。

ルイス・フロイスの『日本にっぽん』によると、かたなかり先立さきだ1587ねん天正てんしょう15ねん)にバテレン追放ついほうれいされた肥前ひぜんこく佐賀さがけん長崎ながさきけん)では、武装ぶそう蜂起ほうきそな武器ぶきかくすのをふせぐために、かたな鑑定かんてい刀匠とうしょう派遣はけんし「名刀めいとういにこと」を宣伝せんでんし、自慢じまんかたな価値かちろうとあつまった村人むらびとたちに、刀匠とうしょうぬしめい記録きろく作成さくせいし、その記録きろくもとかたなかりれい交付こうふ100にんちか役人やくにん投入とうにゅうし16000ほんかたな没収ぼっしゅうした。

ただ実際じっさいには、そのやり弓矢ゆみやがいじゅう駆除くじょのための鉄砲てっぽう祭祀さいしもちいる武具ぶぐなどは所持しょじ許可きょかされていたともいわれている。そもそも秀吉ひでよしかたなかりれい全面ぜんめんてき武装ぶそう解除かいじょおこなうものではなく、農村のうそん大量たいりょう武器ぶき存在そんざいする事実じじつ承認しょうにんしつつ、むら百姓ひゃくしょう武装ぶそうけん行使こうし封印ふういんするようもとめる趣旨しゅしのものであったとする研究けんきゅうがなされている[15]かたなりは、1人ひとりたり大小だいしょう1こしせという実行じっこう形態けいたいおおいし、調しらべののちすぐに所持しょじ許可きょかされたれいおおく、中世ちゅうせい農民のうみん帯刀たいとうけんをはくだつする象徴しょうちょうてき意味いみおこなわれたとおもわれ、これにより百姓ひゃくしょう帯刀たいとう免許めんきょせいにするという建前たてまえつくりだすことに重点じゅうてんがあった。そのため、かたなかりおおくは武家ぶけがわむらむのではなくむらまかせで実行じっこうされたケースがおお[16]

秀吉ひでよしは、かたなかり先行せんこうして、1587ねん天正てんしょう15ねん)ごろ、武器ぶき使用しようによるむら紛争ふんそう解決かいけつ全国ぜんこくてき禁止きんしした(喧嘩けんか停止ていしれい)。それまでの日本にっぽんではおおくの一般いっぱん民衆みんしゅう武器ぶき所持しょじしており、とく成人せいじん男性だんせい帯刀たいとう一般いっぱんてきであった。また、近隣きんりんあいだ水利すいり里山さとやま草地くさじなどの権利けんりや、些細ささいなトラブルでさえ暴力ぼうりょくによって解決かいけつされる傾向けいこうにあったがそれらを防止ぼうしした[17]。この施策しさく江戸えど幕府ばくふにも継承けいしょうされた[18]

さらに、天下てんか統一とういつ1590ねん天正てんしょう18ねん)「浪人ろうにん停止ていしれい」で、農村のうそんない武家ぶけつかえるさだまった奉公人ほうこうにん以外いがい雑兵ぞうひょう農民のうみん禁止きんしむらから指令しれいしたが、そのだい3じょう奉公人ほうこうにん以外いがい百姓ひゃくしょうから武装ぶそうげるように指示しじした。一方いっぽう武家ぶけ奉公人ほうこうにん農村のうそんないでの武器ぶき所持しょじ例外れいがいとしてみとめていた。

以上いじょうのことから、秀吉ひでよしかたなかりれい百姓ひゃくしょう身分みぶん武装ぶそう解除かいじょ目指めざしたものではなく、農村のうそんない武器ぶき存在そんざい前提ぜんていとしながら、百姓ひゃくしょう身分みぶんから帯刀たいとうけんうばい、その武器ぶき使用しよう規制きせいするというへいのう分離ぶんり目的もくてきとしたものであったとする学説がくせつ現在げんざいでは有力ゆうりょくである[19]。そもそも当時とうじ厳格げんかく身分みぶん制度せいど確立かくりつしておらず、武士ぶし一般いっぱん民衆みんしゅう区別くべつ存在そんざいしない。そうむら有力ゆうりょくしゃおおくが国人くにびと領主りょうしゅ主従しゅうじゅう関係かんけいむすんでさむらいになっており、当時とうじ一揆いっきは、農民のうみん蜂起ほうきとも、武士ぶしによる叛乱はんらんとも区別くべつがつきにくいものである。その区別くべつまれたのが、かたなかりれい以降いこうである。

江戸えど時代じだいかたなかり展開てんかい

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のち江戸えど時代じだいには長州ちょうしゅうはんなど帯刀たいとう免許めんきょせいくずれた地域ちいきもあり、地方ちほうにより規制きせい強弱きょうじゃくられ、江戸えど幕府ばくふ当初とうしょには銃刀じゅうとう規制きせい積極せっきょくてきではなかった。天草てんぐさ島原しまばら一揆いっきに、危機ききかんつのらせた肥後ひごはん細川ほそかわ忠利ただとしの「全国ぜんこくへの武具ぶぐげ」のたびたびの老中ろうじゅうへの提言ていげんにもうごかなかった。ぎゃくに、天草あまくさ一揆いっき天草てんぐさはん国替くにがえになった山崎やまざき家治いえはるぜん領主りょうしゅあつめていた一揆いっきかたおおくの武器ぶきかたな脇差わきざし1450ほん鉄砲てっぽう324ていすべてをまくかく承認しょうにんて、もとむらない返却へんきゃくしている。江戸えど町民ちょうみん長刀ちょうとう長脇差ながわきざし以外いがい一般いっぱんの1しゃく8すんやく54cm)までの脇差わきざし装備そうびは1720ねんとおる5ねん)でも布令ふれいくとも慣習かんしゅうとしておこなわれていた。そして1683ねんまでは、旅立たびだち・火事かじ葬礼そうれい町民ちょうみん帯刀たいとう二本差にほんざしも許容きょようされていた。しかし、「文治ぶんじ政治せいじ」の導入どうにゅうともなって、17世紀せいき後半こうはんふたた帯刀たいとう規制きせいした。1668ねん寛文ひろふみ8ねん江戸えど御用ごよう町人ちょうにん以外いがい日常にちじょう帯刀たいとう禁止きんしし、のち1683ねん天和てんわ3ねん)に江戸えど町民ちょうみんすべての帯刀たいとう禁止きんしして、それは全国ぜんこくてき拡大かくだいしていき17世紀せいきまつにはくにちゅうひろがった。ただし18世紀せいきでも山城やましろ地方ちほうなどむらあたま神主かんぬし日常にちじょう戦国せんごく時代じだい以来いらいさとさむらいいえ祭礼さいれい帯刀たいとうみとめたれいはある。しかし、百姓ひゃくしょう日常にちじょう帯刀たいとうみとめないという秀吉ひでよしかたなりの原則げんそく貫徹かんてつしていたが、やがてゆたかになった百姓ひゃくしょうによりかね帯刀たいとうけんえるようになり帯刀たいとうしゃえていき原則げんそく一部いちぶくずれていく。だが、二本差にほんざ帯刀たいとう身分みぶん表象ひょうしょうであることはのこる。しかし、農村のうそん町民ちょうみんにはたくわえられた膨大ぼうだい武器ぶきがあった[20]

徳川とくがわ綱吉つなよし治世ちせいおこなわれたしょ国鉄こくてつほうあらためでは、むらによってかなりのばらつきがあるものの、領内りょうない百姓ひゃくしょう所持しょじ鉄砲てっぽうすう武士ぶし鉄砲てっぽうすうをはるかに上回うわまわるようなはんおおくあった[21][22]

ただし内戦ないせん状態じょうたい解消かいしょうして安定あんてい状態じょうたいがもたらされた江戸えど時代じだいには、一揆いっききても鉄砲てっぽう弓矢ゆみやといった道具どうぐしは19世紀せいき前半ぜんはん幕末ばくまつになるまでは自粛じしゅくされており、統治とうちしゃ民衆みんしゅうあいだ一定いってい妥協だきょう成立せいりつしていた[23]

近代きんだい以後いごかたなじゅう規制きせい

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明治めいじ時代じだいには近代きんだい国家こっか目指めざした規制きせいがされ、士族しぞくふくめた国民こくみん公然こうぜんとした帯刀たいとうきんずる廃刀はいとうれいされる。だが没収ぼっしゅう所有しょゆうきんじたものではなかった。だい礼服れいふく着用ちゃくよう軍人ぐんじん警察けいさつ官吏かんり勤務きんむちゅう制服せいふく着用ちゃくようのみ身分みぶん表象ひょうしょうとして帯刀たいとうゆるした。じゅうについては1872ねん明治めいじ5ねん銃砲じゅうほう取締とりしまり規則きそく制定せいていして免許めんきょしたじゅう以外いがい所有しょゆうきんじた[24]

国民こくみん所有しょゆうされる膨大ぼうだい武器ぶきおおきく削減さくげんするのは、太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんの、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい占領せんりょう政策せいさくによる。1946ねん昭和しょうわ21ねん)に「銃砲じゅうほうとう所持しょじ禁止きんしれい」が施行しこうされ、狩猟しゅりょうよう射撃しゃげき競技きょうぎよう以外いがい銃器じゅうきるいと、美術びじゅつよう以外いがい日本にっぽんがたな所持しょじすることができなくなった。これらは没収ぼっしゅう保管ほかん場所ばしょから「赤羽あかはねがたな」とも通称つうしょうされ、これにより300まんもの刀剣とうけん没収ぼっしゅうされたと文化庁ぶんかちょうべた。没収ぼっしゅう喪失そうしつしたなかには占領せんりょうぐんおそれてやみくもにされた名刀めいとうおおふくまれた。また「GHQ金属きんぞく探知たんちさがしにくる」という流言りゅうげんから、所有しょゆうしゃ刀剣とうけん損壊そんかい廃棄はいきしたり、隠匿いんとくにより結果けっか腐朽ふきゅうさせてしまったりした。それまでの銃刀じゅうとう所有しょゆう世帯せたいへの政策せいさく占領せんりょう終結しゅうけつもほぼつづおこなわれ、禁止きんしれいあらためられた銃砲じゅうほう刀剣とうけんるい所持しょじとう取締とりしまりほうによる許可きょか登録とうろくせい治安ちあん重点じゅうてんとした対策たいさくとなった。警察けいさつにより、一層いっそう武器ぶき取締とりしまりがきびしくなったが、1999ねん平成へいせい11ねん)の段階だんかい銃刀じゅうとうほうによる登録とうろくは、かたなは231まん2せんほん銃器じゅうきは6まん8せんていのぼる。太平洋戦争たいへいようせんそうまえ国民こくみん所有しょゆうするかたなけいやく500まんほんであり、敗戦はいせん直後ちょくごには1500まん世帯せたいだったので戦前せんぜんには平均へいきん3けんに1けんかたな所有しょゆうして身辺しんぺん存在そんざいしていたことになり、明治めいじ時代じだいかたなりが武装ぶそう解除かいじょではなかった象徴しょうちょうえる[25]。その犯罪はんざい対策たいさくで、とく銃器じゅうき関連かんれんきびしくなり所持しょじするには通常つうじょうすくなくともすうげつ期間きかん審査しんさけることが必要ひつようとなった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これ以前いぜん中世ちゅうせい社会しゃかいでは、かたなふつにささげる宗教しゅうきょう行為こうい一般いっぱんしており、前述ぜんじゅつした北条ほうじょうやすし僧侶そうりょ従者じゅうしゃ腰刀こしがたな禁止きんしさいや、1185ねん文治ぶんじ元年がんねん奈良なら大仏だいぶつ鎌倉かまくら再建さいけん開眼かいがん供養くようかいでも境内けいだい熱狂ねっきょうした庶民しょみん貴重きちょうひんだったこしかたな舞台ぶたいささげている[12]

出典しゅってん

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  1. ^ a b かたなり」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん
  2. ^ 藤木ふじき久志ひさしかたなかりれい」『日本にっぽんだい事典じてん』 2かん平凡社へいぼんしゃ、1993ねん 
  3. ^ 鈴木すずき 2000, p. 65.
  4. ^ a b 鈴木すずき 2000, pp. 20–54.
  5. ^ 高橋たかはし昌明まさあき武士ぶし日本にっぽん』2018ねん、p.135-137<岩波いわなみ新書しんしょ>
  6. ^ a b 藤木ふじき 2005, pp. 25–38.
  7. ^ ルイス・フロイス ちょ松田まつだ毅一きいち;川崎かわさきももたい やく完訳かんやくフロイス日本にっぽん』 12かん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、182ぺーじ 
  8. ^ だいせつ 織田おだ大名だいみょう 一向いっこう一揆いっき越前えちぜん支配しはい こくちゅう一揆いっき蜂起ほうき」『福井ふくいけん 通史つうしへん3 近世きんせい1』1982ねんhttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-02-01.htm 
  9. ^ かたなかりコトバンク
  10. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 45–47.
  11. ^ だいせつ 織田おだ大名だいみょういち 柴田しばた勝家かついえ越前えちぜん支配しはいかたなさらえ」」『福井ふくいけん 通史つうしへん3 近世きんせい1』1982ねんhttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-04.htm 
  12. ^ 五味ごみ文彦ふみひこ大仏だいぶつ再建さいけん中世ちゅうせい民衆みんしゅう熱狂ねっきょう』〈講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉1995ねん 
  13. ^ 山本やまもと博文ひろぶみだい3しょう がたなれい秀吉ひでよし法令ほうれい特質とくしつ」『された秀吉ひでよし真実しんじつ徳川とくがわ史観しかんえて』柏書房かしわしょぼう、2011ねん、94 , 110 , 111-118ぺーじぺーじ 
  14. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 56–57.
  15. ^ 名古屋大学なごやだいがく附属ふぞく図書館としょかん2006ねん春季しゅんき特別とくべつてん地獄じごく物語ものがたり」の世界せかい江戸えど時代じだいほう刑罰けいばつ図録ずろくガイド”. 名古屋大学なごやだいがく附属ふぞく図書館としょかん. 2021ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  16. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 79–87.
  17. ^ 藤木ふじき 2005, p. 119.
  18. ^ 藤木ふじき 2005, p. 127.
  19. ^ 藤木ふじき 2005.
  20. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 134–160.
  21. ^ 塚本つかもとまなぶ生類しょうるいをめぐる政治せいじ』〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉2013ねん、12-14ぺーじ 
  22. ^ 渡辺わたなべ尚志ひさし百姓ひゃくしょうたちの幕末ばくまつ維新いしんくさおもえしゃ、2012ねん、194-196ぺーじ 
  23. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 173–183.
  24. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 186–208.
  25. ^ 藤木ふじき 2005, pp. 208–222.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鈴木すずき眞哉しんやかたなくび戦国せんごく合戦かっせん異説いせつ』〈平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ〉2000ねんISBN 4-582-85036-7                      
  • 藤木ふじき久志ひさしかたな武器ぶき封印ふういんした民衆みんしゅう』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2005ねんISBN 4-00-430965-4                       

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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