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石山本願寺 - Wikipedia

石山いしやま本願寺ほんがんじ

大阪おおさかにあった寺院じいん

石山いしやま本願寺ほんがんじ(いしやまほんがんじ)は、戦国せんごく時代じだい初期しょきから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけて、摂津せっつこく東成ひがしなりぐん生玉いくたまそう大坂おおさか[注釈ちゅうしゃく 1]にあった浄土真宗じょうどしんしゅう寺院じいんである[1]。なお、名称めいしょうかんしては、大坂本願寺おおさかほんがんじ大坂おおさかじょうなど、様々さまざませつがある。

石山いしやま本願寺ほんがんじ
石山いしやま本願寺ほんがんじ復興ふっこう模型もけい
大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかく所蔵しょぞう
所在地しょざいち 摂津せっつこく東成ひがしなりぐん生玉いくたまそう大坂おおさか[注釈ちゅうしゃく 1]
位置いち 北緯ほくい3441ふん4.427びょう 東経とうけい13531ふん27.922びょう / 北緯ほくい34.68456306 東経とうけい135.52442278 / 34.68456306; 135.52442278座標ざひょう: 北緯ほくい3441ふん4.427びょう 東経とうけい13531ふん27.922びょう / 北緯ほくい34.68456306 東経とうけい135.52442278 / 34.68456306; 135.52442278
宗旨しゅうし 浄土真宗じょうどしんしゅう
宗派しゅうは 本願寺ほんがんじけい諸派しょは
寺格じかく 本山もとやま
本尊ほんぞん 阿弥陀如来あみだにょらい
創建そうけんねん 天文てんもん2ねん1533ねん
開基かいき あかし
別称べっしょう 大坂本願寺おおさかほんがんじ
石山いしやま本願寺ほんがんじじょう
大坂おおさか御坊ごぼう
石山いしやま御坊ごぼう
地図
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本願寺ほんがんじ比較ひかくしたさい特徴とくちょうは、本山もとやま石山いしやま本願寺ほんがんじ中心ちゅうしん防御ぼうぎょてきほり土居どい[注釈ちゅうしゃく 2]かこまれた「寺内てらうちまち」をゆうするてんである[2]

概要がいよう

編集へんしゅう

天文てんもん2ねん1533ねん)に本願寺ほんがんじ教団きょうだん本山もとやまとなって以後いご発展はってんし、戦国せんごく一大いちだい勢力せいりょくとなったが、織田おだ信長のぶながとのこうそう石山いしやま合戦かっせん)のすえ天正てんしょう8ねん1580ねん)に顕如けんにょわたし、その直後ちょくご焼失しょうしつした。

寺地てらち上町うえまち台地だいち北端ほくたんにある小高こだかおかだった。そのきた淀川よどがわふる大和やまとがわ合流ごうりゅうしており、その付近ふきんにあった渡辺わたなべは、淀川よどがわ大和川やまとがわ水系すいけい瀬戸内海せとないかい水運すいうん拠点きょてんで、また住吉すみよしさかい和泉いずみ紀伊きい京都きょうと山陽さんよう方面ほうめんをつなぐ陸上りくじょう交通こうつう要地ようちでもあった。台地だいちにそったさかまち形成けいせいされたことから、このは「小坂こさか(おさか)」、のちに「大坂おおさか[注釈ちゅうしゃく 3]ばれたという。どうてら建立こんりゅう以前いぜんは、古墳こふんであったともわれ、生国しょうごくたましい神社じんじゃ境内けいだいであったともいわれている。どう神社じんじゃ太古たいこからの神社じんじゃであるため、この太古たいこいわであったとのせつもある。なお、どう神社じんじゃ大坂おおさか築城ちくじょうさい上町うえまち台地だいち西麓にしふもと現在地げんざいち遷座せんざされている。

石山いしやま本願寺ほんがんじは、ほりへい土居どい[注釈ちゅうしゃく 2]などをもうけて要害ようがい強固きょうこにし、武装ぶそうかた防備ぼうびりょくしていき、次第しだいに「寺内てらうちまち」が形成けいせいされていたとかんがえられている。

沿革えんかく

編集へんしゅう

大坂おおさか御坊ごぼう時代ときよ

編集へんしゅう
 
あかし如影ぞう

蓮如れんにょ延徳えんとく元年がんねん1489ねん)に法主ほっしゅじつゆずり、自身じしん山科やましな本願寺ほんがんじ南殿なんでん隠居いんきょした。しかし、布教ふきょう活動かつどうつづさかんにおこない、大坂おおさか周辺しゅうへんへもとしなんかいし、あかりおう5ねん1496ねん)9がつぼうしゃ大坂おおさか御堂みどう)の建設けんせつ開始かいしされ、これがのち石山いしやま本願寺ほんがんじとなった。

建設けんせつさかい町衆まちしゅう摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ北陸ほくりく門徒もんとしゅう援助えんじょながら、よくあかりおう6ねん1497ねん)4がつ上棟じょうとうがあり、同年どうねん11がつにはそう石垣いしがきとびら御門みかど出来でき要害ようがい寺院じいん完成かんせいした。蓮如れんにょいままでいくつかのぼうしゃ建設けんせつしたが、『日本にっぽん都市とし研究けんきゅう』によると、そのなかでも大坂おおさか御坊ごぼうがもっともうつくしいものであったという記録きろくがある、としている。なおこれにともな建設けんせつされた寺内てらうちまち現在げんざいつながるだいさかまち源流げんりゅうになったとされる。

生玉いくたまそうばれていた当地とうちが、なぜ「石山いしやま」とばれるようになったのか、理由りゆう明確めいかくになっていないが、蓮如れんにょまごであるあらわちかいえいろく11ねん1568ねん)にいた史料しりょうによると、

あかりおうだいあき下旬げじゅん蓮如れんにょ上人しょうにん中略ちゅうりゃく一宇いちう建立こんりゅう、其始ヨリ種々しゅじゅはし不思議ふしぎとうコレアリトナン。マヅ御堂みどういしずえいしモネカネテ地中ちちゅうニアツメヲキタルガ如云々

反故ほご裏書うらがき

しるされている。これによると、そのまま礎石そせき使つかえるおおきないし土中どちゅう多数たすうそろっていたという不思議ふしぎ状況じょうきょうちなんで、石山いしやま呼称こしょうしたようになったのであろうとしている。なお、後年こうねん発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか大坂おおさか城址じょうし一帯いったい難波なんばみや比定ひていにもなっている。

これにたいして、吉井よしい克信かつのぶが「石山いしやま」の名称めいしょうもちいられるようになったのは石山いしやま本願寺ほんがんじくなったのち近世きんせい江戸えど時代じだい以降いこう表現ひょうげんであり、「大坂本願寺おおさかほんがんじ」が当時とうじもちいられていた名称めいしょうであるとするせつ[3]となえており、これを支持しじする研究けんきゅうしゃあいだでは「石山いしやま戦争せんそう」を「大坂本願寺おおさかほんがんじ戦争せんそう」とえるうごきがある[4]

蓮如れんにょ後継こうけいしゃじつ如は、細川ほそかわまさしもと畠山はたけやまよしゆたかとのあかりおう政変せいへん以降いこうたたかいにたいして、細川ほそかわまさしもとからつよ参戦さんせんもとめられていた。えいただし3ねん1506ねん)にじつ如は、摂津せっつ河内かわうち門徒もんとしゅ反対はんたいり、本願寺ほんがんじとしてはじめて参戦さんせんした。

これ以降いこう本願寺ほんがんじ武装ぶそうしていき武士ぶし勢力せいりょくとのこうそうはじまっていく。

とおるろく5ねん1532ねん)5がつ河内かわうち守護しゅごだい木沢きさわ長政ながまさ守護しゅごしょくろうとしていることが発覚はっかくし、河内かわうち守護しゅごである畠山はたけやまよしによる飯盛めしもり山城やましろへの攻撃こうげき再開さいかいされた。畠山はたけやまぜいには三好みよし元長もとなが筒井つついくわわった。そこでじつ如の後継こうけい法主ほっしゅあかしは、細川ほそかわはるもとからの救援きゅうえん要請ようせいおうじて大坂おおさか御坊ごぼうにより門徒もんとしゅ2まんへいひきいて参戦さんせんし、翌月よくげつ6がつには、攻囲こういぐん退散たいさんさせた(飯盛めしもりじょうたたか)。さらに一向いっこう一揆いっき法華宗ほっけしゅういたずらであった三好みよし元長もとながさかいまでまわし、自害じがいいやった。そのあいだにも参集さんしゅうした門徒もんとは10まんにんまであつまったとつたわる。しかし、ここで解散かいさんせずに大和やまとへも乱入らんにゅうした一向いっこう一揆いっき危機ききかんおぼえたはれもとが、天文てんもん改元かいげん同年どうねん8がつ初旬しょじゅんから本願寺ほんがんじ末寺まつじ大坂おおさか御坊ごぼう攻撃こうげき仕掛しかけてきた。さらはれもとからの要請ようせいおうじた法華ほっけ一揆いっきしゅう近江おうみ守護しゅご六角ろっかく定頼さだよりによって、同年どうねん8がつ23にちに3まんから4まんへい包囲ほういされた山科やましな本願寺ほんがんじは、寺内てらうちまち共々ともどもちにって焼失しょうしつしてしまう(山科やましな本願寺ほんがんじたたか)。

石山いしやま本願寺ほんがんじ時代じだい

編集へんしゅう
 
顕如けんにょ影像えいぞう

このときあかし如はだいさかにいたが、このままてらもとうつ石山いしやま本願寺ほんがんじ時代じだいはじまった。山科やましな本願寺ほんがんじからされたぞう転々てんてんとし、ようやくよく天文てんもん2ねん1533ねん)7がつ25にち鎮座ちんざした。このとし築城ちくじょうねんにされているのは、この鎮座ちんざ時期じき理由りゆうとされている。

このあいだはれもと石山いしやま本願寺ほんがんじとのたたかいはつづき、木沢きさわ長政ながまさ三好みよし長慶ちょうけいらが石山いしやま本願寺ほんがんじめにくわわり、石山いしやま本願寺ほんがんじではぼうかんしもあいだよりゆきもり指揮しきかんとして赴任ふにんし、紀伊きい一向いっこう門徒もんとしゅにも援軍えんぐん要請ようせいしたりしていたが、天文てんもん4ねん1535ねん)11がつまつ山科やましな本願寺ほんがんじたたかいからやく4ねん、ようやく両者りょうしゃ和議わぎ成立せいりつする。したあいだよりゆきもり一揆いっき扇動せんどうしたつみあにしもあいだよりゆきしゅうとも本願寺ほんがんじから追放ついほうされ、のち暗殺あんさつされた。

細川ほそかわはるもとらとのこうそうなか石山いしやま本願寺ほんがんじ寺領じりょう拡大かくだいし、城郭じょうかく技術ぎじゅつしゃあつめ、周囲しゅういほりるいきずき、へいしがらみをめぐらし「寺内てらうちまち」として防備ぼうびかためていった。このように石山いしやま本願寺ほんがんじあかし如時だいにすでに要害ようがい堅固けんご城郭じょうかく都市としいたったとかんがえられている。

あかしから顕如けんにょ時代じだいとなり、西日本にしにほん北陸ほくりく地域ちいき一向いっこうそう勢力せいりょくと、とみ蓄積ちくせき拡大かくだいしていった。イエズスかい所属しょぞくガスパル・ヴィレラえいろく4ねん1561ねん)8がつ手紙てがみに、

日本にっぽんとみだい部分ぶぶんは、この坊主ぼうず所有しょゆうである。毎年まいとし、はなはださかんなまつ[注釈ちゅうしゃく 4]おこない、参集さんしゅうするものははなはだおおく、てらにゅうろうとしてもんまえものが、ひらくと同時どうじにきそってにゅうろうとするので、つねおおくの死者ししゃをだす。(中略ちゅうりゃくよるになって坊主ぼうずかれらにたいして説教せっきょうをすれば、庶民しょみんおおくはなみだながす。あさになってかねらしてあさのおつとめの合図あいずがあると、みな御堂みどうはい[5]

—ガスパル・ヴィレラの手紙てがみ

報告ほうこくされるほど本願寺ほんがんじ多数たすう門徒もんととその門徒もんとがもたらす財力ざいりょくゆうしていたことがわかる。

あかし如期には中央ちゅうおう権門けんもん戦国せんごく大名だいみょうへの外交がいこう展開てんかいされており、中央ちゅうおう権門けんもんでは天皇てんのう公家くげしゅう接近せっきんつよめ、東国とうごく戦国せんごく大名だいみょうでは甲斐かいこく武田たけだ[注釈ちゅうしゃく 5]相模さがみ北条ほうじょう氏康うじやす北条ほうじょう氏政うじまさ[注釈ちゅうしゃく 6] 親子おやこ親交しんこうむすぶ。そして三条さんじょうこうよりゆきさんじょきょうこういん如春あまを、法敵ほうてきともなっていた六角ろっかく定頼さだより息子むすこ六角ろっかく義賢よしかたの、つづいて細川ほそかわはるもと養女ようじょとしたうえで顕如けんにょ正室せいしつむかれ、戦国せんごく大名だいみょう同盟どうめいむすんで基盤きばん安定あんていととのえていた。

石山いしやま合戦かっせんはいじょう

編集へんしゅう
 
石山いしやま合戦かっせんでん だいいちぶく
なりむねてらぞう
 
石山いしやま合戦かっせんうつし
和歌山わかやま市立しりつ博物館はくぶつかんぞう

織田おだ信長のぶなが上洛じょうらく直後ちょくごえいろく11ねん1568ねん)に石山いしやま本願寺ほんがんじたいしてぜに5せんぬき要求ようきゅうした。またもとかめ元年がんねん1570ねん正月しょうがつ石山いしやま本願寺ほんがんじわたしを要求ようきゅうしたとわれている。これにたいして顕如けんにょ全国ぜんこく門徒もんとしゅたいして、石山いしやま本願寺ほんがんじ防衛ぼうえいのため武器ぶきたずさだいさか集結しゅうけつするように指示しじした。同盟どうめいぐん三好みよしさんにんしゅぐん織田おだぐんたたかっている最中さいちゅうに、打倒だとう信長のぶなが決起けっきしたのが同年どうねん9がつ12にちであった。

ここから石山いしやま合戦かっせん蜂起ほうきし、これ以降いこう石山いしやま本願寺ほんがんじ織田おだ信長のぶながたたかいは、連続れんぞくした戦闘せんとうだけではなく、和睦わぼく戦術せんじゅつまじ途中とちゅう断続だんぞくし、りょう勢力せいりょくとも同盟どうめい勢力せいりょく拡大かくだいをはかりながら11年間ねんかんつづいた。

 
紀州きしゅう惣門そうもんちゅうけた檄文げきぶん
西本願寺にしほんがんじ所蔵しょぞう

まず、織田おだ信長のぶながは、天正てんしょう元年がんねん(1573ねん8がつ20日はつかに「いちじょうたにじょうたたか」において朝倉あさくら義景よしかげひきいる朝倉あさくらぐん追撃ついげきして滅亡めつぼうさせる。同年どうねん9月1にちには、「小谷おたにじょうたたか」において、居城きょじょう小谷おたにじょう籠城ろうじょうした浅井あさい長政ながまさ滅亡めつぼうさせる。本願寺ほんがんじ勢力せいりょく同盟どうめい関係かんけいにある朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさうしなうことによりよりくるしい状況じょうきょうまれる。

つづいて信長のぶながは、一向いっこう一揆いっきたいして殲滅せんめつせん開始かいしする。天正てんしょう2ねん(1574ねん)9がつ長島ながしま一向いっこう一揆いっき平定へいてい天正てんしょう3ねん(1575ねん)8がつ越前えちぜん一向いっこう一揆いっき平定へいていする。信長のぶながによるこれらの殲滅せんめつせんによって、石山いしやま本願寺ほんがんじ次第しだいいつめられていった。同年どうねん10がつ顕如けんにょ戦局せんきょく好転こうてん一時いちじてき手段しゅだんとして信長のぶなが有利ゆうり和睦わぼくもうれ、信長のぶながれた。このとき信長のぶながは、武田たけだ勝頼かつより毛利もうり輝元てるもとなどに挟撃きょうげきされかねない状態じょうたいであったため、戦略せんりゃくてきにも有利ゆうり和睦わぼくもうれだった。

しかし天正てんしょう4ねん1576ねん)、顕如けんにょ各地かくち門徒もんとしゅ檄文げきぶんおく応援おうえんもとめる。そして、食糧しょくりょうたくわえたり、ゆみ鉄砲てっぽうなどの武器ぶきあつめたりするなど信長のぶながたいして臨戦りんせん態勢たいせいでいた[6][7]

顕如けんにょ天正てんしょう4ねん(1576ねん5月7にち天王寺てんのうじとりでたたかにおいて一旦いったん信長のぶながぐんむもののやぶれている。信長のぶなが大坂おおさか周辺しゅうへんに10ヵ所かしょづけじょうつくるようにめいじ、尼崎あまがさきじょう大和田おおわだしろ吹田すいたじょう高槻たかつきじょう茨木いばらぎじょう多田ただしろ能勢のせしろ三田みたじょう花隈はなくまじょう有岡ありおかしろ築城ちくじょうされ、兵糧ひょうろうめにる。また住吉すみよし方面ほうめん沿岸えんがんにもとりでもう海上かいじょう警固けいごした。本願寺ほんがんじ勢力せいりょくはこれに対抗たいこう守口もりぐち野江のえ難波なんば木津きづなどに出城でしろかま籠城ろうじょうせんはいる。しかし信長のぶながによる一揆いっき平定へいていにより、諸国しょこく門徒もんとからの救援きゅうえんとぼしく、寺内てらうちまちとして発展はってんしていた石山いしやま本願寺ほんがんじ食糧しょくりょう不足ふそくおちい[6]

 
きょう如影ぞう

食糧しょくりょう不足ふそく打破だはするために、顕如けんにょ長子ちょうしであるきょうは、備後びんご鞆のうらかい、信長のぶながによって京都きょうとから追放ついほうされていた室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき仲介ちゅうかいて、毛利もうり輝元てるもと本願寺ほんがんじたいする援助えんじょ要請ようせいした。天正てんしょう4ねん(1576ねん)7がつ毛利もうり水軍すいぐん雑賀さいかしゅうとも合流ごうりゅうし、石山いしやま本願寺ほんがんじ兵糧ひょうろう搬入はんにゅうしようとする。木津川きづがわ河口かこう織田おだ水軍すいぐん阻止そししようとするものの打撃だげき撤退てったいし、兵糧ひょうろう搬入はんにゅう成功せいこうした。(だいいち木津川きづがわこうたたか)しかし天正てんしょう5ねん雑賀さいかしゅう信長のぶなが降伏ごうぶく天正てんしょう6ねんには、毛利もうり水軍すいぐんてつかぶとせん6せきようする九鬼くき嘉隆よしたか九鬼くき水軍すいぐんやぶれる。(だい木津川きづがわこうたたか)これらの敗戦はいせんにより制海権せいかいけんうばわれ、石山いしやま本願寺ほんがんじへの補給ほきゅうたれ、きびしい籠城ろうじょうせんいられることになる[6]

 
正親町おおぎまち天皇てんのうめいじた勅命ちょくめい講和こうわ

天正てんしょう8ねん1580ねんうるう3がつ5にち正親町おおぎまち天皇てんのうみことのりれいにより立入たちいりむねままし調停ちょうてい出向でむき、双方そうほう和議わぎ成立せいりつする。同年どうねん4がつ9にち顕如けんにょさぎもり別院べついんけて退去たいきょする。退去たいきょこばんだ雑賀さいかしゅう一部いちぶとも講和こうわ同年どうねん8がつ2にち石山いしやま本願寺ほんがんじわた雑賀さいかむかった。顕如けんにょ長男ちょうなんであるきょう退去たいきょした直後ちょくご堂舎どうしゃ寺内てらうちまち炎上えんじょうして灰燼かいじんかえした。二日ふつか一夜いちや炎上えんじょうつづけたとつたわっている。石山いしやま本願寺ほんがんじは、織田おだぐん長期ちょうき攻撃こうげきにもかかわらず、武力ぶりょく開城かいじょうされることかった。「いくつかの要因よういんがあるにせよ、最大さいだい理由りゆうとして、城郭じょうかくそのものが難攻不落なんこうふらく名城めいじょうであったことをげねばならない」と解説かいせつされている[7]

興福寺こうふくじ塔頭たっちゅう多聞たもんいん院主いんじゅがく侶の英俊えいしゅんは、天正てんしょう8ねん8がつ5にちづけ日記にっき

わたりてのちやきくるように用意よういしけるが 無残むざんにち一夜いちや あかりさんにちまでにみなりょうりぬ[注釈ちゅうしゃく 7]

—『多聞たもんいん日記にっき

とあり、きょう如による意図いとてき放火ほうかとの見方みかたしるしている。

その豊臣とよとみ秀吉ひでよし跡地あとちだい坂城さかききずき、城下町じょうかまち建設けんせつしたため、大坂本願寺おおさかほんがんじ規模きぼ構造こうぞうなどはほとんどわからなくなってしまった。

石山いしやま本願寺ほんがんじ寺内てらうちまち構造こうぞう

編集へんしゅう
 
石山いしやま本願寺ほんがんじ推定すいてい大阪城おおさかじょうまる

要害ようがいめ、寺院じいんとはいえほり土居どいかこまれ、まさに堂々どうどうとした城郭じょうかくであった」とされている[8]石山いしやま本願寺ほんがんじは、「門前もんぜまち」がさかえる本山ほんざん本願寺ほんがんじではなく、本山もとやま本願寺ほんがんじ中心ちゅうしんほり土居どい[注釈ちゅうしゃく 2]かこまれた「寺内てらうちまち」をゆうする一種いっしゅかんほり城郭じょうかく都市としであった。

1927ねん昭和しょうわ2ねん発行はっこうの『大阪おおさか』には、石山いしやま本願寺ほんがんじにはだい坂城さかき本丸ほんまる周辺しゅうへんしるされており、それがながらく定説ていせつとなっていた。しかし1953ねん昭和しょうわ28ねん)に発行はっこうされた『大坂おおさかじょう研究けんきゅう[9]』により法円坂ほうえんざか造営ぞうえいされていたという新説しんせつ発表はっぴょうされ、よく1954ねん昭和しょうわ29ねんおなじく山根やまね徳太郎とくたろうによって発行はっこうされた「大坂おおさか城址じょうし文化ぶんかてき研究けんきゅう[10]」の論文ろんぶんにもさら法円坂ほうえんさかせつ補強ほきょうするせつ発表はっぴょうされ、2あん併記へいきされる状態じょうたいとなった。しかし1977ねん昭和しょうわ52ねん)に発行はっこうされた『石山いしやま本願寺ほんがんじほう安寺あてら』の論文ろんぶんでは、『大坂おおさかじょう研究けんきゅう』や「大坂おおさかじょう文化ぶんかてき研究けんきゅう」で提示ていじされた論拠ろんきょひとひと否定ひていし、本丸ほんまるまる周辺しゅうへんせつ強固きょうこなものとした。これをもとに『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』では「これによって、石山いしやま本願寺ほんがんじ所在地しょざいちをめぐる論争ろんそう一応いちおう決着けっちゃくがついたかにみえる」と結論けつろんけている。

 
石山いしやま合戦かっせんはいじん本願寺ほんがんじ部分ぶぶん拡大かくだい/和歌山わかやま市立しりつ博物館はくぶつかんぞう

石山いしやま御坊ごぼう時代じだいぼうしゃっていたは、淀川よどがわ河口かこう要港ようこう渡辺わたなべちかく、景勝けいしょう要衝ようしょうであったとおもわれ、『本願寺ほんがんじ』には、

宗主そうしゅ山科やましなからさかいおもむ場合ばあい淀川よどがわふねくだり、渡辺わたなべ上陸じょうりくし、爾後じご乗馬じょうば南下なんかするのがれいであったから、その途次とじこの着目ちゃくもくし、ほう安寺あてらり、ついにぼうしゃ建設けんせつとなったものであろう。このは、きた淀川よどがわひがし大和やまとがわかこまれた小高こだか丘陵きゅうりょうで、景勝けいしょうのちであるととも要害ようがいでもあり、また瀬戸内海せとないかいへの水上すいじょう交通こうつう要衝ようしょうである

本願寺ほんがんじ

しるされている。また、蓮如れんにょじゅうなんじつさとるいた『じつ麈記』には、

摂津せっつこく東成ひがしなりぐん生玉いくたま庄内しょうない大坂おおさか御坊ごぼうハ、あきらおうだいあききゅうがつ廿にじゅうよんにち御覧ごらんはじめラレテ虎狼ころうノスミカ也。いえいちモナクばたけハカリナシリしょ

ひろえ麈記

とある。人跡じんせき未墾みこんであったという表現ひょうげん誇張こちょうされたものてある程度ていど集落しゅうらくがあったとの指摘してきもあるが、『摂津せっつ石山いしやま本願寺ほんがんじ 寺町てらまち構成こうせい』(1984 建築けんちく史学しがく 3)では「かり集落しゅうらくがあったとしてもそれは無視むししうる程度ていどのものであり、むしろじつさとるつたえるような状況じょうきょうこそが初期しょき寺内てらうちまち立地りっち共通きょうつうするひとつの特色とくしょくしめしているのではないかとかんがえる」とし、寺町てらまちれいからも、建設けんせつまえ石山いしやま御坊ごぼう統治とうちされない寒村かんそん以下いか状態じょうたいであった可能かのうせい指摘してきしている。

 
大坂本願寺おおさかほんがんじ寺内てらうちまち想像そうぞう復原ふくげん模型もけい
真宗しんしゅう大谷おおや難波なんば別院べついんぞう
 
大坂本願寺おおさかほんがんじ復元ふくげん模型もけい
大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかんぞう
 
現在げんざい外堀そとぼり
豊臣とよとみまるほり
 
寺内てらうちろくまち構成こうせい概念がいねん

石山いしやま本願寺ほんがんじ規模きぼかんしては、現在げんざい大阪城おおさかじょう本丸ほんまるまるさんまるあたりとか、大阪城おおさかじょうの80%程度ていど曖昧あいまい表現ひょうげんがされていた。しかし、規模きぼかんしては史料しりょうから2つ引用いんようされている。ひとつは『  信長のぶながこう』で、

そもそも大坂おおさかは凡日本一にっぽんいち境地きょうち也。(中略ちゅうりゃく加賀かがこくよりしろさくを召寄、方八ほうはっまちあい

信長のぶながこう まき十三じゅうざ天正てんしょうはちねん

つたえる「はちまちせつやく872 m)」と、もうひとつは『宇野うのしゅみず日記にっき』で

中嶋なかじま天満てんまみや会所かいしょかぎりテ、ひがしかわみどりマデななまちきたまち也。ただし屋敷やしきにゅう次第しだいニ、長柄ながらはしマデおおせわたり云々うんぬんさき以当ぶんななまち五町ごちょう也。もと大坂おおさか寺内てらうちヨリモごとがいこう

宇野うのしゅみず日記にっき 天正てんしょうじゅうさんねんがつさんにちじょう

つたえる「ななまちやく545 m)×まちやく763 m)」せつである。こちらは豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって寺内てらうちまち天満てんまうつされ、そのひろさがななまち×五町ごちょうで、もと石山いしやま本願寺ほんがんじよりひろかったとしるされている。このりょう史料しりょうひろさにかんする記述きじゅつおおきなへだたりがある。『摂津せっつ石山いしやま本願寺ほんがんじ 寺町てらまちまち構成こうせい』では、宇野うのしゅみずとは顕如けんにょ祐筆ゆうひつ石山いしやま本願寺ほんがんじ熟知じゅくちしており、寺町てらまち比較ひかくしても方八ほうはっまちせつ法外ほうがいおおきいとう指摘してきし、「『宇野うのしゅみず日記にっき』の記載きさいほう信憑しんぴょうせいたかいとおもわれる」とし、『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』でも「実際じっさい方八ほうはっまちもなかったのであろう」と「ななまち×五町ごちょうせつ」が有力ゆうりょくであるとしている。 石山いしやま本願寺ほんがんじ推定すいていは、現在げんざい大阪城おおさかじょうまる周辺しゅうへんとされている。ルイス・フロイス報告ほうこくによると、

みぎは悉旧じょうかべおよへいなかきずかれた

—ルイス・フロイス 1585ねん11月1にち報告ほうこく

とあり、また『  大坂おおさか物語ものがたり』によると、

まことにたぐひなきめいなりとしつしおぼしめして、もとありしにやぐらをそへ、ほりをふかくほりて

大坂おおさか物語ものがたり

とあり、豊臣とよとみだい坂城さかき石山いしやま本願寺ほんがんじ要害ようがい踏襲とうしゅうしたとしめしている。また最近さいきん発掘はっくつ調査ちょうさによると、まる大手門おおてもん付近ふきん地表ちひょうはわずか20 - 30 cmで地下ちかそうにあたり、徳川とくがわだい坂城さかき本丸ほんまるについては10 mちかくも盛土もりつちされ全面ぜんめん改修かいしゅうおこなわれているが、まるはほとんど盛土もりつちおこなわれず豊臣とよとみだい坂城さかきのものを部分ぶぶんてき改修かいしゅうしてさいようされた可能かのうせいがあり、さらにさかのぼれば、石山いしやま本願寺ほんがんじ外堀そとぼりなんらかのかたちがれた可能かのうせいがある。

石山いしやま本願寺ほんがんじ実際じっさい規模きぼしめ史料しりょう現存げんそんしていないが、石山いしやま本願寺ほんがんじかりかたまちあまり規模きぼとした場合ばあい、『宇野うのしゅみず日記にっき』の条件じょうけんたし、徳川とくがわまる現在げんざい外堀そとぼり内側うちがわ面積めんせきにほぼ充当じゅうとうする。これらにより『摂津せっつ石山いしやま本願寺ほんがんじ 寺町てらまち構成こうせい』によると「石山いしやま本願寺ほんがんじ大阪城おおさかじょうまる充当じゅうとうすることは、ありえぬ想定そうていではないとかんがえる」としている。

寺内てらうちまち」もおおきな発展はってんげていた。天文てんもん初年しょねんごろには、清水しみずまち北町きたまち西町にしまち南町みなみまち北町屋きたまちや新屋敷しんやしきの6まちかぞえ、1535ねん天文てんもん4ねんごろにはひのきまち青屋あおやまち1541ねん天文てんもん10ねんごろには造作ぞうさくまち横町よこちょうくわわり、最盛さいせいには10まちが「寺内てらうちまち」となり、てらいきふく完全かんぜん領主りょうしゅけん確保かくほし、戦国せんごく大名だいみょう匹敵ひってきする独立どくりつ王国おうこくきずきあげることになった。しかし、これら町屋まちや家族かぞくすう人数にんずうがどの程度ていど規模きぼようしていたかは明確めいかくになっていない。なお、だい坂城さかき北東ほくとう虎口ここう城門じょうもんである青屋あおやこう青屋あおやもん青屋あおやまち名残なごりともわれる。寺内てらうち生活せいかつ統制とうせいされ、かくまちにある番屋ばんやには高札こうさつかかげられていた。

 
大坂本願寺おおさかほんがんじ復元ふくげん模型もけい御影堂ごえどう内部ないぶ部分ぶぶん
大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかんぞう
 
大坂本願寺おおさかほんがんじ復元ふくげん模型もけい境内けいだい部分ぶぶん
大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかんぞう
 
大坂本願寺おおさかほんがんじ復元ふくげん模型もけい寺町てらまち部分ぶぶん
大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかんぞう
 
本願寺ほんがんじ鉄砲てっぽうたい石山いしやま軍紀ぐんき
国会こっかい国立こくりつ図書館としょかん所蔵しょぞう

籠城ろうじょうせん本格ほんかくてきになりはじめたころ、石山いしやま本願寺ほんがんじまもりを強化きょうかするためしがらみじゅう逆茂木さかもぎ、その内側うちがわには空堀からぼり、その外部がいぶにはそうほりり、てそこに鉄砲てっぽうたい配置はいちしていた。『天文てんもん日記にっき』には、

夜半やはんけいいたり今日きょうやめ尅、暴風ぼうふう駛雨以外いがい也。所々しょしょ屋根やねども吹逃、松木まつきひとし吹折、寺中じちゅう悉吹たおせこれただそうざん言語道断ごんごどうだん次第しだい

天文てんもん日記にっき 天文てんもんじゅうねんはちがつじゅういちにちじょう

とあり、1541ねん天文てんもん10ねん)にはかずもかなりのかずがあったようで、石山いしやま本願寺ほんがんじ城郭じょうかくとしての基礎きそととのっていた。

また石山いしやま本願寺ほんがんじは51しろおよささえじょうはい防御ぼうぎょめん強化きょうかしていた。高津たかつしろ丸山まるやましろ、ひろしばじょう正山しょうざんじょう森口もりぐちひょうじょう大海たいかいじょう飯満はんまじょう中間ちゅうかん村城むらしろ鴫野しぎのじょう野江のえしろろう岸城きしきかち曼城、木津きづしろ難波なんばじょう本庄ほんじょうじょうが『信長のぶながこう』や『陰徳いんとく太平たいへい』に記載きさいがある。また、三津寺みつてらとりでけがれさきとりで天王寺てんのうじとりで我子わがこじょう新堀しんぼりしろなども51しろかぞえること可能かのうとの指摘してきもあるが、51しろ全貌ぜんぼうについては不明ふめいである。

日常にちじょう

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ばんしゅ

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石山いしやま本願寺ほんがんじ防衛ぼうえいぐんとして戦闘せんとうし、また日常にちじょう警備けいびのため上番じょうばんしてくる門徒もんとは「ばんしゅ」とばれていた。この制度せいど山科やましな本願寺ほんがんじ時代じだいより制度せいどされ、石山いしやま本願寺ほんがんじ時代じだいさら充実じゅうじつされている。堂舎どうしゃ維持いじ管理かんりおこなう「御堂みどうばんしゅ」とばれるものもいたが、警備けいびばんしゅおこなっており、石山いしやま本願寺ほんがんじの「だい番屋ばんや」(太鼓たいこ)とばれる場所ばしょめて平時へいじでも300へい前後ぜんこう常駐じょうちゅうしていた。「太鼓たいこ」という名称めいしょうから、寺内てらうちまち合図あいず時刻じこくらせるのもかれらの任務にんむひとつであったとかんがえられている。弓矢ゆみややりなどの武具ぶぐみずか用意よういし、食料しょくりょう自弁じべんする「へい粮衆」、「飯米はんまいしゅ」と別称べっしょうばれていた。これらは個人こじん用意よういするのでなく国元くにもとから別送べっそうされている場合ばあいもあった。ばんしゅは、宗主そうしゅから元旦がんたん挨拶あいさつをうけることになっており、ゆみしゅやりしゅしゅかれていた。また「加賀かがじゅう人組にんぐみしゅ」、「加賀かが石川いしかわぐん米富よねどめ」、「河原かわらじゅうにんしゅ」などが記録きろくにみえ、加賀かがこくではぐん規模きぼくみ編成へんせいして上番じょうばんしていたとおもわれる。平時へいじばんしゅは、「寺内てらうちまち」や近所きんじょほう安寺あてら喧嘩けんかがおこったとき仲裁ちゅうさいや、土木どぼく工事こうじにも従事じゅうじしていた。

 
刀鍛冶かたなかじ

刀鍛冶かたなかじ集団しゅうだん

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ばんしゅのすべてが、武器ぶき武具ぶぐ食料しょくりょう自弁じべんしていたわけではない。出身しゅっしんからぜに送金そうきんされ、石山いしやま本願寺ほんがんじ購入こうにゅうする場合ばあいもあった。寺内てらうちまちはそのような需要じゅようにもこたえること出来できたとおもわれている。中島なかじま[注釈ちゅうしゃく 8]周辺しゅうへんには南北なんぼくあさ時代じだい刀剣とうけん生産せいさんがあり、室町むろまち時代ときよ初期しょきには天王寺てんのうじ周辺しゅうへんうつみ、としごとに四天王寺してんのうじ公事こうじぜに納入のうにゅうしていたことしるされている。これら刀鍛冶かたなかじ集団しゅうだん石山いしやま本願寺ほんがんじともむすびつきがつよいと推定すいていされている。また、石山いしやま本願寺ほんがんじ東部とうぶにあるかわ内国ないこく北部ほくぶにも刀鍛冶かたなかじ集団しゅうだんがいた。もっと顕著けんちょだったのは、さかいとその周辺しゅうへんにある刀鍛冶かたなかじ集団しゅうだんとくむすびつきがつよいとおもわれている。これらは現存げんそんするものもおおく、ぶりながらも入念にゅうねんきたえられ「摩利まりささえみことてん」と彫物ほりもののある作品さくひんもある。技術ぎじゅつてきには「大和やまとぶつ」、「山城やましろぶつ」とそんしょくないとわれている。しかし、これら石山いしやま本願寺ほんがんじかたなやり供給きょうきゅうした刀鍛冶かたなかじ集団しゅうだん石山いしやま本願寺ほんがんじ滅亡めつぼうとも離散りさんし、新刀しんとうつたえる伝統でんとう確立かくりつすることはできなかった。

鉄砲てっぽう

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火縄銃ひなわじゅう/あましん博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

石山いしやま本願寺ほんがんじ鉄砲てっぽう兵器へいきとして数多かずおお使用しようしたが、文献ぶんけんじょうはつ天文てんもん20ねん1551ねん)12月6にちことで、あかし如の側近そっきんかり鉄砲てっぽうとししょう如に献上けんじょうし、本願寺ほんがんじきた殿どのかりじるがふるまわれたと『私心ししん』にえる。このくだりはりの道具どうぐとして使用しようされたが、本願寺ほんがんじはこの時代じだいより鉄砲てっぽう所持しょじしており、さかい雑賀さいかしゅうつうじて容易ようい調達ちょうたつできること推察すいさつされている。

大坂おおさかなみ

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きょうせいてら別院べついん
富田林とんだばやし寺内てらうちまち中央ちゅうおうにあたる
 
顕証寺けんしょうじ山門さんもん
大ケ塚だいがつか寺内てらうちまちにある
 
蓮如れんにょ上人しょうにん袈裟けさがけのまつ
現在げんざい大阪城おおさかじょうまる位置いちする

石山いしやま合戦かっせんまえ

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石山いしやま本願寺ほんがんじ石山いしやま本願寺ほんがんじ周辺しゅうへんにあった「寺内てらうちまち」のみがささえていたわけではなく、摂津せっつこく河内かわちこく和泉いずみこく寺内てらうちまち石山いしやま本願寺ほんがんじささえ、ささえられていた。このような寺内てらうちまちネットワークのことを『寺内てらうちまち城下町じょうかまち』などでは「大坂おおさかなみ体制たいせいんでいる。そのひとつが富田林とんだばやし寺内てらうちまちである。富田林とんだばやし寺内てらうちまちでは近年きんねん発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、まち周辺しゅうへんで18世紀せいき遺構いこうしか発見はっけんできなかったことから、戦国せんごく時代じだいの「寺内てらうちまち」は一回ひとまわちいさかった可能かのうせい指摘してきされている。そのちいさかった富田林とんだばやし寺内てらうちまちは、河内かわちこく守護しゅご畠山はたけやま家臣かしん安見やすみ宗房むねふさ禁制きんせいによって特権とっけんあたえられた。

ていむ 富田林とんだばやし道場どうじょう

いちしょ公事こうじ免許めんきょこと
いち徳政とくせいおこなうべからざること
いちしょ商人しょうにん公事こうじこと
いちくにしつところただしならびにづけ沙汰ざたこと
いち寺中じちゅう、いずれも大坂おおさかなみたるべきこと

みぎ条々じょうじょうかたさだきかれおわんぬ。もし、このむねそむき、違犯いはんやからにおいては、たちまち厳科げんかしょせらるべきものなり。よって下知げじくだんのごとし。

えいろくさんねんさんがつ   美作みさくまもる

安見やすみ宗房むねふさ禁制きんせい (京都きょうと大学だいがく所蔵しょぞう杉山すぎやま文章ぶんしょう

とある。この禁制きんせいしるされている富田林とんだばやし道場どうじょうとは富田林とんだばやしきょうせいてら別院べついんことで、えいろくさんねんとは1562ねんえいろく5ねん)の誤記ごき美作みさくまもる安見やすみ宗房むねふさことしている。だいいちじょうにある「しょ公事こうじ」とは守護しゅごぞくするぜいだいさんじょうにある「公事こうじ」とは商人しょうにんたいする営業えいぎょうぜいのようなもので、それぞれ徴収ちょうしゅう免除めんじょしている。だいじょうにある「徳政とくせい」とは債権さいけん債務さいむ無効むこうにするが、都心としんでは債権さいけんしゃおおため徳政とくせい発令はつれいされると経済けいざいてき打撃だげきけることになり、徳政とくせいから除外じょがいするための保障ほしょうあたえている。だいよんじょうにある「くにしつ」、「ところただし」、「づけ沙汰さた」とは債権さいけん回収かいしゅうするシステムのことで、これらを使つか度々どど武士ぶし暴力ぼうりょくてき債権さいけんてがおこなわれた。そうなると市場いちば混乱こんらん商人しょうにんかなくなるため、このようなしつ行為こうい禁止きんししている。このような特権とっけんはそれぞれの地域ちいき武家ぶけ権力けんりょくから獲得かくとくしていた。禁制きんせい獲得かくとくするのに多額たがく礼金れいきん必要ひつようであったためかずすくなくだい規模きぼ寺社じしゃ門前もんぜまちしか特権とっけんることは出来できなかった。しかし、富田林とんだばやし寺内てらうちまち規模きぼちいさかったのに禁制きんせい獲得かくとくしている。これはだいじょうにある「大坂おおさかなみ」で、石山いしやま本願寺ほんがんじ寺内てらうちまちおな待遇たいぐう富田林とんだばやし寺内てらうちまちにもみとめるというなり充実じゅうじつした特権とっけん獲得かくとくできた。

富田林とんだばやし寺内てらうちまち以外いがい史料しりょう確認かくにんできる「大坂おおさかなみ」とばれる「寺内てらうちまち」として、大伴おおとも富田林とんだばやし)、大ケ塚だいがつか寺内てらうちまち河南かなんまち)、塚口つかぐち尼崎あまがさき)、名塩なじお西宮にしのみや)、小浜おばま宝塚たからづか)、富田とみた高槻たかつき)、枚方ひらかた枚方ひらかた)、招提枚方ひらかた)、久宝寺きゅうほうじ八尾やお)、貝塚かいづか貝塚かいづか)などがある。これらは現在げんざい大阪おおさか府下ふか石山いしやま本願寺ほんがんじ中心ちゅうしんとする「衛星えいせい寺内てらうちまちぐん展開てんかいされ、これらの大半たいはん富田林とんだばやし寺内てらうちまちどう程度ていど特権とっけん獲得かくとくしていた。戦国せんごく時代じだいには大阪平野おおさかへいや寺内てらうちまちネットワークがめぐらされ、政治せいじ軍事ぐんじ経済けいざい宗教しゅうきょう一体いったいとなった社会しゃかい体制たいせいであった。

石山いしやま合戦かっせん

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石山いしやま本願寺ほんがんじは、織田おだ信長のぶながとのたたか石山いしやま合戦かっせんとなったとき長島ながしま一向いっこう一揆いっきしゅう雑賀さいかしゅうなどが応援おうえんとしてけつけていたが、大坂おおさかなみばれた「寺内てらうちまち」で、実際じっさい石山いしやま本願寺ほんがんじかたとして兵力へいりょくしたこと確認かくにんできるのは、萱振かやふり八尾やお)、貝塚かいづか貝塚かいづか)のみである。それ以外いがい大坂おおさかなみばれた「寺内てらうちまち」、とく富田林とんだばやし寺内てらうちまちでは、

今度こんどしもあいだ丹後たんご所行しょぎょうをもって、大坂おおさかうご不慮ふりょからだ、かつは天下てんかたいして、かつは門下もんか法度はっとそむくのじょう、かたがたもって是非ぜひなき次第しだいなり。しかるに、とうてらないことしもあいだにくみせざるのよし、忠節ちゅうせつ神妙しんみょうこう寺内てらうち、いささかも別条べつじょうあるべからずこう。なお、蜂屋はちや佐久間さくまもうすべきのじょうくだんのこどし。

もとかめもと きゅうがつ 
                信長のぶなが
富田とみた林寺はやしじないちゅう

— 織田おだ信長のぶなが朱印しゅいんじょう (京都きょうと大学だいがく所蔵しょぞう杉山すぎやま文章ぶんしょう

とある。これは野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたかいの直後ちょくご織田おだ信長のぶなが富田林とんだばやし寺内てらうちされた朱印しゅいんじょうで、内容ないようは、石山いしやま本願寺ほんがんじ顕如けんにょ側近そっきんであったしもあいだよりゆきそうのせいで戦闘せんとうとなったが、富田とみたりん石山いしやま本願寺ほんがんじ味方みかたしないのは神妙しんみょうで、その安全あんぜん保証ほしょうし「寺内てらうち、いささかも別条べつじょうあるべからず」とあることから特権とっけんはそのまま継続けいぞくされた。また1572ねんもとかめ3ねん)にはあらたな禁制きんせいあたえている。富田林とんだばやし寺内てらうちまち織田おだ信長のぶなが同盟どうめい関係かんけいにあった。すべての大坂おおさかなみばれた寺内てらうちまち石山いしやま本願寺ほんがんじ加担かたんしたわけではなかった。

寺院じいんあとへのアクセス

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 摂津せっつこく東成ひがしなりぐん生玉いくたまそう大坂おおさかは、現在げんざい大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう大阪城おおさかじょう付近ふきんか?。
  2. ^ a b c コトバンク「土居どい - 中世ちゅうせい城郭じょうかく屋敷やしき周囲しゅうい防御ぼうぎょのためにめぐらしたるい。(『大辞林だいじりんだいさんはん。)
  3. ^ 大坂おおさかという文献ぶんけんじょうはつあかりおう6ねん1497ねん)11月25にちしゃぼう建設けんせつ終了しゅうりょうしたことをらせる蓮如れんにょ書状しょじょうとされる
  4. ^ まつりとは法会ほうえのこと。
  5. ^ 甲斐かい守護しゅご武田たけだとは武田たけだ信虎のぶとら天文てんもん9ねんごろから外交がいこう関係かんけい確認かくにんされ、宿老しゅくろう板垣いたがきしんかた取次とりつぎつとめている。信虎のぶとら嫡男ちゃくなんはれしん信玄しんげん正室せいしつには三条さんじょう夫人ふじんいもうととついでいるえんからも本願寺ほんがんじ外交がいこう関係かんけいをもち、信玄しんげんには弘治こうじ年間ねんかん甘利あまり信忠のぶただもとかめ年間ねんかんには一門いちもん穴山あなやましんくん取次とりつぎつとめているほか甲斐かい本願寺ほんがんじ長延ちょうえんてらじつりょう八重森やえもりあきらつうじた交渉こうしょうおこなわれている。こうした関係かんけいから武田たけだ越後えちご上杉うえすぎ謙信けんしんとの北信ほくしん地域ちいきをめぐる川中島かわなかじまたたかにおいてはえつちゅう一向いっこう一揆いっきたいして上杉うえすぎりょうへの侵攻しんこう要請ようせいしている。武田たけだえいろく11ねん1561ねん)に駿河するが今川いまがわ領国りょうごく併合へいごうし(駿河するが侵攻しんこう)、遠江とおとうみ三河みかわへと侵攻しんこう信長のぶなが同盟どうめい相手あいてである徳川とくがわ家康いえやす対立たいりつしたものの将軍しょうぐん義昭よしあきようする信長のぶなが当初とうしょ友好ゆうこうてき関係かんけいきずいていたが、もとかめ3ねん(1572ねん)には西上にしがみ作戦さくせん開始かいししてきりとなる。武田たけだ本願寺ほんがんじをはじめ浅井あさい朝倉あさくらなど畿内きないはん信長のぶなが勢力せいりょく協調きょうちょうして信長のぶなが対決たいけつするが、よくもとかめ4ねん4がつ12にちには信玄しんげん死去しきょにより撤兵てっぺいする。なお、武田たけだ本願寺ほんがんじつうじて紀伊きい雑賀さいかしゅとの外交がいこう関係かんけいももっている。本願寺ほんがんじ甲斐かい武田たけだ関係かんけいについてはしばつじ俊六しゅんろく本山ほんざんけいだい寺院じいん外交がいこう」『戦国せんごく武田たけだりょう形成けいせい校倉あぜくら書房しょぼう、2003ねん初出しょしゅつ
  6. ^ 相模さがみ北条ほうじょう甲斐かい武田たけだかぶとしょう同盟どうめいむす駿河するが今川いまがわふくめたさんこく同盟どうめい形成けいせいしており、えいろく11ねん武田たけだ駿河するが侵攻しんこう同盟どうめい一時いちじきりとなるが、もとかめ2ねんさい締結ていけつされている。
  7. ^ 原文げんぶん - (はちがつにちいちにち雨下うかはちまんよんせんほん用意よういさんしょ
    いちにち大阪城おおさかじょうわたりりょう近衛このえ殿どの請取うけとりわたりヤクルさま用意よういシケルカ、無残むざんにちいち夜明よあけさんにちマテニみなしょうりょう過分かぶんまいしお・噌・資材しざい悉以しょう國家こっか也、本願寺ほんがんじ上下じょうげ雑賀さいかヘノキりょううん〻、天文てんもんもと一揆いっきヨリ歟、山階やましなヲノキ至當しとうねんよんじゅうはちきゅうねん歟、さかえはなニホコリ、天下てんかヨリモチセキ富貴ふうきしょ一時いちじひたすらほろび盛衰せいすい眼前がんぜん〻〻、ちゅうめしひがしりんいん殿どの・(西屋にしやはちすなりいん・堯舜ヽ、西屋にしやにて不出ふしゅつ英俊ひでとし ちょつじ善之助ぜんのすけ へん多聞たもんいん日記にっきさんまきじゅうよん - まきさんじゅういち」、さん教書きょうしょいん、1935ねん、P.119。
  8. ^ 三国川さくりがわげん神崎川かんざきがわ)と大川おおかわげんきゅう淀川よどがわ)にはさまれた地域ちいき広域こういき地名ちめいで、現在げんざい大阪おおさか北部ほくぶ一帯いったい[11]

出典しゅってん

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  1. ^ 広辞苑こうじえんだいろくはん石山いしやま本願寺ほんがんじ」。
  2. ^ 教学きょうがく研究所けんきゅうじょ へんきょう如上じょじょうじん東本願寺ひがしほんがんじ創立そうりつだい一部いちぶきょう如上じょじょうじんとその周辺しゅうへんだいせつ大坂本願寺おおさかほんがんじ」P.14。
  3. ^ 吉井よしい克信かつのぶ戦国せんごくちゅう近世きんせい移行いこうにおける大坂本願寺おおさかほんがんじ呼称こしょう-『石山いしやま表現ひょうげんをめぐって-」(『寺内てらうちまち研究けんきゅう さん法蔵館ほうぞうかん、1998ねん初出しょしゅつは1996ねん
  4. ^ 川端かわばた泰幸やすゆき大坂本願寺おおさかほんがんじ戦争せんそうをめぐる一揆いっき地域ちいき社会しゃかい大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん) ISBN 4-7924-0589-0 など
  5. ^ 教学きょうがく研究所けんきゅうじょ へんきょう如上じょじょうじん東本願寺ひがしほんがんじ創立そうりつだい一部いちぶきょう如上じょじょうじんとその周辺しゅうへんだいせつ大坂本願寺おおさかほんがんじ」P.13。
  6. ^ a b c 教学きょうがく研究所けんきゅうじょ へんきょう如上じょじょうじん東本願寺ひがしほんがんじ創立そうりつだい大坂本願寺おおさかほんがんじ合戦かっせんきょう如上じょじょうじんだいせつ大坂本願寺おおさかほんがんじ合戦かっせん石山いしやま合戦かっせん)」P.28 -30
  7. ^ a b 日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい
  8. ^ あたらしおさむ 大阪おおさか
  9. ^ 大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大阪おおさか城址じょうし研究けんきゅうかい へん山根やまね徳太郎とくたろう (1953). 大坂おおさかじょう研究けんきゅう. 1かん. 大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大阪おおさか城址じょうし研究けんきゅうかい 
  10. ^ 大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大阪おおさか城址じょうし研究けんきゅうかい へん山根やまね徳太郎とくたろう (1954). 大坂おおさかじょう研究けんきゅう. 2かん. 大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大阪おおさか城址じょうし研究けんきゅうかい 収録しゅうろく
  11. ^ 中島なかじま(中世ちゅうせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • そうしゃ日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけいだい12かん 大阪おおさか兵庫ひょうご新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1981ねん3がつ、148-151ぺーじ
  • しんおさむ大阪おおさか編纂へんさん委員いいんかいあたらしおさむ 大阪おおさかだい2かん、1988ねん3がつ、617-645ぺーじ
  • 伊藤いとうから摂津せっつ石山いしやま本願寺ほんがんじ 寺町てらまちまち構成こうせい」『建築けんちく史学しがくだい3ごう、1984ねん4がつ、2-25ぺーじ
  • 仁木にきひろし寺内てらうちまち城下町じょうかまち」『大坂おおさか近畿きんきしろまち』、和泉いずみ書院しょいん、2007ねん5がつ、41-61ぺーじ
  • 新村しんむら いずる へん広辞苑こうじえん』(だいろくはん岩波書店いわなみしょてん 電子でんしばん
  • 教学きょうがく研究所けんきゅうじょ へんきょう如上じょじょうじん東本願寺ひがしほんがんじ創立そうりつ-本願寺ほんがんじ東西とうざい分派ぶんぱ真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱん、2004ねん8がつISBN 4-8341-0326-9 
  • 英俊ひでとし ちょつじ善之助ぜんのすけ へん多聞たもんいん日記にっきさんまきじゅうよん - まきさんじゅういち」、さん教書きょうしょいん、1935ねん11月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920656 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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