僧兵
概要
主 な僧兵 団
南都 北嶺
興福寺 -奈良 法師 と称 された多数 の僧兵 を抱 え大和 一 国 を治 める実力 を持 つに至 る。戦国 時代 は織田 信長 と同盟 を結 びながら、勢力 を維持 し続 けた。宝蔵 院 流 槍術 の開祖 ・胤 栄 なども有名 。延暦寺 -天台宗 の開祖 ・伝教大師 最澄 が開山 した。王城 鎮護 の霊山 として君臨 しながら、山法師 と称 された数 千 人 の僧兵 を擁 したが、1571年 に織田 信長 による比叡山 焼 き討 ちに遭 い、以後 軍事 力 を喪失 した。
その他
出羽三山 -修験 道場 として隆盛 し、最盛 期 には8千 人 の僧兵 を擁 した。豊臣 秀吉 の刀 狩 りに応 じて武具 を供出 。恵 日 寺 -真言宗 豊山 派 の寺院 で、3000人 ともいわれる僧兵 を擁 し、実質 的 に会津 を支配 下 に置 いていた。しかし、1589年 (天正 17年 )の摺 上原 の戦 いに勝利 した伊達 政 宗 が会津 へ侵入 した際 にその戦火 に巻 き込 まれ、軍事 力 を喪失 した。
白山平泉寺 -延暦寺 末寺 として、最盛 期 には8千 人 の僧兵 を抱 えて越前 に勢力 を伸 ばす。天正 2年 (1574年 )、一向 一揆 との抗 争 で全 山 が焼失 。勢力 が弱 まる。織田 信長 、豊臣 秀吉 と早 くから結 び、寺領 を回復 する。天平 寺 -真言宗 の寺院 で、山岳 信仰 の拠点 霊場 として栄 えた。3千 にも及 ぶ僧兵 を抱 えた能登 有数 の勢力 であった。1582年 (天正 10年 )本能寺 の変 直後 の混乱 に乗 じて、越後 の上杉 方 についていた能登 畠山 氏 旧臣 が蜂起 し、天平 寺 衆徒 と共 に石動山 に立 て籠 った為 、前田 利家 、佐久間 盛 政 、長 連 龍 らの織田 軍 に焼 き討 ちされ、壊滅 した。真宗 大谷 派 井波 別院 瑞泉寺 -一向 宗 の寺院 で、越 中 一向 一揆 の拠点 であった。天正 9年 (1581年 )、織田 信長 の北陸 方面 軍 、佐々 成 政 の焼 き討 ちに遭 い、軍事 力 を喪失 した。勝興寺 -一向 宗 の寺院 で、越 中 一向 一揆 の拠点 であった。瑞泉寺 と並 んで越 中 一向 一揆 の中心 勢力 として猛威 を振 るったが、天正 9年 (1581年 )に石黒 成 綱 に焼 き討 ちされ、軍事 力 を喪失 した。尾山 御坊 -一向 宗 の寺院 で、加賀 一向 一揆 の拠点 であった。織田 信長 の北陸 方面 軍 、佐々 成 政 に敗 れ、軍事 力 を喪失 した。吉崎 御坊 -一向 宗 の寺院 で、加賀 ・越 中 などの門徒 を集 め北陸 における一向 一揆 の拠点 となったが、永 正 3年 (1506年 )、九頭竜川 の戦 いで朝倉 宗 滴 に敗 れ、勢力 を失 った。
諏訪 大社 -武田 信玄 に制圧 され、軍事 力 を喪失 した。大名 家 としては江戸 時代 に再興 したが、神官 家 とは分 かれることになった。浅間 大社 -武田 信玄 による駿河 侵攻 に巻 き込 まれる。武田 を相手 に頑強 に抵抗 したが、穴山 信 君 を通 して降伏 し、軍事 力 を失 った。本 證 寺 -一向 宗 の寺院 で、三河 一向 一揆 の際 には上宮 寺 ・勝 鬢 寺 などとともに一向 宗 門徒 の拠点 の1つとなり徳川 家康 に対 して頑強 に抵抗 したが、1564年 の小川 の戦 いで敗 れ勢力 を失 った。照 蓮 寺 -一向 宗 の寺院 で、帰 雲 城 ・城主 内 ヶ島 氏 と手 を結 んだことにより照 蓮 寺 の勢力 は拡大 し、全盛期 には大名 に匹敵 するほどの大 勢力 を築 いた。三木 氏 の後 に飛騨 国 を治 めた金森 長 近 はそれを恐 れ、1588年 (天正 16年 )、高山 城 城下 に移転 させるなどの弾圧 政策 を取 り、勢力 を失 った。願 証 寺 -一向 宗 の寺院 で、長島 一向 一揆 の拠点 として伊勢湾 一帯 を治 める大 勢力 であった。織田 信長 に対 して3度 に渡 って激 しく抵抗 したが、天正 2年 (1574年 )の第 三 次 長島 侵攻 で激戦 の末 に壊滅 した。
石山 本願寺 -独自 の僧兵 集団 ではなく、各地 の門徒 (多 くは国人 や庶民 )を動員 した一向 一揆 を通 じて絶大 な影響 力 ・軍事 力 を誇 ったが、石山 合戦 に敗 れ壊滅 、軍事 力 を喪失 した。高野山 -真言宗 の開祖 ・空海 (弘法大師 )が開山 した。高野 衆 と称 された大 規模 な僧兵 集団 を擁 し、天正 9年 (1581年 )の際 には紀州 征伐 の際 は信長 勢 を撃退 している。信長 の死後 、天正 13年 (1585年 )に豊臣 秀吉 によって行 われた紀州 征伐 の際 には秀吉 の降伏 勧告 に応 じ、軍事 力 を喪失 した。聖衆 寺 -千 人 もの僧兵 を抱 える真言宗 の大 寺院 であったが、天正 年間 (1573年 - 1593年 )に織田 信長 の家臣 滝川 一益 の北 伊勢 侵攻 の際 に焼 き討 ちされて壊滅 的 な被害 を受 けた。江戸 時代 になってから焼 け残 った堂宇 で復興 したが、かつての面影 は無 い。根来寺 -真言宗 から独立 した新 義 真言宗 の寺院 で、根来 衆 とよばれる僧兵 1万 を擁 した紀州 屈指 の大 勢力 であった。また、根来 寺僧 によって種子島 から伝来 したばかりの火縄銃 1挺 が持 ち帰 られたことをきっかけに、津田 流 砲術 の開祖 ・津田 算 長 をはじめ、強力 な鉄炮 隊 で保持 していた。天正 13年 (1585年 )、豊臣 秀吉 による紀州 征伐 で制圧 され、軍事 力 を喪失 した。三嶽 寺 -平安 時代 初期 の大同 2年 (807年 )に最澄 (伝教大師 )によって開 かれたと伝 わる天台宗 山門 派 の大 寺院 で、元々 鈴鹿山脈 の国見岳 にあったが、織田 信長 が比叡山 焼 き討 ちを行 う3年 前 の永 禄 11年 (1568年 )に織田 信長 の命 により、滝川 一益 の軍勢 が押 し寄 せ、当時 三 岳 寺 には数 百 人 もの僧兵 が居 て勇敢 に戦 ったものの多 くの堂宇 が悉 く兵火 により灰燼 に帰 した。三岳 寺 の近 くの湯 の山温泉 では、毎年 10月 初旬 には織田 信長 の軍勢 に立 ち向 かい勇敢 に戦 った僧兵 を忍 んで僧兵 まつりが行 われている。粉河寺 -天台宗 系 の寺院 で、粉河 衆 と称 された中小 規模 の僧兵 集団 を擁 していた。天正 13年 (1585年 )、豊臣 秀吉 による紀州 征伐 で制圧 され、軍事 力 を喪失 した。日前 神宮 ・國 懸 神宮 -広大 な社領 を有 し、地方 大名 に匹敵 するほどの武力 をもっていた。実際 に、雑賀 衆 と度々 武力 衝突 を起 こしている。天正 13年 (1585年 )、豊臣 秀吉 による紀州 征伐 で制圧 され、軍事 力 を喪失 した。妙楽寺 -興福寺 と度々 武力 衝突 を起 こす。天正 13年 (1585年 )、大和 に入国 した豊臣 秀長 の武装 解除 要求 に応 じ、武具 を供出 。金峯山 寺 -多 くの僧兵 (吉野 大衆 と呼 ばれた)を抱 え、その勢力 は南都 北嶺 (興福寺 と延暦寺 の僧兵 を指 す)にも劣 らないといわれた。天正 13年 (1585年 )、大和 に入国 した豊臣 秀長 の武装 解除 要求 に応 じ、武具 を供出 。
大山寺 -天台宗 の寺院 で、鎌倉 時代 には3千 人 の僧兵 を擁 していたが、度々 僧兵 同士 の武力 衝突 を起 こした。戦国 時代 も勢力 を維持 したが、豊臣 秀吉 の刀 狩 りにより軍事 力 を喪失 。鰐淵 寺 -天台宗 の寺院 で、広大 な寺領 と多数 の僧兵 を抱 えた出雲 有数 の勢力 となる。戦国 時代 は毛利 元就 の手厚 い保護 のもと勢力 を維持 したが、豊臣 秀吉 の刀 狩 りにより軍事 力 を喪失 。毎年 10月 には弁慶 まつりが行 われている。出雲 大社 -鰐淵 寺 と関係 が深 く、同 寺 と並 ぶ出雲 有数 の勢力 であった。豊臣 秀吉 の刀 狩 りにより軍事 力 を喪失 。厳島 神社 -厳島 神主 家 は広島 湾 一帯 を支配 する水軍 を備 えた国人 勢力 として活動 したが、天文 9年 (1540年 )の吉田 郡 山城 の戦 いで大内 氏 ・毛利 氏 に反旗 を翻 して、尼子 氏 に付 いた。しかし翌年 、吉田 郡 山城 の戦 いで毛利 ・大内 連合 軍 が勝利 すると、大内 氏 に制圧 され、軍事 力 を喪失 した。
八坂 寺 -真言宗 の寺院 で、熊野 権現 を勧進 して十 二 社 権現 とともに祀 り、修験 道 の根本 道場 として栄 え、僧兵 も擁 していた大寺 であったが、天正 年間 (1573年 - 1592年 )に焼失 してからは寺 域 も縮小 し、勢力 が弱 まる。
宗像 大社 -大 宮司 であった宗像 氏 貞 の時代 に最大 の版図 を築 くが、氏 貞 が後継 がないまま急死 した後 、豊臣 秀吉 の九州 の役 の際 に社領 を没収 されて軍事 力 を失 った。阿蘇 神社 -肥後 国 一宮 とされて崇敬 を受 け、広大 な社領 を有 していた。当主 ・阿蘇 氏 は戦国 大名 としても活躍 したが、豊 薩合戦 の際 、真 っ先 に島津 氏 の侵略 を受 けて降伏 、さらに豊臣 秀吉 の九州 の役 の際 に社領 を没収 され、大名 としては終焉 した。宇佐 神宮 -豊前 国 一宮 として厚 い崇敬 を受 け、九州 一 の荘園 領主 として、また実質 的 に宇佐 郡 を中心 とした国人 領主 の盟主 として繁栄 を誇 った。家 末社 にあたる八幡 奈多 宮 出身 の田原 親 賢 が方 分 (守護 代 )となって以降 、大友 氏 と敵対 するようになり、焼 き討 ちされるに及 んで勢力 を失 った。のちに宇佐 神宮 の社家 出身 の時枝 鎮継(九州 征伐 後 、黒田 氏 の家臣 となっていた)は石垣原 の戦 いで大友 氏 滅亡 に一役 買 うことになった。英彦山 -修験 道場 として隆盛 し、最盛 期 には数 千 名 の僧兵 を擁 した。英彦山 が秋月 種実 と軍事 同盟 を結 んだため、天正 9年 (1581年 )、敵対 する大友 義統 による彦山 焼 き討 ちを受 けて敗 れ、勢力 が弱 まる。護国寺 ・如法寺 -求菩提 山 護国寺 は修験 道場 で、常 在 山 如法寺 はもともとその末寺 の一 つ。13世紀 頃 から所領 を巡 って対立 を続 け、16世紀 には大内 氏 の介入 を招 く。
関連 書籍
衣川 仁 『僧兵 =祈 りと暴力 の力 』講談社 、2010年 。ISBN 4062584859日置 英 剛 『僧兵 の歴史 ―法 と鎧 をまとった荒法師 たち』戎 光 祥 出版 、2003年 。ISBN 4900901288勝野 隆信 『僧兵 』至文 堂 、1955年 。NCID BN04683079、全国 書誌 番号 :55011828