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悪党 - Wikipedia

悪党あくとう(あくとう)とは、

  1. 一般いっぱん悪人あくにん意味いみするかたり。この場合ばあいあくとは、おおむ人道じんどうはずれたおこないや、それに関連かんれんする有害ゆうがいなものを概念がいねんである。悪人あくにん悪漢あっかんならずものごろつき
  2. 中世ちゅうせい日本にっぽんにおいて、支配しはいそう体制たいせい反抗はんこうし、騒乱そうらんこしたもの集団しゅうだんしょうほんこうではこちらについて解説かいせつする。

概要がいよう

編集へんしゅう

古代こだい荘園しょうえんせいが、武士ぶし浸食しんしょくによって崩壊ほうかいしてゆく過程かていで、浸食しんしょくしてゆく武士ぶしした呼称こしょうとしてもちいられた。

荘園しょうえんせいにおいて、荘園しょうえん領主りょうしゅ本家ほんけおよび領家りょうけ)から現地げんちでの管理かんり下請したうけしていたそうかんしょくいていたものが、のち武士ぶしばれるようになったが、かれらが、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきから後期こうきにかけて、ときには現地げんち農民のうみん連携れんけいしながら荘園しょうえん領主りょうしゅ反抗はんこうし、幕府ばくふろく探題たんだい)の介入かいにゅう排除はいじょして、みずからの土地とち支配しはいけん既成きせい事実じじつしていった。

やがて、鎌倉かまくら幕府ばくふ崩壊ほうかいし、つづ南北なんぼくあさ時代じだい動乱どうらん長期ちょうきだい規模きぼすると、武功ぶこうによる恩賞おんしょう目当めあてに全国ぜんこく転戦てんせんする武士ぶしあらわれる。かれらは、本家ほんけ宗教しゅうきょうてき権威けんいをバックに荘園しょうえん管理かんりするそうかん時代じだい姿すがたから一変いっぺんし、みずからの武力ぶりょくたのみにせんおこない、ときには略奪りゃくだつはたらき、さら派手はでないでち(ばさら)をこのんだ。この行動こうどう原理げんりが、旧来きゅうらい価値かちかん対比たいひして、古代こだい律令制りつりょうせい以来いらい秩序ちつじょ崩壊ほうかい社会しゃかい無秩序むちつじょ象徴しょうちょうするような存在そんざいとみなされて、「あく」としょうされるようになった。

この意味いみにおける「あく」とは、「命令めいれい規則きそくしたがわないもの」にたいする価値かち評価ひょうかす。なお、この場合ばあい悪人あくにんやならずものというニュアンスはともなわず、社会しゃかい上流じょうりゅう階級かいきゅうであっても悪党あくとうふくまれる。たとえば、平野ひらのすすむかん入道にゅうどう公卿くぎょう西園寺さいおんじこうむね家人かじんであり、近衛このえすすむかんしたがえろくじょう相当そうとう)の官位かんいち、貴族きぞくしたがえ以上いじょう)まであといち朝廷ちょうていかんじんであった。

史料しりょうにおける悪党あくとうかたり初出しょしゅつは 『ぞく日本にっぽんれいかめ2ねん5がつ21にちじょう716ねん)のみことのりえる「ぜに悪党あくとう」であるが、これはほん記事きじ対象たいしょうである事象じしょうとはことなるものとおもわれる。2れい12世紀せいき後半こうはんの「占部うらべ安光やすみつ文書ぶんしょ紛失ふんしつじょうあん」(えいよろず元年がんねん1165ねん)3がつ21にちづけ)までなく、以降いこう頻出ひんしゅつされるようになる。

12世紀せいきは、中世ちゅうせい社会しゃかい経済けいざい体制たいせいである荘園しょうえんこうりょうせいがようやく確立かくりつした時期じきであるが、どう後半こうはんられた悪党あくとう用例ようれいは、いずれも荘園しょうえんおおやけりょうにおける支配しはい体制たいせいまたは支配しはいイデオロギーを外部がいぶからおかしたものしてもちいられていた。荘園しょうえん領有りょうゆうしゃであった本所ほんじょは、だい寺院じいんであることがおおく、その支配しはい体制たいせいは、本所ほんじょ宗教しゅうきょうてき権威けんいをもとに正当せいとうされていた。

本所ほんじょそうみんとのあいだ利害りがい対立たいりつしょうじたときも、そうみんから本所ほんじょ当局とうきょくへの上申じょうしんや、交渉こうしょう決裂けつれつしたとき逃散権利けんり保証ほしょうされており、またその上申じょうしん一味いちみ神水じんずい儀式ぎしきなど、本所ほんじょ宗教しゅうきょうてき権威けんいによって、円滑えんかつてき荘園しょうえん経営けいえいがなされる仕組しくみになっていた。そうみんもその宗教しゅうきょうてき権威けんいとの一体いったいかん自明じめいのものとしており、その権威けんいのもとで、本所ほんじょ当局とうきょくわたいながら、荘園しょうえん経営けいえい一端いったんになっていた[1]悪党あくとうによる荘園しょうえんこうりょうせいへの反逆はんぎゃくは、荘園しょうえん神聖しんせいせい外部がいぶからおか仏法ぶっぽう破壊はかい行為こういである、と規定きていされることもあり[2]、むしろそうみんうったえによって排除はいじょされることもあった。悪党あくとう紛争ふんそう実態じったいは、本所ほんじょいちえん同士どうし、または本所ほんじょいちえん地頭じとうそうとの所領しょりょう紛争ふんそうであり、一方いっぽう本所ほんじょから悪党あくとうとは、その紛争ふんそう相手あいてたる本所ほんじょいちえん領主りょうしゅであった。

悪党あくとう発生はっせい蔓延まんえん

編集へんしゅう

この荘園しょうえんせい安定あんていは、13世紀せいきなかばから、こわれてゆくことになる。その動機どうきとして、以下いかてん指摘してきされている。

まず、鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきから、御家人ごけにんなかで、経済けいざい没落ぼつらくしてゆくものがあらわはじめた。鎌倉かまくら幕府ばくふ草創そうそううけたまわ寿ことぶきひさしらんにおける平家ひらか討伐とうばつ以降いこう戦乱せんらん慢性まんせいてきつづくことによって御家人ごけにんあいだでの所領しょりょうさい分配ぶんぱいつづき、御家人ごけにん自己じこ増殖ぞうしょく欲求よっきゅうこたえてきたが、たからおさむ元年がんねん1247ねん)のたからおさむ合戦かっせんにより、とくむね専制せんせい完成かんせいして政治せいじてき安定あんてい実現じつげんすると、所領しょりょうさい配分はいぶん機会きかいとなる戦乱せんらん発生はっせい自体じたいられなくなった。以降いこう御家人ごけにん所領しょりょう相続そうぞくは、惣領そうりょう庶子しょしへの分割ぶんかつ相続そうぞくから惣領そうりょうのみへの単独たんどく相続そうぞくへと移行いこう、これと同時どうじに、諸方しょほう点在てんざいする所領しょりょう集約しゅうやくと、在地ざいちでの所領しょりょう経営けいえいすすんだ。この過程かていで、庶子しょし中心ちゅうしんとする御家人ごけにん階層かいそう没落ぼつらく発生はっせいするとともに、本所ほんじょ在地ざいち領主りょうしゅとの所領しょりょう紛争ふんそう先鋭せんえいしていったのである。

また、荘園しょうえん支配しはい内部ないぶでは、在地ざいち領主りょうしゅによる侵略しんりゃくふせぐために、本所ほんじょ荘園しょうえん支配しはい強化きょうかしていたが、在地ざいち荘園しょうえん支配しはい実務じつむにあたるそうかんかれらも在地ざいち領主りょうしゅそう一員いちいんである)はみずからの経営けいえいけん確立かくりつしようとしていた。ここでも、本所ほんじょそうかんあいだ対立たいりつころうとしていた。

くわえて、貨幣かへい経済けいざい流通りゅうつう経済けいざい社会しゃかいへの浸透しんとう急速きゅうそくすすんでいた。これにより、田圃たんぼいちまいいちまいたいする私的してき所有しょゆう概念がいねんひろまり、それぞれの土地とちからの納入のうにゅう用途ようとが、「てらへの供物くもつ」などという精神せいしんてき抽象ちゅうしょうてきなものではなく、より具体ぐたいてきに「地主じぬしあずかしょ)の収入しゅうにゅう」という世俗せぞくてき用途ようともちいられることが可視かしされた。これにより、そうみん本所ほんじょたいする精神せいしんてき一体いったいかん持続じぞくできない事態じたいいたり、本所ほんじょ宗教しゅうきょうてき権威けんいうしなわれていった。

以上いじょうられる御家人ごけにんそう内部ないぶ、もしくは荘園しょうえん支配しはい内部ないぶにおける諸々もろもろ矛盾むじゅんは、中世ちゅうせい社会しゃかい流動りゅうどうへとつながっていき、13世紀せいき後半こうはんからの悪党あくとう活発かっぱつをもたらした。さらにどう時期じきもともこれらの矛盾むじゅんをさらに増大ぞうだいさせ、悪党あくとう活動かつどうさらなる活発かっぱつうながしたのである。

展開てんかい

編集へんしゅう

外部がいぶから荘園しょうえん支配しはい侵入しんにゅうする悪党あくとうのほか、蝦夷えぞ海賊かいぞくてき活動かつどうおこなうみみんなども悪党あくとうばれたが、これは支配しはい体系たいけい外部がいぶ人々ひとびと悪党あくとうとみなす観念かんねんもとづいている。諸国しょこくたびする芸能げいのうみん遊行ゆぎょうそうなどが悪党あくとうてき性格せいかくつとされていたのも同様どうよう理由りゆうからだとかんがえられている。蝦夷えぞうみみん芸能げいのうみん遊行ゆぎょうそうらはいずれも荘園しょうえんこうりょうせいてき支配しはい体系たいけい外部がいぶきる漂泊ひょうはくてき人々ひとびとであり、支配しはい外部がいぶにいることをしめ奇抜きばつ服装ふくそう、すなわち異形いぎょうものおおかった。網野あみの善彦よしひこは、これらの「悪党あくとう」が13世紀せいきなかばから急速きゅうそく成長せいちょうせた流通りゅうつう経済けいざい資本しほん経済けいざいになであり、中世ちゅうせい社会しゃかいあらたな段階だんかいひらいた主体しゅたいひとつといた[3]

支配しはい体系たいけい外部がいぶからの侵略しんりゃくしゃのみを悪党あくとう状況じょうきょう変化へんかしょうじたのは弘安ひろやす年間ねんかん1278ねん - 1288ねん)のことである。この時期じきには荘園しょうえん支配しはい内部ないぶ対立たいりつ関係かんけいがついに顕在けんざいし、本所ほんじょたいするそうかん在地ざいち領主りょうしゅそう抵抗ていこう活動かつどうおさえられなくなり、本所ほんじょ対立たいりつしたそうかん在地ざいち領主りょうしゅそう本所ほんじょから悪党あくとうばれはじめ、本所ほんじょとの所領しょりょう紛争ふんそう展開てんかいしていった。もっとも、それ以前いぜんから地頭じとう本所ほんじょ対立たいりつし、荘園しょうえん侵略しんりゃくすすめていき、地頭じとう請所下地したじ中分なかぶんなどの契約けいやくおこなっていた。つまり鎌倉かまくら幕府ばくふという背景はいけいたずして荘園しょうえん侵略しんりゃくすすめていった在地ざいち領主りょうしゅそうが、悪党あくとうばれたのである。

御家人ごけにん階層かいそうけても、単独たんどく相続そうぞくなどにより所領しょりょううしなったあし御家人ごけにん旧領きゅうりょう残留ざんりゅうし、しん地頭じとう支配しはい妨害ぼうがいして悪党あくとうばれる事例じれい発生はっせいしていた。御家人ごけにんのみならず、御家人ごけにんも「悪党あくとう」としてあつかわれるようになり、観念かんねん非常ひじょうおおきな変化へんかあらわれであった。

この段階だんかいにおいて、本所ほんじょ対立たいりつしたそうかんそうには、うえげた漂泊ひょうはくてき悪党あくとうふくまれていたとかんがえられている。かれらのなかには、各地かくち往来おうらいしながら交易こうえきにたずさわり、流通りゅうつう経済けいざいになとして資本しほん蓄積ちくせき有徳うとくじんばれるものもいた。そうした有徳うとくじん経済けいざいりょく背景はいけいとしてそうかん補任ほにんされ、所領しょりょう経営けいえいれいもあったのである。また、在地ざいちそうかん対立たいりつした本所ほんじょは、そうかんたよらず、独自どくじ年貢ねんぐ物資ぶっし運搬うんぱんする流通りゅうつう経路けいろ確保かくほする必要ひつようせまられていたが、ここで年貢ねんぐ物資ぶっし流通りゅうつうになったのが漂泊ひょうはくてき悪党あくとうなのであった。

13世紀せいき後半こうはん以降いこう悪党あくとう畿内きない東北とうほく九州きゅうしゅうなどで活発かっぱつ活動かつどうし、成敗せいばい式目しきもく禁止きんしされている悪党あくとう地頭じとう結合けつごうなどられるようになった。悪党あくとう活動かつどう支配しはい体系たいけい流動りゅうどうまねき、幕府ばくふはこれに対応たいおうするため、13世紀せいきまつから悪党あくとう鎮圧ちんあつ積極せっきょくてきはじめた。

元々もともと本所ほんじょいちえんにおける警察けいさつけん司法しほうけん本所ほんじょ所管しょかんであり、朝廷ちょうてい裁定さいていすることとなっていた。しかし、悪党あくとういちじるしい横行おうこうにより本所ほんじょ幕府ばくふ鎮圧ちんあつつよ要望ようぼうしていった。幕府ばくふがわとしても、御家人ごけにんそう独自どくじに「荘園しょうえん侵略しんりゃく」をおこなことや、幕府ばくふ御家人ごけにんでありながら幕府ばくふ支配しはい妨害ぼうがいする存在そんざいは、看過かんかできるものではなかった。そこで、1290年代ねんだい前半ぜんはんになって確立かくりつされたのがつぎ鎮圧ちんあつ手続てつづきである。まず本所ほんじょ朝廷ちょうていうったえをこし、朝廷ちょうてい召喚しょうかん被告人ひこくにん(=悪党あくとう)がおうじない場合ばあいは、違勅いちょくがあったとして朝廷ちょうていから幕府ばくふけんだんめいじる。このとき幕府ばくふける命令めいれい違勅いちょく綸旨りんじまたは違勅いちょく院宣いんぜんという。綸旨りんじ院宣いんぜんけた幕府ばくふ御家人ごけにん2にん使節しせつにんじた(りょう使つかい)。りょう使つかいには、任務にんむ遂行すいこうのため、守護しゅご不入ふにゅうとされている本所ほんじょいちえんへの入部にゅうぶゆるされており、さらに本所ほんじょがわ下地したじ遵行を指示しじする権限けんげんあたえられていることもあった。悪党あくとうおいのためにはじまったこの手続てつづきは、朝廷ちょうていまれた寺社じしゃ権門けんもんあいだざつ沙汰さた所領しょりょう訴訟そしょう)においても採用さいようされ、さらには室町むろまち時代じだい使節しせつ遵行けん根源こんげんとなった。

だが、違勅いちょく綸旨りんじまたは違勅いちょく院宣いんぜんされると、朝廷ちょうてい協力きょうりょくして治安ちあん維持いじにあたるという当時とうじ方針ほうしん建前たてまえじょう被告人ひこくにん御家人ごけにんでなおかつ正当せいとう主張しゅちょうがあったとしても「悪党あくとう」と認定にんていされてしまうと幕府ばくふ御家人ごけにん保護ほごすることが困難こんなんになり、幕府ばくふにはけんだんさきばしにしてそのあいだ御家人ごけにん説得せっとくして朝廷ちょうてい処分しょぶんしたがわせて綸旨りんじ院宣いんぜん内容ないよう実現じつげんする以外いがい方策ほうさくしかなく、十分じゅうぶん保護ほごけられなかった御家人ごけにん幕府ばくふへの信頼しんらいるがしかねない側面そくめんゆうしていた[4]

この時期じき著名ちょめい悪党あくとうが、12世紀せいきから14世紀せいきにかけて東大とうだい寺領じりょう黒田くろだそう伊賀いがこく)で活躍かつやくした「黒田くろだ悪党あくとう大江おおえである。12世紀せいきから代々だいだいどうそう下司げすしょくつとめる大江おおえは、13世紀せいき後半こうはん黒田くろだそうへの支配しはいけん強化きょうかしようと画策かくさくし、東大寺とうだいじ対立たいりつしてついに悪党あくとうばれるようになり、最終さいしゅうてきには東大寺とうだいじ要請ようせいけたろく探題たんだい鎮圧ちんあつされた。しかし、わってどうそうそう官職かんしょくについた大江おおえ一族いちぞくもまた、年貢ねんぐ納入のうにゅうおこなわないなど東大寺とうだいじとの対立たいりつふかめ、供御くごじんしょうして朝廷ちょうてい直接ちょくせつむすぼうとし、これを鎮圧ちんあつするはずの伊賀いがこく守護しゅごどう御家人ごけにんらとむすんで、黒田くろだそう実質じっしつてき支配しはいするにいたった。結局けっきょく大江おおえろく探題たんだいふたた鎮圧ちんあつされたが、ともかくも、この事例じれい経済けいざいてき成長せいちょうたそうとしている在地ざいち領主りょうしゅ荘園しょうえん領主りょうしゅ抑圧よくあつけたときに悪党あくとうとなることをしめした典型てんけいれいである。このほか、鎌倉かまくら幕府ばくふ倒幕とうばく後醍醐天皇ごだいごてんのうかたについた楠木くすのき正成まさしげ河内かわうちこく)、赤松あかまつ則村のりむら播磨はりまこく)、名和なわ長年ながとし伯耆ほうきこく)、瀬戸内海せとないかい海賊かいぞくしゅらは、悪党あくとうばれた人々ひとびとだったとかんがえられている。

また、古典こてんてきせつとしては、室町むろまち幕府ばくふ執事しつじ高師直こうのもろなお革新かくしんてき政策せいさくすことで、(本人ほんにん悪党あくとうではないが)悪党あくとうからの支持しじだい勢力せいりょくとなったとされる[5]

南北なんぼくあさ動乱どうらん

編集へんしゅう

鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうし、ほどなくして南北なんぼくあさ時代じだい突入とつにゅうすると、南北なんぼくりょうぐん有力ゆうりょく武将ぶしょうひきいられるかたちで、御家人ごけにんそうであった武士ぶしの、過去かこるいないほどだい規模きぼ転戦てんせんられるようになる。これは、旧来きゅうらい御家人ごけにんそう基盤きばんであった荘園しょうえんせいが、悪党あくとうした御家人ごけにん跋扈ばっこによって崩壊ほうかいし、かえってかれらの地位ちい不安定ふあんていしたことにあった。そのため、かれ御家人ごけにんは、従軍じゅうぐんして武功ぶこうげることにより、あらたな所領しょりょう恩賞おんしょうとして獲得かくとくすることを目指めざして、これらのぐんくわわっていた。

しかし、御家人ごけにん無秩序むちつじょだい規模きぼ従軍じゅうぐんにより、軍隊ぐんたい首脳しゅのうじんによる人員じんいん管理かんりとどかない状態じょうたいおちいった。戦地せんちへとかって行軍こうぐんするだけでない兵糧ひょうろう不足ふそくくるしめられるようになり、内乱ないらん初期しょきにあっては、兵糧ひょうろうまい供出きょうしゅつをもってぐんちゅうひょうされていたが、やがて内乱ないらん長期ちょうきするとそのような恩賞おんしょうされなくなったことから、行軍こうぐんちゅう略奪りゃくだつ常態じょうたいするようになったものとおもわれる。それでもまかなえない規模きぼ人員じんいん殺到さっとうした軍隊ぐんたいは、その規模きぼのゆえに、道中どうちゅう崩壊ほうかい脱落だつらくしたさむらいたちは盗賊とうぞくし、これが社会しゃかいのさらなる無秩序むちつじょまねくこととなった[6]

また、かれ御家人ごけにん階層かいそうものたちや、なりあがって守護しゅごへとなってゆくものたちのなかには、きゅう体制たいせいやぶってちから誇示こじするなかで、そのちから表現ひょうげんとして、埓・無軌道むきどう豪奢ごうしゃをきそうあそびの趣向しゅこうとしてあらわれるようになる。この文化ぶんかてき側面そくめんして、「ばさら」と呼称こしょうされるようになった。

終焉しゅうえん

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明徳めいとくやく(1392ねん)によって南北なんぼくあさ動乱どうらんわりをむかえると、室町むろまち幕府ばくふから任命にんめいされた守護しゅごは、知行ちぎょう国内こくない在地ざいち領主りょうしゅそう国人くにびと被官ひかんし、守護しゅご大名だいみょうとして支配しはいつよめた。悪党あくとうばれていた武士ぶしたちも守護しゅご被官ひかんとなって安堵あんどることでみずからが主張しゅちょうするとう知行ちぎょう確保かくほしていくみちえらび、その支配しはい体系たいけいしたまれていくことになる[7]。そして荘園しょうえん侵略しんりゃく守護しゅご大名だいみょう主導しゅどうおこなわれるようになり、それまでも悪党あくとうによって支配しはい体制たいせい弱体じゃくたいさせていた本所ほんじょは、これに対抗たいこうするちからうしなっていた。こうした趨勢すうせいなか、「本所ほんじょ支配しはいおか悪党あくとう」という実態じったいは、次第しだいられなくなった。

研究けんきゅう

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悪党あくとう概念がいねんは、1930年代ねんだい中村なかむらただしかちによって提起ていきされ(『荘園しょうえん研究けんきゅう』 1939ねん)、戦後せんごになると石母田いしもたただし(『中世ちゅうせいてき社会しゃかい形成けいせい』 1946ねん)らによってその姿すがたあきらかにされていった。

戦後せんご歴史れきしがくにおいて、悪党あくとう封建ほうけん領主りょうしゅせいのなかで位置いちづけられていたが、網野あみの善彦よしひこ佐藤さとう進一しんいちらが社会しゃかいてき基盤きばん農業のうぎょう以外いがい手工業しゅこうぎょうみん芸能げいのうみんなどに着目ちゃくもくした中世ちゅうせいふみぞう提示ていじすると、悪党あくとう存在そんざいもそれらと関連付かんれんづけてろんじられるようになり、20世紀せいきまつからは海津かいづ一朗いちろうらによってもと寇や徳政令とくせいれいひとし社会しゃかい変動へんどうにおける悪党あくとう位置いちづけがこころみられている。

一方いっぽうで、上記じょうき論説ろんせつなどを「まず階級かいきゅう闘争とうそうありきで、そのになとして悪党あくとうという人々ひとびとたとみなすもの」とし、実際じっさいには訴訟そしょうなどの係争けいそう相手あいてへのレッテルとして「悪党あくとう」というかたりもちいられていたにぎなかったのではないかという問題もんだい提起ていきもある[8]

人物じんぶつ一覧いちらん

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悪党あくとうされた人物じんぶつ一覧いちらんである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新井あらい, pp. 61–63.
  2. ^ 渡邊わたなべ浩史こうじ(2007ねん
  3. ^ 網野あみの、ページすう不明ふめい
  4. ^ 木村きむら英一ひでかず勅命ちょくめい施行しこうにみる鎌倉かまくら後期こうきろく探題たんだい」『鎌倉かまくら時代じだい公武こうぶ関係かんけいろく探題たんだい』(清文せいぶんどう、2016ねんISBN 9784792410377
  5. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん高師直こうのもろなお』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  6. ^ 新井あらい, pp. 122–130.
  7. ^ 高橋たかはし典幸のりゆき悪党あくとうのゆくえ」中島なかじま圭一けいいち へんじゅうよん世紀せいき歴史れきしがく あらたな時代じだいへの起点きてん』(高志こうし書院しょいん、2016ねんISBN 978-4-86215-159-9
  8. ^ 呉座ござ勇一ゆういち戦争せんそう日本にっぽん中世ちゅうせい下克上げこくじょう」は本当ほんとうにあったのか』 新潮しんちょう選書せんしょ 2014ねん
  9. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん赤松あかまつ則村のりむら』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん伊勢いせ三郎さぶろう』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんみなもとため』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  12. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん垂水たるみ繁昌はんじょう』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  13. ^ デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus『沢村さわむらそうつな』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  14. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん浅原あさはら為頼ためより』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  15. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん金毘羅こんぴら義方よしえ』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  16. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんべんぼううけたまわほまれ』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  17. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんなま西にし』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  18. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん大江おおえきよしじょう』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  19. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん楠木くすのき正成まさしげ』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  20. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん寺田てらだほうねん』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  21. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんきむおうもりしゅん』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  22. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん上村うえむらはじめむね』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  23. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん若狭わかさけん』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  24. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん服部はっとりほう』 - コトバンク、2012ねん8がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 網野あみの善彦よしひこ無縁むえんおおやけかいらく』、平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃライブラリ」、1996ねんISBN 458276150X
  • 新井あらい孝重たかしげ悪党あくとう世紀せいき』 17かん吉川弘文館よしかわこうぶんかん東京とうきょう文京ぶんきょう歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、1997ねん6がつ1にちISBN 4-642-05417-0 
  • 近藤こんどうしげるいち鎌倉かまくら幕府ばくふ公家くげ政権せいけん」、『新体しんたいけい日本にっぽん1 国家こっか所収しょしゅう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2006ねんISBN 4634530104
  • 櫻井さくらい悪党あくとう」、『日本にっぽん中世ちゅうせい研究けんきゅう事典じてん所収しょしゅう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1995ねんISBN 4490103891
  • 須田すだつとむ『「悪党あくとう」のいちきゅう世紀せいき 民衆みんしゅう運動うんどう変質へんしつと“近代きんだい移行いこう”』、青木あおき書店しょてん、2002ねんISBN 978-4250202131
  • 永原ながはらけい荘園しょうえん』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょ」、1998ねんISBN 464206656X
  • 西田にしだ友広ともひろ悪党あくとうりの中世ちゅうせい 鎌倉かまくら幕府ばくふ治安ちあん維持いじ』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017(ISBN 978-4642083133
  • 渡邊わたなべ浩史こうじ悪党あくとう」、『「鎌倉かまくら遺文いぶん」にみる中世ちゅうせいのことば辞典じてん所収しょしゅう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2007ねんISBN 9784490107296

関連かんれん項目こうもく

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その関連かんれん項目こうもく

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