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大和国 - Wikipedia

大和やまとこく

畿内きないぞくするれいせいこくひと

大和やまとこく(やまとのくに)は、日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんであるれいせいこくひとつ。畿内きないぞくする。現在げんざい奈良ならけん大国たいこく

大和やまとこく

-大和やまとこく
-畿内きない
別称べっしょう かずしゅう(わしゅう)
所属しょぞく 畿内きない
相当そうとう領域りょういき 奈良ならけん
しょもと
国力こくりょく 大国たいこく
ぐんさとかず 15ぐん39さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
大和やまと国府こくふ推定すいてい奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま
推定すいてい奈良ならけん高市たかいちぐん高取たかとりまち
大和やまと国分寺こくぶんじ 奈良ならけん奈良なら東大寺とうだいじ
大和やまと国分こくぶ尼寺あまでら 奈良ならけん奈良なら法華寺ほっけじ
一宮いちのみや 大神神社おおみわじんじゃ奈良ならけん桜井さくらい
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国名こくめいについて

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とうくには、律令りつりょう制定せいていさい表記ひょうきを「だい倭国わのくに(やまとのくに)」として成立せいりつしたとされる[1][2]。ただし藤原ふじわらきょう出土しゅつど木簡もっかんに「□つま倭国わのくにしょぬのひょうだいさと」(ところぬのひょうとは添評をす)とあるように、「倭国わのくに」と記載きさいされた様子ようすえる。

その奈良なら時代じだい天平てんぺい9ねん12月27にちユリウスれき:738ねん1がつ21にち[3]表記ひょうきは「だいやしなえとく」にあらためられた[1]天平てんぴょう19ねん3月16にち747ねん4がつ29にち[4]にはもとの「大倭おおやまと」に改称かいしょう[1]。その天平てんぴょうたから元年がんねん757ねんごろから「大和やまと」にさだめられたとされる[注釈ちゅうしゃく 1]平安へいあん時代じだい以降いこうは「大和やまと」で一般いっぱんした[1]

国名こくめい使用しようされる「ヤマト」とは、元々もともとは「やまと(やまと)、大倭おおやまと(おおやまと/やまと)」とう表記ひょうきして奈良盆地ならぼんちひがしえんいち地域ちいき地名ちめいであった(狭義きょうぎのヤマト)[注釈ちゅうしゃく 2]。その上記じょうきのように「大倭おおやまとだいやしなえとく大和やまと(やまと)」として現在げんざい奈良ならけん部分ぶぶん領域りょういきとするれいせいこくすようになり、さらには「日本にっぽん(やまと)」として日本にっぽん全体ぜんたい名称めいしょうにも使用しようされた[5][6](「大和やまと」のこう参照さんしょう)。

戦国せんごく時代じだいても、飛鳥あすか時代ときよ奈良なら時代じだい以来いらいふる寺社じしゃ権門けんもん領主りょうしゅとして大和やまとこく支配しはいしていたことから、安土あづち桃山ももやま時代じだいには「神国しんこく」という異称いしょうもあった[7]

沿革えんかく

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近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
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大和やまと国内こくないには、これまでに度々どど天皇てんのう住居じゅうきょみや)がかまえられている(詳細しょうさい皇居こうきょ#歴代れきだい皇居こうきょ参照さんしょう)。

国府こくふ所在地しょざいちしるした文献ぶんけんつぎとおり。

国府こくふは、かずら上郡かみごおりわきじょう現在げんざい御所ごしょ東北とうほく同市どうし名柄ながらせつあり)のにあったが、平城京へいじょうきょう遷都せんとともなって8世紀せいき高市たかいちぐん(『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』)のけい[注釈ちゅうしゃく 5]うつったとされる。その13世紀せいきには平群へぐりぐん現在げんざい大和郡山やまとこおりやま今国府いまごう)にうつった。このように国府こくふすうしょ推定すいていされているが、詳細しょうさいあきらかでない。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ12885しゃ(うち名神めいしん大社たいしゃ4726しゃ)・小社しょうしゃ158131しゃけい286216しゃ記載きさいされている(大和やまとこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。

総社そうじゃ一宮いちのみや

二宮にのみや以下いかはない。

古代こだい 中世ちゅうせい 1896ねん4がつ1にち 現在げんざい
曾布 添上そえかみぐん 添上そえかみぐん 添上そえかみぐん 奈良なら天理てんり
添下ぐん 添下ぐん 生駒いこまぐん 大和郡山やまとこおりやま生駒いこま生駒いこまぐん
平群へぐりぐん 平群へぐりぐん
広瀬ひろせぐん 広瀬ひろせぐん 北葛城きたかつらぎぐん 大和高田やまとたかだ香芝かしば葛城かつらぎ北葛城きたかつらぎぐん
葛城かつらぎ 葛下かつしもぐん 葛下かつしもぐん
かずら上郡かみごおり かずら上郡かみごおり みなみ葛城かつらぎぐん 御所ごしょ葛城かつらぎ一部いちぶ
忍海おしみぐん 忍海おしみぐん
宇智ぐん 宇智ぐん 宇智ぐん 五條ごじょう
吉野よしのぐん 吉野よしのぐん 吉野よしのぐん 五條ごじょう吉野よしのぐん
宇陀うだぐん 宇陀うだぐん 宇陀うだぐん 宇陀うだ宇陀うだぐん
磯城しき 城上じょうかみぐん しき上郡かみごおり 磯城しきぐん 天理てんり橿原かしはら桜井さくらい磯城しきぐん
城下しろしたぐん しき下郡しもごおり
十市とおいちぐん 十市とおいちぐん
高市たかいちぐん 高市たかいちぐん 高市たかいちぐん 橿原かしはら高市たかいちぐん
山辺やまべぐん 山辺やまべぐん 山辺やまべぐん 天理てんり奈良なら山辺やまべぐん

ぐんめいは『延喜えんぎしき』による。

江戸えど時代じだいはん

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  • 郡山こおりやまはん郡山こおりやましろ):水野みずの宗家そうけ〕(6まんせき、1615ねん - 1619ねん)→松平まつだいら奥平おくだいら(12まんせき、1619ねん - 1639ねん)→本多ほんだ(15まんせき→9まんせきと6まんせき、1639ねん - 1679ねん)→松平まつだいら藤井ふじい(12まんせき、1679ねん - 1685ねん)→本多ほんだ(12まんせき→5まんせき、1685ねん - 1723ねん)→柳沢やぎさわ(15まん1せんせき、1724ねん - 1871ねん
  • 高取たかとりはん高取たかとりしろ):本多ほんだ(3まんせき、1600ねん - 1637ねん)→天領てんりょう植村うえむら(2まん5000せき→2まん500せき→2まん5000せき、1640ねん - 1871ねん
  • 柳生やぎゅうはん柳生やぎゅう陣屋じんや):柳生やぎゅう(1まん2500せき→8300せき→1まんせき、1636ねん - 1871ねん
  • 小泉こいずみはん小泉こいずみ陣屋じんや):片桐かたぎり(1まんせき→1まん6せんせき→1まん3せんせき→1まん1せんせき、1600ねん - 1871ねん
  • 柳本やなぎもとはん柳本やなぎもと陣屋じんや):織田おだ(1まんせき、1615ねん - 1871ねん
  • 戒重かいじゅうはん/しばむらはんしばむら陣屋じんや):織田おだ(1まんせき、1615ねん - 1871ねん
  • 大和新庄やまとしんじょうはん桑山くわのやま(2まんせき→1まん6000せき→1まん3000せき→1まん1000せき、1600ねん - 1682ねん)→永井ながい(1まんせき、1682ねん - 1863ねん)→はいはん櫛羅くじらはんてんふう
  • 櫛羅くじらはん櫛羅くじら陣屋じんや):永井ながい(1まんせき、1863ねん - 1871ねん
  • 宇陀うだ松山まつやまはん松山まつやま陣屋じんや):福島ふくしま(3まん1717せき、1600ねん - 1615ねん)→織田おだ(2まん8せんせき、1615ねん - 1695ねん)→はいはん丹波たんば柏原かしわばらはんてんふう
  • 興留おきどめはん興留おきどめ陣屋じんや):松平まつだいら藤井ふじい(1まんせき、1686ねん - 1693ねん)→はいはん備中びっちゅう庭瀬にわせはんてんふう
  • 竜田たつたはん片桐かたぎり(2まん8せんせき→4まんせき→1まんせき、1601ねん - 1654ねん)→はいはん断絶だんぜつ
  • 御所ごしょはん桑山くわのやま(1まん2せんせき→1まんせき→1まん6せんせき→2まん6せんせき、1600ねん - 1629ねん)→はいはん断絶だんぜつ
  • 大和やまと五条ごじょうはん松倉まつくら(1まんせき、1600ねん - 1616ねん)→はいはん肥前ひぜん島原しまばらはんてんふう

人物じんぶつ

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大和やまとまもる

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武家ぶけ官位かんいとしての大和やまとまもる

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江戸えど時代じだい以前いぜん
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江戸えど時代じだい
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鎌倉かまくら室町むろまち時代じだいつうじて守護しゅごしょ設置せっちされず、興福寺こうふくじがその役割やくわりたしていた。ただし、その守護しゅごけん行使こうしについては不明ふめいてんおおく、「興福寺こうふくじ別当べっとう守護しゅご権限けんげん行使こうししていた」せつ[13]、「一乗院いちじょういん大乗だいじょういんりょう門跡もんぜき守護しゅご権限けんげん行使こうししていた」せつ[14]、「りょう門跡もんぜきのどちらかが興福寺こうふくじ別当べっとうとき別当べっとうが、それ以外いがいもの別当べっとうとき別当べっとうりょう門跡もんぜき共同きょうどう守護しゅご権限けんげん行使こうししていた」せつ[15]がある。

ただし、室町むろまち時代じだい後期こうきには宇智ぐん河内かわうち畠山はたけやま[16]が、宇陀うだぐん北畠きたばたけ[17]が、それぞれのぶんぐん守護しゅごであったとするせつがある。

また、天正てんしょう3ねん1575ねん)に織田おだ家臣かしんはなわ直政なおまさ織田おだ信長のぶながから大和やまと守護しゅごにんじられ、直政なおまさ天王寺てんのうじたたか戦死せんしすると天正てんしょう4ねん1576ねん)に筒井つつい順慶じゅんけい織田おだ信長のぶながから大和やまと守護しゅごにんじられている。

戦国せんごく大名だいみょう

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大和やまとこく合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 国史こくし改名かいめい記事きじがないため時期じき諸説しょせつあるが、天平てんぴょうたから元年がんねん(757ねん)の『養老ようろうれい施行しこうからが有力ゆうりょくされる(上田うえだただしあきらわたし日本にっぽん古代こだいうえ)』(新潮しんちょう選書せんしょ)pp. 142-143)。
  2. ^ 和名わみょうしょう』の大和やまとこくしき下郡しもごおり大和やまときょう(おおやまとごう)、現在げんざい大和やまと神社じんじゃ奈良ならけん天理てんり新泉しんいずみまち付近ふきん(『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい体系たいけい 奈良ならけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ大和やまとこくぶしより)。
  3. ^ きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」ではのち大多喜おおたきけん管轄かんかつしたとしているが、三河みかわこくにも飛地とびちのあった大多喜おおたきはんは、慶応けいおう4ねん徳川とくがわ宗家そうけうたてふうより領地りょうち上総かずさこく夷隅いすみぐんにまとめられているため、同時どうじ奈良ならけん移管いかんされたものとおもわれる。
  4. ^ 同年どうねん4がつ27にち(1868ねん5月19にち)にかけて移管いかん
  5. ^ 現在げんざい橿原かしはら大軽おおがるまち石川いしかわまち接点せってん丈六じょうろく、ここをけいの衢という。久米くめまち西池尻にしいけじり/東池尻ひがしいけじり高取たかとりまち土佐とささんせつある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい体系たいけい 奈良ならけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ大和やまとこくぶし
  2. ^ 大和やまとこくはんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん朝日新聞社あさひしんぶんしゃコトバンクより)。
  3. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう9ねん(737ねん)12月27にちじょう
  4. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう19ねん(747ねん)3がつ16にちじょう
  5. ^ 日本にっぽん古代こだいだい辞典じてん』(大和やまと書房しょぼう大和やまとこくこう
  6. ^ 上田うえだただしあきらわたし日本にっぽん古代こだいうえ)』(新潮しんちょう選書せんしょ)pp. 140-142。
  7. ^ 秀吉ひでよし大和やまとしろ(2)】大阪おおさかの“ふくになった「郡山こおりやまじょう」…秀吉ひでよしいのちおとうと秀長ひでなが統治とうち強力きょうりょく寺社じしゃ勢力せいりょくおさえ100まんせき規模きぼに(2/2ページ)産経さんけいWEST(2014ねん1がつ2にち
  8. ^ 和名わみょう類聚るいじゅうしょう 20かん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)12コマ参照さんしょう
  9. ^ じつあくたしょう 3かん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)52コマ参照さんしょう
  10. ^ 節用せつようしゅう えきりんほん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)136コマ。
  11. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか諸国しょこく一宮いちのみやせい』(2009ねん索引さくいんp. 7。
  12. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか諸国しょこく一宮いちのみやせい』(2009ねん)p. 41。
  13. ^ 今谷いまたにあきら室町むろまち時代じだい伝馬てんまについて」(小笠原おがさわら長和おさわ へん東国とうごく社会しゃかい文化ぶんか』(1985ねんあずさ出版しゅっぱんしゃ))
  14. ^ 永島ながしま福太郎ふくたろう奈良なら文化ぶんかつてりゅう』(1944ねん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  15. ^ 田中たなか慶治けいじ室町むろまち大和やまとこく守護しゅごかんするいち考察こうさつ -幕府ばくふ発給はっきゅう文書ぶんしょ中心ちゅうしんに-」(初出しょしゅつ:矢田やた俊文としふみ へん戦国せんごく権力けんりょく文書ぶんしょ』(高志こうし書院しょいん、2004ねんISBN 978-4-906641-80-2/所収しょしゅう:田中たなか中世ちゅうせい後期こうき畿内きない近国きんごく権力けんりょく構造こうぞう』(清文せいぶんどう、2013ねんISBN 978-4-7924-0978-4
  16. ^ 今谷いまたにあきら室町むろまち時代じだい河内かわうち守護しゅご」(『大阪おおさか歴史れきし』7ごう、1976ねん
  17. ^ 今谷いまたにあきら守護しゅご領国りょうごくせいけるくにぐん支配しはいについて」(『千葉ちば史学しがく創刊そうかんごう、1982ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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