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津藩 - Wikipedia

はん

伊勢いせこく所在しょざいしたはん
久居ひさいはんから転送てんそう

はん(つはん)は、伊勢いせ安濃あのうぐん安濃あのう現在げんざい三重みえけん)にかれたはん安濃あのうはん(あのつはん)とばれることもある。はんちょう安濃あのうじょうじょう)。伊賀いがこく上野うえのじょう所有しょゆうした。石高こくだか当初とうしょ伊勢いせ伊賀いが2くにわせた22まんせきで、大坂おおさかじんのち山城やましろこく大和やまとこく(いわゆる「じょうかずりょう」)などが加増かぞうされ最大さいだい32まん3000せきとなった。

はんふみ

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戦国せんごく時代じだい安濃あのうばれ、長野ながの工藤くどう支配しはいにあった。えいろく11ねん1568ねん)、織田おだ信長のぶなが伊勢いせ侵攻しんこう長野ながの工藤くどう信長のぶなが降伏ごうぶくし、信長のぶながおとうと信包のぶかね養子ようしむかえて当主とうしゅとした。信長のぶながぼつ信包のぶかね豊臣とよとみ秀吉ひでよしつかえ、ぶんろく3ねん1594ねん)に2まんせき削減さくげんされて近江おうみうつりふうされた。

わって、富田とみたともしんが5まんせきはいった。しん慶長けいちょう4ねん1599ねん)に死去しきょし、あとしんだかいだ。しんだか徳川とくがわ家康いえやす接近せっきんし、家康いえやす主導しゅどうによる会津あいづ征伐せいばつ参加さんかし、石田いしだ三成みつなり西にしぐん挙兵きょへいすると本国ほんごくもどり、西にしぐん伊勢いせ侵攻しんこうぐんである毛利もうりしげるもと長束ながつかただしたたかい、やぶれて高野山こうのやまのがれた(安濃あのうじょうたたか)。関ヶ原せきがはらたたか家康いえやすしんじだかを2まんせき加増かぞうの7まんせき安濃あのう城主じょうしゅとして復帰ふっきさせた。慶長けいちょう13ねん1608ねん)8がつ24にちしんだか宇和島うわじまはんうつりふうされた。

翌日よくじつの8がつ25にち伊予いよ今治いまばりはん10まんせきから藤堂とうどう高虎たかとらが22まんせき加増かぞうされたうえはいった。内訳うちわけ伊予いよ越智おちぐん今治いまばり2まんせき伊賀いが国内こくない10まんせき伊勢いせ安濃あのうぐん一志いちしぐんうち10まんせきけい22まんせきである。

こうとら江戸城えどじょう普請ふしんなどにもこうげて家康いえやすから絶大ぜつだい信任しんにんけ、外様とざまでありながらはやくから別格べっかく譜代ふだい厚遇こうぐうけることとなる。慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかじんでも家康いえやすがわくみして戦功せんこうげた。伊賀いが上野うえのはんおも筒井つつい定次さだじ改易かいえきもあって勢津せいづはん伊賀いが国内こくない伊勢いせ鈴鹿すずかぐん安芸あきぐん三重みえぐん一志いちしぐんないで5まんせき加増かぞうされけい27まんせきとなり、さら元和がんわ3ねん1617ねんあらたに伊勢いせ度会わたらいぐん田丸たまるしろ5まんせき加増かぞうされ、高虎たかとらおとうと藤堂とうどうただしだか下総しもうさこく所領しょりょう3せんせきはんりょう編入へんにゅうし、最終さいしゅうてきに32まん3000せきりょうするだい大名だいみょうとなった。

なお、田丸たまる5まんせき元和がんわ5ねん1619ねん)に和歌山わかやまじょう徳川とくがわ頼宣よりのぶうつりふうされてくると紀州きしゅうはんりょうとなり、藤堂とうどうには替地かえちとして大和やまとこく山城やましろこくに5まんせきあたえられた。

藩政はんせい初代しょだい藩主はんしゅこうとら時代じだいおこなわれた城郭じょうかく普請ふしん家臣かしんだん編成へんせい農業のうぎょう制度せいど改革かいかく城下町じょうかまち建設けんせつなどで確立かくりつする。

だい2だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高次こうじ寛文ひろふみ9ねん1669ねん)9がつ29にち隠居いんきょするさいだい3だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高久たかひさめいじて次男じなん藤堂とうどうだかどおりに5まんせき分与ぶんよして、ささえはんである久居ひさいはんたてはんさせた。このため、はんは27まん3950せきとなった。高久たかく元禄げんろく10ねん1697ねん)10がつ5にち藤堂とうどうだかけんに3000せき分与ぶんよして、27まん950せきとなった。高久たかくはん財政ざいせい再建さいけんのため、地方ちほう知行ちぎょうせい廃止はいしくらおさめせい移行いこう田畑たばた永代えいたい売買ばいばい禁止きんし新田にった開発かいはつ商業しょうぎょう統制とうせいなどをおこなったが、効果こうかはなかった。

だい4だい藩主はんしゅ藤堂とうどうこうあつし在職ざいしょくには3にわたる地震じしんなどの天災てんさい見舞みまわれたうえ藤堂とうどう嫡流ちゃくりゅうこうあつしをもってはやくも終焉しゅうえんし、以後いごささえはん久居ひさいはんからまねかれて藩主はんしゅとなったものおおい。だい5だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高敏たかとしだい6だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高治たかじだい7だい藩主はんしゅ藤堂とうどうこうあきら藤堂とうどうこうゆたか)らはいずれも久居ひさい藩主はんしゅて、藩主はんしゅになった面々めんめんである。なお、これら養子ようし藩主はんしゅ時代じだい幕命ばくめいによる手伝てつだ普請ふしんなどによる出費しゅっぴ天災てんさい凶作きょうさく相次あいついではん財政ざいせい悪化あっかした。

だい9だい藩主はんしゅ藤堂とうどうだか久居ひさいはんから藩主はんしゅとなった養子ようし藩主はんしゅで、はん財政ざいせい再建さいけん中心ちゅうしんとした藩政はんせい改革かいかくおこなったが、あまりに急性きゅうせいすぎる改革かいかく周囲しゅうい反発はんぱつけ、寛政かんせい年間ねんかんはん最大さいだい百姓ひゃくしょう一揆いっき発生はっせいして改革かいかく挫折ざせつした。

特筆とくひつすべき藩主はんしゅが、だい10代藩主はんしゅ藤堂とうどうだかである。こう兌も久居ひさいはんから転任てんにんした藩主はんしゅこう嶷の実子じっしだったが、すでに久居ひさい藩主はんしゅ時代じだいからその敏腕びんわんをもって藩政はんせい再建さいけん成功せいこうしていた。このため、はん藩政はんせいでも綱紀こうき粛正しゅくせい倹約けんやく植林しょくりん養蚕ようさん奨励しょうれい福祉ふくし政策せいさく文武ぶんぶ奨励しょうれいなどを実行じっこうして藩政はんせい改革かいかく成功せいこうさせ、藤堂とうどう家中興かちゅうこう英主えいしゅたたえられた。また、文武ぶんぶ推奨すいしょうして藩校はんこうゆうづくりかん」を創設そうせつ伊賀いがにも藩校はんこうたかしこうどう」を創設そうせつした。かく武術ぶじゅつ稽古けいこじょう整備せいびされ、剣術けんじゅつではしんかげりゅう若山わかやまりゅう戸波となみりゅうなどの流儀りゅうぎ修練しゅうれんされた。

こう兌のあといだだい11だい藩主はんしゅ藤堂とうどうだか時代じだいには、凶作きょうさく地震じしんなどの天災てんさい相次あいつぎ、はん借金しゃっきん明治めいじいたるまでに212まんりょうにまでたっしたといわれる。

幕末ばくまつには幕府ばくふから黒船くろふね来航らいこうへの対策たいさくとして鳥羽とばはんとともに伊勢神宮いせじんぐうざつみや防衛ぼうえいめいじられ、志摩しま地方ちほう沿岸えんがんには次々つぎつぎ台場だいばきずかれ大砲たいほう設置せっちされた[1]

慶応けいおう3ねん幕命ばくめいけて、山崎やまざき関門かんもん守衛しゅえいにんく。その王政おうせい復古ふっこによりしん政府せいふ誕生たんじょうしたのちも、政府せいふ命令めいれいつづ山崎やまざき関門かんもん守衛しゅえいつづけた。1868ねん慶応けいおう4ねん)1がつ鳥羽とば伏見ふしみたたかはじまると、「薩長さっちょうかいくわ私闘しとうにくみしない」として中立ちゅうりつたもっていたが、しん政府せいふ四条しじょう隆平りゅうへいはん陣営じんえい勅使ちょくしとしておとずれ、敗退はいたいしたきゅう幕府ばくふぐんへの追撃ついげきめいじる。はん守備しゅびたい指揮しきしていた藤堂とうどうもとほどこせ吉村よしむら長兵衛ちょうべえは、勅命ちょくめい以上いじょう官軍かんぐん協力きょうりょくすることを決意けついし、対岸たいがんまくぐん砲台ほうだい砲撃ほうげきして官軍かんぐん勝利しょうりおおきく貢献こうけんすることになった。当初とうしょこそ中立ちゅうりつ宣言せんげんしていたものの、きゅう幕府ばくふがわからは味方みかたおもわれていたため、「藤堂とうどう犬侍いぬざむらい」「そのおこない、はん高虎たかとら)にたり」とそしられた。そのはんへい戊辰戦争ぼしんせんそう東海道とうかいどう先鋒せんぽうとなって、各地かくちきゅう幕府ばくふぐんたたかった。

1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんで、こう猷ははん知事ちじにんじられる。しかし1870ねん明治めいじ3ねん)にはこう猷がおこなった藩政はんせい改革かいかく平民へいみんによる部隊ぶたい編成へんせいされ、これに不満ふまんった士族しぞく長谷部はせべはじめ藤堂とうどうかんぶつ)らが反対はんたいして処刑しょけいされるという庚午こうご事変じへん監物けんもつ騒動そうどう)がこるなどしている。また、伊賀いが4ぐんちこわし(平高ひらたか騒動そうどう)もこっているなど、こう猷の失政しっせい目立めだった。

1871ねん明治めいじ4ねん)6がつ28にちこう猷は隠居いんきょし、だい12だい藩主はんしゅはん知事ちじには藤堂とうどうこうきよし就任しゅうにんしたが、直後ちょくごの7がつ14にちおこなわれた廃藩置県はいはんちけんはんはいはんとなり、安濃あのうけんとなった。1872ねん明治めいじ5ねん)に三重みえけん改称かいしょうされ、1876ねん明治めいじ9ねん)には度会わたらいけん三重みえけん編入へんにゅうされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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富田とみた

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外様とざま。5まんせき→7まんせき(1595ねん-1608ねん

  1. しん
  2. しんだか

藤堂とうどう

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外様とざま。22まん950せき→27まん950せき→32まん3950せき→27まん3950せき→27まん950せき(1608ねん-1871ねん

  1. 高虎たかとら
  2. 高次こうじ
  3. 高久たかく
  4. こうあつし
  5. 高敏たかとし
  6. 高治たかじ
  7. こうあきら
  8. こうゆう
  9. こう
  10. こう
  11. こう
  12. こうきよし

幕末ばくまつ領地りょうち

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明治維新めいじいしん山辺やまべぐん1むら柳生やぎゅうはんりょうから柳生やぎゅうはんはんあいきゅうとなって領地りょうちくわわった。

久居ひさいはん

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久居ひさいはん(ひさいはん)は、伊勢いせこく久居ひさい周辺しゅうへん三重みえけんきゅう久居ひさい現在げんざい合併がっぺいにより)を支配しはいしたはんささえはん

久居ひさいはん

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寛文ひろふみ9ねん1669ねん)、はんだい2だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高次こうじ隠居いんきょして家督かとく藤堂とうどう高久たかひさゆずったとき、次男じなん藤堂とうどうだかどおりに5まんせき分与ぶんよしてはんささえはんである久居ひさいはんだてはんした。しかし城主じょうしゅかく大名だいみょうでありながら、築城ちくじょう許可きょかされず、久居ひさい陣屋じんや城下町じょうかまち建設けんせつするにとどまった。

久居ひさいはん高次こうじ本家ほんけ嗣子ししえた場合ばあい嗣子ししによる改易かいえきそなえて設置せっちしたはんである。元禄げんろく10ねん1697ねん)にこうどおりあといだ藤堂とうどうだかけんは、3000せきをさらに分与ぶんよされて5まん3000せきりょうする藩主はんしゅとなる。久居ひさいはん内部ないぶ状況じょうきょうであるが、つねはん本家ほんけ慣習かんしゅう踏襲とうしゅうし、相談そうだんおこなうこととなったが、5かいわたって江戸えど藩邸はんてい焼失しょうしつし、さらに連年れんねんにわたって凶作きょうさく相次あいつぐなどの悪条件あくじょうけんかさなって、だい5だい藩主はんしゅ藤堂とうどうこうゆたかだい6だい藩主はんしゅ藤堂とうどう高雅こうがころから財政ざいせい悪化あっか顕著けんちょとなった。

そのため、倹約けんやくれいして俸禄のげをおこなったが、その天明てんめいだい飢饉ききん天保てんぽうだい飢饉ききん甲州こうしゅう諸川もろかわ手伝てつだ普請ふしんなどから、つい財政ざいせい破綻はたん寸前すんぜんとなった。しかし名君めいくん有名ゆうめいだい12だい藩主はんしゅ藤堂とうどうだか兌の藩政はんせい改革かいかくにより、はん財政ざいせい再建さいけんされた。しかしこう兌の死後しごこう兌は本家ほんけ藩主はんしゅとなっていた)、ふたた久居ひさいはん財政ざいせい悪化あっかし、だい15だい藩主はんしゅ藤堂とうどうだか新田にった開発かいはつ雲出川くもずがわ治水ちすい工事こうじむことで藩政はんせい再建さいけんしようとした。この改革かいかく成功せいこうし、ふたた久居ひさいはん再建さいけんされた。

幕末ばくまつ本家ほんけはんとも天誅てんちゅうぐみ討伐とうばつ参加さんかした。明治めいじ2ねん1869ねん)、だい16だい藩主はんしゅ藤堂とうどうこうくに版籍はんせき奉還ほうかんによりはんごととなる。明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん久居ひさいはんはいはんとなって久居ひさいけん安濃あのうけん翌年よくねんには三重みえけん編入へんにゅうされた。久居ひさいはんりょう一志いちしぐん久居ひさいけん度会わたらいけんとなり、明治めいじ9ねん1876ねん)には三重みえけん編入へんにゅうされることとなった。

歴代れきだい藩主はんしゅおおくは若死わかじに、もしくは本家ほんけはん継承けいしょうしたものおおい。

歴代れきだい久居ひさい藩主はんしゅ

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  • 藤堂とうどう

外様とざま。5まんせき→5まん3000せき→5まん8700せき

  1. こうどおり
  2. こうけん
  3. こうひね
  4. 高治たかじ
  5. こうゆたか
  6. 高雅こうが
  7. こうあつし
  8. こう
  9. こうきょう
  10. こう
  11. こうのぶ
  12. こう
  13. 高邁こうまい
  14. こう - 「やつ」は「秭(禾+ちょう)」
  15. こう
  16. こうくに

江戸えど墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん改葬かいそうされている。

幕末ばくまつ領地りょうち

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  • 山城やましろこく
    • 相楽さがらぐんのうち - 14むら 
  • 大和やまとこく
    • 添上そえかみぐんのうち - 4むら
    • 広瀬ひろせぐんのうち - 1むら
    • しき上郡かみごおりのうち - 1むら
    • 十市とおいちぐんのうち - 7むら
    • 山辺やまべぐんのうち - 15むら
  • 伊勢いせこく
    • 三重みえぐんのうち - 11むら
    • 河曲かまがりぐんのうち - 16むら
    • 鈴鹿すずかぐんのうち - 7むら
    • 安濃あのうぐんのうち - 15むら
    • 一志いちしぐんのうち - 16むら

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 志摩しま文化財ぶんかざい”. 志摩しま. p. 34. 2021ねん9がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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関連かんれんリンク

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先代せんだい
伊勢いせこく伊賀いがこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1595ねん - 1871ねん はんけん
次代じだい
安濃あのうけん
先代せんだい
伊勢いせこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1669ねん - 1871ねん 久居ひさいはん久居ひさいけん
次代じだい
度会わたらいけん