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甲斐国 - Wikipedia

甲斐かいこく

中国ちゅうごくぞくするれいせいこくひと

甲斐かいこく(かいのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくし、現在げんざい山梨やまなしけん相当そうとうする。

甲斐かいこく

-甲斐かいこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう 甲州こうしゅう(こうしゅう)
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 山梨やまなしけん
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 中国ちゅうごく
ぐんさとかず 4ぐん31さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
甲斐かい国府こくふ推定すいてい山梨やまなしけん笛吹ふえふきうちの3ヶ所かしょ
甲斐かい国分寺こくぶんじ 山梨やまなしけん笛吹ふえふき甲斐かい国分寺こくぶんじあと
甲斐かい国分こくぶ尼寺あまでら 山梨やまなしけん笛吹ふえふき甲斐かい国分こくぶ寺跡てらあと
一宮いちのみや 浅間あさま神社じんじゃ山梨やまなしけん笛吹ふえふき
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甲斐かい」の名称めいしょう由来ゆらい

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甲斐かい銚子ちょうしづか古墳こふん
酒折さかおりみや

7世紀せいき成立せいりつした。律令制りつりょうせいしたでは東海道とうかいどうぞくし、駿河するがこくから甲斐かいこくつうじる支線しせんがあった。国名こくめい語源ごげん不明ふめいであるが、ほんきょ宣長のりながは『古事記こじきでん』において、甲斐かいこく出身しゅっしん門弟もんていのち甲斐かい地誌ちし甲斐かい名勝めいしょうこころざし』をあらわしている萩原はぎはらもとかつせつしたがい、やまかい(カヒ=あいだ)、つまり山々やまやまあいだ由来ゆらいするというせつをあげている。

近代きんだいには橋本はしもと進吉しんきちが『上代じょうだい特殊とくしゅ仮名遣かなづかい』においてかいせつ否定ひていしたことからあらたな解釈かいしゃくもとめられ、近年きんねん平川南ひらかわみなみ古代こだい甲斐がいこくかんどうである東海道とうかいどう東山ひがしやまどう連結れんけつてき位置いちすることから、行政ぎょうせい交通こうつうじょうの「交ひ」であったことに由来ゆらいするという新説しんせつ提唱ていしょうしている[1]

日本にっぽん列島れっとうにおける東西とうざい政権せいけんにとって最前線さいぜんせん位置付いちづけられることがおおい。考古学こうこがくてきには4世紀せいき後半こうはん甲府盆地こうふぼんちみなみえん東海とうかい地方ちほう経由けいゆ畿内きないしょく影響えいきょうけた甲斐かい国造くにのみやつこはかられる甲斐かい銚子ちょうしづか古墳こふん代表だいひょうとする大型おおがた古墳こふん立地りっちしており、中央ちゅうおうヤマト王権おうけん東国とうごくにおける進出しんしゅつ拠点きょてんになっている。古代こだいには支配しはい中心ちゅうしん盆地ぼんち東部とうぶひがしぐん地域ちいきうつる。神護かんごけいくも2ねん(762ねん)に全国ぜんこくから9にん善行ぜんこうひとえらばれ孝養こうよう受賞じゅしょう理由りゆうにしてぜいめんぜられたものなか八代やしろぐん小谷おたにただしひゃくられる。

平安へいあん時代じだい

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平安へいあん時代じだいには出土しゅつど文字もじ資料しりょうにも甲斐かい国名こくめい出現しゅつげんし、甲府こうふ横根よこねまち大坪おおつぼ遺跡いせきでは「甲斐かいこく山梨やまなしぐん表門おもてもん」、みなみアルプス百々とどきゅう中巨摩なかこまぐん白根しらねまち)の百々とど遺跡いせきでは「甲斐かい」の墨書ぼくしょ土器どき出土しゅつどしている。平安へいあん後期こうきには甲斐かいはじめ盆地ぼんち各地かくち進出しんしゅつする。中世ちゅうせいには京都きょうと関東かんとう鎌倉かまくら)の中間ちゅうかん位置いちすることからそれぞれの防衛ぼうえい拠点きょてんとして位置付いちづけられた。

室町むろまち時代ときよ

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室町むろまち時代ときよには鎌倉かまくら影響えいきょうにあったが、上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん契機けいき守護しゅご武田たけだ没落ぼつらくし、争乱そうらん状態じょうたいとなる。

戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく時代じだいには武田たけだ国人くにびと勢力せいりょくせいして戦国せんごく大名だいみょうし、信虎のぶとらはれしん信玄しんげん)・勝頼かつよりさんだいには拡大かくだい領国りょうごくにおける本国ほんごくとなり、信虎のぶとらひらけそうされた甲府こうふ城下町じょうかまちとして整備せいびされ、政治せいじてき経済けいざい的中てきちゅう心地ごこちとなる。

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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織田おだ徳川とくがわ勢力せいりょくによる武田たけだ滅亡めつぼう領主りょうしゅ変遷へんせんはげしく、織田おだ信長のぶなが家臣かしんかわしり秀隆ひでたからによる一時いちじてき統治とうち信長のぶなが横死おうしした本能寺ほんのうじへん政治せいじてき空白くうはくでは徳川とくがわ北条ほうじょう武田たけだのこりょうめぐ天正てんしょうみずのえうまらん発生はっせいする。豊臣とよとみ政権せいけん時代じだいには関東かんとう8かこくりょうした徳川とくがわ家康いえやすそなえた最前線さいぜんせんとなり、羽柴はしば加藤かとう浅野あさのなど豊臣とよとみけい大名だいみょう配置はいちされた。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいには東海道とうかいどう中山道なかせんどうとともに甲州こうしゅう街道かいどう整備せいびされた。そして甲斐かい江戸えど幕府ばくふ政治せいじてき経済けいざい的中てきちゅう心地ごこちである江戸えど防衛ぼうえい戦略せんりゃく正面しょうめん位置付いちづけられ、甲府こうふはん成立せいりつ徳川とくがわ一族いちぞく譜代ふだい大名だいみょうによる統治とうちおこなわれた。とおる年間ねんかんには幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうされ甲府こうふ町方まちかた甲府こうふ勤番きんばんによる支配しはい在方ざいかたさんふん代官だいかん支配しはいとなり、幕末ばくまついたった。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML
 
後期こうき国府こくふ推定すいてい石碑せきひ道祖神どうそじん
笛吹ふえふき御坂みさかまち国衙こくが北緯ほくい3538ふん13.78びょう 東経とうけい13839ふん14.86びょう / 北緯ほくい35.6371611 東経とうけい138.6541278 / 35.6371611; 138.6541278 (後期こうき国府こくふ推定すいてい)

甲斐かいこく国府こくふは、『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』には「国衙こくがざい八代やしろぐん(やつしろ)」とあり、同書どうしょ成立せいりつした平安へいあん時代じだい後期こうき国府こくふ笛吹ふえふき御坂みさかまち国衙こくが付近ふきん比定ひていされている。『じつあくたしょう』では「山代やましろぐん(やましろ:八代やしろぐんのこと)、」と記載きさいがある。

一方いっぽう山梨やまなしぐんいきにあたる笛吹ふえふき春日居かすがいまち国府こくぶ(こう、きゅう東八代ひがしやつしろぐん岡部おかべむら)には古代こだい寺院じいん寺本てらもと廃寺はいじがあり、付近ふきんにはせい東西とうざい南北なんぼく条理じょうりせい地割じわりみとめられることなどから初期しょき国府こくふ所在地しょざいちであったとかんがえられている。そして江戸えど時代じだい萩原はぎはらもとかつ甲斐かい名勝めいしょうこころざし以来いらい笛吹ふえふき春日居かすがいまち国府こくふから御坂みさかまち国衙こくが移転いてんするてんせつ提唱ていしょうされており、1967ねんには木下きのしたりょうかたろくまち国府こくふいき想定そうていしている。

初期しょき国府こくふから後期こうき国府こくふへの移転いてんはおおむね支持しじされているが、国府こくふ国分こくぶてらおなぐんいき設置せっちされるれいおおいことから、広瀬ひろせ広一ひろかず上野うえの晴朗せいろうらの提唱ていしょうした甲斐かい国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでらのある笛吹ふえふき一宮いちのみやまち国分こくぶ東原ひがしはら付近ふきん中間ちゅうかん国府こくふ設定せっていするさんてんせつがある。

しかしながら、考古学こうこがくてきには現在げんざいいたるまで確証かくしょうのある官衙かんが施設しせつ発掘はっくつにはいたっておらず、坂本さかもと美夫よしお春日居かすがいまち初期しょき国府こくふ山梨やまなしぐんである可能かのうせい指摘してきしている。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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くに史跡しせき南西なんせい後継こうけい護国ごこくさん国分寺こくぶんじ笛吹ふえふき一宮いちのみやまち国分こくぶ北緯ほくい3538ふん11.36びょう 東経とうけい13840ふん52.58びょう / 北緯ほくい35.6364889 東経とうけい138.6812722 / 35.6364889; 138.6812722 (甲斐かい国分寺こくぶんじ後継こうけい寺院じいん))が所在しょざい
くに史跡しせき後継こうけいはない。

神社じんじゃ

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笛吹ふえふき浅間あさま神社じんじゃ
延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ11しゃしょう1919しゃけい2020しゃ記載きさいされている(甲斐かいこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃ以下いかしめすもので、名神めいしん大社たいしゃである。
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

守護しゅごしょ

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しょうだが、鎌倉かまくら末期まっき以降いこう石和いさわにあったと推定すいていされる。現在げんざい甲府こうふ甲斐かい政治せいじてき中心ちゅうしんになったのは、えいただし16ねん1519ねん)に武田たけだ信虎のぶとら躑躅つつじさきかん建造けんぞうしてからである。

甲府盆地こうふぼんち国中くになか地方ちほう

東部とうぶぐんない地方ちほう

かんきょうは『和名わみょうしょう』によれば山梨やまなしぐんに10さと八代やしろぐんに5さと巨摩こまぐんに9さとけい31さと存在そんざいしたという。

東国とうごくにおいてくにぐんせい整備せいび大化たいか改新かいしん孝徳たかのりちょうから7世紀せいき後半こうはんだいまでにおこなわれたとかんがえられている。甲斐かいこくでは甲斐かい国造くにのみやつこ唯一ゆいいつ国造くにのみやつことしてられているが、考古学こうこがくてきには6世紀せいき後半こうはんだい牟那づか古墳こふん盟主めいしゅとする盆地ぼんち北西ほくせい勢力せいりょくうばづか古墳こふん盟主めいしゅとする盆地ぼんち東部とうぶはちだい勢力せいりょく対峙たいじし、7世紀せいきだいには新興しんこう勢力せいりょくとして盆地ぼんちきたえん春日居かすがい古墳こふんぐんきず寺本てらもと廃寺はいじなどをきずいた勢力せいりょく出現しゅつげんし、さんしゃ分布ぶんぷする地域ちいきがそれぞれきょぐん八代やしろぐん山梨やまなしぐん相当そうとうすることから、古代こだい甲斐がいでは国造くにのみやつこ有力ゆうりょく豪族ごうぞくたてひょうたずさわっていたとかんがえられている。

国衙こくが所在地しょざいちである山梨やまなし八代やしろりょうぐん古代こだい甲斐がいこくにおける政治せいじ的中てきちゅう心地ごこちで、巨摩こまぐん渡来とらいじん勢力せいりょくたずさわったたてぐん事情じじょう想定そうていされている。都留つるぐん東部とうぶ武蔵むさしこく相模さがみこくせっし、あい国造くにのみやつこ支配しはい領域りょういきであったが7世紀せいき甲斐かいこく東海道とうかいどう再編さいへんされ、かんどう整備せいびされる都留つるぐん甲斐かい編入へんにゅうされたとかんがえられている。都留つるぐん武蔵むさし相模さがみ国境こっきょう争論そうろんがありぐんいき変動へんどうかんがえられており、信濃しなのこくせっするきょぐんぐんいき変動へんどうかんがえられている。

人物じんぶつ

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奈良なら時代じだい

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奈良なら時代じだい甲斐かい国司こくしは13めい確認かくにんされ、『ぞく日本にっぽん天平てんぴょう3ねん(731ねん)12月21にちじょう田辺たなべふみ広足ひろたりかんする記事きじはつとする。以下いか国司こくし不明ふめい期間きかんふく断続だんぞくてき甲斐かい国司くにじかんする記事きじ散見さんけんされ、天平てんぴょうたから5ねん10がつ1にち任官にんかんした山口やまぐち沙弥さや麻呂まろ以降いこう最後さいごたちばな朝臣あそんやす麻呂まろまで連続れんぞくてき国司こくしめい確認かくにんされている[2]

  • 田辺たなべふみ広足ひろたり天平てんぴょう3ねん12月21にち補任ほにん以下いか補任ほにん、『ぞく日本にっぽん』)

甲斐かい国司くにじかんするはつ史料しりょうは『ぞく日本にっぽん天平てんぴょう3ねん(731ねん)12月21にちじょう瑞祥ずいしょう記事きじで、同年どうねん2がつ甲斐かいこく黒色こくしょくかみしろ神馬しんめ出現しゅつげんし、国司こくしである田辺たなべふみ広足ひろたり(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷ちょうてい貢献こうけんし、朝廷ちょうていでは神馬しんめ出現しゅつげん瑞祥ずいしょうによりみことのりはっし、全国ぜんこくてき大赦たいしゃや販給をおこなったという[3]国司こくし田辺たなべうま捕獲ほかくしたものへのくらいさんしん甲斐かいこく当年とうねんいさお神馬しんめ出現しゅつげんしたぐん調しらべ免除めんじょうま捕獲ほかくしたもの国司こくし史生ふみおへの褒賞ほうしょうおこなわれたという。『ぞく日本にっぽん』ではせいろくじょうより官位かんいひくいものの事蹟じせき記録きろくされておらず、前任ぜんにんしゃ存在そんざいしょう

甲斐守かいのかみへの任官にんかん時期じき不明ふめいであるが、広足ひろたり天平てんぴょう3ねん正月しょうがつ27にちせいろくじょうからそとしたがえ加階かかいされており、同年どうねん12がつには神馬しんめ貢献こうけんおこなわれていることから、甲斐守かいのかみ任官にんかん同年どうねん5がつから11がつ前後ぜんこうのことあるとかんがえられている[4]甲斐かいこくでは古代こだいさんまき設置せっちされ朝廷ちょうていへのみつぎおこなわれており、黒毛くろげうま甲斐かい黒駒くろこま伝承でんしょうもとづくものであるとかんがえられることから、甲斐かい出現しゅつげんした「神馬しんめ野生やせいではなくまき産出さんしゅつされた黒毛くろげで、まき管轄かんかつする在地ざいち国司こくし新任しんにん広足ひろたり黒毛くろげみつぎしん広足ひろたり政治せいじてき意志いし朝廷ちょうてい貢献こうけんされた、また広足ひろたり甲斐守かいのかみ任官にんかん甲斐かい馬匹ばひつ生産せいさん期待きたいした政治せいじてき意志いし存在そんざいしていたとかんがえられている[5]

田辺たなべふみ馬匹ばひつ生産せいさんかかわる河内かわうちこく安宿あすかぐんははきょう大阪おおさか柏原かしわばら)をほんぬきとする渡来とらいけい豪族ごうぞくで、広足ひろたり甲斐守かいのかみ任官にんかん背景はいけい甲斐かいこくでは、広足ひろたり以降いこう甲斐かい国司くにじうま比奈ひな麻呂まろ山口やまぐちすん沙弥さや麻呂まろ坂上さかがみだい苅田かんだ麻呂まろらの渡来とらいけい氏族しぞく出自しゅつじ甲斐かい国司くにじがおり、うま比奈ひな麻呂まろ田辺たなべふみおなじく馬匹ばひつ生産せいさんかかわるうま出自しゅつじである。

  • 丹比たんぴあいだじんおつまんりょ天平てんぴょう10ねん4がつか、『せいくらいん文書ぶんしょ』)
  • うま比奈ひな麻呂まろ天平てんぴょう13ねん12がつ10日とおか、『ぞく日本にっぽん以下いかおなじ)
  • 山口やまぐち沙弥さや麻呂まろ天平てんぴょうたから5ねん10がつ1にち
  • 坂上さかがみだい苅田かんだ麻呂まろ天平てんぴょうたから8ねん10がつ20日はつか
  • 豊国とよくに真人しんじん秋篠あきしの宝亀ほうき元年がんねん9がつ16にち
  • 粟田あわた朝臣あそんたかもり宝亀ほうき3ねん4がつ20日はつか
  • 山上さんじょう朝臣あそん船主せんしゅ宝亀ほうき9ねん3がつ10日とおか
  • 藤原ふじわら朝臣あそんない麻呂まろのべれき元年がんねんうるう正月しょうがつ17にち
  • きの朝臣あそんゆたかにわのべれき3ねん4がつ30にち
  • 大伴おおともおうのべれき8ねん3がつ16にち
  • たちばな朝臣あそんやす麻呂まろのべれき10ねん7がつ4にち

平安へいあん以降いこう

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく大名だいみょう

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ゆたか政権せいけん大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての甲斐かいまもる

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江戸えど時代じだい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 信武のぶたけ死後しご、(信成のぶなりばすかたちで)足利尊氏あしかがたかうじ近習きんじゅ出身しゅっしんまご信春のぶはる甲斐かい守護しゅごにんじられたとする西川にしかわ広平ひろへいせつがある[6]

出典しゅってん

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  1. ^ 平川南ひらかわみなみ古代こだい日本にっぽんにおける交通こうつう甲斐かいこく」『古代こだい交易こうえきみち 山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん 調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこく2』(2008ねん山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん)、p.12
  2. ^ 奈良なら時代じだい甲斐かい国司くにじについては、はら正人まさと奈良なら時代じだい甲斐かい国司くにじ-その性格せいかく任官にんかん動向どうこうをめぐって-」『山梨やまなしけん研究けんきゅう』(だいさんごう、1995ねん3がつ)、どう奈良なら時代じだい甲斐かい国司くにじ」『山梨やまなしけん通史つうしへん1原始げんし古代こだい(2004)
  3. ^ ぞく日本にっぽん該当がいとうは『山梨やまなしけん資料しりょうへん3原始げんし古代こだい文献ぶんけん文字もじ史料しりょう - 史料しりょう31)所載しょさい以下いか古代こだい甲斐がいこくかんする文献ぶんけん資料しりょう同書どうしょ所載しょさい
  4. ^ げん 1995
  5. ^ げん 1995、広足ひろたり神馬しんめ貢献こうけん政治せいじてき意志いしについてはげん文献ぶんけんのほか、磯貝いそがい正義まさよし古代こだいかんまきせい研究けんきゅう-甲斐かいまき中心ちゅうしんに-」『郡司ぐんじおよ采女うねめ制度せいど研究けんきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1978)
  6. ^ 西川にしかわ広平ひろへい南北なんぼくあさ 安芸あき甲斐かい武田たけだ成立せいりつ過程かていについて」(初出しょしゅつ:中央大学ちゅうおうだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きよう史学しがく65(2020ねん)/所収しょしゅう:西川にしかわ広平ひろへい へん『シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんかん 甲斐かいはじめ一族いちぞく』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 978-4-86403-398-5)P313-314.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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