始祖源義光から甲斐国土着
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治承・寿永の乱における活動
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甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の宗家である。4代武田信義(源信義)は治承4年(1180年)4月に以仁王から令旨を受け取ると、甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。甲斐源氏は、治承4年10月20日の富士川の戦いにおいて主力となってこれに勝利し、伊豆の源頼朝から武田信義が駿河守護に、安田義定が遠江守護に補任された(『吾妻鏡』)。治承・寿永の乱において、甲斐源氏の一族は『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられ、この補任は、敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を頼朝が追認したものであると考えられる[4]。
その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受けて信義は失脚し、弟や息子たちの多くが死に追いやられた。信義の五男の信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。信光は承久3年(1221年)の承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。信光の息子である信政の子の代に2つに分かれ、政綱が甲斐を、信時が安芸を継承した。
鎌倉時代後期には、武田氏に代わり二階堂氏が甲斐守護として確認される。その後、石和流武田氏の政義が甲斐守護となっている。政義は元弘元年(1331年)後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱において幕軍に従い笠置山を攻めているが、後に倒幕側に加わり幕府滅亡後は建武の新政に参加している。1335年(建武2年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加する。
その後南北朝時代には安芸守護であった信時流武田氏の武田信武が、北朝の足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、観応年間には南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。信武の子孫の信成[※ 1]・信春も甲斐守護を継承したと見られているが、異論も存在する(詳細は安芸武田家の記事を参照のこと)。
信武の子の代で武田氏惣領家は3家に分かれた。甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家がそれである。
甲斐国は鎌倉府の管轄であったが、室町時代の応永23年(1416年)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生する。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承しており、信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。
これにより甲斐は守護不在状態となり、甲斐国人である逸見氏が鎌倉公方・足利持氏の支持を得て守護職を求め台頭した。一方、室町幕府では高野山で出家した信満の弟である武田信元を還俗させ、信濃守護・小笠原氏などに助力させ甲斐へ派遣する。第6代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信元の死後に信満の子の武田信重が同じく幕府の支援を受け甲斐へ派遣されると、結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。
信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。
18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、甲府に躑躅ヶ崎館を建設した。更に積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、19代晴信(武田信玄)の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いをなくして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の長尾景虎(上杉謙信)と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち(義信事件)同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。
1572年(元亀3年)、徳川家康との戦いのために西上作戦を開始するが、途中室町幕府第15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛戦に転じる。だが、直後に信玄が病死したため、武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国および上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年(天正3年)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年(天正10年)織田信長に攻め込まれて勝頼の後を継いだ信勝ともども滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。
天目山の戦いの後、信玄の次男の竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子の信正の代で許されて1700年(元禄13年)に幕臣となり高家として仕えた。ただし、この家系は、江戸時代に武田信安の養子として信明、明治時代に同根の柳澤氏からとはいえ他家から養子を迎えて家督を継承しているので、信玄の血を保っているわけではない。幕末時の高家武田家の家禄は500石だった。幕末維新時の当主武田崇信は安政4年(1857年)から奥高家に列していたが、他の高家と同様に早々に朝廷に帰順して領地を安堵され、幕臣から朝臣に転じて中大夫席を与えられた。
この高家の武田家以外にも系譜があり、信玄の五男の仁科盛信の長男の信基と次男の信貞が徳川旗本として仕え、2系とも現在まで系譜が残っている(信貞は武田に復姓している)。信玄の七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕え男系は絶えたものの女系で現在も存続している。信玄の弟の河窪信実の子の信俊は家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。
また信玄嫡男の義信の子で、秤座・吉川守隨家を継いだ守隨信義の系譜も1943年までは存在した。[5]
明治維新後上記の武田氏はいずれも士族に編入された。高家武田家の当主だった武田崇信は明治7年(1874年)に死去し、養子(遠山景高の五男)である武田信任が同家を継いだ。
明治17年(1884年)の華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では高家が交代寄合とともに男爵に含まれており、旧高家の武田家も男爵位を授けられるべき家に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も叙爵対象外となったので結局士族のままだった。
1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。
※点線は養子
主要家臣(信玄・勝頼時代)
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武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。江戸時代に記された軍記物である『甲陽軍鑑』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関し家臣団の詳細が記され、江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。『軍鑑』は明治期の史学会において田中義成により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかったが、近年は酒井憲二による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。
- 一門御親類衆
- 一門側近衆
甲斐武田氏では近世に軍記物である『甲陽軍鑑』が成立し、武田信玄の存在を中心に広く知名度があり、江戸時代から近代にかけて地元においても郷土の象徴的人物と位置づけられていった。明治期には郷土史家により信玄を勤皇家や郷土の英雄として信玄像を位置づけることを目的とする研究や、戦史中心の研究が行われていた。また、大正・昭和初期には県内の実業家や名望家を中心に郷土研究が流行し、『甲斐史料集成』や『甲斐叢書』などの史料刊行も行われ、山梨郷土研究会も発足し実証的研究がスタートした。
戦後には昭和30年代から研究が活発化し、奥野高広や磯貝正義・上野晴朗らがそれぞれ実証的信玄評伝を発表した。資料的制約から研究は信玄・勝頼期が中心となっているが、前代の信虎期や後代の勝頼期へも視点が向けられ、三代期以前においても『吾妻鏡』の史料批判による鎌倉時代の甲斐源氏や武田氏に関する研究や、上杉禅秀の乱を契機とする甲斐国の動向に着目した南北朝・室町期の研究も行われている。
戦後には武田氏関係文書の新発見や文書編纂も進み(後述)、『軍鑑』や近世の総合地誌である『甲斐国志』など史料刊行も行われ、『勝山記』など新史料も発見された。1987年(昭和62年)には武田氏研究会が発足し現在に至るまで武田氏研究の中心的存在となっている。一方、考古学の分野では山梨県埋蔵文化財センターや県内外の市町村教育委員会などによる発掘調査が進展し、武田氏館跡や勝沼氏館跡など武田氏に関係する考古遺跡における発掘や、中世考古学の進捗により発見が相次ぎ、史跡整備も進んでいる。また、2005年(平成17年)には山梨県立博物館が開館し、武田氏に関する資料の収集や調査研究、展示活動を行っている。
現在では社会経済史的視点からの研究や戦国大名武田氏の権力構造の解明、家臣団の個別研究のほか、財政や治水事業、軍事や外交、交通や都市問題、商職人支配や郷村支配、宗教、美術など細分化した分野における実証的研究や民俗学的アプローチなど研究の地平が広っている[6]。一方で、網野善彦はこうした武田氏や甲斐源氏中心の研究に対して甲斐中世史において他氏族の果たした役割を強調し、武田氏以外の氏族研究の必要性を主張している[7]。
また、武田氏研究と平行して武田氏関係文書の編纂も行われている。武田氏は宗家が滅亡しているため家伝文書が散逸しており写本や影印本のみで知られるものも多いが、現在では3300点余りの文書が知られている。古くは江戸時代に幕府が編纂した『諸州古文書』において甲斐の古文書調査が行われており、甲斐国の総合地誌として編纂された『甲斐国志』では武田氏関係の記述は『軍鑑』がベースとなっているものの編纂に伴う古文書調査が行われており、これらに収録されている文書には現在原本が確認できないものも多く含まれている。
実証的な武田氏研究が本格化した昭和戦後期には武田氏関係文書集の刊行も行われ、1966年(昭和41年)には『甲府市史』の編纂に際して『甲府市史史料目録』に「甲斐武田氏文書目録」が含まれ、1969年(昭和44年)には荻野三七彦・柴辻俊六により『新編甲州古文書』が刊行された。その後も新出文書の増加や無年号文書の検討作業が進捗し、『山梨県史』編纂事業のスタートに伴い総合的な史料調査が行われ、現在では柴辻俊六・黒田基樹『戦国遺文』武田氏編や、家別に編纂した『山梨県史』資料編中世において文書が集成されている。
武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少なく、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書は少ない。武田家では最低でも3人の右筆の存在が確認されているほか[8]、信玄文書は墨の濃淡が極端である特徴をもつことが指摘される。武田氏は家伝文書の多くが散逸しているため、真田氏の資料を使用するなどの搦め手が必要になる。外交文書においては、例えば近世大名家として存続している上杉家との関係においては武田氏側から発給された文書の多くが上杉家に伝存し、一方の上杉氏側から発給した文書の多くは伝存していないといった特徴をもつ。
なお、武田氏関係の古文書には偽文書が多いことも指摘され、一見してそれとわかる稚拙なものから、明らかに地域の事情に精通した人物によって作られた精巧なものまで様々な物が見られる。既に江戸時代から、甲斐国や信濃国に偽文書が多いことが知られており、その多くは武田信玄と徳川家康のものである。甲斐国では「大小切税法」という独特の金納税法を取っており、近世後期には換金相場が固定されていたことから相対的に年貢が低率となり、これは武田家以来の恩寵だという由緒が語られるようになる。そこでいわゆる「恩借証文」と呼ばれる偽文書が各地の村や家に伝来し、中には木版で印刷されたものも存在する。また、武田旧臣という由緒を誇る武田浪人たちも、偽文書を保持していた。これらは、戦功を讃えた内容に武田氏が用いた龍の朱印が捺された感状と、徳川家康による知行宛行状や本領安堵の朱印状を一緒に偽造することが多い。更に宗門人別改帳さえも、和紙の端を水で解し、その繊維を利用して紙を継ぐ喰裂継ぎという手法をもちい、別の文書に継ぎ足して内容を改ざんするという手の込んだものも見られる。このように多く偽文書が作られたのは、村落で地域の名家として成長した地主たちが、その家産に見合った家名を欲し、地域的な由緒である武田信玄と、全国的な由緒である徳川家康を組み合わせることで、武士との近似性を強調し、村落における家格の優位性を誇ろうとしたのだと考えられる[9][10]。
甲斐武田氏の始祖武田信成や安芸武田氏の始祖の武田氏信の兄弟である山県公信(薩摩守)に始まる武田氏庶流。室町幕府の奉公衆四番に属し足利将軍家に代々の当主が直接仕えた。
公信 - 武明 - 満信 - 持信 - 尚信 - 尹信 - 藤信と続いた。尹信は足利義稙の地方への動座に従い、藤信は足利将軍家と三好氏の戦いで討ち死にした。ただし、尚信(道鑑)の子で父と共に甲斐武田氏を頼った武田信喬の系統が京都武田氏の嫡流であったとする説がある(明応の政変後に甲斐本家の客分となったため、将軍家から偏諱を受けることがなくなったという)[15]。
嫡流の藤信の子の彦五郎は徳川家康の知遇をえて幕府が開かれた江戸に下向した。
庶流京都武田氏の分家である。京都武田氏とともに足利幕府の奉公衆に列した家柄。
武田満信の次男の武田持明から始まる。持明 - 政明 - 熙明 - 材明 - 藤信と続いた。若狭の将軍家御料所の管理をまかされていた時期がある。庶流は若狭遠敷郡に土着した。
上総武田氏は第12代甲斐武田氏当主武田信満の子の武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子の信高の死後、本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南武田氏(ちょうなんたけだし)を名乗った。上総武田家最後の当主武田豊信は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男の信之と同一人物とされており、織田氏による甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。
一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清は古河公方足利政氏の子の義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男・信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂した。信清の死後、信隆が当主になったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放した。このため信隆は北条氏綱の元へと亡命した。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏し、信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が、信隆の跡を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めたが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服した。豊臣氏の小田原征伐によって庁南の本家と共に所領を奪われた。真里谷信高は那須氏のもとへ亡命した。
本家の庁南武田氏の豊信の子の氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住し、郷士として土着したともされている[要出典]。その子孫らは、江戸時代には漢方医として地域社会に根ざし、現在でも上総地域を中心に千葉県下に庁南武田氏末裔が営む医療機関が多く存在する。この子孫を名乗る家系は現在も血筋が続いているとされる[要出典]。庁南武田氏は、甲斐源氏始祖源義光(新羅三郎義光)からはじまる第13代甲斐武田氏当主武田信重(武田信玄の5代前)の次弟武田信長を始祖(1458年)とし、現代では第20代めとなっており唯一父系男系系統が維持されている。甲斐源氏武田氏の始祖(1140年)から数えると32代目ということになる。分家の真里谷氏のその後は不明である[要出典]。
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
甲斐武田氏の家紋は武田菱(たけだびし)と呼ばれる「割り菱(わりびし)」である。ほかの武田氏の氏族も使用する。ほかに「花菱(はなびし)」を使用している。『見聞諸家紋』では「割り菱」と「松皮菱(まつかわびし)」が載る。
由来には諸説あり、一説には武田の「田」の字を元にデザインされたとも言われている。[17]
室町幕府の公式家紋集である『見聞諸家紋』には、
「頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。」
とある。
前九年の役(1051年 - 1062年)のとき、武田氏の祖である源義光が、住吉大社に武運長久を祈念した際、住吉大社に奉納されていた「楯無」の鎧を神託によって拝領した。その鎧の袖についていた「割菱」の文様を武田氏の定紋としたという。
楯無とは、神功皇后が三韓征伐の時に使用したといわれる鎧で、その後は、武田家の家宝として伝わった(現存する、国宝「楯無(小桜韋威鎧 兜、大袖付)」は鎌倉中期のもの)。
旧・甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また、山梨県を通るJR特急列車に使用されているE257系0番台の車体デザインにも武田菱が採用されている。また、山梨県の県章は、武田菱をベースに、富士山の山頂をイメージして四隅がギザギザになった菱形で囲んだ形である。
所属家臣
所属家臣と言われている者
甲斐源氏・武田宗家の系図(武田家系図)は伝存するものでは近世初頭からの系図が確認されているが、室町期に成立した『一蓮寺過去帳』においては武田家系図を参照して僧帳を作成した経緯が記されており、近世期に伝わる武田家系図の原本が存在していたと考えられている。
近世初頭の成立の武田家系図には武田源氏一統系図、円光院武田家系図、南松院武田家系図、大聖寺武田家系図などがある[18]。
円光院武田家系図は清和源氏から甲斐源氏の武田氏・逸見氏の家系図、足利将軍家や鎌倉公方家の足利家系図らを引き継ぎ、信時流武田氏の信武から信縄までの武田宗家・信君までの穴山氏の系図をまとめた構成となっており、異筆で今井氏の系図が記されている。円光院武田家系図は本来的には信虎から信玄・勝頼・信勝までの宗家系譜が存在せず、信虎以降の宗家に穴山勝千代を続けた加筆部分が存在している。加筆部分から円光院武田系図は信君没年である天正10年から勝千代没年である天正10年の間の成立であると考えられており、本来的には穴山氏の由緒を強調する意図があったと考えられている。
江戸時代には武田宗家の子孫として旗本川窪氏がいるが、川窪氏は円光院武田家系図を底本に武田源氏一統系図・川窪氏系図を編纂し、これは『寛永諸家系図伝』に収録され、江戸時代に作成された諸系図の多くはこれを底本としている。武田源氏一統系図は一蓮寺過去帳に由来する楯無鎧の承伝過程を記している点などが注目される。
南松院武田家系図は同じく円光院武田家系図を底本に1630年代頃に成立したと考えられており、武田宗家から穴山氏・今井氏の系譜を記し、円光院武田系図と同様に穴山氏の系譜を記すことが目的であったと考えられている。
大聖寺武田家系図は川窪氏系図が記載されていることから武田源氏一統系図以降に作成されたと考えられており、高家武田家の系譜が存在しないことから高家武田家系図成立以前の作成であると考えられている。
河窪武田家
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
武田信虎 | | | | |
| | | | | | | | |
河窪信実1 | | | | |
| | | | | | | | |
信俊2 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信雄3 | 信房 | 信宅 | 信本 | 信世1 | | | | | | | | | | | | | 信次1 | | | | | 信通1 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
武田信貞4 | | | | | | | 武田信安1 | 信亮2 | | | | | | | | | | | | | 武田奉信2 | | | | | 信良2 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信令5 | 堀田通矩 | 河窪信慈1 | 信常2[† 1] | 武田信常 | 信有3 | 堀秀興 | | | | 信近1 | 信全3 | 信精 | | 信明3[† 2] | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
信喜6 | 信胤 | 信積2[† 3] | 信温3[† 4] | | | | 信安4 | 武田信敦 | 信昆 | 信易2 | 信精4 | | | | | 信博4 | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信胤7 | | | | 信友3[† 5] | 信尹4 | 松平正職 | 信昆5 | | | | | | | 信貞3[† 6] | 信敦5[† 7] | | | | | 信明5 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信村8 | | | | 信睦4 | 信房5 | | | | 信軌6 | | | | | | | 寛右衛門4 | 信至6[† 8] | | | | | 信政6 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信親9 | 信誼 | 信順5 | 信誼6[† 9] | | | | 七郎右衛門7 | | | | | | | 七郎兵衛5 | 信成7 | | | | | 彦太郎7 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信徳10 | | | | 賢三6 | 与左衛門7 | | | | 鍬太郎8 | | | | | | | 寛一郎6[† 10] | 金十郎8 | | | | | 鉄太郎8 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信禄11 | | | | | | | 晴之丞8 | | | | | | | | | | | | | | | | 玄九郎9[† 11] | | | | | 鎮之助9 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信敬12 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 勇次郎 | | 敬子10 | |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 章11 | | |
仁科・油川武田家
武田晴信 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | |
仁科盛信1 | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信基2 | 晴正 | 信久1 | | | | | | | | | | | | | 油川信貞1 | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛忠3 | 信峰 | 信衡2 | | | | | | | | | | | | | 信忠2 | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信照4 | 林信国 | 信道3 | | | | | | | | | | | | | 信似3 | 渡辺正利 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | |
盛晴5 | | | | 信勝4 | | | | 信忠1 | 信友 | | | | 武田信定4 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | |
盛朝6 | | | | 信貞5 | 信乗 | 信友2 | | | | | | | 信房5 | 三浦信之 | 三浦政明 | 信照 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
忠盛7 | | | | 信乗6 | | | | 信于3 | 信昌 | | | | 信照6 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | |
高信8 | | | | 信方7[‡ 1] | | | | 信辰4 | 信庸 | 信総 | 信義7 | 義豫 | 関根良貴 |
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盛次9 | | | | 信貫8[‡ 2] | | | | 信豊5[‡ 3] | 信興 | | | | 信続8 | 信平 | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
信真10 | | | | 信邦9[‡ 4] | | | | 信久6[‡ 5] | 信豊 | | | | 信平9 | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
定盛11 | | | | 信任10 | | | | 次郎太郎7[‡ 6] | 信民 | | | | 信任10 | 信成 | 信邦 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛照12 | | | | 鉱造11 | | | | | | | | | | | | | 信成11 |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | |
信国13 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信邦12 | 信行 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
盛輔14 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信行13 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
盛定15 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 信益14 | | | | | | | | | | 松次郎15 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 虎彦16 | | | | | | | | | | 信吉 | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 忠夫17 | 信男 | 吉彦 | 義正 | ふみ | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 義正 | | | |
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