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武田信実 - Wikipedia

武田たけだ信実しんじつ

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう

武田たけだ 信実しんじつ(たけだ のぶざね)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう若狭わかさこく守護しゅご武田たけだもとひかり武田たけだ光和みつかず養子ようし国人くにびと領主りょうしゅとしての安芸あき武田たけだ9だい最後さいごの)当主とうしゅ足利あしかが義輝よしてる御供ごくうしゅ

 
武田たけだ信実しんじつ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん だいひさし4ねん7がつ18にち1524ねん8がつ17にち
死没しぼつ 弘治こうじ元年がんねん10月6にち1555ねん10月21にち)?
官位かんい 刑部おさかべしょう安芸あきまもる
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 御供ごくうしゅ
主君しゅくん 足利あしかが義輝よしてる
氏族しぞく 若狭わかさ武田たけだ安芸あき武田たけだ
父母ちちはは ちち武田たけだもとひかり
養父ようふ武田たけだ光和みつかず
兄弟きょうだい しんじゆたか信実しんじつ内藤ないとう政信まさのぶ山県やまがたもりしん
しんだか信重のぶしげ?)
やしなえ兄弟きょうだい小太郎こたろう小次郎こじろうそうけい
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生涯しょうがい

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安芸あき武田たけだ当主とうしゅ

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幼少ようしょうころ僧侶そうりょとなる予定よてい栖雲てらはいっていたとされる[1]

天文てんもん9ねん1540ねん)6がつ安芸あき武田たけだ当主とうしゅ武田たけだ光和みつかず急死きゅうし[2]すると、安芸あきぶんぐん守護しゅごである若狭わかさ武田たけだからむかえられ、その養子ようしとして安芸あき武田たけだ当主とうしゅとなる。羽賀はがてら福井ふくいけん小浜おばま)にのこる『羽賀はがてら年中ねんじゅう行事ぎょうじ』によると、光和こうわ死後しご出雲いずもこくからの使者ししゃ若狭わかさ信実しんじつ安芸あき武田たけだ継承けいしょう要請ようせいしたむねしるされており、安芸あき武田たけだにはすくなからず尼子あまこ影響えいきょうがあったとかんがえられている。

信実しんじつ光和こうわあといで安芸あき武田たけだ9だい当主とうしゅとなったものの、重臣じゅうしんあいだでは周防すおうこく大名だいみょう大内おおうちとの講和こうわについての意見いけん対立たいりつきており、ついには品川しながわいちとう香川かがわ居城きょじょう八木はちぼくじょう攻撃こうげきする内紛ないふんしょうじた。しかし、安芸あき平賀ひらが熊谷くまがいらが香川かがわ援軍えんぐんすとのほうせっした品川しながわいちとう退却たいきゃくだい混乱こんらんをきたした武田たけだ家臣かしん佐東さとう銀山ぎんざんじょうてて逃亡とうぼう事態じたい急変きゅうへんたいしてなんしゅつことができなかった信実しんじつも、佐東さとう銀山ぎんざんじょうて、出雲いずも逃亡とうぼうした。

天文てんもん9ねん(1540ねん)9がつ尼子あまこかいひさし晴久はるひさ)が毛利もうり元就もとなり討伐とうばつのため安芸あき出陣しゅつじんかいひさ安芸あき武田たけだ復興ふっこう援助えんじょもとめた信実しんじつは、へい2,000をひきいる牛尾うしおさいわいきよしともに、佐東さとう銀山ぎんざんじょうじょうする。しかし、尼子あまこかいひさぐん山城やましろ攻略こうりゃく遅々ちちとしてすすまず、11月には、信実しんじつ毛利もうりぐん国司こくしもとしょういきおいたたかうが敗北はいぼくしている。よく天文てんもん10ねん1541ねん)、とう隆房たかふさひきいる大内おおうち援軍えんぐん毛利もうりかた反撃はんげきにより、かいひさ無残むざん退却たいきゃくいられることとなる(吉田よしだぐん山城やましろたたか)。尼子あまこ敗北はいぼくにより、ふたた佐東さとう銀山ぎんざんじょう孤立こりつすると、信実しんじつはまたもやしろてて牛尾うしおさいわいきよしとも出雲いずも逃亡とうぼうし、以後いご安芸あきもどることはなかった。しろへいおおくも逃亡とうぼうする一方いっぽうで、佐東さとう銀山ぎんざんじょうには安芸あき武田たけだ一族いちぞく武田たけだ信重のぶしげ[3]が300あまりへいとも籠城ろうじょうしていたが、元就もとなり攻撃こうげきによりつい落城らくじょう佐東さとう銀山ぎんざんじょうたたか)。これにより領主りょうしゅとしての安芸あき武田たけだ終焉しゅうえんむかえる。

室町むろまち幕府ばくふ御供ごくうしゅ

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その信実しんじつ弘治こうじ元年がんねん10がつ6にち1555ねん10月21にち)に出雲いずも逝去せいきょしたとされていた。ところが、近年きんねん研究けんきゅうでは室町むろまち幕府ばくふ幕臣ばくしん名簿めいぼである「えいろくろくねんしょ役人やくにん」に登場とうじょうする「武田たけだ刑部おさかべ大輔だいすけ信実しんじつ」が信実しんじつのその姿すがたであったとされている[1]。この信実しんじつ若狭わかさこく本拠ほんきょとする奉公ほうこうしゅ本郷ほんごう信富しんとみ親交しんこうふかく、足利あしかが義昭よしあき将軍しょうぐん就任しゅうにん信富しんとみ身上しんじょうについてしたり、かれから武家ぶけ故実こじつ指導しどうけていたことがられる。みことけいかく文庫ぶんこ所蔵しょぞうされている『両家りょうけ聞書ききがき』は信実しんじつ著作ちょさくとされ、紙背しはい文書ぶんしょにはかれ若狭わかさ武田たけだ一族いちぞく家臣かしんからの書状しょじょうなどがもちいられている。皮肉ひにくにも足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶながによって京都きょうとから追放ついほうされると、義昭よしあき同行どうこうするかたちでかつてのてきである毛利もうりたよることになり、天正てんしょう5ねん1577ねん)に足利あしかが義昭よしあき熊谷くまがいしんただしてた御教書みぎょうしょ[4]登場とうじょうする「信実しんじつ」が武田たけだ信実しんじつ比定ひていできるのが、記録きろくじょう最後さいごとなっており、あいだもなくぼっしたと推定すいていされている[1]

なお、光和こうわ庶子しょしであったためにのこった武田たけだ小三郎こさぶろう武田たけだ宗慶そうけい)は毛利もうりしたがっている。佐東さとう銀山ぎんざんじょうもどることはなかったが、毛利もうり周防すおううつりふうともなって、周防すおう武田たけだ名乗なのるようになった。また、後代こうだいには、安芸あき武田たけだぐ(武田たけだ信重のぶしげ、もしくは武田たけだもとしげる女婿じょせいばんしげるきよし息子むすことも)安国寺あんこくじ恵瓊えけい毛利もうり外交がいこうそうとして活躍かつやくしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ研究けんきゅうとその系譜けいふ動向どうこう木下きのした へん『シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん 若狭わかさ武田たけだ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-86403-192-9
  2. ^ 没年ぼつねん天文てんもん3ねん1534ねん)とするせつもある。
  3. ^ 信実しんじつどう世代せだい親族しんぞくといわれる安芸あき武田たけだ一族いちぞく信実しんじつ逃亡とうぼうに、安芸あき武田たけだ家督かとくいで10代当主とうしゅになったとかぞえるせつもある。
  4. ^ 足利あしかが義昭よしあき御内おんうちしょ(『だい日本にっぽん古文書こもんじょ 熊谷くまがや文書ぶんしょ』159ごう

外部がいぶリンク

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