足利 義輝
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( | |
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生涯
少年 期 と将軍 就任
この
だが、
細川 晴 元 との戦 い
だが、この
そのため、
3月29
7
7
三好 長慶 との戦 い
ところが、
7
2
5月4
7
11月19
3月14
5月5
7
9月、
長慶 との和解 ・決別
2
2
3月8
7
30
8
そのため、
朽木 での幕府 政治
8
10月、
だが、
10月23
三好 氏 との再戦 ・和解
2
3月13
5月3
5月7
5月21
6月2
11月、
12月2
三好 氏 への厚遇
まず、
そのほか、
その
将軍 親政 ・三好 氏 との共闘
10月2
11月13
7
5
諸 大名 らとの交流
また、
また、
また、
三好 氏 との確執 ・義輝 の権威 上昇
そのうえ、
最期
しかし、
5月5
その
5月19
その
この
没後
だが、
辞世 の句
経歴
人物 ・評価
宣教師 ルイス・フロイスは、義輝 を「とても武勇 にすぐれて、勇気 ある人 だった」と評 している(『フロイス日本 史 』第 65章 )。山田 康弘 は、義輝 が英主 になりうる素質 を十分 に有 しており、その鱗片 を見 せつつあったとし、仮 にもし10年 長 く生 きていたならば、将軍家 の歴史 は大 きく変 わっていたと考察 している[189]。山田 はまた、義輝 が苦難 の続 く日々 を過 ごし、有力 大名 の抗 争 に巻 き込 まれて流 寓 を余儀 なくされ、京都 に復帰 してその才能 が輝 き始 めた矢先 に凶刃 に斃れたことから、わずか30年 という短 い生涯 において閑安な日々 はほとんどなかったといっても過言 ではないとしている[190]。剣豪 として名 を馳 せていた塚原 卜伝 から指導 を受 けた直弟子 の一人 である[注釈 3]。奥義 「一之 太刀 」を伝授 されたという説 もあり、武術 に優 れた人物 であったのではないかと言 われている。ただし、卜伝 はこの他 に北畠 具 教 や細川 藤孝 などにも授 けており、必 ずしも奥義 を極 めたとは断言 できず、免許 を皆伝 したという記録 もない[注釈 4]。永 禄 の変 の際 、フロイスの『日本 史 』では「義輝 は自 ら薙刀 を振 るって戦 い、人々 はその技量 の見事 さにとても驚 いた。その後 はより敵 に接近 するために薙刀 を投 げ捨 て、刀 を抜 いて戦 った。その奮戦 ぶりはさながら勝利 を目前 にしている者 にも劣 らなかった」と記 されている(『フロイス日本 史 』第 65章 )。信長 旧臣 の太田 牛一 が著 した『信長 公 記 』でも「数 度 きつて出 で、伐 し崩 し、数多 に手 負 わせ、公方 様 御 働 き候 」と記 されている。また、『日本 外史 』には「足利 家 秘蔵 の刀 を畳 に刺 し、刃 こぼれするたびに新 しい刀 に替 えて寄 せ手 の兵 と戦 った」という記述 も存在 するが、これは義輝 の死 からかなりのちの時代 (江戸 時代 後期 )に記 されたものである上 、永 禄 の変 に最 も近 い時期 の史料 には「名刀 を取 り替 えて戦 った」という記述 自体 が存在 しないことから、創作 の要素 が強 く、信憑 性 に欠 けるものとされる。義輝 は武衛陣 (斯波 武 衛 家 旧 邸 )に室町 幕府 の拠点 を移 した将軍 としても知 られる。斯波 武 衛 家 の旧 邸 は室町 中御門 にあり、義輝 の御所 は室町 中御門 第 とよばれる。のちに大 規模 に拡張 され、石垣 で囲 まれた城郭 風 の外観 となったため、旧 二条城 と呼 ばれることもある。義輝 は歴代 将軍 と同 じく神仏 を敬 い、天文 22年 (1553年 )8月 に伊勢神宮 に入洛 を祈願 したり、弘治 3年 (1557年 )には陰陽 道 の主神 ・泰山 府 君 に怨敵 (三好 長慶 )退治 の祭文 を捧 げている[191]。天文 23年 (1554年 )には大友 氏 から鉄砲 と火薬 の秘伝 書 (『鉄 放 薬方 并調合 次第 』)を手 に入 れたり、永 禄 3年 (1560年 )にはガスパル・ヴィレラにキリスト教 の布教 を許 している。永 禄 8年 (1565年 )、正親町 天皇 は京都 からイエズス会 を追放 するよう命令 したが、義輝 はこの命令 を無視 したとされる[192][注釈 5]。義輝 は諸国 の大名 らと連絡 を取 り合 い、特定 の勢力 に依存 しない体制 の構築 を模索 し、将軍 の権威 を確立 しようとした。それまで足利 氏 一門 の世襲 であった奥州 探題 ・九州 探題 を非 足利 氏 一門 の伊達 氏 ・大友 氏 に変 えたほか、三好 氏 や毛利 氏 ・上杉 氏 (長尾 氏 )などの新興 大名 に偏 諱 や官位 といった様々 な栄典 を与 えるなど血統 よりも実力 を重視 して、室町 幕府 の儀礼 秩序 の再 構築 を行 うことで、室町 幕府 体制 の再建 を図 ろうとしたと考 えられる。しかし、その最大 の目的 であった三好 氏 への統制 確立 は、三好 氏 (特 に長慶 ・義興 父子 没 後 にその実権 を握 った三好 三 人 衆 )側 からは脅威 とみられて、永 禄 の変 の一因 になったと考 えられる[193]。また、足利 将軍 の権威 の正体 を「血統 に基 づく貴種 性 」とみる立場 からは、こうした"上 からの改革 "の進展 が結果 的 には足利 将軍 の権威 の否定 、ひいては室町 幕府 の滅亡 を早 めたとする見解 も出 されている[194][195]。義輝 は諸 大名 の任官 斡旋 には力 を尽 くしたものの、自身 は将軍 就任 と同時 に従 四 位 下 、翌年 に参議 ・左 近衛 中将 に任 ぜられてから約 20年間 全 く昇進 せず、父祖 のように従 三 位 とならず、朝廷 から公卿 扱 いされていなかった[196]。義輝 は経済 的 な事情 やたびたびの近江 下向 によって、歴代 将軍 の官位 昇進 の先例 に倣 わず、昇進 の機会 を逸 した可能 性 も考 えられるが、その一方 で諸 大名 の官位 授与 に関 する朝廷 への窓口 を自身 に一本 化 しようとしている。また、足利 義満 以降 の歴代 将軍 は花押 に武家 様 と公家 様 の2種類 を使 い分 けるか、あるいは公家 様 のみを用 いていたが、短期間 で没 して花押 が知 られていない足利 義勝 と足利 義栄 を別 とすれば、義輝 だけが武家 様 の花押 のみを用 いている(先例 に基 づけば、権 大納言 以上 に昇進 してから花押 を改 める予定 だったとも考 えられるが、義輝 はそもそも官位 の昇進 を志向 していない)[193]。また、義輝 の内裏 への参内 も、記録 に残 るのはわずか5回 である。義輝 の死後 、織田 信長 が足利 義昭 に対 して宛 てた異見 十 七 ヶ条 の中 では、義輝 の朝廷 軽視 が非業 の死 の原因 であると述 べている(『信長 公 記 』)が、義輝 の朝廷 観 については今後 の研究 課題 とされている[197]。義輝 は父 ・義晴 と違 い、改元 に極 めて消極 的 であった[94]。改元 は天皇 大権 に属 したものの、室町 時代 には将軍 が同意 して費用 を負担 しなければできず、例 として応 永 の年号 は朝廷 が改元 を望 んだにもかかわらず、足利 義満 が改元 に同意 しなかったため、異例 の30年間 続 いた[198]。だが、戦国 時代 に足利 将軍家 が弱体 化 ・分裂 すると、将軍 にとっては天皇 と結 んで改元 を行 うことが自身 の正統 性 を示 すものとなった[199]。そのため、義輝 の父 ・義晴 は足利 義 維によって京都 を追 われていたにもかかわらず、大 永 から享 禄 の改元 、および享 禄 から天文 の改元 と、2度 にわたって改元 を執奏 し、その正統 性 を天下 に示 した[94]。しかし、義輝 が天文 の年号 を24年間 続 かせたことや、天文 から弘治 の改元 執奏 や費用 負担 もしなかったため、朝廷 は永 禄 改元 に際 して、義輝 に諮 らずにこれを断行 した[94]。これは、義輝 が京都 を離 れることが常態 化 したため、正親町 天皇 をはじめ朝廷 が三好 長慶 を新 たな武家 の代表 とし、義輝 を武家 の代表 者 と認 めないとする政治 判断 を下 したと見 ることができる[200]。そのため、義輝 は自身 の権威 を大 きく傷 つけられたと感 じ、永 禄 改元 に従 わなかったが、その国 の君主 が定 めた年号 を使用 しないということは、世界 史 的 に見 ても反逆 か独立 の宣言 に他 なかった[201]。つまり、義輝 が旧 年号 を使 い続 けたことは、現職 の将軍 が朝敵 になるということに他 ならなかった[201]。また、諸 大名 の間 でも、年号 を永 禄 に改 める者 と弘治 を使 い続 ける者 とで、対応 が二分 された[201][202]。三好 氏 と領国 を接 さない武田 氏 や北条 氏 、今川 氏 など東国 の大名 がすぐに永 禄 改元 に従 った一方 で、三好 氏 と直接 対峙 しつつあった毛利 氏 は義輝 に同調 し、弘治 の年号 を使 い続 けた[105][201]。義輝 は朽木 滞在 中 、三好 長慶 と政治 面 のみならず、宗教 面 でも争 うことがあった。以下 はその例 である。天文 24年 (1555年 )6月 、義輝 は石清水八幡宮 の神官 ・田中 家 で発生 した家督 争 いを調停 し、当主 の田中 (西竹 )教 清 が筑前 の箱根 宮 にいることを怠慢 として、家督 を教 清 から東 竹 甲 清 に変更 した[203]。ところが、翌年 5月 に長慶 がこれに介入 し、また教 清 も筑前 から上洛 して、自身 が筑前 にいたのは後 奈良 天皇 の命 によって箱根 宮 の遷宮 を行 っていたからであると松永 久秀 に訴 えた[203]。そのため、12月に甲 清 から教 清 に家督 を返還 することで和談 がなされ、義輝 の命令 は長慶 によって覆 される形 となった[203]。天文 14年 (1545年 )、出雲 の尼子 晴久 が月山 富田 城 で千 部 法華 教 読踊を催 した際 、地元 の安来 清水寺 が後 奈良 天皇 の命令 を根拠 として、それまでの鰐淵 寺 に代 わる形 で最 上位 の左 座 に座 ろうとしたことで、両 寺 の間 で相 論 が起 こった[203][204]。その背景 として、晴久 が領国 における宗教 政策 において、清水寺 を取 り立 てることによって、出雲 大社 の本寺 である鰐淵 寺 への統制 を強 めようとしたことにあった[203]。このときは座 を定 めずに済 ませたが[91]、天文 24年 にこの問題 が再燃 すると、事態 は晴久 の思惑 を超 えて動 き始 めた[205]。両 寺 は延暦寺 を通 して朝廷 に訴 えたばかりか、鰐淵 寺 は義輝 にも働 きかけ[206]、弘治 2年 5月 23日 付 で鰐淵 寺 理 運 の旨 を晴 久 に伝 える幕府 奉行 人 連署 奉書 を獲得 した[204]。ところが、朝廷 は三 問 三 答 を経 て、6月 下旬 に安来 清水寺 を左 座 とする後 奈良 天皇 女房 奉書 を出 した[204]。そのため、安来 清水寺 は晴久 と同 じ佐々木 一族 の六角 義賢 を、鰐淵 寺 は長慶 をそれぞれ頼 り、9月15日 に長慶 が後 奈良 天皇 の命令 を非難 して、朝廷 に再審 を求 めた[204][206]。その結果 、11月13日 に後 奈良 天皇 は長慶 の意見 通 りに裁許 を覆 して、鰐淵 寺 を左 座 とすることに決 し、翌年 には相 論 は沈静 化 していった[206][207]。義輝 の朽木 在 在中 、長慶 は地方 の訴訟 にも関与 し、二 転 三 転 した相 論 を決着 させることで、将軍 に代 わる存在 感 を示 していた[93][206]。
義輝 殺害 の理由 ・経緯
山田 康弘 は、義輝 の殺害 に関 して、義輝 一族 =義澄 系 足利 氏 の族 滅 を進 めることによって、三好 氏 が擁立 することになる義稙 系 足利 氏 に将軍家 を統一 し、半 世紀 以上 にもわたる「二 つの将軍家 問題 」に由来 する政治 的 不安定 を解消 しようとする意図 があったとする[208]。
小林 正信 は、義輝 の殺害 を計画 的 なものとし、義輝 の生母 や愛妾 、義輝 の末弟 に至 るまで殺害 されていることから、その一族 すべてを執拗 に狙 った三好 氏 らの用意 周到 さが垣間見 え、偶発 的 なものではなかったと考察 している[209]。また、御所 への包囲 は前日 から密 かに進 められており、当日 には周囲 を完全 に封鎖 されていたと見 るべきだ、とも述 べている[209]。
柴 裕之 は、三好 側 の意図 としては側近 たちの排除 を目的 として政治 的 要求 を行 うために御所 を包囲 する、いわゆる「御所 巻 」と呼 ばれるもので、それ自体 はかつての観 応 の擾乱 における足利 直義 失脚 、康 暦 の政変 における細川 頼 之 失脚 、文正 の政変 における伊勢 貞 親 失脚 と同 じ性格 であったが、フロイスの記述 を信 じればその要求 は将軍 の妻妾 や側近 の処刑 を含 むもので、義輝 にとっては受 け入 れがたかった内容 を含 むものであったために、その要求 を拒絶 するために実力 排除 を試 みた結果 とみる[211]。
久野 雅司 は、義輝 の殺害 を、将軍 の権威 高揚 に対 して、三好 氏 の権威 の再興 をかけて行 ったものであったとものと考察 している[212]。「御所 巻 き」に関 しては、『足利 季 世 記 』に「強訴 と偽 って」とあることから、義輝 を欺 くことが目的 であったとしている[212]。
天野 忠幸 は、三好 方 が訴訟 と号 したのは表向 きで、当初 から義輝 の殺害 を目的 としており、また政変 は足利 将軍家 を義稙 流 に統一 するために行 ったものではなく、三好 義継 が足利 将軍家 にとって代 わろうとするために起 こしたと考察 している[213]。義継 の家督 継承 時 、三好 家 中 の結束 が三好 長慶 や一門 の相次 ぐ死 によって乱 れており、義継 は初陣 として義輝 を討 つことで、三好 本 宗家 の家督 に相応 しい存在 であると示 す必要 があった、と天野 は推測 している[214]。天野 は、義輝 と三好 方 の緊張 が高 まる中 での長慶 の死 により、将軍 としての権威 を回復 しようとする義輝 に対 して、義継 が先手 を打 ったと見 ており、義輝 殺害 後 に義重 から義継 に改名 したことからも、そうした義継 の意図 を窺 い知 ることができるとしている[178]。
系譜
墓所 ・肖像
墓所
肖像
偏 諱 を受 けた人物
- ※
矢印 の示 す人物 は、左 の偏 諱 を受 けた者 から「義 」「輝 」の字 を与 えられた子女 ・家臣 を示 す。
公家
武家
「義 」の字
「藤 」の字
「輝 」の字
関連 作品
義輝 を題材 とした作品
小説
池宮 彰一郎 『無明 長夜 の剣 』(講談社 『風塵 』収録 、1995年 ※1998年 文庫 化 )宮本 昌孝 『剣豪 将軍 義輝 』上 、中 、下 (徳間 文庫 、2000年 )上 鳳雛 ノ太刀 ISBN 4198912475、中 孤 雲 ノ太刀 ISBN 4198912661、下 流星 ノ太刀 ISBN 419891284X
宮本 昌孝 『義輝 異聞 将軍 の星 』(徳間 文庫 、2003年 ) ISBN 4198918929宮城 賢 秀 『将軍 義輝 の死 』(角川 春樹 事務所 (ハルキ文庫 )、2005年 ) ISBN 4758431809木下 昌輝 『公方 様 の一 ノ太刀 』(光文社 『戦国 24時 さいごの刻 』収録 、2016年 ※『戦国 十 二 刻 終 わりのとき』と改題 し文庫 化 、2019年 )天野 純 希 『雲上 の剣 』(文藝春秋 『乱 都 』収録 、2020年 ※2023年 文庫 化 )
漫画
原作 :宮本 昌孝 、漫画 :東 冬 『大樹 剣豪 将軍 義輝 』(徳間書店 『月刊 COMICリュウ』連載 、2012年 -2014年 )- とみ
新蔵 『卜伝 と義輝 ~剣術 抄 ~』(リイド社 『コミック乱 』連載 、2018年 -2019年 )
舞台
- ‐もっと
深 く歴史 を知 りたくなるシリーズ
楽曲
天月 -あまつき-『明星 の刃 』(詞 :長谷川 澪 奈/原田 雄一 /天月 ‐あまつき-/、曲 :KoTa/原田 雄一 、2016年 )舞台 『剣豪 将軍 義輝 ~戦国 に輝 く清爽 の星 ~』テーマソング天月 ‐あまつき‐『未来 の星 命 』(詞 :長谷川 澪 奈/天月 ‐あまつき‐、曲 :KoTa/原田 雄一 、2017年 )舞台 『剣豪 将軍 義輝 ~星 を継 ぎし者 たちへ~』テーマソング
義輝 が登場 した作品
映画
- テレビドラマ
天 と地 と (1969年 、NHK大河 ドラマ、演 :山本 學 )国 盗 り物語 (1973年 、NHK大河 ドラマ、演 :竹脇無我 )信長 KING OF ZIPANGU(1992年 、NHK大河 ドラマ、演 :宮田 恭男 )織田 信長 (1994年 、テレビ東京 新春 ワイド時代 劇 、演 :北大路 欣也 )国 盗 り物語 (2005年 、テレビ東京 新春 ワイド時代 劇 、演 :千葉 哲也 )功名 が辻 (2006年 、NHK大河 ドラマ、演 :山口 祥行 )麒麟 がくる(2020年 、NHK大河 ドラマ、演 :向井 理 )
- テレビアニメ
- ゲーム
脚注
注釈
- ^ なお
同書 では、ライーニャおよびプリンセザの訳語 に「奥方 」を使用 している。 - ^ 「
公方 様 の夫人 は、実 は正妻 ではなかった。だが彼女 は懐胎 していたし、すでに公方 様 は彼女 から二 人 の娘 をもうけていた。また彼女 は上品 であったのみならず、彼 から大 いに愛 されてもいた。したがって世間 の人々 は、公方 様 が他 のいかなる婦人 を妻 とすることもなく、むしろ数日 中 には彼女 にライーニャ(=王妃 )の称 を与 えることは疑 いなきことと思 っていた。なぜならば、彼女 はすでに呼 び名 以外 のことでは公方 様 の正妻 と同 じように人々 から奉仕 され敬 われていたからである」
「コジジュウドノ(小 侍従 殿 )と称 されたこのプリンセザは~」[1] - ^
後 に柳生 宗矩 が細川 忠利 に門弟 である雲林院 弥四郎 を推挙 した際 の書状 において、上方 における卜伝 の直門 として弥四郎 の父 ・雲林院 松軒 と共 に、義輝 と北畠 具 教 の名 を挙 げている。 - ^
新 当流 の伝承 では、卜伝 が「唯 授一 人 」の一之 太刀 を伝授 した相手 は北畠 具 教 としている。また、卜伝 本人 からではないが、徳川 家康 も、その直門 である松岡 則 方 から一 之 太刀 を伝授 されている。 - ^ 『フロイス
日本 史 』第 1部 66章 および67章 や、宣教師 の書簡 集 などには、義輝 の死後 、竹内 季 治 などの法華宗 徒 が松永 久秀 などに働 きかけて正親町 天皇 を動 かし、イエズス会 の宣教師 を京都 から追放 する勅 令状 を発行 させることに成功 し、宣教師 は都 を追 われたという記述 があるが、同書 や彼 らの書簡 には義輝 の生前 に天皇 より宣教師 やイエズス会 の会員 を京都 から追放 する命令 が出 たという記述 はない。 - ^ 『
三 百藩家臣人名事典』第 七 巻 (新人物往来社 )では義昭 の弟 としている。
出典
- ^ 『
完訳 フロイス日本 史 1将軍 義輝 の最期 および自由 都市 堺 』より[注釈 1]。 - ^
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