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足利義輝 - Wikipedia

足利あしかが義輝よしてる

室町むろまち幕府ばくふだい13だい将軍しょうぐん

足利あしかが 義輝よしてる(あしかが よしてる、1536ねん3月31にち天文てんもん5ねん3がつ10日とおか〉- 1565ねん6月17にちえいろく8ねん5月19にち〉)は、室町むろまち幕府ばくふだい13だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん在職ざいしょく1547ねん1がつ11にち天文てんもん15ねん12月20にち〉 - 1565ねん6がつ17にちえいろく8ねん5がつ19にち〉)[2]はつふじ(よしふじ)[3]

 
足利あしかが 義輝よしてる / 足利あしかが よしふじ
足利あしかが義輝よしてるぞう国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんくら
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん5ねん3がつ10日とおか1536ねん3月31にち
死没しぼつ えいろく8ねん5月19にち1565ねん6月17にち
享年きょうねん30(まん29さいぼつ
改名かいめい きく幢丸(幼名ようみょう)→よしふじはつ)→義輝よしてる
戒名かいみょう 光源院こうげんいんとおる山道さんどうえん
官位かんい したがえせいひだり馬頭めずしたがえよん征夷大将軍せいいたいしょうぐん参議さんぎひだり近衛このえ中将ちゅうじょう
おくしたがえいち左大臣さだいじん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ だい13だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん
在職ざいしょく1547ねん天文てんもん15ねん) - 1565ねんえいろく8ねん))
氏族しぞく 足利あしかが将軍家しょうぐんけ
父母ちちはは ちち足利あしかが義晴よしはるははけい寿ことぶきいん近衛このえしょうどおりむすめ
なおちち近衛このえしょうどおり
兄弟きょうだい 義輝よしてる義昭よしあきしゅう、ほか
つま 正室せいしつだいいん近衛このえ稙家むすめ
側室そくしつしょう侍従じじゅうきょく進士しんしはるしゃむすめ[注釈ちゅうしゃく 2]
てるわかまる女子じょし耀山かかやまたからきょうてら住持じゅうじ)、女子じょしつてやませいけんたからきょうてら住持じゅうじ)、いけよしたつ?、てんほまれ足利あしかが義高よしたか)?
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

少年しょうねん将軍しょうぐん就任しゅうにん

編集へんしゅう
 
足利あしかが義晴よしはるぞういにしえ類聚るいじゅう

天文てんもん5ねん(1536ねん)3がつ10日とおか室町むろまち幕府ばくふだい12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる長男ちょうなんとして、東山ひがしやま南禅寺なんぜんじ誕生たんじょうした[4]はは近衛このえしょうどおりむすめけい寿ことぶきいん[4]幼名ようみょうきく幢丸(きくどうまる)と名付なづけられた[4]

将軍しょうぐん台所だいどころあいだまれた男子だんし足利あしかが義尚よしなお以来いらいであり、摂関せっかん出身しゅっしん女性じょせいはは将軍家しょうぐんけ男子だんしきく幢丸がはじめてであった[5]

誕生たんじょう直後ちょくごちち義晴よしはる近衛このえしょうどおりたのんだ結果けっかきく幢丸はその猶子ゆうしとなった[6][7]なおつう未来みらい将軍しょうぐん外祖父がいそふになれたことをよろこび、きく幢丸の誕生たんじょうを「祝着しゅうちゃくきわまりなきものなり」と日記にっきしるしている[6]

このころ幕府ばくふでは、ちち義晴よしはる管領かんりょう細川ほそかわはるもとたがいの権威けんいあらそいで対立たいりつし、義晴よしはるせんをするたびにやぶれて近江おうみこく坂本さかもとのがれ、きく幢丸もそれにたびたびしたがった。そのちちとともに、京都きょうとへの復帰ふっき坂本さかもと朽木くちきへの脱出だっしゅつかえした。また、それまでの将軍家しょうぐんけ嫡男ちゃくなん政所まんどころあたまじんである伊勢いせ邸宅ていたくそだてられる慣例かんれいであったが、きく幢丸は両親りょうしん手元てもとそだてられた[8]

天文てんもん15ねん1546ねん)7がつ27にちきく幢丸は朝廷ちょうていより、ふじいみなあたえられた[3]。また、同年どうねん11がつ19にちには朝廷ちょうていから将軍しょうぐん嫡子ちゃくし代々だいだいにんじられてきたひだり馬頭めずにんじられた[3]。これらはすべて、ちち義晴よしはる朝廷ちょうてい依頼いらいし、実現じつげんしたものであった[3]

同年どうねん12がつ19にちよしふじ元服げんぷくおこなわれた[3]元服げんぷくしき近江おうみ坂本さかもと日吉ひよし神社じんじゃげん日吉ひよし大社たいしゃ祠官しかん下成しもなりたもつだいおこなわれ、六角ろっかく当主とうしゅ六角ろっかく定頼さだより烏帽子えぼしおやとなった[3][9][10]将軍しょうぐん烏帽子えぼしおや管領かんりょうつとめる慣例かんれいになっていたが、義晴よしはる定頼さだより管領かんりょうだいにんじて元服げんぷくおこなった[10][11]

だが、管領かんりょうではない定頼さだより烏帽子えぼしおやつとめさせたことは、はれもと管領かんりょうとしての権威けんい否定ひていするものであった(そもそも、はれもと管領かんりょうにんじられていなかったとするせつもある)。なお、遊佐ゆさちょうきょう細川ほそかわ氏綱うじつな烏帽子えぼしおやにするようにもとめて定頼さだより阻止そしされたりするなど、当時とうじ流動的りゅうどうてき政治せいじ背景はいけいもとはれもとしゅうとである定頼さだより烏帽子えぼしおやにしたとする見方みかたもある[12]定頼さだより自身じしん義晴よしはるから烏帽子えぼしおやになるようにめいじられ、なん固辞こじしたものの、義晴よしはる辞退じたいゆるさなかったという[13]

よく20にち将軍しょうぐん宣下せんげ儀式ぎしきおこなわれ、よしふじはわずか11さいにしてちちから将軍しょうぐんしょくゆずられ、正式せいしきだい13だい将軍しょうぐんとなった[9][10][13][14]。このとき、京都きょうとよりおもむいた朝廷ちょうていからの勅使ちょくし坂本さかもと到着とうちゃくし、将軍しょうぐん宣下せんげおこなった[13]。また、ちょうきょうがこの儀式ぎしき重要じゅうよう役割やくわりたしており[13]、6千疋せんびき献上けんじょうしている[9]

一連いちれん行動こうどうは、ちち義晴よしはるがかつての先例せんれいならったものであったされ、その先例せんれい息子むすこにも踏襲とうしゅうさせようとした可能かのうせい指摘してきされている[10][15]義晴よしはるだいひさし元年がんねん1522ねん)12月・当時とうじ11さい元服げんぷく将軍しょうぐん宣下せんげおこなったことにくわえ、自身じしん健在けんざいのうちに実子じっし将軍しょうぐん地位ちいゆずってこれを後見こうけんするかんがえがあったとされる[10]。また、朝廷ちょうてい義晴よしはるがこのまま政務せいむ京都きょうと警固けいごにん放棄ほうきすることを憂慮ゆうりょし、めの意図いとふくめて、よしふじ将軍しょうぐん宣下せんげ翌日よくじつ義晴よしはるみぎ近衛このえ大将たいしょう急遽きゅうきょにんじている[16]

同月どうげつすえよしふじちち義晴よしはるとともに坂本さかもとはなれ、きょう東山ひがしやま慈照寺じしょうじもどった[17]ふじはその直後ちょくごより、将軍しょうぐんとしての活動かつどう開始かいしした[17]

天文てんもん16ねん正月しょうがつ細川ほそかわ氏綱うじつな有力ゆうりょく武将ぶしょう京都きょうとまかせられていた細川ほそかわこくけいが、公家くげらから地子じしぜに横領おうりょうし、被害ひがいにあった公家くげらがおこったために騒動そうどうきた[17]。11にち騒動そうどうおさまったかのようにえたが、よしふじくにけい将軍しょうぐんの「てき」とし、「成敗せいばいすべし」との号令ごうれいくだした[17]くにけいふじ謝罪しゃざいしたが、よしふじはこれをゆるさず、きゅうしたくにけいきょう郊外こうがい高雄たかお出奔しゅっぽんした[17]

正月しょうがつ26にちよしふじちち義晴よしはるとともに内裏だいり参内さんだいして、こう奈良なら天皇てんのう拝謁はいえつし、ごとけんじた[16][18][19]。そのさいよしふじ六角ろっかくへい3せんひきいて洛中らくちゅう行進こうしんし、その武威ぶいしめした[18]

細川ほそかわはるもととのたたか

編集へんしゅう

ちち義晴よしはる没落ぼつらく気味ぎみであった細川ほそかわはるもと決別けつべつし、細川ほそかわ氏綱うじつなむすんだが、はれはじめだまってはいなかった[20]はれもと報復ほうふくとして、阿波あわ庇護ひごしていた義晴よしはる兄弟きょうだい足利あしかがよし擁立ようりつした[20]はれもと義晴よしはる決別けつべつするまで支援しえんしつつも、一方いっぽう維を庇護ひごするという、「ねじれた関係かんけい」をっていた[21]

だが、この事態じたい六角ろっかく定頼さだよりなやませた。定頼さだよりにとって、義晴よしはるはれもととともにそれまでささえてきた同志どうしであり、よしふじもまた自身じしん烏帽子えぼしおやつとめた人物じんぶつだった[22]一方いっぽうはれもともまた、自身じしんむすめ婿むこであり、ちかしい存在そんざいであった[21]。もし、定頼さだよりはれもと味方みかたすれば、それはふじ将軍しょうぐんとしての権威けんい否定ひていし、よし維を将軍しょうぐんとしてみとめることにつながった[22]

そのため、定頼さだより義晴よしはるよしふじ父子ふしはれもと和解わかいさせようとした。その一環いっかんとして、大坂おおさか石山いしやま本願寺ほんがんじとつぐことが内定ないていしていたはれもとむすめを、よしふじ台所だいどころにしようと画策かくさくした[23][24]。だがこのはなし強引ごういんすぎたため、うまくいかなかった[23]。そのあいだにも、義晴よしはるよしふじはれもと関係かんけい悪化あっかし、はれもと各地かくち氏綱うじつなかし、きょうへとせまった[25]

3月29にちよしふじ義晴よしはる危険きけんかんじ、北白川きたしらかわ建設けんせつしていた将軍しょうぐん山城やましろげ、ここに籠城ろうじょうした[24][25][26]。そして、はれもととの対決たいけつ姿勢しせい鮮明せんめいにしたため、定頼さだより両者りょうしゃ板挟いたばさみになってきゅうした[25]

7がつ12にちよしふじ義晴よしはる籠城ろうじょうする将軍しょうぐん山城やましろは、定頼さだよりはれもと大軍たいぐん包囲ほういされた[25]定頼さだより父子ふしたいして、はれもととの和解わかいいた[24][25]定頼さだより背反はいはんにより、父子ふしじゅつうしない、全面ぜんめんてきにその要求ようきゅうれざるをなくなった[25][27]

7がつ19にちよしふじ義晴よしはる将軍しょうぐん山城やましろはなち、しろ近江おうみ坂本さかもとかった[27][28]。だが、29にち定頼さだより仲介ちゅうかいのもと、はれはじめ坂本さかもと和睦わぼくした[27][28]。このとき、よしふじはれもと面会めんかいしたが、義晴よしはるはれもと面会めんかいしなかった[28]他方たほう、この和解わかいにより、はれもと支援しえんしていた足利あしかがよし維は立場たちばがなくなり、同年どうねん12がつさかいから四国しこくへともどった[29]

天文てんもん17ねん4がつ定頼さだより大和やまとはいり、氏綱うじつなゆうちょうきょう面会めんかいし、はれはじめ氏綱うじつな和解わかいけた[28]。これにより、細川ほそかわ一門いちもん騒擾そうじょうおさまり、畿内きない政情せいじょう安定あんていした[28]。そのため、6月17にちふじ義晴よしはる坂本さかもとからきょうへともどり、今出川いまでがわ御所ごしょはいった[14][28]

三好みよし長慶ちょうけいとのたたか

編集へんしゅう
 
三好みよし長慶ちょうけいぞう聚光いん所蔵しょぞう

ところが、細川ほそかわはるもと家臣かしんで、畿内きない一大いちだい勢力せいりょくきずきつつあった三好みよし当主とうしゅ三好みよし長慶ちょうけいはれもと裏切うらぎって、細川ほそかわ氏綱うじつな陣営じんえい転属てんぞくした[30]。その理由りゆうとしては、はれもと同族どうぞく三好みよし政長まさなが重用じゅうようし、長慶ちょうけい討伐とうばつしようとしたため、主君しゅくんによって「逆臣ぎゃくしん」とされてしまったことにあった[30]

天文てんもん18ねん1549ねん)6がつ24にち長慶ちょうけい摂津せっつ江口えぐち政長まさながやぶり、った(江口えぐちたたか[30][31]。これにより、政長まさなが支援しえんしていたはれもと立場たちばわるくなり、同月どうげつ28にちふじ義晴よしはるはれもとともなわれ、近衛このえ稙家久我くがはるどおりなどとともに京都きょうと脱出だっしゅつし、六角ろっかく定頼さだよりたより、近江おうみ坂本さかもと退避たいひした[31][32][33]

京都きょうとはなれるさいよしふじ今出川いまでがわ御所ごしょ近傍きんぼうにあった相国寺しょうこくじ御所ごしょ留守るすめいじ、相国寺しょうこくじ上意じょういけ、御所ごしょ留守番るすばん昼夜ちゅうやたした[30]。この時期じきよしふじみずからが御内おんうちしょ発給はっきゅうはじめているが、まだ若年じゃくねんということもあり、大御所おおごしょである義晴よしはる存命ぞんめいちゅう義晴よしはる名義めいぎの、その没後ぼつご生母せいぼであるけい寿ことぶきいん御内おんうちしょ発給はっきゅうしているれいがある[34]

7がつ19にち長慶ちょうけい氏綱うじつなほうじて、上洛じょうらくたした[33]藤方ふじかた打撃だげきあたえるため、松永まつなが久秀ひさひでおとうと松永まつながちょうよりゆき内藤ないとう宗勝むねかつ)は氏綱うじつなあたえられたとしょうして、山科やましなななさと横領おうりょうした[35]。また、ちょうよりゆき今村いまむらけいまんとともに、よしふじ配下はいか進士しんし所領しょりょうである石田いしだ小栗栖おぐりすさえた[36]長慶ちょうけいおとうと十河そごう一存いちぞんもまた、伏見ふしみ宮家みやけりょううえさん栖庄をさえるなど、三好みよしかた京都きょうと荘園しょうえん次々つぎつぎさえた[36]

ふじとしてはすぐに帰京ききょうできるというかんがえをっていたが、はれはじめ長慶ちょうけいたたかいは決着けっちゃくがつきそうになかった[37]。そのうえ、同年どうねんれから義晴よしはるが「水腫すいしゅちょうみつる」という全身ぜんしんがむくんだ状態じょうたいやまいし、よく天文てんもん19ねん1550ねん正月しょうがつになっても改善かいぜんしなかった[31][38]ふじちちのためにすぐにでもきょうもどろうとかんがえ、はれもととともに三好みよしかたへの反撃はんげき準備じゅんび開始かいしした[39]

2がつよしふじ義晴よしはるとともに、東山ひがしやま慈照寺じしょうじちかくに中尾なかおしろきずいた[39]。また、3月7にちには坂本さかもとて、穴太あのうすすんだ[39]いで、4がつにはきょう近江おうみむす北白川きたしらかわにも城塞じょうさいきずいた[39]

5月4にち義晴よしはる穴太あのうにて死去しきょした(『万松院殿穴太記』)[40][41]。 このときよしふじ穴太あのうから比叡辻ひえいつじ宝泉寺ほうせんじ後退こうたいしていたため、その葬儀そうぎうことはなかった[42]ふじ宝泉寺ほうせんじ御座所ござしょとし、細川ほそかわはるもと六角ろっかく定頼さだより連携れんけいしつつ、反撃はんげき機会きかいった[43]

7がつ14にち三好みよしぜいふじ拠点きょてんであるきょう東郊とうこうがい侵攻しんこうした[43]細川ほそかわぜいらは戦意せんいとぼしく、きょう東郊とうこうがいから出撃しゅつげきせず、はれはじめたたかわずに戦線せんせん離脱りだつし、越前えちぜんへとかった[43]三好みよしぜい細川ほそかわ六角ろっかくぜい出撃しゅつげきしてこなかったため、山崎やまざきへと撤退てったいした。

11月19にち準備じゅんびととのえた三好みよしぜい4まんきょうへとなだれみ、細川ほそかわ六角ろっかくぜい応戦おうせんしたものの、三好みよしぜい敗退はいたいした[41][44]ふじ中尾なかおじょう指揮しきっていたが、同月どうげつ21にち三好みよしぜいせてきたため、中尾なかおしろしょうして、近江おうみ堅田かただへとのがれた(中尾なかおじょうたたか[41][45][46]

 
朽木くちきうつった義輝よしてる朽木くちきはれつなたいして、忠節ちゅうせつくすようもとめた天文てんもん20ねん2がつ12にちづけ御内おんうちしょ国立こくりつ公文書こうぶんしょかんくら[47]

天文てんもん20ねん1551ねん)1がつまつ政所まんどころあたまじんである伊勢いせさだこうふじ強引ごういんきょうもどして、三好みよしかたとの和睦わぼくはかろうとするが失敗しっぱいした[48][49]。だが、さだこう奉公ほうこうしゅ進士しんしけんこうらをれて、30にちきょうもどり、三好みよしかた離反りはんした[48][46][49]。これをった六角ろっかく定頼さだよりすすめにより、2がつ10日とおかふじ朽木くちきうつった[49][41]

3月14にち京都きょうとさだこう屋敷やしきにおいてひらかれた宴会えんかいにおいて、進士しんしけんこう長慶ちょうけいを3にわたってかたなりつけた[50][51]。だが、けんこうによる暗殺あんさつげき長慶ちょうけいかるきずわす程度ていどわってしまい、けんこうはその自害じがいした[50]。これはふじさだこう屋敷やしき長慶ちょうけいばれるとの情報じょうほうて、進士しんしけんこう伊勢いせていおこなわれた宴席えんせき潜入せんにゅうさせ、長慶ちょうけい暗殺あんさつしようと目論もくろんだものであった[52][53]

よく15にち三好みよしまさしせいそう渭)や香西こうざい元成もとなり幕府ばくふぐん丹波たんば宇津うつから出撃しゅつげきし、東山ひがしやま一帯いったいはらったが、16にちには三好みよしちょうとらひきいる三好みよしぐん2まんがこれを撃退げきたいした[54]長慶ちょうけい暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんとこの幕府ばくふぐん京都きょうとめはあきらかに連動れんどうしたものであり、よしふじ策動さくどうであったとかんがえられる[54]

5月5にちおや長慶ちょうけい河内かわうち守護しゅごだい遊佐ゆうさちょうきょう時宗じしゅう僧侶そうりょたま阿弥あみ暗殺あんさつされた[46]。だが、たま阿弥あみは「てきじん」に買収ばいしゅうされていたといわれ[55]、この事件じけんふじ仕業しわざとされるなど、畿内きない不穏ふおん空気くうきただよった[55]

7がつ三好みよしまさしせい香西こうざい元成もとなり主力しゅりょくとした幕府ばくふぐん3せんふたたび、きょう奪回だっかいはかって侵入しんにゅうした[56]。だが、松永まつなが久秀ひさひでとそのおとうと松永まつながちょうよりゆきひきいる4まん軍勢ぐんぜいによって、相国寺しょうこくじやぶられた(相国寺しょうこくじたたか[57]。このとき、りょうぐん放火ほうかによって、相国寺しょうこくじ塔頭たっちゅう伽藍がらんことごと焼失しょうしつした[57]

9月、長慶ちょうけいおとうとである三好みよしみのるきゅう安宅あたかふゆやすし東寺とうじ禁制きんせい発給はっきゅうしていることから、りょうぐん京都きょうと南郊なんこう展開てんかいしていたとかんがえられる[57]

長慶ちょうけいとの和解わかい決別けつべつ

編集へんしゅう
 
六角ろっかく義賢よしかたうけたまわただしぞう落合おちあいかおるいく

天文てんもん21ねん1552ねん)1がつ六角ろっかく定頼さだより死去しきょし、息子むすこ義賢よしかたうけたまわただし)がそのあといだ[53][58]六角ろっかくはこのころ朽木くちきふじ支援しえんして三好みよし対立たいりつしていたが、定頼さだよりぬと、よしふじ入京にゅうきょうおよ氏綱うじつな家督かとく継承けいしょうはれもと出家しゅっけ条件じょうけんとして、ただちに和平わへいもう[53][58]。これにより、よしふじ三好みよしかたとのあいだ和平わへい急速きゅうそくすすみ、三好みよし長慶ちょうけい宥免ゆうめんして和解わかいした[59]。また、よしふじ細川ほそかわ氏綱うじつな細川ほそかわ当主とうしゅみとめてはれもと決別けつべつしたため、はれもと見捨みすてられるかたちとなり、若狭わかさへとのがれた[59]

同月どうげつ23にちよしふじ三好みよし和解わかいしたことにより、近江おうみ朽木くちき出発しゅっぱつし、よく24にちには比良びら比叡辻ひえいつじいたり、28にちには近衛このえ稙家ら3せんひきいてきょうへとはいった[53][59][60]ふじ入京にゅうきょうさい衣装いしょうかたな美々びびしくかざてたすうせんへいひきい、おおくの見物人けんぶつにんまえ堂々どうどうすすんだという[61]帰京ききょうよしふじがどこにんだのかはさだかではないが、今出川いまでがわ御所ごしょしたとかんがえられている[59]

2がつよしふじ長慶ちょうけい幕府ばくふ御供ごくうしゅとし、幕臣ばくしんれつした[61][62]。この称号しょうごう将軍しょうぐん有力ゆうりょく近臣きんしんにしかあたえられない称号しょうごうでもあった[61]。また、長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつなきょうちょういえおとうと細川ほそかわふじけんてんうまや相続そうぞくすることがみとめられた[63]。すでに畿内きない覇権はけん細川ほそかわ三好みよしうつりつつあったが、このころより三好みよし細川ほそかわ同等どうとう、あるいはそれ以上いじょう存在そんざいとして台頭たいとうしてきた[61]

伊勢いせさだこうふじ三好みよし和解わかいすると赦免しゃめんされ、よしふじのもとに帰参きさんした[61][63]さだこう長慶ちょうけいふかきずなむすばれ、おや三好みよし幕臣ばくしん同志どうしあつめた[61]。それにより、幕臣ばくしんなかしん三好みよしはん三好みよしまれ、次第しだい反目はんもくするようになっていった[61][64]。やがて、よしふじ側近そっきんである奉公ほうこうしゅ上野うえの信孝のぶたか台頭たいとうし、これに反発はんぱつする幕臣ばくしんとの確執かくしつつよまった[65]

同年どうねん6がつよしふじ伊勢いせさだこうらの反対はんたいって、山名やまな赤松あかまつ守護しゅごしょくうばい、尼子あまこ晴久はるひさを8かこく守護しゅごにんじたことで、幕府ばくふない動揺どうようしょうじた[66]

同年どうねん10がつ細川ほそかわはるもと三好みよしぜい丹波たんば撃破げきはした[67]はれもとふじ決別けつべつしたのち、丹波たんば各地かくちめぐって味方みかたあつめ、再起さいきはかったのであった[67]。そのはれもといきおいにり、きょう近郊きんこうまで出撃しゅつげきし、三好みよしかた小競こぜいをするようになった[67]

同年どうねん11がつよしふじきょう郊外こうがい清水寺きよみずでらちかくの霊山れいざんに、あらたな山城やましろである東山ひがしやま霊山れいざんじょうきずいた[68]。これはふじ危険きけんかんじたからとされ、はれもとへいきょう郊外こうがい出没しゅつぼつしたとくと、よしふじ洛中らくちゅう今出川いまでがわ御所ごしょてこのしろはいり、生母せいぼをはじめとする女性じょせい清水寺きよみずでられた[68]将軍しょうぐん近臣きんしんらもまた、清水寺きよみずでらちかくにじんかまえていた[68]

天文てんもん22ねん1553ねん)1がつ細川ほそかわはるもと反撃はんげきにより、きょう周辺しゅうへん政情せいじょう不安定ふあんていになると、はん三好みよし幕臣ばくしん長慶ちょうけい排除はいじょのために策動さくどうするようになっていった[68]はん三好みよし上野うえの信孝のぶたからはひそかにはれもと内通ないつうし、長慶ちょうけいのぞこうとした[68]

うるう1がつ1にち長慶ちょうけいふじへの挨拶あいさつのため、公家くげしゅ奉公ほうこうしゅ御供ごくうしゅらともにそのもとに出向でむいた[69]。ところが、このころには長慶ちょうけい排除はいじょするといううわさひろまっていたため、8にち危険きけんかんじた長慶ちょうけいきょうからよどみじょうへとうつった[68][69][70]。その、15にちふじ長慶ちょうけい和解わかいしたことにより、16にちには長慶ちょうけい軍勢ぐんぜい1500義輝よしてる警固けいごとして室町むろまち陣取じんどった[71]

2がつおや三好みよし伊勢いせさだこうふじたいし、上野うえの信孝のぶたからを追放ついほうするよう諫言をおこない、これに義晴よしはるよしふじ長年ながねんしたがって三好みよしたたかってきただいたて晴光はるみつ朽木くちき稙綱同調どうちょうした[72]おや三好みよし幕臣ばくしんもまた、長慶ちょうけいみつ連絡れんらくい、はん三好みよし幕臣ばくしん処罰しょばつうったえるようになっていった[68]。そのため、よしふじ信孝のぶたかはん三好みよし幕臣ばくしんらを処罰しょばつし、かれらから三好みよしかた人質ひとじちさせることにした[73]。だが、幕臣ばくしんおや三好みよしはん三好みよし分裂ぶんれつしており、よしふじ三好みよし細川ほそかわのどちらにつくか、きびしい選択せんたくけられた[73]

同月どうげつ12にち長慶ちょうけい大軍たいぐんひきいて上洛じょうらくし、東寺とうじ陣取じんどった[69]。これをはれもとは、22にちきょう北西ほくせい足軽あしがるして小競こぜいをこしたが、26にち鳴滝なるたき衝突しょうとつしたさい長慶ちょうけいかたやぶれている[69]

どう26にちよしふじ長慶ちょうけいきょうもどし、清水寺きよみずでらまねき、みずか対面たいめんした[70][73]ふじ長慶ちょうけいがここで今後こんご相互そうご協力きょうりょく確認かくにんったことで、伊勢いせさだこうおや三好みよし幕臣ばくしん満足まんぞくした[74]。このとき、はん三好みよし上野うえの信孝のぶたか以下いか6にん幕臣ばくしんから人質ひとじち徴収ちょうしゅうされた[69]

3月8にちよしふじ東山ひがしやま霊山れいざんじょう入城にゅうじょうして、長慶ちょうけいとのやく破棄はきし、三好みよしとの断交だんこう決断けつだんした[75][76]。そして、はれはじめみ、長慶ちょうけいとの戦端せんたんひらいた[70][72][75]上野うえの信孝のぶたかはん三好みよし幕臣ばくしんふじはたらきかけた結果けっかだとかんがえられ、わずか10日とおかほどでの方針ほうしん変換へんかんであった[69][75]。この時期じき畿内きない覇権はけん細川ほそかわから三好みよしうつる「端境期はざかいき」であり、両者りょうしゃともに圧倒的あっとうてき存在そんざいではなく、どちらとむかという判断はんだん非常ひじょうむずかしいものであった[75]

7がつ28にちよしふじはれもとしょしょうして、はれもと赦免しゃめんし、同時どうじ長慶ちょうけい将軍しょうぐんの「てき」に指名しめいした[77]ふじ東山ひがしやま霊山れいざんじょうて、北山きたやまじん[78]よく29にちにははれもとしょしょう上野うえの信孝のぶたかだいたてあきら幕臣ばくしんとのあいだぐんひらかれ、きょう三好みよしかた拠点きょてん西院さいいん小泉こいずみじょうめることで合意ごういした[77]。このとき、よしふじ三好みよしせいせい香西こうざい元成もとなり十河そごう盛重もりしげしょしょうさけ下賜かしした[78]

30にちよしふじ自身じしん軍勢ぐんぜい指揮しきし、西院さいいん小泉こいずみじょう包囲ほういしてめた[77][78]。だが、よしふじ出陣しゅつじんしていたにもかかわらず、はれもとしょしょうへい消耗しょうもうおそれてか、一向いっこう攻撃こうげきしようとしなかった[77]

8がつ1にち長慶ちょうけい芥川あくたがわ山城やましろおさえのへいのこして、2まん5せん軍勢ぐんぜいをもってきょう侵攻しんこうし、幕府ばくふぐん籠城ろうじょうする東山ひがしやま霊山れいざんじょうめた(東山ひがしやま霊山れいざんじょうたたか[79]籠城ろうじょうする幕府ばくふぐん猛攻もうこうれず、三好みよしぐんにより落城らくじょうし、はなたれた[80][81]。このとき、よしふじふね岡山おかやま迎撃げいげきじんいていたが、よしふじたのみとしていたはれもと三好みよしかた猛攻もうこうおそれをなし、ほとんどいちせんもせずに退却たいきゃくしてしまった[80]

そのため、よしふじはれもと近衛このえ稙家らとともにきょうはなれ、きたへとかった[82]。まず、杉坂すぎさかくだり、3にち丹波山たばやまこくしょう浄福寺じょうふくじに、5にち近江おうみりゅうはないたった[82][83]。だが、長慶ちょうけいが「将軍しょうぐん随伴ずいはんするもの武家ぶけ公家くげかかわらず、知行ちぎょう没収ぼっしゅうする」と通達つうたつしたため、公家くげ高倉たかくらひさししょうをはじめ随伴ずいはんしゃおおくがふじ見捨みすてて帰京ききょうし、よしふじしたがものはわずか40にんほどになった[62][84][85]。また、伊勢いせ貞助さだすけ結城ゆうき忠正ただまさのように奉公ほうこうしゅでありながら、三好みよし家臣かしんじゅんじた立場たちば活動かつどうするものあらわれるようになった[72]

朽木くちきでの幕府ばくふ政治せいじ

編集へんしゅう
 
顕如けんにょ影像えいぞう

8がつ30にちよしふじ朽木くちきもとつな(稙綱のまご)をたよって、近江おうみ朽木くちきのがれ、このふたた御座所ござしょにした[86]。そして、以降いこう5年間ねんかんをこのごした[86]。だが、よしふじはこの六角ろっかく義賢よしかたらの支援しえんたほか、諸国しょこく大名だいみょうらとも連絡れんらくった[87]

10月、三好みよし長慶ちょうけい足利あしかがよし維を阿波あわから上洛じょうらくさせ、しん将軍しょうぐんとして擁立ようりつしようとし、よしふじ全面ぜんめん対決たいけつ姿勢しせいせていた[88]。だが、長慶ちょうけい結局けっきょくのところ、よし維を上洛じょうらくさせず、また朽木くちきめるようなこともしなかった[88]。その長慶ちょうけいふじ味方みかたしている大名だいみょうけっしてすくなくはないことをて、和睦わぼく模索もさくしたが、両者りょうしゃ和睦わぼくみのらず、膠着こうちゃく状態じょうたいつづいた[89]

だが、同月どうげつ奉公ほうこうしゅ石谷いしがや光政みつまさ公家くげ葉室はむろ頼房よりふさとのあいだで、かつら西庄さいしょうしんぼうぶんをめぐってそうろん発生はっせいすると、長慶ちょうけいがこれに介入かいにゅうした[90]光政みつまさ前年ぜんねんふじからその安堵あんどけていたが、頼房よりふさ公家くげ山科やましなげんままし証文しょうもん用意よういしてもらい、長慶ちょうけいやその家臣かしん提出ていしゅつし、審議しんぎおこなわれた結果けっか、23にち頼房よりふさうったえをみとめた[90]。つまり、長慶ちょうけいふじ裁許さいきょ破棄はきし、自身じしん裁許さいきょ優先ゆうせんさせている[90]。このように、よしふじきょうはなれているあいだ京都きょうと遠国おんごくそうろん三好みよし関与かんよするかたちとなった[91]

天文てんもん23ねん1554ねん)2がつ12にちよしふじ朽木くちき滞在たいざいちゅう義輝よしてるあらためている[86][92]改名かいめいすることにより、心機一転しんきいってんはかったとかんがえられている[86]

天文てんもん24ねん弘治こうじ元年がんねん1555ねん)1がつ13にち関白かんぱく近衛このえはる義輝よしてる従兄弟いとこ)が義輝よしてるちち義晴よしはるからけたへんいみな(「はれ」の)をてて、前嗣さきつぐ(のちぜんひさ)とあらためた[93]近衛このえ足利あしかが将軍家しょうぐんけ蜜月みつげつたもっていたが、前嗣さきつぐ改名かいめいによって、義輝よしてるとの関係かんけいとうとした[93]義輝よしてる恒常こうじょうてき京都きょうとはなれたことは、朝廷ちょうていないにおいて足利あしかが求心力きゅうしんりょく低下ていかまねいていた[93]

10月23にち朝廷ちょうてい年号ねんごう天文てんもんから弘治こうじ改元かいげんしたが、義輝よしてるちち義晴よしはるがかつてしてきたように、改元かいげん執奏しっそう費用ひよう負担ふたんをしなかった[94]

弘治こうじ2ねん1556ねん)4がつ義輝よしてる朝倉あさくら義景よしかげ加賀かが一向いっこう一揆いっき和平わへい調停ちょうていおこない、朝倉あさくら加賀かがから撤兵てっぺいさせた[95]。この調停ちょうていかんしては、本願寺ほんがんじ義輝よしてる依頼いらいしたとかんがえられている[96]加賀かが本願寺ほんがんじ領国りょうごくであったが、前年ぜんねん朝倉あさくら侵攻しんこうけ、加賀かがしゅうすうせん死者ししゃし、さらには加賀かがよんぐんのうち江沼えぬまぐんうばわれていた[96]朝倉あさくらもまた、大勝たいしょうはしたものの、その加賀かがしゅう抵抗ていこうけてめあぐねており、指揮しきかん朝倉あさくら教景のりかげ病没びょうぼつする事態じたい発生はっせいしていた[96]。そこで、朝倉あさくら加賀かがしゅう苦戦くせんしたからというわけではなく、「将軍しょうぐん上意じょういおうじた」という名分めいぶんをもって、この和睦わぼくんで撤兵てっぺいしたのであった[95]

本願寺ほんがんじ朝倉あさくら加賀かがから撤退てったいしたことをけ、危機ききだっすることとなり、法主ほっしゅ顕如けんにょさけけんじてよろこった[95]同時どうじに、本願寺ほんがんじ義輝よしてるとの連携れんけい役立やくだつと実感じっかんし、弘治こうじ3ねん1557ねん)4がつ顕如けんにょのもとに細川ほそかわはるもとむすめ六角ろっかく義賢よしかた猶子ゆうしとして輿入こしいれすることになった[95]

はれはじめ定頼さだよりはともに義輝よしてるささえる存在そんざいであり、そのむすめ顕如けんにょ結婚けっこんしたということは、義輝よしてる本願寺ほんがんじ同盟どうめいしたことを意味いみした[95]。これにより、三好みよし支配しはいする京都きょうとは、ひがし義輝よしてるがわ勢力せいりょく西にし大阪おおさか本願寺ほんがんじ、つまり東西とうざいから挟撃きょうげきされる可能かのうせいびた[97]

三好みよしとの再戦さいせん和解わかい

編集へんしゅう
 
正親町おおぎまち天皇てんのうぞう京都きょうと泉涌寺せんにゅうじくら

弘治こうじ3ねん1557ねん)8がつ18にち義輝よしてる挙兵きょへいきざしをせた[98]三好みよしかた警戒けいかいして、9月4にち三好みよし長慶ちょうけいみずからが上洛じょうらくしたが、六角ろっかく軍事ぐんじ行動こうどうこす気配けはいせなかったこともあり、義輝よしてるはこのときうごかなかった[98]

弘治こうじ4ねんえいろく元年がんねん1558ねん)2がつ26にち美濃みの斎藤さいとうよしりゅう義輝よしてる推挙すいきょなく、長慶ちょうけいしたしい伊勢いせさだこうつうじて、朝廷ちょうていから正式せいしき治部じぶ大輔だいすけ補任ほにんされた[99]大名だいみょうへの栄典えいてん授与じゅよ将軍しょうぐん権能けんのうであり、それが三好みよしかたうばわれつつあることは、義輝よしてるにとってなやましい事態じたいであった[99]。また、全国ぜんこくしょ大名だいみょう朝廷ちょうてい官途かんとさい将軍しょうぐん推挙すいきょない状況じょうきょう恒常こうじょうする可能かのうせいもあった[100]

2がつ28にち朝廷ちょうてい正親町おおぎまち天皇てんのう即位そくいのため、年号ねんごうえいろく改元かいげんした[99]改元かいげん戦国せんごく時代じだいといえど、朝廷ちょうてい室町むろまち幕府ばくふ協議きょうぎうえおこなわれてきたが、朝廷ちょうてい朽木くちきにいた義輝よしてるまったらせず、長慶ちょうけいにのみ清原きよはらえだけんかいして相談そうだん連絡れんらくし、改元かいげん実施じっししていた[99][101]。また、弘治こうじ改元かいげんから4ねんしかたっていないことをかんがみて、朝廷ちょうてい自身じしん財源ざいげんのみで改元かいげん費用ひようまかなうことは不可能ふかのうであり、このながろく改元かいげん費用ひようは、禁裏きんり修繕しゅうぜん費用ひよう天皇てんのう直轄ちょっかつりょう回復かいふくなどを依存いぞんしていた長慶ちょうけいによって調進ちょうしんされたとかんがえられる[94]

朝廷ちょうてい義輝よしてるはかることなく改元かいげん断行だんこうした背景はいけいとしては、義輝よしてる改元かいげんきわめて消極しょうきょくてきで、天文てんもん年号ねんごうを24年間ねんかんつづかせたことや、天文てんもんから弘治こうじへの改元かいげん執奏しっそう費用ひよう負担ふたんをしなかったことがあげられる[94]無論むろん改元かいげんしゃによってらされることになった義輝よしてる激怒げきどして、このながろく改元かいげん拒絶きょぜつし、弘治こうじ年号ねんごう使つかつづけた[102][103]

3月13にち義輝よしてる自身じしん権威けんい回復かいふくするため、また三好みよし政権せいけん打倒だとうのため、およそ5ねん沈黙ちんもくやぶって朽木くちき挙兵きょへいした[104][105]義輝よしてる朽木くちき挙兵きょへいしたのち、りゅうはなかい、4がつには邇にうつった[106]

5月3にち義輝よしてる六角ろっかく義賢よしかた支援しえんはれもととともに坂本さかもとうつり、本誓寺ほんせいじはいって、きょう様子ようすうかがった[104]

5月7にち義輝よしてる朝廷ちょうていたいし、改元かいげん御礼おれいとして太刀たちぜに500疋を進上しんじょうした[94]。だが、改元かいげん費用ひよう献上けんじょうおそさや、無銘むめい太刀たち前代未聞ぜんだいみもん少額しょうがくぜにであったことから、公家くげ万里小路まりこうじおもんみぼう憤慨ふんがいしている[94]義輝よしてる朝廷ちょうてい反応はんのうて、自身じしん武家ぶけ伝奏てんそうから改元かいげんつたえられていないこと理由りゆうとして、弘治こうじ年号ねんごうつづ使つかつづけた[94]

5月21にち義輝よしてるさるさんふちふじすぐるとおして、万里小路まりこうじおもんみぼうから朝廷ちょうていによる改元かいげんについての事後じご報告ほうこくけた[107][108]

6月2にち三好みよしかた義輝よしてる挙兵きょへいけて、近江おうみからきょうかう要衝ようしょうであった将軍山しょうぐんざん占拠せんきょし、2せんへいもっ布陣ふじんさせた[109]たいして、義輝よしてる細川ほそかわはるもと上野うえの信孝のぶたからとともに5せんへい坂本さかもとから如意ヶ嶽にょいがだけ移動いどうし、ここに布陣ふじんした[109]

同月どうげつ7にち三好みよしぜい三好みよし長逸ちょういつ松永まつなが久秀ひさひでなど各地かくち将兵しょうへいあつまり、1まん5せんへい大軍たいぐんとなっていた[109]。これを将軍山しょうぐんざん三好みよしぐんが営塁をいて、きょう三好みよしほんぐん合流ごうりゅうしたため、義輝よしてる将軍山しょうぐんざんへとはいった[109]。すると、三好みよしぐん義輝よしてる布陣ふじんしていた如意ヶ嶽にょいがだけかい、ここをはらった[109]

同月どうげつ9にち三好みよしぐん義輝よしてる布陣ふじんする将軍山しょうぐんざん攻撃こうげきし、義輝よしてるきょう東郊とうこうがい北白川きたしらかわ各所かくしょ迎撃げいげきした(北白川きたしらかわたたか[110]義輝よしてる寡兵かへいであっために苦戦くせんいられ、幕臣ばくしん70めいられる被害ひがいけたが、三好みよしがわおおくの死傷ししょうしゃして後退こうたいした[111]。また、今回こんかいたたかいで本願寺ほんがんじ参戦さんせんしなかったが、 三好みよしぐん義輝よしてる本願寺ほんがんじ同盟どうめいによって、背後はいご本願寺ほんがんじかれるかもしれないという不安ふあんもあったため、そのうごきがにぶった[111]。さらに、毛利もうり元就もとなり毛利もうりえいろく改元かいげんおうじず、義輝よしてるおなじく弘治こうじ年号ねんごう使用しようしてはん三好みよし立場たちばしめし、備讃海峡かいきょうでにらみいをつづけたことも三好みよしかた懸念けねんさせた[105][112]

義輝よしてるはこうした三好みよしぐんうごきをみて、将軍山しょうぐんざんしろかんきずき、長期ちょうき籠城ろうじょうせんめた[111]。そのなつぎ、あきになっても膠着こうちゃく状態じょうたいつづいたため、義輝よしてる長慶ちょうけい和睦わぼくかんがえるようになった[111]。また、9月24にち義輝よしてる改元かいげんしたがって、えいろく年号ねんごう幕府ばくふ奉行ぶぎょうじん連署れんしょ奉書ほうしょ発給はっきゅうし、半年はんとしおよ弘治こうじ年号ねんごう使用しよう放棄ほうきしたことも、長慶ちょうけいほこおさめさせる理由りゆうとなった[113]

11月、六角ろっかく義賢よしかた義輝よしてる長慶ちょうけい仲介ちゅうかいつとめ、和睦わぼく斡旋あっせんした[62]義輝よしてる長慶ちょうけいとのあいだ和睦わぼく成立せいりつしたことにともなって、同月どうげつ27にち将軍しょうぐん山城やましろから相国寺しょうこくじはいったが、29にちにいったんしろもどった[114]

12月2にち(あるいは3にち[115])、義輝よしてる長慶ちょうけい細川ほそかわふじけん伊勢いせさだこうしたがえ、将軍しょうぐん山城やましろからきょうへとかい、二条にじょう法華ほっけどう妙覚寺みょうかくじ)にはいり、ここを御座所ござしょとした[114][115]。これにより、5ねんぶりの入洛にゅうらく実現じつげんし、義輝よしてる直接的ちょくせつてき幕府ばくふ政治せいじ再開さいかいした[62][116]同月どうげつ23にちには、伯父おじ近衛このえ稙家のむすめだいいん)を正室せいしつむかえている[117]

えいろく2ねん1559ねん)7がつ8にち義輝よしてる上京じょうきょう下京しもぎょうの2つのまちなかあいだてん勘解由小路かげゆこうじ烏丸からすまに、しん御所ごしょ建設けんせつすすめた[115]。この御所ごしょ殿舎でんしゃのみならず、ほりなどの防衛ぼうえい設備せつびととのえられ、えいろく3ねん1560ねん)6がつ19にちにここに移動いどうした[115]

三好みよしへの厚遇こうぐう

編集へんしゅう

義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけい和睦わぼくして帰京ききょうすると、三好みよし一門いちもん厚遇こうぐうした[118]おもだったものたちにたいしては、栄典えいてん次々つぎつぎあたえた[118]

まず、長慶ちょうけい幕府ばくふ相伴しょうばんしゅくわえられ、きりもん使用しようゆるされたほか、さらに修理しゅうり大夫たいふへの任官にんかん推挙すいきょされた[118][119]長慶ちょうけい嫡子ちゃくし孫次まごじろうもまた、義輝よしてるから「よし」のへんいみな拝領はいりょうして、義長よしながのち義興よしおき改名かいめい)と名乗なのり、同様どうよう相伴しょうばんしゅくわえられた[118][119][120]

そのほか、三好みよしみのるきゅう松永まつなが久秀ひさひでなども御供ごくうしゅくわえられるなど、一門いちもん宿将しゅくしょう破格はかく待遇たいぐうけた[53][118][120]。また、えいろく2ねん11月20にち正親町おおぎまち天皇てんのうから楠木くすのき赦免しゃめんするという綸旨りんじされたが、これは久秀ひさひで配下はいか楠木くすのきただしとら朝敵ちょうてきとされてきた楠木くすのきせい名乗なのれずに大饗おわいせい名乗なのっていたからであり、久秀ひさひで義輝よしてる長慶ちょうけい和解わかいとして、義輝よしてる了解りょうかいたうえで朝廷ちょうてい勅許ちょっきょさせたものであった[121]

三好みよし一門いちもん義輝よしてるから将軍しょうぐん近侍きんじちょくしん有力ゆうりょく大名だいみょう授与じゅよされる上位じょうい栄典えいてんて、社会しゃかいてき地位ちいおおいに上昇じょうしょうさせた[118]他方たほう、それをった諸国しょこく大名だいみょうらは羨望せんぼう眼差まなざしをけると同時どうじに、ぶん不相応ふそうおうだと批判ひはんもした[118]かれらもまた、他国たこく大名だいみょうらとあらそ過程かていにおいて、社会しゃかいてき地位ちい上昇じょうしょうさせるためにたか栄典えいてんのぞんでいた[122]とくに、「よし」のいち拝領はいりょうかんしては公家くげからも批判ひはんがあり、吉田よしだけんみぎは「末世まっせゆえなり」(『けんみぎきょう』)となげいている[119]。とはいえ、三好みよし将軍家しょうぐんけとの関係かんけい旧主きゅうしゅ細川ほそかわよりもふかめ、畿内きない四国しこく勢力せいりょくけんとし、長慶ちょうけいのもとで最盛さいせいむかえた[123]

その一方いっぽう長慶ちょうけいをはじめ三好みよし義輝よしてる臣下しんかとして、幕府ばくふ機構きこうまれることとなった[124]義輝よしてる朽木くちきにいた5年間ねんかんは、三好みよし畿内きない君臨くんりんし、この期間きかんにおいては義輝よしてる臣従しんじゅうしておらず、対等たいとう立場たちばにあったともかんがえられる[124]。だが、栄典えいてん三好みよし授与じゅよされると同時どうじに、三好みよし義輝よしてる主君しゅくんとしてみとめ、臣下しんかれいらざるをえなくなった[124]たとえば、御供ごくうしゅたんなる称号しょうごうではなく、将軍しょうぐん外出がいしゅつさいにはその行列ぎょうれつしたがって「御供ごくう」する必要ひつようがあり、三好みよしがその臣下しんかであるということえるかたち内外ないがい明確めいかくされた[124]

無論むろん長慶ちょうけい義輝よしてる権威けんいみずからがまれる危険きけんせいや、長年ながねん対立たいりつしてきた義輝よしてるとの和解わかいむずかしいことは理解りかいしていた[125]。そのため、えいろく3ねん1がつ義興よしおき三好みよし代々だいだい官途かんとであった筑前ちくぜんもりにんぜられると、長慶ちょうけい三好みよし家督かとく本拠地ほんきょちである摂津せっつ芥川あくたがわ山城やましろ義興よしおきゆずって、河内かわうち飯盛めしもり山城やましろうつっている[126]長慶ちょうけい自身じしん義輝よしてるとの一定いってい距離きょりきつつ、三好みよししん当主とうしゅとなった義興よしおき義輝よしてるあいだあらたな関係かんけい構築こうちくすることで、関係かんけい安定あんていはかったとみられている[125]

将軍しょうぐん親政しんせい三好みよしとの共闘きょうとう

編集へんしゅう
 
足利あしかが義輝よしてる肖像しょうぞう土佐とさ光吉こうきちふで光源院こうげんいんくら

えいろく元年がんねん以降いこう義輝よしてる帰京ききょうしたのち、三好みよし長慶ちょうけい三好みよし支柱しちゅうとし、政治せいじてき立場たちば安定あんていさせた[127]義輝よしてる治世ちせい実質じっしつてきにここからはじまり、またそれを補佐ほさしたのは上野うえの信孝のぶたか進士しんしはるしゃであった[127]。また、義輝よしてる生母せいぼけい寿ことぶきいんやその兄弟きょうだい近衛このえ稙家、大覚寺だいかくじよししゅん聖護院しょうごいんみちぞう久我くがはるどおりらが補佐ほさした[128]

えいろく3ねん5がつ長慶ちょうけい河内かわうちはたけ山高やまたかまさし征伐せいばつ対象たいしょうとし、義輝よしてる承認しょうにんもとめた[129]こうせい応戦おうせん姿勢しせいせたため、8がつ長慶ちょうけい伊勢いせさだこうとおして、義輝よしてる紀伊きい湯河ゆかわ直光なおみつ三好みよしかたくようもとめる御内おんうちしょ発給はっきゅうもとめた[130]直光なおみつこうせいちか立場たちばにあったが、湯河ゆかわ奉公ほうこうしゅとして幕府ばくふ代々だいだいつかえていたため、長慶ちょうけい義輝よしてる利用りようしてこうせいがわくずしをはかった[130]

10月2にち長慶ちょうけい細川ほそかわはるもと香西こうざいらとほうぜんてら挙兵きょへいしたことをけて、義輝よしてるさだこうとおして、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ六角ろっかく義賢よしかたたいしてはれもとはらうことをめいじる御内おんうちしょ発給はっきゅうもとめた[130]延暦寺えんりゃくじ六角ろっかく対応たいおう不明ふめいであるが、細川ほそかわかたきょう各所かくしょ放火ほうかしため、内藤ないとう宗勝むねかつ丹波たんばより出陣しゅつじんし、これをやぶっている[131]

同月どうげつ15にち三好みよしみのるきゅうこうせい援軍えんぐんとしてけた紀伊きい根来ねごろしゅうやぶり、畠山はたけやま敗北はいぼく決定的けっていてきとなった[132]同月どうげつ24にち河内かわうち飯盛めしもり山城やましろが、27にち高屋たかやしろ開城かいじょうし、こうせいさかい退去たいきょした[132]

11月13にち長慶ちょうけい飯盛山いいもりさんじょうに、じつきゅうこう屋城やしろ入城にゅうじょうし、河内かわうち大和やまと平定へいていされると、同月どうげつ24にち義輝よしてる長慶ちょうけい飯盛めしもり山城やましろ入城にゅうじょうしょうする御内おんうちしょ発給はっきゅうした[132]

えいろく4ねん1561ねん)5がつながらくはん三好みよし旗頭はたがしらであったはれもと長慶ちょうけいとの和睦わぼくおうじ、出家しゅっけして摂津せっつ冨田とみたもんてらはいった[133]長慶ちょうけい先手せんてち、はれもと六角ろっかくらに利用りようされることを阻止そしした[133]

7がつ畠山はたけやまだかせい六角ろっかく義賢よしかたむすんで畿内きない蜂起ほうきし、久米田くまいでんで7ヶ月かげつにわたって対陣たいじんした[117][134]畠山はたけやま六角ろっかく蜂起ほうきは、畿内きない伸長しんちょうする三好みよしふうめの意図いとがあったされる[134]。このとき、同月どうげつ23にち義輝よしてる紀伊きい湯河ゆかわ直光なおみつたいし、こうせい義賢よしかた出陣しゅつじんしてきたので、長慶ちょうけい義興よしおき父子ふし味方みかたするように御内おんうちしょ発給はっきゅうし、こうせい牽制けんせいしている[133]

えいろく5ねん1562ねん)3がつ三好みよしぐん畠山はたけやま六角ろっかくぐん久米田くまいでん交戦こうせんして敗北はいぼくし、じつきゅう戦死せんしした(久米田くめたたたか[117]。このとき、義輝よしてる三好みよしとともにきょうり、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうはいり、三好みよしとの連携れんけい維持いじした[135]。だが、伊勢いせさだこうはこのとき三好みよし反目はんもくしていたため、六角ろっかくぐん占拠せんきょしたきょうまりつづけ、政所まんどころ沙汰ざた公然こうぜんった[135]

5がつ20日はつか三好みよしぐん畠山はたけやまぐんやぶり、きょううばかえしたため、六角ろっかくぐんきょうから撤兵てっぺいした(教興寺きょうこうじたたか[135]六角ろっかく味方みかたしていたさだこうきょうから坂本さかもとげ、義輝よしてる長慶ちょうけい支持しじしてこれを更迭こうてつした[135]さだこう幕府ばくふほう無視むしした裁決さいけつおこなっていたことが発覚はっかくしたのも、更迭こうてつ理由りゆうとされる[136]。これに激怒げきどしたさだこうへいあつめて反乱はんらんこしたが、三好みよしぜいによって入京にゅうきょうはばまれ、9月に近江おうみすぎざかたれた[137][117]

さだこう死後しご義輝よしてる近臣きんしん摂津せっつはれもんあらたな政所まんどころ執事しつじとし、伊勢いせ人物じんぶつ任用にんようしなかった[117][138]。これによって、かつての3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ介入かいにゅうすら不可能ふかのうだった伊勢いせによる政所まんどころ支配しはい歴史れきしまくじ、幕府ばくふ将軍しょうぐんによる政所まんどころ掌握しょうあくへのみちひらいた[117]。また、義輝よしてる伊勢いせ独占どくせんされていた莫大ばくだい権益けんえきみずか掌握しょうあくすることで、将軍しょうぐんとしての地盤じばん強固きょうこなものにした[138]

しょ大名だいみょうらとの交流こうりゅう

編集へんしゅう
 
足利あしかが義輝よしてる木像もくぞう等持院とうじいん霊光れいこう殿どの所蔵しょぞう

義輝よしてる幕府ばくふ権力けんりょく将軍しょうぐん権威けんい復活ふっかつ目指めざし、諸国しょこく戦国せんごく大名だいみょうとの修好しゅうこう尽力じんりょくし、紛争ふんそう調停ちょうていなどもおこなっている。

たとえば、伊達だてはれはじめ稙宗天文てんもん17ねん(1548ねん))、里見さとみよし北条ほうじょう氏康うじやす[139]天文てんもん19ねん(1550ねん))、武田たけだ晴信はるのぶ長尾ながお景虎かげとらえいろく元年がんねん(1558ねん))、島津しまつ貴久たかひさ大友おおとも義鎮よししげ毛利もうり元就もとなり尼子あまこ晴久はるひさ[140][141][142]えいろく3ねん1560ねん))、松平まつだいら元康もとやす今川いまがわ氏真うじざね[143][144]えいろく4ねん1561ねん))、毛利もうり元就もとなり大友おおとも宗麟そうりん[145]えいろく6ねん1563ねん))、上杉うえすぎ輝虎てるとら長尾ながお景虎かげとらあらため)と北条ほうじょう氏政うじまさ武田たけだ晴信はるのぶえいろく7ねん1564ねん))など、大名だいみょう同士どうしこうそう調停ちょうてい頻繁ひんぱんった。

また、義輝よしてるしょ大名だいみょうへの懐柔かいじゅうさくとして、大友おおとも義鎮よししげ筑前ちくぜん豊前ぶぜん守護しゅご毛利もうりたかしもと安芸あき守護しゅごにんじ、さらにみずからのへんいみな(1)を幕臣ばくしん全国ぜんこくしょ大名だいみょうなどにあたえた。たとえば、「ふじ」の細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)や筒井つついふじまさる順慶じゅんけい)、足利あしかが一門いちもん足利あしかがふじふじまさしなどに、「てる」の上杉うえすぎ輝虎てるとら謙信けんしん)・毛利もうり輝元てるもと伊達だてあきらむねなどのしょ大名だいみょう足利あしかが一門いちもんふじふじまさしおとうとである足利あしかがあきらなどにあたえた。また、朝倉あさくら義景よしかげ島津しまつ義久よしひさ武田たけだ義信よしのぶなどのように、足利あしかが将軍家しょうぐんけつうである「よし」をへんいみなとしてあたえるれいもあった。

また、上杉うえすぎ輝虎てるとら関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにん許可きょかをはじめ、相伴しょうばんしゅ拡充かくじゅうし、毛利もうり元就もとなり毛利もうりたかしもと大友おおとも義鎮よししげ斎藤さいとうよしりゅう今川いまがわ氏真うじざね武田たけだ信虎のぶとらといったしょ大名だいみょうにんじた。

えいろく2ねん2がつ尾張おわり織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくしたのをはじめ 、4がつ美濃みの斎藤さいとうよしりゅうが、5月には越後えちご長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)が相次あいついで上洛じょうらくし、義輝よしてる謁見えっけんした[70][146][147]景虎かげとらはこのとき、足利あしかが一族いちぞく管領かんりょうじゅんじる待遇たいぐうけたばかりか、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ処遇しょぐう一任いちにんされ、信濃しなのしょしょうへの指揮しきけんみとめられた[148]りゅう将軍しょうぐんである義輝よしてるによって自身じしん美濃みの支配しはい公認こうにんされたことをしめすため、信長のぶながもまた同様どうよう義輝よしてるから公認こうにんけて尾張おわり統一とういつはかるため、それぞれ上洛じょうらくしたとかんがえられている[148]

同年どうねん11がつ9にち義輝よしてる大友おおとも義鎮よししげ九州きゅうしゅう探題たんだい任命にんめいし、あわせて周防すおう長門ながと豊前ぶぜん筑前ちくぜん守護しゅごであった大内おおうち家督かとくみとめ、九州きゅうしゅう統治とうちゆだねた[149]。もともと、九州きゅうしゅう探題たんだい足利あしかが一族いちぞく渋川しぶかわ世襲せしゅうしていたが、しょう大内おおうちこうそうまれてすでに断絶だんぜつしていたため、これをおぎなうための補任ほにんであった。大友おおとも九州きゅうしゅうにおいて、足利あしかが将軍家しょうぐんけもっとしたしい有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょうであった(このとき大友おおとも義鎮よししげ豊後ぶんご豊前ぶぜん筑後ちくご筑前ちくぜん肥後ひご肥前ひぜん守護しゅごおよび日向ひなたはんこく守護しゅごねていた)。

また、義輝よしてるはこのとし伊達だてはれはじめ奥州おうしゅう探題たんだい任命にんめいしている。もともと、奥州おうしゅう探題たんだい足利あしかが一族いちぞくである斯波しばの庶流である大崎おおさき世襲せしゅうしていたが、伊達だて軍事ぐんじてきあつりょくによってすでにその支配しはいかれていたため、その現状げんじょう対応たいおうするための補任ほにんであった。ただし、これはあくまでも手続てつづきじょうはなしで、実際じっさいには弘治こうじ元年がんねんにはすではれはじめ探題たんだいとしてぐうしていたとされている[150]

えいろく年間ねんかんには、信濃しなのこく北部ほくぶめぐ甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん越後えちごこく長尾ながお景虎かげとらとの川中島かわなかじまたたかきており、義輝よしてる両者りょうしゃあらそいを調停ちょうていし、えいろく元年がんねんには信玄しんげん信濃しなの守護しゅご補任ほにんした。だが、信玄しんげんはさらに景虎かげとら信濃しなの撤退てったいもとめたため、義輝よしてる景虎かげとら信濃しなの出兵しゅっぺいみとめた。

えいろく4ねん信玄しんげん駆逐くちくされ上方かみがた亡命ぼうめいしていたぜん信濃しなの守護しゅご小笠原おがさわらちょう帰国きこく支援しえんを、長尾ながお景虎かげとらめいじている。

三好みよしとの確執かくしつ義輝よしてる権威けんい上昇じょうしょう

編集へんしゅう
 
三好みよし義継よしつぎぞう京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく芸術げいじゅつ資料しりょうかんぞう

義輝よしてる帰京ききょうして以降いこう三好みよし長慶ちょうけい三好みよし傀儡かいらいになることなく独自どくじ政治せいじ決裁けっさいおこない、その政治せいじてき地位ちいかためていった[151]。また、しょ大名だいみょうあらそいに介入かいにゅうし、大名だいみょうらに一定いってい影響えいきょうりょくがあることをしめし、その存在そんざいかんしめした[151]

他方たほう将軍しょうぐん忠誠ちゅうせいしんせる大名だいみょうあらわれたことは、三好みよしにとって脅威きょういであり、警戒けいかいしんたかめさせた[152]とく長尾ながお景虎かげとらえいろく2ねん5がつに1,500にんれて上洛じょうらくしたさい義輝よしてるを「在京ざいきょうして守護しゅごする」とまでったため、三好みよし景虎かげとら早々そうそう帰京ききょうさせようとしたほどであった[152][153]義輝よしてる直接的ちょくせつてき軍事ぐんじりょくゆうしていないとはいえ、三好みよしあたましに諸国しょこく大名だいみょう連携れんけいする事態じたいけねばならなかった[146]

えいろく6ねん1563ねん)3がつ義輝よしてるの8さいになるむすめ総持寺そうじじ殿どの)が松永まつなが久秀ひさひでもと人質ひとじちとして下向げこうし、大和やまとおもむいていた山科やましなげんつぎがその途中とちゅうの19にち謁見えっけんしている[154]。この人質ひとじち提出ていしゅつは、義輝よしてる行動こうどう不信ふしんいた三好みよしがわもとめたとかんがえられ、同時どうじ三好みよし将軍しょうぐん優越ゆうえつすることを露骨ろこつ世間せけんしめそうとしたものであった[154]。だが、将軍しょうぐん姫君ひめぎみ臣下しんかのもとにおくられるということは前代未聞ぜんだいみもんであり、三好みよしがいかに振興しんこうする義輝よしてる脅威きょういかんじていたかをうかがることができる[155]えいろく元年がんねん以降いこう表面ひょうめんじょう義輝よしてる長慶ちょうけい和睦わぼく継続けいぞくされているようにえたが、そのほころびがすでにはじめていた[154]

えいろく7ねん1564ねん)3がつ長慶ちょうけいはこのとし干支えと甲子きのえねであったため、朝廷ちょうてい改元かいげん申請しんせいした[156]長慶ちょうけい将軍しょうぐん同様どうよう改元かいげんおこなうことで、将軍しょうぐんしの自身じしんちから誇示こじしようとしたとかんがえられる[156]。だが、朝廷ちょうていはこれに返答へんとうせず、その公武こうぶあいだ改元かいげんはなしていないこととから、三好みよしもう拒否きょひしたとかんがえられている[156]朝廷ちょうてい長慶ちょうけいおうじてこの改元かいげんおこなったならば、義輝よしてる無視むしして改元かいげんおこなうことになり、義輝よしてる三好みよし関係かんけい悪化あっかけるため、義輝よしてる配慮はいりょしてこのもう拒否きょひするかたちった[156]明治めいじ時代じだいいたるまで、甲子きのえねとし改元かいげんおこなわれなかったのはこのとしのみであり、朝廷ちょうてい本来ほんらいおこなうべき改元かいげん見送みおくってまでこの政治せいじ判断はんだんくだした[157]。このように、長慶ちょうけい晩年ばんねんにはそのちからかげりがえるようになった。

そのうえ、えいろく年間ねんかん三好みよしがわに「凶事きょうじ」がつづいたことも、三好みよし不安ふあん増大ぞうだいさせた[155][158]。まず、えいろく3ねん3がつ長慶ちょうけいさんおとうと十河そごう一存いちぞん死去しきょし、どう5ねん3がつにはちょうおとうと三好みよしみのるきゅう戦死せんし、さらにどう6ねん8がつには長慶ちょうけい嫡子ちゃくし義興よしおき病没びょうぼつした[155][159]。さらに、えいろく7ねん6がつ長慶ちょうけいおとうと安宅あたかふゆやすし逆心ぎゃくしんうたがいで誅殺ちゅうさつしたが[155][159]、その殺害さつがいはげしい後悔こうかいおそわれ、自身じしんやまい悪化あっかさせた[159]

同年どうねん7がつ4にち三好みよし惣領そうりょうたる長慶ちょうけい病死びょうしした[155][158]長慶ちょうけい死後しご三好みよし長慶ちょうけいおい十河そごう一存いちぞん息子むすこ三好みよししげるそん(のち義継よしつぎ改名かいめい)があらたな惣領そうりょうとなり[155]三好みよしさんにんしゅ松永まつなが久秀ひさひで、その長男ちょうなん松永まつなが久通ひさみちらが補佐ほさにあたった[160]。だが、長慶ちょうけいをはじめとする三好みよし主要しゅよう人物じんぶつんだことにより、三好みよし権威けんい低下ていか決定的けっていてきなものとなり、衰運すいうんおちいった[155][158]

一方いっぽう義輝よしてる三好みよし傀儡かいらいとしての立場たちばあまんじず、将軍しょうぐんとしての立場たちばかため、幕府ばくふ権力けんりょく復活ふっかつけてさらなる政治せいじ活動かつどうおこなおうとした[155][160]義輝よしてる権威けんい上昇じょうしょうは、三好みよし一門いちもん連続れんぞくした凶事きょうじによって凋落ちょうらくみちあゆんでいたのとは対照たいしょうてきであった[155]義輝よしてるはいよいよ、その政治せいじてき才能さいのう開花かいかさせつつあった[161]

しかし、傀儡かいらいとしての将軍しょうぐん擁立ようりつしようとする三好みよしにとって、のままにならない義輝よしてる邪魔じゃま存在そんざいであり、またその権威けんい上昇じょうしょう脅威きょういでもあった[155]三好みよしがわ阿波あわ足利あしかがよし維とみ、よし維の嫡男ちゃくなん義栄よしひで義輝よしてる従兄弟いとこ)をしん将軍しょうぐんにしようと画策かくさくした[162]一方いっぽうで、義輝よしてるたのみとする近江おうみ六角ろっかくえいろく6ねん10がつ観音寺かんおんじ騒動そうどう以降いこう領国りょうごくはなれられなくなっていた[163]

えいろく7ねん12月、義輝よしてるさん管領かんりょう斯波しば屋敷やしき武衛陣ぶえいじんあとに、あらたな御所ごしょ建築けんちく開始かいしした[117][164]。この御所ごしょきょうじょう存在そんざいしたことから、じょう御所ごしょばれている[117]義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけいによって畿内きない情勢じょうせい流動りゅうどうしつつあったことをかんがみ、軍事ぐんじてき緊張きんちょうへのそなえとして、石垣いしがき大堀おおほり城郭じょうかくされた御所ごしょ建設けんせつすすめた[165]

えいろく8ねん1565ねん)4がつ30にち三好みよししげるそん上洛じょうらくすると、5月1にち義輝よしてるじゅうそん謁見えっけんし、さけあたえて出仕しゅっしねぎらった[166]。そのさいじゅうそんもとめによって、義輝よしてるからじゅうそんに「よし」のへんいみな左京さきょう大夫たいふ官位かんいあたえられ、じゅうそん義重よししげ名乗なのった[167]

5月5にち端午たんご節句せっくであるこの朝廷ちょうていから将軍しょうぐん御所ごしょ勅使ちょくしくだされ、義重よししげ松永まつなが久通ひさみちとともに御所ごしょ参上さんじょうしている[167]

その、5月18にちまではきょうにおいて平穏へいおん状況じょうきょうつづいた[167]公家くげ山科やましなげんつぎ勧修寺かんしゅうじはれみぎ日記にっきなどをても、ただ事実じじつ淡々たんたん記載きさいされているのみである[167]他方たほう宣教師せんきょうしルイス・フロイスの『日本にっぽん』では、同日どうじつ義輝よしてる危険きけんかんじてじょう御所ごしょたものの、近臣きんしんらに説得せっとくされてもどった、としるされている[168]

5月19にち義重よししげ三好みよしさんにんしゅひさどおりとともに、清水寺きよみずでら参詣さんけい名目めいもくあつめたやく1まん軍勢ぐんぜいひきい、突如とつじょとしてじょう御所ごしょせ、将軍しょうぐん訴訟そしょう要求ようきゅう)ありとうったえ、取次とりつぎぎをもとめて御所ごしょ侵入しんにゅうした(えいろくへん[169][170]二条にじょう御所ごしょ完成かんせい間近まぢかねらった攻撃こうげきであり[171]開戦かいせん午前ごぜん8ごろであったという[170][172]

三好みよしぐんじょう御所ごしょ侵入しんにゅうしたのち、義輝よしてる劣勢れっせいであることをさとり、覚悟かくごした[172]。そして、義輝よしてる最後さいご酒宴しゅえんおこない、近臣きんしんらにさけあたえて、みなわかれのさけわした[173]。このさい三好みよしとの取次とりつぎであった進士しんしはるしゃ御所ごしょへの侵入しんにゅうゆるしたことをびて、義輝よしてる御前ごぜん自害じがいした[174]

その義輝よしてる近臣きんしんらは三好みよしぐんかい、突撃とつげきしてんだ[173]。やがて、近臣きんしんらはみなにし、午後ごご11ごろ義輝よしてるもついに力尽ちからつき、三好みよしへいたれた[172][173]享年きょうねん30(まん29さいぼつ)。

義輝よしてる最期さいごかんしては諸説しょせつある。フロイスの『日本にっぽん』では、義輝よしてるみずか薙刀なぎなたるい、そのかたないて抵抗ていこうしたが、てきやりがたなきずついて地面じめんせられたところを一斉いっせいおそかかられて殺害さつがいされた、としるされている[168]。『  足利あしかが』では、奮戦ふんせんする義輝よしてる三好みよしへいけず、最期さいごやりあしはらわれてたおれたところを、へいたちに四方しほうから障子しょうじおおかぶせられ、そのうえからころされた、としるされている[173]事件じけんさい在京ざいきょうしていた山科やましなげんつぎの『げんつぎきょう』には、義輝よしてるが「生害しょうがい」したとしるされており、討死うちじにしたとも自害じがいしたともとることができる[175]後世こうせいには、松永まつなが貞徳さだのりの『戴恩』の御所ごしょかこまれて切腹せっぷくしたというものや、『常山つねやまおさむだん』の「散々さんざんふせたたかひてつい自害じがいゆうける」といった、自害じがいしたという明確めいかく記述きじゅつられるようになる。

このとき義輝よしてるとともにおおくの幕臣ばくしん討死うちじに自害じがいにしたが、三好みよしぐん義輝よしてる生母せいぼであるけい寿ことぶきいん自害じがいいやり、側室そくしつしょう侍従じじゅうきょくまでも殺害さつがいしている[170]殺戮さつりくわると、三好みよしぐんじょう御所ごしょをかけ、おおくの殿舎でんしゃほのおつつまれたという[170]。この夕刻ゆうこく御所ごしょあとには夕立ゆうだちあめったとつたえられる[170]

義輝よしてる死後しご、5月20にち三好みよしかたによって近衛このえ久我くが高辻たかつじたれるといううわさながれたが、21にちには三好みよし長逸ちょういつ参内さんだいして正親町おおぎまち天皇てんのうからてんさかずき下賜かしされると、さわぎがおさまり、朝廷ちょうてい事態じたいをひとまず追認ついにんするかたちった[176][177]。また、三好みよし当主とうしゅ三好みよし義重よししげ義輝よしてるったのちにを「義継よしつぎ」とあらためたが、この改名かいめいを「よし」をつうとする足利あしかが将軍家しょうぐんけを「ぐ」という意志いし主張しゅちょうとする見方みかたもある[178]

だが、三好みよしによる主君しゅくん弑逆しいぎゃく世間せけん憤慨ふんがいさせた[162]とく義輝よしてるしたしくしていた大名だいみょうらははげしくいきどおり、上杉うえすぎ輝虎てるとらは「三好みよし松永まつながくびことごとく刎ねるべし」と神仏しんぶつちかったほどであった[162]。また、河内かわうち畠山はたけやま重臣じゅうしん安見やすみ宗房むねふさも「前代未聞ぜんだいみもん是非ぜひいこと。(りゃく無念むねんいたりだ」といかりをあらわにし、上杉うえすぎ重臣じゅうしんである河田かわた長親ながちか直江なおえ景綱かげつなとむら合戦がっせんちかけている[162][179]朝倉あさくら義景よしかげ重臣じゅうしんらも同様どうように、「まことほしいまま行為こういで、前代未聞ぜんだいみもん是非ぜひなき次第しだい沙汰さたかぎりだ」といかりをあらわにしている[180]

朝廷ちょうてい政変せいへん一時いちじてき追認ついにんしたものの、義輝よしてる悼惜とうせきし、6月7にち義輝よしてるしたがえいち左大臣さだいじん追贈ついぞうしたばかりか、正親町おおぎまち天皇てんのう政務せいむを3日間にちかん停止ていしして弔意ちょういしめした[181]公家くげ山科やましなげんつぎ義輝よしてる殺害さつがいを、「言葉ことばがない。前代未聞ぜんだいみもんなり」と日記にっきしるしている[181]。また、天皇てんのうつかえていた女官にょかん同様どうように、「言葉ことばもないことだ」となげかなしんでいる[181]朝廷ちょうていもまた、三好みよし松永まつなが義輝よしてる殺害さつがいつよいかりをかんじていた[181]

義輝よしてる殺害さつがいたいするいかりは、支配しはいそうばかりではなく、一般いっぱん庶民しょみんにもひろまっていた[181]えいろく10ねん1567ねん)2がつ10日とおかには、上京じょうきょう真如堂しんにょどう義輝よしてる追善ついぜんろくときおどり挙行きょこうされ、きょう内外ないがいはもとより、摂津せっつ近江おうみからも賤をわずおおくの男女だんじょあつまり、2,800にん鉦鼓しょうこらし、総勢そうぜい7、8まんにん群衆ぐんしゅう義輝よしてるいたんだ(『げんつぎきょう』2がつ10日とおかじょう[181][182]。また、同年どうねん10がつ7にちにも真如堂しんにょどう安芸あきからた600にん義輝よしてる奉公ほうこうしゅ女房にょうぼうしゅふんし、行列ぎょうれつんで風流ふうりゅうおどりおこなっている(『げんつぎきょう』10がつ7にちじょう[183]今谷いまたにあきらは、「まち人々ひとびと義輝よしてる追悼ついとうするおどりによって三好みよしさんにんしゅ政権せいけんへの抵抗ていこうしめした」と解釈かいしゃくしている[182]山田やまだ康弘やすひろはこれらの事実じじつから、「三好みよし世間せけんてきまわした」とひょうしている[161]

えいろく8ねん6がつ9にち将軍家しょうぐんけ菩提寺ぼだいじである等持院とうじいんにおいて、義輝よしてる葬儀そうぎ実施じっしされた[184]。このとき、三好みよしがわ葬儀そうぎ阻害そがいすることもなく、とどこおりなくおこなわれた[184]

同年どうねん8がつ妙満寺みょうまんじ義輝よしてるのためにせんけい仏事ぶつじ催行さいこうすると、三好みよしがわは「大義たいぎ是非ぜひおよばず」として褒詞ほうしくだし、惣領そうりょう三好みよし義継よしつぎ寄宿きしゅく免除めんじょてらへい駐屯ちゅうとんきんずる)の特権とっけんあたえた[184]。ほかにも、三好みよしがわ義輝よしてるとむらうため、相国寺しょうこくじなどに仏事ぶつじりょうとして田地でんち寄進きしんしている[184]。だが、それらは義輝よしてる鎮魂ちんこんのためではなく、支配しはいそうから一般いっぱん庶民しょみんにいたるまでが義輝よしてるなげき、三好みよしへのいかりをしめしたことをて、三好みよしがわ世間せけん反発はんぱつやわらげるためにったとかんがえられる[185]

天正てんしょう17ねん1589ねん)5がつ18にち毛利もうり輝元てるもと非命ひめいに斃れた義輝よしてるじゅう回忌かいきさいして、鹿しかえんいんとうぬし西にしえみうけたまわにその仏事ぶつじ依頼いらいした[186]。これは、「鹿しかえんいんとうぬし導師どうしつとめれば、あきらさん足利あしかが義昭よしあきのこと)もよろこばれるだろう」とかんがえた輝元てるもと配慮はいりょでもあった[186]

辞世じせい

編集へんしゅう

義輝よしてる辞世じせい以下いかつたえられている[187]。だが、同年代どうねんだい史料しりょうより確認かくにんされるものではないため、実際じっさい義輝よしてるんだか真偽しんぎ不明ふめいである[188]

五月雨さみだれあらわなみだ不如帰ふじょき をあげよ くもうえまで」

経歴けいれき

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  • 天文てんもん15ねん7がつ27にち1546ねん8がつ23にち)、朝廷ちょうていからふじあたえられ、したがえじょ[3]
  • どう11がつ19にち(1546ねん12月12にち)、せい昇叙しょうじょし、ひだり馬頭めず任官にんかん
  • どう12がつ19にち1547ねん1がつ10日とおか)、六角ろっかく定頼さだより加冠かかんやくとして元服げんぷく[3]
  • どう12がつ20日はつか(1547ねん1がつ11にち)、したがえよん征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ[13]
  • 天文てんもん16ねん2がつ17にち(1547ねん3がつ19にち)、参議さんぎ補任ほにんし、ひだり近衛このえ中将ちゅうじょう兼任けんにん
  • 天文てんもん23ねん2がつ12にち1554ねん3月15にち)、義輝よしてるあらためる。
  • えいろく8ねん5がつ19にち1565ねん6月17にち)、薨去こうきょ
  • どう6がつ7にち(1565ねん7がつ4にち)、おくしたがえいち左大臣さだいじん

人物じんぶつ評価ひょうか

編集へんしゅう
 
斯波しば武衛陣ぶえいじん足利あしかが義輝よしてるていのこ
  • 宣教師せんきょうしルイス・フロイスは、義輝よしてるを「とても武勇ぶゆうにすぐれて、勇気ゆうきあるひとだった」とひょうしている(『フロイス日本にっぽんだい65しょう)。
  • 山田やまだ康弘やすひろは、義輝よしてる英主えいしゅになりうる素質そしつ十分じゅうぶんゆうしており、その鱗片りんぺんせつつあったとし、かりにもし10ねんながきていたならば、将軍家しょうぐんけ歴史れきしおおきくわっていたと考察こうさつしている[189]山田やまだはまた、義輝よしてる苦難くなんつづ日々ひびごし、有力ゆうりょく大名だいみょうこうそうまれてながれぐう余儀よぎなくされ、京都きょうと復帰ふっきしてその才能さいのうかがやはじめた矢先やさき凶刃きょうじんに斃れたことから、わずか30ねんというみじか生涯しょうがいにおいて閑安な日々ひびはほとんどなかったといっても過言かごんではないとしている[190]
  • 剣豪けんごうとしてせていた塚原つかはら卜伝ぼくでんから指導しどうけた直弟子じきでし一人ひとりである[注釈ちゅうしゃく 3]奥義おうぎ一之かずゆき太刀だち」を伝授でんじゅされたというせつもあり、武術ぶじゅつすぐれた人物じんぶつであったのではないかとわれている。ただし、卜伝ぼくでんはこのほか北畠きたばたけきょう細川ほそかわ藤孝ふじたかなどにもさづけており、かならずしも奥義おうぎきわめたとは断言だんげんできず、免許めんきょ皆伝かいでんしたという記録きろくもない[注釈ちゅうしゃく 4]
  • えいろくへんさい、フロイスの『日本にっぽん』では「義輝よしてるみずか薙刀なぎなたるってたたかい、人々ひとびとはその技量ぎりょう見事みごとさにとてもおどろいた。そのはよりてき接近せっきんするために薙刀なぎなたすてて、かたないてたたかった。その奮戦ふんせんぶりはさながら勝利しょうり目前もくぜんにしているものにもおとらなかった」としるされている(『フロイス日本にっぽんだい65しょう)。信長のぶなが旧臣きゅうしん太田おおた牛一ごいちあらわした『信長のぶながこう』でも「すうきつてで、くずし、数多すうたわせ、公方くぼうさまはたらこう」としるされている。また、『日本にっぽん外史がいし』には「足利あしかが秘蔵ひぞうかたなたたみし、こぼれするたびにあたらしいかたなえてへいたたかった」という記述きじゅつ存在そんざいするが、これは義輝よしてるからかなりのちの時代じだい江戸えど時代じだい後期こうき)にしるされたものであるうええいろくへんもっとちか時期じき史料しりょうには「名刀めいとうえてたたかった」という記述きじゅつ自体じたい存在そんざいしないことから、創作そうさく要素ようそつよく、信憑しんぴょうせいけるものとされる。
  • 義輝よしてる武衛陣ぶえいじん斯波しばたけまもるきゅうやしき)に室町むろまち幕府ばくふ拠点きょてんうつした将軍しょうぐんとしてもられる。斯波しばたけまもるきゅうやしき室町むろまち中御門なかみかどにあり、義輝よしてる御所ごしょ室町むろまち中御門なかみかどだいとよばれる。のちにだい規模きぼ拡張かくちょうされ、石垣いしがきかこまれた城郭じょうかくふう外観がいかんとなったため、きゅう二条城にじょうじょうばれることもある。
  • 義輝よしてる歴代れきだい将軍しょうぐんおなじく神仏しんぶつうやまい、天文てんもん22ねん1553ねん)8がつ伊勢神宮いせじんぐう入洛にゅうらく祈願きがんしたり、弘治こうじ3ねん1557ねん)には陰陽いんようどう主神しゅしん泰山たいざんくん怨敵おんてき三好みよし長慶ちょうけい退治たいじ祭文さいぶんささげている[191]
  • 天文てんもん23ねん1554ねん)には大友おおともから鉄砲てっぽう火薬かやく秘伝ひでんしょ(『てつ薬方やくほう調合ちょうごう次第しだい』)をれたり、えいろく3ねん1560ねん)にはガスパル・ヴィレラキリスト教きりすときょう布教ふきょうゆるしている。
  • えいろく8ねん1565ねん)、正親町おおぎまち天皇てんのう京都きょうとからイエズスかい追放ついほうするよう命令めいれいしたが、義輝よしてるはこの命令めいれい無視むししたとされる[192][注釈ちゅうしゃく 5]
  • 義輝よしてる諸国しょこく大名だいみょうらと連絡れんらくい、特定とくてい勢力せいりょく依存いぞんしない体制たいせい構築こうちく模索もさくし、将軍しょうぐん権威けんい確立かくりつしようとした。それまで足利あしかが一門いちもん世襲せしゅうであった奥州おうしゅう探題たんだい九州きゅうしゅう探題たんだい足利あしかが一門いちもん伊達だて大友おおともえたほか、三好みよし毛利もうり上杉うえすぎ長尾ながお)などの新興しんこう大名だいみょうへんいみな官位かんいといった様々さまざま栄典えいてんあたえるなど血統けっとうよりも実力じつりょく重視じゅうしして、室町むろまち幕府ばくふ儀礼ぎれい秩序ちつじょさい構築こうちくおこなうことで、室町むろまち幕府ばくふ体制たいせい再建さいけんはかろうとしたとかんがえられる。しかし、その最大さいだい目的もくてきであった三好みよしへの統制とうせい確立かくりつは、三好みよしとく長慶ちょうけい義興よしおき父子ふしぼつにその実権じっけんにぎった三好みよしさんにんしゅがわからは脅威きょういとみられて、えいろくへん一因いちいんになったとかんがえられる[193]。また、足利あしかが将軍しょうぐん権威けんい正体しょうたいを「血統けっとうもとづく貴種きしゅせい」とみる立場たちばからは、こうした"じょうからの改革かいかく"の進展しんてん結果けっかてきには足利あしかが将軍しょうぐん権威けんい否定ひてい、ひいては室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうはやめたとする見解けんかいされている[194][195]
  • 義輝よしてるしょ大名だいみょう任官にんかん斡旋あっせんにはちからくしたものの、自身じしん将軍しょうぐん就任しゅうにん同時どうじしたがえよんした翌年よくねん参議さんぎひだり近衛このえ中将ちゅうじょうにんぜられてからやく20年間ねんかんまった昇進しょうしんせず、父祖ふそのようにしたがえさんとならず、朝廷ちょうていから公卿くぎょうあつかいされていなかった[196]義輝よしてる経済けいざいてき事情じじょうやたびたびの近江おうみ下向げこうによって、歴代れきだい将軍しょうぐん官位かんい昇進しょうしん先例せんれいならわず、昇進しょうしん機会きかいいっした可能かのうせいかんがえられるが、その一方いっぽうしょ大名だいみょう官位かんい授与じゅよかんする朝廷ちょうていへの窓口まどぐち自身じしん一本いっぽんしようとしている。また、足利あしかが義満よしみつ以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐん花押かおう武家ぶけさま公家くげさまの2種類しゅるい使つかけるか、あるいは公家くげさまのみをもちいていたが、短期間たんきかんぼっして花押かおうられていない足利あしかが義勝よしかつ足利あしかが義栄よしひでべつとすれば、義輝よしてるだけが武家ぶけさま花押かおうのみをもちいている(先例せんれいもとづけば、けん大納言だいなごん以上いじょう昇進しょうしんしてから花押かおうあらためる予定よていだったともかんがえられるが、義輝よしてるはそもそも官位かんい昇進しょうしん志向しこうしていない)[193]。また、義輝よしてる内裏だいりへの参内さんだいも、記録きろくのこるのはわずか5かいである。義輝よしてる死後しご織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきたいしててた異見いけんじゅうななヶ条かじょうなかでは、義輝よしてる朝廷ちょうてい軽視けいし非業ひごう原因げんいんであるとべている(『信長のぶながこう』)が、義輝よしてる朝廷ちょうていかんについては今後こんご研究けんきゅう課題かだいとされている[197]
  • 義輝よしてるちち義晴よしはるちがい、改元かいげんきわめて消極しょうきょくてきであった[94]改元かいげん天皇てんのう大権たいけんぞくしたものの、室町むろまち時代じだいには将軍しょうぐん同意どういして費用ひよう負担ふたんしなければできず、れいとしておうひさし年号ねんごう朝廷ちょうてい改元かいげんのぞんだにもかかわらず、足利あしかが義満よしみつ改元かいげん同意どういしなかったため、異例いれいの30年間ねんかんつづいた[198]。だが、戦国せんごく時代じだい足利あしかが将軍家しょうぐんけ弱体じゃくたい分裂ぶんれつすると、将軍しょうぐんにとっては天皇てんのうむすんで改元かいげんおこなうことが自身じしん正統せいとうせいしめすものとなった[199]。そのため、義輝よしてるちち義晴よしはる足利あしかがよしによって京都きょうとわれていたにもかかわらず、だいひさしからとおるろく改元かいげん、およびとおるろくから天文てんもん改元かいげんと、2にわたって改元かいげん執奏しっそうし、その正統せいとうせい天下てんかしめした[94]。しかし、義輝よしてる天文てんもん年号ねんごうを24年間ねんかんつづかせたことや、天文てんもんから弘治こうじ改元かいげん執奏しっそう費用ひよう負担ふたんもしなかったため、朝廷ちょうていえいろく改元かいげんさいして、義輝よしてるはからずにこれを断行だんこうした[94]。これは、義輝よしてる京都きょうとはなれることが常態じょうたいしたため、正親町おおぎまち天皇てんのうをはじめ朝廷ちょうてい三好みよし長慶ちょうけいあらたな武家ぶけ代表だいひょうとし、義輝よしてる武家ぶけ代表だいひょうしゃみとめないとする政治せいじ判断はんだんくだしたとることができる[200]。そのため、義輝よしてる自身じしん権威けんいおおきくきずつけられたとかんじ、えいろく改元かいげんしたがわなかったが、そのくに君主くんしゅさだめた年号ねんごう使用しようしないということは、世界せかいてきても反逆はんぎゃく独立どくりつ宣言せんげんなかった[201]。つまり、義輝よしてるきゅう年号ねんごう使つかつづけたことは、現職げんしょく将軍しょうぐん朝敵ちょうてきになるということにならなかった[201]。また、しょ大名だいみょうあいだでも、年号ねんごうえいろくあらためるもの弘治こうじ使つかつづけるものとで、対応たいおう二分にぶんされた[201][202]三好みよし領国りょうごくせっさない武田たけだ北条ほうじょう今川いまがわなど東国とうごく大名だいみょうがすぐにえいろく改元かいげんしたがった一方いっぽうで、三好みよし直接ちょくせつ対峙たいじしつつあった毛利もうり義輝よしてる同調どうちょうし、弘治こうじ年号ねんごう使つかつづけた[105][201]
  • 義輝よしてる朽木くちき滞在たいざいちゅう三好みよし長慶ちょうけい政治せいじめんのみならず、宗教しゅうきょうめんでもあらそうことがあった。以下いかはそのれいである。
    • 天文てんもん24ねん1555ねん)6がつ義輝よしてる石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう神官しんかん田中たなか発生はっせいした家督かとくあらそいを調停ちょうていし、当主とうしゅ田中たなか西竹にしたけきょうきよし筑前ちくぜん箱根はこねみやにいることを怠慢たいまんとして、家督かとくきょうきよからひがしちくきのえきよし変更へんこうした[203]。ところが、翌年よくねん5がつ長慶ちょうけいがこれに介入かいにゅうし、またきょうきよし筑前ちくぜんから上洛じょうらくして、自身じしん筑前ちくぜんにいたのはこう奈良なら天皇てんのういのちによって箱根はこねみや遷宮せんぐうおこなっていたからであると松永まつなが久秀ひさひでうったえた[203]。そのため、12月にきのえきよしからきょうきよし家督かとく返還へんかんすることで和談わだんがなされ、義輝よしてる命令めいれい長慶ちょうけいによってくつがえされるかたちとなった[203]
    • 天文てんもん14ねん1545ねん)、出雲いずも尼子あまこ晴久はるひさ月山がっさん富田とみたしろせん法華ほっけきょう読踊をもよおしたさい地元じもと安来やすぎ清水寺きよみずでらこう奈良なら天皇てんのう命令めいれい根拠こんきょとして、それまでの鰐淵わにぶちてらわるかたちさい上位じょういひだりすわろうとしたことで、りょうてらあいだそうろんこった[203][204]。その背景はいけいとして、晴久はるひさ領国りょうごくにおける宗教しゅうきょう政策せいさくにおいて、清水寺きよみずでらてることによって、出雲いずも大社たいしゃ本寺ほんじである鰐淵わにぶちてらへの統制とうせいつよめようとしたことにあった[203]。このときはさだめずにませたが[91]天文てんもん24ねんにこの問題もんだい再燃さいねんすると、事態じたい晴久はるひさ思惑おもわくえてうごはじめた[205]りょうてら延暦寺えんりゃくじとおして朝廷ちょうていうったえたばかりか、鰐淵わにぶちてら義輝よしてるにもはたらきかけ[206]弘治こうじ2ねん5がつ23にちづけ鰐淵わにぶちてらうんむねはれひさつたえる幕府ばくふ奉行ぶぎょうじん連署れんしょ奉書ほうしょ獲得かくとくした[204]。ところが、朝廷ちょうていさんもんさんとうて、6がつ下旬げじゅん安来やすぎ清水寺きよみずでらひだりとするのち奈良なら天皇てんのう女房にょうぼう奉書ほうしょした[204]。そのため、安来やすぎ清水寺きよみずでら晴久はるひさおな佐々木ささき一族いちぞく六角ろっかく義賢よしかたを、鰐淵わにぶちてら長慶ちょうけいをそれぞれたより、9月15にち長慶ちょうけいこう奈良なら天皇てんのう命令めいれい非難ひなんして、朝廷ちょうてい再審さいしんもとめた[204][206]。その結果けっか、11月13にちこう奈良なら天皇てんのう長慶ちょうけい意見いけんどおりに裁許さいきょくつがえして、鰐淵わにぶちてらひだりとすることにけっし、翌年よくねんにはそうろん沈静ちんせいしていった[206][207]義輝よしてる朽木くちきざい在中ざいちゅう長慶ちょうけい地方ちほう訴訟そしょうにも関与かんよし、てんさんてんしたそうろん決着けっちゃくさせることで、将軍しょうぐんわる存在そんざいかんしめしていた[93][206]

義輝よしてる殺害さつがい理由りゆう経緯けいい

編集へんしゅう

義輝よしてる殺害さつがいされた理由りゆう殺害さつがいいたるまでの経緯けいいかんしては諸説しょせつあり、いま定説ていせつにはいたっていない。

  • 山田やまだ康弘やすひろは、義輝よしてる殺害さつがいかんして、義輝よしてる一族いちぞく=義澄よしずみけい足利あしかがぞくめつすすめることによって、三好みよし擁立ようりつすることになる義稙よしたねけい足利あしかが将軍家しょうぐんけ統一とういつし、はん世紀せいき以上いじょうにもわたる「ふたつの将軍家しょうぐんけ問題もんだい」に由来ゆらいする政治せいじてき不安定ふあんてい解消かいしょうしようとする意図いとがあったとする[208]
  • 小林こばやし正信まさのぶは、義輝よしてる殺害さつがい計画けいかくてきなものとし、義輝よしてる生母せいぼ愛妾あいしょう義輝よしてる末弟ばっていいたるまで殺害さつがいされていることから、その一族いちぞくすべてを執拗しつようねらった三好みよしらの用意ようい周到しゅうとうさが垣間見かいまみえ、偶発ぐうはつてきなものではなかったと考察こうさつしている[209]。また、御所ごしょへの包囲ほうい前日ぜんじつからひそかにすすめられており、当日とうじつには周囲しゅうい完全かんぜん封鎖ふうさされていたとるべきだ、ともべている[209]
  • 山田やまだ邦明くにあきは、三好みよし松永まつなががわ実際じっさい訴訟そしょう要求ようきゅう)の取次とりつぎもとめて御所ごしょおとずれたものの、取次とりつぎさい齟齬そごからりょうぐん衝突しょうとつ発展はってんしてしまったもので、最初さいしょから義輝よしてる殺害さつがい計画けいかくしていたわけではないとする[210]
  • 久野くの雅司まさしは、義輝よしてる殺害さつがいを、将軍しょうぐん権威けんい高揚こうようたいして、三好みよし権威けんい再興さいこうをかけてったものであったとものと考察こうさつしている[212]。「御所ごしょき」にかんしては、『  足利あしかが』に「強訴ごうそいつわって」とあることから、義輝よしてるあざむくことが目的もくてきであったとしている[212]
  • 天野あまの忠幸ただゆきは、三好みよしかた訴訟そしょうごうしたのは表向おもてむきで、当初とうしょから義輝よしてる殺害さつがい目的もくてきとしており、また政変せいへん足利あしかが将軍家しょうぐんけ義稙よしたねりゅう統一とういつするためにったものではなく、三好みよし義継よしつぎ足利あしかが将軍家しょうぐんけにとってわろうとするためにこしたと考察こうさつしている[213]義継よしつぎ家督かとく継承けいしょう三好みよしちゅう結束けっそく三好みよし長慶ちょうけい一門いちもん相次あいつによってみだれており、義継よしつぎ初陣ういじんとして義輝よしてるつことで、三好みよしほん宗家そうけ家督かとく相応ふさわしい存在そんざいであるとしめ必要ひつようがあった、と天野あまの推測すいそくしている[214]天野あまのは、義輝よしてる三好みよしかた緊張きんちょうたかまるなかでの長慶ちょうけいにより、将軍しょうぐんとしての権威けんい回復かいふくしようとする義輝よしてるたいして、義継よしつぎ先手せんてったとており、義輝よしてる殺害さつがい義重よししげから義継よしつぎ改名かいめいしたことからも、そうした義継よしつぎ意図いとうかがることができるとしている[178]
  • 木下きのしたあきらぶんまわしは、最初さいしょから義輝よしてる殺害さつがい目的もくてきであれば、政治せいじてき要求ようきゅうさるである進士しんしはるしゃ提出ていしゅつするという正規せいき手続てつづきをっている理由りゆう不明ふめいであるとする反面はんめん、その政治せいじてき要求ようきゅう処刑しょけいもとめられた側近そっきん妻妾さいしょうなか進士しんしはるしゃとそのむすめしょう侍従じじゅうきょくふくまれていたとすれば、交渉こうしょう自体じたい成立せいりつする可能かのうせいひくく(とくはれしゃ三好みよしとの取次とりつぎであり、かれ義輝よしてる面前めんぜん自害じがいしたことで「きり」とみなされて、たたかいがはじまっている)、殺害さつがい意図いと有無うむはかることはむずかしいとしている[215]

通説つうせつでは、義輝よしてる子女しじょいちなんさんじょとされ、長女ちょうじょ弘治こうじ2ねん1556ねん)、次女じじょえいろく7ねん1564ねん)2がつ24にちさんじょ義輝よしてる殺害さつがいされる直前ちょくぜんえいろく8ねん1565ねん)4がつ17にち誕生たんじょうした。次女じじょさんじょは『げんつぎきょう』の誕生たんじょう記事きじから、生母せいぼしょう侍従じじゅうきょくであることがかる。息子むすこてるわかまるのみであるが、非公式ひこうしき義輝よしてる息子むすこといわれる人物じんぶつが2めいられている。

墓所はかしょ肖像しょうぞう

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足利あしかが義輝よしてるぞうがた土佐とさ光吉こうきちふで京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく芸術げいじゅつ資料しりょうかんぞう

墓所はかしょ

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法号ほうごう光源院こうげんいんとおる山道さんどうえん供養くようとう山口やまぐちけん山口やまぐちしゅんりゅうてらにある[216]

肖像しょうぞう

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に、みなもと土佐とさ光吉こうきち)のうつしたという頭部とうぶ下絵したえかみがた)が京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく所蔵しょぞう土佐とさ資料しりょうなか現存げんそんする。国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんほん真正極楽寺しんせいごくらくじほんは、これを粉本ふんぽんとして制作せいさくされたとかんがえられている。この下絵したえにはほお部分ぶぶん疱瘡ほうそうあとのこっており、天然痘てんねんとう感染かんせんした可能かのうせい指摘してきされている。

へんいみなけた人物じんぶつ

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矢印やじるししめ人物じんぶつは、ひだりへんいみなけたものから「よし」「てる」のあたえられた子女しじょ家臣かしんしめす。

よし」の

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ふじ」の

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てる」の

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関連かんれん作品さくひん

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義輝よしてる題材だいざいとした作品さくひん

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小説しょうせつ
漫画まんが
舞台ぶたい
  • ‐もっとふか歴史れきしりたくなるシリーズ
    • 舞台ぶたい剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてる戦国せんごくかがや清爽せいそうほし~』(前編ぜんぺん)(2016ねん12月8にち~14にち EXシアター六本木ろっぽんぎ) 原作げんさく宮本みやもと昌孝まさたか剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてる』『義輝よしてる異聞いぶん 将軍しょうぐんほし徳間とくま文庫ぶんこえんじ染谷そめや俊之としゆき
    • 舞台ぶたい剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてるぼしぎししゃたちへ~』(後編こうへん)(2017ねん6がつ8にち~18にち EXシアター六本木ろっぽんぎ原作げんさく宮本みやもと昌孝まさたか剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてる』『義輝よしてる異聞いぶん 将軍しょうぐんほし徳間とくま文庫ぶんこえんじ染谷そめや俊之としゆき
楽曲がっきょく
  • 天月あまつき-あまつき-明星みょうじょう』(長谷川はせがわみお奈/原田はらだ雄一ゆういち/天月あまつき‐あまつき-/、きょく:KoTa/原田はらだ雄一ゆういち、2016ねん舞台ぶたい剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてる戦国せんごくかがや清爽せいそうほし~』テーマソング
  • 天月あまつき‐あまつき‐『未来みらいほしいのち』(長谷川はせがわみお奈/天月あまつき‐あまつき‐、きょく:KoTa/原田はらだ雄一ゆういち、2017ねん舞台ぶたい剣豪けんごう将軍しょうぐん義輝よしてるぼしぎししゃたちへ~』テーマソング

義輝よしてる登場とうじょうした作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
テレビアニメ
ゲーム

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ なお同書どうしょでは、ライーニャおよびプリンセザの訳語やくごに「奥方おくがた」を使用しようしている。
  2. ^ 公方くぼうさま夫人ふじんは、じつ正妻せいさいではなかった。だが彼女かのじょ懐胎かいたいしていたし、すでに公方くぼうさま彼女かのじょからにんむすめをもうけていた。また彼女かのじょ上品じょうひんであったのみならず、かれからおおいにあいされてもいた。したがって世間せけん人々ひとびとは、公方くぼうさまのいかなる婦人ふじんつまとすることもなく、むしろ数日すうじつちゅうには彼女かのじょにライーニャ(=王妃おうひ)のしょうあたえることはうたがいなきこととおもっていた。なぜならば、彼女かのじょはすでに以外いがいのことでは公方くぼうさま正妻せいさいおなじように人々ひとびとから奉仕ほうしされうやまわれていたからである」
    「コジジュウドノ(しょう侍従じじゅう殿どの)としょうされたこのプリンセザは~」[1]
  3. ^ のち柳生やぎゅう宗矩むねのり細川ほそかわ忠利ただとし門弟もんていである雲林院うじい弥四郎やしろう推挙すいきょしたさい書状しょじょうにおいて、上方かみがたにおける卜伝ぼくでん直門じきもんとして弥四郎やしろうちち雲林院うじい松軒しょうけんともに、義輝よしてる北畠きたばたけきょうげている。
  4. ^ しん当流とうりゅう伝承でんしょうでは、卜伝ぼくでんが「ただいちにん」の一之かずゆき太刀だち伝授でんじゅした相手あいて北畠きたばたけきょうとしている。また、卜伝ぼくでん本人ほんにんからではないが、徳川とくがわ家康いえやすも、その直門じきもんである松岡まつおかのりかたからいちこれ太刀だち伝授でんじゅされている。
  5. ^ 『フロイス日本にっぽんだい166しょうおよび67しょうや、宣教師せんきょうし書簡しょかんしゅうなどには、義輝よしてる死後しご竹内たけうちなどの法華宗ほっけしゅう松永まつなが久秀ひさひでなどにはたらきかけて正親町おおぎまち天皇てんのううごかし、イエズスかい宣教師せんきょうし京都きょうとから追放ついほうするみことのり令状れいじょう発行はっこうさせることに成功せいこうし、宣教師せんきょうしわれたという記述きじゅつがあるが、同書どうしょかれらの書簡しょかんには義輝よしてる生前せいぜん天皇てんのうより宣教師せんきょうしやイエズスかい会員かいいん京都きょうとから追放ついほうする命令めいれいたという記述きじゅつはない。
  6. ^ さん百藩家臣人名事典』だいななかん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ)では義昭よしあきおとうととしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 完訳かんやくフロイス日本にっぽん1 将軍しょうぐん義輝よしてる最期さいごおよび自由じゆう都市としさかい』より[注釈ちゅうしゃく 1]
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 33ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h 山田やまだ 2019, p. 61.
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  7. ^ こう法成寺ほうじょうじ関白かんぱく天文てんもん5ねん3がつ11にち・4がつ6にちじょう
  8. ^ 木下きのした 2018, pp. 8–9.
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  11. ^ 山田やまだ 2019, pp. 61–62.
  12. ^ 木下きのした 2017, pp. 285–287.
  13. ^ a b c d e 山田やまだ 2019, p. 62.
  14. ^ a b えのきげん & 清水しみず 2017, p. 333.
  15. ^ 山田やまだ 2019, p. 59-60.
  16. ^ a b 木下きのした 2017, p. 287-294.
  17. ^ a b c d e 山田やまだ 2019, p. 64.
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