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月山富田城 - Wikipedia

月山がっさん富田とみたしろ

島根しまねけん安来やすぎにあったしろ

月山がっさん富田とみたしろ(がっさんとだじょう)は、島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち富田とみたにあった日本にっぽんしろ月山がっさん標高ひょうこう183.9m[1][2][3])にいとなまれる。出雲いずもはじめ富田とみたきょしたしろで、京極きょうごく支配しはいけんうばわれてからは、その守護しゅごだい尼子あまこざいしろした。のち尼子あまこ主家しゅか京極きょうごく追放ついほうして戦国せんごく大名だいみょうとなりこのしろ本拠ほんきょとした。城郭じょうかくあとくに史跡しせき指定していされている。

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月山がっさん富田とみたしろ
島根しまねけん
月山富田城跡
月山がっさん富田とみた城跡じょうせき
別名べつめい 月山がっさんしろ富田とみた月山がっさんしろ
城郭じょうかく構造こうぞう ふくくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 佐々木ささき義清よしきよ
築城ちくじょうねん 1185ねん文治ぶんじ元年がんねんごろ
おも改修かいしゅうしゃ 富田とみたよしやすし尼子あまこ経久つねひさ堀尾ほりお吉晴よしはる
おも城主じょうしゅ 富田とみたよしやすし富田とみたしげるさだ尼子あまこ歴代れきだい
塩冶えんや掃部かい吉川よしかわ元春もとはる堀尾ほりお吉晴よしはる
はいじょうねん 1611ねん慶長けいちょう16ねん
遺構いこう 石垣いしがき曲輪くるわ堀切ほりきり井戸いど
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 石垣いしがきさむらいしょ
位置いち 北緯ほくい3521ふん39.42びょう 東経とうけい13311ふん6.94びょう / 北緯ほくい35.3609500 東経とうけい133.1852611 / 35.3609500; 133.1852611
地図ちず
月山富田城の位置(島根県内)
月山富田城
月山がっさん富田とみたしろ
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概要がいよう

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出雲いずもはじめ富田とみたきょしたしろで、出雲いずもこく守護しゅごだい居城きょじょう塩冶えんやより富田とみたうつってからは、守護しゅごだいざいしろした。1396ねんから1566ねん戦国せんごく時代じだい)には大名だいみょう尼子あまこ本拠地ほんきょちとなり以後いご尼子あまことともに山陰さんいん要衝ようしょうとなる。尼子あまこ中国ちゅうごく地方ちほう覇権はけんめぐって周辺しゅうへん諸国しょこくあらそい、尼子あまこ経久つねひさ時期じき出雲いずも基盤きばんつくげた。そのまご尼子あまこ晴久はるひさだいには山陰さんいん山陽さんようはちヶ国かこく守護しゅごだい大名だいみょうとなり、天然てんねん地形ちけい利用りようした難攻不落なんこうふらく要塞ようさいしろといわれ「天空てんくうしろ」ともばれた。そのしろめぐっても度々たびたびおさむ防戦ぼうせんおこなわれたが最終さいしゅうてき尼子あまこ毛利もうりによってほろぼされ、しろ毛利もうりりょうとなった。

1600ねん慶長けいちょう5ねん以降いこう堀尾ほりお城主じょうしゅとなるが、1611ねん慶長けいちょう16ねん)に堀尾ほりお忠晴ただはる松江城まつえじょううつると月山がっさん富田とみたしろはいじょうとなった。それまでは、山陰さんいんくびじょうたる地位ちいうしなわなかった。1934ねん昭和しょうわ9ねん)、くに史跡しせき指定していされた。日本にっぽん大山おおやまじょうひとつとされることもある[4]

歴史れきし沿革えんかく

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整備せいびちゅう月山がっさん本丸ほんまる部分ぶぶん(2016)

平安へいあん時代じだい

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鎌倉かまくら時代ときよ

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南北なんぼくあさ時代じだい

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室町むろまち時代ときよ

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安土あづち桃山ももやま時代じだい

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  • 1567ねんえいろく10ねん城代じょうだいとして天野あまの隆重たかしげ居城きょじょう
  • 1569ねんえいろく12ねん尼子あまこ旧臣きゅうしん山中やまなかみゆきもり尼子あまご再興さいこうぐんもよおしてとうしろめるも、ちず。
  • 1570ねんもとかめ元年がんねん毛利もうりぜい本隊ほんたい来援らいえんにより、尼子あまこ再興さいこうぐん敗退はいたいする。
  • (このあいだは、下記かき歴代れきだい城主じょうしゅ参照さんしょう

江戸えど時代じだい

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きん現代げんだい

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  • 平成へいせいはいり、樹木じゅもく伐採ばっさい石垣いしがき修理しゅうりなど史跡しせき公園こうえんとしての整備せいびすすめられる[6][7]
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)4がつ6にち日本にっぽん100名城めいじょう(65ばん)に選定せんていされた。
  • 2014ねん平成へいせい26ねん)12月、発掘はっくつ調査ちょうさ現地げんち説明せつめいかいおこなわれた[8]
  • 2015ねん2022ねんだいいちだいにわたって伐採ばっさい修復しゅうふくなどの城跡じょうせき全体ぜんたい整備せいびおこなわれた[9][10][11]

歴代れきだい城主じょうしゅ

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構造こうぞう

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富田とみた月山がっさんしろ絵図えず

富田とみたじょうくつのようなかたち月山がっさん吐月峰とげっぽう標高ひょうこう191.5m)山上さんじょう本丸ほんまるをおく典型てんけいてき山城やましろである。

南東なんとう以外いがいさんぽう急峻きゅうしゅん斜面しゃめんであり、北側きたがわ正面しょうめんとし、山麓さんろくから山頂さんちょうくるわつらねる。進入しんにゅうは、きたふもとかん谷口たにぐち(すがたにぐち)からの大手おおてどう(おおてみち)、富田とみたきょうわたった正面しょうめん子守こもりこう(おこもりぐち)からの搦手からめてどう(からめてみち)、みなみふもと塩谷しおやくち(しおだにぐち)からの裏手うらてどう(うらてみち)の3かしょがある。これらのすべてののぼこうには城門じょうもんかまえ、もんそとにはふかほりがめぐらされ、そこから飯梨川いいなしがわ現在げんざい西にし2~400mをながれていた)までがしろ外郭がいかくとなっていた。すべての進入しんにゅう山腹さんぷく山中さんちゅう御殿ごてんつうじ、急峻きゅうしゅん一本いっぽんどう七曲ななまがり」で、つめしろである山頂さんちょうむすぶ。

現存げんそんする絵図えずでは石垣いしがき瓦葺かわらぶなどがえがかれているが、これらの絵図えずえがかれたのは江戸えど時代じだいである(後述こうじゅつしろ安寺あてら所蔵しょぞうしている堀江ほりえともこえさくの「月山がっさん古城こじょう絵図えず」など)、発掘はっくつされている石垣いしがきつくられたのは関ヶ原せきがはらたたか堀尾ほりおによる改築かいちく推定すいていされる。尼子あまこ毛利もうり城主じょうしゅであった時代じだい姿すがたは、さだかではないが、尼子あまこかん平素へいそ住居じゅうきょ)はさと屋敷やしきとよばれかん谷口たにぐちにありまわりにさむらい屋敷やしきもうけたとされる。

山頂さんちょうかく

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本丸ほんまる
月山がっさん最高さいこうしょ吐月峰とげっぽう)に位置いちし、別称べっしょうは"かぶとまる"ともわれる。まるとはふかさ7~8mの堀切ほっきり仕切しきられる。ここに所在しょざいするかち日高ひだか守神まもりがみしゃしろ守護神しゅごじんしゃで、築城ちくじょう以前いぜんから所在しょざいしたとつたえられる。
まる
さんまるつづき、とおくに中海なかうみ、さらに日本海にほんかいのぞむことができる。そう井戸いどあとのこる。また、発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか建物たてものあとはしらあなあと備前焼びぜんやきびんとう発見はっけんされ、やぶしろさいくずされた石垣いしがき発見はっけんされている。
さんまる
そでたいら石垣いしがきへだてた一段いちだんじょう位置いちする。また、発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかやぶしろさいくずされた石垣いしがき発見はっけんされている。
そでひらめ(そでがなり)
七曲ななまがり」をのぼりきったところにあり、西方せいほう監視かんしするがあったとつたわる。石垣いしがきのこる。
はちなり(はちやがなり)
山頂さんちょう本丸ほんまる北東ほくとうがわ位置いちし、尼子あまこ経久つねひさ富田とみたしろ奪回だっかい協力きょうりょくしたはちゆかりのともつたわる。
七曲ななまが
山中さんちゅう御殿ごてんひらたから山頂さんちょうつづみち。かなり急峻きゅうしゅんで、現在げんざい石畳いしだたみ舗装ほそうされている。途中とちゅう堀尾ほりお河内かわうちまもる・掃部父子ふし供養くようする親子おやこ観音かんのん山吹やまぶき井戸いどがある。

山麓さんろくかくもん

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山中さんちゅう御殿ごてんあと月山がっさん
山中さんちゅう御殿ごてんひらめ(さんちゅうごてんなり)
御殿ごてん所在しょざいしたところで、ふもとさと御殿ごてんたいして山中さんちゅう御殿ごてんばれたものとかんがえられている。上下じょうげ2だんかれており、南側みなみがわ上段じょうだん城主じょうしゅかん北側きたがわ下段げだん付属ふぞくかんがあったとつたわる。発掘はっくつ調査ちょうさによって建物たてもの基礎きそとみられるいしれつ確認かくにんされたが、時代じだい特定とくていされていない。
大手おおて門跡もんぜき(おおてもんあと)
大手おおてどう搦手からめてどう裏手うらてどう合流ごうりゅうする山中さんちゅう御殿ごてんたいら入口いりくち位置いちする。たかさ5m、はば15mの大手おおてもんは、せるてきかえしたとつたわるが、崩落ほうらくして現存げんそんしない。このだい石垣いしがきしたにはみち2m、ふかさ3mの軍用ぐんよう大井戸おおいどがあり、現在げんざいでもみずいている。
はなだんそうまつ寺平てらだいら(そうじょうじなり))
大手おおてどう搦手からめてどうあいだ山中さんちゅう御殿ごてんたいら正面しょうめん一段いちだん位置いちする。かつて、おおくのはなえられていたことからこのがついたといわれる。発掘はっくつ調査ちょうさをもとにおもさむらいしょ復元ふくげんされている。
奥書おくがきいんひらめ(おくしょいんなり)
大手おおてどう搦手からめてどうあいだ太鼓たいこだん山中さんちゅう御殿ごてんたいらあいだ位置いちする。奥書おくがきいんがあったとつたえられ、現在げんざい戦没せんぼつしゃ慰霊いれいっている。
太鼓たいこだん(たいこだん)
せんじょうたいらつづ南側みなみがわくるわで、ときせんらせるだい太鼓たいこかれていたとつたわる。現在げんざい山中やまなかみゆきもり銅像どうぞう尼子あまこいしぶみっている。
せんじょうひらめ(せんじょうなり)
太鼓たいこだんつづ北側きたがわくるわで、子守こもりこう正面しょうめん位置いちし、しろへい集合しゅうごうとして使つかわれたといわれる。北端ほくたんには尼子あまこ神社じんじゃあとがあり、周囲しゅうい石垣いしがきのこる。
馬場ばばあと(ばばあと)
太鼓たいこだんせんじょうたいら北側きたがわ位置いちする。
能楽のうがくひらめ(のうがくなり)
子守こもりこうからの搦手からめてどう塩谷しおやくちからの裏手うらてどうあいだ位置いちする。西端せいたんこうもり井戸いどがある。
御茶おちゃだい(おちゃこだい)
いわおくらてらおく西側にしがわさい下段げだん位置いちし、飯梨川いいなしがわめんする。堀尾ほりお吉晴よしはるはかつたわる巨大きょだい五輪ごりんとうと、堀尾ほりお吉晴よしはるつまてた山中やまなかみゆきもり慰霊いれいがある。
台東たいとうなり(だいとうなり)
裏手うらてどう正面しょうめん位置いちする。石垣いしがきのこる。
搦手からめてもん(からめてもん)
南側みなみがわしお谷口たにぐちから山中さんちゅう御殿ごてんたいらつづもんで、御殿ごてんたいら南側みなみがわ位置いちする。石垣いしがきのこり、尼子あまこ経久つねひさ塩冶えんや掃部かい襲撃しゅうげきしたさいには、ここから侵入しんにゅうしたとつたえられる。
菅谷すがやとらもん(すがたにとらもん)
北側きたがわかん谷口たにぐちから山中さんちゅう御殿ごてんたいらつづもんで、石垣いしがきのこる。

その施設しせつ

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しろ安寺あてら(じょうあんじ)
かん谷口たにぐちにある臨済宗りんざいしゅう寺院じいん雲竜うんりゅうてらごうし、聖観音しょうかんのんをまつる。てらでんによると正和しょうわ年間ねんかんみなもとおう和尚おしょう開山かいさんという。堀尾ほりお忠晴ただはるとも一時いちじ松江まつえうつったが、のち広瀬ひろせもどり、さらに広瀬ひろせはん陣屋じんや予定よていとになったため、現在地げんざいちうつされた。この付近ふきんさと御殿ごてんがあったという。てらにある木造もくぞう広目天こうもくてん立像りつぞうぞうだか97.6cm)は1902ねん明治めいじ35ねん)、木造もくぞう多聞天たもんてん立像りつぞうぞうだか95.7cm)は、1903ねん明治めいじ36ねん)に重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。2たいともヒノキ寄木よせぎづくで、鎌倉かまくら時代ときよさく本尊ほんぞんわきさむらいである。境内けいだいには広瀬ひろせはん9だい藩主はんしゅ松平まつだいらただしりょうはか、また寺宝じほうちょくりょうだき絵師えしであった堀江ほりえともごええがいた富田とみたしろ絵図えず尼子あまこじゅう勇士ゆうし絵巻物えまきものつたわる。
 
島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまちいわおくらてらにある堀尾ほりお吉晴よしはるはか
いわおくらてら(いわくらでら)
子守こもりこうにある真言宗しんごんしゅう寺院じいんねむとらやまごうし、聖観音しょうかんのんをまつる。縁起えんぎでは726ねんかみかめ3ねん)、聖武天皇しょうむてんのういのちにより行基ぎょうき建立こんりゅうしたとつたえる。もと月山つきやまみなみにある高木山たかぼくやま佐々木ささき義清よしきよ子守こもり神社じんじゃとともに、城内きうちうつしたものとつたえられる。本尊ほんぞん木造もくぞう聖観音しょうかんのんぞうたかさ1.8mヒノキ一木いちきづくで、わきさむらい帝釈天たいしゃくてん立像りつぞうとともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。また、1592ねんぶんろく元年がんねんめいてつ燈籠とうろうは、指定してい文化財ぶんかざいとなっている。
子守こもり神社じんじゃ(おこもりじんじゃ)
子守こもりこうにある鬼子母神きしもじんまつ神社じんじゃいわおくらてらおなじく、もと高木山たかぼくやまにあったものを佐々木ささき義清よしきよが、城内きうちうつしたものとつたえられる。
塩冶えんやきょうひさしはか(えんやおきひさのはか)
子守こもりこうみちえき駐車ちゅうしゃじょう裏手うらてっている。
 
新宮しんぐうとうかんあと敷地しきち
新宮しんぐうとうたてあと(しんぐうとうやかたあと)
きたふもと新宮しんぐうだに位置いちし、尼子あまこ新宮しんぐうとうかんかれた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西にしたに恭弘やすひろ へん定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん秋田あきた書店しょてん、2000ねん、341ぺーじISBN 4-253-00375-3 
  • 毛利もうり戦記せんき : 大内おおうち尼子あまこほふった元就もとなり権謀けんぼう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ歴史れきしぐんぞうシリーズ 49〉、1997ねんISBN 4-05-601460-4 
  • 大橋おおはし武夫たけお状況じょうきょう判断はんだん』マネジメントしゃ だい64 富田とみたじょうおさむ防戦ぼうせん

補註ほちゅう

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  1. ^ 地理ちりいん地図ちず - 国土こくど地理ちりいん
  2. ^ 月山がっさん島根しまねけん - 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)コトバンク
  3. ^ ただし、島根しまねけん遺跡いせきデータベースの「富田とみた城跡じょうせき」は標高ひょうこう197mで登録とうろくされている。
  4. ^ 萩原はぎはらさちこ(著者ちょしゃ)『ななつの魅力みりょくでとことんたのしむ! 日本にっぽん100名城めいじょうめぐりのたび』(電子でんし書籍しょせき学研がっけんプラス、2017ねん3がつ16にちISBN 9784059161288 
  5. ^ 一説いっせつに、「文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)、出雲いずも隠岐おき両国りょうこく守護しゅごとなり、月山がっさん富田とみたしろはいる」とするほんもあるが、実際じっさいには承久じょうきゅうらんこうにより、出雲いずも隠岐おきの2こくたまわったため、この年代ねんだいかんしてはうたがわしい。
  6. ^ 島根しまねけん安来やすぎ月山がっさん富田とみた城跡じょうせき景観けいかん復元ふくげんなど「史跡しせき公園こうえん」へ本格ほんかく整備せいび
  7. ^ 月山がっさん富田とみたしろ
  8. ^ 月山がっさん富田とみたしろ発掘はっくつ調査ちょうさ
  9. ^ 富田とみた城跡じょうせき整備せいび事業じぎょうだいいち工事こうじわり
  10. ^ 史跡しせき富田とみた城跡じょうせき環境かんきょう整備せいび事業じぎょう報告ほうこくしょ
  11. ^ 難攻不落なんこうふらくの「月山がっさん富田とみたしろ」、7ねん整備せいび完了かんりょう 樹木じゅもく伐採ばっさい本来ほんらい姿すがた

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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