尼子あまこ 清きよし定じょう(あまご きよさだ)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから後期こうきにかけての武将ぶしょう。出雲いずも国こく守護しゅご代だい、月山がっさん富田とみた城しろ主あるじ[1]。尼子あまこ氏し3代だい当主とうしゅ。
尼子あまこ氏しは佐々木ささき氏しの傍流ぼうりゅうにあたる京極きょうごく氏しの分家ぶんけ。応おう永ひさし17年ねん(1410年ねん)、尼子あまこ持久じきゅうの子ことして誕生たんじょう[1]。主君しゅくん・京極きょうごく持もち清きよしより偏へん諱いみなを受うけて清せい定じょう[4]と名乗なのる。
父ちちから出雲いずも守護しゅご代だいを引ひき継ついだのは応仁おうにん元年がんねん(1467年ねん)頃ごろとみられる。応仁おうにんの乱らん勃発ぼっぱつにより守護しゅご・京極きょうごく氏しの支配しはいが急速きゅうそくに衰退すいたい、松田まつだ氏しや三沢みさわ氏しら国人くにびと領主りょうしゅに反はん京極きょうごく氏しの気運きうんが巻まき起おこったが清せい定じょうはこれを鎮圧ちんあつ、山名やまな氏しの出雲いずも侵入しんにゅうを撃退げきたいした。この勲功くんこうにより持じ清きよから能義のぎ郡ぐん奉行ぶぎょう職しょくや幕府ばくふ御料ごりょう所しょである美保関みほのせき代官だいかん職しょくを与あたえられる。文明ぶんめい元年がんねん(1469年ねん)から3年ねん(1471年ねん)にかけて出雲いずも国こく大原おおはら郡ぐん[5]、美保関みほのせき[6]、伊い難波なんば城じょう[7]で争あらそう。
清せい定じょうは出雲いずも東部とうぶでの勢力せいりょくを強つよめ、文明ぶんめい6年ねん(1474年ねん)頃ごろから公用こうよう銭ぜにの上納じょうのうを怠おこたるなど(美保関みほのせきの公用こうよう銭ぜに5万まん疋のうち1万まん疋を5年間ねんかん免除めんじょするよう京極きょうごく政経せいけいと取とり決きめた[8])、独立どくりつの動うごきを見みせるようになる。文明ぶんめい8年ねん(1476年ねん)出雲いずも能義のぎ郡ぐん土ど一揆いっきを鎮圧ちんあつする[9]。文明ぶんめい11年ねん(1479年ねん)嫡男ちゃくなん経久つねひさに京極きょうごく政経せいけいから能義のぎ郡ぐん利弘としひろ、下した今津いまづ、意宇いう郡ぐん阿おもね陀加江こう、竹内たけうちが安堵あんどされる[10]。
長ちょう享とおる元年がんねん(1488年ねん)死去しきょ、享年きょうねん78。
晩年ばんねんの記録きろくは少すくないが、『雲くも陽ひ軍ぐん実記じっき』には「牢ろう人じんの身みとなり、漂泊ひょうはく流浪るろうのうちに病死びょうしす」とある。