(Translated by https://www.hiragana.jp/)
山名満幸 - Wikipedia

山名やまな満幸みつゆき

室町むろまち時代じだい武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう丹後たんご出雲いずも隠岐おき伯耆ほうき守護しゅご山名やまなの4なん

山名やまな 満幸みつゆき(やまな みつゆき、生年せいねんしょう - おうひさし2ねん3がつ10日とおか1395ねん3月31にち))は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう丹後たんご出雲いずも隠岐おき伯耆ほうき守護しゅご山名やまなよしの4なんで、義幸よしゆきおとうとつま叔父おじ山名やまな氏清うじきよむすめかんしょう播磨はりままもる弾正だんじょうしょう室町むろまち幕府ばくふだい3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつよりへんいみなたま満幸みつゆき名乗なのる。

概要がいよう

編集へんしゅう

ちち山名やまな惣領そうりょうであったが、天授てんじゅ2ねん/永和えいわ2ねん1376ねん)の死後しご長兄ちょうけい山名やまな義幸よしゆきではなく惣領そうりょう叔父おじどきよしがなったことにつよ不満ふまんいていた。 義幸よしゆきした守護しゅごだいとしてはたらいていたが、義幸よしゆきやまい療養りょうようのためくにもとの所領しょりょうしたこくするとりゅう家系かけいちょうとなり室町むろまち幕府ばくふ出仕しゅっし弘和ひろかず元年がんねん/えいいさお元年がんねん1381ねん)に丹後たんご出雲いずも隠岐おきの3ヶ国かこくだい守護しゅごとなる。 

幕府ばくふにおいてはさむらいしょ所司しょし長官ちょうかん)に就任しゅうにん活躍かつやくした。

もとなか6ねん/かんおう元年がんねん1389ねん)、ときぼっしてそのどきひろし惣領そうりょうぐことになると、山名やまな義幸よしゆき地位ちい継承けいしょう山名やまな嫡流ちゃくりゅう血筋ちすじ自認じにんする満幸みつゆき不満ふまん頂点ちょうてんたっした。

よくもとなか7ねん/明徳めいとく元年がんねん1390ねん)、将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつめいじられて叔父おじしゅうと氏清うじきよともに、とき熙およびその義兄弟ぎきょうだいとき養子ようし)となっていた次兄じけい勝利しょうりした。そのこうにより領国りょうごく伯耆ほうきあたえられた。これにより4ヵ国かこく守護しゅご兼任けんにんする満幸みつゆき勢力せいりょく山名やまなちゅう最大さいだいとなり、自他じたともにみとめる惣領そうりょう地位ちいいたかにみえた。

しかしよくもとなか8ねん/明徳めいとく2ねん1391ねん)11月、ぶんこく出雲いずも仙洞せんとうりょう上皇じょうこう所領しょりょう横田よこたそう押領したという理由りゆう義満よしみつから守護しゅごしょく解任かいにんされ京都きょうとからも放逐ほうちくされた。さらにさき満幸みつゆきらが追討ついとうした山名やまなひろし復帰ふっき義満よしみつみとめるといううわさき、おこった満幸みつゆき氏清うじきよぶんくに和泉いずみたずねてさそい、ともに室町むろまち幕府ばくふたたかやくちかう。12月、山名やまなぐん丹波たんば挙兵きょへいして京都きょうとむが、幕府ばくふぐん応戦おうせんによりやぶれて氏清うじきよ戦死せんしし、満幸みつゆき山陰さんいんのがれた(明徳めいとくらん)。

その満幸みつゆき剃髪ていはつしてそうになり一旦いったん九州きゅうしゅう筑紫つくしまでげるが、おうひさし2ねん1395ねん)、京都きょうと五条ごじょう坊門ぼうもん高倉たかくら潜伏せんぷくしていたところを出雲いずも守護しゅご京極きょうごくだかかいによりらえられ、られた。満幸みつゆきによりふたた嫡流ちゃくりゅうりゅうから、ときりゅうときひろしおよびその子孫しそん惣領そうりょうけんうつった。

明徳めいとく』には、満幸みつゆき怯懦きょうだ性格せいかくであると批難ひなんされている。

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう