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侍所 - Wikipedia

さむらいしょ(さむらいどころ)は、鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふにおいて、軍事ぐんじ警察けいさつになった組織そしき

さむらいしょふるく「さぶらいどころ」ともいわれ、「さむらい(さぶら)い」、すなわち貴人きじんはたひかえ、家政かせい仕切しきったり、その身辺しんぺん警護けいごする従者じゅうしゃ詰所つめしょという意味いみであった。平安へいあん時代じだい末期まっきには親王しんのう内親王ないしんのう摂関せっかん邸宅ていたくかれ、家人かじん東国とうごく武士ぶしなどが常駐じょうちゅうした。

鎌倉かまくら幕府ばくふ職務しょくむ

編集へんしゅう

鎌倉かまくら幕府ばくふ将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともしたに、さむらいしょ公文こうぶんしょ(のち、政所まんどころ)・といちゅうしょみっつの機構きこうき、さむらいしょさむらい御家人ごけにん)を統率とうそつする機構きこうで、いまう、警察けいさつ役割やくわり戦時せんじにおける軍令ぐんれい司令しれい役割やくわりで、軍事ぐんじ警備けいび罪人ざいにん収監しゅうかんなどをおこなった。

所司しょし(しょし)またはさむらい所司しょし(さむらいどころのつかさ)とばれる役職やくしょくについた有力ゆうりょく御家人ごけにん統制とうせいし、所司しょしなか最高さいこうもの別当べっとう(べっとう)とばれた。鎌倉かまくら幕府ばくふさむらいしょみなもと頼朝よりともによってうけたまわ4ねん1180ねん)に設置せっちされ、別当べっとうはじ和田わだ義盛よしもりらがつとめたが、和田わだ合戦かっせんにより義盛よしもりたれると、以後いご執権しっけん北条ほうじょう別当べっとうね、所司しょし北条ほうじょう家令かれい長崎ながさきがほぼ世襲せしゅうしている。

もとたいら政権せいけんにおいて伊藤いとう忠清ただきよ坂東ばんどうはちこく武士ぶし統率とうそつする「さむらい別当べっとう」ににんじられたのに対応たいおうして、和田わだ義盛よしもり頼朝よりとも嘱望しょくぼうしたとするいいわれがある(『のべけいほん平家へいけ物語ものがたり』『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん11月17にちじょう)。このはなし事実じじつとするならば、貴族きぞく家政かせい機関きかんであるさむらいしょとはことなるながれのなか成立せいりつした可能かのうせいたか[1]。その頼朝よりとも地位ちい上昇じょうしょうとも家政かせい機関きかんとしてのさむらいしょ要素ようそくわわるようになり、たてひさ年間ねんかんには別当べっとうである和田わだ義盛よしもり家政かせい機関きかん部分ぶぶんふくめた軍事ぐんじ全般ぜんぱんを、所司しょしである梶原かじはら景時かげとき鎌倉かまくら幕府ばくふ組織そしき根幹こんかんともえる御家人ごけにん統制とうせいおこなうようになる[2]。しかし、ちがながれをむ2つの組織そしき結合けつごうともえるさむらいしょ組織そしき不完全ふかんぜんなものであり、さむらいしょ職掌しょくしょう整理せいりはかられて内部ないぶ分業ぶんぎょうすすむのは、景時かげとき義盛よしもり失脚しっきゃくするたてたもつ6ねん1218ねん以降いこうのこととなった[3]

室町むろまち幕府ばくふ職務しょくむ

編集へんしゅう

たてたけし3ねん1336ねん)、鎌倉かまくら幕府ばくふ組織そしきなら政所まんどころ(まんどころ)、といちゅうしょとともに設置せっちされる。初期しょき室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ実弟じってい直義ただよしの2とう体制たいせいであったが、さむらいしょあたまじん足利あしかが執事しつじ高師直こうのもろなおあににあたる高師泰こうのもろやすであることから、さむらいしょ将軍しょうぐん直轄ちょっかつ機関きかんであったとかんがえられている。

鎌倉かまくら幕府ばくふおなじく御家人ごけにん武士ぶし統率とうそつおも職務しょくむであり、けんだんところつとむ沙汰さた関係かんけいなどは附属ふぞくされたけんだんかたにおいておこなわれていたが、徐々じょじょさむらいしょ移管いかんしていく。2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきら時代じだいには、検非違使けびいしちょう職務しょくむさむらいしょうつり、山城やましろ全体ぜんたい治安ちあん維持いじおこな市中しちゅう警察けいさつけん徴税ちょうぜいけん掌握しょうあくしている。3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ時代じだいには山城やましろ守護しゅごべつかれ、さむらいしょ純粋じゅんすい京都きょうと室町むろまち殿どの直轄ちょっかつりょうとして管轄かんかつする機関きかんとなる。おうひさし5ねん1398ねん)からは、赤松あかまつ一色いっしき京極きょうごく山名やまな交代こうたい所司しょしつとめ、所司しょし家臣かしん所司代しょしだいつとめるようになり、これらのよんよんしょく(ししき)とばれた。

所司しょしまたはあたまじん(とうにん)などとばれる役職やくしょく統率とうそつし、所司代しょしだい(しょしだい)が所司しょし補佐ほさした。さむらいしょ軍事ぐんじりょく所司しょしつとめる大名だいみょう兵力へいりょく依存いぞんするところがおおきく、実際じっさいには所司しょし重臣じゅうしんにんじられた所司代しょしだいがその指揮しきにあたった。一揆いっき鎮圧ちんあつなどだい規模きぼ軍事ぐんじりょくようする場合ばあいには大名だいみょう権門けんもん協力きょうりょくあおいだ[4]実務じつむ処理しょり奉行ぶぎょうじんおこない、下級かきゅう役人やくにんとしてしょう舎人とねり雑色ざっしょくなどが編成へんせいされた。事務じむかたとしてひらき(かいこう)がかれ、監察かんさつやくである取調とりしらべかん相当そうとうする寄人よりうど(よりうど)などがいた。

しかし、室町むろまち末期まっきから戦国せんごく時代じだいにかけては所司しょし所司代しょしだいかれず、幕府ばくふ奉行ぶぎょうじんである松田まつだ飯尾いいおのいずれかがひらけ闔として所司しょし所司代しょしだいわりにさむらいしょ指揮しきった。ひらき闔はさむらいしょ責任せきにんしゃとして在京ざいきょう義務付ぎむづけられ、京都きょうと治安ちあん維持いじ禁獄きんごく管理かんり将軍しょうぐん権門けんもんによるけんだんかんする助言じょげんなどをおこなった。また、ひらき闔は室町むろまち中期ちゅうき以降いこう京都きょうと周辺しゅうへんさむらいうで自信じしんがある浮浪ふろうしゃなどを傘下さんかくわえて独自どくじ軍事ぐんじりょくつようになり、応仁おうにんらん以降いこう所司しょし軍事ぐんじりょくによる支援しえん期待きたいできなくなると、ひらき闔の被官ひかんさむらいしょ職員しょくいんとともに治安ちあん維持いじ従事じゅうじした。また、ひらき闔の軍事ぐんじりょくはそのまま足利あしかが将軍家しょうぐんけ軍事ぐんじりょく一翼いちよくになっており、当時とうじ記録きろく[5]よりおよそ200-300にん程度ていど動員どういんできたと推定すいていされる[6]

さむらいしょあたまじん

編集へんしゅう
就任しゅうにんしゃ 在任ざいにん期間きかん
三浦みうらさだれん 1336ねん
佐々木ささきなかおや 1336ねん
高師泰こうのもろやす 1336ねん
三浦みうらだかままし 1337ねん
みなみむねままし 1338ねん - 1339ねん
細川ほそかわかず 1340ねん
細川ほそかわあらわ 1340ねん - 1344ねん
仁木にき義長よしなが 1344ねん
山名やまな 1345ねん
細川ほそかわあらわ 1346ねん
仁木にきよりゆきあきら 1350ねん
細川ほそかわよりゆきはる 1352ねん
京極きょうごくしげるつな 1352ねん
土岐とき頼康よりやす 1353ねん - 1354ねん
佐竹さたけよしあつし 1354ねん - 1357ねん
京極きょうごく高秀たかひで 1357ねん - 1363ねん
土岐ときただし 1364ねん - 1365ねん
斯波しばよししゅ 1365ねん - 1366ねん
仁木にきよりゆきなつ 1366ねん
今川いまがわ貞世さだよ 1366ねん - 1367ねん
今川いまがわこくやすし 1368ねん
土岐とき康行やすゆき 1369ねん
京極きょうごく高秀たかひで 1370ねん - 1372ねん
土岐とき義行よしゆき 1373ねん
今川いまがわこくやすし 1373ねん
細川ほそかわ頼元よりもと 1373ねん - 1375ねん
山名やまなよし 1375ねん
畠山はたけやま基国もとくに 1376ねん
山名やまな氏清うじきよ 1377ねん
今川いまがわ泰範やすのり 1378ねん
山名やまな義幸よしゆき 1378ねん - 1379ねん
土岐ときかいじき 1380ねん
一色いっしょくかいはん 1381ねん - 1383ねん
山名やまなよし 1384ねん - 1385ねん
土岐とき満貞みつさだ 1385ねん
山名やまなよし 1386ねん
赤松あかまつ義則よしのり 1388ねん
土岐とき満貞みつさだ 1388ねん - 1389ねん
赤松あかまつ義則よしのり 1389ねん - 1391ねん
畠山はたけやま基国もとくに 1392ねん - 1394ねん
京極きょうごくだかかい 1394ねん - 1398ねん
赤松あかまつ義則よしのり 1399ねん - 1402ねん
土岐ときよりゆきえき 1403ねん - 1403ねん
京極きょうごくぼう 1403ねん
一色いっしょくぼう 1405ねん - 1406ねん
赤松あかまつ義則よしのり 1406ねん - 1408ねん
京極きょうごく高光たかみつ 1409ねん
赤松あかまつ満祐みつすけ 1411ねん - 1413ねん
山名やまな 1414ねん
一色いっしきよしぬき 1414ねん - 1421ねん
京極きょうごくだかすう 1421ねん - 1428ねん
赤松あかまつ満祐みつすけ 1428ねん - 1432ねん
一色いっしきよしぬき 1432ねん - 1436ねん
赤松あかまつ満祐みつすけ 1438ねん
土岐ときえき 1439ねん
山名やまなもちゆたか 1440ねん - 1441ねん
京極きょうごくもちきよし 1441ねん - 1447ねん
一色いっしょくきょうおや 1447ねん - 1449ねん
京極きょうごくもちきよし 1449ねん - 1466ねん
赤松あかまつ政則まさのり 1471ねん - 1483ねん
京極きょうごくざいむね 1485ねん

年表ねんぴょう

編集へんしゅう
れき 西暦せいれき 月日つきひ
旧暦きゅうれき
内容ないよう 出典しゅってん
うけたまわ4ねん 1180ねん 11月17にち みなもと頼朝よりとも和田わだ義盛よしもりまえからのぞんでいたさむらいしょ別当べっとうにんじる。 吾妻あづまきょう
たてひさ2ねん 1191ねん 1がつ15にち 梶原かじはら景時かげとき所司しょしつとめている。 吾妻あづまきょう
たてひさ3ねん 1192ねん 7がつ26にち みなもと頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられ、鎌倉かまくら幕府ばくふひらかれる。 吾妻あづまきょう
たてひさ5ねん 1194ねん 5月24にち 大友おおとものうじき義盛よしもり景時かげとき故障こしょうがあったさい代理だいりめいじられる。 吾妻あづまきょう
たてひさ6ねん 1195ねん 3月12にち 東大寺とうだいじ供養くようおこなわれ、さむらい所司しょし義盛よしもり景時かげときらは警備けいびめいじられる。 吾妻あづまきょう
正治しょうじ元年がんねん 1199ねん 1がつ13にち みなもと頼朝よりともくなる。  
正治しょうじ元年がんねん 1199ねん   景時かげとき鎌倉かまくら追放ついほうされる。  
正治しょうじ2ねん 1200ねん 1がつ20日はつか 梶原かじはら景時かげときへんにより景時かげときたれる。 吾妻あづまきょう
正治しょうじ2ねん 1200ねん 2がつ5にち 別当べっとう就任しゅうにんしていた景時かげときわり義盛よしもり再任さいにんされる。 吾妻あづまきょう
けんれき2ねん 1212ねん 6月7にち さむらいしょ宿直しゅくちょくによる乱闘らんとうこりめいくなる。 吾妻あづまきょう
けんれき3ねん 1213ねん 5月3にち 和田わだ合戦かっせんにより義盛よしもりたれる。 吾妻あづまきょう
5月5にち 北条ほうじょうよしとき別当べっとう就任しゅうにんする。 吾妻あづまきょう
5月6にち きむくぼこうおや所司しょし就任しゅうにんする。 吾妻あづまきょう
たてたもつ6ねん 1218ねん 7がつ22にち 所司しょしに5にん就任しゅうにんする。北条ほうじょうやすしとき別当べっとう就任しゅうにんし、二階堂にかいどうこうむら三浦みうらよしむららととも御家人ごけにんあつかう。大江おおえのうはん将軍しょうぐん外出がいしゅつやしきない雑事ざつじ伊賀いがひかりむね御家人ごけにん随行ずいこうへの督促とくそくおこなう。 吾妻あづまきょう
安貞やすさだ2ねん 1228ねん 12月29にち 来年らいねん将軍家しょうぐんけ参詣さんけい随行ずいこうする御家人ごけにん一覧いちらんあたえられ、督促とくそく指示しじされる。 吾妻あづまきょう
こよみひとし2ねん 1239ねん 5月2にち 所司しょしくだりおやが、訴訟そしょうつみとがめられた御家人ごけにんあずかる。 吾妻あづまきょう
じん2ねん 1241ねん 6月16にち 罪人ざいにん逃走とうそうさんヶ月かげつぎれば、その財産ざいさん寺社じしゃ修理しゅうりもちいること議定ぎていされ、その周知しゅうちめいじられる。 吾妻あづまきょう
けんちょう6ねん 1254ねん 10がつ10日とおか 鎌倉かまくらしょ機関きかん怠慢たいまん問題もんだいとなり、さむらいしょにおいてもしょう舎人とねり鎌倉かまくらないでの騎乗きじょう禁止きんしされる。 吾妻あづまきょう
せいよしみ2ねん 1258ねん 3月1にち 平三郎へいざぶろう左衛門さえもんじょう盛時せいじ所司しょしつとめている。 吾妻あづまきょう
よしみもと3ねん 1305ねん 4~5がつ 北条ほうじょう貞時さだときさむらいしょ代官だいかんつとめている。 れきあいだ
もととく2ねん 1330ねん 5がつ10日とおか 幕府ばくふへの謀反むほんくわだてた日野ひのあさ日野ひのしゅんもとが、普通ふつう罪人ざいにん同様どうようさむらいしょへとあづけられる。 太平たいへい
元弘もとひろ3ねん 1333ねん 5月 鎌倉かまくら幕府ばくふほろびる。  
たてたけし3ねん 1336ねん   中国ちゅうごくめをおこなった新田にった義貞よしさだぐんさむらいしょ長浜ながはまつとめており、降伏ごうぶくしてきた足利あしかがぐん美濃みのけんかいおもっている。 太平たいへい
こよみおう元年がんねん 1338ねん 8がつ 足利尊氏あしかがたかうじ征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられ、室町むろまち幕府ばくふひらかれる。  
こよみおう元年がんねん 1338ねん   幕府ばくふ権力けんりょく掌握しょうあくし、さむらいしょ五摂家ごせっけから賄賂わいろおくられるようになる。 太平たいへい
かんひさし元年がんねん 1342ねん   9月ののちさむらいしょ細川ほそかわあらわが、ひかりげん上皇じょうこう牛車うしぐるま射掛いかけた土岐ときよりゆきとお処刑しょけいめいじられ執行しっこうする。 太平たいへい
興国こうこく6ねん
かんひさし4ねん
1345ねん 8がつ29にち さむらいしょ山名やまなが、後醍醐天皇ごだいごてんのうとむら天龍寺てんりゅうじ法要ほうようへの行列ぎょうれつ先導せんどうしている。 太平たいへい
正平しょうへい7ねん
かんおう3ねん
1352ねん 2がつ27にち さむらいしょ細川ほそかわよりゆきはるが、きょうはいった南朝なんちょうぐんたれる。 太平たいへい
正平しょうへい8ねん
文和ふみかず2ねん
1353ねん   さむらいしょ佐々木ささきしげるつなが、南朝なんちょうきょうわれひがし近江おうみへとのがれる北朝ほくちょう幕府ばくふ警護けいごたっていたところ堀口ほりぐち貞祐ていゆうたれる。 太平たいへい
正平しょうへい16ねん
かんやすし元年がんねん
1361ねん 12月2にち さむらいしょ佐々木ささき高秀たかひでが、摂津せっつ南朝なんちょう細川ほそかわきよしたいする。 太平たいへい
かんやすし元年がんねん

貞和さだかず4ねん
    都筑つづき入道にゅうどう所司代しょしだいつとめており、きょう潜伏せんぷく幕府ばくふへの夜襲やしゅう計画けいかくしていた三宅みやけ高徳たかのり一派いっぱつ。 太平たいへい
貞治さだはる6ねん 1367ねん 3月29にち さむらいしょ今川いまがわ貞世さだよが、清涼せいりょう殿どのひらかれた歌会うたかい警備けいびする。 太平たいへい
おうひさし2ねん 1395ねん 3がつ10日とおか 所司しょし京極きょうごくだかかいが、明徳めいとくらんやぶきょう五条ごじょう坊門ぼうもん高倉たかくら潜伏せんぷくしていた山名やまな満幸みつゆきつ。  

その吾妻あづまきょうには宴会えんかいおこなわれた、荷物にもつかれたなどの記述きじゅつもある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 滑川なめかわ元木もとき)、2020ねん、P263-264.
  2. ^ 滑川なめかわ元木もとき)、2020ねん、P264-277.
  3. ^ 滑川なめかわ元木もとき)、2020ねん、P277-278.
  4. ^ 木下きのした、2014ねん、P137-145
  5. ^ げんつぎきょうだいなが7ねん10がつ24にちじょうさむらいしょひらき闔松田頼たよりきょう足利あしかが義晴よしはる出陣しゅつじんへい200をひきいてしたがったこと、どう天文てんもん14ねん6がつ17にちじょう祇園祭ぎおんまつりさい発生はっせいした喧嘩けんかさわぎをさむらいしょひらき松田まつだもりしげる対馬つしまもり)が300にん動員どういんして鎮圧ちんあつしたことがしるされている
  6. ^ 木下きのした、2014ねん、P145-159

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 滑川なめかわ敦子あつこ鎌倉かまくら幕府ばくふさむらいしょ成立せいりつ過程かていについて」元木もとき泰雄やすお へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ制度せいど』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2020ねんISBN 978-4-642-02966-7
  • 木下きのしたあきらぶんまわし戦国せんごくさむらいしょひらき闔の基礎きそてき研究けんきゅう」(初出しょしゅつ:『戦国せんごく研究けんきゅう』52ごう、2006ねん/加筆かひつ所収しょしゅう:木下きのした戦国せんごくさむらいしょ基礎きそてき研究けんきゅう」『戦国せんごく足利あしかが将軍家しょうぐんけ権力けんりょく構造こうぞう岩田いわた書院しょいん、2014ねん ISBN 978-4-87294-875-2

関連かんれん項目こうもく

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