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泉涌寺 - Wikipedia

泉涌寺せんにゅうじ

京都きょうと東山ひがしやま泉涌寺山内せんにゅうじやまのうちまちにある真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじ総本山そうほんざん寺院じいん

泉涌寺せんにゅうじ(せんにゅうじ)は、京都きょうと東山ひがしやま泉涌寺山内せんにゅうじやまのうちまちにある真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじ総本山そうほんざん寺院じいん山号さんごう東山ひがしやま(とうざん)または泉山いずみやま(せんざん)。本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい阿弥陀如来あみだにょらい弥勒みろく如来にょらいさんせいほとけ皇室こうしつ菩提寺ぼだいじ皇室こうしつ香華こうげいん)として御寺おてら(みてら)とばれている。楊貴妃ようきひ観音堂かんのんどう本尊ほんぞん楊貴妃ようきひ観音かんのん)は洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい20ばん札所ふだしょ

泉涌寺せんにゅうじ
仏殿ぶつでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま泉涌寺山内せんにゅうじやまのうちまち27
位置いち 北緯ほくい3458ふん41びょう 東経とうけい13546ふん49.2びょう / 北緯ほくい34.97806 東経とうけい135.780333 / 34.97806; 135.780333座標ざひょう: 北緯ほくい3458ふん41びょう 東経とうけい13546ふん49.2びょう / 北緯ほくい34.97806 東経とうけい135.780333 / 34.97806; 135.780333
山号さんごう 東山ひがしやま(とうざん)
泉山いずみやま(せんざん)
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじりつむね泉涌寺せんにゅうじりゅう天台てんだい密教みっきょうりつ禅宗ぜんしゅう浄土じょうど兼学けんがく道場どうじょう
寺格じかく 総本山そうほんざん
由緒ゆいしょ寺院じいん
関東かんとう祈祷きとうしょかんてら勅願ちょくがんてら
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
阿弥陀如来あみだにょらい
弥勒みろく如来にょらい
創建そうけんねん つてひとし3ねん856ねん
開山かいさん つてかみおさむ
開基かいき つて藤原ふじわらいとぐち
正式せいしきめい 泉山いずみやま泉涌寺せんにゅうじ
別称べっしょう 御寺おてら(みてら)、御寺おてら泉涌寺せんにゅうじ
東山ひがしやまいずみ涌律てら
月輪山つきのわやま
法輪寺ほうりんじ林寺はやしじ拜志はいしてら拝志はいしてら)、仙遊せんゆうてら
札所ふだしょとう 洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい20ばん
真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざんだい8ばん
京都きょうとじゅうさんふつ霊場れいじょうだい6ばん
泉山いずみやま七福神しちふくじんめぐ番外ばんがい
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい121ばん京都きょうとだい41ばん
文化財ぶんかざい 泉涌寺せんにゅうじすすむえん疏、ほうじょう国宝こくほう
仏殿ぶつでん大門だいもん開山かいさんどうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 御寺おてら 泉涌寺せんにゅうじ
法人ほうじん番号ばんごう 2130005002225 ウィキデータを編集
泉涌寺の位置(京都市内)
泉涌寺
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平安へいあん時代じだい弘法大師こうぼうだいし空海くうかい草創そうそうしたとつたわるが、実質じっしつてき開山かいさん鎌倉かまくら時代ときよ月輪げつりん大師だいししゅん(がちりんだいししゅんじょう)で、天台てんだいあずまひそか禅宗ぜんしゅう浄土じょうどよんむね兼学けんがく道場どうじょうとして再興さいこうした[1]東山ひがしやまいちほうである月輪山つきのわやまふもとひろがるてら域内いきないには、鎌倉かまくら時代じだいこう堀河ほりかわ天皇てんのう四条しじょう天皇てんのう、および江戸えど時代じだい後水尾天皇ごみずのおてんのうから孝明天皇こうめいてんのういた天皇陵てんのうりょうがあり、れいあきら殿どのには歴代れきだい天皇てんのう皇后こうごう皇族こうぞくみことぱい位牌いはい)が奉安ほうあんされている。

仁和寺にんなじ大覚寺だいかくじなどととも皇室こうしつゆかりの寺院じいんとしてられるが、草創そうそう時期じき事情じじょうについてはあまりあきらかではない。伝承でんしょうによれば、ひとし3ねん856ねん)、藤原ふじわらしきながれをくむ左大臣さだいじん藤原ふじわらいとぐちが、みずからの山荘さんそうかみおさむ上人しょうにん開山かいさんとして創設そうせつ当初とうしょ法輪寺ほうりんじしょうし、のち仙遊せんゆうてらあらためたという。なお、『ぞく日本にっぽん』によれば藤原ふじわらいとぐち嗣はうけたまわ10ねん843ねん)にぼっしているので、上述じょうじゅつ伝承でんしょうしんじるとすれば、藤原ふじわらいとぐち嗣の遺志いしもとづき、菩提寺ぼだいじとして建立こんりゅうされたということになる。

べつ伝承でんしょうひらけそうしゃ空海くうかいとする。すなわち、空海くうかいてんちょう年間ねんかん824ねん - 834ねん)、この草創そうそうした法輪寺ほうりんじ起源きげんであり、ひとし衡2ねん855ねん藤原ふじわらいとぐち嗣によって再興さいこうされ、仙遊せんゆうてらあらためたとするものである。空海くうかいによる草創そうそう年代ねんだい大同だいどう2ねん807ねん)とする伝承でんしょうもあり、この寺院じいんこうこん熊野くまの観音寺かんおんじ泉涌寺山内せんにゅうじやまのうちにあり、西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい15ばん札所ふだしょ)となったともいう。以上いじょう伝承でんしょう総合そうごうすると、平安へいあん時代じだい初期しょき草創そうそうされた前身ぜんしん寺院じいん平安へいあん時代じだい後期こうきには荒廃こうはいしていたのを、鎌倉かまくら時代じだい再興さいこうしたものとおもわれる。

 
月輪げつりん大師だいししゅん

鎌倉かまくら時代じだいたてたもつ6ねん1218ねん)、宇都宮うつのみや信房のぶふさ荒廃こうはいしていた仙遊せんゆうてらしゅん寄進きしんしゅん芿はおおくの人々ひとびと寄付きふてこのだい伽藍がらん造営ぞうえいし、よしみろく2ねん1226ねん)に主要しゅよう伽藍がらん完成かんせいさせた。そのさい霊泉れいせんいたので、寺号じごう泉涌寺せんにゅうじとしたという(きゅう寺号じごうの「仙遊せんゆうてら」とおとつうずるてん注意ちゅうい)。宇都宮うつのみや信房のぶふさみなもと頼朝よりとも家臣かしんで、豊前ぶぜん守護しゅごにんじられた人物じんぶつであり、しゅん芿に帰依きえしていた。しゅん芿(1166ねん - 1227ねん)は肥後ひごこく出身しゅっしん学僧がくそうで、正治しょうじ元年がんねん1199ねんそうわたり、あしかけ13ねん滞在たいざい天台てんだいりつまなび、けんれき元年がんねん1211ねん日本にっぽん帰国きこくした。かれそうからおおくの文物ぶんぶつをもたらし、泉涌寺せんにゅうじ伽藍がらんすべそうふうつくられた。

泉涌寺せんにゅうじりつ北京ぺきんりつ)を中心ちゅうしんとして天台てんだいあずまひそか真言宗しんごんしゅう)、禅宗ぜんしゅう浄土じょうどよんむね兼学けんがく(またはりつふくめてむね兼学けんがくとも)の道場どうじょうとしてさかえた。

後鳥羽上皇ごとばじょうこう土御門つちみかど上皇じょうこう順徳じゅんとく上皇じょうこうこう高倉たかくらいんほか北条ほうじょう政子まさこ北条ほうじょうやすしときしゅん芿のした受戒じゅかいするなどそのいきおいはつよまり、さだおう3ねん1224ねん)にはこう堀河ほりかわ天皇てんのうにより皇室こうしつ祈願きがんてらさだめられ、じん3ねん1242ねん正月しょうがつには四条しじょう天皇てんのう葬儀そうぎおこなうまでになっている。こうした関係かんけいからのち堀河ほりかわ天皇てんのう四条しじょう天皇てんのう陵墓りょうぼ泉涌寺せんにゅうじないきずかれた。

このころから皇室こうしつとのむすきがよりつよまっていき、ついには南北なんぼくあさ時代じだい後光ごこうげん天皇てんのうからは歴代れきだい天皇てんのう葬儀そうぎいちおこなうまでになった。

応仁おうにん2ねん1468ねん)には応仁おうにんらん兵火へいかけてぜんやま焼失しょうしつしてしまうが、もなく復興ふっこうされた。天正てんしょう13ねん1585ねん)には豊臣とよとみ秀吉ひでよし寺領じりょう494せきみとめられる。いで、元和がんわ元年がんねん1615ねん)には徳川とくがわ家康いえやすにより寺領じりょう601せきみとめられた。

江戸えど時代じだいはいってからは皇室こうしつとの関係かんけいはより密接みっせつとなり、後水尾天皇ごみずのおてんのうから孝明天皇こうめいてんのういた歴代れきだい天皇てんのう皇后こうごう葬儀そうぎ一貫いっかんしておこなったほか、その陵墓りょうぼすべ境内けいだいにあり、「月輪げつりんりょう(つきのわのみさぎ)」、「後月しつきりょう(のちのつきのわのみささぎ)」、「後月しつき東山ひがしやまりょう(のちのつきのわのひがしのみささぎ)」としてきずかれてまつられている。月輪げつりんりょう後月しつきりょうには合計ごうけいで25のりょうと9つのはかがあり[2]後月しつき東山ひがしやまりょう孝明天皇こうめいてんのうりょうである[3]

泉涌寺せんにゅうじはこれらの皇室こうしつ陵墓りょうぼみことぱいたいしてこうをたき、はなそなえる香華こうげいんとなり、「御寺おてら(みてら)」と尊称そんしょうされている。明治めいじ政府せいふ神仏しんぶつ判然はんぜんれいにより、陵墓りょうぼすべみや内省ないせいしょりょうりょうげん宮内庁くないちょうしょりょう)の管理かんりかれることとなり、以後いご天皇てんのう皇后こうごう葬儀そうぎおこなうこともなくなったが、明治天皇めいじてんのう勅旨ちょくしにより、堂宇どうう営繕えいぜん修理しゅうりは、すべみや内省ないせいにおいて実施じっしされ、日常にちじょう経費けいひみことぱいたてまつまもるりょうとして下賜かしされていた[4]戦後せんご政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくさだめた日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより、国費こくひ支出ししゅつすることができなくなったことから、1966ねん昭和しょうわ41ねん)に三笠みかさみやたかしじん親王しんのう初代しょだい総裁そうさいとする「御寺おてら泉涌寺せんにゅうじまもかい」が有志ゆうしにより設立せつりつされ[5]現在げんざい秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう総裁そうさいつとめている[6]。また、天皇てんのう皇后こうごう京都きょうと行幸ぎょうこうけいするりには、参拝さんぱいするのが恒例こうれいとなっているほか[7]先帝せんていよんだい祥月命日しょうつきめいにちには、天皇てんのう代理だいりとして、宮内庁くないちょう京都きょうと事務所じむしょ職員しょくいんだいはいしている[8]

総門そうもんはいると、参道さんどう左右さゆうにいくつかの塔頭たっちゅう山内やまうち寺院じいん)がある。なが参道さんどうさきにある大門おおもんをくぐると、左手ひだりて楊貴妃ようきひ観音かんのんどうがあり、正面しょうめんには伽藍がらん中心ちゅうしんをなす仏殿ぶつでん舎利しゃり殿どのち、これらの背後はいごれいあきら殿どの御座所ござしょなど皇室こうしつゆかりの建築けんちくがあり、その背後はいご月輪げつりんりょうがある。

 
舎利しゃり殿どの
  • 舎利しゃり殿どの - 仏殿ぶつでん背後はいごつ。慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に京都きょうと御所ごしょ建物たてもの移築いちく改装かいそうしたもの。しゅん弟子でしたたえうみ安貞やすさだ2ねん1228ねん)にみなみそう時代じだいけいもと白蓮びゃくれんてらから請来しょうらいしたというふつきば舎利しゃり釈尊しゃくそん)を、ひろし2ねん1230ねん)に将来しょうらいされた韋駄てんぞうがつぶた長者ちょうじゃぞうとも重要じゅうよう文化財ぶんかざい)とともに安置あんちしている。天井てんじょうの「雲龍うんりゅう」は狩野かのさんゆきふで。「りゅう」ともばれる。御内おんうち左右さゆういたかべえがかれた十六羅漢じゅうろくらかんぞうだいろくだい木村きむらりょうみがくふで寛文ひろふみ8ねん(1668ねん)に完成かんせいした。
  • 庫裏くり - ほんぼう
  • 玄関げんかん
  • 御座所ござしょ - 仏殿ぶつでん舎利しゃり殿どの背後はいごつ。文化ぶんか15ねん1818ねん)に建立こんりゅうされ、現在げんざい建物たてものは、明治天皇めいじてんのう使用しようしていたきゅう御所ごしょさと御殿ごてん1884ねん明治めいじ17ねん)に移築いちくしたもので、女官にょかんあいだ門跡もんぜきあいだ皇族こうぞくあいだ侍従じじゅうあいだ勅使ちょくしあいだ玉座ぎょくざあいだなどがある。玉座ぎょくざあいだは、天皇てんのう皇后こうごうらいてらしたさい休息きゅうそくしょとして使用しようする部屋へやで、平成へいせい1989ねん - 2019ねん)にはいってからは、即位そくい報告ほうこく1990ねん)、平安へいあん建都けんと1200ねん記念きねん1994ねん)、在位ざいい10ねん報告ほうこく1999ねん)、譲位じょうい報告ほうこく(2019ねん)などのさい平成へいせい天皇てんのう泉涌寺せんにゅうじおとずれ、この部屋へや使用しようしている。今上きんじょう天皇てんのう即位そくい報告ほうこく(2019ねん)のさいにももちいられた。
 
御座所ござしょ庭園ていえん
  • 御座所ござしょ庭園ていえん
  • うみ会堂かいどう(かいえどう) - 御座所ござしょせっして土蔵どぞうづくり仏堂ぶつどう屋根やねたからがたづくりもと宮中きゅうちゅうにあった「黒戸くろど」(黒戸くろど御所ごしょ)を主体しゅたいとしたきょうあきらみや1868ねん明治めいじ元年がんねん)の神仏しんぶつ判然はんぜんれい発布はっぷに、1873ねん明治めいじ6ねん)3がつ移築いちくしたものである。かつての天皇てんのう皇后こうごう念持仏ねんじぶつまも本尊ほんぞん)を安置あんちしている。
  • 勅使ちょくしもん
  • ほんぼう表門おもてもん
  • れいあきら殿どの - 天智天皇てんぢてんのうから昭和しょうわ天皇てんのういた歴代れきだい天皇てんのう皇后こうごう長慶天皇ちょうけいてんのうこう亀山天皇かめやまてんのうのぞき、北朝ほくちょう天皇てんのうふくめ、後醍醐天皇ごだいごてんのう以前いぜん多数たすう脱落だつらくがある)のみことぱい位牌いはい)を安置あんちする。1882ねん明治めいじ15ねん)に焼失しょうしつし、現在げんざいれいあきら殿どのは、1884ねん明治めいじ17ねん)に明治天皇めいじてんのう勅命ちょくめいにより再建さいけんされた。入母屋いりもやづく桧皮葺ひわだぶで、外観がいかんは宸殿ふう建物たてものである。 1871ねん明治めいじ4ねん)に般舟いんなど京都きょうと府内ふないしょ寺院じいんにあったみことぱいがここにあつめられている[9]
    • れいあきら殿どのとうもん
  • 月輪げつりんりょうとうもん - 月輪げつりんりょう表門おもてもん月輪げつりんりょうについては後述こうじゅつ
  • 開山かいさんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - しゅん芿の墓所はかしょぬいとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)をおさめたしょうどう。なお、どうがい北側きたがわ石造せきぞうぬいとう2重要じゅうよう文化財ぶんかざいとなっている。このどう拝観はいかんするためには月輪げつりんりょうのすぐ手前てまえみぎ鉄柵てっさくとびらけて(かぎはかかっていない)ちゅうはい必要ひつようがある。
  • いけ
  • いずみ涌水わきみず屋形やかた京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 寛文ひろふみ8ねん(1668ねん)の再建さいけん天井てんじょうの「雲龍うんりゅう」は別所べっしょ如閑ひつ
 
れいあきら殿どの

月輪げつりんりょう

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歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞく陵墓りょうぼぐん皇室こうしつ財産ざいさんとして宮内庁くないちょう管理かんりしている。開山かいさんどうかうスロープの途中とちゅうから全景ぜんけい一望いちぼうできる。月輪げつりんりょうは「月輪げつりんりょう」と「後月しつきりょう」からなっている。これらのりょうまつられている歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくの25りょう・5灰塚はいつか・9はか以下いかとおり。

 
月輪げつりんりょう歴代れきだい天皇てんのうらの25りょう、5灰塚はいつか、9はかいとなまれている

別院べついん塔頭たっちゅう

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毎年まいとし1がつだい2月曜日げつようび成人せいじん)には、泉涌寺せんにゅうじ塔頭たっちゅうめぐり、ぶくささ縁起物えんぎものけていく「泉山いずみやま七福神しちふくじんめぐ」の行事ぎょうじおこなわれている。

楊貴妃ようきひ観音かんのん

編集へんしゅう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい楊貴妃ようきひ風貌ふうぼうをモデルにつくられた観音かんのん菩薩ぼさつ坐像ざぞうという伝承でんしょうがあり、楊貴妃ようきひ観音堂かんのんどう安置あんちされる。けんちょう7ねん1255ねんしゅん芿の弟子でしたたえうみ仏舎利ぶっしゃりともみなみそうから請来しょうらいしたものとされる。

ながらく100ねんいちだけ公開こうかいする秘仏ひぶつであったが、請来しょうらいから700ねん1955ねん昭和しょうわ30ねん)から一般いっぱん公開こうかいされている。作風さくふう材質ざいしつなど、あきらかに日本にっぽん仏像ぶつぞうとは異質いしつで、てらでんどおりみなみそう時代じだいさくかんがえられている。

なお、舎利しゃり殿どの安置あんちされる木造もくぞう韋駄てん立像りつぞう木造もくぞうでんがつぶた長者ちょうじゃ(がつがいちょうじゃ)立像りつぞうみなみそう時代じだいさくであり、楊貴妃ようきひ観音かんのん菩薩ぼさつ坐像ざぞうとも1997ねん平成へいせい9ねん)、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

文化財ぶんかざい

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国宝こくほう

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  • 泉涌寺せんにゅうじすすむえん疏(かんえんそ) - しゅん芿筆。しゅん芿が、荒廃こうはいした前身ぜんしん寺院じいんを「泉涌寺せんにゅうじ」と改名かいめいして再興さいこうするため、人々ひとびと喜捨きしゃ寄付きふ)をつのるための趣意しゅいしょ泉涌寺せんにゅうじ建立こんりゅう起源きげんにかかわる歴史れきしじょう重要じゅうよう文書ぶんしょであるとともに、書道しょどう作品さくひんとしてもすぐれている。
  • ほうじょう - しゅん芿が前月ぜんげつ弟子でししんうみみずからのほういだ証明しょうめいとしてあたえたもの。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 仏殿ぶつでん
  • 大門だいもん
  • 開山かいさんどう
  • 開山かいさんとう石造せきぞうぬいとう
  • 石造せきぞうぬいとう 2
  • 絹本けんぽんちょ色道しきどうせん律師りっしげんあきら律師りっしぞうよしみじょうさんねんろうさん)・絹本けんぽんちょしょくしゅん芿律ぞうよしみろくさんねん自賛じさん
  • 絹本けんぽんちょしょく陽成ようぜいいんぞう 狩野かの孝信たかのぶふで
  • 木造もくぞう観音かんのん菩薩ぼさつ坐像ざぞう楊貴妃ようきひ観音かんのん:木造もくぞう韋駄てん立像りつぞう木造もくぞうでんがつぶた長者ちょうじゃ立像りつぞう - 詳細しょうさいは「楊貴妃ようきひ観音かんのんふし参照さんしょう
  • 太刀たち めい大和やまとのりちょう
  • 中御門天皇なかみかどてんのう宸翰しんかん大円だいえんさとしこころ照国てるくに師号しごう勅書ちょくしょ
  • 法華経ほけきょう 10かん泉涌寺せんにゅうじ雲龍うんりゅういん共有きょうゆう

京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 水屋みずやがた
  • 開山かいさんしゅん律師りっしぞう

境内けいだいには水屋みずやがた隣接りんせつして『枕草子まくらのそうし』の作者さくしゃである清少納言せいしょうなごんちち清原きよはらもと旧居きゅうきょで、清少納言せいしょうなごん晩年ばんねんごしたとされる月輪げつりん山荘さんそうにほどちか場所ばしょとして、1974ねん昭和しょうわ49ねん)に平安へいあん博物館はくぶつかん館長かんちょう角田つのだ文衞ふみえ発案はつあん百人一首ひゃくにんいっしゅられた「よるをこめて とりのそらは はかるとも よに逢坂おうさかせきはゆるさじ」の歌碑かひ建立こんりゅうされている。

解脱げだつかいとの関係かんけい

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泉涌寺せんにゅうじは、しん宗教しゅうきょう教団きょうだんである解脱げだつかいとのつながりがつよい。解脱げだつかい創始そうししゃ岡野おかのきよしけん諡号しごう解脱げだつ金剛こんごう)は、敗戦はいせんにより維持いじ運営うんえい困難こんなんをきたしていたどうてらたいする援助えんじょおこなった。ひじりけん死後しごどうてら境内けいだい埋葬まいそうされることを希望きぼうし、1954ねん昭和しょうわ29ねん)、ひじりけん遺骨いこつまつる「解脱げだつ金剛こんごう宝塔ほうとう」が境内けいだい建立こんりゅうされた。ひじりけん命日めいにちにあたる11月4にちには、「解脱げだつ金剛こんごうとしさい」がおこなわれるほか、毎月まいつき4にちひじりけんたいする法要ほうようおこなわれている。解脱げだつかい泉涌寺せんにゅうじを、伊勢神宮いせじんぐう橿原神宮かしはらじんぐうならさん聖地せいちさだめ、聖地せいち巡拝じゅんぱいとして毎年まいとし1,000にんほどが参列さんれつしている[10][11]

前後ぜんご札所ふだしょ

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洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう
19 泉涌寺せんにゅうじ塔頭たっちゅうこん熊野くまの観音寺かんおんじ - 20 泉涌寺せんにゅうじ - 21 法性寺ほっしょうじ
真言宗しんごんしゅうじゅうはち本山ほんざん
7 智積ちしゃくいん - 8 泉涌寺せんにゅうじ - 9 教王護国寺きょうおうごこくじ
京都きょうとじゅうさんふつ霊場れいじょう
5 大善寺だいぜんじ - 6 泉涌寺せんにゅうじ - 7 平等寺びょうどうじ
泉山いずみやま七福神しちふくじんめぐ
5 泉涌寺せんにゅうじ別院べついん雲龍うんりゅういん - 番外ばんがい 泉涌寺せんにゅうじほんぼう - 6 泉涌寺せんにゅうじ塔頭たっちゅう悲田院ひでんいん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
120 智積ちしゃくいん - 121 泉涌寺せんにゅうじ - 122 泉涌寺せんにゅうじ塔頭たっちゅういま熊野くまの観音寺かんおんじ

周辺しゅうへん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 泉涌寺せんにゅうじ”. コトバンク. 2021ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ 悠久ゆうきゅう天皇陵てんのうりょう】(36)ひかりかく天皇てんのう幕末ばくまつ 天皇てんのう権威けんい向上こうじょう産経新聞さんけいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん12月4にち社会しゃかいめん)。
  3. ^ 孝明天皇こうめいてんのう 月輪げつりん東山ひがしやまりょう宮内庁くないちょうホームページ(2019ねん4がつ14にち閲覧えつらん)。
  4. ^ 御寺おてら 泉涌寺せんにゅうじまもかい”. 泉涌寺せんにゅうじ公式こうしきHP. 2021ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  5. ^ 御寺おてら泉涌寺せんにゅうじまもかい”. 御寺おてら泉涌寺せんにゅうじまもかい 公式こうしきホームページ. 御寺おてら泉涌寺せんにゅうじまもかい. 2021ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  6. ^ 秋篠宮あきしののみやさまりつ皇嗣こうしれい泉涌寺せんにゅうじ慶祝けいしゅく法要ほうよう. 中外ちゅうがい日報にっぽう (中外ちゅうがい日報にっぽうしゃ). (2020ねん11月11にち). https://www.chugainippoh.co.jp/article/news/20201111-001.html/ 2021ねん1がつ19にち閲覧えつらん 
  7. ^ られざる皇室こうしつ伝統でんとう行事ぎょうじから宮内庁くないちょう仕事しごとまで. 株式会社かぶしきがいしゃ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ. (2010ねん1がつ30にち) 
  8. ^ 尾藤びとう克之かつゆき (2019ねん3がつ27にち). “しん元号げんごう」のしん意味いみとは? 天皇てんのう菩提寺ぼだいじ御寺みてら泉涌寺せんにゅうじいた”. オトナンサー. メディア・ヴァーグ. 2021ねん2がつ5にち閲覧えつらん
  9. ^ 泉涌寺せんにゅうじ 本文ほんぶんへん法蔵館ほうぞうかん、1984ねん 
  10. ^ 井上いのうえじゅんこう世界せかい宗教しゅうきょう百科ひゃっか事典じてん丸善まるぜん出版しゅっぱん、2012ねん12月、426ぺーじ 
  11. ^ 解脱げだつ金剛こんごうとしさい”. 解脱げだつかい. 2016ねん6がつ5にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう田中たなか澄江すみえ小松こまつみちえんちょ古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと28 泉涌寺せんにゅうじあわ交社、1978ねん
  • 竹村たけむら俊則としのり昭和しょうわ京都きょうと名所めいしょ図会ずえ らく東上とうじょう駸々しんしんどう、1980ねん
  • 久能くのうやすしられざる皇室こうしつ伝統でんとう行事ぎょうじから宮内庁くないちょう仕事しごとまで』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2019ねん
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』71ごう豊国とよくに神社じんじゃほか)朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • 皇室こうしつ事典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん皇室こうしつ事典じてん れいばん』KADOKAWA、2019ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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