(Translated by https://www.hiragana.jp/)
楊貴妃 - Wikipedia

楊貴妃ようきひ

中国ちゅうごくとうだいすめらぎ

とうと(よう きひ、ヤン・グイフェイ)は、中国ちゅうごくとうだいすめらぎせいは楊、たまたまきすめらぎとしての順位じゅんいあらわ称号しょうごうげんむね皇帝こうてい寵姫ちょうきげんむね皇帝こうてい寵愛ちょうあいしすぎたために安史やすしらんこしたとつたえられたため、傾国けいこく美女びじょばれている。世界せかいさんだい美人びじん一人ひとり古代こだい中国ちゅうごくよんだい美人びじん西にしほどこせ王昭君おうしょうくんてんせみ楊貴妃ようきひ)の一人ひとりとされている。壁画へきがとう類推るいすいから、当時とうじ美女びじょ基準きじゅんからして実際じっさい豊満ほうまん女性じょせいだった。また、才知さいちがあり琵琶びわはじめとした音楽おんがく舞踊ぶよう多大ただい才能さいのうゆうしていたことでもられている。

楊玉たまき
楊貴妃ようきひ
壁画へきがえがかれた楊貴妃ようきひ

ぜん 楊玉たまき
かもめほう
たまやつたまたまき小字こあざ
称号しょうごう 楊貴妃ようきひ
みちごうふとししん
出生しゅっしょう ひらきもと7ねん6月1にち
719ねん6月22にち
しょくしゅう
死去しきょ 天宝てんぽう156月14にち
756ねん7がつ15にち
うま
配偶はいぐうしゃ 寿ことぶきおう
  げんむね
父親ちちおや 楊玄琰
テンプレートを表示ひょうじ
楊貴妃ようきひ

生涯しょうがい

編集へんしゅう
 
楊貴妃ようきひ高久たかく靄厓ふで 静嘉堂文庫せいかどうぶんこ美術館びじゅつかんぞう

以下いか生涯しょうがいについての記述きじゅつは、『きゅうとうしょ』『しんとうしょ』『どおりかん』によるものとし、それ以外いがい出典しゅってん表記ひょうきする。

出生しゅっしょう

編集へんしゅう
 
楊貴妃ようきひぞうはなきよし

しょくしゅう出身しゅっしん本籍ほんせきかばのしゅう永楽えいらくけんほんぬきひろのう楊氏とする一部いちぶ史料しりょうもあるが、竹村たけむら則行のりゆきは、「『ふと外伝がいでん』に楊貴妃ようきひ出自しゅつじを『ひろしのうはなかげじん』とするのはまったくの附会ふかいである。ひろのう楊氏といえば当世とうせいぞくであり、くわえてげんむねもとけんじ皇后こうごう楊氏が正真正銘しょうしんしょうめいの『はなしゅうはなかげじん』であるところなどから混同こんどう附会ふかいまねいたのであろうか。つたえられるさん姉妹しまい楊国ただし粗野そや言動げんどうからも、楊氏一族いちぞくぞく出身しゅっしんだとはとてもおもわれない」とひょうしている[1]きたたかし冀州刺史ししの楊順(楊播楊椿おとうと)の末裔まつえいにあたる。しょくしゅうつかさ楊玄琰よんじょあね韓国かんこく夫人ふじん虢国夫人ふじんはた国夫くにおじんがいる。楊玄琰がしょくしゅうつかささんぐん在任ざいにんちゅうの6がつ1にちまれたとつたえられる。四川しせんには、「落妃」という楊貴妃ようきひおさなころんだとつたえられるいけがある。おさないころに両親りょうしんうしない、叔父おじ楊玄璬いえそだてられた。

定命じょうみょうろく』によると、しょくんでいたときちょうというせい山野さんや隠士いんし彼女かのじょ人相にんそうて、「このむすめは、将来しょうらい大富おおとみだいたかになるであろう。皇后こうごう同等どうとうとうととうとにあるだろう」と予言よげんし、さらに、また従兄じゅうけい楊国ただし人相にんそうて、「将来しょうらいなんねん朝廷ちょうてい大権たいけんにぎるであろう」とげたという説話せつわのこっている。

ひらけもと天宝てんぽうのここと』によると、楊玄琰はわかころっていたかたなは、猛獣もうじゅう盗賊とうぞくちかづくと、警告けいこくするように、かたなおとはっしたとつたえられる。また、楊貴妃ようきひ父母ちちははわかれるときさむであったので、なみだあかこおったという説話せつわつたえている。

まれながらたまたまきっていたのでそのがつけられたというものや、また、ようしゅう庶民しょみん出身しゅっしんであり、まれたとき室内しつない芳香ほうこう充満じゅうまんしあまりにうつくしかったので楊玄琰にられたという後世こうせい俗説ぞくせつもある[2][3]

寿ことぶき王妃おうひからおんなかんむり

編集へんしゅう

ひらきもと23ねん735ねん)、げんむねたけめぐみのあいだの寿ことぶきおうだいじゅうはち)のとなる[4]瑁はたけめぐみ宰相さいしょうはやしはじめ後押あとおしにより皇太子こうたいしされるが、ひらくもと25ねん737ねん)、たけめぐみ死去しきょし、翌年よくねん宦官かんがんこう力士りきしすすめでの粛宗)が皇太子こうたいし冊立さくりつされた。

ひらけもと28ねん740ねん)、げんむね見初みそめられ、長安ながやすひがしにある温泉おんせんみやにて一時いちじてきおんな道士どうしおんなかんむり)となった(このときのみちごうふとししんという)。これは息子むすこからつまうばかたちになるのをけるためであり、実質じっしつ内縁ないえん関係かんけいにあったとわれる。その宮中きゅうちゅうふと真宮しんぐううつみ、げんむね後宮こうきゅうはいって皇后こうごうおなあつかいをうけた。

楊玉たまき容貌ようぼううつくしく、とうだい理想りそうとされた豊満ほうまん姿態したいち、音楽おんがく楽曲がっきょく歌舞かぶすぐれて利発りはつであったためげんむねにかない、後宮こうきゅう人間にんげんからは「むすめ」とばれた。『長恨ちょうこんでん』によれば、かみはつややか、はだはきめささやかで、体型たいけいはほどよく、物腰ものごしやわらかであったとつたえられる[5]

となる

編集へんしゅう
 
浮世絵うきよえ細田ほそださかえこれによってえがかれた楊貴妃ようきひ

天宝てんぽう4745ねん)、たか冊立さくりつされる。『楊太外伝がいでん』によると、はじめてのげんしゅうとの謁見えっけんさい霓裳羽衣はごろもきょく演奏えんそうされ、げんむねは「とく宝子たかこ」という新曲しんきょく作曲さっきょくしたとつたえられる。

ちちの楊玄琰は兵部ひょうぶ尚書しょうしょははりょうこく夫人ふじん追贈ついぞうされ、また叔父おじ楊玄珪ひかりろくきょう従兄じゅうけい楊銛(楊玄珪の)は殿中でんちゅうしょうかん従兄じゅうけい楊錡(楊玄珪の)は駙馬じょうふうじられる。さらに、楊錡はげんむね愛娘まなむすめである太華たいか公主こうしゅ婚姻こんいんむすぶこととなった。楊銛・楊錡と3にんあねいえ権勢けんせいるい、楊一ぞく依頼いらいへの官庁かんちょう応対おうたいみことのりたいするもののようであり、四方しほうから珍物ちんぶつおく使者ししゃもんならぶほどであったとつたえられる。

天宝てんぽう5746ねん)には嫉妬しっとによりげんむねさからい、楊銛の屋敷やしきおくとどけられた。しかしげんむねはそののうちに機嫌きげんわるくなり、側近そっきんをむちではたはじめるほどであった。このときこう力士りきしはとりなして楊家におくものとどけてきたため、楊貴妃ようきひ太華たいか公主こうしゅいえつうじて夜間やかん後宮こうきゅうもどってきた。げんむね楊貴妃ようきひもどりそのつみをわびる姿すがたよろこび、おおくの芸人げいにんをよんだとつたえられる。それ以後いごさらにげんむね寵愛ちょうあい独占どくせんするようになった。その、范陽・ひら節度せつど使やすろくやま請願せいがんにより、やすろくやま養子ようしにしてげんむねよりさき拝礼はいれいけた逸話いつわや、やすろくやま彼女かのじょ一族いちぞく義兄弟ぎきょうだい姉妹しまいになったはなしのこっている。

天宝てんぽう7748ねん)には3にんあねくに夫人ふじんさづけられ、毎月まいつき10まんぜに化粧けしょうだいとしてあたえられた。楊銛はうえばしらこくに、また従兄じゅうけいの楊国ちゅうちゅうすすむ昇進しょうしんし、外戚がいせきとしての地位ちいかためてきている。

げんむねゆうこうするとき楊貴妃ようきひいていかないはなく、彼女かのじょうまろうとするときにはこう力士りきし手綱たづなをとりむちわたした。彼女かのじょいんにはきぬりのこうじんが700めいもおり、装飾そうしょくひん作成さくせいするこうじんべつすうひゃくにんいた。権勢けんせいにあやかろうと様々さまざま献上けんじょうぶつあらそっておくられ、とくめずらしいものをおくった地方ちほうかんはそのために昇進しょうしんした。

天宝てんぽう9750ねん)にまたげんむね機嫌きげんそこね、宮中きゅうちゅうされ屋敷やしきまでおくかえされる(『楊太外伝がいでん』によると、楊貴妃ようきひやすしおうふえ使つかっていたからとつたえられる)。しかしよしあつしが楊国ちゅう相談そうだんうえりなしの上奏じょうそうおこない、楊貴妃ようきひかみってげんむねおくった。げんむねはこれをおどろき、こう力士りきし楊貴妃ようきひかえさせた。『楊太外伝がいでん』によると、それ以降いこうさらに愛情あいじょうふかまったとされる。

天宝てんぽう10751ねん)、やすろくやま入朝にゅうちょうしたときやすろくやまおおきなおしめでつつんだじょう女官にょかん輿こしかつがせて、「やすろくやま湯船ゆぶねあらう」とべてげんむねよろこばせた。しかしそのやすろくやま食事しょくじをともにして夜通よどお宮中きゅうちゅうれたため醜聞しゅうぶんながれたという[6]

天宝てんぽう11752ねん)、はやしはじめ死後しご、楊国ちゅうとう大権たいけんにぎった。このころ、楊銛とはた国夫くにおじん死去しきょするが、韓国かんこく夫人ふじん・虢国夫人ふじんふくめた楊一ぞく横暴おうぼうはげしくなっていった。また楊国ちゅう専横せんおうおこなったうえ外征がいせい失敗しっぱいして大勢おおぜい死者ししゃし、やすろくやまとの対立たいりつふかめたため、楊一ぞくおおくのうらみをうこととなった。

天宝てんぽう13754ねん)、楊貴妃ようきひちちの楊玄琰にふとしじょうひとしこくおおやけははりょう国夫くにおじん追贈ついぞうされ、叔父おじの楊玄珪はこう尚書しょうしょ任命にんめいされる。楊一ぞくとう皇室こうしつ数々かずかず縁戚えんせき関係かんけいむすぶが、やすろくやまとの亀裂きれつ決定的けっていてきになってきた。

安史やすしらん最期さいご

編集へんしゅう
 
楊貴妃ようきひはかおきたいら

天宝てんぽう14(755ねん)、楊国ちゅうはげしく対立たいりつしたやすろくやま反乱はんらんこし、洛陽らくよう陥落かんらくした(安史やすしらん)。このときげんむねおやせい決意けついし、太子たいしとおるの粛宗)にくにまかせることを画策かくさくしたが、楊国ただし韓国かんこく夫人ふじん・虢国夫人ふじん説得せっとくけた楊貴妃ようきひくちふくんでみずからのい、げんむねおもいとどまらせたとつたえられる。そのとうがわふく元帥げんすいであるこうせんしば処刑しょけいされ、哥舒翰わりにふく元帥げんすいとなり、潼関まもった。

よく天宝てんぽう15(756ねん)には哥舒翰はやすろく山側やまがわ大敗たいはいらえられ、潼関も陥落かんらくした。6月にげんむね首都しゅと長安ながやすしょく地方ちほう出奔しゅっぽんすることにめ、楊貴妃ようきひ・楊国ただしこう力士りきしとおるらが同行どうこうすることになった。

しかし、うま嵬(現在げんざい陝西せんせいしょう咸陽きょうたいら)に到着とうちゃくすると、らん原因げんいんとなった楊国ちゅうつよにくんでいたちんげんれい兵士へいしたちは楊国ちゅう韓国かんこく夫人ふじんたちを殺害さつがいした。さらにちんげんれいらはげんむねたいして、「ぞくほん」として楊貴妃ようきひ殺害さつがいすることを要求ようきゅうした。げんむねは「楊貴妃ようきひふかみやにいて、楊国ちゅう謀反むほんとは関係かんけいがない」とってかばったが、こう力士りきし進言しんげんにより、やむなく楊貴妃ようきひ自殺じさつめいずることを決意けついした。

『楊太外伝がいでん』によると、楊貴妃ようきひは「くにおんたしかにそむいたので、んでもうらまない。最後さいごほとけおがませてしい」といいのこし、こう力士りきしによって縊死いしさせられた。このとき南方なんぽうから献上けんじょうのライチがとどいたため、げんむねはこれをあらためてなげいたとつたえられている。ちんげんれいらによって、楊の確認かくにんされ、遺体いたい郊外こうがいめられた。さらにやすろくやま楊貴妃ようきひき、数日すうじついたとつたえられる。そのうま嵬に女性じょせい楊貴妃ようきひくつ片方かたがたれ、旅人たびびと見物けんぶつりょうってせて大金持おおがねもちになったとつたえられる。

げんむねのち彼女かのじょれいまつり、長安ながやすかえったのち改葬かいそうめいじたが、れいさむらいろうからの反対はんたい意見いけんにより中止ちゅうしとなった。しかし、げんむねひそかに宦官かんがんめいじて改葬かいそうさせた。このときのこっていたにしきこうぶくろ宦官かんがん献上けんじょうしたという。また、げんむね画工がこう彼女かのじょえがかせ、それを朝夕あさゆうながめていたという。

 
宝山たからやまりょうはか壁画へきが楊貴妃ようきひきょう鸚鵡おうむ頌経

中国ちゅうごくにおけるもっとも著名ちょめい女性じょせいであり、すうおおくの伝承でんしょうつたえられている。

非常ひじょう有名ゆうめいなエピソードとして、楊貴妃ようきひ日持ひもちのかないレイシ(ライチ、茘枝れいし)を大変たいへんこのみ、産地さんちみねみなみから長安ながやすまで早馬はやうまはこばせたことがつたえられている[7]。このエピソードは後述こうじゅつとおり、後世こうせいにもおおきな影響えいきょうあたえた。

『楊太外伝がいでん』などに、ひらくもと28ねん(740ねん)に後宮こうきゅうはいったときから天宝てんぽう14755ねん)までの楊貴妃ようきひかんするおおくの伝承でんしょうつたえられている。

『楊太外伝がいでん』によると、楊一ぞく隆盛りゅうせい横暴おうぼうげんむね楊貴妃ようきひへのあまりの寵愛ちょうあいに、「おんなんでもかなしむな おとこんでもよろこぶな」というはやりうた長安ながやすうたわれ、げんむねともにたびたびきょうぼう芸人げいにんたちの音楽おんがく歌舞かぶ技芸ぎげい、あるいは文人ぶんじんたちのかいたのしんでいた。あるげんむね諸王しょおうから王朝おうちょう一族いちぞく)をまねいてうたげおこなったところ、木蘭もくれんはな様子ようすげんむね不興ふきょうかんじていることをり、いながらも霓裳羽衣はごろもきょくまいおどってりなし、げんむねよろこばせたことがあった。

べつげんむね作曲さっきょくおこなった演奏えんそうかいでは琵琶びわ担当たんとうし、おうぐんぬしおうむすめ)、楊貴妃ようきひ姉妹しまいはみな彼女かのじょとあおぎ、いちきょく作成さくせいするごとにおおくのおくものがなされた。この演奏えんそうかいときしゃおもね蛮という妓女ぎじょあたえたべにあわだま腕輪うでわ高句麗こうくりから宝物ほうもつであった。

かおる打楽器だがっき一種いっしゅ)の名手めいしゅでもあり、梨園りえん楽人がくじんですらかなうものがなかった。彼女かのじょ琵琶びわはラサのだんつくられたしょくから献上けんじょうされたもので、その絃は西方せいほう異国いこくから献上けんじょうされた生糸きいとでできていた。かおる藍田あいだ緑玉りょくぎょくみがいたものでできており、かざりのはなやかさは当代とうだいならぶものがないものであった。また彼女かのじょむらさきだまふえは、嫦娥じょうがからもらったものであるという伝説でんせつもあった。また「りょうしゅう」といううた自分じぶん作曲さっきょくし、死後しごげんむねによってひろめられたとつたえている。

きょうけいみや沈香じんこうていにおいて、げんむね李白りはく作詩さくしさせひさしねんうたわせた「きよしたいら調ちょう」において、李白りはく自分じぶんちょう飛燕ひえんにたとえた部分ぶぶんがあった。このことをこう力士りきし指摘してきされ、侮辱ぶじょくおも李白りはく官位かんい授与じゅよさまたげた。そのためげんむねちょう飛燕ひえん話題わだいけたはなしや「そなたならふうばされない」とからかったせつつたえられ、楊貴妃ようきひ豊満ほうまんであったのではというせつ根拠こんきょとなっている。なお、この話題わだいしたとき楊貴妃ようきひが「霓裳羽衣はごろもえますのに」と不機嫌ふきげんになったため、げんむねは「にじ霓」という屏風びょうぶおくっている。

げんむね毎年まいとし10がつはな清宮きよみや温泉おんせんみや)におもむき、そのふゆごすとき楊貴妃ようきひおな輿こし端正たんせいろう蓮花れんげという温泉おんせんはいっていたこともられる。

げんむねとともにふたつがわさった蜜柑みかんべて、その姿すがたえがかせたはなしや、みねみなみから献上けんじょうされたしろ鸚鵡おうむに「ゆきころもおんな」というをつけ、ひとこえ完全かんぜん使つかえたため「しんけい」をおぼえさせたが、あるたかにつかまれてころされたのでめて鸚鵡おうむづか名付なづけたはなしがある。また、やすろくやま楊貴妃ようきひ自身じしんからもおおくのおくものおくっている。

げんむね親王しんのうっているときげんむねけそうになると、ちんはなして碁盤ごばんくずし、げんむねよろこばれた。また、つけまげかみかざり、黄色おうしょくの裙(なが)をこのみ、龍脳りゅうのう香料こうりょう一種いっしゅ)をつけていたため、とおくまでそのかおりがして、ころもとおしてそのかおりか領巾ひれうつるほどであったともつたえられる。

天宝てんぽう14755ねん)6がつ彼女かのじょ誕生たんじょうげんむねはなきよしみやおもむき、長生ながお殿どのにおいて新曲しんきょく演奏えんそうし、ちょうど南海なんかいからライチがとどいたため「茘枝れいし」と名付なづけた。このとき随従ずいじゅう臣下しんかからの歓喜かんきこえ山々やまやまひびいたとつたえられる。

二日酔ふつかよいにくるしんだのちにわはなつゆんではいうるおした説話せつわげんむねとともに牡丹ぼたんはなかおりをいでいをました説話せつわ豊満ほうまん肉体にくたいであったためなつあつときくちたまでできたさかなれてあつさをいやした説話せつわがある。

またげんしゅうとのさけのたけなわに、げんむね宦官かんがんひゃく余人よにん楊貴妃ようきひみやおんなひゃくにんひきいて、後宮こうきゅうにおいてりょうじんかれて戦争せんそうごっこをおこなった。これを「風流ふうりゅうじん」とんで、敗者はいしゃおおきなうしかくはいさけ談笑だんしょうしたという説話せつわのこっており、これはのち画題がだいにもなっている。

ひらくもと天宝てんぽうのここと』によると、楊貴妃ようきひなつになるとよくあせをかき、においをはなっていた。あせめたはだあかえ、ぬぐうとその赤色あかいろぬのうつったという[8]

しろきょえきしんらく』のいちしゅえびす旋女」では、楊貴妃ようきひ胡旋舞うせんまいという西域せいいきから渡来とらいしたまいっていたという描写びょうしゃがある。

長恨ちょうこん長恨ちょうこんでん

編集へんしゅう
 
はなきよしにある楊貴妃ようきひ入浴にゅうよくぞう

楊貴妃ようきひ死後しご50ねんった、元和がんわ元年がんねん806ねんごろに、げんむね楊貴妃ようきひ物語ものがたり題材だいざいにしてしろきょえき長編ちょうへん漢詩かんしである『長恨ちょうこん』を、ちんひろし小説しょうせつの『長恨ちょうこんでん』を制作せいさくしている。

きっかけは、おうただしおっとくわえた3にん仙遊せんゆうてら見学けんがくおもむき、そのとき楊貴妃ようきひげんむね皇帝こうていはなしがあがり、感動かんどうしたおうただしおっとしろきょえき後世こうせいのこすためにげることをすすめたためであるという。また、しろきょえきちんひろし物語ものがたりとしてつたえるようにすすめたとつたわっている。

内容ないようは、以下いかのようである。

楊貴妃ようきひ栄華えいが最期さいごについてかたったうえで、楊貴妃ようきひ死後しごのこととして、げんむね道士どうし楊貴妃ようきひたましいもとめさせる。道士どうしたましいとなり、方々かたがたさがし、海上かいじょうやまふとししんという仙女せんにょがいるのをつきとめいにく。それこそが楊貴妃ようきひであり、道士どうししょうはことかんざしをふたつにけて片方かたがたたくし、伝言でんごんつたえた。げんむね楊貴妃ようきひが7がつ7にち長生ながお殿どので、「二人ふたり比翼ひよくとり連理れんりえだになりたい」とちかったことと、このうらみ(おもい)は永遠えいえんきないだろうということであった(比翼連理ひよくれんり故事こじ)。

平等びょうどう一対いっついとしての男女だんじょ永遠えいえんあいちかいをうたげた『長恨ちょうこん』は、ひろ世間せけん流布るふした。このため、楊貴妃ようきひ物語ものがたり後世こうせいにまでひろつたわり、おおくの文学ぶんがく作品さくひん影響えいきょうあたえた。

死後しご評価ひょうか後世こうせい楊貴妃ようきひぞう

編集へんしゅう

きゅうとうしょ』『しんとうしょ』ともにつてひょうはなく、げんむねとおした間接かんせつてきなものしかない。また、楊貴妃ようきひ生前せいぜんにおいては、おなとうだい武則たけのりてんにみられたような直接的ちょくせつてき痛烈つうれつ批判ひはん存在そんざいしない。李白りはくが「きよしたいら調ちょう」「宮中きゅうちゅう行楽こうらく」において、楊貴妃ようきひちょう飛燕ひえんたとえたことは、どのような寓意ぐういさだかではない。

しかし楊貴妃ようきひどう時代じだいもりはじめが「あい江頭えがしら」では楊貴妃ようきひいたみながらも、「きたせい」では褒姒妲己にたとえてつよ批判ひはんしている。また、しろきょえきちんひろし楊貴妃ようきひくにかたむけた「尤物ゆうぶつ」(美女びじょをあらわすが、おとこまどわしどうあやまらせる存在そんざいという意味合いみあいがつよい)とひょうしている。これが、当時とうじ大夫たいふ一般いっぱんてき評価ひょうか推測すいそくされるが、同時どうじに『長恨ちょうこん』によって、美女びじょ伝説でんせつまれていたとられる。

長恨ちょうこん』ののちかれたとうだい小説しょうせつしゅうはたこう』では、主人公しゅじんこううしそう出迎でむかえる幽霊ゆうれい一人ひとりとして登場とうじょうし、その美貌びぼうとなえられながらも、げんむねを「三郎さぶろう」とび、「なんはなきよしみやおもむく」という批判ひはんくわえ、だいむね皇后こうごうである沈氏を「沈婆」とぶなど気性きしょうはげしい女性じょせいえがかれている。

楊貴妃ようきひ自身じしん実像じつぞうがはっきりしないことが潤色じゅんしょくくわえられる要因よういんかんがえられ、また楊貴妃ようきひ死後しごから王朝おうちょうはそのいきおいをもどすことがなかったため、もりとう時代じだい象徴しょうちょうする存在そんざいである意味合いみあいがつよいとされる。

そのそうだい正史せいし、『ひらくもと天宝てんぽうのここと』『あきらすめらぎ雑録ざつろく』『から国史こくし』『長恨ちょうこんでん』『とりざつまないた』『たんまろうどろく』『ひらき元住もとずみしん』などをもとに編纂へんさんした『楊太外伝がいでん』にと楊貴妃ようきひ説話せつわがまとめられ、さまざまな文学ぶんがくによってげられ、きよしの『長生ながお殿どの』の成立せいりつへとつながり、しんだい戯曲ぎきょく代表だいひょうする作品さくひんとなっている。そのなかでは「傾国けいこく」の悪女あくじょ美女びじょ双方そうほう側面そくめん楊貴妃ようきひぞうえがかれている。

後世こうせいにおいて、民間みんかん神格しんかくされて牡丹ぼたんはなしんとしてまつられる。

現代げんだいでは、楊貴妃ようきひ自身じしん政治せいじにあまり介入かいにゅうしておらず、土木どぼく工事こうじなどだい規模きぼ贅沢ぜいたく后妃こうひへの迫害はくがいなどほとんどなく、げんむねや楊国ちゅう一族いちぞくとの連帯れんたい責任せきにん以外いがいはあまりえないとひょうされることがおおい。

楊貴妃ようきひ

編集へんしゅう

ぜん唐詩とうし』に楊貴妃ようきひ作成さくせいした漢詩かんしが1しゅ記載きさいされている。楊貴妃ようきひはなきよしみやにおいて、侍女じじょちょうくもよう霓裳羽衣はごろもきょくわせ、それを題材だいざいげ、げんむねせたものである。

おもねきょくおくちょうくもようまい
原文げんぶん くだぶん
そでどうやめ そで(らしゅう) こうどうすも こうやめまず
べに蕖裊裊秋けむりうら べに蕖(こうきょ)裊裊(じょうじょう)たり あきけむりうら
けいくもみねじょう乍搖ふう けいくも みねじょう 乍(たちま)ちふうらぎ
嫩柳池邊いけべはつはらいすい 嫩柳 池辺いけべ はじめてみずはら

楊貴妃ようきひ後宮こうきゅうをともにした女性じょせいたち

編集へんしゅう
べにもも
あきらすめらぎ雑録ざつろく』『楊太外伝がいでん』にえる。楊貴妃ようきひ侍女じじょ楊貴妃ようきひめいじられて、べにあわだま腕輪うでわしゃおもね蛮にわたした。のちに、げんむねやすらん勃発ぼっぱつ長安ながやす帰還きかんしたとき楊貴妃ようきひ侍女じじょ一人ひとりとして会合かいごうする。そこで、楊貴妃ようきひ作曲さっきょくした「りょうしゅう」をうたい、ともになみだにくれたが、げんむねによって、「りょうしゅう」はひろめられた。
しゃおもね
あきらすめらぎ雑録ざつろく』『楊太外伝がいでん』にえる。新豊しんゆたか出身しゅっしん妓女ぎじょ。「しのげなみきょく」というまい得意とくいとしていた。その舞踊ぶよう技術ぎじゅつにより、げんむね楊貴妃ようきひからをかけられ、腕輪うでわあたえられた。のちに、げんむねやすらん勃発ぼっぱつ長安ながやす帰還きかんしたとき舞踊ぶよう披露ひろうしたのちで、その腕輪うでわげんむねせたため、げんむねなみだとしたとつたえられる。
ちょうくもよう
ぜん唐詩とうし楊貴妃ようきひおもねきょく」でうたわれる。楊貴妃ようきひ侍女じじょ非常ひじょう寵愛ちょうあいけ、はなきよしみや楊貴妃ようきひめいじられ、一人ひとりで霓裳羽衣はごろもきょくい、かね腕輪うでわおくられたとつたえられる。また、『伝奇でんき』にも説話せつわのこっている。内容ないよう以下いかとおりである。ちょうくもよう生前せいぜんに、高名こうみょう道士どうしであったさるてん仙人せんにんになるくすりい、もらいけ、楊貴妃ようきひたのんで、空気くうきあなけた棺桶かんおけにいれてもらった。そのひゃくねんかえり、薛昭というおとこおっとにすることにより、せんになったという。
おうだいむすめ
あきらすめらぎ雑録ざつろく』『楊太外伝がいでん』にえる。きょうぼう所属しょぞくしていた妓女ぎじょげんむね楊貴妃ようきひまえざつ伎として、あたまうえに、頂上ちょうじょうやま形作かたちづくったものをつけたひゃくしゃくある竿ざおて、幼児ようじにそのなか出入でいりさせ、歌舞かぶ披露ひろうするげいせた。そのにいたりゅうがこれをにしてうたい、褒美ほうびをもらっている。
もと和子わこえいしん
らく雑録ざつろく』『ひらくもと天宝てんぽうのここと』にえる。よししゅうながしんけんらくまれの女性じょせい本名ほんみょうもと和子わこった。ひらきもとすえとしごろに後宮こうきゅうはいり、きょうぼうむべはるいんぞくした。その本籍ほんせきによって、えいしんばれた。美貌びぼうさと性質せいしつち、うたながじ、作曲さっきょくおこない、かん娥・のべねんせん年来ねんらい再来さいらいしょうせられた。げんむねから寵愛ちょうあいけ、演奏えんそうちゅうもその歌声うたごえれることがなく、げんむねから「その歌声うたごえ千金せんきん価値かちがある」とひょうせられる。げんむねつとむせいろうからかおしたとき群衆ぐんしゅうさわぎだしたので、こう力士りきし推薦すいせんえいしんうたわせたところ、みなしずまりかえったという説話せつわつたわっている。
安史やすしらんときに、後宮こうきゅうのものもバラバラとなり、いち士人しじんるところとなった。宮中きゅうちゅう金吾きんご将軍しょうぐんであった韋青もまた、うたくしていたが、かれ広陵こうりょうらんけ、月夜つきよかわうえ欄干らんかんによりかかっていたところ、ふねなかからする歌声うたごえき、えいしんうたづいた韋青がふねはいっていき、えいしん再会さいかいし、なみだながしあったという説話せつわのこっている。その士人しじん死去しきょしたのち母親ははおや長安ながやすもどり、民間みんかんなか死去しきょする。最期さいご母親ははおやに、「おかあさんのかねたおれました」とかたったとつたえられる。きよしだい戯曲ぎきょく長生ながお殿どの』にも、楊貴妃ようきひつかえる侍女じじょとして登場とうじょうする。
ねんやつ
ひらくもと天宝てんぽうのここと』にえる。容貌ようぼうすぐれ、歌唱かしょうけ、かんなかでも、げんむね寵愛ちょうあいていた。げんむねちかくをはなれたことがなく、いつもまわりの人々ひとびとつめていて、げんむねに「このおんなは妖麗で、ひと魅了みりょうする」とひょうされた。その歌声うたごえは、あらゆる楽器がっきおとよりもよくひびわたったとつたえられる。とうだい詩人しじんもとの「れんあきらみや」に、げんむね時代じだい盛時せいじをあらわす表現ひょうげんとして、げんむねめいじられたこう力士りきしが、彼女かのじょび、その歌声うたごえ披露ひろうする場面ばめんがある。しんだい戯曲ぎきょく長生ながお殿どの』にも、えいしんとともに、楊貴妃ようきひつかえる侍女じじょとして登場とうじょうする。

後世こうせいへの影響えいきょう

編集へんしゅう

文学ぶんがく音楽おんがく戯曲ぎきょく

編集へんしゅう
 
楊貴妃ようきひ(『能楽のうがく図絵ずえ月岡つきおかこうりょう
  • しろきょえきの『長恨ちょうこん』を題材だいざいつくられたのう楊貴妃ようきひ」がある(金春こんぱる禅竹ぜんちくさく)。
  • 音楽おんがく作品さくひんとしては、山田やまだ検校けんぎょうの「長恨ちょうこん」、ひかりさき検校けんぎょうの「秋風あきかぜきょく」がある。
  • 井上いのうえやすし楊貴妃ようきひ生涯しょうがいもとに『楊貴妃ようきひでん』を執筆しっぴつした。
  • 中国ちゅうごく後世こうせいおおくの小説しょうせつ漢詩かんし雑劇ざつげき戯曲ぎきょく題材だいざいとしてげられた。さらに、日本にっぽんにおいても、古典こてん文学ぶんがく話題わだいにたびたびりあげられ、川柳せんりゅうなどでも題材だいざいとしていくつも使つかわれている。
  • あきら末期まっき笑話しょうわしゅうわらいとげぞくに、楊貴妃ようきひちょう登場とうじょうする笑話しょうわがある。
    あるおとこが、ざらしになっていた骸骨がいこつつけ、どくおもって供養くようをしてやる。そのばんおとこいえたたものがあり、「だれだ」とくと「(フェイ)」とこたえる。さらにたずねたところ「わたし楊貴妃ようきひです。うま嵬でころされてからほうむられることもなくざらしになっていたのを、あなたが供養くようしてくださいました。おれい夜伽よとぎをさせてください」とこたえ、そのばんおとこよるともにした。これをいてうらやんだとなりおとこ野原のはらさがまわってやはりざらしになった骸骨がいこつつけ、供養くようしたところ、そのばんやはりたたものがあり、「だれだ」とくと「(フェイ)」とこたえる。「楊貴妃ようきひかい」とくと「おれちょうだ」というこたえ。仰天ぎょうてんして「ちょう将軍しょうぐんにはなにゆえのおきたしで」とたずねると、ちょういわく「拙者せっしゃかんちゅうころされてからほうむられることもなくざらしになっておったのを、貴殿きでん供養くようしていただいた。おれい夜伽よとぎをさせていただきたい」。
 
楊貴妃ようきひ着用ちゃくようしたことが起源きげんとされている肚兜[9]
  • 細身ほそみちょう飛燕ひえんくらべて、豊満ほうまん体型たいけいをしていたということで「楊肥ちょうやせ」「たまきこえつばめ瘦」と、豊満ほうまん体型たいけい美人びじんとほっそり体型たいけい美人びじんくらべ、表現ひょうげんする言葉ことばとしてのこっている。
  • 日本にっぽん腹掛はらが中国ちゅうごく伝統でんとう衣装いしょう肚兜」は、楊貴妃ようきひ着用ちゃくようしたことがはじまりとされている[9]
  • 日本にっぽん山口やまぐちけんには、楊貴妃ようきひ阿倍仲麻呂あべのなかまろとも安史やすしらんのがれて日本にっぽん亡命ぼうめいしてきたとの伝説でんせつ存在そんざいし、長門ながと油谷ゆだにまち二尊院にそんいんというおてらには楊貴妃ようきひはかつたわる五輪ごりんとう(山口やまぐちけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい)がある[10]
  • 日本にっぽんには、楊貴妃ようきひ熱田あつた神宮じんぐう明神みょうじん化身けしんであるという伝説でんせつもある(『長恨ちょうこん』にうたわれた、てんかえった楊貴妃ようきひがいたよもぎ日本にっぽんであるという伝承でんしょうがあった)。
  • 京都きょうと泉涌寺せんにゅうじにある観音かんのん菩薩ぼさつ坐像ざぞう楊貴妃ようきひをモデルにつくられたという伝承でんしょうがあり、楊貴妃ようきひ観音かんのんともばれている。
  • 茘枝れいしこのんだという前出ぜんしゅつのエピソードから、デ・カイパーしゃ(オランダ)のライチ・リキュールには「たか」という名前なまえけられている。
  • また、カクテル「楊貴妃ようきひ」はライチリキュールがベースとなっている。
  • 楊貴妃ようきひこのんでんだとつたわる薬酒やくしゅの楊貴美酒びしゅという処方しょほうがある。
  • メダカに「楊貴妃ようきひメダカ」というあかいろ種類しゅるいがいる。
  • アヘン材料ざいりょうになるケシ(芥子からし罌粟げし)は、朝鮮ちょうせんでは「楊貴妃ようきひ(양귀비)」とばれる。ケシのうつくしさとおそろしさが、楊貴妃ようきひたとえられたからである。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 竹村たけむら則行のりゆき紀要きよう論文ろんぶん>「長恨ちょうこん」から『長生ながお殿どの』にいた楊貴妃ようきひ故事こじ変遷へんせんうえ」『中国ちゅうごく文学ぶんがく論集ろんしゅうだい24ごう九州大学きゅうしゅうだいがく中国ちゅうごく文学ぶんがくかい、1995ねん12月、11-28ぺーじdoi:10.15017/9668ISSN 02863715NAID 120000985317  p.22-23 より
  2. ^ 村山むらやま楊貴妃ようきひ』30P、35-36P。
  3. ^ レイシ(ライチ、茘枝れいし)への嗜好しこう歌舞かぶ楽曲がっきょくへのすぐれた才能さいのう出世しゅっせたいする民間みんかんはんおうなどから、身分みぶんひく妓女ぎじょ出身しゅっしんではないかという推測すいそくもされている。
  4. ^ 楊貴妃ようきひ寿ことぶき王妃おうひではなかったというせつもあるが、『きゅうとうしょ』では寿ことぶき王妃おうひ明示めいじされていないものの、『しんとうしょ』『どおりかん』では寿ことぶき王妃おうひとしており、また『から大詔たいしょうれいしゅう』の「さつ寿ことぶきおう楊妃ぶん」でもひらけもと23ねん叔父おじの楊玄璬の長女ちょうじょとして冊立さくりつされているため、寿ことぶき王妃おうひであった可能かのうせいたかいとおもわれる。
  5. ^ とうだい小説しょうせつである『しゅうはたこう』によれば、こしほそい(繊腰)とされている。
  6. ^ 西田にしだただしもと源氏物語げんじものがたり』における中国ちゅうごく美人びじんたち」『そうだいアジア研究けんきゅうだい12ごう創価大学そうかだいがくアジア研究所けんきゅうじょ、1991ねん3がつ、75-86ぺーじISSN 0388-7030NAID 1100071481062022ねん2がつ21にち閲覧えつらん  p.82 より
  7. ^ 場所ばしょにもよるが、大体だいたい1300キロから1800キロほど。参考さんこうまでに、東京とうきょうえきから博多はかたえきまでの距離きょりは1175キロである。
  8. ^ 王仁わにひろし. “ひらけもと天宝てんぽうのここと”. 京都大学きょうとだいがく貴重きちょう資料しりょうデジタルアーカイブ. 2020ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 中国ちゅうごく伝統でんとうてきなキャミソール「肚兜」 中国ちゅうごくちゃ中国ちゅうごく茶器ちゃきなど厳選げんせんしためいひん珍品ちんぴん貴重きちょうひん通販つうはん”. e-かみ. 2020ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ 観光かんこう情報じょうほう楊貴妃ようきひ伝説でんせつ長門ながとhttps://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/kanko/1637.html 

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

伝記でんき資料しりょう

編集へんしゅう
  • きゅうとうしょまきじゅういち 列伝れつでんだいいち后妃こうひじょう楊貴妃ようきひでん
  • しんとうしょまきななじゅうろく 列伝れつでんだいいち后妃こうひじょう楊貴妃ようきひでん
  • どおりかん
  • らく『楊太外伝がいでん
  • ちんひろし長恨ちょうこんでん
  • 無名氏むめいしうめでん
  • だんなりしきとりざつまないた』 今村いまむら与志雄よしお訳注やくちゅう平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこぜん5かん
  • 王仁わにひろしひらくもと天宝てんぽうのここと
  • ていしょ誨『あきらすめらぎ雑録ざつろく
  • はじめから国史こくし
  • ちょうつとむ定命じょうみょうろく
  • だんやすぶしらく雑録ざつろく
  • 作者さくしゃ不明ふめい(韋瓘?)『しゅうはたこう
  • 裴鉶伝奇でんき

伝記でんき研究けんきゅう

編集へんしゅう

楊貴妃ようきひかんする作品さくひん

編集へんしゅう

演劇えんげき

編集へんしゅう

歴史れきし小説しょうせつ

編集へんしゅう

テレビドラマ

編集へんしゅう

パソコンゲーム

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう