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刺史 - Wikipedia

刺史しし(しし)は、中国ちゅうごく前漢ぜんかんからだいじゅうこく時代じだいまで存在そんざいした官職かんしょくめい当初とうしょ監察かんさつかんであったが、のちしゅう長官ちょうかんとなった。しゅうまき(あるいはたんまき)とも。日本にっぽんでは国守くにもり唐名とうみょうとして使つかわれた[1]

前漢ぜんかんたけみかどもとふうねん紀元前きげんぜん106ねん)に設置せっちされる[2][3]当時とうじなんかえされた外征がいせいしおてつ専売せんばいせい施行しこうによる民衆みんしゅう負担ふたん増加ぞうかなどにより急速きゅうそく社会しゃかい不安ふあん醸成じょうせいされており、たけみかどはこれにたいして酷吏こくりばれるきびしい態度たいどたる官僚かんりょう登用とうようすることで対処たいしょしていた[4][5]しゅう刺史しし設置せっちもその一環いっかんおこなわれたことで、当時とうじ地方ちほう最高さいこう行政ぎょうせい区画くかくであるぐん長官ちょうかんぐん太守たいしゅがその当地とうち有力ゆうりょくしゃ豪族ごうぞく)たちと結託けったくすることがおおかったので、これを監察かんさつ監督かんとくするために刺史ししかれたのである[6][3]全国ぜんこくに13しゅうき、その管内かんないぐん太守たいしゅ行動こうどう刺史しし観察かんさつした(首都しゅと周辺しゅうへんさん三河みかわ河内かわちぐん河東かとうぐん河南かなんぐん)・ひろのうぐんには刺史ししかれなかったが、そのせいよんねんつかさ隷校じょういて刺史しし同様どうよう職務しょくむたらせた[6]。)。ただその俸禄は監察かんさつされるがわこおりまもるぐん長官ちょうかん)がせんせきなのにたいしてろくひゃくせきひくかった[2]

のちにこれは不都合ふつごうであると[7][8]綏和元年がんねん紀元前きげんぜん8ねん)に刺史しししゅうまき(あるいはたんまき)と改称かいしょうされて俸禄はぐんもり同格どうかくせんせきになり、しゅうないかくぐんけん行政ぎょうせい介入かいにゅうできるようになった。このときしゅう監察かんさつちゅうすすむうつったようであるからまき監察かんさつかんから行政ぎょうせいかんわったようである[9]かんめいけんひらた2ねん紀元前きげんぜん5ねん)に刺史ししもどり、もと寿ことぶき2ねん紀元前きげんぜん1ねん)に再度さいどしゅうまきあらためられるなど、たびたび変更へんこうされた[9]

たてたけし18ねん42ねん)、こうかん光武みつたけみかどふたたしゅうまき刺史ししあらためて俸禄も以前いぜんろくひゃくせきもどした[8]。またそれまでは特定とくていしょたず領内りょうない巡察じゅんさつしていた前漢ぜんかん制度せいどあらためてしゅうないしょ設置せっちし、毎年まいとし8がつしょぐん巡察じゅんさつすることとした。さらにしょ周辺しゅうへん行政ぎょうせいけん完全かんぜんにぎるようになった[10]中平なかひら5ねん188ねん)、各地かくち反乱はんらんきるようになると刺史しししゅうまきあらためられるとともにそれまで保持ほじしていなかった兵権へいけんあたえられた[11]。ただししゅうによってまきではなく刺史ししがいる場合ばあいもあり、刺史しし名前なまえまきわったというよりはあらたにまきしょくかれて、刺史しし随時ずいじ廃止はいしされたとるべきであろう[12]

たかしすすむでは刺史ししとなった。この時代じだいには、刺史しし将軍しょうぐんあたえられて兵権へいけん行使こうしすることがほとんどとなる(将軍しょうぐんごう刺史しし単車たんしゃ刺史ししぶ)。その将軍しょうぐんごう名目めいもくしていき、わってみやこただし役割やくわりおおきくなる[13]

南北なんぼくあさ時代じだいには、南朝なんちょうはおおむねすすむ制度せいどにならったが、北朝ほくちょうでは管轄かんかつするしゅう刺史ししを「しゅうまき」(きたたかしきたひとしつかさしゅうまぎきたあまねずいは雍州まきいた)とし、そのしゅううえしゅう中州なかすげのしゅう格付かくづけして刺史ししかんひん区別くべつした。このころには行政ぎょうせい区画くかくとしてのしゅう細分さいぶんされてゆき、さらにてんたまもの2ねん405ねん)、きた各州かくしゅう皇族こうぞく1にん臣籍しんせき2にんけい3にん刺史しし配置はいちすることになるなど、刺史しし地位ちい相対そうたいてき低下ていかしていった。

ひらきすめらぎ3ねん583ねん)、ずいぶんみかど従来じゅうらいしゅうぐんけんさん段階だんかい地方ちほう制度せいどしゅうけん段階だんかいとし、えすぎた行政ぎょうせい区画くかくを300しゅう・1500けん整理せいりした。さらに刺史しし兵権へいけんとくうつし、刺史ししはかつてのぐんもりわらない立場たちばになった[14][15]。その大業おおわざ年間ねんかん605ねん - 618ねんはつしゅうはいされぐんとなり、地方ちほうかんとしての刺史しし消滅しょうめつした。一方いっぽうつかさ隷台という地方ちほう監察かんさつ部署ぶしょもうけ、14にん刺史しし各地かくち巡回じゅんかい監察かんさつする制度せいどもうけた[16]とう成立せいりつすると武徳ぶとく元年がんねん618ねん)にふたたしゅうもどった。

だいじゅうこく時代じだいには刺史ししへいにぎって自立じりつすることもあったが、きたそうではしゅうしゅう長官ちょうかんとなり、刺史ししよせろくかん名称めいしょうのみをのこされて実態じったい消滅しょうめつした[17]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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研究けんきゅう論文ろんぶん

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研究けんきゅうしょ

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概説がいせつしょ

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