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教坊 - Wikipedia

きょうぼう(きょうぼう)とは、とう以降いこう中国ちゅうごく王朝おうちょうにおける宮廷きゅうていつかえる楽人がくじん妓女ぎじょたちに宮廷きゅうてい音楽おんがく教習きょうしゅうさせるための機関きかんをさす。楽曲がっきょく歌舞かぶ習得しゅうとくおも目的もくてきとするが、かんにあたる妓女ぎじょ統括とうかつする役割やくわりもあった。その王朝おうちょうがれ、しんだいまでつづいたが、雍正みかどとき廃止はいしされた。

とうふかし統治とうち時代じだいである武徳ぶとく年間ねんかん宮城みやぎないうちきょうぼう創設そうせつされ、げんむねひらけもと2ねん714ねん)に、音楽おんがくつかさどふとつねてらから伝統でんとうてき音楽おんがくである雅楽ががくのこし、俗楽ぞくがく[1]散楽さるがくけて、それを習得しゅうとくするために長安ながやす洛陽らくようにそれぞれ左右さゆうきょうぼう設置せっちされた。また、うちきょうぼう大明だいめいみやうつされ、梨園りえん設立せつりつされている。長安ながやすみぎきょうぼうは、ひかりたくぼうかれ、うたけたものがおおく、ひだりきょうぼうのべせいぼうにあり、まいたくみなものがおおかった。

安史やすしらん以降いこう衰退すいたいしたが、その王朝おうちょうでも、つづいて設置せっちされたが、しんだい初期しょき民間みんかんから楽人がくじんをつのることとなり廃止はいしされた。

現代げんだいでも、女子じょしじゅうらくぼう名前なまえ由来ゆらいとなっている。

とうだいきょうぼう妓女ぎじょ

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ちぇれい欽「きょうぼう」によると、とうだいきょうぼう在籍ざいせきする妓女ぎじょは、みやだけでなく、ひろ範囲はんいからえらばれた。

容貌ようぼうげいすぐれ、選抜せんばつされて、太極たいきょくみやにあるよろしはるいんはいったものが「うちじん」(または前頭まえがしらじん)とばれた。うちじんおもんじられ、そのなかでも皇帝こうていから寵愛ちょうあいたものを「じゅういえ」とばれ、宮城みやぎ屋敷やしきあたえられた。うちじん毎月まいつき、2または16にち、もしくは誕生たんじょう家族かぞく面会めんかいできた。また、妓女ぎじょとはことなり、さかなぶくろにつけていた。

宮廷きゅうてい宴楽えんらくさいうちじんだけでりないときは、「宮人みやびと」がくわわった。宮人みやびとみやからなった。平民へいみん子女しじょ容貌ようぼうによりえらばれたものは、「スウ(手偏てへんに芻)たま」とばれ、五弦ごげん琵琶びわ箜篌くごそうまなんだ。また、むべはるいんきょうぼう見習みならいを「ざつ婦女ふじょ」といった。

げんむねみずか指揮しきして、妓女ぎじょたちに歌舞かぶおこなわせ、そのもとですうおおくの楽曲がっきょく創作そうさくされ、えんじられた。きょうぼう妓女ぎじょたちはなかいもので、こういて義兄弟ぎきょうだいとなることをちか習慣しゅうかんがあり、これをこう兄弟きょうだいといった。兄弟きょうだい突厥いちつまおっとせい参考さんこうつくられたと[2]され、おおいときは、14、15にんすくないときでも、8、9にんはいたという。身分みぶんあるものにされた場合ばあい宮廷きゅうていそとにでることもゆるされ、そのときには、そのこう兄弟きょうだいもついてきて、したかんじんと、親密しんみつなかになることもあった。そのさい、「兄弟きょうだい」としたしいかんじんは「よめ」とばれ、もっと親密しんみつ妓女ぎじょによって、たとえばおとこが「長男ちょうなん」とちかしかった場合ばあい兄弟きょうだいかれを「兄嫁あによめ」とんだ[3]としると、宮廷きゅうていからることをねがることもでき、比較的ひかくてき自由じゆう立場たちばであった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 俗楽ぞくがくは、民間みんかん音楽おんがく西域せいいきから渡来とらいしたえびすらくなどを
  2. ^ 南方みなかた熊楠くまぐす南方みなかた熊楠くまぐす全集ぜんしゅうだい4かん』159ぺーじ
  3. ^ 南方みなかた熊楠くまぐす南方みなかた熊楠くまぐす全集ぜんしゅうだい4かん』158ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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