足利 義晴
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萬松院曄山道照、 | |
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生涯
誕生
また、
播磨 での生活
将軍 就任
4
7
7
8
12月24
とはいえ、11
朽木 での政治
10月、
5月14
9月、
1
桑実寺 での政治
だが、
7
また、
10
また、
義晴 ・晴 元 体制 の成立
10
9月、
そのため、
11月2
12月20
17
晴 元 との対立 ・将軍 職 譲渡
5月24
9月13
10
11月、
12月18
3月29
そのため、
7
この
7
7
7
この
三好 長慶 との対立
8
9月、
6月24
最期
3月7
5月4
その
5月7
経歴
永 正 8年 3月 5日 (1511年 4月 2日 )、誕生 。永 正 18年 7月 28日 (1521年 8月 30日 )、朝廷 より義晴 の名 を与 えられ、従 五 位 下 に叙 す[15]。大 永 元年 11月 25日 (1521年 12月23日 )、正 五 位 下 に昇叙 し、左 馬頭 に任官 [15]。同 12月 24日 (1522年 1月 21日 )、細川 高 国 を加冠 役 として元服 [16]。同 12月 25日 (1522年 1月 22日 )、征夷大将軍 宣下 [16]。大 永 2年 2月 17日 (1522年 3月 14日 )、従 四 位 下 に昇叙 し、参議 に補任 。左 近衛 中将 を兼任 。享 禄 3年 1月 20日 (1530年 2月 17日 )、従 三 位 に昇叙 し、権 大納言 に転任 。天文 15年 12月 20日 (1547年 1月 11日 )、征夷大将軍 を辞職 し、義輝 に譲位 [99]。同 12月 21日 (1547年 1月 12日 )、右 近衛 大将 を兼任 [100]。天文 19年 5月 4日 (1550年 5月20日 )、薨去 。同 5月 7日 (1550年 5月 23日 )、贈 従 一 位 、左大臣 。
人物 ・評価
義晴 が播磨 から入京 した際 、二 条 のあたりで見物 した公家 の鷲尾 隆康 は自身 の日記 の中 で、義晴 を「御 容顔 美麗 也」と記 している(『二水 記 』)[15]。また、義晴 が元服 に際 して三条 御所 に移動 した際 には、見物人 の老若男女 であふれかえるなど、人々 の義晴 への関心 は高 かった[15]。義晴 は将軍 として、側近 集団 を内談 衆 として再 編成 して政権 中枢 に置 くことで自己 の親裁 権 の強化 を図 るなど、将軍 権威 の回復 に努 めた。だが、細川 氏 の内紛 をきっかけにした大 規模 な争乱 によって挫折 することになった。ただし、将軍 と内談 衆 の合議 による幕政 運営 はある程度 成功 し、幕政 における役割 を失 った管領 は儀礼 的 な役職 へと低下 していくことになった(幕府 内 及 び畿内 有数 の実力 者 であった細川 京 兆 家 の立場 の低下 を意味 するものでないことに注意 )。義晴 は戦国 期 の将軍 であったため、合戦 に出陣 することも多 かった。また、城郭 の築城 や大 規模 改修 をすることも多 く、特 に如意ヶ嶽 に築 いた中尾 城 は威容 を誇 る「名城 」として名高 く、普及 し始 めたばかりの鉄砲 対策 のため、城 の防壁 に石 や砂利 を敷 き詰 めるよう義晴 自 ら指示 したといわれる[101]。- 「
義晴 」の名前 を定 める勘 文 を作成 したのは東坊城 和 長 であるが、朝廷 への提出 段階 に入 ると、義晴 の烏帽子 親 になる予定 であった管領 の細川 高 国 から異論 があり、和 長 がこれを受 け入 れたところ、和 長 が他者 への偏 諱 とするのには良 くない(義晴 から偏 諱 を受 けた公家 や大名 は晴 字 が最初 にくる「晴 〇」という不吉 な諱 になり、偏 諱 を受 けたみんなが迷惑 する)と考 える「義晴 」に決定 してしまった[15][102]。そのため、「義晴 」の名前 を実際 に考 えたのは高 国 で、和 長 への異論 も自分 の案 である「義晴 」を候補 に入 れるようにとの要求 であったとみられる[103]。 義晴 が対立 将軍 候補 である足利 義 維に対 して優位 に立 てたのは、朝廷 から正式 に任命 された将軍 という点 にあった[104]。生涯 に幾度 も京 を落 ち延 びた義晴 だが、御内 書 を各国 の守護 ・国人 に出 すなど、巧 みな外交 戦略 を用 いて、義 維の入京 を許 さなかった。このため、義稙 や義澄 のように将軍 を廃 されることなく、一貫 して将軍 職 を保持 し続 けることに成功 した。全国 の守護 に対 する動員 権 は義晴 にあり、義晴 が発 した軍勢 催促 の御内 書 の宛先 は、大名 では上杉 氏 、朝倉 氏 、若狭 武田 氏 、北畠 氏 、畠山 氏 、赤松 氏 、山名 氏 、土佐 一条 氏 、大友 氏 、国人 では木曾 氏 、朽木 氏 、筒井 氏 、伊丹 氏 、浦上 氏 、海部 氏 、寺社 では根来寺 、諏訪 社 に及 んだ[104]。御内 書 を受 け取 った大名 の中 には、京 に軍勢 を派遣 したり、義 維方の領国 である丹波 や阿波 に侵攻 する者 もいた[104]。実際 に軍勢 を出兵 させたのは、越前 守護 の朝倉 孝 景 、若狭 守護 の武田 元 光 、近江 守護 の六角 定頼 、播磨 守護 の赤松 晴 政 、河内 守護 の畠山 稙長 、大和 国人 の筒井 順 興 、伊勢 国司 の北畠 晴 具 であった[105]。また、義晴 は豊後 守護 の大友 義鑑 、土佐 国司 の一条 房 家 に対 しては、阿波 への出兵 を要請 していた[105]。このように、義晴 は義 維方の勢力 圏 である四国 や丹波 を取 り囲 むように、軍事 要請 を行 っていた[106]。他方 、義 維を強 く支持 した大名 は細川 晴 元 のみで、他 に関係 を持 ったのは細川 持 隆 と畠山 義 堯、義 維と持 隆 に姉妹 を嫁 がせていた大内 義隆 、公家 では摂関 家 の九条 稙通くらいであった[107]。その上 、細川 氏 の家臣 (内 衆 )の中 でも柳本 賢治 や松井 宗 信 のように義晴 との和解 を主張 する者 もいた[104][107]。そして、何 よりも義 維は細川 晴 元 が京都 の実権 を握 った後 も、治安 の悪化 によって上洛 できなかった(=将軍 として在京 できる条件 が揃 わなかった)ために、義晴 を解任 して将軍 宣下 を受 けることが出来 なかったのが、彼 が堺 公方 に留 まって中央 政権 になり得 なかった最大 の要因 であった(後 に義 維の息子 ・義栄 が上洛 しないまま将軍 宣下 を受 けているが、この時 の将軍 職 は空席 )[108]。諸 大名 への偏 諱 授与 や白 傘 袋 、毛氈 鞍 覆 、塗 輿 の免許 、昇進 申請 など栄典 授与 を行 ったのもまた、義晴 のみであった[104]。義晴 が明 に勘合 符 を求 めて国書 を発給 したのも、将軍 のとしての権限 を行使 したものである[104]。義晴 と義 維はともに「公方 」「大樹 」と並 び称 されたが、多 くの人々 は義晴 を正式 な将軍 として認 めており、その差 は大 きかった[35]。朝廷 は義晴 のみを正統 な将軍 として見 ており、「享 禄 」「天文 」への改元 の際 には義晴 方 のみと交渉 を持 ち、義 維方には諮 っていない[31]。とはいえ、「享 禄 」「天文 」の改元 を行 う際 に改元 を要請 する武家 執奏 と、そのための費用 献上 を行 ったのは義晴 であった[109][110]。義晴 は朝廷 との関係 を重視 した将軍 であった。義晴 は足利 義満 以来 続 けてきた日野 家 との婚姻 関係 に代 わって、五摂家 の一 つ・近衛 家 出身 の正室 を迎 えることにより、朝廷 との関係 強化 を図 った[38]。他方 、この結婚 は将軍家 よりも、近衛 家 の方 が望 んで実現 したものだという見方 もある[111]。戦国 時代 になると、公家 は所領 を大名 や国人 に横領 され、五摂家 の近衛 家 といえども例外 でなく、財政難 に喘 いでいた[111]。そのため、近衛 家 の当主 ・近衛 尚 通 は将軍家 との結 びつきを強 め、家 の存続 を図 ったと考 えられている[111]。そして、義輝 の誕生 により、将軍家 と近衛 家 の関係 は密 なものになった[111]。また、この婚姻 の背景 として、尚 通 の正室 の実家 である徳大寺 家 と細川 高 国 が縁戚 関係 にあり、高 国 の仲介 で婚約 が成立 し、大物 崩 れによって高 国 が自刃 したのちも、足利 将軍家 と近衛 家 の利害 の一致 からそのまま婚姻 が実行 されたという。また、尚 通 の娘 (夫 の没後 は慶 寿 院 を名乗 る)が、将軍 の御 台所 としては日野 富子 以来 となる男子 (義輝 ・義昭 ・周 暠)を儲 けたことは、血縁 的 な後 ろ盾 が乏 しかった義晴 にとっては大 きな力 となった[112]。義晴 が将軍 辞任 後 、右 近衛 大将 に昇進 していることも注目 すべき点 である。足利 将軍 は将軍 在任 中 に権 大納言 と右 近衛 大将 を兼務 してから内大臣 に昇進 することを慣例 としていたが、その地位 が不安定 であった義稙 ・義澄 はともかく、義晴 は将軍 と権 大納言 の地位 にあってから久 しく経 つにもかかわらず、一向 に右 近衛 大将 就任 の意向 を示 さなかった。ところが、義晴 が突如 として将軍 職 を幼 い義輝 に譲 ることを知 った後 奈良 天皇 や近衛 稙家(義晴 の義兄 )ら朝廷 の人々 は、義晴 がこのまま政務 や京都 警固 の任 を放棄 することを憂慮 した(天文 5年 にも引退 を表明 して、最終 的 に撤回 している)。そこで、引 き留 めの意図 を含 めて、義輝 の将軍 宣下 の翌日 に義晴 を右 近衛 大将 に急遽 任 じたのである[注釈 3]。もっとも、義晴 自身 は官位 への関心 を示 すことなく、天文 16年 1月 26日 に義輝 とともに任官 の御礼 の参内 をしているものの、慣例 であった大将 拝賀 の儀式 もその後 の内大臣 任命 もなかった(大将 拝賀 も任 大 臣節 会 も費用 がかかるため、義晴 は大将 や大臣 に就任 することが費用 に見合 わないものと考 えていた可能 性 もある)[113]。義晴 は細川 晴 元 を支柱 としたものの、両者 の関係 は常 に緊張 があった。晴 元 が義晴 に従 って支援 しつつも、その一方 では将軍 対立 候補 の義 維を庇護 するという、「ねじれた関係 」を持 っていたからである[74]。義晴 もそのことは十分 に理解 しており、自身 の偏 諱 を与 えたものの、その関係 には一線 を敷 いていた。例 えば、天文 14年 (1545年 )2月 に義晴 は御所 での酒宴 で臣下 に酒 を与 えたが、晴 元 には「意趣 」(怨 み)ありとして酒 を与 えなかった[114]。晴 元 もまた同様 で、同年 の暮 れに臣下 が歳末 の賀 辞 を献 じるために参上 した際 、晴 元 だけは参上 しなかった[114]。義晴 と晴 元 の関係 悪化 は結果 として、義晴 が晴 元 を切 り捨 て、細川 氏綱 に乗 り換 える大 きな要因 となった[114]。義晴 が自身 の健在 なうちに将軍 職 を自分 の息子 に譲 ったのは、菊 幢丸(義輝 )がかつて自身 が将軍 に就任 した年齢 である11歳 になったことや、自分 が生 きているうちに息子 の地位 を安定 させる希望 があったとされる[115]。義晴 は中尾 城 の完成 時 には重病 となっており、既 に一 歩 も進 めない様態 であった。それでも、義晴 は果汁 の粥 をすすりながら進軍 し、その最期 の時 まで京都 奪還 への執念 を捨 てることは無 かったとされる[101]。死 の前日 、義晴 は絵師 の土佐 光茂 を呼 び寄 せて、自 らの肖像 画 を描 かせている[101][116]。
墓所
偏 諱 を受 けた人物
- ※ >より
右 の人物 は偏 諱 を受 けた者 から「晴 」の字 を与 えられた子息 ・家臣 を示 す。
公家
武家
「義 」の字
「晴 」の字
足利 晴 氏 (第 4代 古河 公方 )>簗 田 晴 助 ・結城 晴朝 [注釈 4]など足利 晴 直 (晴 氏 の弟 、一時期 上杉 氏 に養子 入 りして上杉 憲 寛 を名乗 る)赤松 晴 政 秋月 晴 種 尼子 晴 久 荒川 晴 宣 (澄 宣 の子 、松井 正之 とは義兄弟 )有馬 晴 純 一色 晴 家 一色 晴 具 一色 晴 範 大舘 晴 光 (大 館 晴光 とも、義晴 の義兄弟 にあたる)大舘 晴 忠 (大館 晴 忠 とも、治部 大輔 、晴 光 の甥 (兄 ・高信 の子 ))大内 晴 持 (義隆 の養子 )大友 晴 英 >陶 晴賢
小野寺 晴 道 (小野寺 稙道の子 で輝 道 (景 道 )の兄 にあたる)葛西 晴 重 葛西 晴 胤 葛西 晴 清 (晴 重 養子 、伊達 晴 宗 の実弟 )金山 晴 実 北畠 晴 具 (親 平 →具 国 →晴 具 )朽木 晴 綱 黒川 晴 氏 河野 晴 通 (別名 :通 政 )相良 晴 広 (義 滋 の養嗣子 )渋川 晴 繁 島津 晴 久 (のち義晴 の子 ・義輝 から1字 を賜 い「義虎 」に改名 )進士 晴 舎 (しんじ はるいえ)-進士 氏 の一族 。奉公 衆 。永 禄 の変 で自害 。杉原 晴 盛 諏訪 晴 門 諏訪 晴 長 (すわ はるなが) -諏訪 氏 一族 。金刺 麻 背 の子 ・倉 足 を祖 とする下諏訪 大祝 家 の当主 。歴代 当主 の中 で足利 将軍家 の偏 諱 を賜 った人物 としては晴 長 が唯一 である。詳 しい系図 はこちらを参照 。摂津 晴 門 (晴 直 )千秋 晴 季 (号 :月 斎 、幕府 奉公 衆 ・熱田 大宮 司 家 一族 (藤原 季 範 の末裔 )、養父 は高 季 で、弟 [注釈 5]がいると伝 わる。)千秋 晴 範 (高 季 の子 、高 季 の養子 とされる晴 季 と同 一人物 か)宗 晴 康 (晴 茂 )[119]曽我 晴 助 (曾我 氏 、義晴 の子 ・義昭 (のち第 15代 将軍 )に近習 として仕 える)大宝寺 晴 時 (武藤 晴 時 )大宝寺 晴 親 (大宝寺 義 増 の別名 )武田 晴 信 (信玄 )>一部 家臣 伊達 晴 宗 富樫 晴 貞 (初 め晴 泰 )>富樫 晴 友 (長男 )・富樫 晴光 (四男 )長尾 晴 景 南部 晴 政 >南部 晴 継 二階堂 晴 行 二階堂 晴 泰 (六郷 氏 の祖 ・六郷 通行 の祖父 。二階堂 行 貞 の末裔 で、晴行 とは遠戚 にあたる。)仁木 晴 定 (仁木 氏 、仁木 貞 長 の孫 、父 は細川 高 国 の盟友 ・仁木 高長 )仁木 晴 国 (晴 定 の弟 )二本松 晴 国 (畠山 晴 国 、二本松 畠山 氏 、二本松 家 泰 の父 または同 一人物 (改名 後 の名前 )とされる)畠山 晴 煕 (尾 州 畠山 尚順 の子 )畠山 晴 国 (晴 煕 の弟 、のち昭 国 に改名 ?、長寿 院 盛 淳 の祖父 ?)畠山 晴 俊 (能登 畠山 氏 の一族 、弘治 の内乱 にて畠山 義 綱 の対抗 馬 として擁立 される)畠山 晴 満 稗貫 晴 家 彦部 晴 直 (幕府 奉公 衆 、こちらを参照 。)細川 晴 元 (第 34代 室町 幕府 管領 、第 17代 細川 京 兆 家 当主 。細川 澄 元 の子 )細川 晴 之 (晴 元 の子 )細川 晴 国 細川 晴 貞 細川 晴 経 (輝 経 の父 )細川 晴 賢 (細川 政 賢 の孫 、父 は澄 賢 、御供 衆 の一人 で江口 の戦 いに参戦 )細川 晴 宣 (通称 、細川 五郎 。畠山 尚順 の子 (畠山 晴 煕 の兄弟 )とされる。細川 高基 の項 を参照 のこと。)細川 晴 広 (淡路 守護 、一説 によれば細川 幽斎 の父 とされる)松田 晴 秀
※
脚注
注釈
出典
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参考 文献
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