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足利義晴 - Wikipedia

足利あしかが義晴よしはる

室町むろまち幕府ばくふだい12だい将軍しょうぐん

足利あしかが 義晴よしはる(あしかが よしはる)は、 室町むろまち幕府ばくふだい12だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん在職ざいしょくだいひさし元年がんねん1521ねん〉 - 天文てんもん15ねん1546ねん〉)[3]だい11だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん足利あしかが義澄よしずみ長男ちょうなん(または次男じなん)。

 
足利あしかが 義晴よしはる
足利あしかが義晴よしはるぞう土佐とさ光茂みつしげ1550ねん
京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく芸術げいじゅつ資料しりょうかんぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし8ねん3月5にち1511ねん4がつ2にち
死没しぼつ 天文てんもん19ねん5月4にち1550ねん5がつ20日はつか
改名かいめい かめ王丸おうまる義晴よしはる
戒名かいみょう 萬松院曄山道照、まんまついん殿どの
墓所はかしょ 義晴よしはる地蔵寺じぞうじ
官位かんい したがえせいひだり馬頭めず
征夷大将軍せいいたいしょうぐんしたがえよん参議さんぎ
ひだり近衛このえ中将ちゅうじょうしたがえさんけん大納言だいなごん
みぎ近衛このえ大将たいしょうおくしたがえいち左大臣さだいじん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふだい12だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん
在職ざいしょくだいひさし元年がんねん1521ねん) - 天文てんもん15ねん1546ねん))
氏族しぞく 足利あしかが将軍家しょうぐんけ
父母ちちはは ちち足利あしかが義澄よしずみはは日野ひのおもねあんよういん日野ひのえいしゅんむすめ)?
養父ようふ足利あしかが義稙よしたね[1]
兄弟きょうだい 義晴よしはるずいふう[注釈ちゅうしゃく 1]
つま 正室せいしつけい寿ことぶきいん近衛このえしょうどおりむすめ
側室そくしつだいたてしょうつねきょう)のむすめ一色いっしょくはれむすめ、ほか
義輝よしてる義昭よしあきしゅう白鳥しらとり義久よしひさ?[2]むすめ武田たけだ義統よしむねしつ)、むすめ三好みよし義継よしつぎしつ)、入江いりえ殿どの烏丸からすま光宣みつのぶしつ)、たからきょうてらげん
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生涯しょうがい

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誕生たんじょう

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えいただし8ねん1511ねん)3がつ5にちだい11だい将軍しょうぐん足利あしかが義澄よしずみ長男ちょうなん(または次男じなん)として、近江おうみこく蒲生がもうぐん水茎みずぐき岡山おかやまじょうまれた[4]幼名ようみょうかめ王丸おうまる(きおうまる)と名付なづけられた[4]

はは日野ひのえいしゅんむすめおもねあんよういん)とされ、彼女かのじょ日野ひの勝光かつみつ日野ひの富子とみこめいにあたる人物じんぶつである。しかし、えいしゅんむすめえいただし2ねん1505ねん)に義澄よしずみ離縁りえんしているため、義晴よしはる生母せいぼとしては疑問ぎもんのこる。これにたいして、将軍家しょうぐんけ御末おすえ下級かきゅう侍女じじょ)をつとめていた「おもねあずか」という女性じょせい母親ははおやであって[5][6][7]母親ははおや身分みぶんひくかったために記録きろくのこされなかったとするせつもある。

また、かめ王丸おうまるには足利あしかがよし幼名ようみょうしょう)という兄弟きょうだいがいた[8]かれかめ王丸おうまるあにとするせつと、あるいはおとうととするせつがある[8]。ただし、公家くげ鷲尾わしお隆康たかやす自身じしん日記にっき二水にすい』において、よし維を「しゅう武家ぶけ舎弟しゃてい」としるしているように、義晴よしはるあによし維をおとうととするのが当時とうじ人々ひとびと認識にんしきであった[8]

かめ王丸おうまる誕生たんじょうちち義澄よしずみ大内おおうち義興よしおきようされたぜん将軍しょうぐん足利あしかが義稙よしたね上洛じょうらくしたあおりをけ、将軍しょうぐんしょく解任かいにんされており、近江おうみ六角ろっかく高頼たかよりたよってびていた[9]。そして、同年どうねん8がつ14にちちち帰洛きらくたせないまま、同地どうち死去しきょした。

播磨はりまでの生活せいかつ

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誕生たんじょう直後ちょくごかめ王丸おうまる義澄よしずみであった播磨はりま守護しゅご赤松あかまつよしむらのもとにおくられ、その庇護ひご養育よういくされることになった(『こうだいてら日記にっき』『武家ぶけのぼり日記にっき』)[8][10]。その理由りゆうとして、義澄よしずみ庇護ひごしていた六角ろっかく高頼たかより義稙よしたね内通ないつうしているとのうわさがあり、信頼しんらいできる赤松あかまつあづけることが賢明けんめいだと判断はんだんされたからである[8]

以後いごかめ王丸おうまる赤松あかまつ拠点きょてんであるおけしおそだち、11さい上京じょうきょうするまで播磨はりま生活せいかつおくることになった[8]よしむら義澄よしずみからたくされたかめ王丸おうまるを、慈愛じあいをもって保護ほごし、けんしんちゅうくした[11]。また、よしむら和歌わか書道しょどうひいでており、おけしおじょうのふもとにあったおけしおかんでは、冷泉れいせんためひろなど京都きょうと公家くげ家人かじんおとずれていた[11]他方たほうよしむら備前びぜん守護しゅごだい浦上うらかみ村宗むらむね家臣かしん対立たいりつ懐柔かいじゅうかえしていた[11]

えいただし8ねん1511ねんうるう4がつ義稙よしたね管領かんりょう細川ほそかわだかこく摂津せっつ尼崎あまがさき派遣はけんし、よしむら義母ぎぼほらまついん交渉こうしょうかめ王丸おうまるかくまむら赦免しゃめんした[11]

えいただし10ねん1513ねん)2がつ14にち義稙よしたね陣営じんえい義澄よしずみ陣営じんえい実質じっしつかめ王丸おうまる陣営じんえい)の和睦わぼくにより、義稙よしたね将軍しょうぐんしょく確定かくていした。このとき和睦わぼくあかしとして、よしむらみずからが上洛じょうらくし、かめ王丸おうまるからあずかった太刀たちうま義稙よしたね進上しんじょうした[11]。なお、義晴よしはるはこの和睦わぼく以降いこうよし維とともに義稙よしたね養子ようしになったとする史料しりょう[12]もある[6][11]

えいただし17ねん1520ねん)11月、よしむら義母ぎぼほらまついん浦上うらかみ村宗むらむねによって隠居いんきょまれ、嫡子ちゃくし赤松あかまつはれまさし家督かとくゆずり、出家しゅっけした[13]。だが、12月にむらかめ王丸おうまるとともにおけしお脱出だっしゅつし、はしだに衣笠きぬがさ五郎左衛門ごろうざえもんたよった[14]

えいただし18ねんだいひさし元年がんねん1521ねん)3がつよしむら浦上うらかみ村宗むらむねへの反攻はんこう目論もくろみ、かめ王丸おうまる名目めいもくじょう旗頭はたがしらかつされてしまったが、よしむら裏切うらぎりにあい、東条とうじょうおういずみてらうつった[14]。その村宗むらむね和睦わぼくし、片島かたしま長福寺ちょうふくじうつった[14]

将軍しょうぐん就任しゅうにん

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細川ほそかわだかこくぞうひがしりんいん所蔵しょぞう

同年どうねん3がつ7にちこうこく対立たいりつした義稙よしたね京都きょうと出奔しゅっぽんし、同月どうげつ22にちおこなわれたこう柏原かしわばら天皇てんのう即位そくいしき出仕しゅっししなかったため、こうこく警固けいご職務しょくむおこなった。これにより、義稙よしたね天皇てんのう信任しんにんうしない、その放逐ほうちく決意けついしたこうこくしん将軍しょうぐん擁立ようりつめた[14]当時とうじよし維はこうこく敵対てきたいする細川ほそかわきよしもとのもとでそだてられていたため、政情せいじょう不安ふあんにより播磨はりま各地かくちむらとともに転々てんてんとするかめ王丸おうまるが、しん将軍しょうぐんとしてきょうまねかれることとなった[14]

4がつ19にちこうこく若狭わかさ守護しゅご武田たけだもとひかり上洛じょうらくうながすとともに、よしむら対立たいりつする浦上うらかみ村宗むらむねにもけた[14]村宗むらむねよしむら忠節ちゅうせつちかって和睦わぼくし、かめ王丸おうまるむらのもとからはなした[14]かめ王丸おうまるうしなったよしむら村宗むらむね謀殺ぼうさつされたのは、その5ヶ月かげつのことであった[14]

7がつ6にちかめ王丸おうまる播磨はりまから3まんにんきょうぜいれて上洛じょうらくし、こうこく歓待かんたいけた[15]。そのかり御所ごしょとして上京じょうきょう岩栖院がんすいんはいった[15]公家くげ鷲尾わしお隆康たかやす自身じしん日記にっきに「不慮ふりょうんで、まこと奇特きとくだ」と、しん将軍しょうぐんころがりんだかめ王丸おうまるめずらしがっている(『二水にすい』)[15]

7がつ26にちかめ王丸おうまる学習がくしゅう開始かいし儀式ぎしき「読始」をおこない、28にちには朝廷ちょうていからこうこく東坊城ひがしぼうじょうちょうによってかんがえられた義晴よしはるあたえられ、したがえじょされた[15]

8がつ9にち元服げんぷくまえ儀式ぎしきである涅歯(鉄漿かねくろめる儀式ぎしき)をおこな[15]、8がつ29にちには内裏だいりだいはじめ参賀さんがおこなった。また、こうこく判断はんだんれた朝廷ちょうていからは、11月25にちせいひだり馬頭めずにんぜられた[15]

12月24にち義晴よしはるあらたに御所ごしょさだめられた三条さんじょう御所ごしょうつり、元服げんぷくおこなった[16][17]元服げんぷく足利あしかが義政よしまさ故実こじつのっとっておこなわれ、こうこく加冠かかんやくつとめた[16]

よく25にち朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐん補任ほにんされ、だい12だい将軍しょうぐんとなった[16][17]。また、同日どうじつ政務せいむをとりはじめるための儀式ぎしき沙汰さたはじめ」、「評定ひょうじょうはじめ」、「はんはじめ」がおこなわれた[16]

とはいえ、11さい義晴よしはるには実際じっさい政務せいむおこなうには未熟みじゅくで、細川ほそかわだかこく政所まんどころ執事しつじあたまじん)の伊勢いせさだただし飯川いいかわ国信くにのぶだいたてしょうつねきょう)に代表だいひょうされる義澄よしずみ支持しじしていた幕臣ばくしんなかには義晴よしはるとも播磨はりまくだっていたものもいた)、播磨はりまこく所領しょりょう奉公ほうこうしゅさんふちはれいんあねだいたて養女ようじょともされる義晴よしはる養育よういくがかりきょく清光せいこういんらが政務せいむ運営うんえいにあたった[18][19]

朽木くちきでの政治せいじ

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だいなが6ねん1526ねん)7がつこうこく家臣かしん香西こうざいもともり細川ほそかわいんけん讒言ざんげんおうじて殺害さつがいすると、もともり兄弟きょうだいである波多はた野元のもときよし柳本やなぎもと賢治けんじらがこうこくから離反りはん細川ほそかわはるもと当時とうじ六郎ろくろう)と内通ないつうし、内紛ないふん発生はっせいした[16][20]。さらに、はれもと足利あしかがよし維を擁立ようりつし、はれ元方もとかた細川ほそかわきよしけん三好みよし勝長かつなが三好みよし政長まさながらが和泉いずみさかい上京じょうきょうした[16][21]

だいなが7ねん1527ねん)2がつこうこくはれ元方もとかたかつら川原かわらたたかやぶれたため、義晴よしはるこうこくとともに近江おうみ坂本さかもとのがれ、蒲生がもうぐん武佐むさ長光寺ちょうこうじはいった[22][21]。そのあいだはれはじめよし維は三好みよし元長もとながほうじられ、阿波あわから和泉いずみさかいへとはいり、さかい公方くぼう成立せいりつした[22][21]

10月、義晴よしはる細川ほそかわいんけん六角ろっかく定頼さだより朝倉あさくら教景のりかげら5まんにん軍勢ぐんぜいとともに入京にゅうきょうした[23]。さらに、畠山はたけやまよしやぶり、西岡にしおかまで進出しんしゅつしたものの、三好みよし元長もとなが柳本やなぎもと賢治けんじ挟撃きょうげきされ、19にちやぶれた[23]。そのりょうぐんはともに入京にゅうきょうし、義晴よしはる元長もとながとのあいだ交渉こうしょうおこなわれた[24]

だいなが8ねんとおるろく元年がんねん1528ねん)1がつ17にち義晴よしはる定頼さだより仲介ちゅうかいけ、三好みよし元長もとなが和睦わぼくした[24]。このとき、元長もとなが義晴よしはる滞在たいざいしていた東寺とうじ訪問ほうもんして、義晴よしはる面会めんかいしている[25]。だが、賢治けんじがこれに反発はんぱつしたほか、三好みよし政長まさなが賢治けんじ同調どうちょうして28にちきょうったばかりか、2がつ9にちにははれもともこの和睦わぼく反対はんたいしていることが判明はんめいした[25]

5月14にちこうこく失脚しっきゃくして京都きょうとから逃亡とうぼうしたのち[24]、28にち義晴よしはる軍勢ぐんぜい2まん(うち1まんろくかくぜい)とともに近江おうみ坂本さかもとうつった[22]和睦わぼく交渉こうしょう自体じたいはれもと義晴よしはるかた六角ろっかく定頼さだよりとのあいだ継続けいぞくされたが、さかい維が阿波あわ退却たいきゃくしなかったため、義晴よしはるはれもとうたがうようになった[22][24]。そして、7がつ元長もとながきょうにおいて、地子じしぜに徴収ちょうしゅう強行きょうこうしたため、交渉こうしょう決裂けつれつした[24]

9月、義晴よしはる高島たかしまぐん朽木くちきしょうびた[22]朽木くちきしょうふく高島たかしまぐんないには7もの幕府ばくふ奉公ほうこうしゅたる領主りょうしゅがおり、義晴よしはるたよった朽木くちき当主とうしゅ朽木くちき稙綱もその一人ひとりであった[26]。また、湖西こさい地方ちほう朽木くちききょうから北東ほくとうもっと安全あんぜん確保かくほされたで、日本海にほんかいがわへの逃走とうそうルートを確保かくほできる位置いちにもあり、いざとなれば義晴よしはるかた勢力せいりょくがある北陸ほくりく山陰さんいんけることができた[27]義晴よしはる朽木くちき滞在たいざいちゅう岩神やがみ居住きょじゅうしたが、阿野あのだいたてしょう大和やまと兵部ひょうぶしょう輔などもしたがった人々ひとびとも、それぞれ宿所しゅくしょっていた[28]

義晴よしはるは2ねんはんにわたり、朽木くちきにおいて幕府ばくふ政治せいじおこなった[28]朽木くちき義晴よしはるにはおおくの人々ひとびとしたがい、奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅ・昵近公家くげしゅ外様とざましゅ御供ごくうしゅ部屋へやしゅさるしゅばんしゅ同朋どうほうしゅ女房にょうぼうしゅ幕府ばくふ構成こうせいする人員じんいんそろっており、相当そうとうすう朽木くちき滞在たいざいしていたため、亡命ぼうめいさきでの幕府ばくふ政治せいじ可能かのうとした[28][29]。もっともこれらのなかには、はれ元方もとかた工作こうさくさかい公方くぼう寝返ねがえものもおり、とおるろく2ねん1522ねん)8がつには公家くげしゅ17にん朽木くちき退しりぞいたが[28]幕府ばくふささえた人々ひとびとおおくは朽木くちきのこった[29]

地方ちほう大名だいみょうもまた、義晴よしはるとの関係かんけい維持いじしていた[29]近江おうみにおいては、六角ろっかく湖北こほく地方ちほう京極きょうごく浅井あさい対立たいりつしていたが、義晴よしはる朝倉あさくら近江おうみ北境きたざかいまもらせるとともに、こうこく六角ろっかく浅井あさい仲介ちゅうかいさせ、和議わぎはかろうとした[30]きょうから北東ほくとう義晴よしはるかた主力しゅりょくとなったのは、近江おうみ六角ろっかく定頼さだより越前えちぜん朝倉あさくらたかしけい若狭わかさ武田たけだもとひかり但馬たじま山名やまなまことゆたからであり、かれらが義晴よしはる軍事ぐんじてきささえた[30]。そして、その軍事ぐんじりょく背景はいけいに、はれもと三好みよし元長もとながらが擁立ようりつしたさかい公方くぼう足利あしかがよし維に対抗たいこうした[30]

とおるろく4ねん1531ねん)1がつ義晴よしはるしたがえさんけん大納言だいなごん昇進しょうしんした[28]朝廷ちょうてい勅使ちょくし清原きよはらぎょうけんゆきふか朽木くちき下向げこうし、その宣旨せんじくだしたが、その対面たいめんには公家くげ烏丸からすま光康みつやすさるつとめていた[28]。このように、きょう朽木くちきあいだでは頻繁ひんぱんにやりりがなされ、公家くげきょうから朽木くちきへとしばしばおとずれていた[31]朝廷ちょうてい公家くげもまた、義晴よしはるとの関係かんけい維持いじしていた[29]

1がつまつ湖北こほく地方ちほう浅井あさい亮政すけまさはれもと呼応こおうし、朽木くちきしょうのある高島たかしまぐんめた[31]。そのため、2がつ1にち義晴よしはる葛川くずかわうつり、堅田かただ経由けいゆし、17にち坂本さかもとへとはいった[32]。その六角ろっかく浅井あさい箕浦みのうらやぶり、浅井あさい南下なんかふせいだ[31]

桑実寺くわのみじでの政治せいじ

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桑実寺くわのみじ縁起えんぎ絵巻えまき』(桑実寺そうじつでら所蔵しょぞう

一方いっぽう義晴よしはる朽木くちき滞在たいざいちゅうこうこく各地かくちしょ大名だいみょうのもとを遊説ゆうぜいし、かつて義晴よしはる入京にゅうきょう協力きょうりょくした播磨はりま浦上うらかみ村宗むらむね協力きょうりょくて、とおるろく3ねん1530ねん)8がつ摂津せっつはいっていた[33][34]義晴よしはる六角ろっかく定頼さだよりとともにこれに呼応こおうし、上洛じょうらくこころみた[35]

だが、とおるろく4ねん6がつこうこく村宗むらむねかた摂津せっつ大物おおものうらにおいて、赤松あかまつはるせい裏切うらぎりにあって、よし維・はれ元方もとかた三好みよし元長もとなが敗北はいぼくした。これにより、村宗むらむねにし、こうこく自害じがい余儀よぎなくされた(大物おおものくず[32][34]。これにより、義晴よしはるおおきなうしたてであったこうこくうしなった。

7がつ義晴よしはるこうこくにをけて、蒲生がもうぐん武佐むさ長光寺ちょうこうじ移動いどうし、とおるろく5ねん天文てんもん元年がんねん1532ねん)7がつには六角ろっかく定頼さだより居城きょじょう観音寺かんおんじじょう山麓さんろくにある桑実寺そうじつでらはいった[32]義晴よしはる桑実寺そうじつでらうつった理由りゆうとしては、日本海にほんかいがわへのルートが危険きけんとなったため、きょうちかろくかく庇護ひごはい必要ひつようせいせまられたためであった[32]

義晴よしはる以後いご桑実寺くわのみじにおいてやく2年間ねんかんごし、幕府ばくふ政治せいじおこなった[32]。そのあいだ義晴よしはるのもとには大徳寺だいとくじなど、京都きょうと権門けんもんから訴訟そしょうまれ、審議しんぎおこなわれた[32]大徳寺だいとくじんだ訴訟そしょう場合ばあい、かつて義晴よしはる庇護ひごしていた奉公ほうこうしゅ朽木くちきしょくつなとおし、義晴よしはるのもとに訴訟そしょうまれている[36]。その採決さいけつもまた、六角ろっかく定頼さだより意見いけんれられるなど、庇護ひごしている定頼さだより意見いけん尊重そんちょうされた。

また、だいなが7ねん以降いこう若狭わかさ武田たけだ越前えちぜん朝倉あさくら出兵しゅっぺいしなくなっており、こうこくという支柱しちゅううしなった結果けっか義晴よしはる近江おうみ六角ろっかく全面ぜんめんてきたよらざるをなくなっていた[37]義晴よしはる入京にゅうきょうするためは、定頼さだより意見いけん重視じゅうしせねばならず、義晴よしはるこうこくわる存在そんざいとして定頼さだより意見いけんもとめ、定頼さだより幕府ばくふ政治せいじ意見いけんするという状態じょうたいつづいた[37]

天文てんもん2ねん1533ねん)9がつ12にち朝廷ちょうてい義晴よしはるちち足利あしかが義澄よしずみ太政大臣だじょうだいじん追贈ついぞうしている[37]

10がつ以降いこう義晴よしはる病気びょうき理由りゆうとして一切いっさい面会めんかいことわったため、義晴よしはる決裁けっさい必要ひつよう政務せいむとどこおり、翌年よくねん8がつ政務せいむ再開さいかいされるまでこの状態じょうたいつづいた[38]義晴よしはる病状びょうじょうは『けんみぎきょう』には「虫気むしけ」としるされており、腹痛はらいたともな病気びょうきであったとかんがえられている[37]

天文てんもん3ねん1534ねん)6がつ8にち義晴よしはるぜん関白かんぱく近衛このえしょうどおりむすめけい寿ことぶきいん)を正室せいしつとした[37]。この婚礼こんれいかみなりのなる夕立ゆうだちなかおこなわれた、としるされている[38]足利あしかが義満よしみつ以来いらい代々だいだい将軍しょうぐん日野ひのから正室せいしつむかれていたが、 義晴よしはるはさらに上位じょうい近衛このえ出身しゅっしん正室せいしつむかえることにより、朝廷ちょうていとの関係かんけい強化きょうかはかったとかんがえられる[38]

また、義晴よしはる桑実寺くわのみじ滞在たいざいちゅう、『桑実寺くわのみじ縁起えんぎ絵巻えまき』の作成さくせい三条西さんじょうにし実隆さねたか土佐とさ光茂みつしげ依頼いらいしているが、きょうはなれていてもきょうつよいつながりをもっていたのは、このころ義晴よしはるつよみでもあった[39]

義晴よしはるはれもと体制たいせい成立せいりつ

編集へんしゅう
 
足利あしかが義晴よしはるぞういにしえ類聚るいじゅう

一方いっぽうさかい幕府ばくふ内部ないぶでもあらそいがこっていた。こうこくにより、足利あしかがよし維が上洛じょうらくし、あらたな将軍しょうぐんになるかとおもわれた[34]。だが、とおるろく4ねん8がつにははれもと御前ごぜんしゅである木沢きさわ長政ながまさ細川ほそかわもちたかし支援しえんする三好みよし元長もとながあらそいが原因げんいんで、さかいはれもともちたかし両者りょうしゃたがいに籠城ろうじょうしてそううという事態じたい発生はっせいした[34]

天文てんもん元年がんねん5がつよし維方のこうそうむことなく、畠山はたけやまよし堯は細川ほそかわはるもとへの接近せっきんはか自身じしんうちしゅでもある木沢きさわ長政ながまさ飯盛山いいもりさんじょう包囲ほういした[40]。これにたいして、はれもと山科やましな本願寺ほんがんじ法主ほっしゅあかし援軍えんぐん依頼いらいし、6がつには一向いっこう一揆いっき畠山はたけやまよし堯をったばかりか、20まん軍勢ぐんぜいさかい包囲ほういした[41]一向いっこう一揆いっきめられた元長もとながあらわ本寺ほんじ自害じがいし、よし維もどうてら自害じがいしようとしたが、はれもとらえられた[41]

10がつ20日はつかよし維がさかい淡路あわじ没落ぼつらくしたことで、和睦わぼく障害しょうがいった[42]。そして、11月7にち義晴よしはるはれもとあいだ和睦わぼく成立せいりつした[42]

天文てんもん3ねん6がつ義晴よしはる桑実寺くわのみじから坂本さかもとうつった[43]。すでに、六角ろっかく定頼さだより細川ほそかわはるもととのあいだにも和睦わぼく成立せいりつしていた[37]入京にゅうきょう目前もくぜんにして、奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅ政務せいむ再開さいかい連名れんめい義晴よしはる依頼いらいし、8がつから義晴よしはる政務せいむ再開さいかいした[43]

9月、義晴よしはる六角ろっかく定頼さだよりとともに入京にゅうきょうしたが、定頼さだよりきょうまらなかった[43]定頼さだより在京ざいきょうちゅう国内こくない有力ゆうりょく国人くにびと伸長しんちょうすることおそれており、在国ざいこくしながら幕府ばくふ政治せいじへの意見いけんのぞんだ[43]

他方たほうはれはじめもまた、三好みよし長慶ちょうけい木沢きさわ長政ながまさらとともに上洛じょうらくし、義晴よしはる擁立ようりつする政治せいじ体制たいせい開始かいしされた。当時とうじ京都きょうと出仕しゅっししていた大名だいみょうは、はれはじめ同族どうぞく細川ほそかわもとつね和泉いずみ守護しゅごさんふちはれいん実兄じっけい)しかおらず、近江おうみ在国ざいこく定頼さだよりくわえたこの3にん義晴よしはる協調きょうちょうした一時いちじてき安定あんていむかえることになる[44]。また、六郎ろくろう仮名かめい長年ながねん名乗なのつづけてきたはれもとであったが、天文てんもん4ねん(1535ねん)に義晴よしはるへんいみなけて、はれはじめ名乗なのりをあらためている。なお、天文てんもん6ねん(1537ねん)にはれもと定頼さだより猶子ゆうし実父じっぷ三条さんじょうこうよりゆき)をつまむかえている。

義晴よしはる帰京ききょうすると、様々さまざま案件あんけんむようになって、おおくの政務せいむ処理しょりもとめられた結果けっか定期ていきてきひらかれる審理しんりだけはいつかなくなった[45]。また、管領かんりょうわるべき定頼さだより上洛じょうらくしなかったこともあり、義晴よしはるきょうにおける政務せいむ補佐ほさ代行だいこうしゃ必要ひつようとした[45]

天文てんもん5ねん1536ねん)3がつ10日とおか嫡男ちゃくなんきく幢丸(のちのふじ義輝よしてる)が誕生たんじょうすると、8がつ27にち義晴よしはる将軍しょうぐんしょくをこのきく幢丸にゆず意向いこうしめした(『鹿しかえん日誌にっし』『いむじょ往年おうねん』)[45]。そのさいきく幢丸を補佐ほさし、政務せいむ代行だいこうする「年寄としよりしゅ」を指名しめいしている[45]。その義晴よしはる引退いんたい撤回てっかいしたが、その8めい大舘おおたちつねきょうだいたて晴光はるみつ摂津せっつ元造もとぞう細川ほそかわ高久たかひさ海老名えびな高助たかすけ本郷ほんごうひかりやすし荒川あらかわたかし朽木くちき稙綱)の年寄としよりしゅは、のち内談ないだんしゅばれて義晴よしはる政権せいけん政権せいけん運営うんえいささえる側近そっきん集団しゅうだんとなった[46][注釈ちゅうしゃく 2]

天文てんもん10ねん1541ねん)9がつ6にち長慶ちょうけい政長まさなが共同きょうどうきゅうこうこくけい国人くにびと塩川しおかわこくみつるめ、一庫ひとくらじょう包囲ほういした[47]長慶ちょうけい摂津せっつ勢力せいりょくひろげており、きゅうこうこくけい国人くにびと衝突しょうとつ相次あいついでおり、このとしの7がつにも長慶ちょうけい政長まさなが上田うえだめ、自害じがいさせていた[47]当時とうじこうこく後継こうけいしゃでもある細川ほそかわ氏綱うじつなきゅうこうこく結集けっしゅうかくとして台頭たいとうしつつあり、塩川しおかわこくまんのように氏綱うじつな味方みかたしようとする国人くにびともいた[48]

そのため、くにまん内縁ないえんであった伊丹いたみちかしきょう三宅みやけこくむら木沢きさわ長政ながまさたより、9月29にち長政ながまさおとうと援軍えんぐんとして伊丹いたみじょう派遣はけんすると、10月2にち長慶ちょうけいらは敗北はいぼくし、各々おのおの居城きょじょう退去たいきょした[48]。その前日ぜんじつの10がつ1にち木沢きさわ長政ながまさ伊丹いたみちかしきょう三宅みやけこくむらとともに、だいたてしょう三好みよし政長まさなが成敗せいばいうったえたが、幕府ばくふ細川ほそかわ内部ないぶ問題もんだいとして介入かいにゅうしなかった[49]一方いっぽうはれもと三好みよし政長まさなが味方みかたし、長政ながまさけてらくきた退去たいきょした[49]

11月2にち義晴よしはるはれもとがわとして、近江おうみ坂本さかもとのがれた。長政ながまさ行動こうどう義晴よしはるはれもとみとめられないという状況じょうきょうになると、三宅みやけこくむらはれもと帰参きさんした[49]。さらに、同月どうげつ18にち義晴よしはる山名やまな仁木にきたいして、はれもと協力きょうりょくするむね御内おんうちしょはっした[49]

12月20にち義晴よしはる天文てんもん一向いっこう一揆いっき反省はんせいまえて、石山いしやま本願寺ほんがんじ法主ほっしゅあかし如にたいして、河内かわうち門徒もんと長政ながまさ味方みかたしないよう御内おんうちしょはっした[49]同月どうげつちゅう三好みよし長慶ちょうけい遊佐ゆさちょうきょうあいだで、長政ながまさ相談そうだんおこなわれ、長政ながまさ孤立こりつ無援むえんおちいった[49]

天文てんもん11ねん1542ねん)3がつ遊佐ゆさちょうきょう幕府ばくふへの復帰ふっき目指めざし、畠山はたけやま稙長たねなが紀伊きいよりむかれ、はれもととともに長政ながまさ討伐とうばつへいげた[50]稙長たねながはこのとき、熊野くまのしゅう根来寺ねごろじ高野山こうのやまといった宗教しゅうきょう勢力せいりょくや、幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ湯河ゆかわなど、紀伊きいいちこく勢力せいりょく統合とうごうしていた[50]

17にち長慶ちょうけい政長まさながちょうきょうらは長政ながまさ太平寺たいへいじたたか[51]、そのくび義晴よしはるのもとにおくった[52]。これをけて、同月どうげつ義晴よしはるきょう帰還きかんし、あたらしい御所ごしょ造営ぞうえい着手ちゃくしゅした。

はれもととの対立たいりつ将軍しょうぐんしょく譲渡じょうと

編集へんしゅう

天文てんもん12ねん1543ねん)7がつ25にち細川ほそかわ氏綱うじつなはれもと打倒だとうへいげ、いちまんへいひきい、和泉いずみ河内かわうち紀伊きいさんこく国境こっきょうにある槙山まきやまじょうほどこせぶくてらはいった[53]。また、氏綱うじつな2人ふたりおとうと細川ほそかわふじけん細川ほそかわ勝国かつくに細川ほそかわ一族いちぞく細川ほそかわこくけい細川ほそかわだかえきちょうしお赤沢あかざわ味方みかたしていた[53]。さらに、氏綱うじつないもうとつまとしていた畠山はたけやま稙長たねながやその家臣かしんゆうちょうきょう紀伊きい根来寺ねごろじ加勢かせいもあり、一大いちだい勢力せいりょくとなった[53]。だが、義晴よしはるはれもと支持しじ姿勢しせいえなかった。

同月どうげつ25にち氏綱うじつなさかい攻撃こうげきするも、はれ元方もとかた和泉いずみ守護しゅごだい松浦まつうらまもる撃退げきたいされた[53]。さらに、8がつ16にちはれもといのちけた長慶ちょうけいさかい出陣しゅつじんし、10月12にち氏綱うじつなかた玉井たまいやぶると、翌日よくじつ氏綱うじつな撤退てったいした[53]

天文てんもん14ねん1545ねん)5がつ6にち細川ほそかわこくけい南山城みなみやましろ井出いでしろ攻略こうりゃくし、丹波たんばでは内藤ないとう国貞くにさだ挙兵きょへいした[53]。だが、氏綱うじつなかた畠山はたけやま稙長たねなががこのころ死去しきょしたため、士気しきがらなかった[53]

5月24にちはれもと定頼さだよりからの支援しえんて、長慶ちょうけい政長まさながしたがえて、2まんあまり大軍たいぐん宇治田原うじたわら寺田てらだ出兵しゅっぺいした[53]たたかいははれもと圧勝あっしょうわり、きょう帰還きかんすると、7がつ長慶ちょうけい内藤ないとう国貞くにさだめ、27にち国貞くにさだ籠城ろうじょうするせきやまじょう攻略こうりゃくした。

天文てんもん15ねん1546ねん)8がつ16にちみなみ近畿きんき氏綱うじつなちょうきょううごきをて、はれもといのちけた長慶ちょうけいさかい出陣しゅつじんした[54]。だが、長慶ちょうけい氏綱うじつな大軍たいぐんさかい包囲ほういされたため、退却たいきゃく余儀よぎなくされた[54]氏綱うじつなぐんすすめ、9月に三宅みやけこくむら池田いけだ信正のぶまさ氏綱うじつな味方みかたしたため、はれ元方もとかた摂津せっつにおける味方みかた伊丹いたみちかしきょうしかいなくなった[54]

9月13にち細川ほそかわこくけい京都きょうと制圧せいあつしたことで、はれもと丹波たんばちのびた[54][55]一方いっぽうで、上野うえの元治もとはるはれもと義晴よしはるちるのをふせぐため、同日どうじつ河内かわうちから入京にゅうきょうしたが、義晴よしはる東山ひがしやま慈照寺じしょうじ銀閣寺ぎんかくじ)にはいった[55][56]一方いっぽう畠山はたけやままさしこく重臣じゅうしん遊佐ゆうさちょうきょうひそかに使者ししゃ義晴よしはるのもとに派遣はけんし、氏綱うじつなへの支持しじもとめた[57]義晴よしはるはれもと苦境くきょうて、はれもと排斥はいせきしようと画策かくさくした[57]

10がつ20日はつか長慶ちょうけいちょうおとうと三好みよしみのるきゅうが2まん軍勢ぐんぜいひきい、阿波あわからさかい渡海とかいした[54][58]。また、長慶ちょうけいおとうと安宅あたかふゆやすし淡路あわじから軍勢ぐんぜいひきいてけた[58]。 そして、11月13にちにははれもと丹波たんばからもどり、神呪かんのうてらはいった[58]

11月、義晴よしはる三好みよしぐん続々ぞくぞく上洛じょうらくするのをて、北白川きたしらかわ将軍しょうぐん山城やましろ瓜生うりゅう山城やましろ)を改修かいしゅうし、入城にゅうじょうした[59][58]。また、山科やましなななさとから人夫にんぷし、年貢ねんぐさんぶんいちしろまいとしてりた[58]。さらに、同月どうげつ2にちには伊予いよ河野こうのとおるじき豊後ぶんご大友おおとも義鑑よしあきたいし、三好みよしぜい阿波あわ讃岐さぬき退しりぞかせるようにめいじている[60]

12月18にち義晴よしはる嫡子ちゃくしふじとともに慈照寺じしょうじて、近江おうみ坂本さかもと避難ひなんした[56][57][61]。そして、19にちふじ日吉ひよし神社じんじゃげん日吉ひよし大社たいしゃ祠官しかん下成しもなりたもつだい元服げんぷくさせ、六角ろっかく定頼さだより烏帽子えぼしおやつとめさせた[56]。そして、よく20にちには朝廷ちょうてい勅使ちょくし坂本さかもとまねき、よしふじ将軍しょうぐん宣下せんげおこなわせ、義晴よしはる将軍しょうぐんしょくゆずった(『光源院こうげんいん殿御とのご元服げんぷく』、『  足利あしかが』、『ぞく応仁おうにん後記こうき』、『ちょう享年きょうねん畿内きない兵乱へいらん』)[56][57][58][62]

当時とうじ室町むろまち幕府ばくふ慣例かんれいでは、将軍しょうぐんまたは後継こうけいしゃ元服げんぷくするさいには、ちちである将軍しょうぐん管領かんりょう烏帽子えぼしおやつとめることになっており、近年きんねん研究けんきゅうでは管領かんりょう常設じょうせつはなくなったとされている戦国せんごく室町むろまち幕府ばくふにおいても元服げんぷくさいには管領かんりょう任命にんめいおこなわれていた。ところが、義晴よしはるさん管領かんりょういえではない六角ろっかく定頼さだより管領かんりょうだいにんじてふじ烏帽子えぼしおやとしたのである[63]。これは当時とうじはれはじめ氏綱うじつな近江おうみ坂本さかもとけつけられる情勢じょうせいかった(ぎゃくにいずれかが坂本さかもと場合ばあいにはそのもの管領かんりょう任命にんめいされていたはずである)ことにくわえ、義晴よしはるはれもと関係かんけい悪化あっかしており、氏綱うじつな烏帽子えぼしおやにすることにたいしてははれもとしゅうとである六角ろっかく定頼さだより抵抗ていこうしたため、最終さいしゅうてきには義晴よしはる庇護ひごする定頼さだよりへの配慮はいりょからかれ烏帽子えぼしおやにんじる選択せんたくをしたとかんがえられている[63]。なお、当時とうじ坂本さかもとには定頼さだよりだけではなく、氏綱うじつなゆうちょうきょうもおり、氏綱うじつな烏帽子えぼしおやにすべく画策かくさくしていたが、はれはじめ六角ろっかく定頼さだより烏帽子えぼしおやとなったため、義輝よしてる元服げんぷくには欠席けっせきし、翌日よくじつ将軍しょうぐん宣下せんげ畠山はたけやままさしこく名代なだいとして参列さんれつしている[63]

一連いちれん行動こうどうは、義晴よしはるがかつての先例せんれいならったものであったされ、その先例せんれい息子むすこにも踏襲とうしゅうさせようとした可能かのうせい指摘してきされている[64][65]義晴よしはるだいなが元年がんねん(1521ねん)12月・当時とうじ11さい元服げんぷく将軍しょうぐん宣下せんげおこなったことにくわえ、自身じしん健在けんざいのうちに実子じっし将軍しょうぐん地位ちいゆずってこれを後見こうけんするかんがえがあったとされる[65]。また、朝廷ちょうてい義晴よしはるがこのまま政務せいむ京都きょうと警固けいごにん放棄ほうきすることを憂慮ゆうりょし、めの意図いとふくめて、義輝よしてる将軍しょうぐん宣下せんげ翌日よくじつ義晴よしはるみぎ近衛このえ大将たいしょう急遽きゅうきょにんじている[66]

同月どうげつすえ義晴よしはるふじとともに坂本さかもとはなれ、きょう慈照寺じしょうじもどった[67]以後いご大御所おおごしょとして、幼少ようしょう義輝よしてる後見こうけんした。

天文てんもん16ねん1547ねん正月しょうがつ26にち義晴よしはるふじとともに内裏だいり参内さんだいして、こう奈良なら天皇てんのう拝謁はいえつし、ごとけんじた[68][69]

3月29にち義晴よしはるふじ近衛このえ稙家とともに将軍山しょうぐんざんじょうはいり、氏綱うじつなになおも味方みかたすることを表明ひょうめいした[70][71]義晴よしはる没落ぼつらく気味ぎみであった細川ほそかわはるもと決別けつべつし、細川ほそかわ氏綱うじつなむすんだが、はれはじめだまってはいなかった[72]はれもと報復ほうふくとして、阿波あわ逼塞ひっそくしていた義晴よしはる兄弟きょうだい足利あしかがよし維を擁立ようりつし、対抗たいこうする意思いししめした[72]

他方たほう義晴よしはるはれもと仲違なかたがいは、六角ろっかく定頼さだよりなやませた。定頼さだよりにとって、義晴よしはるはれもととともにこれまでささえてきた同志どうしであり、よしふじもまた自身じしん烏帽子えぼしおやつとめた人物じんぶつだった[73]一方いっぽうはれもともまた、自身じしん息女そくじょとついだむすめ婿むこであり、ちかしい存在そんざいであった[74]。もし、はれもと味方みかたすれば、よしふじ将軍しょうぐんとしての権威けんい否定ひていし、よし維を将軍しょうぐんとしてみとめることになってしまった[73]

そのため、定頼さだより義晴よしはるよしふじ父子ふしはれもと和解わかいさせようとした。その一環いっかんとして、大阪おおさか本願寺ほんがんじとつぐことが内定ないていしていたはれもと息女そくじょを、よしふじ台所だいどころにしようと画策かくさくした[75][76]。だがこのはなし強引ごういんすぎたため、うまくいかなかった[75]。そのあいだにも、義晴よしはるよしふじはれもと関係かんけい悪化あっかし、はれもと各地かくち氏綱うじつなかし、きょうへとせまった[71]

7がつ12にちよしふじ義晴よしはる籠城ろうじょうする将軍しょうぐん山城やましろは、定頼さだよりはれもと大軍たいぐん包囲ほういされた。定頼さだより父子ふしたいして、はれもととの和解わかいいた[71][76]義晴よしはるおもいもよらない事態じたい進退しんたいきゅうし、しょしょうあつめて、どうすべきかと諮問しもんした[71]

この定頼さだより背反はいはんかんしては、定頼さだより義晴よしはる支援しえんしゃであると同時どうじはれもとしゅうとでもあり、義晴よしはるによるはれもとては容認ようにんできなかったとかんがえられている。足利あしかが将軍しょうぐん一貫いっかんした支持しじしゃであると同時どうじ六角ろっかくはれもととの同盟どうめい堅持けんじする定頼さだより存在そんざいは、義晴よしはるたい細川ほそかわきょうちょういえ方針ほうしん拘束こうそくすることになり、細川ほそかわ氏綱うじつな三好みよし長慶ちょうけい細川ほそかわはるもと敵対てきたいすることで、本人ほんにん意思いしかかわりなく足利あしかが将軍しょうぐんとも敵対てきたいせざるをなくなってしまう構造こうぞうとなったのである[77]

7がつ15にち六角ろっかく定頼さだより将軍しょうぐん山城やましろ包囲ほういちゅうのさなか、ひそかに義晴よしはる使者ししゃおくってはれもととの和平わへい仲介ちゅうかいおこなっている[77]定頼さだより背反はいはんにより、義晴よしはるじゅつうしない、全面ぜんめんてきにその要求ようきゅうれざるをなくなった[71][78]

7がつ19にち義晴よしはる将軍しょうぐん山城やましろはなち、しろ近江おうみ坂本さかもとかった(『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき』、『  足利あしかが』、『ぞく応仁おうにん後記こうき』、『ちょう享年きょうねん畿内きない兵乱へいらん』)[78][79]。その、21にち三好みよし長慶ちょうけい三好みよし政長まさながらの軍勢ぐんぜい天王寺てんのうじひがし舎利寺しゃりじにおいて、氏綱うじつな畠山はたけやままさしこく遊佐ゆさちょうきょう軍勢ぐんぜい大勝たいしょうした(舎利寺しゃりじたたか[79][80]

7がつ29にち義晴よしはる舎利寺しゃりじたたかいの報告ほうこくつたくと、定頼さだより仲介ちゅうかいのもと、はれはじめ坂本さかもと和睦わぼくした[78][79][81]近江おうみ定頼さだより領国りょうごくのため、表面ひょうめんじょうはれはじめ定頼さだよりらの罪科つみとが赦免しゃめんとするという名目めいもくしたでの和睦わぼくであった(『  足利あしかが』、『ぞく応仁おうにん後記こうき』、『いむじょ大僧正だいそうじょう』)[79]。このとき、よしふじはれもと面会めんかいしたが、義晴よしはるはれもと面会めんかいしなかった[81]他方たほう、この和解わかいにより、はれもと支援しえんしていた足利あしかがよし維は立場たちばがなくなり、同年どうねん12がつさかいから淡路あわじ退去たいきょし、四国しこくへともどった[80][82][83]

この一連いちれんあらそいは、細川ほそかわ内部ないぶにもおおきな影響えいきょうをもたらした。細川ほそかわはるもと義晴よしはるよしふじ父子ふし細川ほそかわ氏綱うじつな六角ろっかく定頼さだよりじゅつもなく、三好みよし長慶ちょうけいとその舎弟しゃていちからりざるをなかった[84]。その一方いっぽう長慶ちょうけいおとうとたちと協力きょうりょくし、きょうから義晴よしはる退去たいきょさせた自身じしん力量りきりょうて、ちち仇敵きゅうてきであるはれもとからの独立どくりつかんがえるようになった[84]。また、『細川ほそかわ両家りょうけ』には長慶ちょうけいがこのころはんちょうからあらためたことに関連かんれんして、政長まさながせいせい父子ふしはれもと成敗せいばいしない場合ばあい自身じしんはれもとたす、内々うちうち協議きょうぎ決定けっていしたことがしるされている[84]

三好みよし長慶ちょうけいとの対立たいりつ

編集へんしゅう
 
三好みよし長慶ちょうけいぞう聚光いん所蔵しょぞう

天文てんもん17ねん1548ねん)4がつ定頼さだより大和やまとはいり、氏綱うじつなゆうちょうきょう面会めんかいし、はれはじめ氏綱うじつな和解わかいけた[81]。これにより、細川ほそかわ一門いちもん騒擾そうじょうおさまり、畿内きない政情せいじょう安定あんていした[81]。そのため、6月17にちふじ義晴よしはる坂本さかもとからきょうへともどり、今出川いまでがわ御所ごしょはいった[81][85]

8がつ12にち長慶ちょうけいはれもと側近そっきんらにたいして、政長まさながせいせい父子ふしの誅罰をもとめた書状しょじょうおくった[86]長慶ちょうけいはれもとへいけることをはばかり、政長まさながせいせい父子ふし討伐とうばつ大義名分たいぎめいぶん挙兵きょへいするかたちとなったが、はれもとはこれに反発はんぱつし、長慶ちょうけいさんおとうと十河そごう一存いちぞんくずしをはかったが失敗しっぱいした[86]

9月、長慶ちょうけい軍事ぐんじ行動こうどう開始かいしし、氏綱うじつなかたゆうちょうきょう父子ふしおもいをし、一味いちみするむね起請文きしょうもんおくった[86]。『細川ほそかわ両家りょうけ』には、長慶ちょうけい自身じしんうったえを無視むしして政長まさながせいせい父子ふし成敗せいばいしないはれもと激怒げきどし、氏綱うじつなきょうちょういえ家督かとくえることを決意けついし、ちょうきょう相談そうだんしたむねしるされている[87]。そして、長慶ちょうけいさんにん兄弟きょうだいはれもとから離反りはんし、氏綱うじつな陣営じんえいくみしたが、そこには畿内きない近国きんごく守護しゅごだい国人くにびとそろって味方みかたした[88]

天文てんもん18ねん1549ねん)5がつ28にちはれもと三宅みやけじょうはいり、6月17にちには政長まさなが摂津せっつ江口えぐちじんいた[89]長慶ちょうけい好機こうきとみて、三宅みやけじょう江口えぐち連絡れんらく遮断しゃだんするため、安宅あたかふゆやすし十河そごう一存いちぞん江口えぐち包囲ほういさせた[89]

6月24にち長慶ちょうけいちょうきょう軍勢ぐんぜい江口えぐちめ、たたかいに勝利しょうりした[89]。 これにより、政長まさながはれもと側近そっきんらが大勢おおぜいにした[89]せいせい榎並えなみしろててげ、山崎やまざきまで到達とうたつしていたろくかくぜい退却たいきゃくした[89]はれもともまた三宅みやけじょう脱出だっしゅつし、きょうもどった[89]

同月どうげつ28にち義晴よしはるはれもとともなわれ、よしふじをはじめ、近衛このえ稙家、久我くがはるどおりなどの公家くげしゅ細川ほそかわもとつねらをとともに、近江おうみ坂本さかもと常在寺じょうざいじはいった[89]。そのかれらとわるかたちで、7がつ9にち三好みよし長慶ちょうけい氏綱うじつなほうじて上洛じょうらくした[89]

長慶ちょうけい義晴よしはるはれもときょうよりはらったものの、摂津せっつでは伊丹いたみちかしきょう抵抗ていこうつづけたため、こちらとの戦闘せんとう注力ちゅうりょくした[90]。そのあいだ、12月12にちには氏綱うじつな命令めいれいしょうして、さかいのぞ摂津せっつかけぐん徳政とくせいすなど、長慶ちょうけい摂津せっつでの支配しはいかためた[90]

一方いっぽう、この時期じき出来事できごととして、義晴よしはるむすめ義輝よしてる義昭よしあきいもうと推定すいてい[91])が若狭わかさこく武田たけだもとさかえ義統よしむね)にとついだことがられている。具体ぐたいてき時期じき不明ふめいなため、義晴よしはる没後ぼつごであった可能かのうせいもあるが、三好みよし長慶ちょうけい台頭たいとう対抗たいこうしつつ京都きょうと帰還きかんたすためには若狭わかさ武田たけだとの関係かんけい強化きょうかかせないと判断はんだんした義晴よしはるが、史上しじょうはじめて足利あしかが将軍家しょうぐんけ子女しじょ守護しゅご大名だいみょうとつがせる決断けつだんをしたともかんがえられる[92]

天文てんもん18ねんくれ以降いこう義晴よしはるは「水腫すいしゅちょうみつる」という全身ぜんしんがむくんだ状態じょうたいやまいして、翌年よくねん天文てんもん19ねん1550ねん正月しょうがつになっても病状びょうじょう改善かいぜんしなかった[93][94]

天文てんもん19ねん2がつ義晴よしはる京都きょうと奪還だっかん目論もくろみ、東山ひがしやま慈照寺じしょうじちかくに中尾なかおしろきずいた[95]

3月7にち義晴よしはる坂本さかもとから穴太あのうげん滋賀しがけん大津おおつ穴太あのう)に移動いどうし、4がつにはきょう近江おうみむす北白川きたしらかわにも城塞じょうさいきずいた[95]。だが、このころになると、義晴よしはるやまいおもくなってうごけなくなっていた。

5月4にちたつこく午前ごぜん8ごろ)、義晴よしはるふゆからわずらっていた悪性あくせい水腫すいしゅにより、穴太あのうにて死去しきょした(『げんつぎきょう』、『いむじょ大僧正だいそうじょう』、『ちょう享年きょうねん畿内きない兵乱へいらん』)[96][97]享年きょうねん40(まん39さいぼつ)。

その一方いっぽうで、義晴よしはる直後ちょくご奉公ほうこうしゅ進士しんしはるしゃから上野うえの横瀬よこせしげるしげるてられた書状しょじょうには、義晴よしはるが「自害じがい」したとしるされており、病状びょうじょう悪化あっかによって進退しんたいきわまった義晴よしはるみずかいのちった可能かのうせいもある[97]義晴よしはる前々まえまえより、たつたつこくぬと宣言せんげんしており、数日すうじつまえから家臣かしんあつめ、今後こんごのことをはなしていたという(『万松院殿穴太記』)[97]

5月7にち義晴よしはる遺骸いがい東山ひがしやま慈照寺じしょうじはこばれ、21にち葬儀そうぎおこなわれた[97]義晴よしはる葬儀そうぎはかなり簡素かんそなものだったとつたえられているる(『公卿くぎょう補任ほにん』、『万松院殿穴太記』、『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき』)[98]。このときよしふじ穴太あのうから比叡辻ひえいつじ宝泉寺ほうせんじ後退こうたいしていたため、その葬儀そうぎうことはなかった[97]

経歴けいれき

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  • えいただし8ねん3がつ5にち(1511ねん4がつ2にち)、誕生たんじょう
  • えいただし18ねん7がつ28にち1521ねん8がつ30にち)、朝廷ちょうていより義晴よしはるあたえられ、したがえじょ[15]
  • だいひさし元年がんねん11がつ25にち(1521ねん12月23にち)、せい昇叙しょうじょし、ひだり馬頭めず任官にんかん[15]
  • どう12がつ24にち1522ねん1がつ21にち)、細川ほそかわだかこく加冠かかんやくとして元服げんぷく[16]
  • どう12がつ25にち(1522ねん1がつ22にち)、征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ[16]
  • だいなが2ねん2がつ17にち(1522ねん3がつ14にち)、したがえよん昇叙しょうじょし、参議さんぎ補任ほにんひだり近衛このえ中将ちゅうじょう兼任けんにん
  • とおるろく3ねん1がつ20日はつか1530ねん2がつ17にち)、したがえさん昇叙しょうじょし、けん大納言だいなごん転任てんにん
  • 天文てんもん15ねん12がつ20日はつか1547ねん1がつ11にち)、征夷大将軍せいいたいしょうぐん辞職じしょくし、義輝よしてる譲位じょうい[99]
  • どう12がつ21にち(1547ねん1がつ12にち)、みぎ近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん[100]
  • 天文てんもん19ねん5がつ4にち1550ねん5月20にち)、薨去こうきょ
  • どう5がつ7にち(1550ねん5がつ23にち)、おくしたがえいち左大臣さだいじん

人物じんぶつ評価ひょうか

編集へんしゅう
 
足利あしかが義晴よしはる木像もくぞう等持院とうじいん
  • 義晴よしはる播磨はりまから入京にゅうきょうしたさいじょうのあたりで見物けんぶつした公家くげ鷲尾わしお隆康たかやす自身じしん日記にっきなかで、義晴よしはるを「容顔ようがん美麗びれい也」としるしている(『二水にすい』)[15]。また、義晴よしはる元服げんぷくさいして三条さんじょう御所ごしょ移動いどうしたさいには、見物人けんぶつにん老若男女ろうにゃくなんにょであふれかえるなど、人々ひとびと義晴よしはるへの関心かんしんたかかった[15]
  • 義晴よしはる将軍しょうぐんとして、側近そっきん集団しゅうだん内談ないだんしゅとしてさい編成へんせいして政権せいけん中枢ちゅうすうくことで自己じこ親裁しんさいけん強化きょうかはかるなど、将軍しょうぐん権威けんい回復かいふくつとめた。だが、細川ほそかわ内紛ないふんをきっかけにしただい規模きぼ争乱そうらんによって挫折ざせつすることになった。ただし、将軍しょうぐん内談ないだんしゅ合議ごうぎによる幕政ばくせい運営うんえいはある程度ていど成功せいこうし、幕政ばくせいにおける役割やくわりうしなった管領かんりょう儀礼ぎれいてき役職やくしょくへと低下ていかしていくことになった(幕府ばくふないおよ畿内きない有数ゆうすう実力じつりょくしゃであった細川ほそかわきょうちょういえ立場たちば低下ていか意味いみするものでないことに注意ちゅうい)。
  • 義晴よしはる戦国せんごく将軍しょうぐんであったため、合戦かっせん出陣しゅつじんすることもおおかった。また、城郭じょうかく築城ちくじょうだい規模きぼ改修かいしゅうをすることもおおく、とく如意ヶ嶽にょいがだけきずいた中尾なかおしろ威容いようほこる「名城めいじょう」として名高なだかく、普及ふきゅうはじめたばかりの鉄砲てっぽう対策たいさくのため、しろ防壁ぼうへきいし砂利じゃりめるよう義晴よしはるみずか指示しじしたといわれる[101]
  • 義晴よしはる」の名前なまえさだめるかんぶん作成さくせいしたのは東坊城ひがしぼうじょうちょうであるが、朝廷ちょうていへの提出ていしゅつ段階だんかいはいると、義晴よしはる烏帽子えぼしおやになる予定よていであった管領かんりょう細川ほそかわだかこくから異論いろんがあり、ちょうがこれをれたところ、ちょう他者たしゃへのへんいみなとするのにはくない(義晴よしはるからへんいみなけた公家くげ大名だいみょうはれ最初さいしょにくる「はれ〇」という不吉ふきついみなになり、へんいみなけたみんなが迷惑めいわくする)とかんがえる「義晴よしはる」に決定けっていしてしまった[15][102]。そのため、「義晴よしはる」の名前なまえ実際じっさいかんがえたのはこうこくで、ちょうへの異論いろん自分じぶんあんである「義晴よしはる」を候補こうほれるようにとの要求ようきゅうであったとみられる[103]
  • 義晴よしはる対立たいりつ将軍しょうぐん候補こうほである足利あしかがよしたいして優位ゆういてたのは、朝廷ちょうていから正式せいしき任命にんめいされた将軍しょうぐんというてんにあった[104]生涯しょうがい幾度いくどきょうびた義晴よしはるだが、御内おんうちしょ各国かっこく守護しゅご国人くにびとすなど、たくみな外交がいこう戦略せんりゃくもちいて、よし維の入京にゅうきょうゆるさなかった。このため、義稙よしたね義澄よしずみのように将軍しょうぐんはいされることなく、一貫いっかんして将軍しょうぐんしょく保持ほじつづけることに成功せいこうした。
  • 全国ぜんこく守護しゅごたいする動員どういんけん義晴よしはるにあり、義晴よしはるはっした軍勢ぐんぜい催促さいそく御内おんうちしょ宛先あてさきは、大名だいみょうでは上杉うえすぎ朝倉あさくら若狭わかさ武田たけだ北畠きたばたけ畠山はたけやま赤松あかまつ山名やまな土佐とさ一条いちじょう大友おおとも国人くにびとでは木曾きそ朽木くちき筒井つつい伊丹いたみ浦上うらかみ海部かいふ寺社じしゃでは根来寺ねごろじ諏訪すわしゃおよんだ[104]御内おんうちしょった大名だいみょうなかには、きょう軍勢ぐんぜい派遣はけんしたり、よし維方の領国りょうごくである丹波たんば阿波あわ侵攻しんこうするものもいた[104]実際じっさい軍勢ぐんぜい出兵しゅっぺいさせたのは、越前えちぜん守護しゅご朝倉あさくらたかしけい若狭わかさ守護しゅご武田たけだもとひかり近江おうみ守護しゅご六角ろっかく定頼さだより播磨はりま守護しゅご赤松あかまつはれまさし河内かわうち守護しゅご畠山はたけやま稙長たねなが大和やまと国人くにびと筒井つついじゅんきょう伊勢いせ国司くにじ北畠きたばたけはるであった[105]。また、義晴よしはる豊後ぶんご守護しゅご大友おおとも義鑑よしあき土佐とさ国司くにじ一条いちじょうぼうたいしては、阿波あわへの出兵しゅっぺい要請ようせいしていた[105]。このように、義晴よしはる維方の勢力せいりょくけんである四国しこく丹波たんばかこむように、軍事ぐんじ要請ようせいおこなっていた[106]
  • 他方たほうよし維をつよ支持しじした大名だいみょう細川ほそかわはるもとのみで、関係かんけいったのは細川ほそかわもちたかし畠山はたけやまよしよし維ともちたかし姉妹しまいとつがせていた大内おおうち義隆よしたか公家くげでは摂関せっかん九条くじょう稙通くらいであった[107]。そのうえ細川ほそかわ家臣かしんうちしゅ)のなかでも柳本やなぎもと賢治けんじ松井まついそうしんのように義晴よしはるとの和解わかい主張しゅちょうするものもいた[104][107]。そして、なによりも維は細川ほそかわはるもと京都きょうと実権じっけんにぎったのちも、治安ちあん悪化あっかによって上洛じょうらくできなかった(=将軍しょうぐんとして在京ざいきょうできる条件じょうけんそろわなかった)ために、義晴よしはる解任かいにんして将軍しょうぐん宣下せんげけることが出来できなかったのが、かれさかい公方くぼうとどまって中央ちゅうおう政権せいけんになりなかった最大さいだい要因よういんであった(のちよし維の息子むすこ義栄よしひで上洛じょうらくしないまま将軍しょうぐん宣下せんげけているが、このとき将軍しょうぐんしょく空席くうせき[108]
  • しょ大名だいみょうへのへんいみな授与じゅよしろかさぶくろ毛氈もうせんくらくつがえぬり輿こし免許めんきょ昇進しょうしん申請しんせいなど栄典えいてん授与じゅよおこなったのもまた、義晴よしはるのみであった[104]義晴よしはるあきら勘合かんごうもとめて国書こくしょ発給はっきゅうしたのも、将軍しょうぐんのとしての権限けんげん行使こうししたものである[104]義晴よしはるよし維はともに「公方くぼう」「大樹だいき」とならしょうされたが、おおくの人々ひとびと義晴よしはる正式せいしき将軍しょうぐんとしてみとめており、そのおおきかった[35]
  • 朝廷ちょうてい義晴よしはるのみを正統せいとう将軍しょうぐんとしてており、「とおるろく」「天文てんもん」への改元かいげんさいには義晴よしはるかたのみと交渉こうしょうち、よし維方にははかっていない[31]。とはいえ、「とおるろく」「天文てんもん」の改元かいげんおこなさい改元かいげん要請ようせいする武家ぶけ執奏しっそうと、そのための費用ひよう献上けんじょうおこなったのは義晴よしはるであった[109][110]
  • 義晴よしはる朝廷ちょうていとの関係かんけい重視じゅうしした将軍しょうぐんであった。義晴よしはる足利あしかが義満よしみつ以来いらいつづけてきた日野ひのとの婚姻こんいん関係かんけいわって、五摂家ごせっけひとつ・近衛このえ出身しゅっしん正室せいしつむかえることにより、朝廷ちょうていとの関係かんけい強化きょうかはかった[38]他方たほう、この結婚けっこん将軍家しょうぐんけよりも、近衛このえほうのぞんで実現じつげんしたものだという見方みかたもある[111]戦国せんごく時代じだいになると、公家くげ所領しょりょう大名だいみょう国人くにびと横領おうりょうされ、五摂家ごせっけ近衛このえといえども例外れいがいでなく、財政難ざいせいなんあえいでいた[111]。そのため、近衛このえ当主とうしゅ近衛このえしょうどおり将軍家しょうぐんけとのむすびつきをつよめ、いえ存続そんぞくはかったとかんがえられている[111]。そして、義輝よしてる誕生たんじょうにより、将軍家しょうぐんけ近衛このえ関係かんけいみつなものになった[111]。また、この婚姻こんいん背景はいけいとして、なおつう正室せいしつ実家じっかである徳大寺とくだいじ細川ほそかわだかこく縁戚えんせき関係かんけいにあり、こうこく仲介ちゅうかい婚約こんやく成立せいりつし、大物おおものくずによってこうこく自刃じじんしたのちも、足利あしかが将軍家しょうぐんけ近衛このえ利害りがい一致いっちからそのまま婚姻こんいん実行じっこうされたという。また、なおつうむすめおっと没後ぼつごけい寿ことぶきいん名乗なのる)が、将軍しょうぐん台所だいどころとしては日野ひの富子とみこ以来いらいとなる男子だんし義輝よしてる義昭よしあきしゅう)をもうけたことは、血縁けつえんてきうしたてとぼしかった義晴よしはるにとってはおおきなちからとなった[112]
  • 義晴よしはる将軍しょうぐん辞任じにんみぎ近衛このえ大将たいしょう昇進しょうしんしていることも注目ちゅうもくすべきてんである。足利あしかが将軍しょうぐん将軍しょうぐん在任ざいにんちゅうけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょう兼務けんむしてから内大臣ないだいじん昇進しょうしんすることを慣例かんれいとしていたが、その地位ちい不安定ふあんていであった義稙よしたね義澄よしずみはともかく、義晴よしはる将軍しょうぐんけん大納言だいなごん地位ちいにあってからひさしくつにもかかわらず、一向いっこうみぎ近衛このえ大将たいしょう就任しゅうにん意向いこうしめさなかった。ところが、義晴よしはる突如とつじょとして将軍しょうぐんしょくおさな義輝よしてるゆずることをったこう奈良なら天皇てんのう近衛このえ稙家義晴よしはる義兄ぎけい)ら朝廷ちょうてい人々ひとびとは、義晴よしはるがこのまま政務せいむ京都きょうと警固けいごにん放棄ほうきすることを憂慮ゆうりょした(天文てんもん5ねんにも引退いんたい表明ひょうめいして、最終さいしゅうてき撤回てっかいしている)。そこで、めの意図いとふくめて、義輝よしてる将軍しょうぐん宣下せんげ翌日よくじつ義晴よしはるみぎ近衛このえ大将たいしょう急遽きゅうきょにんじたのである[注釈ちゅうしゃく 3]。もっとも、義晴よしはる自身じしん官位かんいへの関心かんしんしめすことなく、天文てんもん16ねん1がつ26にち義輝よしてるとともに任官にんかん御礼おれい参内さんだいをしているものの、慣例かんれいであった大将たいしょう拝賀はいが儀式ぎしきもその内大臣ないだいじん任命にんめいもなかった(大将たいしょう拝賀はいがにんだい臣節しんせつかい費用ひようがかかるため、義晴よしはる大将たいしょう大臣だいじん就任しゅうにんすることが費用ひよう見合みあわないものとかんがえていた可能かのうせいもある)[113]
  • 義晴よしはる細川ほそかわはるもと支柱しちゅうとしたものの、両者りょうしゃ関係かんけいつね緊張きんちょうがあった。はれもと義晴よしはるしたがって支援しえんしつつも、その一方いっぽうでは将軍しょうぐん対立たいりつ候補こうほ維を庇護ひごするという、「ねじれた関係かんけい」をっていたからである[74]義晴よしはるもそのことは十分じゅうぶん理解りかいしており、自身じしんへんいみなあたえたものの、その関係かんけいには一線いっせんいていた。たとえば、天文てんもん14ねん(1545ねん)2がつ義晴よしはる御所ごしょでの酒宴しゅえん臣下しんかさけあたえたが、はれもとには「意趣いしゅ」(うらみ)ありとしてさけあたえなかった[114]はれもともまた同様どうようで、同年どうねんれに臣下しんか歳末さいまつけんじるために参上さんじょうしたさいはれもとだけは参上さんじょうしなかった[114]義晴よしはるはれもと関係かんけい悪化あっか結果けっかとして、義晴よしはるはれもとて、細川ほそかわ氏綱うじつなえるおおきな要因よういんとなった[114]
  • 義晴よしはる自身じしん健在けんざいなうちに将軍しょうぐんしょく自分じぶん息子むすこゆずったのは、きく幢丸(義輝よしてる)がかつて自身じしん将軍しょうぐん就任しゅうにんした年齢ねんれいである11さいになったことや、自分じぶんきているうちに息子むすこ地位ちい安定あんていさせる希望きぼうがあったとされる[115]
  • 義晴よしはる中尾なかおじょう完成かんせいには重病じゅうびょうとなっており、すでいちすすめない様態ようたいであった。それでも、義晴よしはる果汁かじゅうかゆをすすりながら進軍しんぐんし、その最期さいごときまで京都きょうと奪還だっかんへの執念しゅうねんてることはかったとされる[101]
  • 前日ぜんじつ義晴よしはる絵師えし土佐とさ光茂みつしげせて、みずからの肖像しょうぞうえがかせている[101][116]

墓所はかしょ

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  • 義晴よしはる地蔵寺じぞうじ現在げんざい大阪おおさか交野かたの
  • 一方いっぽうで『近江おうみこく滋賀しがぐん』(明治めいじ14ねん1881ねん))には、「よりゆきちん逆修ぎゃくしゅ」ときざまれたかれはか穴太あのう現存げんそんするしるされている[117]
  • 相傳そうでんざいむかし安福やすふくてらごうスルてらアリ其址ちゅう碣アリだかサ三尺許頼珍逆修ト鐫録スそく義晴よしはるはかナリトしょうニセス[118]

へんいみなけた人物じんぶつ

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※ >よりみぎ人物じんぶつへんいみなけたものから「はれ」のあたえられた子息しそく家臣かしんしめす。

よし」の

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はれ」の

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義鑑よしあき次男じなん義鎮よししげおとうとはれ同様どうよう大内おおうち義隆よしたか養子ようしとなり、のち義晴よしはるふじ義輝よしてるから1たま大内おおうち義長よしなが改名かいめい

さんふちさんふちはれひさしさんふちはれいん細川ほそかわ幽斎ゆうさい実父じっぷ)ほか)にかんしてはもともと「はれ」の代々だいだいもちいる家柄いえがらであるためじょうふくめない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 系図けいず纂要』に記載きさいあり。
  2. ^ ただし、本郷ほんごうひかりやすし楊弓ようきゅうかい事件じけん失脚しっきゃくしてその内談ないだんしゅ復帰ふっきできなかったとみられ、また朽木くちき稙綱も所領しょりょうである近江おうみ朽木くちきにいることがおおく、最終さいしゅうてきには6めい体制たいせいになったとみられる。
  3. ^ 前任ぜんにんみぎ近衛このえ大将たいしょうは稙家の息子むすこはれであったため、稙家のいのち辞任じにんさせている。
  4. ^ 結城ゆうき系図けいず」では、義晴よしはるたまわったとしている[120]
  5. ^ はれおとうと実名じつめいしょう)は、1537ねん加賀かがこくにある所領しょりょうはいるため現地げんちくだったところ、望月もちづきぼう実名じつめいしょう)というもの殺害さつがいされたという。同地どうち加賀かが一向いっこう一揆いっき影響えいきょうにより一門いちもんしゅによる統治とうちかれており、これによるものであるという。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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    • 木下きのしたあきらぶんまわし総論そうろん 足利あしかが義晴よしはる政権せいけん研究けんきゅう」。 
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  • えのきはら雅治まさはる; 清水しみず克行かつゆき へん室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん列伝れつでんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねん 
  • 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし長慶ちょうけい 諸人もろびとこれあおぐこと北斗ほくと泰山たいざんミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2014ねんISBN 978-4-623-07072-5 
  • 山田やまだ康弘やすひろ足利あしかが義輝よしてる義昭よしあき 天下でんかしょさむらいおもこうミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2019ねん12月。ISBN 4623087913 
  • 福島ふくしま克彦かつひこ畿内きない近国きんごく戦国せんごく合戦かっせん吉川弘文館よしかわこうぶんかん戦争せんそう日本にっぽん11〉、2009ねん 
  • 河村かわむら昭一しょういち若狭わかさ武田たけだ家臣かしんだんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 978-4-86403-371-8 

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