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御台所 - Wikipedia

台所だいどころ

大臣だいじん将軍家しょうぐんけなど貴人きじんつまたいしてもちいられた呼称こしょう

台所だいどころ(みだいどころ)は、大臣だいじん将軍しょうぐんいえなど貴人きじんつまたいしてもちいられた呼称こしょう御台みだいばんしょ(みだいばんどころ)もおなじ。奥方おくがたさま

  • 御台みだい」・「御台みだいばん」とは身分みぶんたかひと食事しょくじせるたいばんす。
  • たいばんしょ」とは宮中きゅうちゅう貴族きぞく邸宅ていたく配膳はいぜんしつ(また調理ちょうりする場所ばしょ)をす。台所だいどころはそのりゃく

たいばん

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御台みだいばんしょの「たいばん」とは、長方形ちょうほうけいえんがついたばんよんきゃくえてたいじょうにした一人ひとりよう食卓しょくたくで、今日きょうでいうぜんのことである。かつてこうしただいばん日常にちじょうてき使つかわれていたのは上流じょうりゅう貴族きぞく邸宅ていたく宮中きゅうちゅうかぎられていた。

たいばんしょ」とは文字通もじどおりとはそのだいばんいておくところのことで、調理ちょうり配膳はいぜんおこな一室いっしつのことをした。これが今日きょうでいう台所だいどころ語源ごげんである。のち宮中きゅうちゅうではさらにこれがてんじて、清涼せいりょう殿どのうち女房にょうぼう詰所つめしょのことをたいばんしょぶようにもなっている。

概要がいよう

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平安へいあん時代じだい中頃なかごろまでは、さん以上いじょう公卿くぎょう正室せいしつみな北政所きたのまんどころ」とばれていた。しかし時代じだいくだるとこれが格式かくしきして、「北政所きたのまんどころ」は宣旨せんじをもっておくられる称号しょうごうとなり、しかもその対象たいしょう摂政せっしょうまたは関白かんぱく正室せいしつのみにかぎられるようになった。

するとさん以上いじょう公卿くぎょうでも大臣だいじん大将たいしょう正室せいしつには、必然ひつぜんてきべつ使つかわれるようになる。これが御台みだいばんしょ、またこれをりゃくしたたいばんしょ(だいばん どころ)や御台みだい(みだい)で、院政いんせい時代じだい以降いこう文献ぶんけんにこれが散見さんけんする。

たとえば、藤原ふじわら正室せいしつみなもと麗子れいこは、大臣だいじんだったころ内大臣ないだいじんひだり近衛このえ大将たいしょう右大臣うだいじん左大臣さだいじん)には「大盤おおばんしょ」(御台みだいばんしょ)とばれていたが、うけたまわ2ねん1075ねんじつ関白かんぱく宣下せんげがあって以降いこうは「きた政所まんどころ」(北政所きたのまんどころ)とばれており、御台みだいばんしょ北政所きたのまんどころ用法ようほう明確めいかくちがいがれる。

鎌倉かまくら時代ときよ成立せいりつした『平家ひらか物語ものがたり』のまきいちには入道にゅうどう相国しょうこく平清盛たいらのきよもりらについてかたられるしょうがあるが、ここでもむすめたちを紹介しょうかいするくだりでは、その明確めいかく差異さいることが出来できる。

一人ひとりは……花山院かさんのいん左大臣さだいじん殿どの御台みだいばんしょにならせきゅうひて……
一人ひとりきさきたせきゅうふ……
一人ひとりろくじょう攝政せっしょう殿どの北政所きたのまんどころにならせきゅうふ……
一人ひとり普賢寺ふげんじ殿でん北政所きたのまんどころにならせきゅうふ。
一人ひとり冷泉れいせん大納言だいなごん隆房たかふさきょう北方ほっぽう
一人ひとりは七條修理大夫信隆卿にあいきゅうへり。 — 『平家へいけ物語ものがたり巻一けんいちわれさかえはな

とある。この「花山院かさんのいん左大臣さだいじん殿どの御台みだいばんしょ」とは、左大臣さだいじん藤原ふじわらけんみやび正室せいしつとなった次女じじょのことをす。つぎの「きさき」というのは高倉天皇たかくらてんのう中宮なかみやとなり安徳天皇あんとくてんのうんで国母こくぼとなったさんじょ徳子とくこ、「ろくじょう摂政せっしょう殿どの北政所きたのまんどころ」というのは摂政せっしょう関白かんぱく藤原ふじわらはじめ正室せいしつとなったよんじょ盛子もりこ、「普賢寺ふげんじ殿でん北政所きたのまんどころ」というのは摂政せっしょう関白かんぱく近衛このえはじめどおり正室せいしつとなったろくじょかんのことである。また「冷泉れいせん大納言だいなごん隆房たかふさきょう北方ほっぽう」というのはけん大納言だいなごん藤原ふじわら隆房たかふさ正室せいしつとなったじょのことだが、隆房たかふさこう白河しらかわいん寵臣ちょうしんとしてはせたものの、大臣だいじんでも大将たいしょうでも摂政せっしょうでも関白かんぱくでもなかったので、その正室せいしつも「北方ほっぽう」という表現ひょうげんになっている。そして「七条修理大夫信隆卿にあいきゅうへり」というのは修理しゅうり大夫たいふ藤原ふじわら信隆のぶたかつまとなった長女ちょうじょのことで、信隆のぶたかには正室せいしつべつにいたためこの長女ちょうじょ北方ほっぽうではなく、したがって「あいす」(とつぐ)という表現ひょうげん使つかわれている。

将軍しょうぐん正室せいしつ

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鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともつまである北条ほうじょう政子まさこが「御台みだいしょ」としょうされ、以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐん正室せいしつ呼称こしょうとなる。室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん夫人ふじん台所だいどころしょうされた。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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