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幼名 - Wikipedia

幼名ようみょう(ようみょう、ようめい、おさなな)は、幼少ようしょう名前なまえこと

わらわめい小字こあざとも表記ひょうきされる。

概要がいよう

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おも平安へいあん時代じだいから江戸えど時代じだいにかけて、武士ぶし貴族きぞく幼児ようじである期間きかんにつけられる名前なまえで、だいたい元服げんぷくしていみなをつけるまでその名前なまえでいる。

江戸えどでは、おおくの慈善じぜん活動かつどうをした豪商ごうしょうが、その活動かつどうみとめられ、おおやけでの苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされた場合ばあい、その商人しょうにん幼名ようみょうれいがある。農民のうみん名前なまえ幼名ようみょうばれるが、武士ぶしとはちがっていみなをつけることい。

現在げんざいでも幼少ようしょう改名かいめいした場合ばあいは、以前いぜん名前なまえ幼名ようみょうぶ。

幼名ようみょう継承けいしょう

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武家ぶけでは、幼名ようみょう代々だいだい継承けいしょうするいえおお存在そんざいした。

たとえば、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけたけせんだい尾張おわり徳川とくがわ五郎太ごろた紀州きしゅう徳川とくがわ長福ながふくまる水戸みと徳川とくがわつる千代ちよ加賀かが前田まえだいぬせんだいなどがあり、事例じれい枚挙まいきょひまい。

これらは、それぞれのいえ初代しょだい当主とうしゅ幼名ようみょうであり、(たとえば、たけせんだい江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやすの、五郎太ごろた尾張おわりはん徳川とくがわ義直よしなおの、長福ながふくまる紀州きしゅうはん徳川とくがわ頼宣よりのぶの、つる千代ちよ水戸みとはん徳川とくがわ頼房よりふさの、いぬせんだい加賀かがはん前田まえだ利家としいえ幼名ようみょうである)、子孫しそんのうちぐべき嫡男ちゃくなん幼名ようみょうにもなり、代々だいだいがれていった。

武家ぶけだい相伝そうでん幼名ようみょう

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歴史れきしじょう人物じんぶつ幼名ようみょう

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幼名ようみょうによってひろられている人物じんぶつもいる。これは若年じゃくねんのうちに死去しきょしたために、元服げんぷくまえだったか、元服げんぷくしていたとしても幼名ようみょう以外いがい名乗なのっていた期間きかんみじか場合ばあいかんがえられる。

女性じょせいようしょう

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動物どうぶつれい

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日本にっぽんではデビューまえ競走きょうそうにおいて幼名ようみょうがあり、以下いかれいがある。

歴史れきしじょう創作そうさくぶつれい

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  • 日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかいにおいて、成人せいじんでありながらもわらわめい名乗なの人々ひとびと特異とくい社会しゃかいてき位置いちにあったと指摘してきされる[2]。これは「わらわ」のなかに、ひとちからおよばぬものを中世ちゅうせい社会しゃかい背景はいけいに(「ななつまではかみのうち」という言葉ことばがあるように[注釈ちゅうしゃく 1])、わらわめい名乗なの童形どうぎょう成人せいじん神仏しんぶつ世界せかいにつながる特異とくい呪術じゅじゅつてき能力のうりょくをもつひとられていたと網野あみの善彦よしひこ指摘してきしており[2]たとえば、牛飼うしかいわらわめいは、後世こうせいほどうしさげすまれておらず、統御とうぎょしがたい動物どうぶつ認識にんしきされていたことから童形どうぎょうでなくてはならなかったと考察こうさつしている[3]。また武具ぶぐ楽器がっきといった器物きぶつ動物どうぶつ自体じたいにも、わらわめい意味いみする「まる」(〇〇まる)がけられるが、これも「まる」というそのものが神仏しんぶつ世界せかい俗界ぞっかい媒介ばいかいする役割やくわりたすとかんがえられてきたことと関係かんけいがあるという[3]
  • 日本にっぽん場合ばあい人間にんげんかぎらず、成長せいちょう段階だんかいおうじて名称めいしょうえる文化ぶんかがあり、れいとして、出世魚しゅっせうお稚魚ちぎょ成魚せいぎょことなる)があり、昆虫こんちゅうえば、姿すがたがたことなるヤゴトンボりくじゅうでは、ウリぼうイノシシがある。また、幼名ようみょう元服げんぷくめいかぎらず、地位ちいおうじてあらためる文化ぶんかであったため、氏姓しせいおおい。
  • アイヌ社会しゃかい命名めいめい風習ふうしゅうでは、まれたばかりのどもには特定とくていけず、「オソマ」(くそ)、シタㇰタㇰ(くそかたまり)、ポイシオン(ちいさなくそ)などわざときたなんだ[4]。これはきれいなものをこのむとされる病魔びょうまたましいられないよう、あえてきらわれ息災そくさいねが信仰しんこうである[5]。ある程度ていど成長せいちょうした6、7さいころに、どもの特徴とくちょうなんらかのエピソードにちなんだ本式ほんしき命名めいめいがなされた[6]。またタブーとして、くなったひとふくめ、他人たにんおな名前なまえけてはいけないとしているため、大和やまと民族みんぞくことなり祖先そせん継承けいしょうするという文化ぶんか[7]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 奈良なら時代じだいの『養老ようろうただし』では、7さい以下いか刑罰けいばつ適用てきようがいともしるされる

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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