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源義家 - Wikipedia

源義家みなもとのよしいえ

日本にっぽん武将ぶしょう

みなもと よし(みなもと の よしいえ)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきから後期こうき武将ぶしょう八幡はちまん太郎たろう通称つうしょうでもられる。のち鎌倉かまくら幕府ばくふひらいたみなもと頼朝よりとも室町むろまち幕府ばくふひらいた足利尊氏あしかがたかうじなどの祖先そせんたる。

 
みなもと よし
源義家みなもとのよしいえ(『前賢ぜんけん故実こじつ』より。菊池きくち容斎ようさい
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき-後期こうき
生誕せいたん ちょうこよみ3ねん1039ねん
死没しぼつ よしみうけたまわ元年がんねん7がつ4にち1106ねん8がつ4にち
享年きょうねん68
改名かいめい みなもとふとし不動ふどうまる
別名べつめい 八幡はちまん太郎たろう
墓所はかしょ 大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち
官位かんい せいよん出羽守でわのかみ下野しものまもる陸奥むつまもる鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんおくせいさん
主君しゅくん 藤原ふじわら頼通よりみち白河しらかわ法皇ほうおう
氏族しぞく 河内かわうちはじめ石川いしかわはじめ
父母ちちはは ちち源頼義みなもとのよりよしはは平直方たいらのなおかたむすめ
兄弟きょうだい つな義光よしみつかいほまれたいらただしずみしつ清原きよはらしげるしつ
つま 藤原ふじわらゆうつなむすめみなもとたかしちょうむすめなど
義宗よしむね義親よしちか義忠よしただ義国よしくによしとき義隆よしたか輔仁親王しんのうしつみなもと重遠しげとおしつ
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比叡山ひえいざんひとし強訴ごうそ頻発ひんぱつさいし、その鎮圧ちんあつ白河天皇しらかわてんのう行幸ぎょうこう護衛ごえい活躍かつやくするが、陸奥むつ国守こくしゅとなったとき清原きよはら内紛ないふん介入かいにゅうしてこうさんねんやくこし、朝廷ちょうてい事後じご承認しょうにんもとめる。そのやく10年間ねんかん逼塞ひっそく状態じょうたいであったが、白河しらかわ法皇ほうおう意向いこういん昇殿しょうでんゆるされた。

その活動かつどう時期じき摂関せっかん政治せいじから院政いんせいうつわるころであり、政治せいじ経済けいざいはもとより社会しゃかい秩序ちつじょにおいてもおおきな転換てんかん時代じだいにあたる。このため歴史れきし学者がくしゃからは、新興しんこう武士ぶし勢力せいりょく象徴しょうちょうともみなされ、こうさんねんやく朝廷ちょうていあつかいも「白河しらかわいん陰謀いんぼう」「摂関せっかん陰謀いんぼう」など様々さまざま臆測おくそくがされてきた。生前せいぜんきょくせいよん

生涯しょうがい

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源頼義みなもとのよりよし長男ちょうなんとして、河内かわうちはじめ本拠地ほんきょちである河内かわうちこく石川いしかわぐん壺井つぼいげん大阪おおさか羽曳野はびきの壺井つぼい)の香炉こうろほうかんまれる[1]ははは、平直方たいらのなおかたむすめ[2]

幼名ようみょう不動ふどうまる、または源太げんたまる。7さいはるに、山城やましろこく石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう元服げんぷくしたことから八幡はちまん太郎たろうしょうす。

出生しゅっしょう没年ぼつねん

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なまぼつとも諸説しょせつあるが、68さい死去しきょとする史料しりょうおおく、没年ぼつねん史料しりょうとしての信頼しんらいせいもっとたかい『ちゅう右記うきよしみうけたまわ元年がんねん(1106ねん)7がつ15にちじょうから逆算ぎゃくさんし、ちょうこよみ3ねん(1039ねん)のまれとするせつ有力ゆうりょくである。

ぜんきゅうねんやくから下野げやもりまで

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鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんけん陸奥みちのくもりにんぜられたちち頼義よりちか安倍あべたたかったぜんきゅうねんやくでは、てん5ねん1057ねん)11月にすうひゃく死者ししゃ大敗たいはいした黄海こうかいたたか経験けいけん。その出羽でわこく清原きよはら応援おうえん頼義よりちか安倍あべやぶった。

しかし、『奥州おうしゅうさんねん』(『ぞくぐんしょ類従るいじゅう収録しゅうろく)には清原武衡きよはらのたけひら乳母うばせんにんに「なんぢがちち頼義よりちかさだにんそうつとむをうちえずして、名簿めいぼをさヽげてきよし将軍しょうぐん鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん清原武則きよはらのたけのり)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたまさだにんらをうちえたり」とわれて激怒げきどしたことがっているが、「名簿めいぼ」をしだし、臣下しんかれいをとったかどうかはともかく、それにちか平身低頭へいしんていとう参戦さんせんたのみこんだことがわかる。康平こうへい6ねん1063ねん)2がつ25にちしたがえした出羽守でわのかみ叙任じょにんされた。

しかし出羽いずはこくはその清原きよはら本拠地ほんきょちである。清原きよはら武則たけのりにはまえきゅうねんやくあたまげた経緯けいいもあり受領じゅりょうとしての任国にんごく経営けいえいおもうにまかせなかったのか、『朝野ちょうやぐん』には、よく康平こうへい7ねん1064ねん)に朝廷ちょうてい越中えっちゅうまもりへの転任てんにん希望きぼうしたことがしるされている。ただしそれが承認しょうにんされたかどうかは不明ふめいである。このとし在京ざいきょうしており美濃みのこくにおいて美濃みのはじめみなもとこくぼう合戦かっせんしている。

延久のべひさ2ねん1070ねん)に下野げやまもりとなっており、陸奥みちのくしるし国庫こっこかぎぬすんだ藤原ふじわらはじめどおりらえたことが『扶桑ふそう略記りゃっき』8がつ1にちじょうえる。当時とうじ陸奥みちのくもり大和やまとはじめみなもとよりゆきしゅんで、即位そくいあいだもない後三条ごさんじょう天皇てんのうよりゆきしゅんらにきた陸奥みちのく征服せいふくめいじており、きた陸奥みちのく征服せいふく延久のべひさ蝦夷えぞ合戦かっせん自体じたい成功せいこうしたが、この藤原ふじわらはじめどおりけんためよりゆきしゅんには恩賞おんしょうはなく、その受領じゅりょう任官にんかん記録きろくにはえない。

白河しらかわみかど爪牙そうが

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うけたまわこよみ3ねん1079ねん)8がつ美濃みのみなもとこくぼうたたかえらんこしたみぎ兵衛ひょうえじょうみなもと重宗しげむね清和せいわはじめまんせいながれ4だい)をかんいのちにより追討ついとう

えいたもつ元年がんねん1081ねん)9がつ14にち検非違使けびいしとも園城寺おんじょうじ悪僧あくそうつい(『扶桑ふそう略記りゃっき』)。同年どうねん10がつ14にちには白河天皇しらかわてんのう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう行幸ぎょうこうさいし、園城寺おんじょうじ悪僧あくそう僧兵そうへい)の襲撃しゅうげきふせぐために、おとうとみなもとよしつな2人ふたりでそれぞれの郎党ろうとうひきいて護衛ごえいしたが、このとき本官ほんかん官職かんしょく)がかったため関白かんぱく藤原ふじわら前駆ぜんく名目めいもく護衛ごえいおこなった。さらにかえりがよるとなったので束帯そくたい朝廷ちょうていでの正式せいしき装束しょうぞく)から非常時ひじょうじたたかいやすい布衣ふい(ほい:つねふく)に着替きがえ、弓箭きゅうせん(きゅうせん)をたいして白河天皇しらかわてんのうじょう輿こしがわらで警護けいごにあたり、藤原ふじわらためぼうの『ためぼうきょう』には、「布衣ふい武士ぶし鳳輦ほうれん扈従こしょう(こしゅう)す。いまだかつてかざること也」とかれている。

12月4にち白河天皇しらかわてんのう春日しゅんじつしゃ行幸ぎょうこうさいしては甲冑かっちゅうをつけ、弓箭きゅうせんたいした100めいへいひきいて白河天皇しらかわてんのう警護けいごする。この段階だんかいでは公卿くぎょういたる日記にっきみず左記さき』などにも「近日きんじつれい」とかれるようになり、官職かんしょくによらず天皇てんのう警護けいごすることが普通ふつうのこととおもわれはじめる。の「北面ほくめん武士ぶし」の下地したじにもなった出来事できごとである。このころからよしつな兄弟きょうだい白河しらかわみかど近侍きんじしている。

こうさんねんやく

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さんねん合戦かっせん絵詞えことば』の源義家みなもとのよしいえ
 
さんねん合戦かっせん絵詞えことば』の「雁行がんこうみだれ」で、せを見破みやぶられた清原きよはらぐん

えいたもつ3ねん1083ねん)に陸奥むつまもるとなり、清原きよはら内紛ないふん介入かいにゅうしてこうさんねんやくはじまる。ただしこの合戦かっせん朝廷ちょうてい追討ついとうかんによるおおやけせんではない。朝廷ちょうていでは寛治かんじ元年がんねん1087ねん)7がつ9にちに「奥州おうしゅう合戦かっせん停止ていし」のかん使派遣はけん決定けっていした事実じじつことから、『こうじょうどおり』にはこの戦争せんそうは「合戦かっせん」とわたしせんにおわせるかたがされている。

こうさんねんやくにおいて動員どういんしたへいは、石井いしいすすむ国衙こくが軍制ぐんせい概念がいねん[3] にそって分類ぶんるいすれば、国守こくしゅぐんの「かん者共ものども」、つまり受領じゅりょう国守こくしゅ私的してき郎党ろうとうとして動員どういんした近畿きんきから美濃みの、そして相模さがみこく武者むしゃ[ちゅう 1] と、清原きよはら勢力せいりょくがい陸奥みちのく南部なんぶの「くにへいども」。「地方ちほう豪族ごうぞくぐん」として陸奥みちのくおくろくぐんみなみさんぐん中心ちゅうしんとした藤原清衡ふじわらのきよひらぐんと、出羽でわ吉彦よしひこしゅうたけしぐんからなるとおもわれる。

最終さいしゅう局面きょくめんでの主要しゅよう作戦さくせん吉彦よしひこしゅうからていること、およぜんきゅうねんやくれい勘案かんあんすれば、最大さいだい兵力へいりょくしゅうぐんつぎきよし衡のぐんであり、国守こくしゅぐん陸奥みちのく南部なんぶの「くにへいども」をくわえたとしても、それほどおおかったとはおもえない。

寛治かんじ元年がんねん11がつ出羽いずは金沢かなざわしがらみにて清原武衡きよはらのたけひら清原家衡きよはらのいえひらやぶり、12月、それを報告ほうこくする「くにかい」のなかで「わたくしのちからをもって、たまたまうちたいらぐるごとをえたり。はや追討ついとうかんたまわりて」とこうけの追討ついとうかん要請ようせいするが、朝廷ちょうていはこれをくださず、「わたしせん」としたため恩賞おんしょうはなく、かつよく寛治かんじ2ねん1088ねん正月しょうがつには陸奥みちのくもり罷免ひめんされる。

なによりも陸奥みちのくこくへい(つわもの)を動員どういんしての戦闘せんとうであり、自身じしんくにかいなかで「政事せいじをとどめてひとえにつわもの(へい)をととのへ」、とべているように、そのあいだ陸奥みちのくこくさだめられたかんぶつみつぎおさめとどこおったとおもわれ、そのなんねんものあいだ催促さいそくされていることが、当時とうじ記録きろくのこる(『ちゅう右記うき永長ながおさ1096ねん)12月15にちじょう永長ながおさ2ねん1097ねん)2がつ25にちじょう)。当時とうじほう制度せいどからは、さだめられたかんぶつおさめて、受領じゅりょう功過こうかじょう合格ごうかくしなければ、あらたな官職かんしょくくことができず、官位かんいもそのままにかれた。

おとうとよしつな台頭たいとう

編集へんしゅう

ぜんきゅうねんやくこうさんねんやくのち人々ひとびとから土地とち寄進きしんされるようになり、所領しょりょうとしての荘園しょうえん設立せつりつしていった[4]。この寄進きしんめぐり、らの家臣かしんである藤原ふじわらみのるきよし清原きよはら則清のりきよあらそいをはじめ、これがおとうとよしつなあらそいに発展はってんした[4]寛治かんじ5ねん1091ねん)6がつ朝廷ちょうていは、よしつな武装ぶそう入京にゅうきょうきんじ、以後いご諸国しょこく人々ひとびと田畠たばた寄進きしんすることを禁止きんしする命令めいれいした[4]

つな同年どうねん正月しょうがつに、藤原ふじわらふしかい参内さんだいするさい行列ぎょうれつ前駆ぜんくつとめたほかよく寛治かんじ6ねん1092ねん)2がつには藤原ふじわら忠実ちゅうじつ春日しゅんじつさい使となって奈良ならおもむさい警衛けいえい寛治かんじ7ねん1093ねん)12月にはみなもとしゅんぼう慶賀けいが参内さんだいさい前駆ぜんくつとめるなどが公卿くぎょう日記にっきえるが、ほう長治ながはる元年がんねん1104ねん)までそうした活動かつどう記録きろくにない。

寛治かんじ7ねん10がつ除目じもくで、よしつな陸奥みちのくもり就任しゅうにんよく8ねんよしみ元年がんねん1094ねん)には出羽守でわのかみ襲撃しゅうげきした在地ざいち開拓かいたく領主りょうしゅたいらみょう(もろたえ)を郎党ろうとうついさせ、したがえよんじょうじょされて官位かんいあにならび、よくよしみ2ねん1095ねん正月しょうがつ除目じもくで、事実じじつじょう陸奥みちのくもりよりもかくたか美濃みのまもる就任しゅうにんする。

ところが、その美濃みのこくにおける比叡山ひえいざんりょう荘園しょうえんとのあらそいで僧侶そうりょ死亡しぼうしたことから、比叡山ひえいざんがわつな配流はいる要求ようきゅうして強訴ごうそおよぶが、関白かんぱく藤原ふじわらどおり大和やまとはじめみなもとよりゆきつなめいじてそれを実力じつりょく撃退げきたいする。このとき比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ日吉ひよししゃがわ神人しんじん大衆たいしゅう死傷ししょうしゃ比叡山ひえいざんがわ朝廷ちょうてい呪詛じゅそした。さらに4ねんうけたまわとく3ねん1099ねん)6がつに、当事とうじしゃどおりが38さいったことであり、朝廷ちょうてい比叡山ひえいざん呪詛じゅそ恐怖きょうふにおののいた。このけん影響えいきょうか、こののちつな受領じゅりょうにんじられることはなかった。

いん昇殿しょうでんから死没しぼつまで

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こうさんねんやくから10ねんうけたまわとく2ねん1098ねん)に「今日きょう左府さふこうかんそうきゅう云々うんぬんぜん陸奥むつ守義もりよし朝臣あそんすみきゅうくに公事こうじ除目じもく以前いぜん忩(そう)ぎょう也(けんごとゆういん気色けしき也)、ひだりだいこうおやこうそう」(『ちゅう右記うき正月しょうがつ23にちじょう)と白河しらかわ法皇ほうおう意向いこう正月しょうがつ陸奥むつ守時もりときだいかんぶつ完済かんさいしたこともあり、やっと受領じゅりょう功過こうかじょうとおって、4がつしょう除目じもくせいよん昇進しょうしんし、10月にはいん昇殿しょうでんゆるされた。しかし、その白河しらかわ法皇ほうおう強引ごういんげに、当時とうじすで形成けいせいされつつあった家格かかくかかわ公卿くぎょう反発はんぱつし、中御門なかみかど右大臣うだいじん藤原ふじわら宗忠むねただはその日記にっきちゅう右記うきうけたまわとく2ねん10がつ23にちじょううらきに「朝臣あそん天下てんかだいいち武勇ぶゆうなり。昇殿しょうでんをゆるさるるに、世人せじん甘心かんしんせざるのあるか。ただうなかれ」とく。

かんかず3ねん1101ねん)7がつ7にち次男じなん対馬つしまもりみなもと義親よしちかが、鎮西ちんぜいいてだいおさむ大弐だいに大江匡房おおえのまさふさ告発こくはつされ、朝廷ちょうてい義親よしちか召還しょうかんいのちくだす(『殿しんがりれき』)。しかしがそのために派遣はけんした郎党ろうとう首藤しゅどうどおり山内やまうち首藤しゅどう)はよくかんかず4ねん1102ねん)2がつ20日はつか義親よしちかとも義親よしちか召問の官吏かんり殺害さつがいしてしまう。12月28にちついに朝廷ちょうてい義親よしちか隠岐おき配流はいるどおり投獄とうごく決定けっていする。

ちゅう右記うき』によると、長治ながはる元年がんねん1104ねん)10がつ30にちよしつな兄弟きょうだいそろって延暦寺えんりゃくじ悪僧あくそうおいおこなっているが、これが最後さいご公的こうてき活躍かつやくとなる。

よしみうけたまわ元年がんねん(1106ねん)にはよんなんみなもと義国よしくに足利あしかが新田にった)が、叔父おじよしつなおとうと源義光みなもとのよしみつひとし常陸ひたちこくにおいて合戦かっせんし、6がつ10日とおか常陸ひたち合戦かっせん義国よしくにしんぜよとのいのちくだされる。義国よしくにあらそっていた義光よしみつたいらしげるみきひとしにも捕縛ほばく命令めいれいなか同年どうねん7がつ15にちに68さいぼっする。翌日よくじつ藤原ふじわら宗忠むねただ日記にっきちゅう右記うき』に「武威ぶい天下でんかつ、まことこれ大将軍だいしょうぐんものなり」と追悼ついとうする。死後しご三男さんなんみなもと義忠よしただ家督かとく継承けいしょうし、河内かわうちはじめ棟梁とうりょうとなった。

死後しご河内かわうちはじめ

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翌年よくねんよしみうけたまわ2ねん1107ねん)12月19にち隠岐おき配流はいるされていたみなもと義親よしちか出雲いずもこく目代もくだい殺害さつがいし、周辺しゅうへん諸国しょこく義親よしちか同心どうしんするうごきもあらわれたため、白河しらかわ法皇ほうおう因幡いなばこく国守こくしゅでありいん近臣きんしんでもあった平正盛たいらのまさもり義親よしちか追討ついとうめいじる。翌年よくねんてんひとし元年がんねん1108ねん)1がつ29にちせいもり義親よしちか首級しゅきゅうってきょう凱旋がいせんし、せいもり白河しらかわいん爪牙そうがとして脚光きゃっこうびる。この凱旋がいせんたいして、藤原ふじわら宗忠むねただは『ちゅう右記うき』に「朝臣あそん年来ねんらい武者むしゃ長者ちょうじゃとしておお無罪むざいひところすと云々うんぬん積悪せきあくあまり、つい子孫しそんおよぶか」としるす。

てんじん2ねん1109ねん)、義忠よしただ郎党ろうとう平成へいせいみき暗殺あんさつされる事件じけん発生はっせい犯人はんにんつなみなもと義明よしあきとされ義親よしちか(義忠よしただおとうととも)・源為義みなもとのためよしつな一族いちぞく追討ついとうよしつな佐渡さどとうながされ義明よしあき殺害さつがいされた(てんうけたまわ2ねん1132ねん)につな追討ついとう自殺じさつ)。なお、義忠よしただ暗殺あんさつ真犯人しんはんにん義光よしみつであったとするせつもある(詳細しょうさいみなもと義忠よしただ暗殺あんさつ事件じけん参照さんしょうのこと)。家督かとくためまましいだが、義光よしみつ義国よしくに義忠よしただ遺児いじみなもと経国けいこくため源義朝みなもとのよしともなどは関東かんとうくだ勢力せいりょくたくわえ、玄孫げんそんあさみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふきずもととなる。

出生しゅっしょうについての異説いせつ

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出生しゅっしょうについての異説いせつとして、南北なんぼくあさ時代じだい僧侶そうりょ歌人かじんであるよしおもねあらわした『りんさいしょう』にしるされた相模さがみこく鎌倉かまくらにあった外祖父がいそふ平直方たいらのなおかたかんとするせつ横山よこやまとう系図けいずの1つである『小野おの系図けいず』や南北なんぼくあさ時代じだい軍記物語ぐんきものがたりである『みなもとたけししゅう』にしるされた相模さがみこく足下あしもとぐん柳下やぎしたさととするせつがあるほか頼義よりちか平直方たいらのなおかた京都きょうと根拠こんきょとする軍事ぐんじ貴族きぞくであることから頼義よりちか直方ちょくほうむすめ婿むこになったのも息子むすこである誕生たんじょうしたのも京都きょうとであるとかんがえるのが自然しぜんとするせつ川合かわいやすし)もある[5][6]

白河しらかわ法皇ほうおう陰謀いんぼうせつとその研究けんきゅう

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戦後せんご初期しょきかん

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戦後せんご初期しょき歴史れきし学者がくしゃなかでの通説つうせつとなったものは、石母田いしもたただしの『中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい』をベースに、古代こだい支配しはい階級かいきゅうである貴族きぞく宗教しゅうきょう勢力せいりょくたいして、あらたに発生はっせいした在地ざいち領主りょうしゅそう封建ほうけんてき農奴のうどぬし階級かいきゅう)が武装ぶそうしたものが「武士ぶし」であり、その新興しんこう勢力せいりょく武士ぶし階級かいきゅう)が、古代こだい支配しはい階級かいきゅうである貴族きぞく宗教しゅうきょう勢力せいりょく排除はいじょし、鎌倉かまくら幕府ばくふという武士ぶし階級かいきゅう中心ちゅうしんとした中世ちゅうせい世界せかいをもたらしたという歴史れきしかんであった。

当時とうじ学説がくせつでは「武士ぶし」はその在地ざいち領主りょうしゅをベースとしたものであり、平将門たいらのまさかど藤原ふじわらしげるきょうなどは学会がっかい用語ようごとしては「武士ぶし」ではなく、そのぜん段階だんかいの「へい」(つわもの)といわれていた。両者りょうしゃちがいを、竹内たけうちさん昭和しょうわ40ねん1965ねん)にこのようにも説明せつめいしている。

へい武士ぶし相違そういいまいちべれば、へいところしたがえ従者じゅうしゃ)をつが、へいうえへいない。つまり重層じゅうそうてき階級かいきゅうせいい。かれらはそれぞれいち独立どくりつした力量りきりょう従者じゅうしゃしたがえたもので、支配しはい組織そしきをもっていない。ところが武士ぶしとなると、そのした郎党ろうとうがあり、さらにそのした郎党ろうとうがあると具合ぐあい支配しはい関係かんけい重層じゅうそうてきであった」(『日本にっぽん歴史れきしだい6かん武士ぶし登場とうじょう」(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ))

そうした「重層じゅうそうてき階級かいきゅうせい」は、ちょうどころられるようになり、その背景はいけいには、地方ちほう経済けいざい社会しゃかいでのおおきな変動へんどう在地ざいちでの有力ゆうりょくしゃまけめい公田くでん請作経営けいえいしゃ)から在地ざいち領主りょうしゅ所領しょりょう経営けいえいしゃ)へと変化へんかがあったとかんがえられている。そうした歴史れきしおおきなながれのなかで、新興しんこう勢力せいりょく武士ぶし階級かいきゅう古代こだい支配しはい階級かいきゅう最初さいしょ衝突しょうとつ抑圧よくあつ)を源義家みなもとのよしいえなかようとする傾向けいこう大勢おおぜいめていた。昭和しょうわ41ねん1966ねん)の安田やすだ元久もとひさ源義家みなもとのよしいえ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん)もそのような視点してんからかれている。

その最初さいしょ衝突しょうとつ抑圧よくあつ)の具体ぐたいれいとしてあげられたのが、こうさんねんやく勝利しょうりしたにもかかわらず恩賞おんしょうあたえられず、冷遇れいぐうされたこと、そしてたいする荘園しょうえん寄進きしんきんじられたことなどである。さらに、死後しご河内かわうちはじめ内紛ないふんなかまご源為義みなもとのためよし意図いとてきてられ、いっそう河内かわうちはじめ結束けっそくみだされた。さらにそのため冷遇れいぐうされて一生いっしょう受領じゅりょうにはなれなかったなどとされた。

白河しらかわ法皇ほうおう摂関せっかんなど、当時とうじ支配しはいしゃ危険きけんしたという竹内たけうちさん安田やすだ元久もとひさろんは、当時とうじ国土こくどのほとんどが荘園しょうえんとなっていたという認識にんしき前提ぜんていとしている。そうした状況じょうきょうのなかで、はその荘園しょうえんさい上位じょうい所有しょゆうしゃそうみ、白河しらかわ法皇ほうおう摂関せっかんなど、王家おうけ上級じょうきゅう貴族きぞく経済けいざい基盤きばんおどかしたというものである。たとえば竹内たけうち昭和しょうわ40ねんの『武士ぶし登場とうじょう』のなかで、「諸国しょこく百姓ひゃくしょうから田畑たはた寄進きしんをうけて貴族きぞくおな荘園しょうえん領家りょうけすることは、上皇じょうこうをふくめての貴族きぞくそうにとってはたえがたいことであった」と説明せつめいされている。

その荘園しょうえん進展しんてん

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しかしこのろんは、1970年代ねんだい以降いこう荘園しょうえん研究けんきゅう進展しんてんから、3つのてん見直みなおしが必要ひつようとされている。

その1つは、網野あみの善彦よしひこ昭和しょうわ44ねん1969ねん)の「若狭わかさこくにおける荘園しょうえんせい形成けいせい」や石井いしいすすむ昭和しょうわ45ねん1970ねん)の「院政いんせい時代じだい」、昭和しょうわ53ねん1978ねん)の「あい武士ぶしだん」(『鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう』に収録しゅうろく)における「太田おおたぶん」の詳細しょうさい研究けんきゅうから、荘園しょうえんがもっともさかんにたてそうされた時期じきは、12世紀せいき中葉ちゅうよう以降いこう鳥羽とばこう白河しらかわ院政いんせいであり、さらにそのだい規模きぼ荘園しょうえん乱立らんりつ完了かんりょうした13世紀せいきにおいてさえも、荘園しょうえんりょう国衙こくがりょう地方ちほうにより相違そういはあるものの、平均へいきんすれば6たい4とほぼ半々はんはんであることがあきらかになった。

石井いしいすすむ昭和しょうわ61ねん1986ねん)4がつの「中世ちゅうせいむらあるく-寺院じいん荘園しょうえん」(『中世ちゅうせいむらあるく』収録しゅうろく)において「摂関せっかん時代じだい成立せいりつとともにぜん国土こくど荘園しょうえんとなったという従来じゅうらいせつには、とてもしたがえないのである」とかれている。

2つは、「貴族きぞくおな荘園しょうえん領家りょうけ」(石井いしいすすむ)、「上級じょうきゅう貴族きぞくたちおなじように荘園しょうえん領主りょうしゅ」(安田やすだ元久もとひさ)と、荘園しょうえん支配しはい階層かいそうさい上位じょういがなっていったとみなしていることである。

荘園しょうえん支配しはい階層かいそうには荘園しょうえん領主りょうしゅである「本所ほんじょ領家りょうけ」、その代官だいかんである「あずかところ」、現地げんちでの実質じっしつ支配しはいしゃおおくの場合ばあい寄進きしんしゃである「庄司しょうじ下司げす)」の3段階だんかいがあるが、そのさい上位じょういに、権門けんもんといわれる「上皇じょうこうをふくめての貴族きぞくそう」やだい寺院じいん神社じんじゃ位置いちする。

1960年代ねんだいには、がそのさい上位じょうい権門けんもんしのけて、あるいはあらたな権門けんもんとしてもうとしたかのようにとらえられていたが、これはたかだかよんしょ大夫たいふ受領じゅりょうそうであるにはかんがえにくい。

福田ふくだ豊彦とよひこは、昭和しょうわ49ねん1974ねん)の「王朝おうちょう国家こっかをめぐって」(『東国とうごく兵乱へいらんともののふたち』に収録しゅうろく)と論文ろんぶんで、「荘園しょうえん寄進きしん対象たいしょう本家ほんけ領家りょうけ)ではなくて、寄進きしんたっての媒介ばいかい役割やくわりたした貴族きぞくそうあずかところなど)との接点せってんかんがえる必要ひつようがありそうにおもいます」とべている。

また田中たなかあやえい平成へいせい9ねん1997ねん)にいた論文ろんぶん河内かわうちはじめとその時代じだい」(『院政いんせいとその時代じだい』に収録しゅうろく)において、たてそうして摂関せっかん寄進きしんし、みずからはあずかところとなってそれを左衛門尉さえもんのじょういだものかと推測すいそくする石川いしかわそうが、かなりひろ地域ちいきなか散在さんざいするすうまちからちいさいものではすうだん、つまりすうじゅうせきからすうせきぐらいの田畑たはたあつめの様相ようそうしめしていることを紹介しょうかいしている。

寛治かんじ5ねん6がつ郎党ろうとうよしつな郎党ろうとう河内かわうちこく所領しょりょう領有りょうゆうけんあらそいは、こうしたちいさな単位たんい田畠たばたをめぐってあらそわれたものとおもわれる。この傾向けいこう近畿きんき一帯いったい共通きょうつうする性格せいかくであり、12世紀せいき中頃なかごろ以降いこう東国とうごくなどにられるだい規模きぼ寄進きしんけい荘園しょうえん同一どういつすることは出来できない。

じょうどおり』と『百錬ひゃくれんしょう

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つぎに、「たいしてずいへい入京にゅうきょう禁止きんしれい」「への土地とち寄進きしん禁止きんし」であるが、これは、寛治かんじ5ねん6がつ郎党ろうとう藤原ふじわらみのるきよしよしつな郎党ろうとう藤原ふじわら則清のりきよとのあいだでの河内かわうち所領しょりょう領有りょうゆうけんをめぐるあらそいから、よしつなへいかまえる事態じたいとなり、きょう騒然そうぜんとしたことにかんする当時とうじ内大臣ないだいじん藤原ふじわらどおり日記にっきこうじょうどおり』と、鎌倉かまくら時代じだい後期こうきに、それまでのしょ日記にっき編纂へんさんした『百錬ひゃくれんしょう』にえる記事きじである。

りょう史料しりょう片方かたがたいち史料しりょうであり、もう片方かたがたやく2世紀せいきうしろでの2史料しりょうである。「たいしてずいへい入京にゅうきょう禁止きんしれい」といわれるものは『百錬ひゃくれんしょう』の「ぜん陸奥むつ守義もりよしへいをしたがえてきょうはいること…を停止ていし」であるが、おな事実じじつを『こうじょうどおり』には「諸国しょこく国司こくしずいへいめらるべきのかん」とある。 「諸国しょこく国司こくしずいへいめらるべき」は「たいしてずいへい入京にゅうきょう禁止きんし」とはまったことなる。 もう1つの「への土地とち寄進きしん禁止きんし」は『百錬ひゃくれんしょう』にはおな寛治かんじ5ねん6がつ12にちのこととあるが、『じょうどおり』にはその記述きじゅつい。かわりに翌年よくねん寛治かんじ6ねん5がつ12にちじょうが構立した荘園しょうえん停止ていしされたことがしるされている。

このけんは、安田やすだ元久もとひさも『百錬ひゃくれんしょう』にはうたがいをいきれないようで、昭和しょうわ49ねんの『日本にっぽん歴史れきし(7) 院政いんせい平家へいけ』のなかで「もし『百錬ひゃくれんしょう』にいう措置そちがとられたのであれば、それは左大臣さだいじんしゅんぼう以下いか公卿くぎょうたちが、関白かんぱくとともにとった処置しょちであって、上皇じょうこう意志いしからでたものではなかったことになる。」と微妙びみょうきかたをしている。

関白かんぱく藤原ふじわらじつは『こうじょうどおり』の藤原ふじわらどおりちちであり、どおりはその公卿くぎょう議定ぎてい内大臣ないだいじんとして出席しゅっせきしており、当時とうじ公卿くぎょう日記にっきかたから『じょうどおり寛治かんじ5ねん6がつ12にちじょうはその翌朝よくあさかれたものと推察すいさつできほぼリアルタイムとみなしてよい。もし『百錬ひゃくれんしょう』にいう措置そちがとられたのであれば、左大臣さだいじん白河しらかわ法皇ほうおう上奏じょうそうし、いん意向いこう公卿くぎょう議定ぎていつたえられたのち関白かんぱく介入かいにゅうしたことになるが、当時とうじかんそう手順てじゅんから不自然ふしぜんかんまぬかれない。もしあったとすればその関白かんぱく息子むすこであるどおりがその変則へんそく介入かいにゅう日記にっきかないなどということがあるだろうか。安田やすだうたがいはそのてんにもおよんでいるとおもわれる。

このけんかんして、元木もとき泰雄やすお平成へいせい6ねん1994ねん)の『武士ぶし成立せいりつ』で、やく1ねんへだてた2けん事柄ことがらをまとめて編集へんしゅうしてしまった可能かのうせいがあると指摘してきしている。なお、以下いか元木もとき指摘してきではないが、『百錬ひゃくれんしょう』の編者へんしゃ認識にんしきあやまりはこれだけではない。もういちけんいち史料しりょうである複数ふくすう公卿くぎょう日記にっき相違そういしている。

こうさんねんやく恩賞おんしょう

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なお、こうさんねんやく勝利しょうりしたにもかかわらず恩賞おんしょうあたえられなかったてんかんしては、本来ほんらい朝廷ちょうてい命令めいれいかんしに合戦かっせんこすことは当時とうじでも違法いほう行為こういであり、合戦かっせん途中とちゅうにおいても「奥州おうしゅう合戦かっせん停止ていし」のかん使派遣はけん決定けっていしたりしている。したがって追討ついとう事後じご承認しょうにんもとめたのにたいして、これを拒否きょひしたのは不思議ふしぎではない。

さら当時とうじは「財貨ざいか」であるより以前いぜんに、朝廷ちょうていしょ行事ぎょうじ装飾そうしょく貴重きちょうにして重要じゅうよう材料ざいりょうであり、ほとんど陸奥みちのくからしかはいらなかった砂金さきんの「みつぎきん」をこしている。これは租税そぜい未収みしゅう以上いじょうの、朝廷ちょうていしょ行事ぎょうじ支障ししょうをきたすだい問題もんだいであり、そのために朝廷ちょうてい公卿くぎょう議定ぎてい議題ぎだいにあがっている。

受領じゅりょう勤務きんむ評定ひょうじょうである受領じゅりょう功過こうかじょうを10ねんとおらなかったのは当時とうじ制度せいどにそった処置しょちであり、だけがそうであったわけではない。白河しらかわいんいん近臣きんしんであった国守くにもり(国司こくし)を、受領じゅりょう功過こうかじょうずにおなこくでそのまま重任じゅうにん他国たこくてんずるより利益りえきおおきい)させようとしたのを藤原ふじわらどおりもう反対はんたいしてあきらめさせたことまである。

そのかんぶつすすむ決着けっちゃくに10ねんがかかるが、それがやっと完済かんさいできたのかどうかは記録きろくいが、その合格ごうかく内大臣ないだいじん藤原ふじわら宗忠むねただ日記にっきであるちゅう右記うきうけたまわとく2ねん正月しょうがつ23にちじょうには「けんごとゆういん気色けしき也」、つまり白河しらかわ法皇ほうおう意向いこうであったことがしるされている。

伝承でんしょう

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月岡つきおか芳年よしとし:『八幡やはた太郎たろう

ぜんきゅうねんやくときてん5ねん11月にすうひゃく死者ししゃ大敗たいはいした黄海こうかいたたかいで、わずろくとなってのがれたが、そのたたかいのなかで「将軍しょうぐん長男ちょうなん、驍勇絶倫ぜつりんにして、騎射きしゃすることかみごとし。しろがたなおかし、重圍じゅういき、ぞく左右さゆうでて、だい鏃のもって、しきりにぞくる。むなしくたず。ちゅうたるしょかならず斃れぬ。かみなりごとく奔り、ふうごとび、神武じんむいのちなり」。と『陸奥みちのくはなし』にある。

おなじ『陸奥みちのくはなし』には、その清原武則きよはらのたけのりが「きみ弓勢ゆんぜいさんとほっす。いかに」とうと、は「し」と。そこで武則たけのりは「かたかぶと(かぶと:とむがよろいのことか)さんりょうかさねて、これをえだかかる。一発いっぱつにてかぶとさんりょうつらぬかせしむ」。武則たけのりおおいにおどろいて「これ神明しんめい変化へんかなり。あに凡人ぼんじんこたえるところならんや。よろしく武士ぶしため帰伏きふくするところ、かくのごとし」とかたったという逸話いつわのこる。

が2さいときもちいた「みなもとふとし産衣うぶぎ」というよろいと、ったてきせんにんくびひげごとったことから「ひげきり」と名付なづけられたかたなは、河内かわうちはじめ嫡子ちゃくしつたえられるたからとなり、平治へいじらんではみなもと頼朝よりとももちいたという逸話いつわ鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきの『平治へいじ物語ものがたり』にある。これはみなもと頼朝よりとも源氏げんじ嫡流ちゃくりゅうであると印象いんしょうづけるための創作そうさくといわれている。

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき説話せつわしゅう古今ここん著聞ちょぶんしゅう』にはまえきゅうねんやくのち捕虜ほりょとなったのち家来けらいとした(事実じじつではないが)安倍宗任あべのむねとうとのはなしがいくつかあり、げいひいで、意味いみもなく動物どうぶつころそうとしないやさしさ、さらってきたかつてのてきそうつとむ背中せなかけ、背負せおったれにれさせた剛胆ごうたんさ、さらには神通力じんずうりきまでそなえたちょう人的じんてき武士ぶしとしてえがかれている。

しかしその一方いっぽうでは以下いかのような伝承でんしょうのこされている。

  • きょう屋敷やしき近所きんじょものが、あるよるおにきずられてもんゆめた。そこで屋敷やしきを覗うと、屋敷やしきなかではんだと大騒おおさわぎになっていた。あれは地獄じごくきずられていくところだったにちがいない。
  • ちち頼義よりちか殺生せっしょう罪人ざいにんで、本来ほんらいなら地獄じごくちるべき人間にんげんである。ぜんきゅうねんやくとしたくびは1まんはちせん、その片耳かたみみあつめて、してかわごういれ上洛じょうらくした。しかし、後年こうねん仏門ぶつもんはいって、そのみみどうきょう六条ろくじょう坊門ぼうもんきたみみおさめどう)のだんしためてとむらい、自分じぶん殺生せっしょういたために最後さいご成仏じょうぶつできた。しかしつみひと沢山たくさんころして、それをいるところもかったので無限むげん地獄じごくちた。(『古事ふるごとだん』)

今様いまようぐるいのこう白河しらかわ法皇ほうおう編纂へんさんした『梁塵りょうじんしょうまきだいにある「わし深山みやまには、がいてのとりむものか、おなじきげんもうせども、八幡はちまん太郎たろうおそろしや」はそのようないいつたえを反映はんえいしているものとおもわれる。

それらの伝承でんしょう平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょきにかけてのものであるが、どう時代じだい藤原ふじわら宗忠むねただがその日記にっきちゅう右記うき』に「朝臣あそん年来ねんらい武者むしゃ長者ちょうじゃとしておお無罪むざいひところすと云々うんぬん積悪せきあくあまり、つい子孫しそんおよぶか」としるしたこともわせかんがえると、それらの説話せつわ個々ここには事実じじつではありないが、当時とうじきょう人間にんげんかんとして、実像じつぞういちめんつたえているようにもとれる。

こうさんねんやくわたしせんとされて恩賞おんしょうなかったため、河内かわうち石川いしかわそう自分じぶん私財しざいとうじて部下ぶか将士しょうし報奨ほうしょうあたえ、武家ぶけ棟梁とうりょうとしての信望しんぼうたかめたといわれる。ただし平安へいあん時代じだい末期まっきの『奥州おうしゅうさんねん』にはその記述きじゅつはない。後世こうせいでは、東国とうごくにおける武門ぶもんならいは整備せいびしたといわれ、その名声めいせい武門ぶもん棟梁とうりょうとしての血脈けちみゃくとしての評価ひょうか一層いっそうたかめることとなったというのは、おも南北なんぼくあさ時代じだいすえに、子孫しそんである足利あしかが幕府ばくふ正統せいとうせいをうたうためかれた『みなもとたけししゅう』にある「諸家しょかやからみなもと将軍しょうぐん代々だいだい仁王におうたてまつおおせハ此故也」からの派生はせい

名声めいせいおそれた白河しらかわ法皇ほうおうや、摂関せっかん陰謀いんぼうによって河内かわうちはじめ凋落ちょうらくしていったとされるのはおも戦後せんごである。現在げんざい研究けんきゅうしゃあいだでは本稿ほんこう紹介しょうかいしたような見直みなおしがおこなわれているが、その陰謀いんぼうせつはいまだに非常ひじょう根強ねづよい。

今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅんの『なん太平たいへい』によれば、は「われななだいまごまれわりて天下てんかるべし」という遺言ゆいごんのこし、からなな代目だいめにあたる足利あしかが家時いえときは、自分じぶんだいでは達成たっせいできないため、さんだい子孫しそん天下てんからせよと祈願きがんし、願文がんもんのこして自害じがいしたとわれ、了俊りょうしゅん自身じしんもその願文がんもんたとしるしている[7]。かつては、貞世さだよ証言しょうげん鵜呑うのみにし、足利尊氏あしかがたかうじ北条ほうじょう打倒だとう後醍醐天皇ごだいごてんのう打倒だとうがったのは、いえからさんだい子孫しそんとしてそれをせられたというせつがあった[7]。しかし、20世紀せいきなか以降いこう、このせつはほとんど支持しじされていない[7][8]いえおけぶん実在じつざいそんおとうと直義ただよしがそれをたことは直義ただよし書状しょじょうから確実かくじつであるが、それは後醍醐天皇ごだいごてんのうとの対決たいけつから15ねんのことであり、たかし挙兵きょへい動機どうきとしてはかんがえにくい[7]。それどころか、「足利あしかが源氏げんじ嫡流ちゃくりゅうである」という認識にんしきそのものが室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつ創作そうさくされたものであり、貞世さだよかた家時いえとき伝説でんせつもその源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう工作こうさくひとつであるという[8]詳細しょうさい足利尊氏あしかがたかうじ#おけぶん伝説でんせつ参照さんしょう

 
かぜをなこそのせきおもへどもみちもせに山桜やまざくらかな』(尾形おがた月耕げっこう日本にっぽんはな図絵ずえ』)
 
源義家みなもとのよしいえ歌川うたがわ国芳くによし武勇ぶゆうなずらえ源氏げんじ』)

かぜをなこそのせきおもへどもみちもせに山桜やまざくらかな

勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうひとつである『千載せんざい和歌集わかしゅう』に収録しゅうろくされており、詞書ことばがきに「陸奥みちのくこくにまかりけるとき勿来なこそせきにてはなりければよめる」とある。

唱歌しょうか

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八幡やはた太郎たろう』1912ねんの『尋常じんじょう小学しょうがく唱歌しょうか』に発出はっしゅつ

  1. こまのひづめもにおいふまで、
    みちもせに山櫻やまざくらかな。」
    しばしながめて、
    かぜを 勿來なこそせきおもへども」
    かひなきやとほほみて、
    ゆるくたせしやさしさよ。
  2. ちゆくてきをよびとめて、
    ころものたてはほころびにけり。」
    てきかへり、
    としけいし いとのみだれのくるしさに」
    つけたることのめでたきに、
    めでてゆるししやさしさよ。

てき」とは安倍貞任あべのさだとうで、衣川きぬがわせきてて敗走はいそうする安倍貞任あべのさだとう源義家みなもとのよしいえが、つがえながらしもうたいかけると、さだにん即座そくざにそのかみかえしたので、かんじいって「武士ぶしなさけ」と、はなつのをめたというはなし中世ちゅうせい説話せつわしゅう古今ここん著聞ちょぶんしゅう』にある。ただし江戸えど時代じだい水戸みと光圀みつくに編纂へんさんさせた『だい日本にっぽん』の段階だんかいから「うたぐふらくは、和歌わかしゃりゅう好事家こうずか所為しょいでしなり。ゆえいまらず。」とされている。

先祖せんぞ

一説いっせつに、源為義みなもとのためよし実子じっし四男よつお)とするせつがある[9][10][11]

墓所はかしょ

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源義家みなもとのよしいえ大阪おおさか羽曳野はびきの

河内かわうちはじめ本拠地ほんきょちだった大阪おおさか羽曳野はびきの壷井つぼい楼門ろうもんだけがのこ源氏げんじてら通法寺つうほうじあとちかくに、祖父そふ頼信よりのぶちち頼義よりちかともにある。

大正たいしょう4ねん(1915ねん)11がつ10日とおかせいさん追贈ついぞうされた。このにはほかにもおおくの歴史れきしてき人物じんぶつへの贈位ぞういがなされ、ちち頼義よりちか同日どうじつせいさんおくられている。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大半たいはん側近そっきん、またはきょうでのコネクションをおもわせる辺境へんきょう軍事ぐんじ貴族きぞく

出典しゅってん

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  1. ^ 由緒ゆいしょ 壺井つぼい八幡宮はちまんぐう 壺井つぼい八幡宮はちまんぐう源氏げんじさん神社じんじゃひとつ>
  2. ^ 甲府こうふ 通史つうしへん だいいちかん 1991, p. 215.
  3. ^ [1]
  4. ^ a b c 足利あしかがへんさん委員いいんかい 1977, p. 132.
  5. ^ 川合かわいやすし横山よこやま系図けいず源氏げんじ将軍しょうぐん伝承でんしょう」『中世ちゅうせい武家ぶけ系図けいず史料しりょうろん上巻じょうかん高志こうし書店しょてん、2007ねん /所収しょしゅう:川合かわい 2019, pp. 74–81
  6. ^ 川合かわいやすし鎌倉かまくら幕府ばくふ草創そうそう神話しんわ」『季刊きかん東北とうほくがく』27ごう、2011ねん /所収しょしゅう:川合かわい 2019, pp. 267–268
  7. ^ a b c d 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』(あらため中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2005ねんISBN 978-4122044814  pp. 129–132。
  8. ^ a b 細川ほそかわ重男しげお ちょ「【後醍醐ごだいごたかし関係かんけい】4 足利尊氏あしかがたかうじは「たてたけし政権せいけん」に不満ふまんだったのか?」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ございさむいち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、84–108ぺーじISBN 978-4800310071  pp. 131–132。
  9. ^ 北酒出きたさかいでほん源氏げんじ系図けいず』、長楽寺ちょうらくじほん源氏げんじ系図けいず』、みょう本寺ほんじみなもと系図けいず』、『佐竹さたけ系譜けいふ
  10. ^ 殿しんがりれきてんじん2ねん2がつ17にちじょうの「朝臣あそん四郎男為義」
  11. ^ みなもと義忠よしただ暗殺あんさつみなもと義光よしみつ」『山形やまがた県立けんりつ米沢よねざわ女子じょし短期大学たんきだいがく紀要きよう』45、2009ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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史料しりょう
寺社じしゃ
祭事さいじ催事さいじ
逸話いつわ

外部がいぶリンク

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みなもと頼朝よりとも系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 源義家みなもとのよしいえ
 
 
 
 
 
 
 
8. みなもと義親よしちか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. みなもとたかしちょうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 源為義みなもとのためよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 源義朝みなもとのよしとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原ふじわら忠清ただきよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら忠清ただきよむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
みなもと頼朝よりとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわらみのるはん
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわらけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 小野おのどおりむすめ
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわらはん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 尾張おわりいんしょく
 
 
 
 
 
 
 
13. 尾張おわりしょく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 由良ゆら御前ごぜん