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源義忠 - Wikipedia

みなもと義忠よしただ

平安へいあん時代じだい後期こうき武将ぶしょう河内かわうちはじめ4だい源義家みなもとのよしいえ三男さんなんしたがえ左衛門さえもん大尉たいい河内かわうちまもるひだり兵衛ひょうえじょうみぎ兵衛ひょうえけん使つかい帯刀たいとうちょう左衛門尉さえもんのじょう

みなもと 義忠よしただ(みなもと の よしただ)は、平安へいあん時代じだい後期こうき武将ぶしょう清和せいわはじめなか河内かわうちはじめよん代目だいめ棟梁とうりょう源義家みなもとのよしいえ死後しご河内かわうちはじめ家督かとく相続そうぞく伊勢いせたいら和合わごうして勢力せいりょく維持いじはかったが、郎党ろうとう殺害さつがいされた。

 
みなもと 義忠よしただ
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき
生誕せいたん えいたもつ3ねん1083ねん
死没しぼつ てんひとし2ねん2がつ5にち1109ねん3月8にち
享年きょうねん26
別名べつめい 河内かわうち判官ほうがんみなもと大夫たいふ判官ほうがん大夫たいふ判官ほうがん陸奥むつ二郎じろう
官位かんい せいろくじょう[1]帯刀たいとうちょう[2]左衛門尉さえもんのじょう[1]検非違使けびいし[3]したがえ[4]左衛門さえもん大尉たいい[5]河内かわうちまもる?[5]ひだり兵衛ひょうえじょう?[4]みぎ兵衛ひょうえけん?[4]
氏族しぞく 清和せいわはじめ河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちち源義家みなもとのよしいえはは藤原ふじわらゆうつなむすめ
兄弟きょうだい 義宗よしむね義親よしちか義忠よしただ義国よしくによしとき義隆よしたか輔仁親王しんのうみなもと重遠しげとおしつ
つま 平正盛たいらのまさもりむすめ
経国けいこく義高よしたかちゅうむね義清よしきよ義雄よしお
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生涯しょうがい

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河内かわうちまもる任官にんかん

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河内かわうちはじめ3代目だいめ棟梁とうりょう源義家みなもとのよしいえの3おとことして香呂こうろほうかん誕生たんじょう異母いぼけいに「悪対あくたいもり」といわれたみなもと義親よしちか同母どうぼおとうとに「あら加賀かが入道にゅうどう」といわれたみなもと義国よしくにがいる。河内かわうちまもる任官にんかんした、河内かわうちはじめ最後さいご棟梁とうりょうであり、かれ以降いこう棟梁とうりょう河内かわうちまもるには就任しゅうにんしていない。

義忠よしただ祖父そふ頼義よりちかていたとちちひょうされた。若年じゃくねんより帯刀たいとうちょう河内かわうちまもる検非違使けびいしなどを歴任れきにんしたが、その背景はいけいにはちちちからがあったものとおもわれる。朝廷ちょうてい抑圧よくあつしつつもおそれ、懐柔かいじゅうさくとして義忠よしただ河内かわうちまもるなどの要職ようしょくけたともいわれる[だれ?]

近年きんねんまで、義忠よしただ兄弟きょうだい義親よしちか義国よしくに2人ふたり謀反むほん乱暴らんぼうなどの理由りゆう朝廷ちょうていから討伐とうばつされたり流罪るざいしょされていたため死後しご急遽きゅうきょ家督かとくいだとされてきた。しかし近年きんねん研究けんきゅう結果けっか義忠よしただ後継こうけいしゃえらばれた時期じきいままでのせつよりはやいというせつ有力ゆうりょくになってきている。義忠よしただうえこく河内かわうちまもる[注釈ちゅうしゃく 1]であるのに、いままで家督かとくもっとちかいのに謀反むほんこしたとされていた義親よしちかしたこく対馬つしまもり[注釈ちゅうしゃく 2]でしかなく、義国よしくに後年こうねん加賀かがかい[注釈ちゅうしゃく 3]になるが、それでも河内かわうちまもる比較ひかくするとはるかに下位かい官職かんしょくである。このことからして、はや時期じきから義忠よしただ河内かわうちまもるとして河内かわうちはじめ本拠地ほんきょちたる河内かわうち長官ちょうかんになる運動うんどうをしていたとかんがえると、義忠よしただ後継こうけいはや時期じきまっていたものとされる[よう出典しゅってん]

なお、後世こうせい編纂へんさんされた『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』などのしょ系図けいずには義忠よしただ河内かわうちまもるであったことやしたがえみぎ兵衛ひょうえけんであったことがしるされているが、どう時代じだいかれた公卿くぎょう貴族きぞくたちの日記にっきではそのことは確認かくにんできない。義忠よしただ官位かんいについて確認かくにんできるのは、かんかず5ねん1103ねん)12月26にち帯刀たいとうなが[6]帯刀たいとう先生せんせい[7])に在任ざいにんしていたこと、よしみうけたまわ2ねん1107ねん)10がつ22にちぼうかん除目じもくにおいて帯刀たいとうから左衛門尉さえもんのじょうにんじられた[8]位階いかいせいろくじょう[8])こと、てんひとし2ねん1109ねん)2がつ殺害さつがいされたときに検非違使けびいし[9]であったことである。

家督かとく継承けいしょう

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よしみうけたまわ元年がんねん1106ねん)にちち死去しきょすると、河内かわうちはじめはその勢力せいりょく縮小しゅくしょうせざるをなかった。また、義忠よしただあに義親よしちか西国さいこく叛乱はんらんこし新興しんこう勢力せいりょく義忠よしただにはしゅうとにあたる伊勢いせたいら平正盛たいらのまさもりつという事態じたいとなり、河内かわうちはじめより伊勢いせたいら優勢ゆうせいになりはじめる。朝廷ちょうていでも白河しらかわ上皇じょうこう院政いんせいおこない、摂関せっかんとゆかりのふか河内かわうちはじめえて伊勢いせたいら露骨ろこつ登用とうようするようになる。あきらかに河内かわうちはじめ衰退すいたいむかえた。

義忠よしただ若年じゃくねんながら河内かわうちはじめ屋台骨やたいぼねささえるべく、僧兵そうへいきょうへの乱入らんにゅうふせぐなど活動かつどうする。また、新興しんこう伊勢いせたいらいをつけるべく、平正盛たいらのまさもりむすめつまにし平家へいけとの和合わごうをはかり[注釈ちゅうしゃく 4]、またつまおとうとせいもり嫡男ちゃくなん烏帽子えぼしおやとなって「ただし」のいちあたえ「平忠盛たいらのただもり」と名乗なのらせるなど、親密しんみつ関係かんけいきずいた。そして、院政いんせいにも参画さんかくしつつ、従来じゅうらいからの摂関せっかんとの関係かんけい維持いじすべく努力どりょくした。その結果けっか、「天下てんかさかえめい」とひょうせられる存在そんざいとなった。しかし、河内かわうちはじめなかでは新興しんこう伊勢いせたいらとの対等たいとう関係かんけいむすんだ義忠よしただのやりかた不満ふまんおおく、伊勢いせたいら和合わごうすることで院政いんせい接近せっきんした義忠よしただ勢力せいりょくばしたことをこころよおもわないみなもと一族いちぞく勢力せいりょく存在そんざいした。また、にくらべ武威ぶいおと義忠よしただかるんじ、みずからが義忠よしただってわろうとする勢力せいりょく存在そんざいした。

暗殺あんさつ

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殿しんがりれき』『百錬ひゃくれんしょう』『じゅうさんだい要略ようりゃく』によると、てんひとし2ねん1109ねん)2がつ3にちよる義忠よしただ郎党ろうとうりつけられ、2にち死亡しぼうした(みなもと義忠よしただ暗殺あんさつ事件じけん)。7にちには美濃みのはじめみなもと重実しげざね容疑ようぎしゃとして左大臣さだいじんみなもとしゅんぼうやしきない検非違使けびいし逮捕たいほされ、よく8にちには重実しげざね郎等ろうどうわたしをめぐって自殺じさつしゃさわぎとなっている。

16にちになるとおとうとつな三男さんなん義明よしあきと、その乳母うばおっと滝口たきぐち武者むしゃである藤原ふじわらかた嫌疑けんぎがかかる。検非違使けびいしみなもとしげるとき重実しげざねおとうと)がついかい、義明よしあきかた殺害さつがいされている。なお、元木もとき泰雄やすお義忠よしただ殺害さつがい嫌疑けんぎ重実しげざねから義明よしあきうつったと解釈かいしゃくしている[10]が、佐々木ささき紀一きいちは『殿しんがりれき』に義明よしあき共犯きょうはんとあることから真犯人しんはんにん前日ぜんじつついされた重実しげざねだとしている[11]

義明よしあきかた憤慨ふんがいしたよしつな子息しそくらととも東国とうごくけて出奔しゅっぽんし、近江おうみこくはいる。17にち朝廷ちょうてい美濃みのはじめ出羽守でわのかみみなもと光国みつくに義忠よしただおいおとうととするせつもある)のためよしついかわせた。また同日どうじつよるおもとき義明よしあきついさい不手際ふてぎわから処分しょぶんされている。18にちにはつな近江おうみ出家しゅっけしたとのしらせがはいり、25にちには近江おうみこく甲賀こうがぐん大岡おおおかてらつなため降伏ごうぶく。29にちつな勝手かってけいしたつみ佐渡さどこく流罪るざいとなった。

義親よしちか義忠よしただよしつな実力じつりょくしゃうしない、義忠よしただ死後しごため河内かわうちはじめ棟梁とうりょうとなったが、失態しったいかえきょうにおける河内かわうちはじめ勢力せいりょく失墜しっついしていった。その河内かわうちはじめみなもと義光よしみつみなもと義国よしくにみなもとよしときみなもと義隆よしたかのこすだけになった。義国よしくに事件じけんおこ関東かんとう蟄居ちっきょであり、また関東かんとう常陸ひたちから勢力せいりょくひろげる叔父おじ義光よしみつ合戦かっせんおよぶなど、義光よしみつとのなか険悪けんあくであった(義忠よしただ義国よしくに連合れんごうして叔父おじ義光よしみつ対抗たいこうしていたとするせつもある)。そのため、河内かわうちはじめ勢力せいりょく関東かんとうでも徐々じょじょおとろはじめる。義忠よしただから河内かわちこく石川いしかわしょうあたえられていたがその勢力せいりょくちいさく、義隆よしたか無位むい無官むかん少年しょうねんでもあった。

年表ねんぴょう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 河内かわうちこくは「大国たいこく」、そのもりしたがえじょう相当そうとうで、義忠よしただ家督かとく相続そうぞく以前いぜんにこの官位かんい
  2. ^ 対馬つしまこくは「したこく」、そのもりしたがえろく相当そうとうで、義親よしちか義忠よしただ河内かわうちまもる在任ざいにんどう時期じきにこの官位かんいで、義忠よしただどう時期じき
  3. ^ 加賀かがこくは「うえこく」、そのかいしたがえろくじょう相当そうとうで、義国よしくに後年こうねんにこの官位かんい極官きょっかんとしている。
  4. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によると義忠よしただしつせいもり平忠盛たいらのただもりむすめとされるが、年齢ねんれい忠盛ただもりほう義忠よしただより年下とししたであることと、義忠よしただが27さい暗殺あんさつされることから、近年きんねんは「平忠盛たいらのただもりおんな」という記載きさいは「平正盛たいらのまさもりおんな」と解釈かいしゃくするとのせつがある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b ちゅう右記うき
  2. ^ ちゅう右記うき』、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  3. ^ 殿しんがりれき』、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』、長楽寺ちょうらくじほんみなもと系図けいず』、北酒出きたさかいでほん源氏げんじ系図けいず
  4. ^ a b c 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  5. ^ a b 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』、長楽寺ちょうらくじほんみなもと系図けいず』、北酒出きたさかいでほん源氏げんじ系図けいず
  6. ^ a b ちゅう右記うきかんかずねんじゅうがつ廿にじゅうろくにちじょう
  7. ^ 殿しんがりれきかんかずねんじゅうがつ廿にじゅうろくにちじょう
  8. ^ a b c ちゅう右記うきよしみうけたまわねんじゅうがつ廿にじゅうにちじょう
  9. ^ 殿しんがりれきてんじんねんがつろくにちじょう
  10. ^ 元木もとき泰雄やすお河内かわうちはじめ 頼朝よりともんだ武士ぶし本流ほんりゅう中公新書ちゅうこうしんしょ、2011ねん
  11. ^ 佐々木ささき紀一きいちみなもと義忠よしただ暗殺あんさつ源義光みなもとのよしみつ」『山形やまがた県立けんりつ米沢よねざわ女子じょし短期大学たんきだいがく紀要きようだい45かん山形やまがた県立けんりつ米沢よねざわ女子じょし短期大学たんきだいがく、2009ねん12月、19-29ぺーじCRID 1050001202927787264ISSN 02880725 

関連かんれん項目こうもく

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