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輔仁親王 - Wikipedia

輔仁親王しんのう

平安へいあん時代じだい皇族こうぞく後三条ごさんじょう天皇てんのう三男さんなん親王しんのう無品むほん

輔仁親王しんのう(すけひとしんのう、延久のべひさ5ねん1がつ19にち1073ねん2がつ28にち) - 元永もとなが2ねん11月28にち1119ねん12月31にち))は、平安へいあん時代じだい皇族こうぞく後三条ごさんじょう天皇てんのうだいさん皇子おうじははみなもとはじめたいらむすめ基子もとこ異母いぼけい白河天皇しらかわてんのう同母どうぼけいじつじん親王しんのうがいる。

輔仁親王しんのう
続柄つづきがら だい71だい 後三条ごさんじょう天皇てんのうだい3皇子おうじ

親王しんのう無品むほん
敬称けいしょう 殿下でんか
出生しゅっしょう 延久のべひさ5ねん1がつ19にち1073ねん2がつ28にち
日本の旗 日本にっぽん山城やましろこく
死去しきょ 元永もとなが2ねん11月28にち1119ねん12月31にち
日本の旗 日本にっぽん山城やましろこく
配偶はいぐうしゃ みなもと政長まさながおんな
  みなもとただしおんな
  みなもとこうむねおんな
  素性すじょうしょう
子女しじょ しんしょう
ゆう仁王におう
守子もりこ女王じょおう
仁子さとこ女王じょおう
怡子女王じょおう
くだりめぐみ
じんみさお
父親ちちおや 後三条ごさんじょう天皇てんのうだい71だい天皇てんのう
母親ははおや みなもと基子もとこ三条さんじょうはじめ みなもとはじめたいらむすめ
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経歴けいれき

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ちち後三条ごさんじょう天皇てんのうは、藤原ふじわらきた閑院りゅう長男ちょうなん貞仁さだひと親王しんのう白河天皇しらかわてんのう)よりも、女御にょうごみなもと基子もとこ摂関せっかん冷遇れいぐうされた三条さんじょうはじめ系譜けいふ)とのあいだまれた、藤原ふじわら外戚がいせき関係かんけいゆうしない皇子おうじ皇位こうい継承けいしょう候補者こうほしゃとして期待きたいをかけていた。そこで延久のべひさ4ねん1072ねん)に白河天皇しらかわてんのう即位そくいさいしてじつじん親王しんのうすめらぎふとしおとうととし、さらに翌年よくねんの輔仁誕生たんじょう直後ちょくご上皇じょうこうとなっていたのちさんじょう重態じゅうたいおちいると、かさねてじつじん親王しんのう即位そくいしたのちには、輔仁親王しんのうすめらぎふとしおとうととするよう遺言ゆいごんした。この逸話いつわは『源平げんぺい盛衰せいすい』(まきだい16「帝位ていい人力じんりきざるごと」)にしるされているものの、どう時代じだい史料しりょうでは確認かくにんできない。しかし、のち鳥羽天皇とばてんのう藤原ふじわらよりゆきちょうたいして、「自分じぶん鳥羽天皇とばてんのう)が誕生たんじょうするまえ白河しらかわ法皇ほうおう堀河ほりかわ天皇てんのう鳥羽天皇とばてんのうちち)が病気びょうきさいに輔仁親王しんのう即位そくいする事態じたいふせぐために受戒じゅかいけるのをおくらせていた(正式せいしき出家しゅっけをしてしまうと堀河ほりかわ天皇てんのうなにかがあった場合ばあい重祚じゅうそ出来できないため)[注釈ちゅうしゃく 1]」とべており、堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいそうひとし親王しんのう鳥羽天皇とばてんのう)が誕生たんじょうするまで17年間ねんかん皇太子こうたいしたなかった事実じじつ考慮こうりょすると、後三条ごさんじょう天皇てんのう遺言ゆいごん事実じじつではないとしても『源平げんぺい盛衰せいすい』の作者さくしゃがそうしるしても不自然ふしぜんではない状況じょうきょう存在そんざいしたのではないかとかんがえられている[2]

しかし、おうとく2ねん1085ねん)にじつじんくなると、白河天皇しらかわてんのう翌年よくねんにはちち遺言ゆいごん無視むし実子じっしである善仁よしひと親王しんのう皇太子こうたいして、そののうちに皇太子こうたいしへの譲位じょうい宣言せんげんして堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいさせた。

うけたまわ2ねん1075ねん親王しんのう宣下せんげ寛治かんじ元年がんねん1087ねん)に祖母そぼ陽明ようめいもんいん御所ごしょである室町むろまちだい元服げんぷく加冠かかん藤原ふじわら実季みき理髪りはつみなもと道良みちよしつとめる。だが、異母いぼけい白河しらかわ上皇じょうこうからは冷遇れいぐうされ、品位ひんいあたえられなかった。これについて、白河天皇しらかわてんのうじつひとし・輔仁りょう親王しんのう母親ははおや出自しゅつじちがい(藤原ふじわら三条さんじょうはじめ)による対抗たいこう意識いしき問題もんだい白河天皇しらかわてんのう生母せいぼである御息所みやすんどころ藤原ふじわら茂子しげこ没後ぼつご本来ほんらいあね聡子さとこ内親王ないしんのうつかえる一介いっかい女房にょうぼうぎなかったみなもと基子もとこちち後三条ごさんじょう天皇てんのう寵愛ちょうあいけて皇子おうじんで女御にょうごてられた経緯けいいおさなかった白河天皇しらかわてんのうしんきずつけたのではないかとする見方みかたもある[3][4]。しかし、朝廷ちょうていうちでは依然いぜんとして輔仁親王しんのうへの期待きたいたか状態じょうたいであった[1]

そのかんかず5ねん1103ねん正月しょうがつ堀河ほりかわ天皇てんのうだいいち皇子おうじそうひとし親王しんのう誕生たんじょうすると同年どうねん7がつには立太子りったいしおこなわれ、よしみうけたまわ2ねん1107ねんそうひとし親王しんのう鳥羽天皇とばてんのうとして即位そくいした。そのような状況じょうきょうなかで輔仁親王しんのう仁和寺にんなじのあたりにかそけきょしたが、永久えいきゅう元年がんねん1113ねん)に輔仁親王しんのう護持ごじそうである醍醐寺だいごじじんひろしらによる輔仁親王しんのう即位そくいにからむ計画けいかく永久えいきゅうへん)にまきこまれて皇位こうい継承けいしょう可能かのうせいたれ、みずから2年間ねんかん閉門へいもん生活せいかつおくっている[5]。この事件じけんのち白河しらかわ法皇ほうおう警戒けいかいされ、元永もとなが2ねん1119ねん憂悶ゆうもんのうちに薨去こうきょしたとされているが、その一方いっぽう白河しらかわいんゆう仁王におう猶子ゆうしとしてぐうし、鳥羽天皇とばてんのう皇子おうじ誕生たんじょう元永もとなが2ねんゆうじん臣籍しんせき降下こうかした直後ちょくご公卿くぎょうれっせさせて以後いごもこれを庇護ひごする(最終さいしゅうてきには左大臣さだいじんいたる)など、硬軟こうなん両面りょうめん対応たいおうをしている。

同母どうぼけいじつじん親王しんのうとともに、兄弟きょうだいそろって英明えいめい資質ししつそなえていたとわれている。また、詩歌しかひいで、風雅ふうがとしてられていた。かん詩文しぶんでは、博学はくがく多才たさいうたわれ左大臣さだいじんのぼった醍醐天皇だいごてんのう皇子おうじ兼明親王かねあきらしんのうならしょうされる[6]ほどであり、『本朝ほんちょう題詩だいし』の25しゅ、『新撰しんせん朗詠ろうえいしゅう』の5しゅ現在げんざいまでつたわっている。和歌わかにおいては、『きむよう和歌集わかしゅう以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに17しゅいれしゅうしている。親王しんのう没後ぼつご白河しらかわ法皇ほうおう源俊頼みなもとのしゅんらいめいじて『きむよう和歌集わかしゅう』を編纂へんさんさせたさいに、親王しんのううたを9しゅ採用さいようしたが、そこに「輔仁の親王しんのう」とかれていたのを白河しらかわ法皇ほうおうが「三宮さんのみや」とあらためさせたとのはなしつたわっている[6][注釈ちゅうしゃく 2]

 
 
 
71 後三条ごさんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
72 白河天皇しらかわてんのう
 
じつじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔仁親王しんのう
 
篤子あつこ内親王ないしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
73 堀河ほりかわ天皇てんのう
 
さとしぎょう法親王ほうしんのう
 
さとしほう法親王ほうしんのう
 
媞子内親王ないしんのう
(いくよしもんいん)
 
みなもとゆうひとし
(ゆう仁王におう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
74 鳥羽天皇とばてんのう
 
さいくも法親王ほうしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
75 崇徳天皇すとくてんのう
 
77 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
76 近衛天皇このえてんのう
 
 
 
 
 
 
 

王子おうじおんな

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 召候御所ごしょ、(中略ちゅうりゃく今夜こんや物語ものがたりつぎ、及法皇ほうおう誕生たんじょう時事じじおおせうんちん未生みしょう以前いぜん堀川ほりかわいん疾病しっぺい也、天下てんか帰心きしんさんみや白川しらかわいんふか歎仰うんちん雖出受戒じゅかいまためい法名ほうみょうわか陛下へいかいみなことしゃ重祚じゅうそゆう何事なにごと乎、(以下いかりゃく[1]
  2. ^ ただし、この部分ぶぶんについては、白河しらかわ法皇ほうおうはばかって親王しんのうたいする否定ひていてき意味合いみあいでいみな表記ひょうきしたのを法皇ほうおう不当ふとうあつかいとかんがえてめさせたという解釈かいしゃく白河しらかわ法皇ほうおう警戒けいかい対象たいしょうであった親王しんのう賞賛しょうさんして特別とくべつあつかいする意味合いみあいでいみな表記ひょうきしたのを法皇ほうおうきらってめさせたという解釈かいしゃくの2種類しゅるい存在そんざいする[7]海野うみの泰男やすおは『ぞく本朝ほんちょうどおりかん』と同様どうよう前者ぜんしゃせつるとする[7]

出典しゅってん

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  1. ^ a b たい康治こうじ元年がんねん5がつ16にちじょう
  2. ^ 関口せきぐち摂関せっかん時代じだい文化ぶんか研究けんきゅう』P238-239.
  3. ^ 山内やまうち益次郎えきじろう「輔仁親王しんのうについて-こんかがみ人物じんぶつこう-」『平安朝へいあんちょう文学ぶんがく研究けんきゅうだい3かんだい2ごう、1971ねん
  4. ^ 関口せきぐち摂関せっかん時代じだい文化ぶんか研究けんきゅう』P239-240.
  5. ^ ひゃくねりしょう永久えいきゅう元年がんねん10がつ22にちじょう
  6. ^ a b こんかがみ』309だん
  7. ^ a b 海野うみの泰男やすおこんかがみぜんしゃく 福武書店ふくたけしょてん、1983ねん、P302.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 関口せきぐちつとむ「輔仁親王しんのう」(『古代こだいがく研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだいなな輯、所収しょしゅう:「輔仁親王しんのうでん-花園はなぞの山荘さんそうをめぐって-」、1998ねん、『摂関せっかん時代じだい文化ぶんか研究けんきゅう』、思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2007ねん ISBN 4784213449 P228-256)