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皇位継承 - Wikipedia

皇位こうい継承けいしょう

皇嗣こうし皇位こうい継承けいしょうすること

皇位こうい継承けいしょう(こういけいしょう)とは、日本にっぽんにおいて皇位こうい天皇てんのう)を皇嗣こうし皇位こうい継承けいしょう順位じゅんいだい1もの)がぐこと。

だい126だい天皇てんのう 今上きんじょう天皇てんのう
即位そくいれい正殿せいでん
2019ねんれい元年がんねん10月22にち
即位そくいれいのぞ昭和しょうわ天皇てんのう
1928ねん昭和しょうわ3ねん)11月

しょ外国がいこくにおける国王こくおう皇帝こうてい地位ちい継承けいしょう意味いみする王位おうい継承けいしょう(おういけいしょう)あるいは帝位ていい継承けいしょう(ていいけいしょう)とほぼ同義語どうぎごである。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうおよ日本国にっぽんこく憲法けんぽうきゅう皇室こうしつ典範てんぱんおよ現行げんこう皇室こうしつ典範てんぱん明文めいぶん規定きていされた。

現在げんざい皇位こうい継承けいしょう

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日本国にっぽんこく憲法けんぽうだいじょう
皇位こういは、世襲せしゅうのものであつて、国会こっかい議決ぎけつした皇室こうしつ典範てんぱんさだめるところにより、これを継承けいしょうする。
皇室こうしつ典範てんぱんだいいちじょう
皇位こういは、皇統こうとうぞくする男系だんけい男子だんしが、これを継承けいしょうする。
皇室こうしつ典範てんぱんだいよんじょう
天皇てんのうくずれじたときは、皇嗣こうしが、ただちに即位そくいする。

江戸えど時代じだい中期ちゅうきひかりかく天皇てんのう閑院みや出身しゅっしんだい119だい以後いごは、とくひとしだい126だい)まで、すべ皇統こうとう直系ちょっけい男系だんけい男子だんしにより(皇太子こうたいし次代じだい天皇てんのう即位そくいする)皇位こうい継承けいしょうおこなわれて現在げんざいいたっている。

近代きんだいはいり、明治天皇めいじてんのう治世ちせい1889ねん明治めいじ22ねん)に「退位たいい禁止きんし譲位じょうい禁止きんし)」と「養子ようし禁止きんし」と「直系ちょっけい男子だんしへの皇位こうい継承けいしょう優先ゆうせん」についてさだめたきゅう皇室こうしつ典範てんぱん制定せいていされた。

昭和しょうわ時代じだいだい世界せかい大戦たいせん1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち施行しこうされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうした皇室こうしつ典範てんぱん再度さいど制定せいていされたが、「退位たいい禁止きんし譲位じょうい禁止きんし)」と「養子ようし禁止きんし」と「直系ちょっけい男子だんしへの皇位こうい継承けいしょう優先ゆうせん」とする基本きほん性格せいかく変更へんこうされず、さらに「嫡出ちゃくしゅつ皇族こうぞくとしない」規定きてい追加ついかされた。

皇位こうい継承けいしょう順位じゅんい

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皇位こうい継承けいしょうする皇族こうぞく順位じゅんい順序じゅんじょ)は皇室こうしつ典範てんぱんだい2じょうさだめられている。

現在げんざい順位じゅんい

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日本にっぽん皇位こうい継承けいしょう順位じゅんいれい元年がんねん2019ねん5月1にち -
順位じゅんい 皇位こうい継承けいしょう資格しかくしゃ 性別せいべつ 生年月日せいねんがっぴ げん年齢ねんれい いま天皇てんのうから続柄つづきがら 摂政せっしょう就任しゅうにん順位じゅんい
   
だい1   秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう あきしののみや ふみひと 男性だんせい 1965ねん11月30にち
昭和しょうわ40ねん
58さい 親等しんとう2/おとうと / 上皇じょうこう明仁あきひとだい2すめらぎ男子だんし だい1
だい2   ゆうじん親王しんのう ひさひと 男性だんせい 2006ねん09月06にち
平成へいせい18ねん
17さい 親等しんとう3/おい / 秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのうだい1男子だんし
だい3   常陸宮ひたちのみやただしじん親王しんのう ひたちのみや まさひと 男性だんせい 1935ねん11月28にち
昭和しょうわ10ねん
88さい 親等しんとう3/叔父おじ / 昭和しょうわ天皇てんのうだい2すめらぎ男子だんし だい2

皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき

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皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき法制ほうせいについては、1909ねん制定せいてい登極とうきょくれい明治めいじ42ねん皇室こうしつれいだい1ごう)にもとづいている。厳密げんみつには、どう法例ほうれい占領せんりょう期間きかんちゅう廃止はいしされており、成文法せいぶんほうとしての根拠こんきょはこのときになくなっているが、別途べっと規定きていのないものは1947ねんみや内省ないせい以命通牒つうちょう昭和しょうわ22ねん5がつ3にち宮内くない長官ちょうかん官房かんぼう文書ぶんしょはつだい45ごう)により、以降いこう従前じゅうぜんれいをほぼ踏襲とうしゅうするかたちおこなっている。

以下いか皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしきは、昭和しょうわ天皇てんのうだい124だい天皇てんのう)から皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのうだい125だい天皇てんのう上皇じょうこう明仁あきひと)の皇位こうい継承けいしょうきわする事跡じせきである。

けん璽等承継しょうけい

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1989ねん昭和しょうわ64ねん)、けん璽等承継しょうけい

けんとう承継しょうけい(けんじとうしょうけいのぎ)とは、きゅう登極とうきょくれい明治めいじ42ねん皇室こうしつれいだい1ごう昭和しょうわ22ねん廃止はいし失効しっこうしきの、だいいちへん 践祚せんそしきにあるけん渡御とぎょ(けんじとぎょのぎ)にあたる国事こくじ行為こういたる儀式ぎしきである。けんとはてん叢雲むらくもけんし、璽ははちしゃく瓊勾だましめしている。

これは皇位こういあかしとして伝承でんしょうされる三種さんしゅ神器じんぎのうち、けんと璽を大行天皇たいこうてんのう追号ついごうさだめられるまでの崩御ほうぎょした先代せんだい天皇てんのう呼称こしょう)から承継しょうけいするもので、けんについては宮中きゅうちゅうにあるてん叢雲むらくもけん複製ふくせいひんもちい、神璽しんじ本物ほんものとされるはちしゃく瓊勾だまもちいる。同時どうじ国璽こくじ御璽ぎょじ承継しょうけいおこなわれる。

1989ねん昭和しょうわ64ねん1がつ7にち皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう皇位こうい継承けいしょうさいしては、昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょ直後ちょくご同日どうじつ午前ごぜん101ふんより皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだおこなわれた。国民こくみん代表だいひょうとして、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん当時とうじ竹下たけしたのぼる)、最高さいこう裁判所さいばんしょ長官ちょうかん当時とうじ矢口やぐちひろしいち)、衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん両院りょういん議長ぎちょう当時とうじはら健三郎けんざぶろう土屋つちや義彦よしひこ)の、行政ぎょうせい司法しほう立法りっぽう三権さんけんながちょん閣僚かくりょう当時とうじ竹下たけした改造かいぞうないかく)などが参列さんれつした。天皇てんのう藤森ふじもり昭一しょういち宮内庁くないちょう長官ちょうかん当時とうじ)らに先導せんどうされ、男性だんせい皇族こうぞくしたがえ、まつあいだ出御しゅつぎょし、参列さんれつしゃかいかたち正面しょうめんせきき、けんおよ国璽こくじ御璽ぎょじ侍従じじゅう天皇てんのうまえにあるつくえ短時間たんじかん儀式ぎしきおこなわれた。

皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく

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皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく(こうれいでんしんでんにほうこくのぎ)とは、先祖せんぞ代々だいだい皇霊こうれいたてまつ皇霊こうれい殿どのおよ天神てんじん地祇ちぎたてまつ神殿しんでんにおいて、「しん天皇てんのう践祚せんそ」を奉告ほうこくする儀式ぎしきである。「けん璽等承継しょうけい」がおこなわれているほぼどう時刻じこくに、宮中きゅうちゅうさん殿どのいててのひらてんちょうが「しん天皇てんのう践祚せんそ」を奉告ほうこくする。

賢所かしこどころ

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賢所かしこどころ(かしこどころのぎ)とは、賢所かしこどころ(けんしょ・かしこどころ)に神体しんたいとしてたてまつられている神器じんぎはち咫鏡承継しょうけい儀式ぎしきである。平成へいせい元年がんねん(1989ねん1がつ9にち昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょから2にちに、てのひらてんちょうにより宮中きゅうちゅうさん殿どのおこなわれた。はち咫鏡は宮中きゅうちゅう鎮座ちんざしている複製ふくせいひんである。

この儀式ぎしきによって、皇位こういあかしである三種さんしゅ神器じんぎ継承けいしょうした天皇てんのう正統せいとう皇位こうい継承けいしょうしゃとなるというのが現在げんざいかんがかたである。

なお、過去かこには継承けいしょうおこなうことが出来できなかった天皇てんのう存在そんざいする(南北なんぼくあさ分裂ぶんれつ北朝ほくちょう天皇てんのうなど)。

即位そくい朝見ちょうけん

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2019ねん(れい元年がんねん)、即位そくい朝見ちょうけん

即位そくい朝見ちょうけん(そくいごちょうけんのぎ)とは、即位そくい践祚せんそ)したしん天皇てんのうはじめて首相しゅしょうらに言葉ことばべる国事こくじ行為こういたる儀式ぎしきである。平成へいせい元年がんねん(1989ねん)1がつ9にちに、皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだで365にん参列さんれつしゃのもとおこなわれた。

大嘗祭だいじょうさいだい嘗宮の

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1990ねん(平成へいせい2ねん)、大嘗祭だいじょうさい
 
れいだい嘗宮

1ねん諒闇りょうあんけて最初さいしょ新嘗祭にいなめさいたる大嘗祭だいじょうさい(だいじょうさい)が、即位そくい翌年よくねんおこなわれる。11月(4番目ばんめ)に4日間にちかんわたっておこなわれ、皇位こうい継承けいしょうともな儀式ぎしきはこれをもって最後さいごとする。

1990ねん平成へいせい2ねん11月23にちに、だい嘗宮の(だいじょうきゅうのぎ)がおこなわれた。

なお、継承けいしょうされた神器じんぎてん叢雲むらくもけんおよはち咫鏡)は複製ふくせいひんであるので、時機じき本物ほんものたてまつられている伊勢神宮いせじんぐう熱田あつた神宮じんぐう即位そくい奉告ほうこくおこなうことになる[よう出典しゅってん]とく皇祖こうそしんである天照大御神あまてらすおおみかみたてまつられている伊勢神宮いせじんぐうへの奉告ほうこく早期そうきおこなわれることになる[よう出典しゅってん]

皇位こうい継承けいしょう儀礼ぎれい変遷へんせん

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だい121だい孝明天皇こうめいてんのう即位そくいれい
ひろし4ねん、於 平安へいあんみや京都きょうと御所ごしょ

皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき淵源えんげんふる古墳こふん時代じだいにおいて古墳こふんにおいておこなわれた首長しゅちょうれい天皇てんのうれい継承けいしょう儀式ぎしきだというせつ近年きんねん考古学こうこがくから提言ていげんされている。その継承けいしょう儀式ぎしき大嘗祭だいじょうさいとの関連かんれんふくめて現在げんざいいま様々さまざませつていされている状況じょうきょうである[1]

天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうするにあたっておこなわれる行事ぎょうじ数多かずおおいが、とく重要じゅうようであるとして現代げんだいつづ行事ぎょうじとして、即位そくいれい中心ちゅうしん儀式ぎしき天皇てんのう高御座たかみくらのぼって皇位こうい継承けいしょう内外ないがい宣明のぶあきする「即位そくいれい正殿せいでん(←即位そくいれい紫宸殿ししんでん)」と、歴代れきだい天皇てんのうれい神道しんとう祭祀さいしである「大嘗祭だいじょうさい」とがげられる。皇室こうしつ始原しげんかたられる記紀きき神話しんわにおいては、大嘗祭だいじょうさい天岩戸あまのいわと伝説でんせつに、即位そくいれい高千穂峰たかちほのみねへの天孫てんそん降臨こうりんにそれぞれ比定ひていされるとのせつがある[2]

記紀きき記述きじゅつによると、古代こだいにおいて、即位そくいれい正月しょうがつおこなわれた記録きろくおおい。これは推古天皇すいこてんのう時代じだい中国ちゅうごく大陸たいりくからこよみ知識ちしき輸入ゆにゅうされるとともに、中国ちゅうごく大陸たいりくれいならって正月しょうがつ即位そくいかたち恒例こうれいされるとともに、それ以前いぜん即位そくいれいもそれにあてはめ、そのおおくが正月しょうがつ日付ひづけあたえられたのではないかとされる[3]

一方いっぽう大嘗祭だいじょうさい天皇てんのうだい嘗宮にこもり、天孫てんそん降臨こうりんニニギノミコトすことによってニニギノミコトがてんあきら大神おおがみからけた霊威れいいあらたにることであり、もと冬至とうじころ太陽たいよう太陰暦たいいんれきでは11月ごろ)におこなわれるこもりの祭祀さいしであったとされる[4]

古代こだいにおけるりょう儀式ぎしき次第しだい詳細しょうさい記録きろくされているのは、しゅとり4ねん(689ねん)のもちすべ天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうかんする記述きじゅつである。このとき一連いちれん儀礼ぎれいは、つぎ手順てじゅんおこなわれた。

  • 正月しょうがつ1にち石上麻呂いそのかみのまろだいたてて、神祇じんぎはくちゅうしん大島おおしま天神てんじん寿ことぶきみ、忌部いむべしょくおっと神器じんぎてん叢雲むらくもけんはち咫鏡たてまつった。公卿くぎょうひゃくりょう羅列られつして八開はちかいしゅって拝礼はいれいした。よく2にち元旦がんたん朝賀ちょうが同様どうよう拝賀はいがおこなわれた。中国ちゅうごくふう儀式ぎしきれ、焼香しょうこうおこない、公卿くぎょうひゃくりょう拝礼はいれいし、万歳ばんざい奉唱ほうしょうした。
  • よくしゅとり5ねん11月24にち大嘗祭だいじょうさいおこなわれた。この冬至とうじにあたった。25にちちゅうしん大島おおしまふたた天神てんじん寿ことぶきふたたんだ。28にち饗宴きょうえんおこなわれた。

即位そくいれい大嘗祭だいじょうさいとで天神てんじん寿ことぶきまれたことから、古来こらい大嘗祭だいじょうさい翌日よくじつ即位そくいれいおこなわれており、時代じだいくだるにつれて即位そくいれい正月しょうがつ移動いどうしたのではないか、とされる。これらから、陽光ようこうてんあきら大神おおがみ)がよわまった冬至とうじ天皇てんのうこも大嘗祭だいじょうさいおこない、翌日よくじつ大神だいじん霊威れいいて「ハレ」の状態じょうたいとなった新帝しんてい即位そくいれいおこなうのが本来ほんらいかたちであったとおもわれる[5]

その平城ひらじろ天皇てんのうときから、先帝せんていくらい退しりぞくと同時どうじただちに新帝しんてい践祚せんそし、神器じんぎぐことになった(践祚せんそ即位そくい分離ぶんり)。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう皇位こうい継承けいしょう

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皇位こうい継承けいしょうについて大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい2じょうで「皇位こうい皇室こうしつ典範てんぱんていムルしょすめらぎおとこ子孫しそん繼承けいしょうス」とあり、きゅう皇室こうしつ典範てんぱんだいいちしょう皇位こうい継承けいしょう順位じゅんいだいしょう践祚せんそ即位そくいについて規定きていされていた。皇室こうしつ典範てんぱんだい1じょうでは「だい日本國にっぽんこく皇位こうい祖宗そそう皇統こうとうニシテ男系だんけい男子だんし繼承けいしょうス」としるされている。

皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしきについては、皇室こうしつ典範てんぱん根拠こんきょとし、皇室こうしつ典範てんぱんぞくする法体ほうたいけい、いわゆる「みやつとむほう」として公布こうふされた皇室こうしつれいのひとつ、登極とうきょくれい明治めいじ42ねん皇室こうしつれいだい1ごうおよどうしきによってこまかくさだめられていた。なお、日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうともない、きゅう皇室こうしつ典範てんぱんおよ皇室こうしつれいは、1947ねん昭和しょうわ22ねん5月2にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう失効しっこうともな廃止はいしされている。

弥生やよい - 飛鳥あすか

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日本にっぽんでは、倭国わのくにばれた古代こだいから皇位こうい継承けいしょう王位おうい継承けいしょう)にかんする問題もんだいしょうじていた。『こころざし倭人わじんでん』によれば、弥生やよい時代じだい後期こうき2世紀せいき後半こうはん倭国わのくに王位おうい継承けいしょうめぐって倭国わのくに大乱たいらんこり、卑弥呼ひみこ倭国わのくにおうとなることで争乱そうらん終息しゅうそくした。さらに卑弥呼ひみこ没後ぼつごおとこおうったが再度さいど争乱そうらんこり、卑弥呼ひみこむねおんなだいあずか王位おういについて争乱そうらんおさまったと記録きろくされている。寺沢てらさわかおる卑弥呼ひみこが「おっと婿むこなし」として、おっとをもたなかったことは神聖しんせいせい保持ほじするためだけではなく、女王じょおうおっと子供こども王位おうい継承けいしょうかかわることを回避かいひするためであり、うらかえせばこの時代じだい部族ぶぞくてき国家こっかおうたちのあいだ王位おうい世襲せしゅうさせる継承けいしょうがすでにあった可能かのうせい指摘してきしている[6]。 また卑弥呼ひみことそれを補佐ほさするおとうとおな男系だんけいおうみつるつらなる出自しゅつじであることは間違まちがいないだろうともべている[7]

古墳こふん時代じだい5世紀せいきにも、王位おうい継承けいしょうめぐ数々かずかず逸話いつわが、『日本書紀にほんしょき』の記載きさいかられる。また前方後円墳ぜんぽうこうえんふんやその副葬品ふくそうひんからも古墳こふん時代じだい王位おうい継承けいしょうについての情報じょうほうれ、なかでも埼玉さいたまけん稲荷山いなりやま古墳こふんから出土しゅつどしたてつけんにはオワケからオホヒコにいたはちだい系譜けいふしるされているが、このことはオワケのつかえた雄略天皇ゆうりゃくてんのうからオホヒコがつかえたたかしかみ天皇てんのうまでのはちだいおうみつる皇統こうとう)をしるはらみかどがこのころすでにあった可能かのうせい示唆しさしているというせつもある[8]6世紀せいき前半ぜんはんには、たけれつ天皇てんのう崩御ほうぎょにより一旦いったん大王だいおう系統けいとう断絶だんぜつしているが、応神天皇おうじんてんのうの5せい子孫しそんとされるつぎたい天皇てんのうだい王位おうい継承けいしょうした。実際じっさいに5せい子孫しそんだったかには賛否さんぴ両論りょうろんあるが、この事例じれい天皇てんのうの5せい子孫しそんまでは皇位こうい継承けいしょうけんちうる先例せんれいとなって、その皇統こうとう断絶だんぜつさいつよ意識いしきされることとなった。

古墳こふん時代じだいから飛鳥あすか時代ときよにかけて(6世紀せいき中期ちゅうき - 7世紀せいき後期こうき)も、だい王位おうい継承けいしょう紛争ふんそうがたびたびしょうじた。このころだい王位おうい継承けいしょうのルールには、兄弟きょうだい承継しょうけい大兄たいけい承継しょうけい母后ぼこう出自しゅつじ群臣ぐんしん推挙すいきょ先帝せんていのこみことのりさら近年きんねんでは即位そくい要件ようけん年齢ねんれい制限せいげん(30さい以上いじょう)があったとするせつもある)などがあり、これらが複雑ふくざつにからんでだい王位おうい継承けいしょうおこなわれていたと推定すいていされている。つぎたい天皇てんのうのち安閑天皇あんかんてんのうせん天皇てんのうすう年間ねんかん在位ざいいして欽明天皇てんのう即位そくいしているが、欽明天皇てんのうによる簒奪さんだつだったとするせつもある。その、欽明天皇てんのう子孫しそん大王だいおういでいるが、その経緯けいい複雑ふくざつであり、おおくの紛争ふんそうしょうじている。次期じき大王だいおう決定けってい難航なんこうしたときは、女性じょせい大王だいおうえらばれることもあり、推古天皇すいこてんのうすめらぎごく天皇てんのうらが即位そくいして、適当てきとう男子だんしだい王位おうい承継しょうけいしゃあらわれるまで在位ざいいした(女性じょせい天皇てんのう女帝にょていえらばれた理由りゆうには諸説しょせつあり、律令制りつりょうせい以前いぜん中継なかつせつみとめないなどの異説いせつおお存在そんざいする)。

古代こだいだい王位おうい継承けいしょうにおいて、最大さいだいあらそいとなったのは、672ねん白鳳はくほう元年がんねん)のみずのえさるらんである。天智天皇てんぢてんのう直系ちょっけい大友皇子おおとものおうじ弘文天皇こうぶんてんのう)を皇嗣こうしさだめたが、それを不服ふふくとする大海人皇子おおあまのおうじだい規模きぼ叛乱はんらんこし、大友皇子おおとものおうじほろぼしてみずか大王だいおうとなった(天武天皇てんむてんのう)。天武天皇てんむてんのうは、自身じしん以降いこう皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそう防止ぼうしするため、兄弟きょうだいあいだ継承けいしょう廃止はいしし、直系ちょっけい男子だんし皇位こうい継承けいしょうするルールをさだめようとこころみたらしく、草壁皇子くさかべのおうじ皇太子こうたいしてた。だが、政権せいけん基盤きばんかたまるまえ天武天皇てんむてんのう崩御ほうぎょしてしまったために、天武天皇てんむてんのう皇后こうごう草壁皇子くさかべのおうじ大友皇子おおとものおうじまいにならないように拙速せっそく皇位こうい継承けいしょうけようとした。だが、その草壁皇子くさかべのおうじまでが急逝きゅうせいしてしまったために、皇后こうごう皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそうふせぐために、みずか中継なかつぎとして皇位こういき(もちすべ天皇てんのう)、草壁皇子くさかべのおうじであるけい皇子おうじ文武ぶんぶ天皇てんのう)を皇太子こうたいしとした。この系統けいとう一般いっぱんてきには天武天皇てんむてんのうけい皇統こうとうとみなされているが、天智天皇てんぢてんのう皇女おうじょであったもちすべ天皇てんのう自分じぶん自身じしん天智天皇てんぢてんのう直系ちょっけい意識いしきしていた可能かのうせいたかい。歴史れきしじょう女性じょせい天皇てんのう配偶はいぐうしゃ男性だんせい皇族こうぞく天皇てんのうふくむ)であったため問題もんだいされることはなかったが、女性じょせい天皇てんのう子孫しそん皇族こうぞくとしての権利けんり同等どうとうであったとみられ、長屋王ながやおう吉備きび内親王ないしんのう皇子おうじ天武天皇てんむてんのう曾孫そうそんから元明もとあき天皇てんのうまご待遇たいぐうあらためられた事例じれいがある(『ぞく日本にっぽんれいかめ元年がんねん2がつ25にちじょう))。

奈良なら - 平安へいあん中期ちゅうき

編集へんしゅう

奈良なら時代じだいはいったのち文武ぶんぶ天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうしゃであるくび皇子おうじ聖武天皇しょうむてんのう)が成人せいじんするまえぼっしたため、元明もとあき天皇てんのう元正がんしょう天皇てんのう2人ふたり女帝にょてい皇位こうい継承けいしょうした。聖武天皇しょうむてんのうは、皇位こうい継承けいしょうすべき男子だんしのこせず、女性じょせいこうけん天皇てんのういだ。その藤原仲麻呂ふじわらのなかまろつよ推挙すいきょにより、天武天皇てんむてんのうまご淳仁天皇じゅんにんてんのうったが、みずからを「聖武天皇しょうむてんのう後継こうけいしゃ」とみなした淳仁天皇じゅんにんてんのう(『ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから3ねん6がつかのえいぬじょう)と天皇てんのう自己じこの「しん」とみなすこうけん上皇じょうこう(『ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから8ねん10がつみずのえさるじょう)の対立たいりつは、上皇じょうこうそう道鏡どうきょう信任しんにんした問題もんだいめぐって一気いっき悪化あっかする。やがて、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん連座れんざして淳仁天皇じゅんにんてんのう廃帝はいていとなり、こうけん天皇てんのう再度さいど即位そくい重祚じゅうそ)して、しょうとく天皇てんのうとなった。このあいだ皇族こうぞく皇位こういねらったが、その都度つど謀叛ぼうほんなされ、結果けっか適当てきとう皇位こうい継承けいしょうしゃ不在ふざいとなってしまった。そのため、仏教ぶっきょうふか帰依きえしていたしょうとく天皇てんのうは、道鏡どうきょう皇位こういけることを企図きとした(宇佐うさ八幡宮はちまんぐう神託しんたく事件じけん)が失敗しっぱいし、後継こうけいしゃめないままたたえとく天皇てんのう崩御ほうぎょし、天武てんむけい皇統こうとう断絶だんぜつすることとなった。天武天皇てんむてんのうからたたえとく天皇てんのういたるまでの皇位こうい継承けいしょうのルールは(継承けいしょうすべきもの成人せいじんなどの場合ばあいには中継なかつぎとして女帝にょてい即位そくいすることもあったが)、原則げんそくとして直系ちょっけい継承けいしょうであった(ただし、もちすべ天皇てんのう天智天皇てんぢてんのう直系ちょっけいとみなした場合ばあい草壁皇子くさかべのおうじとその子孫しそん天智天皇てんぢてんのう直系ちょっけい子孫しそんともほぐせる)。このルールは、はげしい皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそう未然みぜん防止ぼうしして天智てんじけい皇統こうとう復活ふっかつ阻止そししようとしたわりに、皇位こうい継承けいしょう候補者こうほしゃ限定げんていしてしまったため、かえって皇統こうとう断絶だんぜつ結果けっかてきには天智てんじけい皇統こうとう復活ふっかつ)という結果けっかまねくこととなった。

しょうとく天皇てんのう崩御ほうぎょによる皇統こうとう断絶だんぜつ危機ききさいして、大臣だいじんらは協議きょうぎおこない、その結果けっか天智天皇てんぢてんのうまごたる年配ねんぱいひかりじん天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうすることとなった。この事例じれいは、臣下しんか協議きょうぎによる皇位こうい継承けいしょう先例せんれいとなった。また、このときには2つのてんまましからだ天皇てんのう先例せんれいつよ意識いしきされていたようである。ひとつはかならすめらぎたねであること、もうひとつは先代せんだい天皇てんのうとの婚姻こんいん関係かんけいゆうする(ひかりじん天皇てんのうたたえとく天皇てんのう異母いぼいもうとおっと)ことであった。ひかりじん天皇てんのう天武てんむけい皇統こうとう断絶だんぜつ教訓きょうくんとして、息子むすこ桓武かんむ天皇てんのう後継こうけいしゃとし、そのおとうと早良親王さわらしんのう桓武かんむすめらぎふとしおとうととした。これにより、天智天皇てんぢてんのう天武天皇てんむてんのう以来いらい直系ちょっけい皇位こうい継承けいしょう放棄ほうきされ、大兄たいけいせいが(一時いちじてきとはえ)事実じじつじょう復活ふっかつしたとることも可能かのうである。だが、早良親王さわらしんのう謀叛ぼうほんうたがい(藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけん)によりこれをはいし、早良親王さわらしんのういかりもあらわに絶食ぜっしょくげることになる。この壮絶そうぜつ早良親王さわらしんのうはその桓武かんむ天皇てんのうくるしめ、崇道天皇すどうてんのうごうおくられたが、桓武かんむ天皇てんのうはじまる平安朝へいあんちょうなが早良親王さわらしんのう怨霊おんりょうおそくるしむこととなる。桓武かんむ天皇てんのうは、おおくの皇子おうじをもうけた。桓武かんむ天皇てんのうのちは、桓武かんむ天皇てんのう長子ちょうし平城ひらじろ天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうし、その遺志いししたがかたち病弱びょうじゃくであった平城ひらじろ天皇てんのうつぎにはそのおとうと神野かみの親王しんのう嵯峨天皇さがてんのう)がすめらぎふとしおとうとった。これに不満ふまんいた平城ひらじろ天皇てんのう大兄たいけいである自分じぶん直系ちょっけい皇位こうい継承けいしょうすることを企図きとして、一旦いったん嵯峨天皇さがてんのう譲位じょういして自身じしん高岳親王たかおかしんのう皇太子こうたいしとした。この措置そち今度こんど嵯峨天皇さがてんのう反発はんぱつし、平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう武力ぶりょく衝突しょうとつこり、結果けっか嵯峨天皇さがてんのうがわ勝利しょうりした(くすりへん)。これによって平城ひらじろ天皇てんのう直系ちょっけい皇位こうい可能かのうせいがなくなったものの、嵯峨天皇さがてんのう内外ないがい批判ひはんおそれて自分じぶん実子じっし擁立ようりつすること躊躇ちゅうちょし、おとうと大伴おおとも親王しんのう淳和天皇じゅんなてんのう)をすめらぎふとしおとうととした。嵯峨天皇さがてんのう皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそうふせぐために、それぞれの直系ちょっけいたがいに皇位こういける迭立(てつりつ)を採用さいようすることとし、実際じっさい嵯峨天皇さがてんのう - 淳和天皇じゅんなてんのう - 仁明天皇にんみょうてんのう嵯峨天皇さがてんのう)と皇位こうい継承けいしょうされ、仁明天皇にんみょうてんのうつぎ恒貞親王つねさだしんのう淳和天皇じゅんなてんのうはは嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょ)が皇太子こうたいしてられていた。これにたいして淳和天皇じゅんなてんのうかえって紛争ふんそう原因げんいんとなると危惧きぐいており、嵯峨天皇さがてんのう仁明天皇にんみょうてんのうつぎにはその皇子おうじてるべきであると忠告ちゅうこくしたものの、れられなかった。しかし、淳和じゅんな嵯峨さがりょう上皇じょうこう相次あいつ崩御ほうぎょ直後ちょくご恒貞親王つねさだしんのうはい太子たいし皇太子こうたいしはいすること)とする事件じけんうけたまわへん)がこり、皇位こうい継承けいしょう嵯峨天皇さがてんのう - 仁明天皇にんみょうてんのう系統けいとう統一とういつされることとなった。この事件じけん皇統こうとう統一とういつねらった仁明天皇にんみょうてんのうが、藤原ふじわらきた協力きょうりょくこしたとするせつもある。かくしてひかりじん天皇てんのう以来いらい天智てんじけい皇統こうとう天武てんむけい皇統こうとう教訓きょうくんにしてれた兄弟きょうだいあいだ継承けいしょう相続そうぞく大兄たいけいせい実質じっしつ復活ふっかつ)は、藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけんからうけたまわへんいた皇位こうい継承けいしょうめぐ内紛ないふん連鎖れんさ招来しょうらいわった。

仁明天皇にんみょうてんのうのち文徳ふみのり天皇てんのう - 清和せいわ天皇てんのう - 陽成ようぜい天皇てんのう直系ちょっけいによる皇位こうい継承けいしょうがほぼ順調じゅんちょうおこなわれたが、陽成ようぜい天皇てんのう内裏だいり重大じゅうだい事件じけんあやまって殺人さつじんおかしたとするせつ有力ゆうりょく)をこし、退位たいいまれてしまい、ふたた直系ちょっけい継承けいしょうした皇統こうとう断絶だんぜつ危機ききおとずれることになった。このときは、有力ゆうりょく候補こうほがおらず、はい太子たいしとなった恒貞親王つねさだしんのう嵯峨天皇さがてんのうであるみなもととおるらが候補こうほとなったが、最終さいしゅうてきにはたたえとく天皇てんのう崩御ほうぎょ先例せんれいをとって、仁明天皇にんみょうてんのう年配ねんぱい光孝みつたか天皇てんのう即位そくいして皇位こういいだ。光孝みつたか天皇てんのうは、自身じしん皇子おうじすべ臣籍しんせき降下こうかさせており、崩御ほうぎょ直前ちょくぜんになっても後継こうけいしゃてていなかったため、緊急きんきゅう措置そちとして急遽きゅうきょ光孝みつたか天皇てんのうみなもとじょうしょう立太子りったいしされ、宇多天皇うだてんのうとなった。一度いちど臣籍しんせきくだったもの皇位こういくのは、日本にっぽん皇位こうい継承けいしょうなかでもきわめて異例いれいであるが、天皇てんのう身分みぶん決定けってい天皇てんのう専権せんけん事項じこうである(臣籍しんせきろした実子じっし皇族こうぞくもどことゆるされる)としてったのである。しかし、宇多天皇うだてんのうとその醍醐天皇だいごてんのう積極せっきょくてき政治せいじ展開てんかいし、天皇てんのう親政しんせい理想りそうがたきずいた。ただし、宇多天皇うだてんのう退位たいい陽成ようぜいけい親王しんのう対抗たいこうするために兄弟きょうだいあいだ継承けいしょうおこなわせる意思いしがあり、直系ちょっけい継承けいしょう維持いじはか醍醐天皇だいごてんのう藤原ふじわらひらたはかって宇多天皇うだてんのうされた菅原すがわら道真みちざね大宰府だざいふながしたとする見解けんかい存在そんざいする(あきらたいへん)。

文徳ふみのり天皇てんのうころから藤原ふじわらきた天皇てんのう外戚がいせきとして摂政せっしょう関白かんぱく摂関せっかん政治せいじがある程度ていど形成けいせいされていたが、醍醐天皇だいごてんのうである朱雀すざく天皇てんのう村上むらかみ天皇てんのう兄弟きょうだいころに、摂関せっかん政治せいじ確立かくりつすることとなる。摂関せっかん内部ないぶ複数ふくすう摂関せっかん候補者こうほしゃ登場とうじょうすることとなり、それぞれの候補者こうほしゃ別個べっこ天皇てんのうむすめ入内じゅだいさせてもうけたため、皇位こうい継承けいしょう摂関せっかんのパワーバランスに左右さゆうされることとなった。以上いじょうのような状況じょうきょうから、皇位こうい継承けいしょう候補者こうほしゃ複数ふくすう存在そんざいすることとなり、ふたた皇統こうとう分裂ぶんれつ - 迭立 - がられるようになった。しかし、藤原ふじわら道長みちなが摂関せっかん統一とういつしたことにともない、皇統こうとう統一とういつされることになる。そのも迭立へのうごきはられたが、王朝おうちょう内部ないぶ皇統こうとう統一とういつする意思いしはたらつづけた。

院政いんせい - 鎌倉かまくら中期ちゅうき

編集へんしゅう

上記じょうきのような皇統こうとう統一とういつながれのなか後三条ごさんじょう天皇てんのう即位そくいした。後三条ごさんじょう天皇てんのうは、皇統こうとう統一とういつをより強固きょうこなものとするため、生前せいぜん直系ちょっけい男子だんし譲位じょういし、上皇じょうこうとして政務せいむたることを目論もくろんでいた。後三条ごさんじょう天皇てんのうはその実現じつげんまえぼっしたが、その直系ちょっけい男子だんし白河天皇しらかわてんのう後三条ごさんじょう天皇てんのう遺志いしいで、上皇じょうこうとなって事実じじつじょう君主くんしゅてんきみ)として政務せいむたる院政いんせい開始かいしした。上皇じょうこう事実じじつじょう君主くんしゅくことにより、天皇てんのうがそれまでの皇太子こうたいしてき立場たちばとなったとえるが、厳密げんみつ皇位こうい継承けいしょうほう存在そんざいしなかった当時とうじにおいては、皇統こうとう安定あんていしていれば天皇てんのう当主とうしゅ天皇てんのう在位ざいいしているか程度ていどちがいでしかなかった。いずれにせよ、皇統こうとう安定あんてい院政いんせい主要しゅよう目的もくてきひとつであった。なお、後三条ごさんじょう天皇てんのう譲位じょういさいして、自分じぶんれいならって白河天皇しらかわてんのう異母弟いぼていにあたるじつじん親王しんのう皇太子こうたいしにしたことは白河天皇しらかわてんのう不満ふまんまねいた。そのじつじん親王しんのう急死きゅうしによって、皇位こうい白河天皇しらかわてんのう実子じっし堀河ほりかわ天皇てんのう譲位じょういすることが可能かのうになったが、白河天皇しらかわてんのうは「だいじつじん親王しんのう」の登場とうじょう警戒けいかいして、みずからが後継こうけいしゃ指名しめいした堀河ほりかわ天皇てんのう鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのうの3天皇てんのう異母いぼ兄弟きょうだいすべ出家しゅっけさせて、皇位こうい継承けいしょうけんうば政策せいさくった。皮肉ひにくにも白河天皇しらかわてんのう崩御ほうぎょ院政いんせい開始かいしした鳥羽天皇とばてんのうは、白河天皇しらかわてんのう崩御ほうぎょまれた崇徳天皇すとくてんのう異母弟いぼていである近衛天皇このえてんのう寵愛ちょうあいし、出家しゅっけをさせるどころか、崇徳天皇すとくてんのう退位たいいさせてみずからの後継こうけいしゃ指名しめいした。かくして鳥羽天皇とばてんのう後継こうけいめぐってしょうじた崇徳天皇すとくてんのう近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのう兄弟きょうだいあいだによる皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそうもとらん平治へいじらんという武力ぶりょく衝突しょうとつにより解決かいけつされることとなった。最終さいしゅう勝利しょうりしゃ後白河天皇ごしらかわてんのうであったが、りょうらんつうじて武士ぶし利用りようしたため、その武士ぶし台頭たいとうゆるすこととなった。

ところが、生前せいぜん鳥羽天皇とばてんのう近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょ後継こうけい指名しめいしたのは、後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのうであった。これによって後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのう両者りょうしゃあいだ緊張きんちょう関係かんけいしょうじたが、二条天皇にじょうてんのう崩御ほうぎょによって、後白河天皇ごしらかわてんのういんてんくんとして君臨くんりんつづけた。なお、後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのう父子ふし対立たいりつしたさい二条天皇にじょうてんのううしたてになっていたのは、そのじゅんははとなっていた鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ後白河天皇ごしらかわてんのうには異母いぼいもうとにあたる)・はちじょういんであった。八条はちじょういんちち鳥羽天皇とばてんのうからあたえられた広大こうだい所領しょりょう背景はいけい天皇てんのうささえたが、後白河天皇ごしらかわてんのうもこれに対抗たいこうするためにおおくの荘園しょうえん所領しょりょうとした。のち前者ぜんしゃ所領しょりょうはちじょういんりょう後者こうしゃ所領しょりょう長講ちょうこうどうりょうしょうされ、別々べつべつ皇族こうぞくきさきによって継承けいしょうされることになる。

てん地位ちい確保かくほした後白河天皇ごしらかわてんのうたいらみなもとなど武士ぶし勢力せいりょく勃興ぼっこうたいして、王権おうけん維持いじはかろうとしたが、結局けっきょく王権おうけん一部いちぶ鎌倉かまくら幕府ばくふ委譲いじょうすることとなる。後白河天皇ごしらかわてんのう正当せいとう後継こうけいしゃ高倉天皇たかくらてんのうであり、その早世そうせいいだ安徳天皇あんとくてんのう外戚がいせきであるたいらとともに西国さいこくくだったのちもこの方針ほうしんらぐことなく、てんである後白河天皇ごしらかわてんのうによって安徳天皇あんとくてんのう異母弟いぼていである後鳥羽ごとば天皇てんのう擁立ようりつされた。このため、一時いちじてき2人ふたり天皇てんのう在位ざいいする事態じたいとなったものの、安徳天皇あんとくてんのうたいら滅亡めつぼう運命うんめいをともにしたことにより皇統こうとう後鳥羽ごとば天皇てんのう系統けいとう統一とういつされた。これによっててんである後白河天皇ごしらかわてんのうした皇統こうとう安定あんていした。

後白河天皇ごしらかわてんのう崩御ほうぎょ後鳥羽ごとば天皇てんのう院政いんせい開始かいしした。後鳥羽ごとば天皇てんのう鎌倉かまくら幕府ばくふうつった東国とうごく統治とうちけん奪還だっかんするべく承久じょうきゅうらんこしたが、王朝おうちょう幕府ばくふれるという事態じたいまねいた。この結果けっか幕府ばくふによって後鳥羽ごとば院政いんせい後鳥羽ごとば系統けいとう皇統こうとうすべはいされたが、皇位こうい継承けいしょうすべきもの不在ふざいという事態じたいいたった。当時とうじ皇位こうい継承けいしょうするにはそのちちいんでなければならないという慣例かんれいができており、やむなく皇位こういいたことのないまもりさだ親王しんのうこう高倉たかくらいんとしててん地位ちいいて院政いんせい開始かいしし、そのこう堀河ほりかわ天皇てんのうとして即位そくいすることとなった。しかし、こう高倉たかくらいんはすぐに崩御ほうぎょし、しん天皇てんのう兄弟きょうだい承久じょうきゅうらん以前いぜん全員ぜんいん出家しゅっけしていたために天皇てんのうまんいち事態じたいしょうじた場合ばあいには皇統こうとう断絶だんぜつ可能かのうせいしょうじた。そのこう堀河ほりかわ天皇てんのう皇子おうじ四条しじょう天皇てんのうとして即位そくいしたことで危機きき解消かいしょうされたかにえたが、こう堀河ほりかわ上皇じょうこう四条しじょう天皇てんのう以外いがい男子だんしもうけることなく崩御ほうぎょつづいて四条しじょう天皇てんのう幼年ようねんのうちに崩御ほうぎょしたことから、こう高倉たかくらいん皇統こうとうはわずか21ねん断絶だんぜつしてしまう。このため、皇位こういふたた鳥羽天皇とばてんのう系統けいとうもどった。このとき皇位こうい継承けいしょうしたのは、こう嵯峨天皇さがてんのうである。こう嵯峨天皇さがてんのうちちは、ちち後鳥羽ごとば天皇てんのううとんじられて承久じょうきゅうらんさい中立ちゅうりつまもった土御門天皇つちみかどてんのうであるが、このことが幕府ばくふ賛意さんいることになり、事実じじつじょうこう嵯峨天皇さがてんのう皇位こうい継承けいしょう幕府ばくふ決定けっていしたとえる(なお、こう堀河ほりかわ天皇てんのう生母せいぼきた白河しらかわいん従兄じゅうけい一条いちじょうのうみなもと頼朝よりともいもうと婿むここう嵯峨天皇さがてんのう大叔父おおおじ土御門つちみかどじょうどおり北条ほうじょうよしときむすめ婿むこ、という鎌倉かまくら幕府ばくふ関係かんけいしゃとの縁戚えんせき関係かんけい幕府ばくふ決定けっていおおきな影響えいきょうあたえたとみられる)。これは、後世こうせい先例せんれいとなって江戸えど幕府ばくふいたるまで、皇位こうい継承けいしょうには幕府ばくふ承認しょうにん必要ひつようとされた。

皇統こうとう分裂ぶんれつ時代じだい

編集へんしゅう

こう嵯峨天皇さがてんのうには、後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのう兄弟きょうだいがいたが、たがいにこう嵯峨天皇さがてんのう後継こうけいしゃたるてんきみあらそい、その妥結だけつとして、両者りょうしゃ直系ちょっけい子孫しそん交互こうご皇位こういてん両統りょうとう迭立おこなわれることとなった。あに後深草天皇ごふかくさてんのう系統けいとう持明院じみょういんみつるおとうと亀山天皇かめやまてんのう系統けいとう大覚寺だいかくじみつるというが、これが日本にっぽん史上しじょう最大さいだい皇位こうい迭立となり、後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえることとなる。

しばらく両統りょうとう迭立は順調じゅんちょうおこなわれていたが、2つの皇統こうとう存在そんざいささえていたのが、かつての後白河天皇ごしらかわてんのうはちじょういん二条天皇にじょうてんのうとの対立たいりつなか集積しゅうせきされた2つの所領しょりょうであった。後白河天皇ごしらかわてんのうゆかりの長講ちょうこうどうりょう持明院じみょういんすべはちじょういんゆかりのはちじょういんりょう大覚寺だいかくじみつる所有しょゆうとなり、その経済けいざいりょく背景はいけい皇位こうい継承けいしょうつづけたのである。やがて鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきになると両統りょうとう内部ないぶ皇統こうとう分裂ぶんれつられはじめ、迭立の混乱こんらんしょうじてきた。その状況じょうきょう大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのう傍流ぼうりゅう出身しゅっしんのためにてん地位ちい権利けんり否定ひていされており(つまり、子孫しそんへの皇位こうい継承けいしょう出来できない)、この現状げんじょう打破だは目指めざして幕府ばくふ追討ついとう計画けいかくを2にわたってて(正中せいちゅうへん元弘もとひろへん)、幕府ばくふにより廃位はいい流罪るざいしょされるも、結果けっかとして鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうをもたらした。勿論もちろん王権おうけん復興ふっこう推進すいしんするためには皇統こうとう統一とういつかせないものであるが、後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく最大さいだい動機どうき自己じこ子孫しそんへの皇位こうい継承けいしょう問題もんだいにあったとってよい。きょう復位ふくいしたのちたてたけし新政しんせい開始かいしした。後醍醐天皇ごだいごてんのうてん地位ちいくことなく、やく200ねんぶりに天皇てんのう地位ちいのまま親政しんせいおこなった。後醍醐天皇ごだいごてんのう両統りょうとう迭立状態じょうたい解消かいしょうし、自身じしん系統けいとう皇統こうとう再度さいど統一とういつしたとかんがえていたが、その後醍醐天皇ごだいごてんのうによる新政しんせいたいしておおくの離反りはん相次あいつぎ、離反りはん勢力せいりょくからなる室町むろまち幕府ばくふは、持明院じみょういんみつるから光明こうみょう天皇てんのう擁立ようりつした。これにより、北朝ほくちょう持明院じみょういんみつる)と南朝なんちょう大覚寺だいかくじみつる)の2つの王朝おうちょう同時どうじ存在そんざいする日本にっぽん史上しじょう未曾有みぞう事態じたい南北なんぼくあさ時代じだい)となった。北朝ほくちょうは、幕府ばくふ擁護ようごけて、従来じゅうらいどおりの院政いんせい継続けいぞくしたが、南朝なんちょうでは後村上天皇ごむらかみてんのう以降いこう関白かんぱくこそは復活ふっかつさせたものの、天皇てんのう親政しんせいつらぬいた。1352ねん南朝なんちょう正平しょうへい7ねん北朝ほくちょう文和ふみかず元年がんねん)、室町むろまち幕府ばくふ内部ないぶ内紛ないふんじょうじて南朝なんちょうぐん京都きょうと占領せんりょうして、北朝ほくちょうたかしこう天皇てんのうおもだった皇族こうぞく拉致らちしてしまう(正平しょうへい一統いっとう)。室町むろまち幕府ばくふ天皇てんのうおとうと一人ひとり寺院じいんあづけられていることって、急遽きゅうきょ後光ごこうげん天皇てんのうとして即位そくいさせた。のちみなみ朝方あさがたたかしこう天皇てんのうらを返還へんかんしたものの、室町むろまち幕府ばくふたかしこう天皇てんのう復位ふくいみとめず、子孫しそんには伏見ふしみみや称号しょうごうおくってなだめようとした。だが、皇位こうい継承けいしょう後光ごこうげん天皇てんのう直系ちょっけい子孫しそんによる方針ほうしんめられたために、たかしこう天皇てんのう伏見ふしみ宮家みやけによる後光ごこうげん天皇てんのう室町むろまち幕府ばくふたいする反感はんかんたかまって、北朝ほくちょう事実じじつじょう分裂ぶんれつ状態じょうたいおちいったのである。

時代じだいすすみ、北朝ほくちょう室町むろまち幕府ばくふがわ優位ゆうい明確めいかくになってくると、南朝なんちょうがわ妥結だけつてん模索もさくしてきた。そこで仲介ちゅうかいたったのが足利あしかが義満よしみつである。1392ねん明徳めいとく3ねん)、持明院じみょういんみつる北朝ほくちょう)と大覚寺だいかくじみつる南朝なんちょう)の迭立再開さいかい提案ていあんされ、南朝なんちょうこう亀山天皇かめやまてんのう条件じょうけん受諾じゅだくしたことにより、北朝ほくちょうこう小松こまつ天皇てんのうとともに南北なんぼくあさ合一ごういつ実現じつげんした。しかし、1412ねんおうなが19ねん)にしょうこう天皇てんのう即位そくいするにさいして、迭立再開さいかい条件じょうけん撤回てっかいされることとなり、こう小松こまつ天皇てんのう直系ちょっけい子孫しそんによる皇位こうい継承けいしょう宣言せんげんされた。約束やくそく反故ほごにされた南朝なんちょうがわ憤慨ふんがいし、こう南朝なんちょうとしてその存続そんぞくつづけた(太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそうまで南朝なんちょう子孫しそん名乗なのものがいた)。

一見いっけん南北なんぼくあさ合一ごういつにより皇位こうい継承けいしょうふたた安定あんていしたようにられたが、もうひとつの問題もんだいであった北朝ほくちょう内部ないぶ内紛ないふん解消かいしょうされなかった。さらこう小松こまつ天皇てんのうにはたたえこう天皇てんのうしか男子だんしがおらず(しょうこう天皇てんのう皇太子こうたいしであったのち小松こまつ天皇てんのうだい2皇子おうじ早世そうせいじつはこのほか名僧めいそうとしてられた一休宗純いっきゅうそうじゅんこう小松こまつ天皇てんのう皇子おうじであったが、政治せいじてき事情じじょうにより、はやくから出家しゅっけさせられて皇位こうい継承けいしょうけんうしなっていた)、さらたたえこう天皇てんのうには子供こどもがいないうえ虚弱きょじゃく体質たいしつであったために、いつ崩御ほうぎょしてもおかしくない状態じょうたいとなっていた。そこで当時とうじ院政いんせいおこなっていたのち小松こまつ天皇てんのうたかしこう天皇てんのうまごである伏見ふしみみやさだなり親王しんのうたいして、まんいちさい皇位こうい継承けいしょう極秘ごくひ要請ようせいした。ところがそのはなしたたえこう天皇てんのうつたわると、しょうこう天皇てんのう激怒げきどしてさだなり親王しんのう強引ごういん出家しゅっけさせ、皇位こうい継承けいしょうけん剥奪はくだつしてしまった。ところが、それからほどない1428ねんせいちょう元年がんねん)に、肝心かんじんしょうこう天皇てんのう崩御ほうぎょしてしまい、こう小松こまつけい皇統こうとう断絶だんぜつしてしまった。そこでこう小松こまつ天皇てんのうさだなり親王しんのう皇子おうじであったこう花園天皇はなぞのてんのう擁立ようりつしたのである。これにたいしてきゅう南朝なんちょうがわでは北朝ほくちょうがわ皇統こうとう断絶だんぜつしており、傍流ぼうりゅう継承けいしょうみとめないとして各地かくち蜂起ほうきこした。一時いちじ宮中きゅうちゅう侵入しんにゅうした南朝なんちょうがわ武士ぶしによって三種さんしゅ神器じんぎうばわれる(禁闕きんけつへん)などの危機ききにもあったが、室町むろまち幕府ばくふはこれを鎮圧ちんあつ、ここにおいてはじめてしんの「南北なんぼくあさ合一ごういつ」が実現じつげんしたのである。

足利あしかが義満よしみつ

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1990年代ねんだい前期ぜんきごろから、足利あしかが義満よしみつ皇位こうい簒奪さんだつ企図きとしていたとするせつ注目ちゅうもくされるようになった。武家ぶけとしてだけでなく、公家くげとしても官位かんいきわめた義満よしみつは、てんくんとしての行動こうどう徐々じょじょはじめ、自身じしんである足利あしかが義嗣よしつぐ皇位こういけることを計画けいかくしていたが、計画けいかく成就じょうじゅ寸前すんぜん死去しきょしたため皇位こうい簒奪さんだつがならなかったとしている。義満よしみつ清和せいわ天皇てんのうまた陽成ようぜい天皇てんのう)にはじまる源氏げんじではあるが、代数だいすう当時とうじ天皇てんのうからじゅうすうだいはなれていたため、皇族こうぞくとしての資格しかくはないものと做されていた。日本にっぽん歴史れきしじょう、5だい以上いじょう天皇てんのういていない家系かけいぞくするすめらぎ裔が即位そくいしたれいはない。しかし、上記じょうきせつ論者ろんしゃは、当時とうじ状況じょうきょう後光ごこうげん系統けいとう断絶だんぜつ危機ききなど)を詳細しょうさい観察かんさつしてみると、義満よしみつによる皇位こうい簒奪さんだつはかなりの可能かのうせい成功せいこうしたはずであり、もし成功せいこうしていればその天皇てんのう皇位こうい)のありかた劇的げきてき変化へんかしていただろうとかんがえている。実際じっさい義満よしみつ死後しご太上天皇だじょうてんのうごう朝廷ちょうていからおくられようとしている(義満よしみつ後継こうけいしゃ足利あしかが義持よしもちがこれを辞退じたいした)。

戦国せんごく - 明治めいじ初頭しょとう

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室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきはいると、皇室こうしつ権威けんい次第しだい低下ていかしていったが、それにともな皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそうられなくなり、直系ちょっけい男子だんしがすんなりと皇位こうい継承けいしょうするようになった。伏見ふしみ宮家みやけからはいったこう花園天皇はなぞのてんのうから17世紀せいき前期ぜんき江戸えど時代じだい初期しょき)のこう陽成ようぜい天皇てんのうまで、直系ちょっけい男子だんし継承けいしょう紛争ふんそうもなく、迭立もないまま順調じゅんちょう皇位こうい継承けいしょうしていき、日本にっぽん史上しじょうもっとも皇位こうい継承けいしょう長期間ちょうきかんにわたりおだやかにおこなわれた時代じだいでもある。

安土あづち桃山ももやま時代じだい後期こうき江戸えど時代じだい初期しょきのち陽成ようぜい天皇てんのうは、自分じぶん後継こうけいしゃ豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすの2だい権力けんりょくしゃ思惑おもわくにより擁立ようりつされたこと不満ふまんいだき、実子じっしながら、これらをはいして実弟じっていはちじょうみや智仁ともひと親王しんのう譲位じょういしようとして、豊臣とよとみ政権せいけん江戸えど幕府ばくふ衝突しょうとつしたが、最終さいしゅうてき家康いえやす嫡男ちゃくなん後水尾天皇ごみずのおてんのうゆずことになったが、なが親子おやこあいだ不和ふわつづいた。つづ後水尾天皇ごみずのおてんのうもたびたび幕府ばくふから高圧こうあつてきあつかわれたため、それにえかねて1629ねん寛永かんえい6ねん)、みずからの女子じょし譲位じょういした。このとき皇位こうい継承けいしょうした明正めいせい天皇てんのうは、しょうとく天皇てんのう以来いらい859ねんぶりの女帝にょていである。明正めいせい天皇てんのうはその異母弟いぼていこう光明こうみょう天皇てんのう譲位じょういした。こう光明こうみょう天皇てんのう以降いこうは、直系ちょっけい男子だんしへの継承けいしょう基本きほんとしていたが、継承けいしょうしゃ成人せいじんなどの場合ばあい中継なかつぎとしての女帝にょていとしてこうさくらまち天皇てんのう擁立ようりつされていた。1779ねん安永やすなが8ねん)にこう桃園ももぞの天皇てんのうのこさないままわかくして崩御ほうぎょしたため、日本にっぽん史上しじょうすうかいとなる皇統こうとう断絶だんぜつ危機きき発生はっせいした。しかし、このやく60ねんまえ皇統こうとう断絶だんぜつ可能かのうせい予見よけんしていた新井あらい白石はくせきは、皇位こうい継承けいしょうけん皇族こうぞく家系かけいとなる閑院みや創設そうせつしており、こう桃園ももぞの天皇てんのう後継こうけいとして閑院みやからひかりかく天皇てんのうむかえられた。

皇族こうぞく子孫しそんすうだいのちすめらぎせきから離脱りだつするのが律令りつりょう以来いらい通例つうれいであったが、中世ちゅうせい以後いご伏見ふしみみやや閑院みやよう皇統こうとう維持いじのために、なんだいても親王しんのうくらいくことのできる家系かけい世襲せしゅう親王しんのう)を創出そうしゅつしていったのである。また、当時とうじ天皇てんのう複数ふくすう皇子おうじがいる場合ばあい複数ふくすう親王しんのう生活せいかつささえる財政ざいせいてきゆとりがことや、臣籍しんせき降下こうかをさせるだけの公家くげ官位かんい余裕よゆうことから、皇位こうい継承けいしょうしゃ以外いがい皇子おうじすべおさなくして出家しゅっけ強要きょうようせざるをない(当然とうぜんながら出家しゅっけした皇子おうじには子孫しそん存在そんざいしないことになる。ぜん近代きんだい後宮こうきゅう制度せいど充実じゅうじつぶりにもかかわらず、中世ちゅうせい以後いご皇統こうとう断絶だんぜつ危機ききなんしょうじたのはこうした事情じじょうがある)状態じょうたいにあったが、世襲せしゅう親王しんのう断絶だんぜつした場合ばあいには、天皇てんのう実子じっし養子ようしとしておくことで、子孫しそん安泰あんたいはかことおこなわれた。

なお、江戸えど幕府ばくふ皇室こうしつ公家くげ同姓どうせいあいだでの養子ようし継承けいしょうみとめたが女系じょけい相続そうぞくについては「禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっとだい6じょうにて禁止きんしすることを明文化めいぶんかしていた[9]

やがて、明治維新めいじいしんともな近代きんだいてき法治ほうち国家こっかへの移行いこうともない、これまで皇室こうしつ内部ないぶ事情じじょうによって決定けっていされてきた皇位こうい継承けいしょうにも法的ほうてき根拠こんきょもとめられるようになり、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう公布こうふわせて皇室こうしつ典範てんぱん登極とうきょくれいなどが整備せいびされていくことになる。

皇室こうしつ典範てんぱんの「皇統こうとうぞくぞく)する男系だんけい男子だんし」という条文じょうぶんについて、たかしみや愛子あいこ内親王ないしんのう誕生たんじょうなど、天皇てんのう直系ちょっけい皇位こうい継承けいしょうしゃ終端しゅうたん女性じょせい皇族こうぞくしか存在そんざいしていない問題もんだいしょうじていた。2006ねん平成へいせい18ねん)のゆうじん親王しんのう誕生たんじょうにより、一応いちおういまだい126だい天皇てんのう次世代じせだい皇位こうい継承けいしょうしゃ確保かくほできたが、依然いぜんとして皇位こうい継承けいしょうしゃ不足ふそくわりはない。そのため、女性じょせい天皇てんのうおよ女系じょけい天皇てんのう、およびきゅう宮家みやけすめらぎせき復帰ふっきなどの可能かのうせいふくめた議論ぎろんこっている。

また、河野こうの太郎たろう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん一部いちぶ研究けんきゅう現時点げんじてん皇統こうとう血縁けつえんちか男系だんけい子孫しそんすめらぎべつ摂家せっけ検討けんとう必要ひつようせいうったえている。

考察こうさつ

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2023ねん考古こうこ学者がくしゃ寺沢てらさわかおる文献ぶんけん史学しがく考古学こうこがく従来じゅうらい皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしきせつ大嘗祭だいじょうさいせつをすべて検証けんしょうしたうえで、『記紀きき神話しんわかられる天皇てんのう皇祖こうそしん神霊しんれい天皇てんのうれい)をうつわであるという核心かくしんてきモチーフがあり、それが中国ちゅうごくひがしアジアとはことなる日本にっぽん独自どくじ要素ようそで、それをあらわしているのが現在げんざいつづ大嘗祭だいじょうさいであるととなえている。すなわち天皇てんのう身体しんたいいちだいごとにわるが、そのたましい不変ふへんで、その皇祖こうそしん神霊しんれいである天皇てんのうれいにつけることで皇祖こうそしんつらなるという観念かんねんにもとづきそれがフィクショナルな共同きょうどう幻想げんそうだとしても神霊しんれい継承けいしょう未来永劫みらいえいごう万世ばんせい一系いっけい子孫しそん限定げんていし、かみとなりうる人格じんかく血統けっとうによってたどらせようとしたと皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき意義いぎ検証けんしょうしている。

そのうえでれい改元かいげんさい文献ぶんけん研究けんきゅうしゃから「大嘗祭だいじょうさいほん議論ぎろん天皇てんのう即位そくいにともなう最初さいしょ新嘗祭にいなめさいという理解りかい解決かいけつした」という主旨しゅし発言はつげんたいし、「わたし決着けっちゃくしたとはおもわない」とおも考古学こうこがくてき視点してんから挑戦ちょうせんじょうけている[10]

皇位こうい継承けいしょう一覧いちらん

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初代しょだい天皇てんのう神武じんむ天皇てんのうからだい126だいいま天皇てんのういたるため、125かい皇位こうい継承けいしょうおこなわれてきたことになる。

うち、66かい崩御ほうぎょ死去しきょ)による皇位こうい継承けいしょう在位ざいいちゅう天皇てんのう死去しきょにより皇嗣こうし践祚せんそ即位そくいする)、59かい譲位じょうい退位たいい)による皇位こうい継承けいしょう在位ざいいちゅう天皇てんのうがその存命ぞんめいちゅう退位たいい譲位じょういし、皇嗣こうし践祚せんそ即位そくいする)である。

回数かいすう 継承けいしょうしゃ 継承けいしょうしゃ 続柄つづきがら すう 践祚せんそ 備考びこう
1 神武じんむ天皇てんのう 皇太子こうたいしかみ名川ながわみみみこと だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 綏靖天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん581ねん)1がつ8にち 神武じんむ天皇てんのう76ねん紀元前きげんぜん585ねん)3がつ11にち初代しょだい天皇てんのう神武じんむ天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけてだい2だい天皇てんのう即位そくい諒闇りょうあんなかタギシミミの反逆はんぎゃくこる。
2 綏靖天皇てんのう 皇太子こうたいし磯城しき彦玉しゅみこと だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 安寧天皇あんねいてんのう元年がんねん紀元前きげんぜん548ねん)7がつ15にち 綏靖天皇てんのう35ねん紀元前きげんぜん549ねん)5がつ10日とおかに綏靖天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
3 安寧天皇あんねいてんのう 皇太子こうたいしだい日本にっぽん彦耜ともみこと だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 懿徳天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん510ねん)2がつ4にち 安寧天皇あんねいてんのう38ねん紀元前きげんぜん511ねん)12月6にち安寧天皇あんねいてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
4 懿徳天皇てんのう 皇太子こうたいしかんまつ彦香ふえいねみこと だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 孝昭たかあき天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん475ねん)1がつ9にち 懿徳天皇てんのう34ねん紀元前きげんぜん477ねん)9がつ8にちに懿徳天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
5 孝昭たかあき天皇てんのう 皇太子こうたいし日本にっぽんあし彦国押人みこと だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 孝安たかやす天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん392ねん)1がつ7にち 孝昭たかあき天皇てんのう83ねん紀元前きげんぜん393ねん)8がつ5にち孝昭たかあき天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
6 孝安たかやす天皇てんのう 皇太子こうたいしだい日本にっぽん根子ねっこ彦太瓊尊 だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう こうれい天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん290ねん)1がつ12にち 孝安たかやす天皇てんのう102ねん紀元前きげんぜん291ねん)1がつ9にち孝安たかやす天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
7 こうれい天皇てんのう 皇太子こうたいしだい日本にっぽん根子ねっこ彦国牽尊 だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう こうもと天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん214ねん)1がつ14にち こうれい天皇てんのう76ねん紀元前きげんぜん215ねん)2がつ8にちこうれい天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
8 こうもと天皇てんのう 皇太子こうたいしやや日本にっぽん根子ねっこ彦大日日ひびとうと だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう こうもと天皇てんのう57ねん紀元前きげんぜん158ねん)11月12にち こうもと天皇てんのう57ねん紀元前きげんぜん158ねん)9がつ2にちこうもと天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
9 開化かいか天皇てんのう 皇太子こうたいしあいだじょうにゅう彦五じゅう瓊殖みこと だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう たかしかみ天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん97ねん)1がつ13にち 開化かいか天皇てんのう60ねん紀元前きげんぜん98ねん)4がつ9にち開化かいか天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
10 たかしかみ天皇てんのう 皇太子こうたいしかつにゅう彦五じゅうせまかやたかし だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう たれじん天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん29ねん)1がつ2にち たかしかみ天皇てんのう68ねん紀元前きげんぜん30ねん)12月5にちたかしかみ天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
11 たれじん天皇てんのう 皇太子こうたいし大足おおあし彦忍だいべつみこと だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう けいぎょう天皇てんのう元年がんねん(71ねん)7がつ11にち たれじん天皇てんのう99ねん(70ねん)7がつ14にちたれじん天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
12 けいぎょう天皇てんのう 皇太子こうたいしややあし彦尊 だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう なりつとむ天皇てんのう元年がんねん(131ねん)1がつ5にち けいぎょう天皇てんのう60ねん(130ねん)11月7にちけいぎょう天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
13 なりつとむ天皇てんのう 皇太子こうたいしあしなか彦尊 おい せいおう 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう元年がんねん(192ねん)1がつ11にち なりつとむ天皇てんのう60ねん(190ねん)6がつ11にちなりつとむ天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
14 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう 摂政せっしょう皇太后こうたいごういきちょうたいうりいのち 皇后こうごう せい女王じょおう 神功じんぐう皇后こうごう元年がんねん(201ねん)10がつ2にち 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう9ねん(200ねん)2がつ6にち仲哀ちゅうせつ天皇てんのうさんかん征伐せいばつ最中さいちゅう崩御ほうぎょ皇后こうごうさんかん征伐せいばつおよび天皇てんのう崩御ほうぎょともな皇位こうい継承けいしょうあらそいを指揮しきし、年少ねんしょう皇太子こうたいし誉田ほんだべつみことわり摂政せっしょうとして政務せいむ代行だいこうする。長年ながねんにわたり即位そくいせつがあったが、大正たいしょう14ねん(1925ねん)の皇統こうとうれい発布はっぷともない、即位そくい事実じじつ公式こうしき否定ひていされた。
14 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう
神功じんぐう皇后こうごう
皇太子こうたいし誉田ほんだべつみこと だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 応神天皇おうじんてんのう元年がんねん(270ねん)1がつ1にち 神功じんぐう皇后こうごう69ねん(269ねん)4がつ17にち神功しんこう皇后こうごう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
15 応神天皇おうじんてんのう だい鷦鷯みそさざいみこと だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 仁徳天皇にんとくてんのう元年がんねん(313ねん)1がつ3にち 応神天皇おうじんてんのう41ねん(310ねん)2がつ15にち応神天皇おうじんてんのう崩御ほうぎょ皇太子こうたいし指名しめいされていたうさぎどうやや郎子いらつこだい鷦鷯みそさざいみこととのあいだ皇位こういゆずつづけ、皇太子こうたいし自殺じさつしたため、だい鷦鷯みそさざいみこと即位そくいした。
16 仁徳天皇にんとくてんのう 大兄たいけい去来きょらい穂別ほべつたかし だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 履中天皇りちゅうてんのう元年がんねん(400ねん)2がつ1にち 仁徳天皇にんとくてんのう87ねん(399ねん)1がつ16にち仁徳天皇にんとくてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい諒闇りょうあんなか住吉すみよしなか皇子おうじ謀反むほんこし、討伐とうばつされる。
17 履中天皇りちゅうてんのう 皇太子こうたいしおそみずべつみこと おとうと 一世いっせい親王しんのう はんせい天皇てんのう元年がんねん(406ねん)1がつ2にち 履中天皇りちゅうてんのう6ねん(405ねん)3がつ15にち履中天皇りちゅうてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
18 はんせい天皇てんのう ちょうあいだやや宿禰すくねみこと おとうと 一世いっせい親王しんのう 允恭天皇いんぎょうてんのう元年がんねん(411ねん)12月 はんせい天皇てんのう5ねん(410ねん)1がつ23にちはんせい天皇てんのう皇太子こうたいしさだめないまま崩御ほうぎょ群臣ぐんしん協議きょうぎうえ推戴すいたいされる。
19 允恭天皇いんぎょうてんのう あな皇子おうじ だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 允恭天皇いんぎょうてんのう42ねん(452ねん)12月14にち 允恭天皇いんぎょうてんのう42ねん(452ねん)1がつ14にち允恭天皇いんぎょうてんのう崩御ほうぎょ皇太子こうたいし指名しめいされていた木梨軽皇子きなしのかるのみこ素行そこう不良ふりょうにより群臣ぐんしん支持しじられず、皇太子こうたいし討伐とうばつしたあな皇子おうじ即位そくいした。
20 安康天皇あんこうてんのう 大泊おおとまりややたけ皇子おうじ おとうと 一世いっせい親王しんのう 安康天皇あんこうてんのう3ねん(454ねん)11月13にち 安康天皇あんこうてんのう3ねん(454ねん)8がつ9にち安康天皇あんこうてんのう暗殺あんさつされる。大泊おおとまりややたけ皇子おうじ混乱こんらんじょうじて皇位こうい継承けいしょうけんしゃ排除はいじょし、即位そくいした。
21 雄略天皇ゆうりゃくてんのう 皇太子こうたいし白髪はくはつ皇子おうじ だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう せいやすし天皇てんのう元年がんねん(480ねん)1がつ15にち 雄略天皇ゆうりゃくてんのう23ねん(479ねん)8がつ7にち雄略天皇ゆうりゃくてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい諒闇りょうあんなか星川ほしかわ皇子おうじらんこる。
22 せいやすし天皇てんのう ひろしけいおう 6親等しんとう せいおう 顕宗けんそう天皇てんのう元年がんねん(485ねん)1がつ1にち せいやすし天皇てんのう5ねん(484ねん)1がつ16にちせいやすし天皇てんのう崩御ほうぎょあに皇太子こうたいしおくけいおう即位そくい辞退じたいけて即位そくいした。
23 顕宗けんそう天皇てんのう 皇太子こうたいしおくけいおう あに せいおう 仁賢天皇にんけんてんのう元年がんねん(488ねん)1がつ5にち 顕宗けんそう天皇てんのう3ねん(487ねん)4がつ25にち顕宗けんそう天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
24 仁賢天皇にんけんてんのう 皇太子こうたいし小泊こどまりやや鷦鷯みそさざいみこと だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 仁賢天皇にんけんてんのう11ねん(498ねん)12月 仁賢天皇にんけんてんのう11ねん(498ねん)8がつ8にち仁賢天皇にんけんてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
25 たけれつ天皇てんのう おとこだい迹王 10親等しんとう
義兄ぎけい
せいおう つぎたい天皇てんのう元年がんねん2がつ4にち(507ねん3がつ3にち たけれつ天皇てんのう8ねん(506ねん)12月8にちたけれつ天皇てんのう崩御ほうぎょ越前えちぜんこく豪族ごうぞくであったおとこだい迹王が中央ちゅうおう有力ゆうりょく豪族ごうぞく推戴すいたいされた。
26 つぎたい天皇てんのう 皇太子こうたいし勾大けい皇子おうじ だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう つぎたい天皇てんのう25ねん2がつ7にち(531ねん3がつ10日とおか つぎたい天皇てんのう25ねん2がつ7にち(531ねん3がつ10日とおか)につぎたい天皇てんのうが勾大けい皇子おうじ譲位じょうい即日そくじつ崩御ほうぎょした。記録きろくじょう最初さいしょえる譲位じょういである。後世こうせい、この時期じき皇位こうい継承けいしょうあらそいがこっていた可能かのうせい指摘してきされている(からしへん)。
27 安閑天皇あんかんてんのう ひのきくま高田たかだ皇子おうじ おとうと 一世いっせい親王しんのう せん天皇てんのう元年がんねん12がつ(536ねん1がつ 安閑天皇あんかんてんのう2ねん12月17にち(536ねん1がつ25にち)に安閑天皇あんかんてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい後世こうせい、この時期じき皇位こうい継承けいしょうあらそいがこっていた可能かのうせい指摘してきされている(からしへん)。
28 せん天皇てんのう 天国てんごくはいひらけこうにわみこと おとうと 一世いっせい親王しんのう せん天皇てんのう4ねん12月5にち(539ねん12月30にち せん天皇てんのう4ねん2がつ10日とおか(539ねん3がつ15にち)にせん天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい後世こうせい、この時期じき皇位こうい継承けいしょうあらそいがこっていた可能かのうせい指摘してきされている(からしへん)。
29 欽明天皇てんのう 皇太子こうたいし中倉なかくらふとしたまじきみこと だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう さとしたち天皇てんのう元年がんねん4がつ3にち(572ねん4がつ30にち 欽明天皇てんのう32ねん4がつ15にち(571ねん5がつ24にち)に欽明天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
30 さとしたち天皇てんのう 大兄たいけい皇子おうじ おとうと 一世いっせい親王しんのう さとしたち天皇てんのう14ねん9がつ5にち(585ねん10がつ3にち さとしたち天皇てんのう14ねん8がつ15にち(585ねん9がつ14にち)にさとしたち天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい
31 よう明天めいてんすめらぎ とまり瀬部せべ皇子おうじ おとうと 一世いっせい親王しんのう よう明天めいてんすめらぎ2ねん8がつ2にち(587ねん9がつ9にち よう明天めいてんすめらぎ2ねん4がつ9にち(587ねん5がつ21にち)にもちい明天めいてんすめらぎ崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい諒闇りょうあんなか大連たいれん物部守屋もののべのもりや支援しえんけてあな皇子おうじ皇位こういあらそうが、とまり瀬部せべ皇子おうじ後援こうえんする大臣だいじん蘇我馬子そがのうまこ暗殺あんさつされる。
32 たかしたかし天皇てんのう 皇太后こうたいごう額田ぬかた皇女おうじょ いもうと 一世いっせい内親王ないしんのう たかしたかし天皇てんのう5ねん12月8にち(593ねん1がつ15にち たかしたかし5ねん11月3にち(592ねん12月12にち)にたかしたかし天皇てんのう崩御ほうぎょ大臣だいじん蘇我馬子そがのうまこ推挙すいきょけて即位そくい
33 推古天皇すいこてんのう 田村たむらおう だいおい せいおう 舒明天皇てんのう元年がんねん正月しょうがつ4にち(629ねん2がつ2にち 推古天皇すいこてんのう36ねん3がつ7にち(628ねん4がつ15にち)に推古天皇すいこてんのう崩御ほうぎょ後継こうけいめぐって田村たむらおうやま大兄たいけいおうとのあいだ群臣ぐんしん意見いけんかれ、大臣だいじん蘇我蝦夷そがのえみし裁定さいてい田村たむらおう即位そくいする。
34 舒明天皇てんのう 皇太后こうたいごうたから女王じょおう めい
皇后こうごう
さんせい女王じょおう すめらぎごく天皇てんのう元年がんねん1がつ15にち(642ねん2がつ19にち 舒明天皇てんのう13ねん10がつ9にち(641ねん11月17にち)に舒明天皇てんのう崩御ほうぎょ継嗣けいしとなる皇子おうじまらなかったため、皇太后こうたいごうこういで即位そくいした。
35 すめらぎごく天皇てんのう けいおう おとうと さんせいおう すめらぎごく天皇てんのう4ねん6がつ14にち(645ねん7がつ12にち すめらぎごく天皇てんのうおつへんけて譲位じょうい中大兄皇子なかのおおえのおうじ辞退じたいけて、けいおう即位そくいした。すめらぎごく天皇てんのうには「皇祖こうそははみこと」の尊号そんごうけた。
36 孝徳天皇こうとくてんのう 皇祖こうそははみこと あね 上皇じょうこう ひとし明天めいてんすめらぎ元年がんねん正月しょうがつ3にち(655ねん2がつ14にち 孝徳天皇こうとくてんのう10ねん12月8にち(655ねん1がつ20日はつか)に孝徳天皇こうとくてんのう崩御ほうぎょ。これをけて皇祖こうそははみこと重祚じゅうそ
37 ひとし明天めいてんすめらぎ 皇太子こうたいし葛城かつらぎ皇子おうじ だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 天智天皇てんぢてんのう7ねん正月しょうがつ3にち(668ねん2がつ20日はつか ひとし明天めいてんすめらぎ7ねん7がつ24にち(661ねん8がつ24にち)にひとし明天めいてんすめらぎ崩御ほうぎょ丁度ちょうど百済くだら復興ふっこうのための半島はんとう出兵しゅっぺいちゅうであったため葛城かつらぎ皇子おうじ即位そくいせずにしょうせいのままで指揮しきる。白村はくそんこうたたか敗北はいぼく敗戦はいせん処理しょり即位そくいする。
38 天智天皇てんぢてんのう 皇太子こうたいし太政大臣だじょうだいじん大友皇子おおとものおうじ だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 天智天皇てんぢてんのう10ねん12月5にち(672ねん1がつ9にち 天智天皇てんぢてんのう10ねん12月3にち(672ねん1がつ7にち)に天智天皇てんぢてんのう崩御ほうぎょ。これをけて即位そくい皇太后こうたいごうやまと姫王ひめおう即位そくいしたとのせつ即位そくいせずにしょうせいしたとのせつがある。かり即位そくいしたとしてもその直後ちょくごみずのえさるらんはいしたため即位そくいかかわる儀礼ぎれい完了かんりょうしなかった可能かのうせいもあり、大友皇子おおとものおうじ即位そくい有無うむについては学説がくせつかれている(大友皇子おおとものおうじ即位そくいせつ参照さんしょう)。現在げんざい政府せいふ見解けんかいでは、明治めいじ3ねん(1870ねん)に即位そくい事実じじつ認定にんていしている。
39 弘文天皇こうぶんてんのう 大海人皇子おおあまのおうじ 叔父おじ 一世いっせい親王しんのう 天武天皇てんむてんのう2ねん2がつ27にち(673ねん3がつ20日はつか 天武天皇てんむてんのう元年がんねん7がつ23にち(672ねん6がつ21にち)に弘文天皇こうぶんてんのうみずのえさるらんはい勝利しょうりした大海人皇子おおあまのおうじ即位そくい弘文天皇こうぶんてんのう即位そくいうたがいがあり、大海人皇子おおあまのおうじにとって都合つごうわるいので即位そくい事実じじつ抹消まっしょうされたうたがいがある(大友皇子おおとものおうじ即位そくいせつ参照さんしょう)。
40 天武天皇てんむてんのう 皇太后こうたいごう鸕野たたえ皇女おうじょ めい
皇后こうごう
せい内親王ないしんのう もちすべ天皇てんのう4ねん1がつ1にち(690ねん2がつ14にち 朱鳥あすか元年がんねん9がつ9にち(686ねん10がつ1にち)に天武天皇てんむてんのう崩御ほうぎょ諒闇りょうあんなか大津皇子おおつのおうじ反乱はんらん皇太子こうたいし草壁皇子くさかべのおうじ病死びょうしき、皇太后こうたいごう即位そくいする。
41 もちすべ天皇てんのう 皇太子こうたいしけい皇子おうじ まご せい親王しんのう 文武ぶんぶ天皇てんのう元年がんねん8がつ1にち(697ねん8がつ22にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
42 文武ぶんぶ天皇てんのう おもね閇皇おんな はは 一世いっせい内親王ないしんのう けいくも4ねん7がつ17にち(707ねん8がつ18にち けいくも4ねん6がつ15にち(707ねん7がつ18にち)に文武ぶんぶ天皇てんのう崩御ほうぎょ皇子おうじくび皇子おうじおさなかったため、天皇てんのうはは即位そくいした。
43 元明もとあき天皇てんのう 氷高ひだか皇女おうじょ 皇女おうじょ せい内親王ないしんのう れいかめ元年がんねん9がつ2にち(715ねん10がつ3にち 天皇てんのう高齢こうれいにより譲位じょうい皇太子こうたいしくび皇子おうじおさなかったため、皇子おうじ伯母おば即位そくいした。
44 元正がんしょう天皇てんのう 皇太子こうたいしくび皇子おうじ おい 一世いっせい親王しんのう かみひさし元年がんねん2がつ4にち(724ねん3がつ3にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
45 聖武天皇しょうむてんのう 皇太子こうたいし阿倍あべ内親王ないしんのう だい皇女おうじょ 一世いっせい内親王ないしんのう 天平てんぴょうかちたから元年がんねん7がつ2にち(749ねん8がつ19にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
46 こうけん天皇てんのう 皇太子こうたいし大炊おおいおう 6親等しんとう せいおう 天平てんぴょうたから2ねん8がつ1にち(758ねん9がつ7にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう大納言だいなごん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ推挙すいきょけて大炊おおいおう即位そくいした。
47 淳仁天皇じゅんにんてんのう こうけん上皇じょうこう 6親等しんとう 上皇じょうこう 天平てんぴょうたから8ねん10がつ9にち(764ねん11月6にち 天皇てんのう藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん連座れんざして廃位はいいこうけん上皇じょうこう重祚じゅうそする。新帝しんてい意向いこうにより即位そくい事実じじつ無効むこうにされて「淡路あわじ廃帝はいてい」とばれていたが、明治めいじ3ねん(1870ねん)に明治天皇めいじてんのうより諡号しごうおくられた。
48 しょうとく天皇てんのう 皇太子こうたいし白壁しらかべおう 義兄ぎけい せいおう 宝亀ほうき元年がんねん10がつ1にち(770ねん10がつ23にち 神護かんごけいくも4ねん8がつ4にち(770ねん8がつ28にち)にたたえとく天皇てんのう崩御ほうぎょ群臣ぐんしん協議きょうぎおよびのこせんによって白壁しらかべおう立太子りったいしいで即位そくいする。
49 ひかりじん天皇てんのう 皇太子こうたいし山部やまべ親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう てんおう元年がんねん4がつ3にち(781ねん4がつ30にち 天皇てんのうやまいにより譲位じょうい。これをけて即位そくい
50 桓武かんむ天皇てんのう 皇太子こうたいしあん殿どの親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう のべれき25ねん3がつ17にち(806ねん4がつ9にち 天皇てんのうによる皇位こうい継承けいしょう従来じゅうらい先帝せんてい崩御ほうぎょともな皇位こうい継承けいしょう諒闇りょうあんけにっていたが、これ以降いこう践祚せんそ即位そくい区別くべつし、先帝せんてい退しりぞいたときにはただちに皇嗣こうし践祚せんそし、皇位こうい空白くうはくしょうじないようになった。
51 平城ひらじろ天皇てんのう 皇太子こうたいし神野かみの親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 大同だいどう4ねん4がつ1にち(809ねん5がつ18にち 天皇てんのう発病はつびょうにより譲位じょうい
52 嵯峨天皇さがてんのう 皇太子こうたいし大伴おおとも親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう ひろじん14ねん4がつ16にち(823ねん5がつ29にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
53 淳和天皇じゅんなてんのう 皇太子こうたいし正良まさよし親王しんのう おい 一世いっせい親王しんのう てんちょう10ねん2がつ28にち(833ねん3がつ22にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
54 仁明天皇にんみょうてんのう 皇太子こうたいしみちやすし親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう よしみさち3ねん3がつ19にち(850ねん5がつ4にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
55 文徳ふみのり天皇てんのう 皇太子こうたいしおもんみじん親王しんのう だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう てんやす2ねん8がつ27にち(858ねん10がつ7にち てんやす2ねん8がつ27にち(858ねん10がつ7にち)に文徳ふみのり天皇てんのう崩御ほうぎょ皇太子こうたいし幼少ようしょうであったため天皇てんのうおもんみたかし親王しんのう即位そくいのぞんでいたが、外祖父がいそふ太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらりょうぼうつよすすめで皇太子こうたいし即位そくいする。りょうぼう摂政せっしょうとなり、のちの摂関せっかん政治せいじ端緒たんしょとなった。
56 清和せいわ天皇てんのう 皇太子こうたいし貞明ていめい親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう さだかん18ねん11月29にち(876ねん12月18にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
57 陽成ようぜい天皇てんのう どきやすし親王しんのう 大叔父おおおじ 一世いっせい親王しんのう もとけい8ねん3がつ5にち(884ねん2がつ5にち 譲位じょうい実際じっさいには宮中きゅうちゅうでおこった殺人さつじん事件じけん嫌疑けんぎをかけられての廃位はいいともされる)による皇位こうい継承けいしょう
58 光孝みつたか天皇てんのう 皇太子こうたいしじょうしょう親王しんのう だいじゅう皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 仁和にわ3ねん8がつ26にち(887ねん9がつ17にち 天皇てんのう崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう陽成ようぜい天皇てんのう近親きんしんしゃ皇位こういくことをふせぐため、臣籍しんせき降下こうかしていたみなもとじょうしょうすめらぎせき復帰ふっきして立太子りったいし即位そくいした。
59 宇多天皇うだてんのう 皇太子こうたいしあつしじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 寛平かんぺい9ねん7がつ3にち(897ねん8がつ4にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
60 醍醐天皇だいごてんのう 皇太子こうたいし寛明ひろあき親王しんのう だいじゅういち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 延長えんちょう8ねん9がつ22にち(930ねん10がつ16にち 天皇てんのうおもあつにつき譲位じょうい
61 朱雀すざく天皇てんのう 皇太子こうたいし成明しげあき親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう てんけい9ねん4がつ20日はつか(946ねん5がつ23にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
62 村上むらかみ天皇てんのう 皇太子こうたいしけんひら親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう かん4ねん5がつ25にち(967ねん7がつ5にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
63 冷泉れいせん天皇てんのう 皇太子こうたいしもりひら親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 安和あわ2ねん8がつ13にち(969ねん9がつ27にち 天皇てんのうやまいによって譲位じょうい。あとをおとうともりひら親王しんのうけて即位そくいする。東宮とうぐうにはさだ親王しんのう冷泉れいせん天皇てんのうだいいち皇子おうじ)がち、以降いこうはん世紀せいき両者りょうしゃ皇統こうとうあいだ両統りょうとう迭立状態じょうたいとなる。
64 円融天皇えんゆうてんのう 皇太子こうたいしさだ親王しんのう おい 一世いっせい親王しんのう 永観えいかん2ねん8がつ27にち(984ねん9がつ24にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう東宮とうぐうにはふところじん親王しんのう円融天皇えんゆうてんのうだいいち皇子おうじ)がつ。
65 花山はなやま天皇てんのう 皇太子こうたいしふところじん親王しんのう 従弟じゅうてい 一世いっせい親王しんのう 寛和ひろかず2ねん6がつ23にち(986ねん8がつ1にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう寛和ひろかずへん)。東宮とうぐうにはさだ親王しんのう冷泉れいせん天皇てんのうだい皇子おうじ)がつ。
66 一条天皇いちじょうてんのう 皇太子こうたいしきょさだ親王しんのう 従兄じゅうけい 一世いっせい親王しんのう 寛弘かんこう8ねん6がつ13にち(1011ねん7がつ16にち 天皇てんのうおもあつにより譲位じょうい(9にち崩御ほうぎょ)。東宮とうぐうにはあつしなり親王しんのう一条天皇いちじょうてんのうだい皇子おうじ)がつ。
67 三条さんじょう天皇てんのう 皇太子こうたいしあつしなり親王しんのう 5親等しんとう 一世いっせい親王しんのう 長和おさわ5ねん1がつ29にち(1016ねん3がつ10日とおか 天皇てんのうびょうにより譲位じょうい東宮とうぐうにはあつしあきら親王しんのう三条さんじょう天皇てんのうだいいち皇子おうじ)がつが、藤原ふじわら道長みちながあつりょくにより辞退じたい両統りょうとう迭立は終了しゅうりょうする。
68 後一条天皇ごいちじょうてんのう 皇太子こうたいしあつしりょう親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう ながもと9ねん4がつ17にち(1036ねん5がつ15にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう急死きゅうしであったため譲位じょうい儀式ぎしきわず、はつまえのこみことのりにより譲位じょういおこなった。
69 こう朱雀すざく天皇てんのう 皇太子こうたいし親仁おやじ親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ひろしとく2ねん1がつ16にち(1045ねん2がつ5にち 天皇てんのうやめかた悪性あくせい腫瘍しゅよう)により譲位じょうい(2にち崩御ほうぎょ)。
70 後冷泉天皇ごれいぜいてんのう 皇太子こうたいしみことじん親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう れき4ねん4がつ19にち(1068ねん5がつ22にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
71 後三条ごさんじょう天皇てんのう 皇太子こうたいし貞仁さだひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 延久のべひさ4ねん12月8にち(1073ねん1がつ18にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
72 白河天皇しらかわてんのう 皇太子こうたいし善仁よしひと親王しんのう だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう おうとく3ねん11月26にち(1087ねん1がつ3にち 天皇てんのう善仁よしひと親王しんのう立太子りったいしさせ、即日そくじつ譲位じょういする。白河しらかわ上皇じょうこう幼少ようしょう堀河ほりかわ天皇てんのうにかわり政治せいじ仕切しきり、院政いんせいてんきみ)の嚆矢こうしとされる。
73 堀河ほりかわ天皇てんのう 皇太子こうたいしそうひとし親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう よしみうけたまわ2ねん7がつ19にち(1107ねん8がつ9にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
74 鳥羽天皇とばてんのう 皇太子こうたいしあらわじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 保安ほあん4ねん正月しょうがつ28にち(1123ねん2がつ25にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
75 崇徳天皇すとくてんのう 皇太子こうたいしからだじん親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 永治えいじ元年がんねん12がつ7にち(1142ねん1がつ5にち 鳥羽とば上皇じょうこうてんきみ)のあつりょくにより、皇太子こうたいし上皇じょうこうちょう藤原ふじわら得子とくこ所生しょせい)に譲位じょうい
76 近衛天皇このえてんのう まさひとし親王しんのう あに 一世いっせい親王しんのう 久寿きゅうじゅ2ねん7がつ23にち(1155ねん8がつ22にち 久寿きゅうじゅ2ねん7がつ22にち(1155ねん8がつ21にち)に近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょ議定ぎていによりまさひとし親王しんのう践祚せんそする。
77 後白河天皇ごしらかわてんのう 皇太子こうたいしまもりじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう もと3ねん8がつ11にち(1158ねん9がつ5にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
78 二条天皇にじょうてんのう 皇太子こうたいしじゅんじん親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ながまん元年がんねん6がつ25にち(1165ねん8がつ3にち 天皇てんのう発病はつびょうにより譲位じょうい翌月よくげつ崩御ほうぎょ)。
79 ろくじょう天皇てんのう 皇太子こうたいし憲仁のりひと親王しんのう 叔父おじ 一世いっせい親王しんのう じんやす3ねん2がつ19にち(1168ねん4がつ9にち 二条天皇にじょうてんのう崩御ほうぎょこう白河しらかわ上皇じょうこう平清盛たいらのきよもりらによるかえしにより憲仁のりひと親王しんのう立太子りったいし皇位こうい継承けいしょうされた。
80 高倉天皇たかくらてんのう 皇太子こうたいしげんじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう うけたまわ4ねん2がつ21にち(1180ねん3がつ18にち うけたまわさんねん政変せいへんによるのち白河しらかわ法皇ほうおう失脚しっきゃく高倉天皇たかくらてんのう自身じしん院政いんせいおこなうべく皇太子こうたいし譲位じょういする。
81 安徳天皇あんとくてんのう みことなり親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 寿ことぶきひさし2ねん8がつ20日はつか(1183ねん9がつ8にち うけたまわ寿ことぶきひさしらんにおいて、安徳天皇あんとくてんのう平家ひらかほうじられて西国さいごくちのび、わって入京にゅうきょうした源義仲みなもとのよしなか主導しゅどうみことなり親王しんのう新帝しんていてられた。このとき皇位こうい付随ふずいする三種さんしゅ神器じんぎ安徳天皇あんとくてんのうとともにあったため、代替だいたい措置そちとして復権ふっけんしたのち白河しらかわ法皇ほうおうによる院宣いんぜんにより皇位こうい継承けいしょうした。安徳天皇あんとくてんのう寿ことぶきひさし4ねん3がつ24にち(1185ねん4がつ25にち)に壇ノ浦だんのうらたたかはいするまで皇位こういにとどまっていたため、史上しじょうはじめてみかどなら事態じたいとなった。
82 後鳥羽ごとば天皇てんのう ためじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう たてひさ9ねん1がつ11にち(1198ねん2がつ18にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
83 土御門天皇つちみかどてんのう 皇太子こうたいし守成しゅせい親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう うけたまわもと4ねん11月25にち(1210ねん12月12にち 天皇てんのう温和おんわ性格せいかくきらった後鳥羽上皇ごとばじょうこうてんきみ)のあつりょくにより譲位じょうい
84 順徳天皇じゅんとくてんのう 皇太子こうたいしふところなり親王しんのう だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう うけたまわひさし3ねん4がつ20日はつか(1221ねん5がつ13にち 後鳥羽上皇ごとばじょうこうによる鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうそなえ、皇太子こうたいし譲位じょうい
85 仲恭天皇ちゅうきょうてんのう しげる仁王におう 5親等しんとう せいおう うけたまわひさし3ねん7がつ9にち(1221ねん7がつ29にち 承久じょうきゅうらん朝廷ちょうてい敗北はいぼく北条ほうじょうやすしときにより天皇てんのうはいされ、土御門つちみかど上皇じょうこう直系ちょっけいからしげ仁王におう擁立ようりつされる。仲恭天皇ちゅうきょうてんのう即位そくいしき大嘗祭だいじょうさいないまま廃位はいいされたため、明治めいじ3ねん(1870ねん)に諡号しごうおくられるまで「きゅうじょう廃帝はいてい」と呼称こしょうされていた。
86 こう堀河ほりかわ天皇てんのう 皇太子こうたいし秀仁ひでひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう さだなが元年がんねん10がつ4にち(1232ねん11月17にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
87 四条しじょう天皇てんのう くに仁王におう また従兄じゅうけい 一世いっせいおう じん3ねん正月しょうがつ20日はつか(1242ねん2がつ21にち じん3ねん正月しょうがつ9にち(1242ねん2がつ10日とおか)に天皇てんのう急死きゅうし後継こうけいめぐって公家くげあいだ対立たいりつ幕府ばくふ反対はんたいがあったため、11日間にちかん空位くういしょうじる。
88 こう嵯峨天皇さがてんのう 久仁くに親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ひろしもと4ねん1がつ29にち(1246ねん2がつ16にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
89 後深草天皇ごふかくさてんのう 皇太子こうたいし恒仁つねひと親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう せいもと元年がんねん11がつ26にち(1260ねん1がつ9にち こう嵯峨さが上皇じょうこうてんきみ)の意向いこうにより譲位じょうい以降いこう先帝せんてい系統けいとう持明院じみょういんみつる)と新帝しんてい系統けいとう大覚寺だいかくじみつる)のあいだ両統りょうとう迭立にはいる。
90 亀山天皇かめやまてんのう 皇太子こうたいしじん親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ぶんなが11ねん1がつ26にち(1274ねん3がつ6にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょうこう深草ふかくさ上皇じょうこうはたらきかけにより、熈仁親王しんのう深草ふかくさ上皇じょうこうだい皇子おうじ)が立太子りったいしする。
91 こう宇多天皇うだてんのう 皇太子こうたいし熈仁親王しんのう 従兄じゅうけい 一世いっせい親王しんのう 弘安ひろやす10ねん10がつ21にち(1287ねん11月27にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう皇統こうとう持明院じみょういんみつるうつる。
92 伏見天皇ふしみてんのう 皇太子こうたいしたねじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう えいひとし6ねん7がつ22にち(1298ねん8がつ30にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう東宮とうぐうには大覚寺だいかくじみつる邦治くにじ親王しんのう宇多うた上皇じょうこうだいいち皇子おうじ)がつ。
93 こう伏見天皇ふしみてんのう 皇太子こうたいし邦治くにじ親王しんのう また従兄じゅうけい 一世いっせい親王しんのう 正安まさやす3ねん正月しょうがつ21にち(1301ねん3がつ2にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう皇統こうとう大覚寺だいかくじみつるうつる。東宮とうぐうには持明院じみょういんみつるとみじん親王しんのう伏見ふしみ上皇じょうこうおとうと)がつ。
94 こう二条天皇にじょうてんのう 皇太子こうたいしとみじん親王しんのう また従弟じゅうてい 一世いっせい親王しんのう のべけい元年がんねん8がつ26にち(1308ねん9がつ11にち 天皇てんのう崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう皇統こうとう持明院じみょういんみつるうつる。東宮とうぐうには大覚寺だいかくじみつるみこと親王しんのうこう二条天皇にじょうてんのうおとうと)がつ。
95 花園天皇はなぞのてんのう 皇太子こうたいしみこと親王しんのう また従兄じゅうけい 一世いっせい親王しんのう ぶん2ねん2がつ26にち(1318ねん3がつ29にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう皇統こうとう大覚寺だいかくじみつるうつる。
96 後醍醐天皇ごだいごてんのう 皇太子こうたいしりょうじん親王しんのう 7親等しんとう 一世いっせい親王しんのう 元弘もとひろ元年がんねん9がつ20日はつか(1331ねん10がつ22にち 後醍醐天皇ごだいごてんのうによる討幕とうばく挙兵きょへい鎮圧ちんあつされ、幕府ばくふによって廃立はいりつされる(元弘もとひろへん)。あとを皇太子こうたいし継承けいしょうし、皇統こうとう持明院じみょういんみつるうつる。
(きた1) ひかりげん天皇てんのう 後醍醐天皇ごだいごてんのう 7親等しんとう 一世いっせい親王しんのう 元弘もとひろ3ねん5がつ25にち(1333ねん7がつ7にち 鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうにより後醍醐天皇ごだいごてんのう配流はいるさき隠岐おきから帰還きかんたてたけし親政しんせいはじめるにあたり、自身じしん廃位はいいひかりげん天皇てんのう即位そくい無効むこうひかりげん天皇てんのうは「特別とくべつに」上皇じょうこう待遇たいぐうとされた。
- 後醍醐天皇ごだいごてんのう 皇太子こうたいしつねりょう親王しんのう だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう たてたけし3ねん(1336ねん)? 足利尊氏あしかがたかうじ反乱はんらんのべもとらん)により比叡山ひえいざん避難ひなんしていた後醍醐天皇ごだいごてんのう皇太子こうたいし三種さんしゅ神器じんぎ譲渡ゆずりわたして北陸ほくりくちのびさせる。つねりょう親王しんのう天皇てんのうとしてふるまうが、のちに後醍醐天皇ごだいごてんのうあらたに南朝なんちょうひらくとつねりょう親王しんのう即位そくい意義いぎがなくなり、歴代れきだい天皇てんのうとはみなされていない(つねりょう親王しんのう保持ほじしていた三種さんしゅ神器じんぎ行方ゆくえ不明ふめい)。
(きた1) ひかりげん天皇てんのう 豊仁とよひと親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう のべもと元年がんねん8がつ15にち(1336ねん9がつ20日はつか きょう出奔しゅっぽんした後醍醐天皇ごだいごてんのうわり、ひかりげん上皇じょうこう院宣いんぜんにより豊仁とよひと親王しんのう即位そくい
96 後醍醐天皇ごだいごてんのう 光明こうみょう天皇てんのう 7親等しんとう 一世いっせい親王しんのう のべもと元年がんねん11がつ2にち(1336ねん12月5にち 後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじ和睦わぼくきょう帰還きかん三種さんしゅ神器じんぎ光明こうみょう天皇てんのうわたす。しかしのちに京都きょうと脱出だっしゅつして吉野よしのへのがれ、「光明こうみょう天皇てんのうゆずった三種さんしゅ神器じんぎ偽物にせものであり本物ほんもの神器じんぎみずからが吉野よしのってきたものである」と主張しゅちょうし、自身じしん主宰しゅさいする朝廷ちょうていひらく(南北なんぼくあさ時代じだい開始かいし)。
96 後醍醐天皇ごだいごてんのう 憲良のりよし親王しんのう だいなな皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう のべもと4ねん8がつ15にち(1339ねん9がつ18にち 南朝なんちょう天皇てんのう危篤きとくにつき譲位じょうい翌日よくじつ崩御ほうぎょ)。
(きた2) 光明こうみょう天皇てんのう 皇太子こうたいしきょうじん親王しんのう おい 一世いっせい親王しんのう 貞和さだかず4ねん10がつ27にち(1348ねん11月18にち 北朝ほくちょう譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
(きた3) たかしこう天皇てんのう 後村上天皇ごむらかみてんのう 9親等しんとう 一世いっせい親王しんのう 正平しょうへい6ねん11月7にち(1351ねん11月26にち かんおう擾乱じょうらんにより、きた朝方あさがた足利尊氏あしかがたかうじ南朝なんちょう降伏ごうぶくきた朝方あさがた皇位こうい元号げんごうともに廃止はいしされ、短期間たんきかん南北なんぼくあさ統一とういつ達成たっせいされる(正平しょうへい一統いっとう)。
(きた3) たかしこう天皇てんのう わたるひとし おとうと 一世いっせい かんおう3ねん8がつ17にち(1352ねん9がつ25にち みなみ朝方あさがた北朝ほくちょう上皇じょうこう皇太子こうたいし全員ぜんいん吉野よしの地方ちほう拉致らちしたため、正平しょうへい一統いっとう破綻はたんする。北朝ほくちょう南朝なんちょう追跡ついせきのがれたわたるじん践祚せんそされる。このとき三種さんしゅ神器じんぎうばわれ、院宣いんぜんしうる上皇じょうこう不在ふざいであったため、広義こうぎもんいん新帝しんてい祖母そぼ)が緊急きんきゅう措置そちとしててんきみとなった。
97 後村上天皇ごむらかみてんのう 皇太子こうたいし寛成かんせい親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 正平しょうへい23ねん3がつ11にち(1368ねん3がつ29にち 南朝なんちょう史料しりょう散逸さんいつによりこの時期じき南朝なんちょうについては不明ふめいてんおおく、天皇てんのう崩御ほうぎょ日付ひづけあきらかであるが皇太子こうたいし践祚せんそ不明ふめいで、生前せいぜん譲位じょうい可能かのうせいもある(立太子りったいし有無うむについても諸説しょせつある)。新帝しんてい即位そくい辞退じたいについても長年ながねん疑義ぎぎがあり、大正たいしょう14ねん(1925ねん)に政府せいふ見解けんかい即位そくい認定にんていされた。
(きた4) 後光ごこうげん天皇てんのう 皇太子こうたいしいとぐちじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう おうやす4ねん3がつ23にち(1371ねん4がつ9にち 北朝ほくちょう譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
(きた5) こう円融天皇えんゆうてんのう みきじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 弘和こうわ2ねん4がつ11にち(1382ねん5がつ24にち 北朝ほくちょう譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
98 長慶天皇ちょうけいてんのう 皇太子こうたいし熙成親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 弘和こうわ3ねんふゆ(1383ねん 南朝なんちょう譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう正確せいかく日時にちじ不明ふめい
99 こう亀山天皇かめやまてんのう こう小松こまつ天皇てんのう 12親等しんとう 一世いっせい親王しんのう 明徳めいとく3ねんうるう10がつ5にち(1392ねん11月19にち 南朝なんちょう内部ないぶこう亀山天皇かめやまてんのう即位そくい和平わへい大勢おおぜいめ、足利あしかが義満よしみつ仲介ちゅうかいによって南北なんぼくあさ合一ごういつ実現じつげん明徳めいとくやく)。両者りょうしゃあいだで「ゆずるこく」をおこない、こう亀山天皇かめやまてんのうこう小松こまつ天皇てんのう譲位じょういする。
100 こう小松こまつ天皇てんのう じつじん親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう おうなが19ねん8がつ29にち(1412ねん10がつ5にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう明徳めいとくやくによる「両統りょうとう迭立の復活ふっかつ」が反故ほごにされたことにより反発はんぱつしたきゅう南朝なんちょう勢力せいりょく一部いちぶ離反りはんし、こう南朝なんちょうとして武装ぶそう反抗はんこうおこなってゆく(南朝なんちょう勢力せいりょくかえすにいたらず、自然しぜん消滅しょうめつする)。
101 しょうこう天皇てんのう 彦仁おう 8親等しんとう さんせいおう せいちょう元年がんねん7がつ28にち(1428ねん9がつ7にち せいちょう元年がんねん7がつ20日はつか(1428ねん8がつ30にち)にたたえこう天皇てんのう後継こうけいさだめないまま崩御ほうぎょ伏見ふしみ宮家みやけの彦仁おうこう小松こまつ上皇じょうこう猶子ゆうしとなり、践祚せんそした。
102 こう花園天皇はなぞのてんのう 成仁しげひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ひろしせい5ねん7がつ19にち(1464ねん8がつ21にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
103 こう土御門天皇つちみかどてんのう かつひとし親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう あかりおう9ねん10がつ25にち(1500ねん11月16にち あかりおう9ねん9がつ28にち(1500ねん10がつ21にち)に天皇てんのう崩御ほうぎょ
104 こう柏原かしわばら天皇てんのう じん親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう だいなが6ねん4がつ29にち(1526ねん6がつ9にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
105 こう奈良なら天皇てんのう ほうひとし親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 弘治こうじ3ねん10がつ27にち(1557ねん11月17にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
106 正親町おおぎまち天皇てんのう 和仁わに親王しんのう まご せい親王しんのう 天正てんしょう14ねん11月7にち(1586ねん12月17にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
107 こう陽成ようぜい天皇てんのう 政仁まさひと親王しんのう だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 慶長けいちょう16ねん3がつ27にち(1611ねん5がつ9にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
108 後水尾天皇ごみずのおてんのう きょう内親王ないしんのう だい皇女おうじょ 一世いっせい内親王ないしんのう 寛永かんえい6ねん11月8にち(1629ねん12月22にち 徳川とくがわ幕府ばくふ朝廷ちょうていへの干渉かんしょう反発はんぱつした天皇てんのうきょう内親王ないしんのう譲位じょうい
109 明正めいせい天皇てんのう 紹仁親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 寛永かんえい20ねん10がつ3にち(1643ねん11月14にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
110 こう光明こうみょう天皇てんのう 良仁よしひと親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう うけたまわおう3ねん11月28にち(1655ねん1がつ5にち うけたまわおう3ねん9がつ20日はつか(1654ねん10がつ30にち)に天皇てんのう崩御ほうぎょ皇位こうい継承けいしょう予定よていしゃの識仁親王しんのう幼少ようしょうであったため、つなぎとして良仁よしひと親王しんのう即位そくいした。
111 こう西にし天皇てんのう 識仁親王しんのう おとうと 一世いっせい親王しんのう 寛文ひろふみ3ねん1がつ26にち(1663ねん3がつ5にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
112 れいもと天皇てんのう 皇太子こうたいし朝仁あさに親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 貞享ていきょう4ねん3がつ25にち(1687ねん5がつ6にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
113 東山ひがしやま天皇てんのう 皇太子こうたいしけいじん親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 宝永ほうえい6ねん6がつ21にち(1709ねん7がつ27にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
114 中御門天皇なかみかどてんのう 皇太子こうたいし昭仁あきひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう とおる20ねん3がつ21にち(1735ねん4がつ13にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
115 さくらまち天皇てんのう 皇太子こうたいし遐仁親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう のべとおる4ねん5がつ2にち(1747ねん6がつ9にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
116 桃園ももぞの天皇てんのう 智子さとこ内親王ないしんのう あね 一世いっせい内親王ないしんのう たかられき12ねん7がつ27にち(1762ねん9がつ15にち たかられき12ねん7がつ12にち(1762ねん8がつ31にち)に天皇てんのう崩御ほうぎょ皇位こうい継承けいしょう予定よていしゃえいじん親王しんのう幼少ようしょうのため、智子さとこ内親王ないしんのうわって即位そくい
117 こうさくらまち天皇てんのう 皇太子こうたいしえいじん親王しんのう おい 一世いっせい親王しんのう 明和めいわ7ねん4がつ28にち(1770ねん5がつ23にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
118 こう桃園ももぞの天皇てんのう けん仁王におう 7親等しんとう さんせいおう 安永やすなが8ねん11月25にち(1780ねん1がつ1にち 安永やすなが8ねん11月9にち(1779ねん12月16にち)に天皇てんのう崩御ほうぎょ継嗣けいしがいなかったため、閑院宮家みやけよりけん仁王におうこういだ。
119 ひかりかく天皇てんのう めぐみじん親王しんのう だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 文化ぶんか14ねん9がつ21にち(1817ねん10がつ31にち 譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
120 仁孝天皇にんこうてんのう 皇太子こうたいしすべじん親王しんのう だいよん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう ひろし3ねん2がつ13にち(1846ねん3がつ10日とおか 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
121 孝明天皇こうめいてんのう むつみじん親王しんのう だい皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 慶応けいおう3ねん正月しょうがつ9にち(1867ねん2がつ13にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
122 明治天皇めいじてんのう 皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう だいさん皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 明治めいじ45ねん/大正たいしょう元年がんねん(1912ねん)7がつ30にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
きゅう皇室こうしつ典範てんぱんだい10じょうおよ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい2じょうもとづく。)
123 大正天皇たいしょうてんのう 摂政せっしょうみや皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 大正たいしょう15ねん/昭和しょうわ元年がんねん(1926ねん)12月25にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
きゅう皇室こうしつ典範てんぱんだい10じょうおよ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい2じょうもとづく。)
124 昭和しょうわ天皇てんのう 皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう 昭和しょうわ64ねん(1989ねん)1がつ7にち 崩御ほうぎょによる皇位こうい継承けいしょう
皇室こうしつ典範てんぱんだい4じょうおよ日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい2じょうもとづく。)
125 上皇じょうこう明仁あきひと 皇太子こうたいしとくじん親王しんのう
今上きんじょう天皇てんのう
だいいち皇子おうじ 一世いっせい親王しんのう れい元年がんねん(2019ねん)5がつ1にち 平成へいせい31ねん(2019ねん)4がつ30にちだい125だい天皇てんのうつとめをたすことが高齢こうれいにつき困難こんなんになったこと(「象徴しょうちょうとしてのおつとめについての天皇陛下てんのうへいかのおことば」の表明ひょうめい)を理由りゆう退位たいい。これをけてだい126だい天皇てんのう即位そくい
譲位じょういによる皇位こうい継承けいしょう
天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうおよ日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい2じょうもとづく。)

各回かくかい皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき一覧いちらん異同いどうなど

編集へんしゅう

昭和しょうわ皇位こうい継承けいしょう

編集へんしゅう
儀式ぎしきめい 日時にちじ 場所ばしょ 備考びこう
けん渡御とぎょ
賢所かしこどころ
皇靈こうれい殿どの神殿しんでんたてまつ吿ノ
踐祚せんそ朝見ちょうけん
大正たいしょう15ねん(1926ねん)12月25にち315ふん 葉山はやま御用邸ごようてい
宮中きゅうちゅうさん殿どの
125ふん大正天皇たいしょうてんのう療養りょうようちゅう葉山はやま御用邸ごようていにて崩御ほうぎょただちに皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう践祚せんそし、御用邸ごようていない謁見えっけんしつにおいて践祚せんそれいおこなわれた。どう時刻じこく賢所かしこどころにててのひらてんらによってはち咫鏡への奉告ほうこくおこなわれた[11]
賢所かしこどころ期日きじつたてまつ吿ノ
皇靈こうれい殿どの神殿しんでん期日きじつたてまつ吿ノ
昭和しょうわ3ねん(1928ねん)1がつ17にち 宮中きゅうちゅうさん殿どの 大正天皇たいしょうてんのう大喪たいそうけたのち即位そくいれい日時にちじ決定けってい奉告ほうこくした[12]
神宮じんぐう神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうなみぜんみかど󠄁よんだい山陵さんりょう勅使ちょくしはつ
神宮じんぐう奉幣ほうへい
神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうなみぜんみかど󠄁よんだい山陵さんりょう奉幣ほうへい
1がつ17にち
1がつ19にち
おなじく即位そくいれい日時にちじ決定けっていを、伊勢神宮いせじんぐう神武じんむ天皇陵てんのうりょう仁孝にんこう天皇陵てんのうりょう孝明天皇こうめいてんのうりょう明治めいじ天皇陵てんのうりょう大正たいしょう天皇陵てんのうりょうにそれぞれ奉告ほうこくするため、勅使ちょくしはつつかわした。その、19にち各所かくしょ勅使ちょくしによる奉告ほうこくおこなわれた[12]
齋田さいだてんじょう 1がつ17にち 神殿しんでん かめぼくにより、このとき悠紀ゆき滋賀しがけんしゅもと福岡ふくおかけんさだめられた。
京都きょうと行幸ぎょうこう
賢所かしこどころはるきょう殿どの渡御とぎょ
11月6にち はち咫鏡が即位そくいれいわせて京都きょうと移動いどうするにあたり、御羽車おはぐるませられて出御しゅつぎょ。このとき天皇てんのう皇后こうごう内庭うちにわ拝礼はいれいした(にわ上下じょうげ)。その天皇てんのう皇后こうごうてん叢雲むらくもけんはちしゃく瓊勾だまとともに列車れっしゃ乗車じょうしゃかがみ賢所かしこどころじょう御車みくるまおさめられて東京とうきょうえき出発しゅっぱつ名古屋なごや一泊いっぱくしたのち7にち14京都きょうとえき到着とうちゃくかがみは1530ふん京都きょうと御所ごしょうちはるきょう殿どの渡御とぎょした。渡御とぎょさいしてあらためて祭典さいてんおこなわれた[13]
卽位そくいれい當日とうじつ賢所かしこどころ大前おおまえ
卽位そくいれい當日とうじつ皇靈こうれい殿どの神殿しんでんたてまつ吿ノ
11月10にち9 はるきょう殿どの 天皇てんのうみずから、同日どうじつ即位そくいはち咫鏡に奉告ほうこくした[14]
卽位そくいれい當日とうじつ紫宸殿ししんでん 午後ごご 紫宸殿ししんでん 天皇てんのう即位そくい宣言せんげんした[14]
卽位そくいれいいちにち賢所かしこどころ御神樂みかぐら 11月11にち午後ごご 紫宸殿ししんでん はるきょう殿どのにて神楽かぐら奉納ほうのうされた[15]
みそぎ大祓おおはらい 11月12にち 大嘗祭だいじょうさい2にちまえにあたり、天皇てんのう奉仕ほうし職員しょくいんきょう進物しんもつはらきよめた[15]
神宮じんぐう皇靈こうれい殿どの神殿しんでんなみかん國幣社こくへいしゃ勅使ちょくしはつ 11月12にち
大嘗祭だいじょうさいまえいちにち鎭魂ちんこん 11月13にち
大嘗祭だいじょうさいだい嘗宮ノ 11月14にち-15にち 仙洞せんとう御所ごしょ [16]
卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさいだいきょうだいいちにち
卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさいだいきょうだいにち
卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさい大饗おわい夜宴やえん
卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさい神宮じんぐうおや謁ノ
卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさい神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうなみぜんみかど󠄁よんだい山陵さんりょうおや謁ノ
天皇てんのうみずから、即位そくい奉告ほうこくした[17]
  • 伊勢神宮いせじんぐう - 20日はつか外宮げくう)、21にち内宮ないくう
  • 神武じんむ天皇陵てんのうりょう - 23にち
  • 仁孝天皇にんこうてんのう - 24にち
  • 孝明天皇こうめいてんのう - 24にち
  • 明治天皇めいじてんのう - 25にち
  • 大正天皇たいしょうてんのう - 29にち東京とうきょう還幸かんこう
東京とうきょう還御かんぎょ
賢所かしこどころぬるあきら殿どの還御かんぎょ
東京とうきょう還幸かんこう賢所かしこどころ御神樂みかぐら
還幸かんこう皇靈こうれい殿どの神殿しんでんおや謁ノ
天皇てんのう皇后こうごう神器じんぎは26にち京都きょうとはつ名古屋なごやで1はくのち27にち東京とうきょう還御かんぎょ。ただちに賢所かしこどころにおいてはち咫鏡の還御かんぎょおこなわれ、天皇てんのう拝礼はいれい御神楽みかぐら深夜しんやまで奉納ほうのうされた[18]

平成へいせい皇位こうい継承けいしょう

編集へんしゅう
儀式ぎしきめい 日時にちじ 場所ばしょ 備考びこう
けん璽等承継しょうけい 昭和しょうわ64ねん(1989ねん
1がつ7にち10
皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ 昭和しょうわ64ねん(1989ねん)1がつ7にち午前ごぜん633ふん昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょ。これをけて、皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう践祚せんそした[19]
賢所かしこどころ 10 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの てのひらてんちょうはち咫鏡にだいはい告文こくぶんそうした[20]。なお、前例ぜんれいにより、よく8にち、9にちにもそれぞれどうかえされた(告文こくぶんはなし)[21]
皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく 10 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの 賢所かしこどころじゅんじておこなわれた[21]。なお、前例ぜんれいにより、よく8にち、9にちにもそれぞれどうかえされた(告文こくぶんはなし)[21]
即位そくい朝見ちょうけん 平成へいせい元年がんねん(1989ねん
1がつ9にち11
皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ [22]
賢所かしこどころ期日きじつ奉告ほうこく
皇霊こうれい殿どの神殿しんでん期日きじつ奉告ほうこく
平成へいせい2ねん(1990ねん
1がつ23にち11
皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの 天皇てんのうみずか告文こくぶん即位そくいれいおよび大嘗祭だいじょうさい期日きじつ奉告ほうこくした[23]
神宮じんぐう神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうおよぜんよんだい天皇てんのう山陵さんりょう勅使ちょくしはつ 14 皇居こうきょ正殿せいでんちくあいだ [24]
神宮じんぐう奉幣ほうへい 1がつ25にち7
14
神宮じんぐう外宮げくう
神宮じんぐう内宮ないくう
[25]
神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい 1がつ25にち945ふん 神武じんむ天皇陵てんのうりょう [26]
昭和しょうわ天皇てんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい 945ふん 昭和しょうわ天皇陵てんのうりょう [27]
孝明天皇こうめいてんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい 945ふん 孝明天皇こうめいてんのうりょう [27]
明治天皇めいじてんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい 1345ふん 明治めいじ天皇陵てんのうりょう [28]
大正天皇たいしょうてんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい 1345ふん 大正たいしょう天皇陵てんのうりょう [28]
斎田さいだてんじょう 2がつ8にち10 神殿しんでんぜんときにわ 今回こんかい大嘗祭だいじょうさい前回ぜんかいまでの京都きょうとから東京とうきょう変更へんこうされたため、東日本ひがしにっぽん西日本にしにほん境界きょうかいせん変更へんこう新潟にいがた長野ながの静岡しずおかの3けんふく東側ひがしがわ18都道とどうけん東日本ひがしにっぽん、それより西にし29府県ふけん西日本にしにほんとしてあつかった。また、祭具さいぐ入手にゅうしゅ困難こんなんであったため方法ほうほう変更へんこう検討けんとうされたが、最終さいしゅうてき先例せんれいにのっとった方法ほうほうおこなわれた。かめぼく結果けっか悠紀ゆきこく秋田あきたけんしゅ基国もとくに大分おおいたけんとなった[29]
だい嘗宮地鎮祭じちんさい 8がつ2にち10 皇居こうきょひがし御苑ぎょえん 大嘗祭だいじょうさいあらたに東京とうきょうおこなうにあたり、だい嘗宮造営ぞうえい皇居こうきょひがし御苑ぎょえん江戸城えどじょう本丸ほんまる御殿ごてん跡地あとち)に決定けってい造営ぞうえい先立さきだち、樹木じゅもくすうほん移植いしょく整地せいちおこなった[30]
斎田さいだ抜穂まえいちにち大祓おおはらい 9月27にち15悠紀ゆき
10月9にち15しゅもと
斎田さいだ付近ふきん河川敷かせんしき [31]
斎田さいだ抜穂の 9月28にち10悠紀ゆき
10がつ10日とおか10しゅもと
斎田さいだ 今回こんかい斎田さいだ決定けっていおくれたため、一部いちぶ施設しせつ天幕てんまくりとせざるをなかった。また、大分おおいたけんいね収穫しゅうかく通常つうじょう10がつ下旬げじゅんであったが、このとし大嘗祭だいじょうさいきょうする都合つごうじょう時期じきげて耕作こうさくおこなった[32]
悠紀ゆきしゅもとりょう地方ちほう新穀しんこくきょうおさめ 10月25にち920ふん だい嘗宮とき とき施設しせつよりもさき完成かんせいさせた[33]
即位そくいれい当日とうじつ賢所かしこどころ大前おおまえ 11月12にち9 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの 場所ばしょ先例せんれい京都きょうと御所ごしょ)とことなることを勘案かんあんし、にわじょう奉仕ほうししゃはぶいた[34]
即位そくいれい当日とうじつ皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく 9 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの 先例せんれいでは天皇てんのう京都きょうとにいるため、勅使ちょくし祭文さいぶん奏上そうじょうしていたが、今回こんかい天皇てんのうみずからこれをおこなった[35]
即位そくいれい正殿せいでん 13 皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ[36] 先例せんれい京都きょうと御所ごしょ紫宸殿ししんでんとは構造こうぞうことなるため、以下いか変更へんこうとうおこなわれた。
  • 天皇てんのう皇族こうぞく出御しゅつぎょおよび還御かんぎょどうせん変更へんこうされた[37]
  • 高御座たかみくらおよびとばりだい近接きんせつさせたため、左右さゆう階段かいだんはずされた[38]
  • 正殿せいでん前庭ぜんてい装飾そうしょくおよ参列さんれつしゃはいりきらないため、前庭ぜんていめんする春秋しゅんじゅうあいだ豊明とよあき殿どのなか座席ざせき増設ぞうせつした[39]
祝賀しゅくがれつ 皇居こうきょ-赤坂あかさか御所ごしょ あらたにもうけられた儀式ぎしき。この時期じき天皇てんのう皇后こうごう即位そくいまえ東宮御所とうぐうごしょ赤坂あかさか用地ようちうち即位そくいは「赤坂あかさか御所ごしょ」)につづ居住きょじゅうしており、執務しつむなどのたびに皇居こうきょとのあいだ往復おうふくしていた。この即位そくいれい以降いこう一旦いったん赤坂あかさか御所ごしょもどることになっており、おおくの国民こくみん奉祝ほうしゅく見送みおくりに道中どうちゅうあらわれることが想定そうていされたため、たんなる移動いどうでなく、パレード形式けいしきでの移動いどうとすることとした。このため、経路けいろ通常つうじょう往復おうふく変更へんこうさせたうえで、皇太子こうたいし内閣ないかく総理そうり大臣だいじんなどをふくだい規模きぼ車列しゃれつみ、通常つうじょう車列しゃれつよりもてい速度そくど移動いどうした。結果けっか奉祝ほうしゅくしゃやく12まんにんのぼった。また、東京とうきょう沿道えんどうおよび中央ちゅうおう分離ぶんりたい菊花きっか1まんかぶえた[40]
即位そくいれいいちにち賢所かしこどころ御神楽みかぐら
→ 実施じっしせず
即位そくいによる臨時りんじ神楽かぐらであったが、先例せんれい検討けんとうした結果けっかはち咫鏡が東京とうきょうから京都きょうと渡御とぎょしたことにともな儀式ぎしきであったため、今回こんかい渡御とぎょおこなわれていないことにより、ほんおこなわれないこととなった[41]
饗宴きょうえん 11月12にちより 皇居こうきょ正殿せいでん 従来じゅうらい即位そくいれいともなうたげ大嘗祭だいじょうさいのちに「大饗おわいおこなわれていたが、今回こんかい即位そくいれいから大嘗祭だいじょうさいまでの期間きかん10日とおかながく、即位そくいれい列席れっせきした各国かっこく要人ようじん大嘗祭だいじょうさいまえ帰国きこくしてしまうため(昭和しょうわ大礼たいれい即位そくいれいから大嘗祭だいじょうさいまで4にちで、外国がいこく要人ようじんはそのあいだ京都きょうと滋賀しが周辺しゅうへん政府せいふのもてなしをけていた)、つづおこなわれるだいきょうとはべつに、あらたにもうけられた。けい7かい[42]
外国がいこく国王こくおう王族おうぞくとの会見かいけん 11月13にち10 赤坂あかさか用地ようちない 天皇てんのう皇后こうごうおよび一部いちぶ皇族こうぞく赤坂あかさか御所ごしょづるあいだにおいて、国王こくおうおよびその配偶はいぐうしゃ挨拶あいさついでひのきあいだ歓談かんだんした[43]どう時刻じこく皇太子こうたいしとくじん親王しんのうおよび一部いちぶ皇族こうぞく東宮とうぐうかり御所ごしょ西にしあいだにおいて、その王族おうぞく挨拶あいさつ歓談かんだんした[43]
園遊会えんゆうかい 1430ふん 赤坂御苑あかさかぎょえん 祝賀しゅくが使節しせつまねいておこなわれた[44]
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん夫妻ふさい主催しゅさい晩餐ばんさんかい 18 都内とないホテル 海部かいふ俊樹としき内閣ないかく総理そうり大臣だいじん夫妻ふさい主催しゅさいによる晩餐ばんさんかいおこなわれた(天皇てんのう皇后こうごうほか皇族こうぞく出席しゅっせきせず)[45]
神宮じんぐう勅使ちょくしはつ 11月16にち10 皇居こうきょ宮殿きゅうでんちくあいだ [46]
一般いっぱん参賀さんが 11月18にち 宮殿きゅうでんひがしにわ 午前ごぜん3かい午後ごご5かい参賀さんがしゃは、皇宮警察こうぐうけいさつ発表はっぴょうで10まん9800にん[47]
大嘗祭だいじょうさいぜん二日ふつかみそぎ 11月20にち14 宮殿きゅうでんちくあいだ [48]
大嘗祭だいじょうさいまえにち大祓おおはらい 15 皇居こうきょじゅうきょう鉄橋てっきょう付近ふきん 通常つうじょう大祓おおはらいかみよしみ殿どの前庭ぜんていで6がつ30にちと12月31にちおこなわれているが、先例せんれい考慮こうりょうえ場所ばしょえらばれた[49]
大嘗祭だいじょうさいまえいち日大にちだい嘗宮地鎮祭じちんさい 11月21にち14 だい嘗宮 [50]
大嘗祭だいじょうさいまえいちにち鎮魂ちんこん 17 あやあやぎぬ殿どの宮中きゅうちゅう三殿みどの構内こうない [51]
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ神宮じんぐう奉幣ほうへい 11月22にち730ふん
14
神宮じんぐう外宮げくう
神宮じんぐう内宮ないくう
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ賢所かしこどころだい饌供しん
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく
945ふん 宮中きゅうちゅうさん殿どの [52]
だい嘗宮の 22にちゆう-23にち未明みめい だい嘗宮
大嘗祭だいじょうさいいち日大にちだい嘗宮鎮祭 11月24にち830ふん だい嘗宮 [53]
だいきょう 11月24にち、25にち 皇居こうきょ豊明とよあき殿どの [54]
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい神宮じんぐうしん謁の 11月27にち1030にち
28にち10
神宮じんぐう外宮げくう
神宮じんぐう内宮ないくう
天皇てんのう皇后こうごうは11月26にち伊勢いせ行幸ぎょうこうした。
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうしん謁の 12月2にち1050ふん 神武じんむ天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい孝明天皇こうめいてんのう山陵さんりょうしん謁の 1410ふん 孝明天皇こうめいてんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい明治天皇めいじてんのう山陵さんりょうしん謁の 12月3にち1030ふん 明治めいじ天皇陵てんのうりょう
茶会ちゃかい 14 京都きょうと御所ごしょ 京都きょうとでの即位そくいれいときぎょうへの要望ようぼうおおかったことから、天皇てんのう皇后こうごう京都きょうと滞在たいざいちゅうにあわせておこなわれた。
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい昭和しょうわ天皇てんのう山陵さんりょうしん謁の 12月5にち11 昭和しょうわ天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい大正天皇たいしょうてんのう山陵さんりょうしん謁の 1140ふん 大正たいしょう天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい賢所かしこどころしん謁の
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい皇霊こうれい殿どの神殿しんでんしん謁の
12月6にち10 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい賢所かしこどころ御神楽みかぐら 1630ふん 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
大嘗祭だいじょうさいだい嘗宮地鎮祭じちんさい 平成へいせい3ねん(1991ねん
2がつ14にち10
大嘗祭だいじょうさい なお、だい嘗宮は1990ねん11月29にちから12月16にちまで一般いっぱん参観さんかん許可きょかしたのち、壊却、ざい適宜てきぎ処理しょりされた(先例せんれいでは鴨川かもがわ河原かわらにすべてはこんでたてまつやかしていたが、現行げんこう法規ほうきではできないため一部いちぶ主要しゅよう部分ぶぶん材木ざいもくえらび、2がつ4にちたてまつやかした)。

れい皇位こうい継承けいしょう

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今次こんじの125かいにあたる皇位こうい継承けいしょうは、ひかりかく天皇てんのうから仁孝天皇にんこうてんのうへの皇位こうい継承けいしょう以来いらいやく200ねんぶりに、譲位じょういによっておこなわれたものである。

儀式ぎしきめい 日時にちじ 場所ばしょ 備考びこう
退位たいいれい正殿せいでん 平成へいせい31ねん(2019ねん
4がつ30にち17
皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ だい125だい天皇てんのう 明仁あきひと による象徴しょうちょうとしてのおつとめについての天皇陛下てんのうへいかのおことば表明ひょうめいおよ天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう施行しこうにより、天皇てんのう生前せいぜん皇位こうい退しりぞく(譲位じょうい)にあたりおこなわれた。
けん璽等承継しょうけい れい元年がんねん(2019ねん
5月1にち1030ふん
皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ 同日どうじつ午前ごぜん0をもって皇太子こうたいしとくじん親王しんのう践祚せんそしてだい126だい天皇てんのう即位そくい元号げんごうほうもとづき「平成へいせい」から「れい」への改元かいげんがなされた。
退位たいい譲位じょうい)したぜん天皇てんのう明仁あきひと上皇じょうこうとなった。
賢所かしこどころ
皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく
1030ふん 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
即位そくい朝見ちょうけん 1110ふん 皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ
一般いっぱん参賀さんが 5月4にち 宮殿きゅうでんひがしにわ 午前ごぜん2かい午後ごご4かい当初とうしょ先例せんれいしたが即位そくいれいのちおこなわれる予定よていであったが、今回こんかい諒闇りょうあんがなかったことから、時期じきげて皇位こうい継承けいしょう直後ちょくごおこなわれた。
賢所かしこどころ期日きじつ奉告ほうこく
皇霊こうれい殿どの神殿しんでん期日きじつ奉告ほうこく
5月8にち 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
神宮じんぐう神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうおよ昭和しょうわ天皇てんのう以前いぜんよんだい天皇てんのう山陵さんりょう勅使ちょくしはつ 5月8にち 皇居こうきょ宮殿きゅうでんちくあいだ
神宮じんぐう奉幣ほうへい
神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうおよ昭和しょうわ天皇てんのう以前いぜんよんだい天皇てんのう山陵さんりょう奉幣ほうへい
5がつ10日とおか
斎田さいだてんじょう 5月13にち 神殿しんでんぜんときにわ かめぼく結果けっか悠紀ゆきこく栃木とちぎけんしゅ基国もとくに京都きょうととなった[29]
だい嘗宮地鎮祭じちんさい 7がつ26にち 皇居こうきょひがし御苑ぎょえん
即位そくいれい当日とうじつ賢所かしこどころ大前おおまえ
即位そくいれい当日とうじつ皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく
10月22にち9 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
即位そくいれい正殿せいでん 13 皇居こうきょ正殿せいでんまつあいだ
祝賀しゅくがれつ→ 延期えんき 1530ふん 皇居こうきょ-赤坂あかさか御所ごしょ れい元年がんねん東日本ひがしにっぽん台風たいふう台風たいふう19ごう)による災害さいがいともない、被災ひさいでの対応たいおう優先ゆうせんするため、11月10にち延期えんきされた。
饗宴きょうえん 10月22にち、25にち、29にち、31にち 皇居こうきょ 立食りっしょく形式けいしきれるとうにより、けい4かいげんじた。
外国がいこく国王こくおう王族おうぞくとの会見かいけん 10月23にち 赤坂あかさか御所ごしょ 前回ぜんかいくらべて皇族こうぞく人数にんずう減少げんしょうしたため、国王こくおう夫妻ふさいせっぐうとその王族おうぞくせっぐう分離ぶんりせず、まとめてせっぐうした。
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん夫妻ふさい主催しゅさい晩餐ばんさんかい 10月23にち18 都内とないホテル 安倍晋三あべしんぞう内閣ないかく総理そうり大臣だいじん夫妻ふさい主催しゅさいによる晩餐ばんさんかいおこなわれた(天皇てんのう皇后こうごうほか皇族こうぞく出席しゅっせきせず)。
神宮じんぐう勅使ちょくしはつ 11月8にち 皇居こうきょ宮殿きゅうでんちくあいだ
国民こくみん祭典さいてん 11月9にち 皇居こうきょぜん広場ひろば 民間みんかん行事ぎょうじ天皇てんのう皇后こうごう皇居こうきょ正門せいもんより出御しゅつぎょした。
祝賀しゅくがれつ 11月10にち15 皇居こうきょ-赤坂あかさか御所ごしょ
大嘗祭だいじょうさいぜん二日ふつかみそぎ 11月12にち14 宮殿きゅうでんちくあいだ
大嘗祭だいじょうさいまえにち大祓おおはらい 15 皇居こうきょじゅうきょう鉄橋てっきょう付近ふきん 皇族こうぞく代表だいひょうしてせいじん親王しんのう列席れっせきした。
大嘗祭だいじょうさいまえいち日大にちだい嘗宮地鎮祭じちんさい 11月13にち14 だい嘗宮
大嘗祭だいじょうさいまえいちにち鎮魂ちんこん 17 あやあやぎぬ殿どの宮中きゅうちゅう三殿みどの構内こうない
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ神宮じんぐう奉幣ほうへい 11月14にち730ふん
14
神宮じんぐう外宮げくう
神宮じんぐう内宮ないくう
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ賢所かしこどころだい饌供しん
大嘗祭だいじょうさい当日とうじつ皇霊こうれい殿どの神殿しんでん奉告ほうこく
945ふん 宮中きゅうちゅうさん殿どの
だい嘗宮の 14にちゆう-15にち未明みめい だい嘗宮
大嘗祭だいじょうさいいち日大にちだい嘗宮鎮祭 11月16にち830ふん だい嘗宮
だいきょう 11月16にち、18にち 皇居こうきょ豊明とよあき殿どの
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい神宮じんぐうしん謁の 11月22にち1030ふん
23にち10
神宮じんぐう外宮げくう
神宮じんぐう内宮ないくう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい神武じんむ天皇てんのう山陵さんりょうしん謁の 11月27にち1050ふん 神武じんむ天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい孝明天皇こうめいてんのう山陵さんりょうしん謁の 1410ふん 孝明天皇こうめいてんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい明治天皇めいじてんのう山陵さんりょうしん謁の 11月28にち1030ふん 明治めいじ天皇陵てんのうりょう
茶会ちゃかい 14 京都きょうと御所ごしょ
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい昭和しょうわ天皇てんのう山陵さんりょうしん謁の 12月3にち 昭和しょうわ天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい大正天皇たいしょうてんのう山陵さんりょうしん謁の 12月3にち 大正たいしょう天皇陵てんのうりょう
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい賢所かしこどころしん謁の
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい皇霊こうれい殿どの神殿しんでんしん謁の
12月4にち 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
即位そくいれいおよ大嘗祭だいじょうさい賢所かしこどころ御神楽みかぐら 12月4にち 皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの
大嘗祭だいじょうさいだい嘗宮地鎮祭じちんさい れい2ねん(2020ねん

2がつ28にち

だい嘗宮

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 2023‐3‐10 255‐264ぺーじ
  2. ^ 真弓まゆみ, pp. 169–171.
  3. ^ 真弓まゆみ, p. 170.
  4. ^ 真弓まゆみ, p. 171.
  5. ^ 真弓まゆみ, pp. 170–172.
  6. ^ 卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 342ぺーじ
  7. ^ 卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 272ぺーじ
  8. ^ 「ヤマト王権おうけん岩波いわなみ新書しんしょ2010 44-46
  9. ^ 天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれい法案ほうあんたいする附帯ふたい決議けつぎ』にかんする有識者ゆうしきしゃ会議かいぎ ヒアリング説明せつめい資料しりょう 松本まつもと久史ひさし國學院大學こくがくいんだいがく教授きょうじゅ資料しりょう5(松本まつもと説明せつめい資料しりょう) 3ぺーじ
  10. ^ 卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 2023‐3‐10 255‐264ぺーじ
  11. ^ 真弓まゆみ, pp. 12–13.
  12. ^ a b 真弓まゆみ, p. 14.
  13. ^ 真弓まゆみ, p. 15-18.
  14. ^ a b 真弓まゆみ, p. 18.
  15. ^ a b 真弓まゆみ, p. 19.
  16. ^ 真弓まゆみ, pp. 20–22.
  17. ^ 真弓まゆみ, pp. 22–23.
  18. ^ 真弓まゆみ, p. 23.
  19. ^ 鎌田かまた, p. 22.
  20. ^ 鎌田かまた, p. 27.
  21. ^ a b c 鎌田かまた, p. 30.
  22. ^ 鎌田かまた, p. 35.
  23. ^ 鎌田かまた, p. 56.
  24. ^ 鎌田かまた, p. 62.
  25. ^ 鎌田かまた, p. 68.
  26. ^ 鎌田かまた, p. 70.
  27. ^ a b 鎌田かまた, p. 71.
  28. ^ a b 鎌田かまた, p. 72.
  29. ^ a b 鎌田かまた, pp. 73–74.
  30. ^ 鎌田かまた, p. 83.
  31. ^ 鎌田かまた, p. 87.
  32. ^ 鎌田かまた, pp. 90–95.
  33. ^ 鎌田かまた, p. 96.
  34. ^ 鎌田かまた, p. 100.
  35. ^ 鎌田かまた, p. 106.
  36. ^ 鎌田かまた, p. 108.
  37. ^ 鎌田かまた, p. 114.
  38. ^ 鎌田かまた, pp. 114–115.
  39. ^ 鎌田かまた, pp. 116–117.
  40. ^ 鎌田かまた, pp. 128–132.
  41. ^ 鎌田かまた, pp. 132–133.
  42. ^ 鎌田かまた, p. 134.
  43. ^ a b 鎌田かまた, p. 150.
  44. ^ 鎌田かまた, p. 152.
  45. ^ 鎌田かまた, p. 155.
  46. ^ 鎌田かまた, p. 156.
  47. ^ 鎌田かまた, p. 160.
  48. ^ 鎌田かまた, p. 161.
  49. ^ 鎌田かまた, p. 163.
  50. ^ 鎌田かまた, p. 165.
  51. ^ 鎌田かまた, p. 168.
  52. ^ 鎌田かまた, pp. 174, 177.
  53. ^ 鎌田かまた, p. 240.
  54. ^ 鎌田かまた, p. 243.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鎌田かまた純一じゅんいち平成へいせい大禮たいれいようはなしにしきせいしゃ、2003ねん7がつ30にちISBN 4-7646-0262-8 
  • 佐々木ささききよし使天皇てんのうれい皇位こうい継承けいしょう儀礼ぎれい』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2010ねんISBN 9784404038173
  • 真弓まゆみ常忠じょうちゅう大嘗祭だいじょうさいちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2019ねんISBN 978-4-480-09919-8 
  • 寺沢てらさわかおる卑弥呼ひみことヤマト王権おうけん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ 2023‐3‐10

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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