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大正天皇 - Wikipedia

大正天皇たいしょうてんのう

日本にっぽんだい123だい天皇てんのう (1879-1926)

大正天皇たいしょうてんのう(たいしょうてんのう、1879ねん明治めいじ12ねん8がつ31にち - 1926ねん大正たいしょう15ねん12月25にち)は、日本にっぽんだい123だい天皇てんのう在位ざいい: 1912ねん明治めいじ45ねん大正たいしょう元年がんねん7がつ30にち - 1926ねん大正たいしょう15ねん12月25にち)。いみなよしみひとし(よしひと)、称号しょうごうあきらみや(はるのみや)。しるしことぶき(じゅ)[2]

大正天皇たいしょうてんのう
大正天皇
1912ねん大正たいしょう元年がんねん撮影さつえい

在位ざいい期間きかん
1912ねん7がつ30にち - 1926ねん12月25にち
明治めいじ45ねん7がつ30にち - 大正たいしょう15ねん12月25にち
即位そくいれい即位そくいれい紫宸殿ししんでん
1915ねん大正たいしょう4ねん11月10にち
京都きょうと御所ごしょ
即位そくいれい大饗おわい
1915ねん大正たいしょう4ねん11月16にち11月17にち
じょう離宮りきゅう
大嘗祭だいじょうさい 1915ねん大正たいしょう4ねん11月14にち15にち
大宮おおみや御所ごしょ[1]だい嘗宮
元号げんごう 大正たいしょう: 1912ねん7がつ30にち - 1926ねん12月25にち
摂政せっしょう 皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう(1921ねん11月25にち - 1926ねん12月25にち
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
先代せんだい 明治天皇めいじてんのう
次代じだい 昭和しょうわ天皇てんのう

誕生たんじょう 1879ねん明治めいじ12ねん8がつ31にち
午前ごぜん812ふん
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう赤坂あかさかげん東京とうきょうみなともと赤坂あかさか青山あおやま御所ごしょ
崩御ほうぎょ 1926ねん大正たいしょう15ねん12月25にち
午前ごぜん125ふん(47さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 神奈川かながわけん三浦みうらぐん葉山はやままち 葉山はやま御用邸ごようてい
大喪たいそう 1927ねん昭和しょうわ2ねん2がつ8にち
新宿しんじゅく御苑ぎょえん
りょうしょ 多摩たまりょう東京とうきょう八王子はちおうじ長房ながぶさまち
追号ついごう 大正天皇たいしょうてんのう
1927ねん昭和しょうわ2ねん)1がつ19にち追号ついごうみことのりじょう
いみな よしみひとし(よしひと)
称号しょうごう あかりみや(はるのみや)
しるし ことぶき(じゅ)
父親ちちおや 明治天皇めいじてんのう
母親ははおや 柳原やなぎはら愛子あいこ
皇后こうごう 貞明皇后ていめいこうごう九条くじょう節子せつこ
1900ねん明治めいじ33ねん5がつ10日とおか 結婚けっこん
子女しじょ すすむみや裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう
あつしみや雍仁親王やすひとしんのう秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう
ひかりみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう
きよしみやたかしじん親王しんのう三笠みかさみやたかしじん親王しんのう
皇嗣こうし 皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう
皇居こうきょ 宮城みやぎ
栄典えいてん だいくん
学歴がくれき 学習がくしゅういん中等ちゅうとう中途ちゅうと退学たいがく
親署しんしょ 大正天皇の親署
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1879ねん明治めいじ12ねん8がつ31にち誕生たんじょう明治天皇めいじてんのう唯一ゆいいつ成人せいじんしたすめらぎ男子だんし三男さんなん)である。

今上きんじょう天皇てんのうだい126だい天皇てんのうとくひとし)の祖父そふである。

生誕せいたんより病弱びょうじゃく幾度いくど大病たいびょうかかった。幼年ようねん個人こじん授業じゅぎょうのち学習がくしゅういん初等しょとう途中とちゅう入学にゅうがくするが、発達はったつおくれから中等ちゅうとう1ねん中途ちゅうと退学たいがく。8さいもうかきみ、11さい皇太子こうたいしとなる。皇太子こうたいし選定せんていにおける混乱こんらん大正天皇たいしょうてんのう婚約こんやく解消かいしょう事件じけん)を九条くじょう節子せつこ結婚けっこんし、昭和しょうわ天皇てんのうをはじめ4にん皇子おうじすめらぎ男子だんし)をもうけた。また、皇太子こうたいし時代じだいには沖縄おきなわけんのぞかく道府県どうふけんめぐけいしたほか、1907ねん明治めいじ40ねん)には史上しじょうはつ皇太子こうたいし海外かいがい渡航とこうとして大韓たいかん帝国ていこく訪問ほうもんした。1912ねん明治めいじ45ねん大正たいしょう元年がんねん7がつ30にちちち明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょともなだい123だい天皇てんのう即位そくい憲政けんせい史上しじょうおよ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたはじめて皇位こうい継承けいしょうした。生誕せいたんまもなくずいまくえんわずらっており、その健康けんこうもどしていたが、即位そくいしき翌年よくねんごろから健康けんこう状態じょうたい悪化あっかし、公務こうむのみならず日常にちじょう生活せいかつにも支障ししょうきたすようになる[3]1920ねん大正たいしょう9ねん以降いこう病状びょうじょう公表こうひょうされ世間せけんられるところになり、1921ねん大正たいしょう10ねん)、長男ちょうなん皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう摂政せっしょう就任しゅうにんし、療養りょうよう生活せいかつはいった。しかし、その体調たいちょう回復かいふくせず、1926ねん大正たいしょう15ねん昭和しょうわ元年がんねん)のれの12月25にち肺炎はいえんともな心臓麻痺しんぞうまひ[4]のため、47さい崩御ほうぎょ

生涯しょうがい

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誕生たんじょう

編集へんしゅう

1879ねん明治めいじ12ねん8がつ31にち午前ごぜん812ふん東京とうきょう青山あおやま御所ごしょ御産おさんしょで、明治天皇めいじてんのうだいさん皇子おうじすめらぎ男子だんし)として誕生たんじょう生母せいぼけん典侍てんじ柳原やなぎはら愛子あいこ[5][6]9月6にちあきらみやよしみじん親王しんのう(はるのみやよしひとしんのう)と命名めいめいされる[7]よしみじんは、詩経しきょうの「けいしか威儀いぎやわらよしみなんじ威儀いぎけいみ、やわらよしみならざることなかれ)」(治者ちしゃ心得こころえとして、みずからの威儀いぎただして、柔和にゅうわ善良ぜんりょうでいなさい、といった)からとられた[8]

出産しゅっさん体調たいちょうわるかった柳原やなぎはら愛子あいこヒステリーこし、かつ難産なんざんとなり、よしみじん親王しんのう全身ぜんしん発疹はっしんがある虚弱きょじゃく状態じょうたいまれた[9]明治天皇めいじてんのう外祖父がいそふ中山なかやま忠能ただやす皇子おうじ世話せわ任命にんめいされ、漢方かんぽう浅田あさだ宗伯そうはく今村いまむらりょうあんおかきりかげ治療ちりょうにあたった[10]。しかし9がつから11がつにかけて断続だんぞくてき嘔吐おうと痙攣けいれん(けいれん)などにおそわれ、かなり危険きけん状態じょうたいおちいった[11]

少年しょうねん時代じだい

編集へんしゅう
 
1892ねん明治めいじ25ねん)、13さい当時とうじ皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう
 
合田あいだきよしさくどう版画はんが大正天皇たいしょうてんのう」1900ねん

伝統でんとうしたが里子さとごとして12月に中山なかやま忠能ただやすていうつる。しかし、忠能ただやすとそのつま愛子あいこよしみじん親王しんのう養育よういくまったやくにたず、祖母そぼであり、当時とうじ中山ちゅうざんていんでいた中山なかやま慶子けいこ中心ちゅうしん親王しんのう養育よういくおこなわれた。慶子けいこは「だい奉公ほうこう」として親王しんのう世話せわ没頭ぼっとうしたが、親王しんのう健康けんこうはなかなかくならなかった。主治医しゅじいとなった浅田あさだ宗伯そうはく慶子けいこ相談そうだんし、つよ漢方薬かんぽうやくあたま荒療治あらりょうじおこなった結果けっか体調たいちょう改善かいぜんし、3さいになりようやくあるけるようになった[12]

1883ねん明治めいじ16ねん)から勘解由小路かげゆこうじせいみや内省ないせい御用ごようかけとして『ようがく綱要こうよう』などの講読こうどく習字しゅうじ開始かいしする[13]。1885ねん明治めいじ18ねん)3がつ中山なかやまていから青山あおやま御所ごしょ赤坂あかさかかり皇居こうきょないしん御殿ごてんうつった[14]小学校しょうがっこう入学にゅうがく年齢ねんれいになっても病気びょうきがちのため、青山あおやま御所内ごしょうち学問がくもんしょつく個人こじん授業じゅぎょうおこなうこととなり、湯本ゆもと武比古たけひこ傅育ふいくかん教育きょういくがかり)に任命にんめいされた[15]。しかし規則きそくしばられることをきら性格せいかくから、授業じゅぎょう内容ないようらないと授業じゅぎょうそのものをしてしまうことがあった[16]

1887ねん明治めいじ20ねん)8がつ31にちまん8さいになったのをもうかきみかつ、美子よしこ皇后こうごう実子じっしさだめられる[17]同年どうねん9がつから学習がくしゅういん予備よび(のちの初等しょとう)にかよはじめた[18][注釈ちゅうしゃく 1]が、1888ねん明治めいじ21ねん)は病気びょうきがちで、4がつから百日咳ひゃくにちぜきにかかり学校がっこうを3かげつやす留年りゅうねんした。このころ学業がくぎょう成績せいせきは、修身しゅうしん読書どくしょ作文さくぶん実物じつぶつ理科りか)・習字しゅうじ遊戯ゆうぎ体育たいいく)がおおむ良好りょうこうだった一方いっぽう唱歌しょうか平均へいきんてきで、数学すうがくくなかった[20]

皇太子こうたいし時代じだい

編集へんしゅう
 
1890ねん皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう飛鳥山あすかやま公園こうえん

1889ねん明治めいじ22ねん)2がつ青山あおやま御所ごしょから赤坂あかさか離宮りきゅううち東宮御所とうぐうごしょ(「はな御殿ごてん」とばれた)にうつる。同年どうねん11がつ3にち立太子りったいしれいおこなわれ皇太子こうたいしになるとともに、陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん[21]だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょうあたえられた[22]立太子りったいし皇太子こうたいし教育きょういく体制たいせい軍事ぐんじしょくつよまり、1891ねん明治めいじ24ねん)には東宮とうぐう武官ぶかんちょう設置せっちされおく保鞏やすかた陸軍りくぐん少将しょうしょう就任しゅうにんし、おく翌年よくねん1がつ東宮とうぐう大夫たいふ兼務けんむまわりの世話せわから女官にょかん排除はいじょされたが、軍人ぐんじんかこまれる生活せいかつ皇太子こうたいし次第しだい精神せいしんてき肉体にくたいてき不安定ふあんていとなっていった[23]

1891ねん11月、軍事ぐんじ教育きょういくおくれていることから中尉ちゅういへの昇進しょうしん翌年よくねん11がつ延期えんきとなる。なおその規定きてい年限ねんげん沿って昇進しょうしんした[24]1893ねん明治めいじ26ねん学習がくしゅういん初等しょとう卒業そつぎょうし、中等ちゅうとう進学しんがく[24]。しかし1894ねん明治めいじ27ねん)8がつ病弱びょうじゃく勉学べんがくおくれている皇太子こうたいしをそのまま進学しんがくさせると劣等れっとうかんつよまり、君主くんしゅにふさわしい性格せいかく育成いくせいできなくなると判断はんだんされ[24]中等ちゅうとう1ねん修了しゅうりょうをもって学習がくしゅういん退学たいがくした[注釈ちゅうしゃく 2][25]

明治めいじ20年代ねんだい後半こうはんから皇太子こうたいし静養せいよう目的もくてき各地かくち御用邸ごようてい沼津ぬまづ御用邸ごようてい(1893ねんきずけ)、葉山はやま御用邸ごようてい(1894ねんきずけ)、日光にっこう田母沢たもざわ御用邸ごようてい(1899ねんきずけ)、塩原しおばら御用邸ごようてい(1904ねんきずけ))がてられ、以後いご、これらの御用邸ごようてい長期ちょうき滞在たいざいするようになる[26][27]

1895ねん5がつには、風邪かぜちょうチフスかかり、さらにかる肺結核はいけっかく重体じゅうたいになり、11月まで寝込ねこ[28]。このころ柳原やなぎはら愛子あいこ乳母うばだとおもっていた皇太子こうたいし彼女かのじょきびしくあたり、実母じつぼであるとかされても、なかなかしんじようとはしなかった[29]

皇太子こうたいし勉強べんきょうおくれをかえすため、1895ねん以降いこう国学こくがく和歌わか作文さくぶん歴史れきし地理ちり)を担当たんとうするほんきょ豊穎とよかい漢学かんがく漢詩かんし漢文かんぶん)を担当たんとうする三島みしま中洲ちゅうしゅう東宮とうぐうしょく御用ごようかけいで東宮とうぐう侍講じこうとなった[30]。このほかフランスじんフランソワ・サラザン、三田みたまもるしんフランス語ふらんすご講義こうぎした[31]。ほぼやすみなく教育きょういくおこなわれたが、それが皇太子こうたいし健康けんこう悪化あっかさせるという悪循環あくじゅんかんかえされた[32]

1898ねん明治めいじ31ねん)、だい3内閣ないかく組閣そかくした伊藤いとう博文ひろぶみは、皇太子こうたいしかんし、健康けんこう増進ぞうしんさい優先ゆうせんとしながらも政治せいじ軍事ぐんじなどの見識けんしきたせるため、適当てきとう人物じんぶつ監督かんとくやく側近そっきんとするよう明治天皇めいじてんのう進言しんげんした。これを大山おおやまいわお東宮とうぐうしょく監督かんとくに、明治天皇めいじてんのう信任しんにんあつかった有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのう東宮とうぐうまろうどともにんじられた[33][34]。さらによく1899ねん明治めいじ32ねん)5がつじん親王しんのう東宮とうぐう輔導ほどうとなり皇太子こうたいし養育よういく全権ぜんけんあたえられると、それまでの教育きょういくあらた健康けんこうだいいちへと転換てんかんさせた[35]

結婚けっこん

編集へんしゅう
 
東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん表慶ひょうけいかん

皇太子こうたいしえらびには明治天皇めいじてんのう側近そっきんであり、昌子しょうじ内親王ないしんのう房子ふさこ内親王ないしんのう養育よういく主任しゅにんであった[36]佐佐木ささき高行たかゆきおおきくかかわっていた。 1891ねんごろから皇太子こうたいしえらびがはじまり、候補こうほとなる皇族こうぞく公爵こうしゃくむすめ昌子しょうじ内親王ないしんのう房子ふさこ内親王ないしんのうあそ相手あいてとして赤坂あかさか離宮りきゅうまねかれた[注釈ちゅうしゃく 3][38]明治天皇めいじてんのう皇太子こうたいしをできれば皇族こうぞくからえらびたいとかんがえていた[39]

まもなく、伏見ふしみ宮家みやけ禎子さだこ女王じょおう有力ゆうりょく候補こうほとなり[40]、1893ねんはる佐佐木ささき禎子さだこ女王じょおう皇太子こうたいし相応ふさわしいと土方ひじかた久元ひさもと宮内みやうち大臣だいじんつたえ、華族かぞく女学校じょがっこうがくかん下田しもだ歌子うたこ推薦すいせん。これをけ、明治天皇めいじてんのう同年どうねん5がつ禎子さだこ女王じょおう皇太子こうたいし内定ないていした[41]

しかし1898ねん明治めいじ31ねん)になると、天皇てんのう侍医じいである橋本はしもとつなつね池田いけだけんときが「禎子さだこ女王じょおう肺病はいびょううたがいがある」と発言はつげんし、おかげんきょう侍医じい局長きょくちょう結婚けっこん中止ちゅうし具申ぐしん[42]。これをけて、1899ねん明治めいじ32ねん)1がつから2がつ宮中きゅうちゅう首脳しゅのう協議きょうぎおこない「皇統こうとう継続けいぞく」をかんがえれば禎子さだこ女王じょおう皇太子こうたいしにすることは問題もんだいであると結論けつろん[43]、3月22にち婚約こんやく内定ないていされた(大正天皇たいしょうてんのう婚約こんやく解消かいしょう事件じけん[44]。その候補こうほ検討けんとうすすめられたが、からだ丈夫じょうぶ性格せいかくわるくないという理由りゆう消去しょうきょほうによりきゅう摂関せっかん出身しゅっしん九条くじょう節子せつこ候補こうほ浮上ふじょう[45]。1899ねん8がつ九条くじょう節子せつこ皇太子こうたいし内定ないていした[46]

1900ねん明治めいじ33ねん)2がつ11にち皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう九条くじょう節子せつこ婚約こんやく正式せいしき決定けってい発表はっぴょうされた[47]が、皇太子こうたいし健康けんこう不安ふあんこえがあったため、この時点じてんでは婚礼こんれい日程にってい未定みていであった。しかし3がつ侍医じい伊藤いとう博文ひろぶみらによる会議かいぎで、皇太子こうたいし結婚けっこんまえ女性じょせいけられないようにし[注釈ちゅうしゃく 4]、これ以上いじょう婚礼こんれいばすことができないとして、婚礼こんれいを5月とすることが内定ないていした。そして4がつ27にちになって5がつ10日とおか婚礼こんれいおこなうことが発表はっぴょうされた[48]

挙式きょしき皇居こうきょ賢所かしこどころ神式しんしきによりおこなわれた[49][注釈ちゅうしゃく 5]皇居こうきょから青山あおやま御所ごしょへの帰路きろ大勢おおぜい市民しみんくされ、皇太子こうたいし夫妻ふさいった馬車ばしゃれつ皇居こうきょ正門せいもんじゅうすう分間ふんかん停止ていし余儀よぎなくされる有様ありさまだった[51]結婚けっこんしゅくして各地かくちからおおくの品々しなじな献納けんのうされ、そのなかには、東京とうきょううち政治せいじ財界ざいかいじん発起人ほっきにんとした東宮とうぐう殿下でんか慶事けいじ奉祝ほうしゅくかいによる募金ぼきん建設けんせつされた「東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん表慶ひょうけいかん」やサンフランシスコ日本人にっぽんじん移民いみんからおくられたアメリカせい電気でんき自動車じどうしゃもあった[52]

皇太子こうたいし夫妻ふさいは5月23にちから6がつ7にちにかけ、三重みえけん奈良ならけん京都きょうとかく府県ふけんめぐけいし、伊勢神宮いせじんぐう神武じんむ天皇てんのうりょう泉涌寺せんにゅうじなどを結婚けっこん報告ほうこくのため参拝さんぱいした。このあいだ皇太子こうたいし嵐山あらしやまかつら離宮りきゅう京都きょうと帝国ていこく大学だいがくなどを訪問ほうもんし、京都きょうとみかどだい附属ふぞく病院びょういんでは患者かんじゃ直接ちょくせつかたけている[53][54]

国内こくない各地かくち行啓ぎょうけい

編集へんしゅう
 
1904ねん明治めいじ37ねん)、すすむみやあつしみや可愛かわいがる皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう左端ひだりはし侍従じじゅう

東宮とうぐう補導ほどう有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのうは、皇太子こうたいし健康けんこう身体しんたい精神せいしん育成いくせいするため、名目めいもくじょう授業じゅぎょうまなんだ地理ちり歴史れきし実際じっさい見学けんがくするため、長期ちょうきてき地方ちほう行啓ぎょうけい発案はつあんした[55]

だいいちかいは1900ねん10がつから12がつにかけておこなわれ、福岡ふくおか佐賀さが長崎ながさき熊本くまもとかくけん下関しものせき行啓ぎょうけいした。その岡山おかやま愛媛えひめ香川かがわけん訪問ほうもんする予定よていであったが、皇太子こうたいし途中とちゅう滞在たいざいした兵庫ひょうごけん舞子まいこ体調たいちょうくずし、静養せいようのち帰京ききょうした[56]つづいて1902ねん5がつから6がつに、東北とうほく地方ちほう見学けんがくとして、群馬ぐんま長野ながの新潟にいがた茨城いばらきかくけん行啓ぎょうけい当初とうしょはさらに東北とうほく6けん栃木とちぎけんおとずれる予定よていであったが、皇太子こうたいし体調たいちょうくずしたため中止ちゅうしとなった[57]

じん親王しんのう目論見もくろみどおり、これらの地方ちほうじゅんけいにより皇太子こうたいし健康けんこう回復かいふくし、学習がくしゅう効率こうりつがった。しかし皇太子こうたいし自由じゆうまかせた結果けっか生来せいらいまぐれな性格せいかく助長じょちょうされ[注釈ちゅうしゃく 6]、また有栖川ありすがわみやへの依存いぞんしんたかまる結果けっかとなった。そこでじん親王しんのう自分じぶん役割やくわりわったとして、1903ねん明治めいじ36ねん)2がつ明治天皇めいじてんのう東宮とうぐう輔導ほどう廃止はいし進言しんげんした。明治天皇めいじてんのう即答そくとうけたが、じん親王しんのう体調たいちょう悪化あっかしたこともあり、同年どうねん6がつ東宮とうぐう輔導ほどうめんじられた[59]。その地方ちほうじゅんけいつづけられ、1903ねん10がつには、和歌山わかやま香川かがわ愛媛えひめ広島ひろしま岡山おかやまかくけん訪問ほうもんした[60]。なお、これらのめぐけい皇太子こうたいし皇太子こうたいし一家いっか写真しゃしん下賜かししたり、地元じもと新聞しんぶんしゃ写真しゃしん発売はつばいしたことはこれまでなかったことであり、皇室こうしつ国民こくみん身近みぢか存在そんざいとすることにおおきな効果こうかがあった[61]

にち戦争せんそうときには皇太子こうたいし大本営だいほんえいづけ大佐たいさであったが、1904ねん明治めいじ37ねん)11がつごろ児玉こだま源太郎げんたろう参謀さんぼう次長じちょう中心ちゅうしん皇太子こうたいしだい総督そうとくとする陸軍りくぐんだい総督そうとく大陸たいりくもうけるあんてられた。皇太子こうたいし大陸たいりくへの出征しゅっせい積極せっきょくてきであったが、皇太子こうたいし出征しゅっせいすることはかつての日本にっぽんはじめてのことであり、なれない現場げんば指揮しき混乱こんらんするとのかつら太郎たろう首相しゅしょう寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大臣だいじん反対はんたいけて実現じつげんせずにわった[62]

韓国かんこく訪問ほうもん

編集へんしゅう
 
1907ねん明治めいじ40ねん)、訪韓ほうかん皇太子こうたいしよしみじん親王しんのういちぎょう前列ぜんれつみぎより 韓国かんこく皇太子こうたいしえい親王しんのう)、皇太子こうたいしよしみじん親王しんのう韓国かんこく皇帝こうていじゅんむね有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのう
とおしゅう洋上ようじょうさく
よる艨艟もうどうとおしゅう
満天まんてん明月めいげつおもえ悠悠ゆうゆう
なんのうとげ平生へいぜいこころざし
一躍いちやく雄飛ゆうひ大洲おおす[63]

皇太子こうたいしすくなくとも1899ねん明治めいじ32ねん)には外遊がいゆう希望きぼうしており、同年どうねんさくの『ゆめゆう欧州おうしゅう』とだいする漢詩かんしロンドンベルリン訪問ほうもんするゆめうたったり、『とおしゅう洋上ようじょうさく』では「一躍いちやく雄飛ゆうひ大洲おおす」といていた。また『世界せかい一周いっしゅう唱歌しょうか』が愛唱あいしょうであった。しかし、皇太子こうたいし洋行ようこう日本にっぽん歴史れきしじょうかつてなかったことであり、明治天皇めいじてんのう西洋せいよう一辺倒いっぺんとうになる懸念けねんがあるとして皇太子こうたいし洋行ようこうみとめない姿勢しせいにあった[64]

1907ねん明治めいじ40ねん)9がつ伊藤いとう博文ひろぶみ韓国かんこく統監とうかんは、じゅんむね即位そくいにちかん親善しんぜん名目めいもくとして、えい親王しんのう日本にっぽん留学りゅうがくし、わりに皇太子こうたいし大韓たいかん帝国ていこく訪問ほうもんすることを提言ていげん明治天皇めいじてんのう韓国かんこく治安ちあん義兵ぎへい運動うんどう悪化あっかしていたことから難色なんしょくしめしたものの、伊藤いとう説得せっとくして韓国かんこく訪問ほうもん決定けっていした[65]

皇太子こうたいしにはじん親王しんのうのほか、東郷とうごう平八郎へいはちろうかつら太郎たろうぜん首相しゅしょう花房はなふさよししつ宮内みやうち次官じかんらが随行ずいこう。10月10にち東京とうきょう鉄道てつどう出発しゅっぱつし、宇品うじなこうから戦艦せんかん香取かとり乗船じょうせん、10月16にち仁川にがわ上陸じょうりくして、じゅんむね垠の出迎でむかえをけた。10月17にちから19にちまでかんじょう滞在たいざいし、韓国かんこく駐箚ちゅうさつぐん司令しれいやまとじょうだい公園こうえんげん南山みなみやま公園こうえん)、昌徳まさのりみやけいぶくみやなどをめぐったほか、統監とうかん官邸かんていこうはじめ面会めんかいした。10月20にちかんじょう出発しゅっぱつ鎮海視察しさつ帰国きこく[66]。このとき皇太子こうたいし垠をり、日本にっぽん留学りゅうがくしたのち朝鮮ちょうせん学習がくしゅう熱意ねついせるようになった。この朝鮮ちょうせん学習がくしゅう天皇てんのう即位そくいつづき、侍従じじゅう時々ときどき朝鮮ちょうせんはなしていた[67]

1908ねん9がつから10がつにかけては東北とうほく6けん行啓ぎょうけいした[68]。その、まだ行啓ぎょうけいしていない地域ちいきからの請願せいがんけて、1909ねん9がつから10がつ岐阜ぎふおよび北陸ほくりく3けん[69][70]、1911ねん8がつから9がつ北海道ほっかいどう[71]、1912ねん山梨やまなしけんおとずれ、これで沖縄おきなわけんのぞ全国ぜんこく訪問ほうもんしたことになった[72]

1909ねん明治めいじ42ねん)11月、陸海りくかいぐん中将ちゅうじょう昇進しょうしんするとともに参謀さんぼう本部ほんぶづけとなり、1910ねん明治めいじ43ねん)5がつからはしゅう2かい参謀さんぼう本部ほんぶ出勤しゅっきんした。また、御用ごようかけ福島ふくしま安正やすまさ松石まついし安治やすじから戦略せんりゃく戦術せんじゅつまなんだが、おしえられたことをなに理解りかいしていないと東宮とうぐう武官ぶかんなげかれている[73]

天皇てんのう即位そくい

編集へんしゅう
 
大正天皇たいしょうてんのう肖像しょうぞう、1912ねん
 
即位そくいれい当日とうじつ京都きょうと御所ごしょ
 
大正たいしょう4ねん石版せきばん大礼たいれい記念きねん 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀」(尚美なおみどう田中たなか良三りょうぞう

1912ねん7がつ29にちよる明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょ[注釈ちゅうしゃく 7]皇太子こうたいしは7がつ30にち午前ごぜん1践祚せんそ大正たいしょう(たいしょう)と改元かいげんした[75]。8月1にち朝見ちょうけんしきおこなわれたが、出席しゅっせきした財部たからべあや海軍かいぐん次官じかんによれば、大正天皇たいしょうてんのう勅語ちょくご朗読ろうどくちゅう言葉ことばまり、これをなさけないとなみだなが侍従じじゅう米田よねだ虎雄とらお)もいたという[76]

11月には貞明皇后ていめいこうごうとともに伏見桃山ふしみももやまりょう参拝さんぱい京都きょうとかう列車れっしゃなか大正天皇たいしょうてんのうはらたかし内務ないむ大臣だいじん雑談ざつだんをするが、知識ちしき豊富ほうふはらは、以後いご行幸ぎょうこうだい演習えんしゅうさいはなし相手あいてとして再三さいさんばれることになる[77]

即位そくいれい大嘗祭だいじょうさい当初とうしょ1914ねん大正たいしょう3ねん)11月におこな予定よていであったが、同年どうねん4がつ昭憲皇太后しょうけんこうたいごう崩御ほうぎょしたため1ねん延期えんきされた。1915ねん大正たいしょう4ねん)11がつ10日とおか京都きょうと御所ごしょ即位そくいれい紫宸殿ししんでん、11月14にちから15にちにかけて大嘗祭だいじょうさい、11月16にちと17にちじょう離宮りきゅう各国かっこく王族おうぞく要人ようじんをはじめ、皇族こうぞく文武ぶんぶ高官こうかんゆう爵位しゃくいしゃくわえ、外国がいこく大使たいし夫妻ふさいなどもまねかれだい規模きぼであり日間にちかんわたっていちにち伝統でんとうてき日本にっぽん様式ようしきにち和洋折衷わようせっちゅうをモチーフにしたフランス様式ようしきことなる構成こうせいもよおしただいきょう大正大たいしょうだいきょう)が盛大せいだいおこなわれた[78][79][80][81][注釈ちゅうしゃく 8]大正天皇たいしょうてんのう自身じしん即位そくいれい準備じゅんび委員いいんちょうであるはらたかしに、儀式ぎしき簡素かんそ日程にってい短縮たんしゅく希望きぼうつたえていたがほとんど無視むしされ[84]貴族きぞくいん書記官しょきかんちょう柳田やなぎだ國男くにお莫大ばくだい労力ろうりょく経費けいひをかけて前代未聞ぜんだいみもんであるとひょうした儀礼ぎれいおこなわれた[85]

大正天皇たいしょうてんのう即位そくいにより天長節てんちょうせつは8がつ31にちとなった[86]が、夏季かきの8がつ行事ぎょうじおこなうには猛暑もうしょであるため、1913ねん大正たいしょう2ねん)に10がつ31にちが「天長節てんちょうせつ祝日しゅくじつ」にさだめられ、以後いご祝賀しゅくが行事ぎょうじは10月31にちおこなわれるようになった[87][88]

政治せいじ能力のうりょく不安ふあん

編集へんしゅう

大正天皇たいしょうてんのう政治せいじりょく即位そくいまえから不安ふあんされていた。明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょ直前ちょくぜんの1912ねん明治めいじ45ねん)7がつ26にちに、徳大寺とくだいじ実則さねつね内大臣ないだいじんけん侍従じじゅうちょう渡辺わたなべ千秋ちあき宮内みやうち大臣だいじん美子よしこ皇后こうごう面会めんかいし、大正天皇たいしょうてんのう皇后こうごう伏見ふしみみやさだあい親王しんのう補佐ほさすることを依頼いらい[89]。しかし、皇后こうごうは「『女性じょせい政治せいじかかわるべきではない』という明治天皇めいじてんのう意思いしまもりたい」としてことわった[90]。また崩御ほうぎょ直後ちょくごには、西園寺さいおんじ公望きんもち首相しゅしょう元老げんろう山縣やまがた有朋ありともとも謁見えっけんし、西園寺さいおんじ大正天皇たいしょうてんのう政事せいじについての苦言くげんていし、天皇てんのうが「十分じゅうぶんける」と返答へんとうするやりりがあった[91]

しかし1912ねん大正たいしょう元年がんねん)11月、大正天皇たいしょうてんのうかつら太郎たろう内大臣ないだいじん突然とつぜん元帥げんすい任命にんめい打診だしんする。終身しゅうしん現役げんえき元帥げんすいになれば政党せいとう党首とうしゅになることはできず、新党しんとう組織そしきして首相しゅしょう復帰ふっきする野心やしんゆうしていたかつら拒絶きょぜつした。かつらだい3かつら内閣ないかく組閣そかくすると、留任りゅうにん辞退じたいしようとしていた斎藤さいとうみのる海軍かいぐん大臣だいじん留任りゅうにんめいずる勅語ちょくごや、帝国ていこく議会ぎかい停会ていかいめいずる勅語ちょくごなどをさせて政局せいきょくろうとした[92]。しかしこの行動こうどう野党やとう立憲りっけん政友せいゆうかい民衆みんしゅう反発はんぱつこし、だいいち憲政けんせい擁護ようご運動うんどう、そしてかつら内閣ないかく倒閣とうかくにつながっていった[93]

1913ねん大正たいしょう2ねん)5がつ風邪かぜをこじらせ体温たいおん39える肺炎はいえんとなる[94]肺炎はいえん同月どうげつまつ治癒ちゆするが、9がつまで葉山はやま日光にっこう静養せいようした[87]。また、このあいだの6がつ青山あおやま御所ごしょから、近代きんだいてき改修かいしゅう[注釈ちゅうしゃく 9]完了かんりょうした皇居こうきょ奥宮おくのみや殿どの転居てんきょした[95]

1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつシーメンス事件じけんによりだい1山本やまもと内閣ないかくそう辞職じしょくしたさいには、大正天皇たいしょうてんのう後継こうけい総理そうり選定せんてい元老げんろうゆだねたにもかかわらず、昭憲皇太后しょうけんこうたいごう危篤きとくほうけて沼津ぬまづ御用邸ごようていかう車中しゃちゅう山本やまもと権兵衛ごんべえ留任りゅうにんもとめる不用意ふようい発言はつげんおこなう。しかし、以前いぜんから大正天皇たいしょうてんのう政治せいじ能力のうりょく疑問ぎもんっていた山本やまもと[注釈ちゅうしゃく 10]はこれにわず山縣やまがた有朋ありとも推薦すいせん天皇てんのうただちに山縣やまがた組閣そかくめいじたが、山縣やまがたにもことわられ、かつ諫言をける有様ありさまであった[97][98]。また、同年どうねんには波多野はたのたかしただし宮内みやうち大臣だいじん元老げんろう井上いのうえかおるに「(大正天皇たいしょうてんのう元老げんろうたいして)なに諮問しもんすべきかかのこと軽重けいちょうや、職務しょくむ権限けんげん理解りかいしていない」とげている[99]

1915ねん大正たいしょう4ねん)、だい2大隈おおくま内閣ないかく大浦おおうら兼武かねたけ内務ないむ大臣だいじん汚職おしょく事件じけん発覚はっかくすると、7がつ大隈おおくま重信しげのぶ首相しゅしょうは「事件じけん責任せきにんる」としてぜん閣僚かくりょう辞表じひょう天皇てんのう提出ていしゅつした。大隈おおくま信頼しんらいしていた大正天皇たいしょうてんのう辞表じひょうをその却下きゃっかしようとしたが大隈おおくま要請ようせい留保りゅうほされ、元老げんろう対応たいおう協議きょうぎした。山縣やまがた有朋ありとも大隈おおくま留任りゅうにん方針ほうしんであったが、軽率けいそつ判断はんだんをしないよう天皇てんのうに諫言している[100]大隈おおくまよく1916ねん大正たいしょう5ねん)6がつ内閣ないかくそう辞職じしょく奏上そうじょうし、後継こうけい加藤かとう高明こうめい寺内てらうち正毅まさき推薦すいせんし、かつてのくまいたないかくのような内閣ないかくつくろうとした[101]大正天皇たいしょうてんのう山縣やまがた有朋ありとも元老げんろう後任こうにん選考せんこうゆだねたが、大隈おおくま辞意じい内奏ないそうおこない、天皇てんのうもこれをれてしまう。面子めんつつぶされた山縣やまがたは、今度こんど天皇てんのう軽率けいそつ判断はんだんをせず元老げんろうまかせ、すじとおすよう諫言した。その大隈おおくまは「後任こうにん加藤かとう高明こうめい推薦すいせんする」とした辞表じひょう提出ていしゅつし、元老げんろう諮問しもんしないようはたらきかけたが、大正天皇たいしょうてんのう元老げんろう会議かいぎ推薦すいせんもとづき寺内てらうち後継こうけい首相しゅしょう任命にんめいした[102]。12月には山縣やまがた枢密院すうみついん議長ぎちょう辞任じにん内奏ないそうした。これは以前いぜんなんおこなわれた形式けいしきてきなものであり、却下きゃっかされることを前提ぜんていとした山縣やまがた政治せいじてきパフォーマンスであった。しかし大正天皇たいしょうてんのう辞任じにんみとめただけでなく、いつ辞表じひょうすのかたずね、その山縣やまがた辞表じひょう提出ていしゅつうていた。このため大正たいしょう6ねん(1917ねん)4がつ14にちには山縣やまがた実際じっさい枢密院すうみついん議長ぎちょう辞表じひょう提出ていしゅつする事態じたいとなり、5月2にち寺内てらうち首相しゅしょうりなしで留任りゅうにん勅語ちょくごくだったことで、ようやく事態じたい収拾しゅうしゅうされた[103]

1918ねんまい騒動そうどう大正たいしょう7ねん)のさいには日光にっこう田母沢たもざわ御用邸ごようてい避暑ひしょちゅうであったが、皇室こうしつ財産ざいさんから政府せいふつうじてかく府県ふけんに300まんえん現在げんざいの60おくえん相当そうとう)を下賜かしした。ただし、天皇てんのう金銭きんせんだけ支出ししゅつして避暑ひしょつづけることに世間せけん批判ひはんがあったことから、政府せいふ要請ようせいけていそいで東京とうきょうかえっている[104]

皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう摂政せっしょう就任しゅうにん

編集へんしゅう
 
皇太子こうたいし時代じだい裕仁ひろひと親王しんのう
 
大阪おおさかでの陸軍りくぐん特別とくべつだい演習えんしゅうかう大正天皇たいしょうてんのう1919ねんあき撮影さつえい

大正天皇たいしょうてんのうは1918ねん大正たいしょう7ねんまつ風邪かぜき、帝国ていこく議会ぎかい開会かいかいしき欠席けっせきよく1919ねん大正たいしょう8ねん正月しょうがつ儀式ぎしきはほぼ予定よていどおおこなわれたが、風邪かぜ長引ながびき1がつまつから3がつまで葉山はやま静養せいようする[105]同年どうねん10がつ海軍かいぐん特別とくべつだい演習えんしゅうでは勅語ちょくご軍令ぐんれい部長ぶちょう代読だいどくした[106]。そして11月に兵庫ひょうごけん大阪おおさかおこなわれた陸軍りくぐん特別とくべつだい演習えんしゅうへの参加さんか最後さいご東京とうきょうそとへの公式こうしき行幸ぎょうこうとなった[107]。12月の帝国ていこく議会ぎかい開会かいかいしきは、勅語ちょくご朗読ろうどく練習れんしゅうをおこなったものの、うまくいかなかったため、前日ぜんじつになって出席しゅっせき中止ちゅうしされた[108]

1920ねん大正たいしょう9ねん)3がつ30にち大正天皇たいしょうてんのうの「体調たいちょう悪化あっか」がはじめて宮内くないしょうから公表こうひょうされた。ただし、神経痛しんけいつうなどとして言語げんご障害しょうがい身体しんたい傾斜けいしゃといったしん病状びょうじょう公表こうひょうされなかった[109]大正天皇たいしょうてんのう本人ほんにん自身じしん病状びょうじょう認識にんしきしておらず、「普通ふつうである」とかんがえていた[110]。その必要ひつよう最低限さいていげん面会めんかい以外いがい静養せいよう専念せんねんし、行事ぎょうじへの臨席りんせきなどは皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう貞明皇后ていめいこうごう代行だいこうすることになる[111]同年どうねん6がつ松方まつかた正義まさよし内大臣ないだいじん摂政せっしょう設置せっちはらたかし首相しゅしょう提起ていきしたが、はらは「だれもが納得なっとくする病状びょうじょうでなければ摂政せっしょう設置せっち困難こんなんであり、しばらく様子ようすたほうがい」と判断はんだんした[112]

1920ねん大正たいしょう9ねん)から1921ねん大正たいしょう10ねん)2がつにかけ皇太子こうたいし内定ないていしをめぐる宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん発生はっせいするも無事ぶじ解決かいけつしたのをけて、1921ねん3がつ皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう懸案けんあんだった欧州おうしゅう訪問ほうもん出発しゅっぱつした[113]。このころ大正天皇たいしょうてんのうは、同年どうねん7がつ塩原しおばら御用邸ごようてい静養せいようったさいには、侍従じじゅうかかえられてやっとあるき、風呂ふろ階段かいだんこわがったり、突然とつぜんあばれだしたりした。また前年ぜんねん出来事できごと身近みぢか人物じんぶつわすれるなど記憶きおく喪失そうしつ状態じょうたいおちいるなどの状態じょうたいであった[114]

1921ねん大正たいしょう10ねん)9がつ皇太子こうたいし欧州おうしゅうから帰国きこくすると、摂政せっしょう設置せっちけた最終さいしゅう段階だんかいはいる。10月4にちには大正天皇たいしょうてんのう病状びょうじょう深刻しんこくであり、事実じじつじょう公務こうむおこなうことができなくなっているむね発表はっぴょうがなされ、牧野まきのしんあきら宮内みやうち大臣だいじんにより皇族こうぞくへの根回ねまわしがおこなわれた[115]。11月4にちはら首相しゅしょう暗殺あんさつされたが、11月22にちには松方まつかた内大臣ないだいじん牧野まきのみや内大臣ないだいじん大正天皇たいしょうてんのう拝謁はいえつし、摂政せっしょう設置せっちについて報告ほうこく了解りょうかいもとめようとした。しかし大正天皇たいしょうてんのう意思いし疎通そつうできない状態じょうたいであった。そして11月25にち皇室こうしつ会議かいぎ枢密院すうみついん摂政せっしょう設置せっち決議けつぎされ、正式せいしき皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう摂政せっしょう就任しゅうにんした[116][117][注釈ちゅうしゃく 11][注釈ちゅうしゃく 12]同日どうじつ大正天皇たいしょうてんのう摂政せっしょう執務しつむ使用しようする印判いんばんわたすのをいち抵抗ていこうし、また、12月には侍従じじゅうたいし「おのれれはべつ身体しんたいわるくないだろう」となんはなしかけたりしていた[121]同日どうじつづけ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかんに、以下いかみや内省ないせい発表はっぴょう聖上せいじょう陛下へいか容体ようだいしょ」が掲載けいさいされた。

 「天皇陛下てんのうへいかかせられては禀賦孱弱にわたるらせられ、降誕こうたんさん週日しゅうじつてさるに脳膜炎のうまくえんさま疾患しっかんかからせられ、幼年ようねん時代じだい重症じゅうしょう百日咳ひゃくにちぜきつづいてちょうチフス胸膜炎きょうまくえんひとし大患たいかん経過けいかあらせられ、ため心身しんしん発達はったついて幾分いくぶんおくれさせらるゝところありしが、践祚せんそ以来いらい内外ないがい政務せいむ多端たたんわたるらせられ、日夜にちや宸襟しんきんなやませられきゅうひしためめ、近年きんねんいたついのうりょく衰退すいたい徴候ちょうこうはいするにいたれり。目下めした身体しんたい模様もようおいては引続ひきつづかわりあらせられず、からだりょうごときも従前じゅうぜん大差たいさあらせられざるも、めいじ判断はんだん思考しこうとうしょのうりょく漸次ぜんじおとろえへさせられ、思慮しりょ環境かんきょうしたがえて陝隘とならせらる。こと記憶きおくりょくいたりては衰退すいたいちょうもっといちじるしく、これふるにはつ障碍しょうがいあらせらるるためめ、意志いし表現ひょうげん甚御困難こんなんはいたてまつるはまこと恐懼きょうくへざるところなり」

病状びょうじょう悪化あっか

編集へんしゅう

その大正天皇たいしょうてんのうは、なつおも日光にっこうぶし沼津ぬまづ葉山はやま長期ちょうき滞在たいざい療養りょうよう専念せんねんした。日課にっかとして散歩さんぽおこなったり、具合ぐあいのいい侍従じじゅう女官にょかんたちとビリヤードや雑談ざつだんをしてごしたが、病状びょうじょう悪化あっかつづいた[122][注釈ちゅうしゃく 13]

1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ26にち裕仁ひろひと親王しんのう婚礼こんれい饗宴きょうえん出御しゅつぎょせず[124]1925ねん大正たいしょう14ねん)5がつ10日とおかおこなわれた銀婚式ぎんこんしきも、大正天皇たいしょうてんのう非公式ひこうしき祝賀しゅくがけただけで[125]午餐ごさんかい臨御りんぎょすることができなかった[126]。12月19にちには脳貧血のうひんけつこしトイレでたおれ、その発熱はつねつつづ[127]

よく1926ねん大正たいしょう15ねん年初ねんしょからは風邪かぜき、5月にかんなおしたもののふたた脳貧血のうひんけつこし[128]、ほぼ歩行ほこう不可能ふかのうになった[125]。8月に車椅子くるまいすすわったままの状態じょうたいで、原宿はらじゅくえき皇室こうしつ専用せんようホーム[注釈ちゅうしゃく 14]から列車れっしゃり、葉山はやま御用邸ごようてい移住いじゅうした[129]

葉山はやま転地てんち小康しょうこう状態じょうたいとなったが、10がつまつから38える高熱こうねつつづき、裕仁ひろひと親王しんのう九州きゅうしゅうへの行啓ぎょうけいりやめ葉山はやま見舞みまいにった。11月19にちからはみや内省ないせい数日すうじつおきにくわしい病状びょうじょう発表はっぴょうするようになり、国民こくみんによる平穏へいおん祈願きがん全国ぜんこくひろまっていった[130]。12月1にちには生母せいぼ柳原やなぎはら愛子あいこ東京とうきょう白山はくさん大乗寺だいじょうじおこなわれた「聖上せいじょうのう平癒へいゆ祈祷きとう」に参加さんかしている[131]。12月8にち呼吸こきゅう困難こんなんおちいり、急遽きゅうきょせられた酸素さんそ吸入きゅうにゅう使つかわれ、新聞しんぶん号外ごうがいされた。この以降いこう葉山はやまには皇族こうぞく柳原やなぎはら愛子あいこ政府せいふ高官こうかん見舞みまい相次あいつ[132]。12月14にちには体温たいおんが39たっし、食事しょくじがゴムかんによる流動りゅうどうしょくえられた[133]。12月16にち呼吸こきゅうあさくなり不整脈ふせいみゃく出始ではじめる。

崩御ほうぎょ

編集へんしゅう
 
1927ねん昭和しょうわ2ねん)、大正天皇たいしょうてんのう大喪たいそう

天皇てんのう危篤きとくとのほう東京とうきょうとどくと、若槻わかつき礼次郎れいじろう総理そうり大臣だいじん以下いかぜん閣僚かくりょうから枢密すうみつ顧問こもんかん元老げんろう重臣じゅうしんまでそろって葉山はやまけつけ、現地げんち駆逐くちくかん3せき出動しゅつどうするなど厳重げんじゅう警戒けいかい体制たいせいがとられた[134]全国ぜんこく歳末さいまつ行事ぎょうじ自粛じしゅく平穏へいおん祈願きがんおこなわれ[135]ラジオは12月16にち以降いこう娯楽ごらく放送ほうそう中止ちゅうしし、宮内くないしょうからの発表はっぴょうがあれば随時ずいじ病状びょうじょう報道ほうどう[136]。12月14にちから崩御ほうぎょまでのみや内省ないせい発表はっぴょうは61かいおこなわれ、ラジオでの放送ほうそうけい433かいたっした[137]

これをけてラジオの加入かにゅう申込もうしこみしゃすう急増きゅうぞうし、翌年よくねん2がつ大喪たいそうまでに36まんけんたっした[135]。また、新聞しんぶんしゃ葉山はやま記者きしゃすうじゅうにんおくんで報道ほうどう体制たいせいをとった[136]

病状びょうじょう一時いちじ小康しょうこう状態じょうたいとなったが、12月24にち午後ごごから肺炎はいえん悪化あっかし、午後ごご7危篤きとくとなった。そして、翌日よくじつ1926ねん大正たいしょう15ねん/昭和しょうわ元年がんねん12月25にち午前ごぜん125ふん皇后こうごう皇太子こうたいし夫妻ふさい皇族こうぞく柳原やなぎはら愛子あいこ見守みまもなか心臓麻痺しんぞうまひにより崩御ほうぎょ[138][139]宮内庁くないちょうからは天皇てんのう崩御ほうぎょ午前ごぜん145ふん危篤きとくになったこと、午前ごぜん240ふん崩御ほうぎょ発表はっぴょうされた[140]宝算ほうさん47。

これにともないただちに、摂政せっしょうであった長男ちょうなん皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう皇位こうい継承けいしょうし(昭和しょうわ天皇てんのう)、だい124だい天皇てんのう践祚せんそ即位そくい)した。このとき、貞明皇后ていめいこうごう発願ほつがんで、大正天皇たいしょうてんのう供養くようのため「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」の題目だいもく模写もしゃしたかみ多数たすう制作せいさくされている[141]

 
明治めいじ宮殿きゅうでん車寄くるまよせまえ轜車(じしゃ)がはつひかされる様子ようす
 
当時とうじ多摩たまりょう
 
多摩たまりょう

1927ねん昭和しょうわ2ねん1がつ29にちに「大正天皇たいしょうてんのう(たいしょうてんのう)」と追号ついごうされ[142]大喪たいそうが2がつ7にちから8にちにかけて新宿しんじゅく御苑ぎょえん中心ちゅうしんおこなわれた[143]皇居こうきょから新宿しんじゅく御苑ぎょえん式場しきじょうまでの葬列そうれつけい6せんにん全長ぜんちょう6キロメートルという壮大そうだいなもの[144]で、沿道えんどうには150まん乃至ないし300まんにん市民しみんあつまったといわれ、葬列そうれつはラジオで実況じっきょう放送ほうそうされた[145][注釈ちゅうしゃく 15]葬場そうじょう殿どの葬儀そうぎ)は午後ごご9から午後ごご11までおこなわれ、内外ないがい高官こうかんやく7せんにん参列さんれつした[147]。その中央ちゅうおう本線ほんせん千駄ヶ谷せんだがやえきとなり臨時りんじ設置せっちされた新宿しんじゅく御苑ぎょえんえきから霊柩れいきゅう列車れっしゃうつされ、昭和しょうわ天皇てんのう名代なだい秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのうらを出発しゅっぱつ[148]おなじく臨時りんじえき東浅川ひがしあさかわかりえき[注釈ちゅうしゃく 16]まではこばれ、東京とうきょう南多摩みなみたまぐん横山よこやまむら現在げんざい東京とうきょう八王子はちおうじ長房ながぶさまち)の御料地ごりょうちきずかれた多摩たまりょうほうむられた[150][151][注釈ちゅうしゃく 17]

新宿しんじゅく御苑ぎょえん葬場そうじょう殿どの多摩たまりょう一般いっぱん公開こうかいされたが好評こうひょうで、葬場そうじょう殿どのは2がつ9にちから3がつ7にちまで、多摩たまりょうは2がつ13にちから4がつ4にちまで公開こうかい期間きかん延長えんちょうされた。葬場そうじょう殿どの参拝さんぱいしゃはのべ250まんにん多摩たまりょう参拝さんぱいしゃはのべ89まん8せんにんにのぼった。多摩たまりょうには売店ばいてん料亭りょうていまでち、省線しょうせん京王けいおう電気でんき軌道きどうでは臨時りんじ列車れっしゃはしらせた。さらに京王けいおう電気でんき軌道きどう御陵前ごりょうまええきいた御陵ごりょうせん建設けんせつしたが、開業かいぎょうした1931ねん昭和しょうわ6ねん)には参拝さんぱいブームは下火したびとなっており、まもなく閑散かんさんとなった[153]

現在げんざい毎年まいとし12がつ25にち宮中きゅうちゅう大正天皇たいしょうてんのう例祭れいさいおこなわれている[154]

死後しご評価ひょうかと「遠眼鏡とおめがね事件じけん

編集へんしゅう
 
1917ねん大正たいしょう6ねん)、帝国ていこく議会ぎかい開院かいいんしきかう大正天皇たいしょうてんのう

国内外こくないがい死亡しぼう記事きじでは、大正たいしょう年間ねんかん日本にっぽん国際こくさいてき地位ちいたかまったこと、政治せいじ制度せいど文化ぶんかなど近代きんだい一層いっそう進展しんてん大正天皇たいしょうてんのう功績こうせきとしてげられていた。やがてその評価ひょうかは、追悼ついとうほんとしてられるかぎ唯一ゆいいつ市販しはんされた『大正天皇たいしょうてんのう治世ちせい』や、若槻わかつき礼次郎れいじろう首相しゅしょう弔辞ちょうじもちいられた「守成しゅせい君主くんしゅ」にいた[155]。とは明治天皇めいじてんのうとはことなり、大正天皇たいしょうてんのうしの記念きねんする運動うんどうはほとんどなく、誕生たんじょう祝日しゅくじつとならず、大正たいしょう神宮じんぐうつくられなかった[156]

そして社会しゃかいひろ定着ていちゃくしたのは、「大正天皇たいしょうてんのう帝国ていこく議会ぎかい開院かいいんしき勅書ちょくしょをくるくるとまるめ、遠眼鏡とおめがねにして議員ぎいんせき見渡みわたした」とされる[157]遠眼鏡とおめがね事件じけん」に代表だいひょうされるような「大正天皇たいしょうてんのう精神病せいしんびょうしゃせつ」であり、その風説ふうせつすくなくとも昭和しょうわ初期しょきには一般いっぱん大衆たいしゅうあいだひろまっていた[158]1944ねん昭和しょうわ19ねん)に遠眼鏡とおめがね事件じけんうわさかたったおとこ不敬ふけいざいつかまっている[159]ほか、1921ねん小学しょうがく2年生ねんせいであった丸山まるやま眞男まさおは、当時とうじ、「大正天皇たいしょうてんのうのうわずらっており、勅書ちょくしょまるめてのぞいた」といううわさながれていたことを1989ねん平成へいせい元年がんねん)のエッセイ回想かいそうしている[160]

遠眼鏡とおめがね事件じけん公然こうぜんかたされるのは戦後せんごであり、近代きんだい天皇てんのうせい呪縛じゅばくから解放かいほうされたのち昭和しょうわ30年代ねんだい集中しゅうちゅうしている[161]ひとつは「文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1959ねん昭和しょうわ34ねん)2がつごう掲載けいさい署名しょめい[注釈ちゅうしゃく 18]記事きじ悲劇ひげき天皇てんのう大正天皇たいしょうてんのう」で、黒田くろだちょうたかし侍従じじゅうの、1920ねんごろ大正天皇たいしょうてんのう勅書ちょくしょ朗読ろうどくにうまくけたかかしてた、という証言しょうげんせた[163]。また、もと女官にょかん山川やまかわ三千子みちこ[注釈ちゅうしゃく 19]は、1960ねん昭和しょうわ35ねん)の著書ちょしょ女官にょかん』に、大正天皇たいしょうてんのうはじめて帝国ていこく議会ぎかい開会かいかいしきのぞんだ1912ねん遠眼鏡とおめがねとしてのぞいた光景こうけいを、しゅうとおとうとである山川やまかわ健次郎けんじろう目撃もくげきしたはなしをしていたとしるしている[165][166]

この遠眼鏡とおめがね事件じけんについては諸説しょせつあり、歴史れきし学者がくしゃ古川ふるかわ隆久たかひさは、決定的けっていてき史料しりょうはなく真相しんそう不明ふめいであるが、大正天皇たいしょうてんのう精神せいしん疾患しっかんではないので風説ふうせつはいわれのない中傷ちゅうしょうであると主張しゅちょうしている[167]。そのほか、大正天皇たいしょうてんのう貞明皇后ていめいこうごうつかえたもと女官にょかん坂東ばんどう登女子とめこ[注釈ちゅうしゃく 20]は、あるとき勅書ちょくしょ本来ほんらいとはぎゃくきにいてあったため、そのつぎおりかた間違まちがっていないか遠眼鏡とおめがねのようにのぞんで確認かくにんした、というはなし大正天皇たいしょうてんのうから直接ちょくせついたとかたっている[169]

つま貞明皇后ていめいこうごうとのあいだに4にんすめらぎ男子だんしをもうけた。現行げんこう皇室こうしつ典範てんぱん施行しこうされたのち1947ねん昭和しょうわ22ねん10月14にちGHQ指令しれいによって伏見ふしみみやけい皇族こうぞく宮家みやけすめらぎせき離脱りだつしたさい昭和しょうわ天皇てんのうとそのおとうとみやさん男子だんしおよかくとその子女しじょ子孫しそん皇室こうしつとどまった。大正天皇たいしょうてんのう貞明皇后ていめいこうごう夫妻ふさいは、2022ねんれい4ねん)1がつ時点じてんにおける皇室こうしつ典範てんぱんさだめるところによる皇室こうしつ構成こうせいいんなかまれながらの皇族こうぞくであるものとくひとし明仁あきひとすべての親王しんのう内親王ないしんのう女王じょおう最近さいきん共通きょうつう祖先そせんとなっている。

貞明皇后ていめいこうごう次男じなんあつしみや雍仁親王やすひとしんのう出産しゅっさんの1903ねん明治めいじ36ねんなつ流産りゅうざんしている[170]

称号しょうごうおよびいみな 生年月日せいねんがっぴ ぼつ年月日ねんがっぴ 続柄つづきがら 備考びこう
  すすむみや裕仁ひろひと親王しんのう みちのみや ひろひと 1901ねん明治めいじ34ねん
4がつ29にち
1989ねん昭和しょうわ64ねん
1がつ7にちまん87さいぼつ
だいいちすめらぎ男子だんし
だい1
良子りょうこ女王じょおう久邇くにみやいえ)と結婚けっこん(→こうじゅん皇后こうごう)。
摂政せっしょう1921ねん(大正たいしょう10ねん)11月25にち
1926ねん(大正たいしょう15ねん)12月25にち
昭和しょうわ天皇てんのうだい124だい天皇てんのう
子女しじょ2なん5じょ(7にん
  あつしみや雍仁親王やすひとしんのう あつのみや やすひと 1902ねん明治めいじ35ねん
6月25にち
1953ねん昭和しょうわ28ねん
1がつ4にちまん50さいぼつ
だいすめらぎ男子だんし
だい2
松平まつだいら節子せつこ結婚けっこん(→雍仁親王やすひとしんのう勢津子せつこ)。
雍仁親王やすひとしんのうみやごう秩父宮ちちぶのみや
子女しじょし。
  ひかりみや宣仁のぶひと親王しんのう てるのみや のぶひと 1905ねん明治めいじ38ねん
1がつ3にち
1987ねん昭和しょうわ62ねん
2がつ3にちまん82さいぼつ
だいさんすめらぎ男子だんし
だい3
徳川とくがわ喜久子きくこ結婚けっこん(→宣仁のぶひと親王しんのう喜久子きくこ)。
宣仁のぶひと親王しんのうみやごう高松宮たかまつのみや
断絶だんぜつした有栖川ありすがわみやいえ祭祀さいし継承けいしょう
子女しじょし。
  きよしみやたかしじん親王しんのう すみのみや たかひと 1915ねん大正たいしょう4ねん
12月2にち
2016ねん平成へいせい28ねん
10月27にちまん100さいぼつ
だいよんすめらぎ男子だんし
だい4
高木たかぎ百合子ゆりこ結婚けっこん(→たかしじん親王しんのう百合子ゆりこ)。
たかしじん親王しんのうみやごう三笠みかさみや
子女しじょ3なん2じょ(5にん
 
1921ねん大正たいしょう10ねん撮影さつえい、4にん皇子おうじ
ひだりから皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう長男ちょうなん)、たかしじん親王しんのう四男よつお)、宣仁のぶひと親王しんのう三男さんなん)、雍仁親王やすひとしんのう次男じなん)。

人物じんぶつぞう

編集へんしゅう

皇太子こうたいし時代じだい富士ふじ山麓さんろく愛鷹山あしたかやま狩場かりば狩猟しゅりょうちゅう一人ひとりはぐれたさいとおりかかった青年せいねんみちたずね、そしてったいえでお茶漬ちゃづけをすすめられたり[171]陸軍りくぐん演習えんしゅう参加さんかしたさいに、突然とつぜん旧友きゅうゆうたく訪問ほうもんしたり[172]当時とうじ上品じょうひん場所ばしょでないとられていた[注釈ちゅうしゃく 21]蕎麦そばはい[173]など、気軽きがる奔放ほんぽう性格せいかくであった[注釈ちゅうしゃく 22]梨本なしもと伊都子いつこ著書ちょしょさんだい天皇てんのうわたし』で「明治天皇めいじてんのうちがって大正天皇たいしょうてんのう大変たいへんしたしみやすいお気軽きがるなおかたでした」とひょうしている[175][176]

趣味しゅみ当時とうじとしては極端きょくたん洋風ようふうで、和服わふくより洋服ようふく日本酒にほんしゅよりワインこのんだ[177]娯楽ごらく側近そっきんたちとビリヤードや将棋しょうぎたのしんだほか、皇太子こうたいし時代じだいには運動うんどうのため自転車じてんしゃり、三菱みつびし財閥ざいばつから献上けんじょうされたヨットはつ加勢かせい」でクルージングをたのしんでいた[178]

乗馬じょうばたしなみ、行幸ぎょうこうはな相手あいてとなったはらたかし大正天皇たいしょうてんのううま鑑識かんしきおどろいている[179]ほか、名和なわちょうけんらの指導しどうけた乗馬じょうばうですぐれたものがあった[180]

また愛煙あいえんで、自分じぶんたばこかおりやつらさについて注文ちゅうもんけ、東宮とうぐう太夫たゆうがたばこの本数ほんすうらすよう進言しんげんすると、通常つうじょうよりながやく11.5センチメートルの特製とくせい紙巻かみまきたばこを生産せいさんさせている[181]。また、梨本なしもとみや参内さんだいしたさい自分じぶん煙草たばこれから葉巻はまき鷲掴わしづかみにして「ってけ」とわたしたり[181][注釈ちゅうしゃく 23]九州きゅうしゅう行啓ぎょうけい鉄道てつどう同乗どうじょうした福岡ふくおか県知事けんちじに「なんじ煙草たばここのむや」とってたばこをし、知事ちじおどろいたエピソードがある[182]

皇太子こうたいし時代じだい非常ひじょう早足はやあしで、行啓ぎょうけいとうでは侍従じじゅう先導せんどうする知事ちじいていけなくなることもあった[183][184]

詩人しじんとして

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大中おおなかてらかんうめ石碑せきひ
西瓜すいか
濯得清泉きよいずみみどり有光ありみつ
剖来べにゆきせい吹香
あま漿滴しずく如繁
一嚼使人神骨涼[185]

三島みしま中洲ちゅうしゅう指導しどう漢詩かんしはじめた大正天皇たいしょうてんのう和歌わかより漢詩かんしこのみ、あきら雅号がごう名乗なのった[186]。1896ねん明治めいじ29ねん)から1917ねん大正たいしょう6ねん)の22年間ねんかんに1367しゅ漢詩かんし創作そうさくし、そのかず歴代れきだい天皇てんのうなか突出とっしゅつしている[注釈ちゅうしゃく 24]。そして、ぜん作品さくひん宮内庁くないちょうしょりょう所蔵しょぞうの『大正天皇たいしょうてんのうしゅう』に収録しゅうろくされており[187]、うち251しゅ一部いちぶ添削てんさくて、1948ねん昭和しょうわ23ねん)に『大正天皇たいしょうてんのう御製ぎょせい詩集ししゅう』として公刊こうかんされた[188]

漢詩かんしのうち1129しゅもっと創作そうさくしやすい七言しちごん絶句ぜっくで、作風さくふう平易へいいであるというのが一般いっぱんてき評価ひょうかである[189]めぐけいさき光景こうけい日々ひび生活せいかつのほか八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけんといった出来事できごとなどをんでいる[190]が、古田島こたじま洋介ようすけは「確実かくじつ文学ぶんがくてき価値かちがあるのは、1914ねん大正たいしょう3ねんさくの『西瓜すいか』のみ」としており、古川ふるかわ隆久たかひさは「大正天皇たいしょうてんのう素人しろうと詩人しじん部類ぶるいはいる」とみている[189]石川いしかわ忠久ただひさは「大正天皇たいしょうてんのう完成かんせいで、せっかくの才能さいのう十分じゅうぶんみがかれずにわった」とひょうしている[191]

漢詩かんし詩碑しひは2かしょてられており、ひとつは富山とやまけん富山とやま呉羽山くれはやま山頂さんちょうにある「とう呉羽山くれはやま」のいしぶみ、もうひとつは静岡しずおかけん沼津ぬまづ大中おおなかてらにある「大中おおなかてらかんうめ」のいしぶみである[192]

一方いっぽう和歌わか生涯しょうがいすくなくとも465しゅんだとされるが、(父親ちちおや明治天皇めいじてんのうやく9まんしゅ、(長男ちょうなん昭和しょうわ天皇てんのうやく1まんしゅくらべるときわめてすくない。しかし、古川ふるかわ隆久たかひさは「しん鋭敏えいびんさのてんでは明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわさんだいなか一番いちばんするどかんじがする」と評価ひょうかしている[193]

人間にんげん関係かんけい

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明治天皇めいじてんのうちち

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明治天皇めいじてんのう幼少ようしょうよしみじん親王しんのう習字しゅうじ清書せいしょたがったり、読書どくしょ進度しんどにしたり、柳原やなぎはら愛子あいこつうじて指示しじをするなど教育きょういく干渉かんしょうしたが、教育きょういくかけ湯本ゆもと武比古たけひこ拒絶きょぜつされ、以降いこう口出くちだしをめた[194]皇太子こうたいしになってからも明治天皇めいじてんのう心配しんぱいわらず、としすうかい皇太子こうたいし側近そっきん日誌にっし提出ていしゅつさせ、健康けんこう状態じょうたい生活せいかつ勉強べんきょう状況じょうきょうなどをチェックしていた。しかし皇太子こうたいしにとってはこれが重荷おもにとなり、皇居こうきょ参内さんだいしてもなかなか天皇てんのうわず、っても会話かいわはずまなかった[195]。これは明治天皇めいじてんのうのしっかり教育きょういくしたいという意志いしもとづいてっていたとかんがえられている。また、大正天皇たいしょうてんのう皇子おうじ制約せいやくしたりはあまりしなかったが明治天皇めいじてんのうはこれをよくおもわなかったという逸話いつわもある。

さらに、明治天皇めいじてんのう皇太子こうたいしが「洋風ようふう」をこの基礎きそ学問がくもん不十分ふじゅうぶんながらフランス語ふらんすご非常ひじょうこのむことにあたまなやませたほか[196]、その軽率けいそつ言動げんどう不快ふかいおもっており、1898ねん明治めいじ31ねん)に皇太子こうたいし東宮とうぐう職員しょくいん不出来ふできげ「全員ぜんいん更迭こうてつせよ」と周囲しゅうい発言はつげんしたさいには、侍従じじゅうしょく幹事かんじ岩倉いわくら具定ぐじょうつうじて叱責しっせきしている[197]

貞明皇后ていめいこうごうつま

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夫妻ふさい側近そっきんとともにダンスたのしんだり、漢詩かんしを62しゅ創作そうさくするなど、貞明皇后ていめいこうごう大正天皇たいしょうてんのう趣味しゅみわせようとしていた[198]。しかし夫婦ふうふなかかならずしも良好りょうこうだったわけではなかった。大正天皇たいしょうてんのう新婚しんこん早々そうそうに、おなじく日光にっこう避暑ひしょちゅう鍋島なべしま伊都子いつこ[注釈ちゅうしゃく 25]頻繁ひんぱん訪問ほうもんしては、いぬあづけるなどの行動こうどうをとったさいには、おこった節子せつこ一時いちじ帰京ききょう[注釈ちゅうしゃく 26]したこともあった[198][201]。そして、伊都子いつこには梨本なしもとみやとの結婚けっこんいにっており、東宮とうぐう侍従じじゅうちょう木戸きど孝正たかまさなげかれている[202]

公式こうしき側室そくしつ制度せいど一夫多妻いっぷたさいせい)は廃止はいしされていなかったが、大正天皇たいしょうてんのう側室そくしつたなかった[203][注釈ちゅうしゃく 27]。しかし女性じょせいへの興味きょうみかくそうとはせず、じゃれて女官にょかんまわしてはつかんではなさなかったり、女官にょかん肖像しょうぞう写真しゃしんもとめたりした[205]。また、女官にょかんけていたとのうわさ世間せけんひろまっており、徳富とくとみ蘆花ろかがその日記にっきのこしている[206]

4にん息子むすこたち

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貞明皇后ていめいこうごうとのあいだには以下いかの4にん皇子おうじをもうけた(#詳細しょうさい)。すすむみや裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)、あつしみや雍仁親王やすひとしんのう秩父宮ちちぶのみや)、ひかりみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや)、きよしみやたかしじん親王しんのう三笠みかさみや)である[207]

伝統でんとうしたがい、裕仁ひろひと親王しんのう雍仁親王やすひとしんのう誕生たんじょうしてすぐ、川村かわむらじゅんよしやしきあづけられたが、川村かわむらが1903ねん死亡しぼうすると、裕仁ひろひと親王しんのう雍仁親王やすひとしんのうかり東宮御所とうぐうごしょ隣接りんせつする皇孫こうそんかり御殿ごてんうつった。そのは、皇太子こうたいし突然とつぜん皇孫こうそんかり御殿ごてんっておにごっこくわわったり、すくなくともしゅういちかい家族かぞく団欒だんらんときごすなど、子煩悩こぼんのう父親ちちおやぶりをしめした[208]家族かぞく団欒だんらんでは、皇后こうごうピアノわせて子供こどもたちと軍歌ぐんか唱歌しょうかうたったりした[209]

昭和しょうわ天皇てんのう大正天皇たいしょうてんのう生誕せいたん100ねん翌年よくねんひかえた、1978ねん昭和しょうわ53ねん)12月4にち記者きしゃ会見かいけんで、自身じしん父親ちちおやである大正天皇たいしょうてんのうについて、「おさないころ一緒いっしょ将棋しょうぎしたりうたうたったおもがあること」と、「『詩文しぶんくし記憶きおくりょくかった』とははからいた」とし、「本当ほんとう天皇てんのうとして立派りっぱほうであった」とかたっている[210]

政治せいじ

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大隈おおくま重信しげのぶ

大隈おおくま重信しげのぶは、堅苦かたくるしいはなしだけでなく世間せけんばなしなど面白おもしろはなしをすることから大正天皇たいしょうてんのうかれていた[211]皇太子こうたいし時代じだい1898ねん明治めいじ31ねん)、だい1大隈おおくま内閣ないかく退陣たいじん早稲田わせだ大隈おおくまていまねかれ、のう狂言きょうげんなどの歓待かんたいける。皇太子こうたいし在野ざいや人物じんぶつ私邸していふくすうかい訪問ほうもんするのは異例いれいであったが、1912ねん明治めいじ45ねん/大正たいしょう元年がんねん)にも、大隈おおくまてい早稲田大学わせだだいがく訪問ほうもんしている[212]。その大隈おおくまふたた首相しゅしょうだい2大隈おおくま内閣ないかく)となったのち頻繁ひんぱん拝謁はいえつ長話ながばなしをしては、天皇てんのう上奏じょうそうほか大臣だいじんたせることもあった[211]。そして大隈おおくまには大正天皇たいしょうてんのう宸翰しんかん2つう大隈おおくまんだ御製ぎょせいのこされていた[213]

はらたかし

はらたかしは、1906ねん明治めいじ39ねん)にだい1西園寺さいおんじ内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんし、大正天皇たいしょうてんのう当時とうじ皇太子こうたいし)との接点せってんができて以降いこう行幸ぎょうこうのおめし列車れっしゃはな相手あいてとしてされるなど信頼しんらいていた。そのやりとりははらたかし日記にっき数多かずおお記録きろくされている[214]

山縣やまがた有朋ありとも

一方いっぽうで、天皇てんのうがひどくきらっていたのが山縣やまがた有朋ありともである。1896ねん明治めいじ29ねん)に山縣やまがた沼津ぬまづ御用邸ごようてい滞在たいざいちゅう皇太子こうたいしたずね、君主くんしゅのあるべき姿すがたいた。このとき、皇太子こうたいしは「山縣やまがたさけい、暴言ぼうげんいた」とらしたが、問題もんだいとならずんだ[215]山縣やまがたは、天皇てんのう即位そくい大正天皇たいしょうてんのうに、父親ちちおや明治天皇めいじてんのう模範もはんにした苦言くげんていした[216]。これにたいして、大正天皇たいしょうてんのう山縣やまがた拝謁はいえつもとめても直接ちょくせつわず女官にょかん対応たいおうさせたりした[211]。そのほか、大正天皇たいしょうてんのう寺内てらうち正毅まさき初代しょだい朝鮮ちょうせん総督そうとく)にたいし「山縣やまがた人望じんぼうのなさ」について言及げんきゅうしている[217]

脳病のうびょう」について

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大正天皇たいしょうてんのう生後せいごいちねん以内いないに、2かい脳膜炎のうまくえんらしき病気びょうきにかかっている。当時とうじ白粉おしろい使つか女性じょせいなまり中毒ちゅうどくわずらっていたが、その白粉おしろい乳幼児にゅうようじったり、母乳ぼにゅうから摂取せっしゅするとなまり中毒ちゅうどくによる脳膜炎のうまくえんこすことがあった。大正天皇たいしょうてんのう病気びょうき原因げんいんも、乳母うば使用しようした白粉おしろい可能かのうせいがあると考察こうさつされている[218]

1920ねん3がつ東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ三浦みうら謹之すけ侍医じいあたま池辺いけべとう三郎さぶろうは、「大正天皇たいしょうてんのう即位そくい多忙たぼうにより神経しんけい過敏かびんとなったうえ、2ねんまえから内分泌ないぶんぴつ臓器ぞうきのいくつかが不調ふちょうとなり、幼児ようじ脳膜炎のうまくえん影響えいきょうから心身しんしん緊張きんちょうようする儀式ぎしきさいからだかたむくなど平衡へいこううしなうようになったため、政務せいむ以外いがいには儀式ぎしき静養せいようすることが必要ひつようである」、との診断しんだんしょしている。しかし原因げんいん確定かくてい不可能ふかのうであった[219]

近年きんねん神経しんけい心理しんり学者がくしゃ杉下すぎした守弘もりひろは、当時とうじ文献ぶんけん分析ぶんせきおこない、大正天皇たいしょうてんのう病気びょうき前頭葉ぜんとうようがわあたま頭頂とうちょうすくなくともひとつにのう萎縮いしゅくこり、失語症しつごしょう、さらに記憶きおく判断はんだん思考しこうなども障害しょうがいされ日常にちじょう生活せいかつおくれなくなり認知にんちしょうになる「原発げんぱつせい進行しんこうせい失語症しつごしょう[220]、もしくは大脳だいのう半球はんきゅう皮質ひしつおよび皮質ひしつ神経しんけいかくなどが萎縮いしゅくし、構音障害しょうがい身体しんたいぜんこごめ歩行ほこう障害しょうがいから、徐々じょじょ失語症しつごしょう記憶きおく障害しょうがい判断はんだん障害しょうがいこり認知にんちしょうになる「大脳皮質だいのうひしつ基底きていかく症候群しょうこうぐん[221]推察すいさつしている。

大正天皇たいしょうてんのう実録じつろく

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1927ねん6がつみや内省ないせい図書としょりょう大正天皇たいしょうてんのう実録じつろく設置せっちし『大正天皇たいしょうてんのう実録じつろく』の編纂へんさん開始かいしした。実録じつろく1934ねん昭和しょうわ9ねんまつに145さつ稿本こうほん作成さくせいされたのちさらなる資料しりょう補遺ほい充実じゅうじつはかり、1936ねん昭和しょうわ11ねん)の大正天皇たいしょうてんのうじゅうねんさいまえ完成かんせいし、昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう節子せつこ皇太后こうたいごう貞明皇后ていめいこうごう)に捧呈ほうていされた[注釈ちゅうしゃく 28][222]。しかし、ながあいだ非公開ひこうかいであり、朝日新聞あさひしんぶん情報じょうほう公開こうかい請求せいきゅう契機けいきとして2002ねん平成へいせい14ねん)から2011ねん平成へいせい23ねん)にかけ、4かいけて公開こうかいされた。ただし、このとき個人こじん識別しきべつ情報じょうほうとして全体ぜんたいの3パーセントがくろりとされた[223]。その2015ねん平成へいせい27ねん)に公文書こうぶんしょ管理かんりほうの「経過けいか」を考慮こうりょしてくろ部分ぶぶんのこり0.5パーセントまでらされたが、現在げんざい学業がくぎょう成績せいせき病状びょうじょうかんする部分ぶぶん一部いちぶ非公開ひこうかいとされている[2]

ゆまに書房しょぼう2016ねん平成へいせい28ねん)から2021ねんれい3ねん)にかけて実録じつろく本文ほんぶんていばん刊行かんこうちゅうである[2]

ぐんれき

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日本にっぽん

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  • 1889ねん明治めいじ22ねん)11月3にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい[224]
  • 1892ねん明治めいじ25ねん)11月3にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい[225]
  • 1895ねん明治めいじ28ねん)1がつ4にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい[226]
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)11月3にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい少佐しょうさ海軍かいぐん少佐しょうさ[227]
  • 1901ねん明治めいじ34ねん)11月3にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい中佐ちゅうさ及海ぐん中佐ちゅうさ[228]
  • 1903ねん明治めいじ36ねん)11月3にち 陸軍りくぐん歩兵ほへい大佐たいさ及海ぐん大佐たいさ[229]
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)11月3にち 陸軍りくぐん少将しょうしょう及海ぐん少将しょうしょう[230]
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)11月3にち 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう及海ぐん中将ちゅうじょう[231]
  • 1912ねん明治めいじ45ねん/大正たいしょう元年がんねん)7がつ30にち 大元帥だいげんすい

外国がいこく

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なお、日本にっぽんがわはその返礼へんれいとして、1918ねん10がつに、ジョージ5せいたいして元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう授与じゅよしている[233]当時とうじは、君主くんしゅあいだたがいにぐん階級かいきゅう授与じゅよする外交がいこう儀礼ぎれい存在そんざいし、イギリスは日本にっぽん以外いがいにも12カ国かこく(ドイツ、ロシア、スペインとう)の君主くんしゅ陸軍りくぐん元帥げんすい授与じゅよしている[234]

栄典えいてん

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ガーター騎士きしだん正装せいそうをした大正天皇たいしょうてんのう(1912ねんごろ撮影さつえい

日本にっぽん

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外国がいこく

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大正天皇たいしょうてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.119だい天皇てんのう
ひかりかく天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
8.120だい天皇てんのう
仁孝天皇にんこうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.勧修寺かんしゅうじ婧子
 
 
 
 
 
 
 
4.121だい天皇てんのう
孝明天皇こうめいてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.正親町おおぎまちみのるこう
 
 
 
 
 
 
 
9.正親町おおぎまち雅子まさこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.四辻よつつじ千栄子ちえこ
 
 
 
 
 
 
 
2.122だい天皇てんのう
明治天皇めいじてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.中山なかやま忠頼ただより
 
 
 
 
 
 
 
10.中山なかやま忠能ただやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21.正親町おおぎまち三条さんじょう綱子つなこ
 
 
 
 
 
 
 
5.中山なかやま慶子けいこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22.松浦まつうらきよし
 
 
 
 
 
 
 
11.中山なかやま愛子あいこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23.側室そくしつ もり
 
 
 
 
 
 
 
1.123だい天皇てんのう
大正天皇たいしょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.柳原やなぎはらひとしこう
柳原やなぎはら紀光のりみつ長男ちょうなん
 
 
 
 
 
 
 
12.柳原やなぎはら隆光たかみつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25.いえ女房にょうぼう
 
 
 
 
 
 
 
6.柳原やなぎはらひかりあい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26.正親町おおぎまち三条さんじょう公則まさのり
正親町おおぎまち三条さんじょうみのるどうおとこ
 
 
 
 
 
 
 
13.正親町おおぎまち三条さんじょう則子のりこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.柳原やなぎはら愛子あいこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14.長谷川はせがわゆきあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.長谷川はせがわ歌野うたの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇めいじてんのう以降いこう系図けいず
 
 
 
 
122 明治天皇めいじてんのう
 
 
 
 
123 大正天皇たいしょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和しょうわ天皇てんのう
 
秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう
 
高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう
 
三笠みかさみやたかしじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇じょうこう
 
常陸宮ひたちのみやただしじん親王しんのう
 
寬仁かんじん親王しんのう
 
かつらみやむべひとし親王しんのう
 
高円宮たかまどのみや憲仁のりひと親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上きんじょう天皇てんのう
 
秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゆうじん親王しんのう
明治天皇めいじてんのう皇子おうじおんな
昭憲皇太后しょうけんこうたいごう (一条いちじょう美子よしこ) (1849-1914)
 
 
 
 
 
子女しじょ
 
 
 
 
 
 
葉室はむろ光子こうし (1853-1873)
 
 
 
 
 
 
 
ややみず照彦てるひこみこと (1873・だいいちすめらぎ男子だんし/だいいち死産しざん )
 
 
 
 
 
 
 
 
橋本はしもと夏子なつこ (1856-1873)
 
 
 
 
 
 
 
 
ややだかひめたかし (1873・だいいちすめらぎ女子じょし/だい死産しざん )
 
 
 
明治天皇めいじてんのうだい122だい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
梅宮うめみや薫子かおるこ内親王ないしんのう (1875-1876・だいすめらぎ女子じょし/だいさん夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たてみやたかしじん親王しんのう (1877-1878・だいすめらぎ男子だんし/だいよん夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきらみやよしみじん親王しんのう (1879-1926・だいさんすめらぎ男子だんし/だい大正天皇たいしょうてんのうだい123だい天皇てんのう)
 
 
 
 
 
柳原やなぎはら愛子あいこ (1855-1943)
 
 
 
 
 
 
しげるみや韶子内親王ないしんのう (1881-1883・だいさんすめらぎ女子じょし/だいろく夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぞうみや章子あきこ内親王ないしんのう (1883・だいよんすめらぎ女子じょし/だいなな夭折ようせつ )
 
 
 
 
千種ちくさにん (1856-1944)
 
 
 
 
 
 
久宮くぐう静子しずこ内親王ないしんのう (1886-1887・だいすめらぎ女子じょし/だいはち夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきらみや猷仁親王しんのう (1887-1888・だいよんすめらぎ男子だんし/だいきゅう夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常宮じょうぐう昌子しょうじ内親王ないしんのう (1888-1940・だいろくすめらぎ女子じょし/だいじゅう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹田たけだみや恒久こうきゅうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しゅうみや房子ふさこ内親王ないしんのう (1890-1974・だいななすめらぎ女子じょし/だいじゅういち)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおう
 
 
 
 
 
 
 
富美ふみみや允子のぶこ内親王ないしんのう (1891-1933・だいはちすめらぎ女子じょし/だいじゅう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝香あさかみやばと彦王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まんみやてるじん親王しんのう (1893-1894・だいすめらぎ男子だんし/だいじゅうさん夭折ようせつ )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やすしみや聡子さとこ内親王ないしんのう (1896-1978・だいきゅうすめらぎ女子じょし/だいじゅうよん)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
 
 
 
 
 
 
 
さだみや多喜子たきこ内親王ないしんのう (1897-1899・だいじゅうすめらぎ女子じょし/だいじゅう夭折ようせつ)
 
 
 
えん祥子さちこ (1867-1947)


脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ よしみじん親王しんのう軍隊ぐんたいよう背嚢はいのう学用品がくようひんれて通学つうがくしたことがランドセルはじまりとされている[19]
  2. ^ 表向おもてむきの理由りゆう同年どうねん6がつ地震じしん校舎こうしゃ破損はそん授業じゅぎょう支障ししょうきたしたこととされた[25]
  3. ^ 1891ねん4がつ3にちまねかれたのは、 伏見ふしみみや禎子さだこ女王じょおう北白川きたしらかわみや満子みつこ女王じょおう北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうむすめ)、北白川きたしらかわみや貞子さだこ女王じょおう同前どうぜん)、九条くじょう籌子かずこ(かずこ。九条くじょうみちこうむすめ)、九条くじょう節子せつこ同前どうぜん)、徳川とくがわ国子くにこ徳川とくがわ慶喜よしのぶむすめ)、徳川とくがわ経子けいこ同前どうぜん)、徳川とくがわ絲子いとこ同前どうぜん)、毛利もうりまん(かずこ。毛利もうりもととくむすめ)、岩倉いわくら米子よねこ岩倉いわくら具定ぐじょうむすめ)の10めい。その久邇くにみや純子じゅんこ女王じょおう久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうむすめ)、一条いちじょう経子けいこ一条いちじょうみのるてるむすめ)、鷹司たかつかさ房子ふさこ鷹司たかつかさひろしどおりむすめ)のさんにん候補こうほとされた[37]
  4. ^ 飛鳥井あすかい雅道まさみち皇室こうしつ典範てんぱん皇位こうい継承けいしょう嫡出ちゃくしゅつ優先ゆうせんとしたこと、くに一夫一妻いっぷいっさいせい奨励しょうれいしていたことが理由りゆう指摘してきしている[48]
  5. ^ この結婚式けっこんしき模倣もほうして神前かみまえ結婚式けっこんしき誕生たんじょうし、日本にっぽん全国ぜんこくひろまっていった[50]
  6. ^ 高崎たかさき行啓ぎょうけい予定よてい道筋みちすじらず勝手かって人力車じんりきしゃはしらせたり、新潟にいがたでは当日とうじつになって訪問ほうもんさき変更へんこうさせ、周囲しゅうい狼狽ろうばいさせたりした[58]
  7. ^ 実際じっさいには明治天皇めいじてんのうは7がつ29にち午後ごご1043ふんぼっしたが、践祚せんそまでの準備じゅんび時間じかんりないため公式こうしきには7がつ30にち午前ごぜん043ふん死去しきょとされた[74]
  8. ^ なお節子せつこ皇后こうごうだい4三笠みかさみやたかしじん親王しんのう懐妊かいにんちゅうのため即位そくいれい欠席けっせきした。またこのとき製作せいさくされた高御座たかみくらとばりだい昭和しょうわ平成へいせいれい3だい即位そくいれいでも使用しようされている[82][83]
  9. ^ 皇居こうきょ居住きょじゅう明治天皇めいじてんのう希望きぼう照明しょうめいがろうそくのみであったが、電灯でんとうけられ、スチーム暖房だんぼう導入どうにゅうされた[95]
  10. ^ 山本やまもと権兵衛ごんべえ女婿じょせい財部たからべあやに、「大正天皇たいしょうてんのうかんがえといっても、明治天皇めいじてんのうのそれとことなる。たとえ、大正天皇たいしょうてんのういのちであっても国家こっかのためにならないと判断はんだんすればしたがわないほうが忠誠ちゅうせいくすことになる」とかたっていた[96]
  11. ^ 摂政せっしょう任命にんめい詔書しょうしょ大正天皇たいしょうてんのう署名しょめいできないため、皇太子こうたいし代筆だいひつした[118]
  12. ^ この摂政せっしょう就任しゅうにんかんし、はら武史たけし牧野まきのしんあきら宮内くない官僚かんりょうによる「主君しゅくん押込おしごめせつ主張しゅちょうした[119]が、古川ふるかわ隆久たかひさ政治せいじから皇族こうぞくまでぜん関係かんけいしゃ同意どういしたてんはら武史たけしせつ批判ひはんした[120]
  13. ^ 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわさんだいわたってつかまつじん(つこうど。宮中きゅうちゅうしょ雑務ざつむたずさわるみや内省ないせい下級かきゅう職員しょくいん)として勤務きんむした小川おがわ金男かねおは、崩御ほうぎょ前年ぜんねん大正たいしょう14ねんごろ葉山はやまにおける大正天皇たいしょうてんのう姿すがたについて、後年こうねん回想かいそうしている。それによると、健忘けんぼう症状しょうじょうすすんでいたが身体しんたい機能きのう維持いじ観点かんてんからよく御用邸ごようてい廊下ろうかあるいていた。そのさい自身じしん鼓舞こぶするように軍歌ぐんかの『みちろくひゃくはちじゅう』をうたっていたが、歌詞かし冒頭ぼうとうしかおもせない様子ようすで、その部分ぶぶんかえしながら廊下ろうかある姿すがた小川おがわは「なんともいえないおいたわしいかんじ」をけたとべている[123]
  14. ^ このホームは御用邸ごようていかう大正天皇たいしょうてんのう人目ひとめれないよう建設けんせつされたもの[125]で、大正天皇たいしょうてんのう生前せいぜんこのホームを利用りようしたのはこれが最初さいしょ最後さいごであった[129]
  15. ^ このとき将棋倒しょうぎだおしで死者ししゃ2にん重傷じゅうしょうしゃ14にん、そのけい300にん負傷ふしょうしゃ[146]
  16. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんまで皇族こうぞく参拝さんぱいよう使用しようされたのち八王子はちおうじはらげられ、集会しゅうかいしょ陵南りょうなん会館かいかん」として使用しようされたが、1990ねん平成へいせい2ねん)に天皇てんのう即位そくいれい大嘗祭だいじょうさい反対はんたいする過激かげき爆破ばくはされ焼失しょうしつした(八王子はちおうじ陵南りょうなん会館かいかん爆破ばくは事件じけん[149]
  17. ^ 陵墓りょうぼ予定よていないには地元じもと墓地ぼちすうしょけい587はかがあったが、強制きょうせい移転いてんさせられている[152]
  18. ^ 梶山かじやま季之としゆき黒田くろだちょうけい取材しゅざいしたとされる[162]
  19. ^ 1892ねん - 1965ねん旧姓きゅうせい久世くぜ源氏名げんじな桜木さくらぎ」。昭憲皇太后しょうけんこうたいごうつかえた。おっと山川やまかわだま[164]
  20. ^ 1892ねん - 1980ねん旧姓きゅうせい梨木なしき源氏名げんじな椿つばき[168]
  21. ^ 当時とうじ蕎麦そばの2かいでは男女だんじょ逢引あいびきしたり売春ばいしゅんすることもあった[173]
  22. ^ つかまつひととして宮中きゅうちゅう勤務きんむした小川おがわ金男かねお前述ぜんじゅつ)によると、大正天皇たいしょうてんのう皇位こういそくいた直後ちょくごに「陛下へいかだれにでもやすはなしかけられるおくせがあるから、つかまつひとけっして陛下へいか御前ごぜん姿すがたをおせしてはならぬ」という趣旨しゅし訓示くんじけたという[174]
  23. ^ 大正天皇たいしょうてんのうきわめて辛口からくちのたばこをこのんだらしく、梨本なしもとみや帰宅きたくってみたところ、しぶかおをして「いただいてはたが、こんなつら葉巻はまきでは…」とはこにしまいんでしまった。しかしこれ以降いこう参内さんだいのたびに葉巻はまきわたされるようになり「侍従じじゅうはけしからん。こんなのをおすすめして…」とおこっていたという[175]
  24. ^ だい2こう光明こうみょう天皇てんのうの98しゅだい3嵯峨天皇さがてんのうの97しゅ[187]
  25. ^ 鍋島なべしま伊都子いつこ美人びじんとして評判ひょうばんで、当時とうじ梨本なしもと宮守みやもりただしおう婚約こんやくちゅうであった[199]
  26. ^ 皇后こうごうちち九条くじょうみちこう危篤きとくとの電報でんぽうけた帰京ききょうであったが、みちこう無事ぶじ皇后こうごうは9にち日光にっこうもどっている[200]
  27. ^ 大正天皇たいしょうてんのう側室そくしつたなかった理由りゆう諸説しょせつある。天皇てんのう皇后こうごうがともに庶子しょしであったことから側室そくしつ制度せいど廃止はいしねがっていたとするせつ貞明皇后ていめいこうごう早々そうそう複数ふくすう男子だんしんだことから結果けっかてき一夫一妻いっぷいっさいになったとするせつ近代きんだい家族かぞく姿すがたひろまるという時代じだい状況じょうきょうまえた天皇てんのう皇后こうごう意思いしによるとするせつなどがある[204]
  28. ^ なおみや内省ないせいではどう時期じきに『明治天皇めいじてんのうおさむ』(1933ねん/昭和しょうわ8ねん完成かんせい)や歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞく記録きろくである『天皇てんのう皇族こうぞく実録じつろく』も編纂へんさんされていた[222]

出典しゅってん

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  4. ^ 一部いちぶ書籍しょせき人名じんめい事典じてんなど、文献ぶんけんによっては脳病のうびょうによる崩御ほうぎょ紹介しょうかいしているものもある。
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参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき

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論文ろんぶん

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  • 杉下すぎした守弘もりひろ大正天皇たいしょうてんのう(1879-1926)の病気びょうきかんする文献ぶんけんてき考察こうさつ」『認知にんち神経しんけい科学かがくだい14かんだい1ごうのう血管けっかん研究所けんきゅうじょ、2012ねん、51-67ぺーじNAID 40019382858 

関連かんれん文献ぶんけん

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大正天皇たいしょうてんのうあつかった作品さくひん

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テレビドラマ
  • 王朝おうちょう歳月さいげつ[1]KBS、1990ねん - えんじ・チャン・ギヨン)
漫画まんが

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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大正天皇たいしょうてんのう

1879ねん8がつ31にち - 1926ねん12月25にち

日本にっぽん皇室こうしつ
先代せんだい
明治天皇めいじてんのう
むつみじん
皇位こうい
  だい123だい天皇てんのう
大正天皇たいしょうてんのう

1912ねん7がつ30にち – 1926ねん12月25にち
大正たいしょう元年がんねん7がつ30にち大正たいしょう15ねん12月25にち
次代じだい
昭和しょうわ天皇てんのう
裕仁ひろひと

  1. ^ (日本語にほんご) [815특집극 왕조의 세월 | (1990/08/16)], https://www.youtube.com/watch?v=hM7aY0P8dvs 2024ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん